第九章 第七話 ゼーラム525

〔山王機関本部〕

その朝、機関本部には新山眞にいやままことの姿があった。
芽府めふ須斗夫すとおが語ったという暗号が解け、いの一番で持参したのだった。

【喪神梨央】
兄さん!
新山さんが、エニグマ暗号を
解読されたんですよ!
【新山眞】
いやいや、正面から向き合って、
なんとかなる相手ではありません。
技研にはエニグマの試作機があり、
それを分解して研究はしました。
組み立て直しも大変でした。
ようやく仕組みは理解しましたが、
暗号はさっぱり解読できません。
【喪神梨央】
新山さんでも無理だったんですか?
【新山眞】
無理も無理、大無理ですよ!
なにせ欧文文字の組み合わせ、
まさに天文学的です!
ジョという単位です。

【喪神梨央】
ジョ?
それって大きいんですか?
初めて聞きました、その単位――
【新山眞】
億、兆、けいがい、その次です。
二十六の階乗なわけですが、
四千兆かける一千億の値です。
それだけの組み合わせがある――
しかも日鍵といって、
毎日、暗号鍵あんごうかぎが変更されるんです。
総当りで解くなんて無理な相談――
【喪神梨央】
それじゃ新山さんは、
どうやって解読を?
【新山眞】
日鍵の一部はわかっています。
芽府めふ須斗夫すとおの語る最初の英字三文字、
それが日鍵のひとつです。
あとはラヂオで送られるのです。
実は日本時間の朝八時少し前に、
独逸ドイツ語の短波放送が流れるのです。
放送自体、アルファベットの羅列られつ
何も意味のない放送ですが、
工作員に日鍵を伝えるもの――
参謀本部はそう見ています。
およそ千のアルファベットの、
どれかがプラグの接続を意味します。
日鍵を割り出す乱数表が、
あるのでしょう――

でもうちにもあるのです。
【喪神梨央】
え?
乱数表、お持ちなんですか?
【新山眞】
我が国には霊式れいしきヘテロヂンという、
優れた技術があります。
セヒラ歪振器わいしんきを使うのです。

ラヂオの前で通電しておくと、
あるアルファベットのところで、
奇妙な波形を現します。
その文字を覚えておき、
歪振器わいしんきを前に同じ波形が出るまで、
アルファベットを話します――
最も反応の強い
アルファベットを書き写すんです。
それがプラグの位置を示すのです。
話す時は独逸ドイツ式に、
ABCDアーベーツェーデーとやらないとダメですが。

そう言いながら新山は、和文タイプした紙を取り出した。

【喪神梨央】
アタラシキ 
アメツチ
ヒラカレリ
【新山眞】
新しき天地あめつちひらかれり――
この前の言葉は、
日蝕ひくけ――
【喪神梨央】
つまり日蝕にっしょくの日の明け方、
新しい天地あめつち……
――新山さん!
【新山眞】
日蝕にっしょくは十二月二十六日です。
その明け方に何かが起きる――
そう読めますね!
【喪神梨央】
前日は十二月二十五日、クリスマス。
先帝祭せんていさいで祭日ですよ。
その翌朝ですね――
【新山眞】
第八の予言も解いてみます。
明朝のラヂヲ放送を待ちます。

そうそう、独逸ドイツから外交郵袋がいこうゆうたいで、
くだんのゼーラム五ニ五が届きました。
愈々いよいよですね!
【喪神梨央】
兄さん、憲兵本部に、
式部さんがお戻りです。
また予言が出るかも知れません。
公務電車、手配しますね!

