第八章 第六話 東京大正博覧会

〔山王ホテルロビー〕

その日、興亜こうあ日報は二度目の怪人川柳せんりゅうを掲載。たちまち売り切れ続出となり、梨央りお四谷仲町よつやなかまちまで足を伸ばして買い求めた。

【喪神梨央】
興亜こうあ日報の記者の人が、
新聞を持って来るって――
なら買いに行かなきゃよかった。
まったく人騒がせな話です。
これで怪人騒動が起きたら、
記者の人、責任取るんですか?
今度の怪人川柳せんりゅう
前より投稿が増えています。
それに地方からも――
【新山和斗】
喪神もがみさん、新聞の件ではご迷惑を――
皇軍こうぐん機関が朝刊読めないのは、
国難こくなんを招きますね!
【喪神梨央】
新聞ならもうあります。
怪人川柳せんりゅう拝見はいけんしました。
【新山和斗】
今回のは傑作けっさくぞろいですからね!
仙台や熊本からも寄せられています。

怪人の
心に触れて
みたい秋

しみじみと秋を感じますね――
【喪神梨央】
怪人の
通る生垣いけがき
急に枯れ

これで怪人騒ぎが起きたら、
どうするんですか?
【新山和斗】
皆さんのご活躍が愈々いよいよとなります。
――違いますか?
怪人川柳せんりゅうはこの秋入社した、
新人社員の企画なんです。
帝大出の触れ込みでしてね――
蛇穴さらぎ洋右ようすけという青年ですが、
拓務たくむ文理専修科の卒業だそうです。
【喪神梨央】
そんな学科、あるんですね――
【新山和斗】
僕も初めて知りました。
拓殖たくしょく実務を高い水準で学ぶとか。
彼、川柳せんりゅうで張り切っています!
【喪神梨央】
以前、帥先そっせんヤというのがありました。
怪人川柳せんりゅうもその一つとみなされて、
特高の手入れを受けそうです。
【新山和斗】
最近では騒擾罪そうじょうざいを持ち出して、
憲兵が動くのが常ですからね。
今日はこちらの件でうかがいました――

そう言って和斗かずとは絵葉書を取り出した。東京大正博覧会を写した人工着色絵葉書だ。大正三年、上野公園一帯で開催かいさいされた。
上野公園に一夜にして博覧会場が現れ、会場見物の市民でごった返しているという。和斗かずとはそれをしらせに来たのだった。

【新山和斗】
前に浅草十二階が出現しました。
あれと同じ理屈なのではないですか?
浅草のときは当局の検閲けんえつを受け、
早版はやばんの記事から書き換えました。
くさ記事は沢山たくさんありましたから。
【喪神梨央】
今回も発表は無理だと思います。
参謀本部の検閲けんえつが入るでしょうね。
【新山和斗】
まぁ、従いますよ――
ただ記事自体は書いておきます。
いつか発表できるでしょうから。
【喪神梨央】
兄さん、今日の公務は上野ですね。
セヒラの観測、始めます。
【新山和斗】
僕はこの現象、妄築もうちくと名付けます。
ご公務、お気を付けください。

〔上野恩賜公園〕

上野の山はどことなく浮足うきあし立った空気だ。まるで春の花見の頃のようである――

【下谷区のラムネ商】
怪人川柳せんりゅうでいいのがあって、
つい浮かれちまってね!

怪人が
さっさと越へる
電車道

哀愁あいしゅうさえ感じるね、あんた!

怪人に
なったしるしに
かねが鳴り

不朽ふきゅうの名作じゃないか!
――次なんかもいいよ!

怪人を
残して冷える
町となり

文学的なたたずまいさえ感じるね!
――気分が益々ますます浮いてきた!

【谷中の客】
懐かしい見世物みせものがわんさかだよ!
ホントに懐かしい……
芝居しばい手踊ておどり、生人形、独楽こま、足芸、曲馬きょくば照葉狂言てりはきょうげん轆轤首ろくろくび大坂角力おおさかすもう、洋犬の芸、講釈こうしゃく
かっぽれ、女大力おんなだいりき
露店ろてんの洋食屋、りのシャツ屋、
アラスカ金の指環ゆびわ、電気ブラン、
木戸十銭きどじっせん浪花節なにわぶし――
たま乗り娘のあかじんだ肉襦袢にくじゅばん
倶利伽羅紋々くりからもんもんのお爺さん、江川一座のおはやしさんや一寸法師いっすんぼうし――
今はれっきとした昭和の時代、
まるであんた、大正はじめに
時が巻き戻ったみたいです!

