第九章 第十三話 東京黙示録

12月25日、先帝祭で祭日であった。
ホテルでは午後の早い時間に人払いされ、従業員も宿舎に待機となった。
溜池通には軍用トラックが二台停められ、数人の立哨が警備に付く。

クリスマスパーティは中止となり、
客のないロビーに飾りがむなしく輝いていた。

そして皆が案じている
虹人こうじん行方ゆくえ――
数百年の時を越えた思念の繋属けいぞくが、虹人の中に白金江しろかねこうを形成するに至った。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
虹人さん――
この時間になっても、
波形も全然観測されません!

隊長……
虹人さんは自分の中に白金江の
姿を見ていたんでしょうか?
【帆村魯公】
何かしら感じておったに違いない。
だが受け入れはしなかった――
虹人と名前を変えたわけだしな。
【喪神梨央】
こうって言う名前、
お父様がお付けになったんですね。
【帆村魯公】
そうだ……
変わり者の親父だ。
親父は虹人が生まれて半年ほどで、
姿をくらませてしまった。

ノックの音とともに九頭が姿を見せた。

【九頭幸則】
歩一の九頭くずです。
先生、隊の方で、
小耳に挟んだことがあって――
【喪神梨央】
虹人さんの行方でも、
わかったんですか?
【九頭幸則】
いや、そうじゃないんだ。
鈴代の叔父おじ山郷やまごうの方に、
内偵の入った形跡があると――
【帆村魯公】
ほう!
さては内務省でも動いたかな――
【喪神梨央】
殿下の仰っていた有澤機関、
あそこじゃありませんか?
だとすると――
【九頭幸則】
拠点はセルパン堂、だよね?
休暇の准尉じゅんいに行かせたよ、
目立たぬように平服でね。
【喪神梨央】
セルパン堂にですか?
式部しきべさん、いなくなったんですよ。
【九頭幸則】
梨央りおちゃん、裏切られたみたいで、
怒ってる?
【喪神梨央】
あまりいい気はしません。
私たちのことも探っていたんです!
身内のように思っていたのに――
【九頭幸則】
でも敵というわけでもなさそうだ。
准尉じゅんいがこれを持って帰った――

【帆村魯公】
これは芭蕉ばしょうの句だな。
漁火いさりびかじかなみしたむせび――
【喪神梨央】
かじかって魚ですよね?
鳴いたりするんですか?
――むせぶって……
【帆村魯公】
昔、かじかかわずの区別がなくてな、
かじかは鳴き声を立てると思われていた。
漁火に驚いたりしてな。

そういや梨央、
前に鰍沢かじかざわの話、なかったか?
【喪神梨央】
ありました!
赤坂哈爾浜ハルピンのお熊アストラルです!
それと――
式部さんも鰍沢かじかざわの落語聞いたと、
そう話していました。
【九頭幸則】
この俳句は、
何か意味を含むのかなぁ……
入口の引き戸にしてあったそうだ。
【帆村魯公】
うむ……
鰍沢かじかざわちなむ場所は何処どこだ?
甲州か――
【喪神梨央】
そうです、甲州きっての急流です。
吉原女郎だったお熊は……
【九頭幸則】
どうしたの、梨央ちゃん?
【喪神梨央】
お熊は心中にしくじって、
しばらく品川溜めに置かれます――
【九頭幸則】
それじゃこのカードは、
品川にいざなってるんじゃないのか?
そうだよ、風魔!

【喪神梨央】
どうしますか?
品川に怪人の報告はありませんが。
それにそろそろ日も暮れます。
【帆村魯公】
構わん!
梨央、公務電車の手配だ。
中尉も同行してくれ!
【喪神梨央】
承知しました!
品川まで手配します!

【九頭幸則】
行こう、風魔、
何があるかわからんが――

〔吉原遊郭〕

式部しきべの残したカードにヒントを期待して、九頭くず風魔ふうまは品川遊郭ゆうかくへ。
遊郭一帯は物々しい雰囲気だった。軍用トラックが何台も停まり、憲兵や兵が方々に展開している。

【九頭幸則】
何だ、騒然そうぜんとしているなぁ――
それにこの憲兵らはどこから……

【死骨崎憲兵中尉】
おい、貴様!
ここで何をしている!
【九頭幸則】
そっちこそ……
これは公務なのか?
【死骨崎憲兵中尉】
なんだと?
公務だとぉ?
俺達の公務なんざ、
とっくに終わってるんだ!
擅権せんけんの大罪など関係ないわ!!