〔東京憲兵隊本部〕

芽府めふ須斗夫すとおが戻り、式部も憲兵本部へ。そこで憲兵大尉からお目玉を食らっていると。風魔が山王さんのう機関の特務として介入することに。

憲兵隊本部には立哨が付く。他2名の憲兵と式部が話し込んでいた。風魔の来たのを知ると、式部は早足でやって来た。

【式部丞】
喪神さん――
お手数をおかけします。
芽府めふ須斗夫すとお君が戻ったのですが、
いつ姿を消したかもわからず、
困惑こんわくしています。
今日、憲兵から呼び出され、
やって来るとお叱りを――

喪神さんに一言、
口添くちぞえいただければと――
公務中、かたじけないです。

式部に請われ、風魔は憲兵隊玄関へ。階段にいた憲兵が話しかけてきた。

【等々力憲兵大尉】
ん?
特務中尉とは貴様か?
【池上憲兵少尉】
いくら中尉殿の公務とは言え、
民間人がこうも勝手に、
出たり入ったりするのは――
【等々力憲兵大尉】
ここは憲兵司令だ、わかるな?
泣く子も黙る――
【池上憲兵少尉】
いろいろ示しがつかない、
そういうわけであります、中尉殿。
【等々力憲兵大尉】
逃亡すら許されぬのに、
のこのこと戻ってくるとは!
憲兵もめられたものだ!
【池上憲兵少尉】
中尉殿、それにそちらの……

そのとき、式部が話に加わった。

【式部丞】
式部です。
四谷のセルパン堂の――
【池上憲兵少尉】
ああ、あなたですね!
本来は特高の領分ですが、
軍部に関係深しと憲兵が扱う事案です。
【等々力憲兵大尉】
この扱い、特例中の特例だ!
それなのに勝手は許されんぞ!
【池上憲兵少尉】
式部さん――
今後は面会願いを書いてください。
管理が厳しくなったのです。
【式部丞】
承知しました。
それでその面会願いは、
どちらにございますか?
【等々力憲兵大尉】
陸軍省一階の購買こうばい部だ、式部氏。
面会願い、書式ムの三◯八だ。
【式部丞】
面会願いは面会のたびに、
提出するのでしょうか?
【池上憲兵少尉】
規則ではそうなっています。
よろしくお願いします――

通りの方から白衣姿のドクター・ヨネダがやって来た。その顔からは血の気が失せていた。

【アレクサンダー・ヨネダ】
私は見た!
とうとう見てしまったのだ!!
うぎゃら~~~~~~

咄嗟に2名の憲兵がヨネダを捕縛した。しかしヨネダは常人離れした力で憲兵らを突き飛ばした。玄関にいた立哨は素早く左右に別れて様子をうかがう。
気丈にも式部がヨネダに声をかけた。

【式部丞】
ドクターじゃないですか!
どうされましたか?
――まだ影響が……

その声にヨネダは式部に振り返る。

【アレクサンダー・ヨネダ】
全部を見た!
何もかもだ!
オールオブオールだ!!
【式部丞】
ドクターは芽府めふ須斗夫すとお君の傍に?
彼の傍にいらっしゃったのですか?
【アレクサンダー・ヨネダ】
いなくても見えた!
私は見た!!
そうだ、見たんだ――
パンデモニアムは
ルシファーの城府、
かの輝ける星をサタンにたくらべて、
かく呼べる!!
うううううううぅ~

ヨネダの背後にセヒラが集まった。

《バトル》

【アレクサンダー・ヨネダ】
はぁはぁはぁはぁ――
星の夜に大君ルシファーは昇りゆく
その暗の統御とうぎょあぐむんで 
雲の半ばにおおはれた廻球かいきゅうの上に
魔は揺らぎゆく――

そう言うとヨネダは崩れ落ちた。

【式部丞】
何かの思念が帝都をめぐり始めた――
どうもそのようですね。

私は今の間に芽府めふ須斗夫すとお君の元へ。
また予言が語られたら、
すぐに連絡します。

喪神さん――
残念なことですが、
彩女あやめ君はもうこの世にはおりません。
肉体はあってもです。
肉体の主は千紘ちひろ――
兄の高麿たかまろは彩女君が作った人格、
その彩女君が人格の死を向かえた――

高麿たかまろを殺したのは誰でしょうか?
千紘ちひろが殺したのでしょうか?

