『クーロンズ・ゲートif』

~イントロダクション~

 まぶしい!
 そう感じて眼を開くと、目の上に一個の裸電球があった。光源からの光がじかに目を刺す。直後に、ズキンと頭の芯が痛んだ。いつもの偏頭痛へんずつうか…
まぎれもなく、不快さをまとった目覚めだった。だが、何よりも私をおとしめたのは、今、自分が見知らぬ路地裏に横たわっているということだ。あたりは薄暗く、鼻を突く腐臭や甘酸っぱい何か得体えたいのしれない臭いに満ちた路地裏。それに湿度もやけに高い。空気が重くのしかかってくるようだ。どこからともなく、ブーンとエアコンの室外機のうなるような音がする。肩や腰に感じる鈍い痛みからすると、長い時間、横たわっていたようだ。
 昨夜遅く、九龍クーロンサイドのホテルに戻って…そこまではしっかりと覚えている。ちょうど日付の変わろうとする時刻だった。フロント係のチャーミングな女性が私を見て微笑んでくれた。こんな遅いのに係員がフロント業務にあたっているなんてと不思議に思ったのを覚えている。その後、確かエレベーターに乗って…いや、ロビー奥にあるバーにおもむいたのか…すでにそのあたりの記憶は曖昧になっていた。
 そのホテルのバーはヴィクトリア朝期の調度品ちょうどひんでまとめられていて、いかにもイギリス統治下の香港ホンコンしのばせる。だが、香港ホンコン返還からすでに十八年。香港ホンコンのあらゆる場所からイギリス統治時代の名残なごりは薄れつつあった。
 この滞在中、ホテルのバーに行ったのは確かなのだが、それが昨夜だったかどうかの確証がなかった。いずれにせよ、私は今、こうして薄汚い路地に横たわっている。
さては強盗にでもったかと思ったが、体のどこにも痛むようなところはなかった。何者かに襲われた痕跡こんせきはなかったのだ。ただ、自分の体を見回して、昨日、着ていた服はそのままながら、くつを履いていないことに気付いた。くつのあるべきところにチャコールグレーのソックスをいた足があった。ソックス姿でいるなどなんとも頼りなげである。
 ポケットをまさぐるも財布も何もなかった。ただしりポケットに硬いものがあり、腰を浮かしてポケットからそれを引き出すと、はたして古い形式の携帯電話であった。もちろん私の物ではない。
私のくつはどこだ…

 その時である。手にした携帯電話がブブンと小刻みに振動した。二つ折りの端末を開くと、そこに短いメッセージがあった。

 起きたら来い
 質屋の角
 古靴屋

 メッセージはそれだけだった。それにしても…
 古靴ふるぐつ屋?

 いぶかしく思いながら、私は上体をさらに起こして周りを見渡した。
 ちょうど路地の出口にあたる場所に「押」という看板が見える。そこが質屋だろう。私は靴下くつしただけの足裏に石畳いしだたみのゴツゴツした感触を覚えながら、古靴ふるぐつ屋があるというかどの質屋を目指した。
 古靴ふるぐつ屋は、確かにそこにあった。質屋の店先を借りるようにして、赤、青、白のトリコロールカラーのビニールシートをいた上にいくつもの古びたくつを並べている。中には片方しかないくつもある。ほんとうにこれらは売り物なのか?
 店主は片耳に薄茶色のイヤホンを突っ込み、背中を丸めてパイプチェアの下に置いたポータブルラジオを聞いていた。私が近づくのを察して面倒臭げな表情を浮かべて目を見上げた。
「なんだ、あんた? ここらじゃ見ない顔だな…この町に何の用があるんだ?」
 私はどう答えていいものか躊躇ちゅうちょした。すると古靴ふるぐつ屋は急に得意そうな表情を浮かべて言う。
「ははーん、あんたは、さっきの、アレだな! そうだろ、陽界ようかいから落ちてきたっていうやつだろ! 図星ずぼしだな、これは! ひゃっはっはー」
 古靴ふるぐつ屋はひとりごちて、頓狂とんきょうな声を上げた。

 陽界ようかい
 落ちてきた?