そう言うなり憲兵は脱兎のごとく走り去った。

【九頭幸則】
どうやらめいあるわけじゃなく、
勝手にいきり立っているようだ。
――それにしても……

何だ、この甘い匂いは……
どこかで嗅いだことあるぞ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測しました!
すぐ近くです!

そこへ太った将校らしきが駆けて来た。右の肩章は大尉だが左には少佐のを付けている。

【地獄谷上級大佐】
無念だ、無念だ!
せっかく上級大佐まで上り詰め、
これからだと言うのに!

貴様らは悔しくないのか!
【九頭幸則】
じょ、上級大佐ですか?
――まるでナチのようです。
【地獄谷上級大佐】
うるさい!!
我が帝国陸軍はナチなどではない!
神洲大八洲しんしゅうおおやしまから世界をべる、
選ばれし神民の軍隊だ!

その最たるは東京ゼロ師団!
またの名をゼームス師団――

国立防疫研究所――
戸山砲工学校――
渋谷憲兵大隊――
全ては泡沫うたかたの夢であったか――
【九頭幸則】
わかってますよ、大尉。
すべては魔の力で仮構されたもの、
この甘い匂いとともにね!
それを泡沫うたかたとは――
随分とロマンチストですね!

【地獄谷上級大佐】
地獄谷じごくだにの名を得た夜、
私は生まれ変わったのだ!
う・ま・れ・か・わ・っ・た!
【九頭幸則】
地獄谷……
こりゃすごい名前もあったもんだ。
(風魔、気を付けろ、相当なもんだ)

【地獄谷上級大佐】
どうせちるところは同じだ、
貴様らを道連れにしてやる!!

《バトル》

【地獄谷上級大佐】
……荒川の……
帝国……モスリン……
あすこだけは――

――うっ
【九頭幸則】
帝国モスリンの他はどこだ?
まだあるんだろ、工廠こうしょうが!
――おい、答えろ!
【地獄谷上級大佐】
――

謎の将校は斃れ、そのままセヒラと化した。

【九頭幸則】
山本――
少尉だが同輩の付き合いだった……
奴は近づきすぎたんだ。
帝国モスリンに――

いや、違う!
工廠こうしょうにだ!

そして――
工廠こうしょうはまだ他にもある!
だが……場所はわからない――

そこへ芸者がしなを作りながら歩いて来た。

【品川芸者幾松】
四谷からお越しのお二人様かしら?
【九頭幸則】
四谷?
――あ、ああ、そうだ、四谷だ。
ここから来た。

九頭は咄嗟とっさにセルパン堂にあった、式部の残したとおぼしきカードを見せた。
それを見た瞬間、芸者は体を硬直させた。わずかに震えてもいる。

【品川芸者幾松】
嘘と誠の二瀬川ふたせがわ
だまされぬ気で~
だまされて~

妖艶な声で端唄はうたを愛唱すると、芸者幾松いくまつうつろな表情となった。
そして別な言葉を口ずさみ始めた――

【品川芸者幾松】
山郷やまごう、甲府にて甲斐絹かいきを扱う、
屋号は山郷絹糸けんし
最寄りは富士身延みのぶ鉄道
金手かねんて停留所――

芸者は報告書を読むような口調で、
山郷についての調べを述べた――

芸者は音もなく消えた。

【九頭幸則】
芸者は暗示をかけられた――
そんな感じだよな。
山郷側調査の内容を、
芸者に覚えさせてあるようだ。
これじゃ漏洩ろうえいは難しそうだな。

そこへもう一人、芸者が現れた。そして端唄の調子を披露した。

【品川芸者稲貞】
青いガスとう 斜めに受けて~
白い襟足えりあし 夜会巻き~

芸者は新京シンキョウに在る山郷の取引会社、柞蚕糸さくさんし問屋の満蒙絲線まんもうシーチェンについて語った。
山郷は社長の好文海ハオウェンハイに取引を持ちかけている。

芸者は音もなく歩き去った。

【九頭幸則】
柞蚕さくさんが不良で新京シンキョウハオ社長は困り、
山郷は甲斐絹かいきを調達したそうだ。
おかげで急場をしのげたと――

その見返りに山郷は、
太古たいこに北支に落ちた隕石いんせきをもらう。
その隕石をどうするつもりだ?

