第九章 第十一話 世界軸

異なる世界とでも言うべき体験の後、発生したセヒラ異常で赤坂哈爾浜ハルピンへ。
中味に人を残すカバネを迎えることに――

〔赤坂哈爾浜〕

【着信 新山眞】
喪神もがみさん――
あのカバネ、あ、いや、綾部あやべ氏は、
とても知識が豊富です。
帝大文科の出ですが、
独学で時間旅行と魂の研究をし、
論文までしたためたそうです。

喪神さんに話があるとか――
是非ぜひ、同行お願いします。
その先で待っていますよ。

【内務省安寧課D課員】
安寧あんねいですか? 安寧あんねいですか?
勿論、安寧あんねいですよね――
この国で、安寧あんねいでないなんて、
ちょっとあり得ません。

【内務省安寧課S課員】
安寧あんねいですか? 安寧あんねいですね!
新しい標語です――
黙って労働、笑って安寧あんねい
心がしずまるようではないですか!
貴方も難しい顔などしないで、
安寧あんねいにしてください!

【内務省安寧課E課員】
安寧あんねい課ではラヂオ番組を提供します。
安寧唱和あんねいしょうわを十三回行ってから、番組が始まりますよ!
番組とは安寧あんねい料理相談です。
記念すべき第一回は西洋料理相談。
リードボーの葡萄酒ワイン煮込みです!

【内務省安寧課K課員】
今は冬ですから、起床時間は六時、
夏にはこれが五時に繰り上がります。
起床後、直ちに安寧釦あんねいボタンを押して、
一日の安寧あんねいを当局に誓いましょう。
――ご安寧あんねいに、ご安寧あんねいに!

【内務省安寧課A課員】
日々の労働で安寧あんねいな生活を!
独逸ドイツ人はいいことを言いますよ――

アルバイト マハト フライ――
働いて自由になろう。
安寧あんねいに、ご安寧あんにに。

【内務省安寧課Y課員】
おい、貴方!
国民の安寧あんねいを乱すでない!
国民安寧あんねい必携ひっけいを所持するか?

ああん、どうなんだ?
貴方……内務省安寧あんねい課をめるな!!

《バトル》

【内務省安寧課Y課員】
ううう――
私の心に巣食うものは何だ?
直ぐに安寧あんねい運動で取り去らねば!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
カバネと合流してください!

【綾部研究員】
大学の資料室にあった赤新聞に、
英吉利イギリスの空想科学小説、
八十万年後の社会が載っていました。
航空機ではなく時を移動する航時機タイムマシン
それに乗って未来に行く話です――

それはHGウェルズが発表した空想小説、タイムマシンを翻訳したものだった。
大衆紙に連載され人気を博した。
そこに描かれている遠い未来は、明るく広い庭に果樹が点在する、まるで楽園のような場所であった。

【綾部研究員】
その一節、そらんじていますよ!

博士は四方を見廻みまわしたが、
広い広い庭である、今し方、雨が降ったと見え、芝草にはつゆが宿っている、
土も柔らかに、我が足跡と航時機のわだちの跡がむほど湿っているが、時は夏の初めで有ろうか日の光が強い。

博士の前には、大理石できざんだ大きな獅子女面の像がある。
広い庭に古い遺跡が点在しているのだ。

【綾部研究員】
この時代の人は、皆、小さいのです。
その一節です――

家の窓から三四人の小さい人が
首を出して博士をながめていた――
彼等は子供ではない、
全くの成人おとなである、
背の丈は四尺に足るか足らずである。
声はヴァイオリンの音のごとく聞こえ、博士に接する彼等の手は真綿の如く
柔らかである――
アゝ、ここ
全く平和の天地である――

素晴らしいと思いませんか!
私は時間旅行の研究に着手し、
そして気付いたのです。
時間旅行するには人は重すぎる。
でも魂ならそれが可能になると。
魂の重さは四分の三オンスといいます。
卒業し、冒険青年の編集に職を得、
出社したらそこが防疫研究所でした。

時間旅行の研究をした仲間がいます。
アストラルですが話せるはずです。
こちらへ――

そう言うとカバネは踵を返して歩き去った。風魔は後に続く。
次の街区に行くと小型の二体のアストラルが浮かんでいた。カバネは向かって左のアストラルに話しかけた。

【綾部研究員】
新町君、君は時間とは線路のようだ、そう言っていたね。
【防疫研S研究員アストラル】
はい、時間は線路です。
過去から未来へ繋がる線路――
しかも複数あるのです。