 不安げに視線を泳がす私に向かって、古靴ふるぐつ屋がさらにたたみかける。
「あんた、ここがどこだかわかってないだろ? 無理もないさ、ここは夜の町、そう呼ばれてるんだ。待てど暮らせど、一向に朝が来ない。それもそのはず…この町は陰界いんかいにあるんだ。おっと、俺が 自慢気じまんげに話してると思ったら大間違いだぞ。自慢なんかするわけないだろ…」
 古靴ふるぐつ屋は短くため息をついた。そして続けた。
「わかるか、あんた、陰界いんかいだぞ、いんよういんの方だ。俺たちは普通にこの町で暮らしてたんだ、町の方が勝手に陰界いんかいになりやがった! それ以来、この町は夜の世界をずっと漂ってるんだ」
 話を聞きながら、私は自分の身の上に思いを巡らせた。つまりこういうことだ…私は自分でも気づかないうちに、この古靴ふるぐつ屋が言う陰界いんかいとやらにやって来てしまったのだ。今となっては九龍クーロンサイドのあのホテルの小さな部屋すら懐かしい。そんな私を見て古靴ふるぐつ屋は言った。
「なんだ、急に陽界面ようかいづらして? ああ~ん? 元の世界に戻りたいってか? それはどうかな? そもそも、あんた、くつ履いてないじゃないか!」
 そう言われ、私は手にしていた携帯電話のメール画面を見せた。画面を見て、古靴屋は合点がてんしたようだ。
「嘘と真のあいだにはポッカリと穴が開いてるってな! だったら、ほら、これだよ、あんたのくつ、こいつを返すよ。このくつは新しすぎて売れない、ちっとも売れる気がしない。もっともこれを売るつもりはないけどな。教えてやるよ、売れるくつというのは正真正銘しょうしんしょうめい古靴ふるぐつのことだ。どうしようもないほど古びたくつだな、いろんな場所の思い出をたっぷりと吸ったくつだ。そういうくつはな、この町に流れてる邪気じゃきはらんで何者かに変わってしまうんだ。安心しな、あんたのそのくつは、そんなことになりはしないからな。でもな、新しいくつ>>はそれはそれで盗むやつがいるから、俺がこうしてキープしておいたってことだよ。ほら、このくつ、あんたに返すよ」
 そう言って古靴ふるぐつ屋/は、腰掛けているパイプチェアのそばにあったビニール袋から私のくつを取り出した。確かに私のくつ古靴ふるぐつ屋の店頭に置かれたくつからすると、まったくの新品にも見える。
 身をかがめてなんとかくつを履き終えた私を見上げて古靴ふるぐつ屋は続けた。
「さっきも言ったけど、あんたが昨日までいたところが陽界ようかい、そしてこの町は陰界いんかい、その二つがついになってるって話だ。それでな…あれは確か…古靴ふるぐつの商売が最高潮だった年だな、うんうん、たぶん一九九七年だったと思うがな、あんたと同じように陽界ようかいから来たっていうやつがいたらしい。龍城路りゅうじょうろという町があってな、そこもここと同じ陰界いんかいの町なんだが、そこに長年の古靴ふるぐつ屋仲間が店を出してた。オリエンタルシューズって店だ。陽界ようかいから来たってやつは、その店に立ち寄ったっていうぞ。それで超級風水師とかなんとか、そんなことを名乗ったそうだ。変なやつかって? そうかも知れん。でもな、そいつのおかげで世界は守られたとか、仲間はそんなことを言ってたよ。今じゃその龍城路りゅうじょうろもどっかに行ってしまった…」
 そこまで言った古靴ふるぐつ屋は、どこか寂しそうな目線を宙空に投げかけている。もう私への関心は無くしてしまったようだ。私はしばらくその場に留まっていたが、これ以上、何をすることもなく、もと来た路地へと歩き始めた。
 その時である。私が向かおうとする路地の奥から、何やら叫び声がする。それも一人二人ではない、何人もの声が重なっている。声に続いて足音も聞こえてきた。瞬時に私は身構えた。