トンビ服姿の男性が風魔を見ている。

【下谷第三十八尋常小学校訓導】
今より東京大正博覧会の
趣旨しゅしを述べるのである――
殖産しょくさん工業の進歩開発をうながすにあるは勿論もちろんなるも、第一に大正御即位式を記念し、あわせて我が帝国の改元かいげんともな万般ばんぱんの進歩発達をはかり、
いささかなりともこの大正の御代みよ
むくたてまつらんとするの赤心せきしんより
企図きとせられたものである。
――以上!

中年の男女二人連れがやって来た――

【碑文谷の蓄音機商】
いやね、博覧会案内というのが
落ちていたから拾ってみたんだが――
【蓄音機商の妻】
博覧会の見方が書いてありますわ。
【碑文谷の蓄音機商】
現今げんこん盛んに行われます石綿いしわた製品、
タングステン、ラヂユームらを見て、
鉱業に関する知識を養いましょう――
【蓄音機商の妻】
それは鉱業館の見学指南しなんですわ。
【碑文谷の蓄音機商】
教育館、学芸館、林業館、工業館、
水産館、美術館、拓殖たくしょく館、農業館、
運輸館、染織せんしょく館、外国館――
見学意欲は満々なのだけれどね、
ちっとも寄れないんだ。
近づくとすーっと消える――
【蓄音機商の妻】
知らない間に通り過ぎたんじゃ、
ありませんこと?
【碑文谷の蓄音機商】
そんなこと、あるものか!
――また明日にでも出直すとしよう。

〔東京大正博覧会〕

【内藤町の客】
大正三年に来た時は驚きましたよ。
なんせ本邦ほんぽう初公開のエスカレーター、
動く階段ですからね!
踏み台に足をせるのが怖くって!
でも今じゃ当たり前ですな!
ホホホホホ~
【着信 喪神梨央】
セヒラを観測しましたが、
低い値のままです。
あとで怪人化するかもですね――

【錦糸町の客】
独逸ドイツ館は見ものですよ!
一人気球、携帯電信、人造宇宙衛星、
脳楽のうらく装置、自白機じはくきプルトニウム発電機、
それに二体の自動人形です。
自動人形、人と見紛みまご出来栄できばえで。
サロメ号とオリムピア号ですよ。

口上屋こうじょうや
本邦ほんぽう初のサロメ号、
オートマタにございます。
もうお試しになりましたか?
【ヨカナーン役の学生】
ああ、すっかり試したよ。
僕がヨカナーン役となり、
サロメ号と台詞せりふわすんだ――
口上屋こうじょうや
猶太ユダヤ王女サロメは、ある一夕いっせき
預言者ヨカナーンの冷徹れいてつな声を聞き、その豊麗ほうれいな体にせられて、
たちまちそのとりことなり、
舞いの報酬としてその首を求め、
官能の爛酔らんすいの中で死ぬという筋書きなのであります――
サロメ号の前にて、
決まった台詞せりふを話せば、
会話が進むのであります。

不意にどこからか女性の声がした――

学生は声の元を探している。
その表情はすでに虚ろであった――

【サロメの声】
ヨカナーンや、ヨカナーン……
私はお前の体にがれている。
お前の体は草刈人くさかりびとが、
一度もかまを入れたことのない、
草原の百合ゆりのように白い。

学生はヨカナーン役となり、サロメ号のわきに掲げられた台詞せりふを話す――

【ヨカナーン役の学生】
さがれ、バビロンの娘! 
この世に悪が来たのは女人のためだ。
【サロメの声】
お前の体はいやらしい。
蝮蛇まむしっている漆喰しっくいの壁のようだ。
さそりが巣を作る漆喰しっくいの壁のようだ。
ヨカナーンや、ヨカナーン……
お前の髪の毛は葡萄ぶどうふさに似ている。
お前の髪の毛はレバノンすぎのようだ。
この世の中にはお前の髪の毛ほど
黒いものは何一つもない。
お前の髪に触らせておくれ。
【ヨカナーン役の学生】
さがれ、ソドムの娘! 
私に触るな。
【サロメの声】
ヨカナーンや、ヨカナーン……
お前のくちびるは艶めかしいひるのようだ。
二匹のひるが合わさりうごめくようだ。
私ががれるのはお前の口だ。
お前の口は象牙ぞうげとうにつけてある、
猩々緋しょうじょうひひものようだ。
象牙ぞうげの小刀で切った柘榴ざくろのようだ。
世にお前の口ほど赤いものはない。
……お前の口に接吻せっぷんさせておくれ。
【ヨカナーン役の学生】
ならぬ! バビロンの娘! 
ならぬ! ソドムの娘! 
姦淫かんいんの生んだ娘よ――