また一人、芸者がやって来た。またもや端唄の調子だ。

【品川芸者菊丸】
お前とならば どこまでも~ 
箱根山はこねやま 白糸滝しらいとたきの中までも~

芸者曰く、山郷は隕石いんせきの力で麗華れいかに深い霊異りょういをもたらし、その力を利用して支族末裔まつえいの思念を呼ぶ――
山郷はどこまでも
力に固執していたのだ。

芸者が去った。

【九頭幸則】
山郷は麗華さんに何をしたんだ?
それに……
どうやって麗華さんを呼び出した?
泣く子も黙るあの関東軍が、
麗華さんを保護していたんだろ?
容易よういには手出しできんぞ――

またもや芸者が来る。

【品川芸者市若】
雪はともえに降りしきる~ 
屏風びょうぶが恋の仲立ちに~

端唄に続けて芸者は、東雲しののめ流に伝わる香合こうごうは、互いに瑞祥ずいしょうを現すのだと語った。芸者にたくされた言葉はこれが最後であった――

芸者は遊郭の路地を歩いて行った。

【九頭幸則】
麗華さんに協力お願いすれば、
山郷の香合こうごう瑞祥ずいしょうを表して、
それで居場所がわかるはずだ。
麗華さんは鈴代がかくまっている、
そうだよね?

俺、鈴代の家に行ってくる!
瑞祥ずいしょうとやらが現れたら、
そこが山郷の居場所だ、
急ぐんだぞ、風魔!

九頭くず鈴代すずよの家に円タクを飛ばした。
二つのアルツケアンを取り込んだことで、古式東雲しののめ流の奥義おうぎ会得えとくした麗華――
まだ強い霊異りょういを現すには至らないようである。

【着信 喪神梨央】
先程、紀伊国坂きのくにざかで、
芽府めふ須斗夫すとおの身柄が確保されました。
麹町こうじまち署の巡査にです――
機関本部で山王さんのうホテルに部屋を取り、
今はそこで休んでいます。
独逸ドイツ大使館で名前を思い出し、
その後の意識がないそうです。
大使館からは一キロ少々です……
彼は歩いてきたと思われますが、
紀伊国坂きのくにざかで車から降りた、
そんな目撃もあるのです。

ホテルの屋上から、
瑞祥ずいしょうを探しますがまだ見えません。
見つかり次第しだい、連絡入れます。

東雲しののめ流の霊異りょういしずまっている。
しかし受継がれた香合こうごう瑞祥ずいしょうを現すという。
それは空に差す霊光として現れるのだ。

果たして瑞祥ずいしょうは現れた。
山王さんのうからほぼ東の方角、銀座の辺りに霊光が差したのだ。

夕の空に現れた瑞祥ずいしょうを手がかりに、銀座方面へ公務電車を走らせる。
四丁目を過ぎたところで電車は停止した。

〔銀座街路〕

銀座の電車通には異様な光景が広がっていた。大通の中央に巨大な繭玉がいくつも重なり、巨大な一つの塊を為していた。黃灰色の繭玉は、むっとするような熱気を発していた。

市電は通行止めとなり、車も止まらされていた。京橋署の巡査が総出で物見遊山の市民を押さえ込んでいた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
幾つもの波形を観察します。
まだセヒラはありません――
波形の数、尋常ではないのです!

脇の路地からスーッとレンザが現れた。

【吉祥院蓮三郎】
風魔ふうまさま――
あれは何でございましょうか?
私、不思議な感覚がしたのです。
それを頼りにここへ来ました。
そうしたらあのようなものが――
さしずめ、まゆというところですか?
それも幾多いくたまゆが合わさり――
一つ一つがとても大きいですよ!

