第九章 第十三話 東京黙示録

12月25日、先帝祭で祭日であった。
ホテルでは午後の早い時間に人払いされ、従業員も宿舎に待機となった。
溜池通には軍用トラックが二台停められ、数人の立哨が警備に付く。

クリスマスパーティは中止となり、
客のないロビーに飾りがむなしく輝いていた。

そして皆が案じている
虹人こうじん行方ゆくえ――
数百年の時を越えた思念の繋属けいぞくが、虹人の中に白金江しろかねこうを形成するに至った。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
虹人さん――
この時間になっても、
波形も全然観測されません!

隊長……
虹人さんは自分の中に白金江の
姿を見ていたんでしょうか?
【帆村魯公】
何かしら感じておったに違いない。
だが受け入れはしなかった――
虹人と名前を変えたわけだしな。
【喪神梨央】
こうって言う名前、
お父様がお付けになったんですね。
【帆村魯公】
そうだ……
変わり者の親父だ。
親父は虹人が生まれて半年ほどで、
姿をくらませてしまった。

ノックの音とともに九頭が姿を見せた。

【九頭幸則】
歩一の九頭くずです。
先生、隊の方で、
小耳に挟んだことがあって――
【喪神梨央】
虹人さんの行方でも、
わかったんですか?
【九頭幸則】
いや、そうじゃないんだ。
鈴代の叔父おじ山郷やまごうの方に、
内偵の入った形跡があると――
【帆村魯公】
ほう!
さては内務省でも動いたかな――
【喪神梨央】
殿下の仰っていた有澤機関、
あそこじゃありませんか?
だとすると――
【九頭幸則】
拠点はセルパン堂、だよね?
休暇の准尉じゅんいに行かせたよ、
目立たぬように平服でね。
【喪神梨央】
セルパン堂にですか?
式部しきべさん、いなくなったんですよ。
【九頭幸則】
梨央りおちゃん、裏切られたみたいで、
怒ってる?
【喪神梨央】
あまりいい気はしません。
私たちのことも探っていたんです!
身内のように思っていたのに――
【九頭幸則】
でも敵というわけでもなさそうだ。
准尉じゅんいがこれを持って帰った――

【帆村魯公】
これは芭蕉ばしょうの句だな。
漁火いさりびかじかなみしたむせび――
【喪神梨央】
かじかって魚ですよね?
鳴いたりするんですか?
――むせぶって……
【帆村魯公】
昔、かじかかわずの区別がなくてな、
かじかは鳴き声を立てると思われていた。
漁火に驚いたりしてな。

そういや梨央、
前に鰍沢かじかざわの話、なかったか?
【喪神梨央】
ありました!
赤坂哈爾浜ハルピンのお熊アストラルです!
それと――
式部さんも鰍沢かじかざわの落語聞いたと、
そう話していました。
【九頭幸則】
この俳句は、
何か意味を含むのかなぁ……
入口の引き戸にしてあったそうだ。
【帆村魯公】
うむ……
鰍沢かじかざわちなむ場所は何処どこだ?
甲州か――
【喪神梨央】
そうです、甲州きっての急流です。
吉原女郎だったお熊は……
【九頭幸則】
どうしたの、梨央ちゃん?
【喪神梨央】
お熊は心中にしくじって、
しばらく品川溜めに置かれます――
【九頭幸則】
それじゃこのカードは、
品川にいざなってるんじゃないのか?
そうだよ、風魔!

【喪神梨央】
どうしますか?
品川に怪人の報告はありませんが。
それにそろそろ日も暮れます。
【帆村魯公】
構わん!
梨央、公務電車の手配だ。
中尉も同行してくれ!
【喪神梨央】
承知しました!
品川まで手配します!

【九頭幸則】
行こう、風魔、
何があるかわからんが――

〔吉原遊郭〕

式部しきべの残したカードにヒントを期待して、九頭くず風魔ふうまは品川遊郭ゆうかくへ。
遊郭一帯は物々しい雰囲気だった。軍用トラックが何台も停まり、憲兵や兵が方々に展開している。

【九頭幸則】
何だ、騒然そうぜんとしているなぁ――
それにこの憲兵らはどこから……

【死骨崎憲兵中尉】
おい、貴様!
ここで何をしている!
【九頭幸則】
そっちこそ……
これは公務なのか?
【死骨崎憲兵中尉】
なんだと?
公務だとぉ?
俺達の公務なんざ、
とっくに終わってるんだ!
擅権せんけんの大罪など関係ないわ!!

そう言うなり憲兵は脱兎のごとく走り去った。

【九頭幸則】
どうやらめいあるわけじゃなく、
勝手にいきり立っているようだ。
――それにしても……

何だ、この甘い匂いは……
どこかで嗅いだことあるぞ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測しました!
すぐ近くです!

そこへ太った将校らしきが駆けて来た。右の肩章は大尉だが左には少佐のを付けている。

【地獄谷上級大佐】
無念だ、無念だ!
せっかく上級大佐まで上り詰め、
これからだと言うのに!