(一)

 路地の奥から出てきた住人たちから、この町が光明路コウミョウろであることを聞いた。私のような外来者の到来は一九九七年以来であった。
古靴屋も同じようなことを言っていた。ところでここでは、住人のことを路人ろじんと呼ぶようだ。ほかにもいろいろとルールがあるようだった。
 そんな話をしているさなか、路人の壁を割って一人の少女が歩み出た。少女はまっすぐ私の目を見て、自分は美鈴メイリンだと自己紹介して、相談したいことがあるという。後で光明飯店コウミョウはんてんで落ち合うことにした。
 路地から出て、さきほどの古靴屋の脇を抜けてプリンスロードまで来た。近くにいる路人たちから話を聞く。光明路コウミョウろはかつては九龍クーロン城の一角だったが、今ではこの町だけが切り離された状態になっている。そしてこの町には方々にゆがみが発生する。この町の歪みをなんとかしない限り、私は戻れそうもないとわかった。
プリンスロードを進むと、左手前方に光明飯店コウミョウはんてんの赤いネオンが見えた。
 薄暗いロビーに美鈴メイリンがいた。彼女の父親エリオットは、光明路コウミョウろに風水を取り戻すための気機という装置を開発中で、装置の材料を求めて光明路の深い場所へ降りていった。その父はもう三年も戻らない。父親が向かった場所には鬼律グイリーと呼ばれる魔物が数多く生息していて危険だ。鬼律のことは電脳中心でんのうちゅうしんにいるジェレミーが詳しい。
 私は美鈴メイリンの父親に繋がる手がかりを求めることにした。

(二)

 プリンスパークに面して電脳中心でんのうちゅうしんはあった。電脳中心でんのうちゅうしん前で路人たちが騒いでいる。店の中で人が蒸発したのだ。事件を目撃した店員たちから話を聞く。
 ジェレミーがゲーム中、ゲームの中へと吸い込まれてしまった。その異常事態を表すように店内の方々で帯電したスパークが青い光を放っていた。ジェレミーが遊んでいたゲーム筐体きょうたいの前に座った。その直後、激しい頭痛を伴って、私はオンラインゲームの中の世界にいた。
 ガリギアス・オンライン。それがゲームのタイトルだった。

 木々がしげる薄暗い森をしばらく歩くと、小さな集落に出た。村人と話して、ホーネットという名前の異邦人いほうじんが病気になり、長老の館で寝込んでいるという。ホーネットというのがジェレミーのハンドルネームだった。
 長老の館で、ホーネットは皮のよろいを身に付けたまま、客間に寝かされていた。端正たんせいな顔立ちをした剣士だ。長老から彼のパートナーであるウォーリアーを探せばよいのだと教えられた。周瑜しゅうゆという名前のウォーリアーだ。
 長老の館の裏庭にある納屋なやから、電脳中心でんのうちゅうしん脇の路地へと戻った。

 オンラインゲームで周瑜しゅうゆという三国志の武将名を使っているのは、プリンスパークにある文鳥占いの店を営むフリーダ・イップだった。フリーダに会うため、文鳥占いの霊雀館れいじゃくかんへ向かう。
 霊雀館れいじゃくかんの店内、文鳥の鳥籠とりかごに囲まれた小部屋でフリーダはパソコンの前に座り、目をつむりながら何かをつぶやいていた。
 半覚醒はんかくせい状態のフリーダをゆり起こすと、店を訪れた小男に何かの術をかけられ、周瑜しゅうゆとしてパートナーであるホーネットと協力プレー中に眠ってしまったのだという。その小男は顔を白塗りにしていたとも。フリーダのパソコンには薄暗いダンジョンが映し出されていた。
 フリーダが目を覚まし、ホーネットとのシンクロを解いたので、ジェレミーはゲームをログオフできる。電脳中心でんのうちゅうしんへ戻りジェレミーと会う。
 ジェレミーは、こんなことははじめてだ、このままでは街中で邪気が強まり鬼律グイリーが現れると案じている。鬼律グイリーとは人が捨てた物に邪気が宿った存在だ。鬼律グイリーから身を守るには、鬼律グイリー使いのヴィヴィアン・ムイが持っている陰陽護符いんようごふが有効だと教えられた。