結局、のなすがままですね。
――もしや……
あの蛭川ひるかわ博士も、
千紘ちひろに飛ばされたのかも知れません。

それでは喪神さん、私はこれで――
先日、鰍沢かじかざわという落語、
ラヂオで聴きましたよ。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
山王さんのうホテルにお戻りください。
麻美さんが帰国されました。

〔山王ホテル〕

麻美はナチ党本部褐色館ブラウネスハウスから、ゼーラム五ニ五をくすねたのである。

【聖宮成樹】
喪神さん――
麻美さんが戻られました。
もうじきここへおいでです。
【喪神梨央】
麻美さん、昨夜下関しものせき八時半の、
特急富士にお乗りでした。
【聖宮成樹】
伯林ベルリンからも鉄路でしょうね。
西伯利亞シベリア鉄道ですか――
【喪神梨央】
はい! 西伯利亞シベリア鉄道です。
――きっとお疲れでしょうね……
一週間以上の長旅です。
【聖宮成樹】
独逸ドイツから届いた電報には、
アヲニヨシとありました。
首尾よくいったということです。
【喪神梨央】
ナチ党本部からゼーラム持ち出して、
よく見つからずに済みましたね。
――麻美さん、すごい……
【聖宮成樹】
人から疑われたりしない、
天性の何かをお持ちなんでしょう。
私にはつとまりませんね……
【喪神梨央】
うふふふ……
兄さんも無理そうですわ。
あっ、麻美さんです!

ホテル玄関から優美な足取りで麻美がやって来た。

【聖宮成樹】
麻美さん!
ご苦労様でした――
【喪神梨央】
麻美さん、よくご無事で――
【麻美】
少しハラハラしましたわ――
【聖宮成樹】
何か不都合なことでもありましたか?
【麻美】
褐色館ブラウネスハウスですが、少し工事が入り、
その間、地下へは降りられず――
【聖宮成樹】
リヒャルトガルテンの間ですね?
あの部屋は地下にあります。
【麻美】
でも舞踏会ぶとうかいまでには工事も終わり、
何とか手に入れられました。
本番の日に間に合いましたわ。
【喪神梨央】
本番ということは、
練習とかするのですか?
舞踏会ぶとうかいなのに――
【麻美】
たとえ舞踏会ぶとうかいでも、
何かの手落ちがあってはいけない、
そういうことですの、ナチでは。
どの将校と踊るかまで、
すべて決められるのです。
勝手には振る舞えません。
【聖宮成樹】
いかにもナチらしいですね――
【麻美】
舞踏会ぶとうかいの前に秘密めかした
ナチ独特の儀式が行われるのです。
柘榴ざくろの板に隊員たちが、
血でルーン文字を書くのです。
蝋燭ろうそくだけの明かりを頼りに――
【喪神梨央】
ルーン文字って?
【聖宮成樹】
北欧に伝わる古代文字ですよ。
彼らは古代アーリア人が、
北方のエデンの園からやってきた、
そう信じ込んでいますからね。
残された野卑やひな者がけものとの間に
もうけたのがアーリア人以外の人種だ、
その考えに凝り固まっています。
【喪神梨央】
けものとって……
なんかすごいですね――
日本人など相手じゃない感じですね。
【麻美】
でも日本人には豊かな神性が宿る、
そういう考えを持つ人もいます。
シュタインベルク中将も――
【聖宮成樹】
あはは……

それで麻美さん、
ゼーラムはどうされましたか?
【麻美】
外交郵袋がいこうゆうたいで送りました。
飯倉技研いいくらぎけんでよろしかったですね?
容器のかぎは私が持ちます。
郵袋ゆうたい、もう着いているはずです――
【聖宮成樹】
それでは多加美たかみ宮司に連絡し、
さっそく向かって頂きましょう。
【喪神梨央】
多加美たかみ宮司の警護は要りますか?
【聖宮成樹】
まだ鏡は霊性を現しません。
むしろ目立たないほうがいいですね。
【喪神梨央】
承知しました、殿下。
私は本部で探信たんしんしています。
【聖宮成樹】
危険なのは鏡が霊性を取り戻した時、
その時が最も危険です。
【喪神梨央】
おこたりなく探信たんしんします!
公務電車、手配します!