レンザがはっと目を見開いた。その視線の先、巨大な繭玉の塊から白い霧のようなものが現れているのが見えた。銀座の電車通が見る見る白くなっていく。

【吉祥院蓮三郎】
何か気配がします!
風魔さま!
お気を付け遊ばし!!

レンザの姿が白い霧のようなものにかき消されてしまった。

〔白の狭間〕

そこは時空の狭間であろうか。不透明な白い空間が広がっていた。
空間が歪んだかと思うと山郷武揚が現れた。山郷はセヒラを帯びている。

【山郷武揚】
君たちはこのような機械で、
人をさぐっていたのかね?
いや、よく出来ている。
人も波形を現すとはな――

牛頭の賛同者が飯倉いいくら技研にもいてね。
機械が示してくれたんだ。
ひときわ目立つ波形が二つ――
思わぬ僥倖ぎょうこうだったよ!
一つはここにいる――
遠い過去からの繋累けいるいだ。
そしてもう一つ――
私にとっては馴染み深いものだ。

アルツケアン!
はははは、まだ残っていたとはな!
あの書生風情が大使館から持ち出し、
三宅坂みやけざかを下っていた――
さっそく迎えの車を用意したよ。
今宵こよいはやけに冷え込む。
歩くと風邪を引くからね!

一瞬、周囲が白く輝いた。

【山郷武揚】
北支の隕石いんせき月詠つくよみ麗華れいかを満たした。
人の役に立てて実に嬉しい限りだ。
達成感は空虚くうきょ感をもたらす――
私の中に小さな穴が空いてね。
それをめてみよう、そう考えた。
はからずとも私は導かれた。

アルツケアン――
私のために残っていたのだよ、
私を待ってくれていたのだ。
これをなんとかしないと、
万能の石に申し訳なくてね!
君もそう思うだろう?
私は僥倖ぎょうこうを得たのだよ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし!!
尋常じんじょうではないセヒラです、
最大限の警戒を!!
【山郷武揚】
おやおや、こんなところにまで!
技術はける――
しかし人生はかくも短い!

《バトル》

山郷は風魔を見ている。しかしその視線はもはや風魔を捉えてはいなかった。

【山郷武揚】
見てくれ!
第五齢の熟蚕じゅくさん相成あいなった!
じき排尿するぞ!
排尿が終わると吐糸としを始める。
愈々、営繭えいけんに取りかかるのだ!!
さぁ、私をまぶしに収めてくれないか。
上蔟じょうぞくが終わると、吐糸を始めるぞ。
私は完成の域にあるのだ――

一瞬、周囲が白く眩しく輝いた。

【山郷武揚】
何だ? どうした?
私は……これは……
又昔またむかし? 赤熟せきじゅく? 小石丸――

違うのか!!
――かいこの種類は何だ?
これは……家蚕かさんではないのか!

再びの輝き――

【山郷武揚】
まさか……
北支の柞蚕さくさん――
好文海ハオウェンハイの作った白黄斑山繭しろきまだらやままゆなのか!

はぁはぁはぁ~
全滅したのではなかったのか――
私の持ち込んだかびで。

ウアハハハハ~
そうだよ、斑僵病まだらきょうびょうで全滅だぁ~
ハオ柞蚕さくさんは全滅だぁ~

周囲が白く輝いた後、真っ暗になった。
暗闇の中で山郷がもがいている。しかしその声はは聞こえない。山郷は強烈な幻覚におそわれていたのだ。
その幻覚は現実に一端いったんあらわした。
山郷は口から大量の糸を吐いたのだった。吐糸は果てることなく続いた。

【吉祥院蓮三郎】
ひゃぁ~
大変でございます!
黄色い糸がそこいら中に!!

【着信 帆村魯公】
風魔ふうまよ、山郷やまごうはアストラル化した。
レンザが見た糸は幻覚だぞ。
【着信 喪神梨央】
兄さん、銀座通ですが、
もうじき通行止めを解除します。
近くに虹人こうじんさんらしき波形も……
先程までは日劇前で確認……
今は波形は不安定ですが、
通行戻る前に急いで下さい!