(三)

 光明商場コウミョウしょうじょうを回り込んだところに一軒のペットショップがある。その主であるヴィヴィアンに事情を話して陰陽護符いんようごふを譲ってもらう。
 鬼律グイリーに襲われそうになったら、陰陽護符いんようごふ鬼律グイリーいている邪気をはらうと鬼律グイリーは物に戻る。ただし、鬼律グイリーからはらった邪気にかれる恐れもあり安全とはいいきれない。
 ヴィヴィアンと話している時、ヴィヴィアンの携帯に姉のエスターから着信があった。エスターが営む妄想屋でアクシデントが発生した。ヴィヴィアンから様子を見てきてほしいと頼まれる。
妄想屋は光明劇場コウミョウげきじょうの近くだ。「亂諗房らんしんぼう」とペンキ書きされたガラス扉は、しっかりと施錠されていた。店の前でませた話し方をする少女に声をかけられた。店内では不条理回廊ふじょうりかいろうが発生していたのだ。
 少女の案内で、キンバリーレストランの厨房ちゅうぼう地下から妄想屋地下へ入る。
 少女に見守られ、店へ上る階段室の扉を開けると、その先は階段や廊下が複雑に入り組んだ、幻想画家エッシャーが描くような空間だった。まさに不条理な空間。頭上を見上げると、何人もの人が重力の法則に関係なく階段や廊下ろうかを行き交っている。
 左上方にある花壇かだん脇に置かれたテーブルに、一人のスーツ姿の男性が座っていた。男性の顔はヴィヴィアンに瓜二うりふたつである。階段や廊下を巡ってその男性の前に行くと、ヴィヴィアンの双子の姉、エスターだった。
 エスターは客に頼まれて客の夢や妄想を引き出すサービスを提供している。その副産物としてこうした不条理空間が生まれるのだ。ところが、最近、不条理空間がたびたび、光明路コウミョウろに繋がるようになった。自分は客が戻るのをここで待つので、フリーダの文鳥を連れてセントラルに向かってほしいと頼まれる。エスターは、セントラルにとてつもなく強い力を感じていたのだ。
 ヴィヴィアンから文鳥のかごを預かりセントラルに行くと、かごの中で文鳥が騒がしくなる。文鳥を放つと、路地の奥にあった石敢當いしがんどうの上に止まり、くちばしにくわえた札で石敢當いしがんどうにかけられていた呪いをはらった。石敢當いしがんどう石碑男せきひおとこに変化して、小男に呪いをかけられ、妄想の中に閉じ込められたといい残しぴょんぴょんねてった。妄想が凝り固まったせいで不条理回廊を増長させていたのだ。
 妄想屋に戻ると、戻っていたエスターから光明コウミョウ四天王のことを教えられる。四天王とは、エスター、妹の鬼律グイリー師ヴィヴィアン、それに記憶師アーロンと鏡師スタンレーの四人だ。四人は龍脈の失われた光明路コウミョウろで、気の歪みから生じる異変と向き合っている。
 ジェレミーが吸い込まれたこと、不条理回廊が光明路コウミョウろに出現したこと、それらすべては光明路コウミョウろで邪悪な力が強まっている証拠だった。早く美鈴メイリンの父親を探して、気機を完成させなければならない。