全部、正しく言えたはずなのに、
サロメ人形は血走った眼でにらんだ!
僕は全部言えたんだ、
一つもたがわずに言えたんだ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
探信儀たんしんぎを使ってください!!
【ヨカナーン役の学生】
僕は間違わなかった!
最初からだますつもりなんだ、
あの女は!!

《バトル》

【サロメの声】
ヨカナーンや、ヨカナーン……
お前は私の愛した、ただ一人の男だ。
お前は美しかった。
お前の体は銀の台石の上に立っている象牙ぞうげ円柱まるばしらだった。
はとと銀の百合ゆりとで一杯のそのだった。
私はお前の口に接吻せっぷんをしたのだよ。
お前のくちびるは苦い味があった。
あれは血の味だったろうか? 
いや、あれは恋の味かも知れない――

【戸越の客】
独逸ドイツ館は素晴らしいですね!
オリムピア号と目が合った時は、
胸が高鳴りました!
独逸ドイツ作家ホフマンの砂男に登場する、
あのオリムピア号そのままです。
砂男の粗筋あらすじはこうです――

大学生ナタニエルは、下宿先を訪問した、晴雨計せいうけい売りのコッポラから遠眼鏡とおめがねを買う。
それで裏窓をのぞき、一人の女性を見初みそめる。ナタニエルは女性の元を訪れ交際を申し込む。それがオリムピアである。しかしオリムピアは精巧せいこうな自動人形であった。
やがてナタにエルは気が触れてしまい、故郷に帰り婚約者と静かに過ごす。婚約者と市庁舎の屋上に上がったナタニエル、遠眼鏡で婚約者をのぞ動転どうてんして、市庁舎の屋上から墜落死ついらくしするのである。

【戸越の客】
遠眼鏡があやかしの力を秘めていた、
どうもそのようですね。

ホフマンの『砂男』の粗筋を話し終えた男が去ったとき、式部、彩女、そして江戸川乱歩の三人がやって来た。

【式部丞】
喪神もがみさん!
やはり見えていますね、大正博覧会。
――いやはや、驚きです。
【江戸川乱歩】
まるで浅草十二階の頃のようです。
その頃の浅草公園と云えば、
名物が蜘蛛くも男の見世物みせもの、娘剣舞けんぶ
玉乗り、源水げんすいの様の作り物、メーズと言う八陣はちじん隠れすぎ見世物みせもの――
当時と同じおもむきがありますな。

【式部丞】
乱歩らんぽ先生から電話いただいたのは、
他でもなく彩女あやめ君のことでした。
【江戸川乱歩】
オリムピア人形のことを聞いたと、
彩女あやめさんがやってきたのです――
それで式部しきべさんに連絡しました。
【式部丞】
彩女あやめ君、またぞろ話をこしらえました。
オリムピア号に関する話です。
そうだよね、彩女あやめ君?
【周防彩女】
彩女あやめ、文章がいてくるのです。
作家の先生のようにです。
言葉が連なってくるのですわ!
彩女あやめ、体の内側から、
ひっくり返りそうになるのですわ。
【江戸川乱歩】
文章がく……うらやましいですな!
私なんぞ、この一週間、
一行も書けておりませんぞ。
【式部丞】
彩女あやめ君、君のお話がどんなものか、
ここで披露ひろうしてくれるかな?
【周防彩女】
わかりましたわ、店長。
彩女あやめの筋書きがありますのよ、
三人で読みましょう。
乱歩先生がコッポラ、
式部店長がナタニエル、
彩女はオリムピア号ですわ。