貴様らは悔しくないのか!
【九頭幸則】
じょ、上級大佐ですか?
――まるでナチのようです。
【地獄谷上級大佐】
うるさい!!
我が帝国陸軍はナチなどではない!
神洲大八洲しんしゅうおおやしまから世界をべる、
選ばれし神民の軍隊だ!

その最たるは東京ゼロ師団!
またの名をゼームス師団――

国立防疫研究所――
戸山砲工学校――
渋谷憲兵大隊――
全ては泡沫うたかたの夢であったか――
【九頭幸則】
わかってますよ、大尉。
すべては魔の力で仮構されたもの、
この甘い匂いとともにね!
それを泡沫うたかたとは――
随分とロマンチストですね!

【地獄谷上級大佐】
地獄谷じごくだにの名を得た夜、
私は生まれ変わったのだ!
う・ま・れ・か・わ・っ・た!
【九頭幸則】
地獄谷……
こりゃすごい名前もあったもんだ。
(風魔、気を付けろ、相当なもんだ)

【地獄谷上級大佐】
どうせちるところは同じだ、
貴様らを道連れにしてやる!!

《バトル》

【地獄谷上級大佐】
……荒川の……
帝国……モスリン……
あすこだけは――

――うっ
【九頭幸則】
帝国モスリンの他はどこだ?
まだあるんだろ、工廠こうしょうが!
――おい、答えろ!
【地獄谷上級大佐】
――

謎の将校は斃れ、そのままセヒラと化した。

【九頭幸則】
山本――
少尉だが同輩の付き合いだった……
奴は近づきすぎたんだ。
帝国モスリンに――

いや、違う!
工廠こうしょうにだ!

そして――
工廠こうしょうはまだ他にもある!
だが……場所はわからない――

そこへ芸者がしなを作りながら歩いて来た。

【品川芸者幾松】
四谷からお越しのお二人様かしら?
【九頭幸則】
四谷?
――あ、ああ、そうだ、四谷だ。
ここから来た。

九頭は咄嗟とっさにセルパン堂にあった、式部の残したとおぼしきカードを見せた。
それを見た瞬間、芸者は体を硬直させた。わずかに震えてもいる。

【品川芸者幾松】
嘘と誠の二瀬川ふたせがわ
だまされぬ気で~
だまされて~

妖艶な声で端唄はうたを愛唱すると、芸者幾松いくまつうつろな表情となった。
そして別な言葉を口ずさみ始めた――

【品川芸者幾松】
山郷やまごう、甲府にて甲斐絹かいきを扱う、
屋号は山郷絹糸けんし
最寄りは富士身延みのぶ鉄道
金手かねんて停留所――

芸者は報告書を読むような口調で、
山郷についての調べを述べた――

芸者は音もなく消えた。

【九頭幸則】
芸者は暗示をかけられた――
そんな感じだよな。
山郷側調査の内容を、
芸者に覚えさせてあるようだ。
これじゃ漏洩ろうえいは難しそうだな。

そこへもう一人、芸者が現れた。そして端唄の調子を披露した。

【品川芸者稲貞】
青いガスとう 斜めに受けて~
白い襟足えりあし 夜会巻き~

芸者は新京シンキョウに在る山郷の取引会社、柞蚕糸さくさんし問屋の満蒙絲線まんもうシーチェンについて語った。
山郷は社長の好文海ハオウェンハイに取引を持ちかけている。

芸者は音もなく歩き去った。

【九頭幸則】
柞蚕さくさんが不良で新京シンキョウハオ社長は困り、
山郷は甲斐絹かいきを調達したそうだ。
おかげで急場をしのげたと――

その見返りに山郷は、
太古たいこに北支に落ちた隕石いんせきをもらう。
その隕石をどうするつもりだ?

また一人、芸者がやって来た。またもや端唄の調子だ。

【品川芸者菊丸】
お前とならば どこまでも~ 
箱根山はこねやま 白糸滝しらいとたきの中までも~

芸者曰く、山郷は隕石いんせきの力で麗華れいかに深い霊異りょういをもたらし、その力を利用して支族末裔まつえいの思念を呼ぶ――
山郷はどこまでも
力に固執していたのだ。

芸者が去った。

【九頭幸則】
山郷は麗華さんに何をしたんだ?
それに……
どうやって麗華さんを呼び出した?
泣く子も黙るあの関東軍が、
麗華さんを保護していたんだろ?
容易よういには手出しできんぞ――

またもや芸者が来る。

【品川芸者市若】
雪はともえに降りしきる~ 
屏風びょうぶが恋の仲立ちに~

端唄に続けて芸者は、東雲しののめ流に伝わる香合こうごうは、互いに瑞祥ずいしょうを現すのだと語った。芸者にたくされた言葉はこれが最後であった――

芸者は遊郭の路地を歩いて行った。

【九頭幸則】
麗華さんに協力お願いすれば、
山郷の香合こうごう瑞祥ずいしょうを表して、
それで居場所がわかるはずだ。
麗華さんは鈴代がかくまっている、
そうだよね?