独逸ドイツのエッセンである学校の先生が、
町角で自分の分身と出食わしたとか。
それがドッペルゲンガーと言います。
つまり別の世界を生きる自分、
それが不意に現れたわけです。
【綾部研究員】
私もかねてより世界は複数ある、
そう考えていたんだよ。
そして世界は時間に従い、
一つの方向を向いている――
だから世界軸と呼ぶことにしたんだ。
【防疫研S研究員アストラル】
その世界軸にはことわりがあります。
ことわりが違うと
世界軸も変わってくる――
そうじゃないんですか?
【綾部研究員】
ことわりことわりの間には、
ある種の閾値いきちのようなものがあり、
値を超えると別な世界軸に入る――
私はそう考えているのだが――
堀川君は、ことわりについてはどうだい?

カバネは向かって右のアストラルに話しかける。

【防疫研H研究員アストラル】
例えば無心と有心というのがあり、
それらはどちらもことわりを為します。
亜當アダム夏娃イブが禁断の実をかじる前、
二人は無心の中にいました。
かじった後は有心に堕ちたのです。
【綾部研究員】
その場合の世界軸は二本だね――
世界軸を移る、あるいは、
ひょんなことから世界軸が繋がる、
そういうこともあると考えています。
【防疫研H研究員アストラル】
無心軸から有心軸へ移ったように、
ある閾値いきちを超えると元の軸には
留まることはできないようです。
【防疫研S研究員アストラル】
別な世界軸から移ってきた自分、
それがドッペルゲンガーなんですね。
【綾部研究員】
もう一つ大切なこと――
それは別な世界軸に繋がるなどして、
結果的に時間旅行ができることです。
そうなれば――
大仰な航時機の発明は不要です。
ただ――
【防疫研S研究員アストラル】
世界軸をほしいままに操ることは、
今の技術ではできないのです。
【防疫研H研究員アストラル】
ただ世界軸の繋がりは起きている、
それだけは間違いないようです。
【綾部研究員】
世界軸の理屈であるなら、
魂ばかりか肉体を従えて移動でき――

嗚呼ああ! 魂……魂……
私は中味だけしか無いのです!
私には肉体が……無い……

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
満洲から電報がありました。
式部さんが哈爾浜ハルピンに――
キタイスカヤの東方飯店に
チェックインしました。
キタイスカヤに向かえますか?

交信の終わるのを待たずに二体のアストラルはスーッと滑るように去って行った。

〔キタイスカヤ街〕

まるで白昼夢のようなキタイスカヤ街。カバネと風魔がその街角に立つ。

【綾部研究員】
先程は取り乱してしまって――
もう大丈夫です。

さて、ここは――
キタイスカヤが再構築されている、
そうなんですね?
まるで本物の哈爾浜ハルピンですね。
でもその実は帝都満洲――
東亰ゼロ師団もここは知らないはず。
私、ちょっと見て回ります、
構いませんね?

そう言い残してカバネは歩いて行った。

【着信 喪神梨央】
東方飯店ホテルボストークに向かってください。
そこで式部さんのアストラルと
話せるかも知れません。
彼は何かをつかんでいるはずです――

ホテルの部屋では式部丞しきべじょうが回想している――
彼は混乱を極めつつある帝都を離れ、哈爾浜ハルピンで人心地付けたようである。

【式部丞】
日本人が来ると、
この部屋に案内するのが、
ここの暗黙の了解なのか――
最上階の角部屋、
確かに安全ではあるが――

これまで以上に細心の注意が必要だ。
私の報告が上がっていなかった――
そのことが自明になったからだ!

ナチの釣鐘デーグロケ山王さんのう機関にあり。

そのエニグマ電文は、
上層部が握り潰したのだ。
日独は防共をむねとする協定を、
おそらく来年には締結するだろう。
そうなれば――
私の知る情報は、
両国関係に水をすことになる。
何より上層部には都合の悪い情報だ。

ヴンダーの出現に帝都の武装SS隊員たちは、生捕いけどりにして本国送還の指令を受けていた。
そのことで式部は気付くのである――

【式部丞】
帝都の釣鐘つりがねについて知っていれば、
山王さんのう側が釣鐘つりがねをどう扱うのか、
その詳細な情報を求めるはずだ。
それをヴンダーの生け捕りだと?

