第一章 第六話 魔導書ゴエティア

山王機関本部さんのうきかんほんぶ
市ヶ谷いちがや刑務所での暴動は
翌日の新聞紙面しめんにぎわせたが、
すぐさま内務省による
情報統制とうせいかれた。
しかし山王さんのう機関本部にいる帆村ほむら魯公ろこうは、どこかえない表情をしていた。

帆村ほむら魯公ろこう
市ヶ谷いちがや刑務所の件、
今のところただの囚人しゅうじん暴動として
処理できておる――
だが怪人かいじんのことがれると、
どんな流言飛語りゅうげんひごが現れるや知れん。
治安ちあんの乱れを招きかねない――
風魔ふうま、お前は第一連隊だいいちれんたいに行き
この件の報告書を届けてきてくれ。
連隊長の刑部おさかべ大佐殿は、
一応兼務けんむながら、
この山王さんのう機関の機関長だからな。
報告は迅速じんそくに上げておきたい。
それでは、頼んだぞ。

歩一ほいち本部に出頭するはずの喪神もがみ風魔ふうまだが、梨央りおの急な要請ようせいもあり広尾橋ひろおばしの近くにいた。

広尾橋ひろおばし

有栖川宮ありすがわのみやの御用地が昭和9年に東京市に賜与しよされ、公園として市民に公開された。
その有栖川宮記念公園ありすがわのみやきねんこうえんを水源のひとつとするのが笄川こうがいがわだ。
広尾橋ひろおばしはその笄川こうがいがわにかかる橋のひとつである。

【着信 喪神もがみ梨央りお
広尾橋ひろおばし周辺でセヒラ観測中です。
周囲に警戒してください。

【宮家の侍女】
おや、皇軍の方でございますね。
ちょうど良かった――
近く、京都より、聖宮ひじりのみや様が上京され、麻布あざぶにおいでになります。
あの界隈かいわい、まだ怪人かいじん騒動は
ありませんが、予防に越したこと、
ございませんね。
是非、予防いただきたく存じます。
また時季じきを見てお願いに参ります。
おいでになるのは聖宮成樹ひじりのみやなるき親王、
その方にございますよ。

【大学生M】
彩女あやめさん!
僕をおぼえておいででしょう!
いつもセルパン堂に
うかがっているのに。
周防すおう彩女あやめ
ご、ごめんなさい。
彩女あやめは……人のお顔を……覚えるのが
苦手で……お客様ですよね?

学生と話しているのは、周防すおう彩女あやめだ。
鈴代すずよが良く通っている四谷よつや区にある
セルパン堂という古書店の店員だ。

【大学生M】
あなたは僕を知っているはずだ。
だって、いつも稀覯書きこうしょたなにいるよ。
そうだろ、何度もあいさつ挨拶をしたよ!
【着信 喪神もがみ梨央りお
広尾橋ひろおばし付近、急速にセヒラ増大。
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし、警戒してください。

【大学生M】
世紀の希書と誉れ高い青の書ブルーブック
それに勃海経本ぼっかいきょうほん、リブレセクレ、
ダミアヌス写本まであるんだ――
周防すおう彩女あやめ
そんな目で見るのは、
止してください……
【大学生M】
あの忌々いまいましい店長はそんな本に、
僕を指一本触れさせてくれない!
でも彩女あやめさんは違うよね!
彩女あやめさんの後を付けたら、
ほうら、素晴らしい本に出会えた!
――それは何て言うんだい?
もしやゴエティアの書じゃないかい?
悪魔の召喚を説いた書だろ!
素晴らしい稀覯書きこうしょだ!
周防すおう彩女あやめ
これは……
修道女の日記です。
【大学生M】
嘘を付くんじゃない!
世界稀覯書きこうしょ展の図録ずろくで見たんだ。
僕は知ってるぞ!
周防すおう彩女あやめ
嫌です、止してください!

【大学生M】
何だ、お前は?
それは僕の本だ、
本にとってもそのほうが幸せなんだ!!