(四)

 携帯に美鈴メイリンからメールがあり、光明飯店コウミョウはんてん美鈴メイリンを訪ねる。風水の研究者である父エリオットが手がけていた気機は完成間近の状態だった。美鈴メイリン自身もそのことを知らなかったらしい。
 美鈴メイリンに案内されて老街ラオガイにあるエリオットの研究室を見せてもらった。部屋の中央に置かれた気機は、いくつもの電極やスイッチ類が並ぶ木製の不思議な機械だ。気機を動かすには、後は老童ロウトンというものがあればよい。美鈴メイリン老童ロウトンがどんなものか知らない。
部屋を出ると誰かに尾行されている気配がある。路地に身を隠して尾行者を捕まえると、葱剥ねぎむの少年で、少年は老童ロウトンならレナードが知ってるはずと教えてくれた。
 レナードは竹園路ちくえんろにある光明聯社コウミョウれんしゃという建物の裏口にいた。しかしレナードとおぼしき人物は、裏口にかかった薄汚れたカーテン越しに意味不明のことをいうばかりだ。
 レナードというのは、虫よりも無垢むくな存在なのだ。そしてレナードはホイ老人になら心を開くとわかり、ホイを探す。ホイは光明路コウミョウろの顔役であるサイラス・チャンの相談役だ。
 光明聯社コウミョウれんしゃの事務所でチャンに面会を申し込み、現れたチャンからホイはエスターの店に出入りしていると聞き再び妄想屋へ向かう。
 エスターはホイらしき人物を不条理空間で見かけていた。店に記憶師アーロンを呼ぶ。不条理回廊は沈静化しているが、まだ安心できない。もう一度、不条理回廊に入る前に私自身の記憶を保全することになった。
 アーロンはポータブル記憶機を使って私の記憶を引き出した。これで私の記憶が失われたり書き換えたりされないのでしばらくは安全だ。エスターの操る妄想盤によって不条理空間へ入る。
 そこは先程とはうってかわり、不穏な空気が支配する場所になっていた。行き交う人の姿はなく、灰紫色の雲が重く垂れ込める空が方々に見える。そんな空間を素早く飛び交う二つの黒い影があった。そのひとつがホイじいさんだった。
 目の前に音もなく着地したホイじいさんは、カンフーの達人というスキルを活かして不条理回廊に逃げ込んだ謎の小男を追っていた。相手はすばしっこく、すでにこの場所を後にしている、おそらくは遠い場所へ姿を消したらしい。
 ホイじいさんが俊敏しゅんびんな動きで目の前から消えると、不条理回廊は瞬時に消え去りキンバリーレストランの裏に変わった。
光明聯社コウミョウれんしゃでチャンにホイじいさんの話をすると、チャンは急に震えだし、そのせいで子分たちから事務所を追い出される。追ってきた子分の一人から、チャンは実はレナードなのだと耳打ちされ、事務所の裏にまわりレナードの元へ。
 カーテン越しのシルエット姿のレナードから「時の輪」が生まれたと聞く。そこへエスターから着信があった。妄想屋へ急ぐと、店内に光明コウミョウ四天王が揃い私を待っていた。
 この世界に何者かが闖入ちんにゅうしているので、それを追いかけることになった。闖入者ちんにゅうしゃはすぐに姿を隠すが、陽界ようかいから来た私には警戒を解く。ホイじいさんが追っていた小男、フリーダを眠らせた小男…すべてはその者の仕業だ。そして今まさに歪みに飲み込まれそうな場所があり、私はそこへと向かうことになった。
 四天王が力を合わせて生体通信を行い、光明路コウミョウろがまったく別な時空へ、遠い場所へと繋がった。

(五)