――有り得ない!
ナチ本部は山王さんのう釣鐘つりがねを知らない。
山王さんのう釣鐘つりがねは、あってはならない事実なのだ。
そしてこの私の存在も――


何だ?
――誰かの気配がする……
――●△◇◎――

急にホテルの部屋のセヒラ濃度が高くなった。そして式部の姿は揺らぎながら消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
ホテル外でセヒラ急上昇です!
明確な波形も確認します!

〔キタイスカヤ街〕

通りの真ん中に中型のアストラルが浮かんでいた。そのアストラルは人の顔に当たるところが黒く潰されたようになっている。

【有澤機関SKアストラル】
またお会いしましたね――
貴方は……おそらく……
山王さんのう機関の――

私はね、二班の班長でしたよ。
二班は流言飛語の調査です。
もっとも、それすら表向きで――

実際は乙亥きのといの年にあるとされる、
悪魔降臨の予言を調べること……
帝都じゃ予言が実現しますからね!

おそらく偽書でしょうが、
予言書を手に入れ調査しました。
悪魔は痩身そうしんの青年の格好をする――
それは学生でしょうか?
たとえば文民社のようなところの?
可能性は全部当たるのですよ。

降臨悪魔のことは、
東亰ゼロ師団も狙っていました。
でも彼らは仮構かこうに守られ、
我々では手出しができない――
連中のことは山王さんのう機関に任せる、
それが組織の決定でした。
有澤機関ではなく、更に上の組織――
上には上があるのですよ。

書生、芽府めふ須斗夫すとおは、
淀橋署の新入り巡査が保護しました。
仮構かこう憲兵らが右往左往うおうさおうする間にね。
調べは一班に引き継ぎました。

一班は瑛山会えいざんかいの動向を探ります。
それが有澤機関設立の趣旨しゅしです。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
もしや、影森愁一かげもりしゅういちという人の……
そうですか?
だとすると……
彼の思念だけが残って――
【有澤機関SKアストラル】
――フフフ、私の勘は的中ですね。
一班の動きを助けるために、
私は身をさらしたのです。
おとりと言うほどではありません、ただ目をらせるのが目的でした。

神保町じんほちょう交差点に合図あいずがありました。
縁石に二本の黒い線が――
第二連絡所に行けとの指令です。
新宿旭町あさひちょうにある柏屋かしわや旅館、
二階、芙蓉ふようの間で待機しました。
そこへ三人の丁稚でっちが入ってきて――

アストラルからセヒラがほとばしった。

【有澤機関SKアストラル】
白い布を被せられ――
そこまでは覚えています。

私はもう柏屋かしわやにはいないのですね?
あの湿気しけた客間にはもういない……
――私はどこにいるのでしょうか?
なんだか無念です――
ものすごく無念です!!
悪い勘が的中したようですね!

《バトル》

【有澤機関SKアストラル】
組織というのは……
げに恐ろしいところですね――
あなたも気を付けることです。

そう言い終えると
アストラルは霧散した。

【着信 帆村魯公】
影森愁一かげもりしゅういちは用済みになったわけだ。
さて、くだんの一班に誰が関わったのか、
およその見当はついたがな。
【着信 喪神梨央】
もう一度、ホテルへお願いします。
四〇八号室です――

〔ホテルボストーク〕

【式部丞】
釣鐘つりがね山王さんのう搬入はんにゅうした――
それが瑛山会えいざんかいの存在をあきらかにした。

皮肉ひにくなことにその瑛山会えいざんかいが、顕現けんげんさそうとたくらむ――

会の頭目、柄谷がらたに生慧蔵いえぞうその人物だ。
双子の兄ルドルフ・ユンカーと違い、
生慧蔵いえぞうは科学に全てを求めた。
そして学際がくさいの迷宮に彷徨さまよったのだ。
しくも同じ字名だった――

私は猟奇人Θシータ、そして生慧蔵いえぞうは、
従順なる隸Θしもべシータ師と呼ばれた。
彼が猟奇趣味の男女を組織したのも、
一人でも異能者を集め、
召喚を目の当たりにしたい、
そのことだけが目的だったようだ。

理論はあっても実践がない、
科学者は手を選ばず実践を求めた。
絡繰からくりは不明だが、とにかく顕現けんげんした。
見える者には見えたはずだ――
お陰で私には真実が見えた――

本を無粋ぶすいに扱うことで、
彩女あやめ君には退いてもらった。
丁度ちょうど、潮時でもあった――

それにしても――
メリュジーヌがセルパンの名の店に来る、
なんていう皮肉だ!