《バトル》

【大学生M】
僕にはもっと力が必要だ!
そうだ、恐怖におののく者どもを探す。
あははは、容易たやす容易たやすい!

周防すおう彩女あやめ
有難うございました。
あなたは……確か、鈴代すずよさんと
よく一緒に来られている……
喪神もがみ風魔ふうまさんですよね?
せんだって鈴代すずよさんが茶道の本を
見てらっしゃるとき
喪神もがみさんは優しく見守られて……
そんなお二人は私のあこがれですよ。

……あら?

あらら……
もしかして……
ああ、どうしましょう……
さっきの人に本を奪われたわ。
式部しきべ店長に何ておびしたら……
大事の大事で大事なご本なのに。
……広尾にお住まいの本の蒐集家しゅうしゅうかがお亡くなりになり、ご家族が
本を処分したいと仰ったのです。
鑑定していたら、式部しきべ店長厳命の
見つけたら絶対に確保せよという
ゴエティアが見つかって……
ゴエティアとは、魔物を
召喚するための魔導書なのです。
彩女あやめは舞い上がりました。
これで店長に認めてもらえる。
ところが急転直下不幸のどん底です。
頭を下げるだけではもう
許されないことなのです……
そう、死んでおびするしかない。
彩女あやめはこれから古川に飛び込みますか
らセルパン堂にそのむねお伝え下さい。

え? 死ぬ必要はないと
おっしゃるの?
あなたがご本を取り返すと……
もし……もし、本当に本を取り返して
いただけるのなら、
彩女あやめはもう少し長く生きられます。

鈴蘭女学園前すずらんじょがくえんまえ

【気丈な女学生】
ちょっと君。
ここは男子禁制の聖なる学びの園。
先生の許可は取っているのだろうね?
【大学生M】
そんなことは、どうでもいい!

周防すおう彩女あやめ
あれ……さっきの人です!

【明るい女学生】
ねえ、この方何か様子が変ですわ。
気ぜわしいし、目つきも怖い。
【変わった女学生】
もしかしてヘンタイ!
観察対象!
観察、観察――
しかと見届けます――
風体ふうていは学生のよう……
――でも天婦羅てんぷらかもしれません!
荒い息、見開いた目……
――我々に不要な興味をいだく?
手には古い西洋の書物……
――ひときわ怪しい!
【明るい女学生】
やっぱりね!
変態なんじゃないかしら!
完全なる変態ですわ!
【気丈な女学生】
完全なる変態!
なんと猟奇りょうきな!
その実物が、ここに見えると――
【大学生M】
ごちゃごちゃうるさいぞ!
お前達などただの留袖新造とめそでしんぞう風情ふぜいだ!
お前達は神洲大八洲しんしゅうおおやしま恥辱ちじょくだ!
白妙しろたえの一点のみだ!
ウハハハハ~
せいぜいわめけ! それが僕の栄養だ。
お前達の恐怖が、栄養なんだよ!!
【明るい女学生】
まぁ! 恐ろしい! なんてことを!
誰か先生にお知らせしてきて。
【後方の女学生】
はい! おひいさま!

【大学生M】
ん? き、貴様!
しつこい野郎だな――
周防すおう彩女あやめ
その御本を返してください。
【大学生M】
これは彩女あやめさんがくれた本だ。
今更じゃないか!
彩女あやめさん、聞いてくれ!
誰よりも、この僕こそが、
この本の持ち主にふさわしいんだ。
やっと本物の稀覯書きこうしょが、
僕のものになるんだ!

【大学生M】
彩女あやめさん、貴女のお陰です!
たくさん、お礼を言わなきゃ!
――その前に、こいつだぁ!!

《バトル》

【大学生M】
ああ……僕は……本を……
次は……
コスマス写本を頂く!!
【明るい女学生】
キャア! この方、どうなさったの?
【変わった女学生】
言葉を残して卒倒そっとう……
――何が起きたのか?
【気丈な女学生】
先生が来られるまで
触るんじゃないぞ。

風魔ふうまは古書を拾い上げ、彩女あやめに渡した。

周防すおう彩女あやめ
有難うございました。
これで彩女あやめは今回死なずに
切り抜けることができました。
この御本、わざわいの元なのですか?
また狙う人が来そうです……
セルパン堂までご一緒して
いただけませんでしょうか?