 光明路コウミョウろで目覚めたときよりも薄暗く、狭い洋室にいるとわかった。
部屋を出て階段を降り建物の外へ。そこは通りに面して長い塀が続いている場所だった。今にも雨がきそうな雲行きである。
 左手の坂下に、背広せびろ姿の初老の男性と若い女性がいてこちらを見ている。その男性は永井ながい荷風かふうという日本人小説家で、若い女性は満鉄映画社の女優、蘭暁梅ラン・シャオメイだ。蘭暁梅ラン・シャオメイは新作映画の舞台挨拶あいさつで満州から日本へ来て、永井ながい荷風かふう偏奇館へんきかんという館を訪問したところだった。私が時空を抜けて来たのは一九三五年の帝都・東京であった。
 満州国が誕生して三年、日中事変まで二年を残す、その刹那せつなの時代である。
高台の宮様邸みやさまていから時を繋ぐ人が現れる…。蘭暁梅ラン・シャオメイは何度もその夢を見た。彼女がいう宮様みやさまとは、ヨーロッパに遊学中の東久邇宮親王ひがしくにのみやしんのうであり、その邸宅は偏奇館へんきかん近く、「大東京市麻布區あざぶく市兵衛町いちべえちょう」にあった。まさに私がこの町に来た洋館は、その宮邸の通りを挟んだ向かいだった。
 蘭暁梅ラン・シャオメイは、小さな頃より時を繋ぐようにと教わっていた。そのことが最近になって夢に現れるようになったのだ。
 偏奇館へんきかんを一人の男性が訪ねてきた。男性は陸軍飯倉いいくら技術研究所に所属する技術者で、帝都の邪気を測る装置を開発した。その装置がこのところ市兵衛町界隈いちべえちょうかいわいに強い邪気の存在を示すので、たびたびここへ来ていた。そして今日はいよいよその値が高いとのこと。装置の示す場所を目指して蘭暁梅ラン・シャオメイと共に市兵衛町いちべえちょうの表通りを進むと、四ツ辻よつつじを曲がった先にはたしてあさ背広せびろを着た白塗りの小男が立っていた。
 小男は自らを水の江と名乗り、いきなりはちが飛ぶ、はちが飛ぶとかすれた声で唱えはじめた。
 小男が唱える呪文のせいで蘭暁梅ラン・シャオメイが意識朦朧もうろうとなったその時、私が持つ陰陽護符いんようごふが激しく発光して水の江の言葉を打ち消した。水の江は、宙に現れた黒い渦巻きのような中へ吸い込まれてしまった。
 事がしずまった後、蘭暁梅ラン・シャオメイが小さな手鏡を取り出した。それは蘭暁梅ラン・シャオメイの母の形見だ。彼女は母から、時を繋ぐとき、自分の姿をこの鏡、風水鏡ふうすいきょうに写すのだと教わっていた。蘭暁梅ラン・シャオメイは私に風水鏡ふうすいきょうで照らしてほしいと頼む。
 風水鏡ふうすいきょうを受け取り蘭暁梅ラン・シャオメイを照らすと、鏡の中の蘭暁梅ラン・シャオメイ目前もくぜん蘭暁梅ラン・シャオメイが向き合い、蘭暁梅ラン・シャオメイ朱雀すざくの龍脈として見立てを受けて、やがて垂れ込めた雲を突き抜け光の筋を描いて昇華しょうかした。
 帝都東京で蘭暁梅ラン・シャオメイへの見立てによって龍脈が通じたからには、必ずやその龍脈は光明路コウミョウろへと繋がるはずだ。
 そう思った瞬間、私はエスターの店で気が付いた。

(六)