二班の班長にも退場頂いた。
神保町の交差点に印を付けて――
身辺整理はとどこおりなく行ったつもりだ。

当面、気配を殺して、
新しき天地あめつちの誕生でも見物しよう。
おそらく帝都は消える――

式部の姿が揺らめいて消えた。そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
式部しきべさん、古本屋さんなんて、
大嘘だったんですね!
私たちをスパイしていただなんて――
【着信 新山眞】
大変です!
キタイスカヤの通りで、
綾部あやべ研究員の気配が消えました!
【着信 喪神梨央】
特に異常なセヒラはありません。
念のため、巡視パトロールお願いします。

〔キタイスカヤ街〕

キタイスカヤ街の通り、20mほど先にカバネの姿があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
眼の前にいるのは……
それはカバネですか?
波形がいちじるしく乱れています。
全然一致いっちしないのです――

カバネが風魔に気付いてやって来ようとしたその刹那、カバネの背後にうっすらと人影が見えた。
白衣のようなものを纏っているが、その体、透けている。
体を透かして街が見える。

【綾部研究員】
私が……抜け出してしまいました!
――前にいるのが私です……
いや、違う、あれはカバネです!
正確にはカバネの肉体です。
私は……たましいか思念の状態です――

カバネは風魔の前を過ぎて止まった。
ずっと前を見たままである。
カバネのいたところに白衣姿の青年が見える。体は透けたままである。

【着信 喪神梨央】
セヒラの値が……
負の値を示しています!
――負のセヒラって、何ですか……

カバネと白衣の青年の間に白い球体が現れた。
輝くような真っ白な球体はほどなく一抱えほどの大きさになり、道の上に浮かんでいる。
そして球体の周りにセヒラの輪が生まれた。球体が傍に漂うセヒラを押しやっているようにも見える。
やがて白い球体は道幅一杯にまで膨張を始め、風魔は白い世界に包まれてしまった。

視界が戻ると、街は白い霧のようなもので覆われていた。
風魔の前に柴崎が立っている。
柴崎は苛ついた表情を浮かべている。

【柴崎周】
君たちは自分たちの周囲で、
起きていることを理解しているかね?

何の目的も持ち得ない世界――
すべてに価値を見い出せない世界――
まさに虚無きょむの世界が口を開き、私たちをもうとしている。

これが君たちの求めるものなのか?
怒りも悲しみも喜びもない、無限に広がる安寧あんねいの平原だ――

白い霧のようなものがますます濃さを増してきた。

【柴崎周】
平和というのは素晴らしい――
そうではないかな?
白いはとを飛ばし、赤い薔薇ばらぎ、青い空に夢を描く――

だが君たちの青空に、
夢を描くことはできない。
何一つとして価値を持たないからだ。
真っ白な世界は何も含まない。

闇は多くを含み、にぎやかなのにだ。
ただただ寂寞せきばくとしている――
闇を味方に付けるほうが、
幾倍いくばいも望ましいのだよ、
真っ白な世界に取り込まれるよりも。

いよいよ視界は白くなり、目の前の柴崎すらはっきりしなくなってきた。

【柴崎周】
何も為さず、何も起こらず、
何も得られぬ世界など、
憎しみの刃で両断する!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし!!
セヒラの値、計測限界を超えます!
これまでにない値です!!
【柴崎周】
ハハハハハハ~
君も私も虚無の世界では、
生きていくことができないのだよ!