三人は彩女版『砂男』の登場人物をそれぞれ演じ始めた。

【コッポラ】
晴雨計せいうけい売りのコッポラが、
学生ナタニエルの下宿を訪れる。
【ナタニエル】
ナタニエルはコッポラから、
小ぶりの遠眼鏡を買う。
それで裏窓を覗き、
窓に見えた若い女性に心奪われる。
【オリムピア】
その女性の名はオリムピア。
【ナタニエル】
ナタニエルはすぐさま交際を申込み、
二人は逢引あいびきを重ねる――
【オリムピア】
ヘッセン州ラウバッハの森に遊び、
町中では芝居しばい、オペラを楽しんだ。
【ナタニエル】
水浴すいよくに登山――
夏にはベルヒテスガーデンの山荘ヒュッテへ、
冬にはヴィンターベルクでスキー――
【コッポラ】
時に二人は危険な遊びにもいどんだ。
ガソリンバーナーに手をかざしたり、
長い時間、氷水に潜ったり――
四十度数のドッペルコルンを
何杯もあおったり、頭上の林檎りんご
投げナイフで落としたり――
ある日、二人はビュルガー塔に昇り、
遠くの景色を楽しんでいた――
【オリムピア】
オリムピアが提案しました。
この高い塔から飛び降りてみない?
最も危険な遊びでしょ?
【ナタニエル】
陽気になっていたナタニエルは、
オリムピアの手を取り飛び降りた――

石畳いしだたみ激突げきとつした二人――
オリムピアは首や手足がバラバラになり、方々に幾多いくたの歯車や弾条ぜんまいを散らばらせた。ナタニエルは墜落ついらくの衝撃で腹がけ、青黒いはらわたを広場に飛び散らせ、口や鼻から大量に噴血ふんけつしていた――

【周防彩女】
彩女あやめのナタニエルは、
オリムピアを自動人形と知らず、
とうから飛び降りたのです!!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です!

彩女の背後に濃厚なセヒラが集まり渦を巻き始めた。やがてセヒラの塊となり、あたりを包むこむ。
式部、乱歩は咄嗟とっさにその場を離れた。風魔は彩女とともにセヒラの中へ吸い込まれてしまった。

〔時空の狭間〕

【???】
何だか不思議なところだね――
君と会うのは二度目だね。
愈々いよいよ僕の出番かなと思う。
僕は千紘ちひろ――
周防すおう彩女あやめを遠ざけたから、
しばらくは僕の時間だよ。
千紘ちひろ
僕たちは響き合うのだ。
と――
でもまだ力がおよばない。
君が目覚めさせてくれるよね。
僕を目覚めさせてくれるよね。
前にもやったように。
お願いするよ!!

《バトル》

千紘ちひろ
うん……
この調子だよ。
これで少しは力がおよんだかな。

千紘の気配が消えると、風魔の周囲に町並みが姿を見せた。そこは凍てる上野黒河こくがであった。

〔上野黒河〕

【文科生Xアストラル】
新文民社しんぶんみんしゃに当局の手が入り、
我々文民社ぶんみんしゃも活動自粛じしゅく中だ。
だが手をこまねいているわけではない。
葛木かつらぎ素朴そぼく先生の回顧録かいころくを出す、
そのために資料を整理している。
素朴そぼく先生が述懐じゅっかいされたのを、
その弟子が手帖てちょうつづっていた――
それが発見されたのだ。

【法科生Qアストラル】
素朴そぼく先生は幸徳秋水こうとくしゅうすい先生のことを、
述懐じゅっかいされていた――
秋水しゅうすい先生、刑死直前のことだ。
明治四十四年一月二十二日、
素朴そぼく先生は市ヶ谷いちがや刑務所を訪れ、
秋水しゅうすい先生と面会した。
その日、秋水しゅうすい先生は茶万筋ちゃまんすじ
綿入わたい羽織ばおりを着ていた。
死刑囚に面して、
お体を大事と言うもみょうであり、
葬式そうしきの話題というのも出しづらい。
素朴そぼく先生はだんまりを決めたのだ。
すると秋水しゅうすい先生が
助け舟を出した――
僕は非墳墓ひふんぼ主義だから、
身体は海川にてて
魚腹ぎょふくやすもよし――
ニッコリ笑ってそう申されたそうだ。