 妄想屋の店先でサイラスの子分に迎えられた。サイラスが私を呼んでいる。
 竹園路にある光明聯社コウミョウれんしゃへサイラスを訪ねると、そこにいたのはレナードだった。はじめて見るレナードは、サイラスと同一人物ながら瞳の色が違う。レナードは、僕の老童ロウトンが悪いことをすると繰り返す。くだんの老童ロウトンはレナードが持っていた。それは小動物の頭骨のようなものを収めた小さな球型のガラス容器で、真鍮しんちゅう製の台座に固定されている。
 老童ロウトンをやさしく触るレナードの眼が急に見開かれたかと思うとトランス状態に陥り、その直後、私の目の前でレナードはチャンへと人格が変わった。
 光明路コウミョウろの異変を風水の問題として香港ホンコン最高風水会議に掛け合ったチャンは、風水の龍脈が強い力で歪められていることを知る。チャンから光明廟コウミョウびょうに行き七宝刀しちほうとうを手に入れるよう言われる。陰陽護符いんようごふ、風水鏡、七宝刀しちほうとう、これらが風水の三種の神器だ。
 訪れた光明廟コウミョウびょうは邪気に溢れかえっていた。いつ邪気に憑かれても不思議ではなかった。そこへ葱剥ねぎむの少年が来て、ポケットから邪気を吸い取る物を取り出してうごめく邪気の中へ投げつける。邪気はたちまちその物に憑いて鬼律グイリーとなる。少年は何度も物を取り出しては邪気の溜まりに投げつけ、いくつもの鬼律グイリー一塊ひとかたまりになってうごめいている。近寄ると、鬼律グイリーどもは蜘蛛くもの子のように四方へと散っていく。こうしてあたりの邪気を弱めながら、廟堂びょうどうへ入り、そこで七宝刀しちほうとうを手に入れた。
 廟堂びょうどう前で、巨大な香炉こうろから立ち上る邪気が狛獅子こまじしに憑き、異形の相となった狛獅子こまじしに襲われる直前、葱剥ねぎむの少年が機転を利かせて光明廟コウミョウびょうから脱出できた。
 光明聯社コウミョウれんしゃに戻ると、そこにいたのはレナードだった。レナードは、魔王がいる魔王がいると同じ言葉を繰り返すばかりでひどくおびえている。
 光明聯社コウミョウれんしゃの路地を出るとスタンレーがいた。蘭暁梅ラン・シャオメイを見立てた鏡を風水鏡にアップグレードすることになり、鏡をスタンレーに預けて光明劇場コウミョウげきじょうに向かう。光明コウミョウ四天王がついに闖入者ちんにゅうしゃ、水の江を追い詰めたのだ。
 劇場にはスタンレー以外、四天王のうち三人と美鈴メイリンが待っていた。美鈴メイリンが家で古い映画フィルムを見つけた。それは美鈴メイリンの父エリオットが持っていたもので、アラヤ絶界への入り方がわかるフィルムだ。アラヤ絶界とは、ありとあらゆる思念が漂流する場所であり、邪悪な力がよどみやすい。歪みをもたらそうとする水の江が最後のとりでとする場所なのだ。
 完成した風水鏡をたずさえてスタンレーが合流した 。この鏡で護りの光を繋ぐことができるという。
 四天王が揃って結界を張る中、美鈴メイリンがフィルムを再生する。眼前のスクリーンにぼんやりと町の姿が映し出された。何があっても漂う思念に関心を寄せるなとさとされながら、私は古いフィルムが映す町へと吸い込まれた。

(七)

 戸口のない高い建物に挟まれた路地にいた。ここが内とも外とも区別がつかない。そしてそこは思念の奔流ほんりゅうの只中だった。
 形態だけを見れば、それは透明なクラゲのようである。光の屈折で、そこだけ何か物体があるように見えるが、ほぼ透けているのでとらえどころがない。その透明なものが私の前で二手に分かれ、体の後ろでまた合わさる。私は思念の流れをかき分けるようにしてのろのろと進むしかないが、体に何かがぶつかるという感覚は全くなかった。
 中には不思議な動きを見せる思念もあるが、絶対に見入るなという光明コウミョウ四天王の言葉を胸に、手にした風水鏡が写し出す方向へと進んだ。
 風水鏡はこれ以上先を写さない場所まで来た。鏡に映る小さな戸口の建物へ入ると、中は紫色のカーテンで囲われた部屋だった。部屋の奥に水色のラメ入りのタキシードを着た水の江が立っていた。オールバックにした髪は不自然なほど黒々としている。
 水の江は、自分は歪みの象徴だ、陽界ようかいから来た私を歪みの中に取り込めば、二度と龍脈は繋がらないといって、呪文のような言葉を念じ始めた。はちが飛ぶ、はちが飛ぶ…
 私はその場で動けなくなってしまった。
 身に付けていた陰陽護符いんようごふがまたもや光を放つ。そのとき、水の江の白塗りのほほに一筋の黒い滴りが流れた。それを見た瞬間、言葉が蘇った。