〔日劇前〕

人の姿のない日劇前に虹人がいた。
虹人は白い光をまとっている。風魔に並ぶレンザが一歩踏み出した。

【吉祥院蓮三郎】
なんとなくこの辺りではと――
私、最近、えてきております。

虹人さまに古よりの繋累けいるいが及ぶと?
――私にはまだのように見えます。
さしずめ私は及び損ねた存在――
それゆえ、よく分かるのです。
まだ及んではおりません。

虹人を包む光が一瞬だけ大きく広がった。光は虹人の内側をも照らすかのようだった。

【吉祥院蓮三郎】
何でしょうか?
【帆村虹人】
やぁ、風魔!
すっかり審神者さにわのなりが板についた。
自分でもそう思うだろ?
今通う道場は目黒だよね?
競馬場跡近くの目黒不動だね。
省線駅から東横乗合を使うんだろ?
兄貴は目黄道場も開くって――
小松川区、荒川の西岸だよ。
総武本線の平井が最寄りだって。
目黄道場が開かれたら、
僕はそっちに通うことになりそうだ。
ちょっと遠いんだけど――
赤坂山王さんのうに特務機関を作る話も――
そうなれば、風魔、
お前と一緒になれるのかな?

虹人は相変わらず白い光の中にいる。

【吉祥院蓮三郎】
これは少し過去の話のようです。
時間が巻き戻ったみたいです。

虹人を包む光が大きく揺らいだ。

【吉祥院蓮三郎】
気を付けてください、風魔さま!
【帆村虹人】
目黄不動は府立七高女の近くだ――
高女といえばだよ、風魔、
面白い話があるんだ。

オフィーリア誌にページいて、
君影きみかげたよりをもうけることになった。
読者交流が発展するな!

虹人の光が一層の輝きを増す。

【帆村虹人】
――鈴蘭すずらんの子たち、
みんな僕のことを、
シロカネコウと呼ぶ――

虹人の周囲にセヒラが集まり始めた。その勢い、濃度ともにこれまでにないほどである。

【着信 喪神梨央】
気を付けてください!
セヒラ急上昇です!

セヒラの紫色が、先程までの白い光を追い出したかのように、虹人はすっかりセヒラに呑まれている。

【帆村虹人】
風魔には聞こえているかい?
まるで自分のことのように――
この言葉が僕をめぐるんだ。

全魔域パンデモニアムはルシファーの城府、
かの輝ける星をサタンにたくらべて、
かく呼べる――

虹人の声が遠ざかり、やがて周囲から光が失せた。
真っ白な空間に一台のラヂオがある。
ノイズ混じりの声が聴こえる――

安寧あんねいですか? 安寧あんねいですか?
――皆さま、どなたも、安寧あんねいですか?

淀橋区・東洋ホテル――
山梨からの上京時、山郷武揚の定宿である。山郷は甲府市内で生糸きいと商を営んでいる。屋号は山郷絹糸けんしであった。

【山郷武揚】
ついに興亜撚糸ねんしとの商談が決まった。
これで念願ねんがんかなった――
私たちの努力がむくわれたのだ。

今夜は泊まらずに夜行で帰ろう。
朝の四時頃には甲府に着くはずだ。
そのまま社で仮眠を取ればよい。
明日、朝一番に社の皆に知らせよう。
吉報きっぽうだ、皆、喜んでくれるぞ!
眠いなど言ってはおられんな!

四谷区・塩町尋常じんじょう小学校――
鈴代すずよ九頭くず風魔ふうまたちの出身校だ。
この春、音楽訓導くんどうとして赴任ふにんした柴崎周しばさきあまね。五月の合唱会に向けて練習に余念よねんがない。
毎年、唱歌夏は来ぬが選ばれる。

【柴崎周】
はなの 匂う垣根かきね
時鳥ほととぎす 早も来鳴きて
忍音しのびねもらす 夏は来ぬ~♪

我が胸に響くは子らの歌声だ。
伸びやかなる声は初夏の空のように、
瑞々みずみずしく、くもりのないもの――
子らの歌声を聞いていると、
私の心も洗われるようだ。
さぁ、今日も練習にはげもう!