【工科生Pアストラル】
爆弾の飛ぶよと見えし初夢は
千代田ちよだの松の雪折れの音
幸徳秋水こうとくしゅうすい先生の辞世じせいだ。
死刑の六年前、秋水しゅうすい先生が、
第五十ニ号事件で巣鴨に捕まり、
出獄後、桑 港サンフランシスコに外遊されたんだ。
それをお膳立てした人物がいる――
柴崎周しばさきあまねという駐米日本大使館勤めの一等書記官だ。
米国アメリカ数多あまたの無政府主義者とまじわり、
幸徳秋水こうとくしゅうすい先生はアナーキストに――その影にいたのが柴崎しばさき書記官だ。
柴崎しばさき書記官は完全なる英語を話し、
いつもぞろえの背広姿せびろすがただった――
素朴そぼく先生の述懐じゅっかいはそこで終わりだ。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号くろのはちごう――!
聞――ていますか?
セヒラ――が接近中です!

秋毫しゅうごう編集主幹アストラル】
私が活動をあきらめたとでも?
見くびってもらっちゃ困る。
何も危険を犯してまで、
演台えんだいに立つ必要はない。
ラヂオを使うのだ!
第一声に用いる草稿そうこうを用意した――
万国ばんこく労働者は眼を開け!
眼前がんぜんに新時代が訪れつつある。
広壮こうそう邸宅ていたくがあるのに橋の下に
しゃがむ必要はなく、
食物が数多あまたあるのに断食だんじきの必要なく、
毛皮でかざるのに凍死とうしするに及ばず。
理論においても実際においても、
万物ばんぶつ万人ばんにんのものであるのだ!
草稿そうこうる私がどこに身を潜めるか、
お前たち官憲かんけんにはわかるまい!
肉体は拘束こうそくできても、
たましいまでは拘束こうそくできないのだ!!

《バトル》

秋毫しゅうごう編集主幹アストラル】
権力なき自由世界の実現に向け、
私は復活をげるだろう。
その名は麦人バクニンである――
まさに、麦人バクニン誕生の瞬間だ。
神もなく、主人もなく! 
絶対捕捉ほそく不可能な麦人バクニン誕生セリ!!

【着信 喪神梨央】
黒ノくろの――帥士すいし
辺りか――ヒラ消失です。
帰還でき――か?

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん――
式部しきべさんがいらしてます。
彩女あやめさんのことで……
【式部丞】
彩女あやめ君は神経のやまいのようです。
帝大医科の蛭川泊ひるかわとまり博士に預け、
経過を観察中です。
蛭川ひるかわ博士は神経病の大の権威です。
市谷台町いちがやだいまちの立派な邸宅ていたくで、
金糸雀カナリアと暮らしておいでです。
博士曰く、彩女あやめ君の症状は、
ジャンヌ・ダルク症ではないかと。
つまりは強度のヒステリーです。
ジャンヌじょうはヒステリーを起こして、
仏国フランスの為に戦場にのぞめと幻聴げんちょうを聞き、二重人格をていしたそうです。
慢性幻覚性偏執へんしつ病と呼ぶそうです。
【喪神梨央】
彩女あやめさん、
自分のこと千紘ちひろと呼んでいました。
それも二重人格なのですね?
【式部丞】
ええ、そのようですね。
公務記録からしかわかりませんが、
彩女あやめ君の中に千紘ちひろがいるようです。
【喪神梨央】
その瞬間でしょうか……
強いセヒラを観測しました。
【式部丞】
そのセヒラによって、
芽府めふ須斗夫すとおが何かを語ったかも……
この間、第七の予言と言って、
ヒククアケ――
そう語ったのです。
この言葉の意味を、
調べないといけません。
近く古文書こもんじょ研究の先生に会います。
【喪神梨央】
そう言えば、兄さん――
柴崎しばさき一等書記官の名前を聞きました。
帝大生アストラルが話していました。
幸徳秋水こうとくしゅうすい米国アメリカ外遊をお膳立ぜんだてした、その外交官の名前としてです。
今から三十年前のことですよ――
柴崎しばさき外交官、歳を取っていない、
そうなんじゃありませんか?

まるで蜃気楼しんきろうのように現れた博覧会会場。それに触れてか周防すおう彩女あやめに異変が起きた。そして柴崎しばさき外交官という人物の謎――
帝都はまるで生き物のように、様々なものを飲み込んではしている。真実さえもがくだかれようとしていた。