《バトル》

静けさが戻った。
風魔は帝都満洲鉄道の赤坂哈爾浜駅にいた。ホームに立つ風魔の前に柴崎がいる。汽車はまだ来ない。

【柴崎周】
暗闇の中で孤独を感じる必要はない。
そのような必要はまったくない。
暗闇はにぎやかな遊園地だ。
あらゆる色が混ざり合い、
暗闇という色が生まれるのだ。

駅舎の方に人の気配がする。
振り返ると先程の白衣姿の青年がいた。青年の体は透けている。
白衣の青年はゆっくりと近づいてきた。
そして柴崎に向き合う。

【綾部研究員】
あなたのことは存じ上げませんが、
混濁こんだくの世をもたらすことを、
お考えなのでしょうか?
【柴崎周】
君は研究者かね?
それとも闇を操る者かね?
【綾部研究員】
魂に向き合っています。
魂なら時間旅行ができるかと――
【柴崎周】
時を操るのか――
私の時間はこの三十年間動かない。
サラエボ、桑 港サンフランシスコ羅南らなん――
十五年前のあの大地震が、
状況を大きく変えた――
帝都に資源があふれたのだ!
【綾部研究員】
資源とはセヒラのことですね?
きが現れ怪人騒動が起きた。
それがあなたの僥倖ぎょうこうなのですか?
【柴崎周】
ハハハ、私の心を読むのか――
なるほど僥倖ぎょうこうだ、
しかしそれだけではない。

独逸ドイツ人たちが興味を示したロッホ
あれは一種の支点なのだよ。
この世界を裏返すためのね。

【綾部研究員】
世界が裏返る?
――そんなことがあるのですか?
一つの世界に一つのことわりがある……

世界が裏返るとは、
ことわりもすべて変容するのですか?
この世界が別の世界軸に接続する、
そういうことではないのですか?
【柴崎周】
世界などいくつも必要ない。
この世界が呑み込まれるだけだ。
抗えば消える、アストラルとなる。
【綾部研究員】
それは違います!
僕たちは既に別な世界軸に、
向き合っているのです。
接続は時間の問題――
それはあなたの求める、
混沌カオスの世界ではありません!

――私にはわかるんです……
真っ白な世界、一点の不安もない――
そんな世界の存在することが!

そこまで言うと白衣姿の青年はいよいよ透けていき、とうとう消えてしまった。
そこへ声がする――

【???】
たわわに実る果樹の下、
暖かな日差し、ぬる清水しみず
何の不安もないのです――
【柴崎周】
やめろ!
私に語りかけるな!
【???】
楽園では、欲も失望もありません。
失うものなどなにもないのです――
【柴崎周】
――

柴崎は全身からセヒラを放った。濃厚なセヒラが柴崎の体を包み込んでいた。

《バトル》

【柴崎周】
すべては宇宙の混沌から生まれた――
それを君たちは無き物にしようと。
私は残念でならない――
――残念だ……
至極しごく残念だ――

そこに音はなかった。
風もなかった。
温かいとも寒いとも感じない場所だった。始終、白い霧のようなものが漂う。
井戸の前に母子がいる。

【母親】
薬師如来やくしにょらいさまの竜水は、
とっても効くのよ、まあくん!
【まあくん】
うん、そうだね!
母様の言うとおりだと思うよ、僕!
眼が良くなると安寧あんねいになれるんだね!
【母親】
そうよ、まあくん!
遠くまで見えるから悩まないの。
欲しいものもなくなるのよ!
【まあくん】
じゃ羊羹ようかんも欲しくなくなるんだね!
【母親】
羊羹ようかんになんかに値打ちはないのよ!
さぁ、竜水を手ですくうのよ。
それで目を洗うの。
【まあくん】
うん、わかったよ、母様!

風魔は白い世界にいた。
暗闇には多くが蠢く。
しかし白い世界にあるものは……それは虚無であった。
虚無を理とする世界から声がする。
虚無に生きる人の声である。

【はにかんだ女の声】
佐竹さたけのお母様は病気がちなんです――
少しでも滋養じようになればと思い、
実家から届いた――
納豆を持って家に行ったのです。
昼寝をしていたという佐竹は、
少しばかり眠そうでしたが――
私を玄関で迎えると、
いつも通り、ご安寧あんねいにと挨拶あいさつし、
納豆を受け取ってくれました。
私は佐竹の家を後にして、
省線と市電を乗り継いで、
三河台みかわだいの下宿に帰りました――
一人で……帰ったんです――
――一人で……