赤坂区・料亭一繁いちしげ――
四谷荒木町の万屋よろずや御用聞ごようぎきに来ていた。万屋よろずやは屋号を木曽屋きそやという。酒や乾物かんぶつも扱う大店おおだなである。
小森こもり時夫ときおは木曽屋の番頭ばんとうであった。

【小森時夫】
一繁いちしげさんで政治家の壮行会があると。
麦酒ビールが二十ダースとは大注文おおちゅうもんだな!
きっと親爺おやっさん、喜ぶぞ!
確か日本平世党の政治家だと――
春はあけぼののような穏やかな世の中は、
平世党のおかげだなぁ……

いけない、いけない、いけないぞ!
塩町の如月きさらぎさん宅に向かわないと。
如月きさらぎさんは木曽屋の大得意だしな!

京都市伏見区・墨染すみぞめ――
輜重しちょう兵営第十六大隊の隊附中尉、鬼龍きりゅう豪人たけと
士官室の窓辺に置いた机に月光が差す。その灯りを得て、鬼龍は手紙をしたためている。西陣にしじん商家の娘、小原時子に宛てである――

【鬼龍豪人】
もうじき中秋の名月ですね。
今年は九月十二日だそうです――
来週の木曜日になります。昨年、君と嵐山で拝観はいかんした秋月しゅうげつは、今も私の心を照らしています。いささかのかげりを含ませた物憂ものうげな光――
なげけとて 月やは物を思はする 
かこち顔なる わが涙かな――
西行法師の歌を君に贈ります。豪人

日本橋区・興亜百貨店――
バンカツこと坂東勝一郎の読書会が開かれる。バンカツとは帆村ほむら虹人こうじんのペンネームだ。冒険少年年末号に六十八ページにわたり、書き下ろしの冒険小説が掲載けいさいされるのだ。

【帆村虹人】
南海の蒼風そうふうは構想二年の大作だ。
海賊に育てられた少年が成長し、
海の軍閥ぐんばつを率いる話だ。
波高い満剌加マラッカの海を舞台に、
海賊や賊軍相手に戦いを繰り広げ、
やがて海の支配者になっていく――

話は今日の読書会で初めて披露ひろうする。
先月号にその案内が載ったが、
わずか三日で予約は埋まったそうだ。

麻布あざぶ区・麻布あざぶ市兵衛いちべえ町――
聖宮ひじりのみや邸に植木職人新山眞にいやままことの姿があった。
東京電気通信工業を休職中の新山は、陸軍登戸のぼりと研究所の依頼いらいでく号兵器開発のかたわら、植木屋松巧まつこうの職人として働いていた――

〔聖宮邸庭〕

白い霧に覆われた宮邸の庭。垣根の低木を選定していた庭師が立ち上がりこちらに来た。庭に姿を見せた風魔に気が付いたのだ。

【新山眞】
おうちの方でいらっしゃいますか?
――私、植木屋です。
いやぁ、今日は五月晴れですな!
梅雨なのに五月とはこれ如何いかに?
ははは、旧暦ですよ、旧暦。
旧暦では梅雨は五月だったのです。
梅雨の合間の晴れを五月晴れ――
今日みたいな日和ひよりのことですね。

今日の剪定せんていはほぼ終わりました。
久しぶりに社に顔でも出しますか。
はは、こう見えても技術屋なんです。

突然、辺りが紫色に変わった。セヒラに満たされようとしているのだ。
そこへバールが現れた。バールは風魔をまっすぐ見て言う。

【バール】
ここに長居は無用だニャ!
すごく危険だニャ!
【バールの帽子】
ゲロゲロ、ここには何もない、
喜びも悲しみも、愛も憎しみも、
何も何もないゲロよ!
【バールの帽子背後】
無限に広がる虚無きょむの世界じゃよ。
皆、本心を押し殺して暮らし、
そのうち本心さえなくなった世界だ。
【バールの帽子】
誰もがうわつらだけで生きているゲロ、
早くこんなところからずらかるゲロ!
【バール】
ん?
誰か来るニャ!
風魔、気を付けるニャ!

邸の方から聖宮がやって来た。

【聖宮成樹】
何か騒がしいですが――
どうかされましたか?

その時である、白い霧が一気に晴れて明るい庭となった。

【新山眞】
喪神さん!
――ここは……
私は……何をしているでしょうか?
――この庭で……

【聖宮成樹】
――
――喪神……さん?