〔飯倉技研〕

飯倉技研の前では新山眞が待ち構えていた。

【新山眞】
殿下!
やはり例のものは本物なのですね?
【聖宮成樹】
新山さん、愈々いよいよですよ!
麻美さんがナチ本部で手に入れ、
外交郵袋がいこうゆうたいで送られたのです。
【新山眞】
特製の容器に収まっているせいか、
セヒラ歪振器わいしんきを近づけても、
まったく反応しません。
でも間違いなく、
ゼーラム五ニ五なのですね――
【麻美】
リヒャルトガルテンの間で、
手に入れたものです。
鍵は私が――
【聖宮成樹】
さて、多加美たかみ宮司は、
もうおいでになりましたか?
【新山眞】
ええ、中でお待ちです。
参りましょう。

そう言うと新山はスタスタ歩き出した。麻美、聖宮、そして風魔も後に続いた。

〔飯倉技研ホール〕

飯倉技研のホールには多加美宮司が一同を待っていた。

【多加美宮司】
真名井まない真鏡しんきょうは無事です、
ここにあります――
【聖宮成樹】
分かりました――
麻美さん、容器の鍵を――
鍵を新山さんにお渡しください。
【麻美】
はい……
【聖宮成樹】
新山さん、こちらには、
隔離かくりして容器を扱える設備、
整っているのですか?
【新山眞】
先日、釣鐘つりがねのことをうかがって以来、
ゼーラムを扱うことを前提に、
いろいろ整えてきました。
今据え付けてある気密筐体きみつきょうたいは、
〇・一ピーピーエムさえ通しません。
またアルミ蒸着じょうちゃくの護りがあります。
【聖宮成樹】
なるほど!
それでは早速お願いします。

聖宮にうながされ、新山は宮司ぐうじから鏡を預かり、奥の実験室へと向かった。

【多加美宮司】
真名井まない真鏡しんきょうに霊力が戻れば、
古式東雲しののめ流がおこる――
正しい継承者に継がれるのです。
私は如月きさらぎ鈴代すずよさんに知らせます。
宗家そうけとして準備もあるでしょう。
【聖宮成樹】
よろしくお願いします、宮司ぐうじ

宮司は聖宮に深々を頭を下げ、ホールを出ていった。

【聖宮成樹】
ゼーラムを塗布とふして、
鏡が霊性を宿すには、
多少の時間が必要でしょう。

喪神さん、
山王さんのうホテルで話しませんか?
相談したいことがあります。
麻美さんもご一緒ください。
【麻美】
承知しました。
参りましょう。

〔山王ホテルロビー〕

聖宮が話があるというのは、山王さんのう機関にもたらされた報告書の件だった。六十ページを越す立派な報告書である。
報告書には山王さんのう機関をスパイする組織が、まことしやかに示されていた。興亜貿易をかくみのにする有澤機関ありさわきかんである。

ロビーの奥では梨央と魯公が一行を迎えた。聖宮を認めると魯公はお辞儀をして前に進み出た。

【帆村魯公】
殿下のお耳にも入っておりましたか?
【聖宮成樹】
八分課ハチブンの情報は、
いち早く届きます。
【喪神梨央】
参謀本部の八分課ハチブンって、
市民から怪人情報を集める、
そういうところじゃないのですか?
【帆村魯公】
表向きはな。
その実、寄せられた情報を分析して、
ときに深く探りを入れるのじゃよ。
【喪神梨央】
それじゃスパイみたいなんですね。
【帆村魯公】
こら、大きな声で――
で、山王さんのう機関の何を
スパイするのですかな――
【聖宮成樹】
山王さんのう機関の活動自体は、
軍幹部はおよそ知っているはずです。
ただ釣鐘つりがねのことを除いては。
【喪神梨央】
帝都満洲のことも、
ほとんどは知られていないはずです。
【聖宮成樹】
そのスパイとやらは、
有澤機関ありさわきかんという特務機関で、
参謀本部第六課の所轄しょかつだそうです。
【帆村魯公】
第六は欧州課ですな――
【聖宮成樹】
有澤というのは、
おそらく有澤盛隆ありさわもりたか中将ですね。
前駐独武官だった人物です。
有澤中将について、
少し調べてみます。
ところで報告書はお持ちですか?