ふと、そこへ別な声がする。
いや、同じ女の声だ、風魔の心の中に残る声だ。

【思い詰めた女の声】
私、佐竹のことを信じ切っていて、
私たち二人はまるで同体のように
思えるほどでした。
先週、葡萄酒ワインで眠る佐竹の胸に、
小刀で私の名を彫ったのです――

もう声はしない。
代わりに白い空から降るような声が聞こえた。

【はにかんだ女の声】
どうしたのかしら?
――安寧あんねいでございますわね!
まったくもって、安寧あんねいでございます。

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
兄さん、お帰りなさい――
帝都では怪人騒動もすっかりしずまり、
落ち着きを取り戻しています。
【新山眞】
時間もかなり経過しました――
【喪神梨央】
新山さん、
世界軸って本当に複数あるんですね。
ドッペルゲンガーのこととか――
【新山眞】
ドッペルゲンガーは、
セヒラがもたらした一時的な現象、
私はそう考えています。
【喪神梨央】
でも世界軸はそうじゃないと――
常にいくつかの軸があるのですね。
【新山眞】
あの綾部あやべ研究員は、
複数の世界軸がめんのようにからまり、
別の世界軸へ移動できると――
世界軸をりっしていることわりに、
収まりきらなくなった時に移動する、
そう考えているようです。
【喪神梨央】
その時、時間をさかのぼったり、
そんなこともあるんでしょうか?
【新山眞】
明言はなかったですが、
時間の移動もありそうですね。
場所の移動も有り得ます。
世界軸の接続によって、
夢玄器むげんきを使わずに移動できる――
異なる時代、異なる場所へ。

【喪神梨央】
フリーダさん、
携行式けいこうしきの活動写真お持ちでした。
しかも総天然色です!
フリーダさんは、
ニ〇一五年の香港ホンコンと、
この帝都とを行き来すると――
【新山眞】
すでに世界軸の接続は、
始まっているようですね。
アストラルなら、
時空を超えて行き来していましたね。
いとも簡単に――
ただ好きなところへ、
とはならないようです。
【喪神梨央】
何か繋がりのあるところしか、
行くことができない、
そうなんですね?
【新山眞】
そのようです。

【喪神梨央】
研究員の綾部あやべさんは、
八十万年後に行きたかった、
そうなんでしょうか?
【新山眞】
未来の楽園的社会に憧憬どうけいしていた、
それは間違いありませんね。
その強い念が影響している――
【喪神梨央】
綾部さんとカバネの間から、
虚無きょむが生まれたように思えます。
【新山眞】
はいわば逆人籟じんらいです。
ヴンダーがたおれたことが契機けいきとなり、
逆相が生じた――
はその逆相の象徴です。
自身が虚無きょむ世界軸の接続点、
その役目を果たしたようですね。

【着信 帆村魯公】
風魔――
ホテルに客人だ。
レーネ嬢だ、覚えているな?
【喪神梨央】
藤沢レーネさんですね!
F基金の運用責任者ですよ。
新京シンキョウからおいでなんですね!
【新山眞】
私は飯倉いいくら技研に参ります。
そろそろ鏡の完成する頃――
様子を見てきます。

〔山王ホテルロビー〕

藤沢レーネが久しぶりに来日した。
満洲国商務省に勤めるかたわら、F基金を管理する金庫番でもある。

【喪神梨央】
レーネさん!
お変わりございませんか?
今朝着いた亜洲丸あしゅうまるですよね?
【藤沢レーネ】
ええ、横浜に着き、
新橋から参りました。
道中、帝都は静かでした――
【喪神梨央】
このところ怪人騒動は鳴りを潜め、
何だかそれが不気味なんです。

【藤沢レーネ】
時機が近づいているのです。
祖母の遺品を整理していたら、
一冊の古書が出てきました。
太陽の書リブロソロスという書名です。
最後のページに祖母の字で、
ある言葉がつづられていたのです――
【喪神梨央】
どんな言葉ですか?
【藤沢レーネ】
冬至とうじの朝陽がしめす――
支族帰還の地へ――
アルツァレトはせまる――
【帆村魯公】
冬至……
支族帰還……
――アルツァレト……
アルツァレトとは何ですかな?
【藤沢レーネ】
古い猶太ユダヤの言葉で、
桃源郷とうげんきょうとか新天地の意味だそうです。
支族が戻ればそこが桃源郷――