一瞬、世界は白い霧に包まれかけた。しかしすぐに晴れる。

【聖宮成樹】
喪神さん!
ご公務でいらっしゃいますか?

周りの光景が滲んで消えた。
薄暗闇の中に風魔は立っている。
不意に声がした。

【???】
風魔――
私よ、淑子としこよ。
今、あなたを近くに感じるわ。

風魔――
あなたに会いたいわ……

風魔は声の方へと歩き出した。
そこへバールが現れた。

【バール】
風魔、耳を貸すんじゃないニャ!
さぁ、事変の世界に戻るニャ!

風魔は闇に呑まれてしまった。

1935年12月26日未明――
愈々いよいよ、新しい天地が現れようとしていた。それは柴崎が求めて止まなかった混沌カオスの世界であった。

あらゆるものが不整合に融合し、歪み、軋んだ音を立てている世界であった。
それこそが悪魔の望む世界なのである――

しかしそこにもう一つの力学が作用して、二つの世界は弾かれようとしていた。
その中央に姿を見せるのが虚無の世界であった。綾部研究員が言及した世界だ。

【着信 喪神梨央】
兄さん!
同じ場所に三つの波形があります!
――兄さんが立っている場所です!
これだと兄さんが三人いる、
そういうことになってしまいます!
ドッペルゲンガーではありません!

【着信 新山眞】
三本の世界軸が接近している、
どうもそのようです。
混沌世界、虚無世界、そして現世――

一本に合わさるのでしょうか?
それとも――

再び周囲から光が失われた。
3つの世界の狭間に吸われたかのように。

そこに虹人がいた。
風魔を見据えるその目は歓喜に輝いている。

【シロカネコウ】
長い間、眠っていたワ!
十年、いや二十年……
その前からすると、もっとヨ!

お前が私を待っている人なの?
そうぢゃないのか知ら?
違うならどうして此処ここに居るの?
待っていたんでしょ?
さっきまでの人は、
すっかり居なくなっちゃったワ。
だからぐに繋がるのヨ!

あら、嬉しかないの?
嬉しいはずヨ、屹度きっと
ほら、私ヨ、見て、見て、見て!!

《バトル》

【シロカネコウ】
やっとね!
やっとよ……
随分と長かったワ!

星の夜に大君ルシファーは昇りゆく
その暗の統御とうぎょあぐむんで 
雲の半ばにおおはれた廻球かいきゅうの上に

魔は揺らぎゆく

虹人の体から色が失われた。
そして不自然な姿勢でのけぞっている。その胸の辺りか真っ白に輝く気体が立ち上る。
光でもない、煙でもないそれは、やがて人の形となった。

今年、五度目の日蝕にっしょくが南極地方で発生した。

帝都にもたらされた予言は現実のものとなった。
第五の予言
世界は光と闇の天秤てんびんによって計られるであろう

第六の予言
無垢むくなる力が真の導きを為すであろう

第七の予言
日蝕ひくく明け新しき天地あめつちひらかれり

第八の予言
全地の主なる大王あらわれり

第九の予言
すべては新王のたなごころに收まるであろう

第四までの預言はついぞ語られなかった。

帝都事変を経て世界は3つに分かたれた。
事変、虚無きょむ、そして現世という世界――

予言はそのことをまさしく言い当てていた。
いつしか予言は東京黙示録と呼ばれ始めた。
それを知るごくわずかな者たちの間で。

特異点は大震災のあった1923年だった。
その時から世界軸はわずかにずれ始めていた。

ずれが愈々いよいよ極大化したのだ――

混沌世界と現世、この二つが接近し、離反したことで虚無世界が現れた。
三本の世界軸はしかし合わさることはなかった。ただそれにより、歴史は大きく巻き戻ることになる――


1904年3月17日、硫黄島いおうじま
16時30分44秒、ここに金環日蝕が始まった。その光を受け、すべての始まりとなるひとつの結晶が生まれた。

小さなケアン――

やがて光と闇の交錯する地に漆黒の穴が開いた。五分ほど続いた金環蝕の終わる時、ケアンは音もなくその穴へ吸い込まれて消えた。

二十世紀初頭の特異点から新たな歴史が始まった。そして世界軸は三本に分かたれたままである。

1904年、この歴史上の特異点から真の20世紀は始まった。再生の特異点として、後にルネサンスと呼ばれる。
やがて合わさる時まで、世界軸は三本に分かれたままである――