聖宮ひじりのみやの問いに魯公ろこうは報告書を見せた。そのとき、麻美が素早く前に踏み出した。

【麻美】
その報告書――
甘い香りがします。
――ベラドンナの香りです。
【聖宮成樹】
ベラドンナ……
それはまた――

【喪神梨央】
殿下、魔法です、
魔法使いが用いる膏薬こうやくに、
ベラドンナが使われるのです。
この帝都では仮構かこうを為すのに、
ベラドンナが使われていると――
青山せいざんホテルや憲兵大隊がそうです。
【聖宮成樹】
よくそこまで調べが付きましたね!
――すると、この報告書は?
これも偽物ですか?
【麻美】
わかりません――
まるでませたように香ります。

【喪神梨央】
麻美さん――
夢玄器むげんきのぞくと何か見えませんか?
報告書の本当の中身が――
【麻美】
夢玄器むげんきならありますが、
今はホテルです。

【喪神梨央】
ゼットー博士のを借りましょう!
隊長、ゼットー博士にお願いを――
夢玄器むげんきをお借りしたいのです。
【帆村魯公】
うむ、悪い考えじゃないな。
行きましょうか、麻美さん。
博士は調整室のはずですぞ。

麻美と魯公は課に向かうべくフロントの脇を抜けて行った。

【喪神梨央】
興亜貿易って……
どこかで聞きましたね――
えーっと……
そうだ!
多加美たかみ宮司が京都にたれる時、
東京駅で会った人です。
モートルを扱うとか――
影森愁一かげもりしゅういちという人ですね。
一時いっとき幸則ゆきのりさんのお目付け役――
でも結局は正体不明でした。

あと、新文民社のメンバーFは、
影森愁一かげもりしゅういちを尾行して
拉致らちされた――
新文民社で名簿作りを進め、
帝大の学生は間諜かんちょうだと
怪しんでいた、
それも同じ影森愁一かげもりしゅういちですよ。
【聖宮成樹】
なるほど――
公務記録にいろいろ顔を出す、
その人物……
スパイにしては目立ちすぎますね。
まるで陽動ようどうしようとするかのよう、
そうじゃありませんか?
【喪神梨央】
そうですね――
人は音の鳴る方を向くと言いますし。
【聖宮成樹】
いいことを言いますね。
普通スパイは組になるといいます。
その影森かげもりの他にまだいるのでは?

先ほどの報告書、
仮構かこうの産物だとしても、
本物を使う必要があったようですね。
【喪神梨央】
――というと……
どういうことですか、殿下?
【聖宮成樹】
本物の報告書を用いて、
一部を書き換え真実を伝える――
ある種の美学さえ感じます。

有澤ありさわ中将のこと、
わかりましたら連絡を入れます。

聖宮は軽く会釈をしてホテルロビーを出て行った。

【喪神梨央】
こうして兄さんと二人になるの、
久しぶりですね――

先ほど虹人こうじんさんから連絡があり、
今日は紀伊国坂界隈きのくにざかかいわいに出るって。
寄ってあげればどうですか?

〔紀伊国坂〕

紀伊国坂の長塀の前に虹人とユーゲントがいた。

【帆村虹人】
やぁ風魔――
人生という熱病は、
一向いっこうに回復するきざしを見せないよ。
【鳴滝丸】
美少年倶楽部では、
お見苦しいところを――
ヒュアキントス役の鳴滝丸です。
ヘル松ヶ崎はあの寸劇がお気に入り、
いつもやらされるのです。
【帆村虹人】
鳴滝丸――
でも君は寸劇はもうやらないと……
今さっき、そう言っていたよ!
【鳴滝丸】
やらないというか、
もうできそうもないんだ――
【帆村虹人】
自律係数が下がったりしたのかい?
ああしたことは自律的にする、
そう言っていたよね――
【鳴滝丸】
僕は……僕は……
【帆村虹人】
どうしたんだい、
具合でも悪いんじゃないかい?
【鳴滝丸】
僕は……僕は……
あああ、体が言うことを聞かない!

別のユーゲントが走り込んできた。その眼は虚ろである。

【嵯峨野丸】
六、ニ◯フタマル――シチ一五ヒトゴ
洗面、寝台整理、朝食!
七、ニ◯フタマル
国旗掲揚けいよう
七、三◯サンマル
仕事場へ出発!
七、四五――一◯ヒトマル◯◯マルマル
労働奉仕!