【喪神梨央】
兄さん! 冬至ですよ!
範奈はんなさんのお姉さんが言ったこと……
――冬至の朝、水辺に……
そこでお姉さんと二人、
為すことがあるのだって――
【帆村魯公】
なるほど! なるほど!
それで、その書はお持ちなのですか?
【藤沢レーネ】
書は満洲中央銀行の貸金庫です。
新京シンキョウにある父の基金を置く銀行です。
【帆村魯公】
それは結構ですな。
この上なく安全ですな!
それでと――
真名井まないの鏡にまつわる古文書にも、
冬至についてしるされておった。
託言たくげんを顕す光があると。
【藤沢レーネ】
おそらくは、失われた支族、
その末裔まつえいの居場所が明かされる――
私はそう考えております。
【帆村魯公】
その末裔まつえいとやらが、
山郷らが血眼ちまなこになるほど、
すごい力を秘めておるのか……
【喪神梨央】
千年以上前に日本に渡った、
マナセ一族の末裔ですね。
【帆村魯公】
鈴代のご先祖は、
まぁ庶家しょけというところだな。
愈々いよいよ、本家本元が現れるのか――
【藤沢レーネ】
いずれにせよその日を待ちます。
N計画にもはずみが付くはずですから。

藤沢レーネは山王さんのうホテルに部屋を取っていた。
梨央りおが部屋まで案内するという。

【帆村魯公】
風魔ふうま、先程お前が見た光景だがな、
あれはおそらく虚無きょむの世界だ、
そいつが垣間かいま見えたんだよ。

新井薬師の井戸にいた子供、
それに神田川の女――

あの女は生成なまなりだったはずだ。
男の胸に自分の名をったんだ。
虚無きょむの……なんて言う、世界軸か、
そいつの中ではうらみも何もない、
いたって平穏無事へいおんぶじの様子だな。

ホテル玄関から九頭が小走りに駆けてきた。

【九頭幸則】
先生! 風魔!
また妙な噂だ!
新世界が誕生するとかで――
【帆村魯公】
ほう!
その噂の出処でどころは?
【九頭幸則】
興亜日報ですよ!
たぶんあのブンヤがんでますよ!

まるで芽府めふ須斗夫すとおの予言がれたかのように、興亜日報では新しい世界の誕生を報じていた。

風魔は暗闇を覗いていた。そこには鬼龍豪人が立っている。まるで見当識を失ったかのようである。
そこへ淀みのない声がした。

【???】
ほまたかき京都第十六師団――
第十六師団輜重しちょう部隊!
隊付き将校、鬼龍きりゅう豪人たけと
【鬼龍豪人】
誰だ?
この私に気安く声をかけるのは!
【???】
君のガールフレンドは、
師団街道の円タクに乗って、
黄泉よみの国へ向かった!
【鬼龍豪人】
私の中ではもう過ぎたことだ――
【???】
君は梯子はしごを外され途方に暮れた――
わだかまりは大きく黒い蜷局とぐろとなった!
君はルサンチマンにまれた!
【鬼龍豪人】
私は完璧だ、染 化ファーブストッフを終えたのだ!
【???】
青白き少年ハンスは、
売女ばいたの腹にナイフを突き立てた!
君のナイフはどこにあるのかな?
【鬼龍豪人】
ハンス?
そんな人物など知らん!
貴様、いい加減に去れ!
【???】
月詠つくよみ麗華れいかに求められ、
鬼龍きりゅう少年は子羊のように震えた!
【鬼龍豪人】
あの女が欲しいのは力だ、
美しさの欠片かけらもないただの力だ!
【???】
君こそ求める存在だよ、
迷える子羊ストレイシープ君!
さぁ、私にゆだねるのだ――
【鬼龍豪人】
私は誰の指図も受けない!
【???】
それでこそ鬼龍クソッタレ大尉だ!
州間道路のドライブと洒落込しゃれこもう!
【鬼龍豪人】
何の話をしている――
貴様は誰だ!! 何者だ!!
【???】
気高きやかたあるじにして、
君の主人だよ、コンプレット鬼龍!