 光を繋ぐ !

 その言葉に導かれるように、陰陽護符いんようごふの光を風水鏡で反射させて七宝刀しちほうとうを照らした。その時、七宝刀しちほうとうから五色の光の束がほとばしり、あっという間に水の江を包み込んだ。
 水の江は、激しく顔を歪め、何を高く掲げたところで最後には地に落ちるのだと叫び、不穏な黒紫色のかたまりとなり消えた。その直後、手にしていた七宝刀しちほうとうは細かな粒子となり散ってしまった。
 水の江のいた場所からいくつもの思念があふた。見る見る思念が紫色の部屋を満たした。
 私は小さな戸口を開けた。思念が戸口からあふれるようにして表へと流れ出る。水の江を構成していた思念だとわかった。
 人の気配があり、ふと風水鏡を見ると、そこに一人の男性が写っていた。美鈴メイリンの父、エリオットだった。エリオットは、水の江封じ込めを感謝した。だが、これで完璧ではない、歪みは絶対に現れる、それを望む者がいるからだという。
 エリオットは、今はどこかかわらない時空の果てにいて、そこを離れるとまた歪みが生じるおそれがあるので離れられないのだ。別の彼方には九七年に来た超級風水師がおり、その人物もエリオット同様、自らの存在で歪みを防いでいる。その人物が四つの街区を思念に帰したことで世界は陰陽交接いんようこうせつまぬがれたのだ。
 エリオットは、自分はまた鏡に現れるだろう、鏡を娘の美鈴メイリンに渡してほしいといい残してすーっと鏡から消えた。
 ふいに目の前が暗くなり、私は光明劇場コウミョウげきじょうの中で気が付いた。

(八)

 光明劇場コウミョウげきじょうの前にホイがいて、レナードが老童ロウトンを渡したいとのこと。急いでレナードの元へ行く。
レナードは、魔王が消えた、もう老童ロウトンは悪さをしないといって、老童ロウトンを渡してくれた。老童ロウトンたずさえて老街ラオガイへ向かう。
 エリオットの研究室では気機を囲んで美鈴メイリンと四天王が私の到着を待っていた。遅れてホイも来た。
 私はおもむろに老童ロウトンを差し出した。ヴィヴィアンが老童ロウトンを受け取り、美鈴メイリンに教えてもらいながら気機にセットした。
 アーロンは、原理的にはこれで稼動するはずだといいながら「通気」と書かれたボタンを押した。一同が見守る中、しばらくして気機が小刻みに振動したかと思うと、老童ロウトンが青白く輝きはじめ、やがてその光が部屋を飲み込んでしまった。
 何もかもが真っ白に輝く中で、ふいに目の前に美鈴メイリンが現れた。美鈴メイリンは出会ったときと同じように私の目をまっすぐに見つめて何かをつぶやいた。私は聞き返そうとしたが、いよいよ光が強くなり、もう何も見えなくなってしまった。

 次の瞬間、私は香港ホンコンにある九龍寨城公園にいた。目の前の芝生しばふには「光明路コウミョウろ」と書いた小さなが初夏の日差しを浴びて鈍く輝いていた。
 ふとポケットに手を当てると、そこにしまった陰陽護符いんようごふがほのかに熱をびていた。

                                       終