僕たちの時間は、正確無比!
僕たちの時間を奪う者は許せない!!

《バトル》

【嵯峨野丸】
一九、一五――一九、一五、
掃除、修繕しゅうぜん、洗濯!
ニ◯フタマル、一五――ニ一、四五、
唱歌、演説、余興!
僕たちは……初期化イニツァリジオロンされた!

甲高い声を上げた嵯峨野丸は、そのまま走り去った。

【帆村虹人】
鳴滝丸も駆け出したよ――
まったく僕を無視してね!
一体、何があったんだ?

――このところ、連中は、
僕の指示をあまり聞かなくなって、
昨日なんか同じ指示を三度も出した。

外から干渉かんしょうを受けているようだ。
それ以外に考えられないよ。
【着信 喪神梨央】
金ノ七号帥士きんのしちごうすいし――
特に不穏ふおんなセヒラはありません。

今の着信音は虹人の無線からであった。

【帆村虹人】
お、何だ、僕の無線?
二人の無線が同時に受信しているな。
嵯峨野さがの丸は初期化とか言っていたよ!
【着信 喪神梨央】
一旦初期化した時、
陸軍幼年学校の時間割の思念が、
流れ込んだようです。
【帆村虹人】
そんな思念まであるのか!
【着信 喪神梨央】
怪人川柳や猟奇歌だけではなく、
普通のことも表出しているようです。
【帆村虹人】
この様子じゃ、
連中を指揮するのは難しそうだな。
アプドロックは時間とともに、
揮発きはつする性質がある。
でも今のは揮発きはつじゃないな――

初期化され、
その状態のまま凍結されている。
よほどの干渉があるに違いない。
僕はアーネンエルベまで戻るよ。
また顔を出してくれ、風魔。

虹人は嵯峨野丸の走り去った方へ歩いて行った。

【着信 喪神梨央】
先ほどから、
飯倉いいくら技研でセヒラを観測します。
ただ、値は低いままですが――
念のため、巡視パトロールお願いできますか?
異常なければ帰還してください。

〔飯倉技研ホール〕

【新山眞】
喪神さん――
今、山王さんのう機関に
連絡したところで――
早かったですね!
ゼーラムの塗布とふは無事終わりました。
あの鏡が霊性を現すのは、
もう少し掛かりそうです――
しかし不思議です――

気密筐体きみつきょうたいの中に鏡を置き、容器を開けると、ゼーラム五ニ五と思しき臙脂えんじ色の煙が、容器の口から立ち上ったという。
そしてその煙はしばらく容器の上に漂い、不意に鏡の表面に集まったのだ。
みるみる鏡が色に染まったという――

【新山眞】
まるで煙が鏡の存在を知って、
自らを鏡に塗布とふしたようでした。
あの煙には意志があるみたいで、
見ていて妙な気持ちになりました――
気密筐体きみつきょうたいから煙が完全に消えれば、
鏡は完成かと思います。
それを見届け、連絡を入れますね。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
セヒラを観測するのは、
飯倉いいくら技研の裏手です。
まわっていただけますか?

飯倉いいくら技研の裏手に伸びる路地――
聖宮ひじりのみや邸を含む東久邇宮邸ひがしくにのみやていへいが伸びる。
元は静寛院宮邸せいかんいんのみやてい皇女和宮こうじょかずのみやが暮らした地だ。
右手、御組坂おくみさかの途中には、作家永井荷風ながいかふう偏奇館へんきかんが建つ。

【着信 喪神梨央】
その角のところです、
セヒラ、高まっています!
注意してください!

【XLのアストラル】
今は……何月ですか……
もう時間が経ちましたか……
麻美マーメイ、心配していたかしら……
私……麻布あざぶの張ホテルから、
荷風かふう先生の偏奇館へんきかんに寄り、
その後、ここへ来たのです。
飯倉いいくら技研という研究所の方も、
荷風かふう先生の偏奇館へんきかんにおいででした。
あと一人、
その方が道を開いてくれました。
邪魔する者を除いたのです。