〔セルパンどう

東京市電十一系統の四谷市塩町よつやしおまち電停、
そのほぼ目の前にある古書店がセルパン堂だ。
店内は古書がかもす独特のにおいに満ちていた。

如月きさらぎ鈴代すずよ
あ! 彩女あやめさん、良かった。
お帰りなさい、何か胸騒ぎがして、
私来てしまいました。
周防すおう彩女あやめ
有難うございます!
その実、彩女あやめ、危なかったのです。
御本、うばわれそうになりました。
如月きさらぎ鈴代すずよ
あら、風魔ふうまさんもご一緒に?
周防すおう彩女あやめ
はい、彩女あやめ喪神もがみさんに
助けられたのですよ。
じゃないと死んでおびをする――
如月きさらぎ鈴代すずよ
ええ?
いったい何があったのですか?

彩女あやめは出来事の顛末てんまつを話した。
学生に付けねらわれたこと、
ゴエティアはうばわれずに済んだこと──
その学生がセルパン堂によく来ていたか、
まったく覚えていないと彩女あやめは強く言った。

如月きさらぎ鈴代すずよ
でもね、彩女あやめさん、
そんなすぐに死んでおびをなどと、
軽く言うものじゃありませんわ。
式部丞しきべじょう
喪神もがみさん――
何だかお手数をお掛けしたようで。
申し訳ありません。

鷹揚おうような感じで姿を見せたのは、
セルパン堂の若きあるじ式部丞しきべじょうである。
帝大の哲学を出て古書店主を務めている。
どこかとらえどころのない人物だが、
帆村ほむら魯公ろこうとはそこそこ長い付き合いだ。
鈴代すずよ風魔ふうまのことも知っている。

周防すおう彩女あやめ
店長、ご、ご心配をお掛けしました。
彩女あやめは命を掛けてゴエティアを
手に入れたのですっ!
式部丞しきべじょう
でも彩女君、蒐集家しゅうしゅうかの古書が、
よくゴエティアだとわかったね!
君はいつの間にそんな知識を……
周防すおう彩女あやめ
店長が詳しく教えて下さいましたわ。
でも、あの学生さんは、
中を見ないでわかったみたいです。
よほどおくわしいのですわ。
でも……お店によくいらしていたって
彩女あやめ、ちっとも存じませんでした!
やはり、彩女あやめがあの学生さんを、
引き寄せたのでしょうか……
だんだん、そんな気がしてきました。
如月きさらぎ鈴代すずよ
彩女あやめさん、何でもご自分のせいに
なさっちゃいけませんわ。
周防すおう彩女あやめ
でも……
私……彩女あやめは、きっと、きっと、
――引きつけたんですわ!
如月きさらぎ鈴代すずよ
まぁ、そんな……
怪人かいじんを引きつけるなんて、
そんなこと初耳はつみみです。
彩女あやめさんが何かを持っているなら、
それはひたむきさかしら――
周防すおう彩女あやめ
彩女あやめは怪人に好かれるのですか?
何だか怖いです、怖いのですが、
わくわくもしますわ!
式部丞しきべじょう
ふむ……不思議な子だ。
君という人は。
【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし、現在四谷よつやですね。
公務電車、四谷塩町よつやしおまちに停まっています。
――あっ、隊長!
【着信 帆村ほむら魯公ろこう
おい、風魔ふうま
歩一ほいちはどうした?
刑部おさかべ大佐がお待ちだぞ!
一旦いったん、本部へ帰還するんだ、
今すぐにな!
式部丞しきべじょう
どうやら、かなりご迷惑を
お掛けしてしまったようですね……
でもこの借りは、
必ずお返しできると思いますよ。
それもかなり近いうちにね。