現世軸にも帝都はあった――

〔赤坂街路〕

赤坂街路――
電停から市電が発車するや、子どもたちが車道を駆け渡る。
市内で一斉に桜が色づき、まさに春爛漫らんまんの時季を迎えようとしていた。

時は1935年4月――
セヒラもゲートも存在しない世界――

【九頭幸則】
なんとかに潜り込めた――
近歩一きんぽいちなんて無理な相談だよな。
ま、でも習うより慣れろというからな!

尋常の同級でただ一人の軍人だ――
風魔ふうま審神者さにわ免許皆伝めんきょかいでんだと言うし。
みちは違うが、ある意味競争だな!

【如月鈴代】
山郷やまごう叔父おじ様と力を合わせて、
東雲しののめ流を護らないと――

降りた神を見極める神眼しんがん
そう簡単にはそなわることなど、
あり得ませんが!

【喪神梨央】
丹那たんなトンネルは一昨年おととしに貫通、
鉄道ダイヤが組まれたのは去年です。
去年末、省線のダイヤ大改正が――

前に淑子としこ姉さんを見舞った時は、
ダイヤ改正前でしたね。
東海道線三島駅から、
駿豆すんず鉄道で修善寺しゅぜんじに行きました。

――兄さん、姉さんがお呼びですよ。

〔溜池通〕

【喪神淑子】
待ちましてよ、風魔――

フフフ、
今日はもう稽古けいこはおしまいでしょ?
ならよかったわ、
オウルグリルでオムライスでも――

あらいいのよ、私がご馳走するわ。

〔是枝邸〕

1935年12月26日、夜――

大崎おおさき是枝これえだ邸は夜の静寂しじまに包まれていた。瑛山会えいざんかいは是枝邸の離れに本部を置いていた。
その庭先に探信儀たんしんぎはなかった。

【案じる声】
今年、ついに怪人騒動も何も
起こりませんでしたわ。
そして今日この日を迎えても――
【静かな声】
五度目の日蝕にっしょくの日が終わるまでは、
予断を許さないものでした。
この一年、いや二年、三年――
混乱極める世界が近付き、
さらにもう一つ、生まれたのです。
何もない世界が――
【案じる声】
何もない世界――
そういうのが御座いますの?
【静かな声】
所謂いわゆる虚無きょむ世界です。
私は虚無きょむ世界を垣間見た気がする――
麻布あざぶうちで……

【案じる声】
殿下、おうかがいしますが、
この写真が何か関係しますかしら?
確か興亜日報の記者が写したもの――

【静かな声】
ええ、この写真は浅草の雷門です。
ですが震災を経なかった雷門ですね。
それがあの帝都に存在したのです――
【案じる声】
大提灯おおちょうちんが下がっていますね――
震災の後は、小さな提灯が――
そのように覚えていますわ。

震災のなかった世界――
それがあの帝都にあったのですね?
それが虚無の世界――
【静かな声】
少しは顔を覗かせていたのでしょう。
ただ――
の世界は、
それ以上に混沌世界の影響を受け、
を戦わせる事態を招いた――
【案じる声】
のこの世界には――
影響は及んでいないのですか?
その、混沌からも虚無からも……
【静かな声】
少なくとも今のうちは。
次、世界軸の変動が起きるのがいつか
誰にもわかりません。

【案じる声】
殿下――
柄谷がらたに博士は達者でおいでですが、
別な世界ではやはり……
殿下の仰るようなことになっていた、
そうなのですね?
【静かな声】
それぞれの世界で、
皆、さだめのもとにあるのです。
生き死には関係なく――

私たちは帝都が、いや日本が、
歴史的に真っ当な道を進むために、
監視する必要がありそうです。
それが瑛山会えいざんかいの使命だと考えます。

今後、何が起きようとも――

6年後の1941年12月――
世界軸の日本は
太平洋戦争に突入する。