【着信 喪神梨央】
もしかして……
蘭暁梅ラン・シャオメイさんかも知れません!
イニシャルXL――

【XLのアストラル】
私、母の形見の手鏡を持ち、
日本へ舞台挨拶ぶたいあいさつに来ました。
時を継ぐ日、鏡で身を写すように――
そう教えられていたのです。
日本へ発つ二日前、
母が夢に現れ告げました――
暁梅シャオメイ、さぁ、時を繋ぐのよ――
はっとして目が覚め、
鏡を旅行鞄りょこうかばんに収めました。

私がここに来てから、
時間が経ちましたか――
私にはわからないのです――
でも時は繋がっているのですね、
すべてはうまくいったのですね――
でも……ここはまだ不安定なのでは?
そうではありませんか?
気を付けてください、
何かがやって来ます!
――すぐそこです!!

XLのアストラルが消え、ほぼ同じ場所に別の大型アストラルが現れた。それは苛立つかのように蠢き続けている。

妖帝ヤオディ残滓ざんしのアストラル】
時を繋いだつもりでいるのか?
お前の時は途絶えたままだ。
自分から目をそむけるな!!

《バトル》

妖帝ヤオディ残滓ざんしのアストラル】
時の流れなど、
いつでも断ち切ってやる!
私は時を越えた存在なのだ!

大型アストラルは霧散した。暫くして、先程のアストラルが現れた。

【XLのアストラル】
よかった!
あなたが退けてくれたのですね!

でも五月は別の方がお力を――
邪悪な存在をはらってくださいました。
その方にお礼を言い忘れました。
今となっては、
顔も何も思い出せません。
すべてが白いもやの中です――

そう言い終えると、XLアストラルは薄くなり、やがて消えた。

【着信 喪神梨央】
辺りからセヒラの値、
すっかり消えました!
その場所で蘭暁梅ラン・シャオメイさんが、
神獣の見立てを受けたのですね。
麻美さんと一緒に来日され、
蘭暁梅ラン・シャオメイさん、行方知れずに――
そのときのことだと思います。

わからないのは形見の手鏡で、
蘭暁梅ラン・シャオメイさんを写したのが
誰なのか――
風水師なのかさえわかりません。

新山さんがご存知かも知れません。
機関本部へお戻りください。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい――
兄さん――

麻美さん、夢玄器むげんき使って
報告書をご覧になったんです。
報告書は本物でした。
でも中味が別物だったのです。

こんな内容でした――
満洲にける麻袋またい調査報告書――
そう言うんです。

大同だいどう三年だから去年のですね。
一、黄麻こうまに就いて
ニ、麻袋またいの種別
三、縫糸ほうし

そのような項目がありました。
麻美さんによると、
書いてある字だけが違ったそうです。
【帆村魯公】
おう、風魔――
【喪神梨央】
あっ、隊長!
式部さん、捕まりましたか?
【帆村魯公】
いや、まだだ。
例の芽府めふ須斗夫すとおだが、
また予言を吐いた――
今回は暗号じゃなく、
普通の言葉でだ。
式部氏が電報を送ってきたのだ。
第八の予言、
全地の主なる――
それだけだ。
【喪神梨央】
第八はもうひとつありました。
そちらはエニグマ暗号です。
【帆村魯公】
暗号が解読できれば、
二つを合わせて一本になるな。
明日、新山氏がラヂオを聴く。
【喪神梨央】
例の独逸ドイツ語放送ですね――
【帆村魯公】
そうだ、それで解読できるはずだ。
【喪神梨央】
明日を待ちましょう――
兄さん、蘭暁梅ラン・シャオメイさんのこと、
新山さんは何も覚えていないと。
【帆村魯公】
わしが代わりに聞いたんじゃが、
永井荷風ながいかふう先生にも会ったことがない、
そういうことなんじゃよ。
もしかするとブンヤの弟かも知れん。
作家先生ともコネがあるだろうから。
【喪神梨央】
それにしても式部さん、
急にいなくなるなんて――
どうされたんでしょうか?

謎の霊的物質、ゼーラム五ニ五を塗布とふして、真名井まない真鏡しんきょうに霊性の現れるのを待つ。
そして予言は
日蝕にっしょくの日の異変を告げる――
山王さんのう機関を探る
スパイ組織がある――
その怪情報が不吉な旋律せんりつを奏でていた。