俺、鈴代の家に行ってくる!
瑞祥ずいしょうとやらが現れたら、
そこが山郷の居場所だ、
急ぐんだぞ、風魔!

九頭くず鈴代すずよの家に円タクを飛ばした。
二つのアルツケアンを取り込んだことで、古式東雲しののめ流の奥義おうぎ会得えとくした麗華――
まだ強い霊異りょういを現すには至らないようである。

【着信 喪神梨央】
先程、紀伊国坂きのくにざかで、
芽府めふ須斗夫すとおの身柄が確保されました。
麹町こうじまち署の巡査にです――
機関本部で山王さんのうホテルに部屋を取り、
今はそこで休んでいます。
独逸ドイツ大使館で名前を思い出し、
その後の意識がないそうです。
大使館からは一キロ少々です……
彼は歩いてきたと思われますが、
紀伊国坂きのくにざかで車から降りた、
そんな目撃もあるのです。

ホテルの屋上から、
瑞祥ずいしょうを探しますがまだ見えません。
見つかり次第しだい、連絡入れます。

東雲しののめ流の霊異りょういしずまっている。
しかし受継がれた香合こうごう瑞祥ずいしょうを現すという。
それは空に差す霊光として現れるのだ。

果たして瑞祥ずいしょうは現れた。
山王さんのうからほぼ東の方角、銀座の辺りに霊光が差したのだ。

夕の空に現れた瑞祥ずいしょうを手がかりに、銀座方面へ公務電車を走らせる。
四丁目を過ぎたところで電車は停止した。

〔銀座街路〕

銀座の電車通には異様な光景が広がっていた。大通の中央に巨大な繭玉がいくつも重なり、巨大な一つの塊を為していた。黃灰色の繭玉は、むっとするような熱気を発していた。

市電は通行止めとなり、車も止まらされていた。京橋署の巡査が総出で物見遊山の市民を押さえ込んでいた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
幾つもの波形を観察します。
まだセヒラはありません――
波形の数、尋常ではないのです!

脇の路地からスーッとレンザが現れた。

【吉祥院蓮三郎】
風魔ふうまさま――
あれは何でございましょうか?
私、不思議な感覚がしたのです。
それを頼りにここへ来ました。
そうしたらあのようなものが――
さしずめ、まゆというところですか?
それも幾多いくたまゆが合わさり――
一つ一つがとても大きいですよ!

レンザがはっと目を見開いた。その視線の先、巨大な繭玉の塊から白い霧のようなものが現れているのが見えた。銀座の電車通が見る見る白くなっていく。

【吉祥院蓮三郎】
何か気配がします!
風魔さま!
お気を付け遊ばし!!

レンザの姿が白い霧のようなものにかき消されてしまった。

〔白の狭間〕

そこは時空の狭間であろうか。不透明な白い空間が広がっていた。
空間が歪んだかと思うと山郷武揚が現れた。山郷はセヒラを帯びている。

【山郷武揚】
君たちはこのような機械で、
人をさぐっていたのかね?
いや、よく出来ている。
人も波形を現すとはな――

牛頭の賛同者が飯倉いいくら技研にもいてね。
機械が示してくれたんだ。
ひときわ目立つ波形が二つ――
思わぬ僥倖ぎょうこうだったよ!
一つはここにいる――
遠い過去からの繋累けいるいだ。
そしてもう一つ――
私にとっては馴染み深いものだ。

アルツケアン!
はははは、まだ残っていたとはな!
あの書生風情が大使館から持ち出し、
三宅坂みやけざかを下っていた――
さっそく迎えの車を用意したよ。
今宵こよいはやけに冷え込む。
歩くと風邪を引くからね!

一瞬、周囲が白く輝いた。

【山郷武揚】
北支の隕石いんせき月詠つくよみ麗華れいかを満たした。
人の役に立てて実に嬉しい限りだ。
達成感は空虚くうきょ感をもたらす――
私の中に小さな穴が空いてね。
それをめてみよう、そう考えた。
はからずとも私は導かれた。

アルツケアン――
私のために残っていたのだよ、
私を待ってくれていたのだ。
これをなんとかしないと、
万能の石に申し訳なくてね!
君もそう思うだろう?
私は僥倖ぎょうこうを得たのだよ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし!!
尋常じんじょうではないセヒラです、
最大限の警戒を!!
【山郷武揚】
おやおや、こんなところにまで!
技術はける――
しかし人生はかくも短い!

《バトル》

山郷は風魔を見ている。しかしその視線はもはや風魔を捉えてはいなかった。

【山郷武揚】
見てくれ!
第五齢の熟蚕じゅくさん相成あいなった!
じき排尿するぞ!
排尿が終わると吐糸としを始める。
愈々、営繭えいけんに取りかかるのだ!!
さぁ、私をまぶしに収めてくれないか。
上蔟じょうぞくが終わると、吐糸を始めるぞ。
私は完成の域にあるのだ――

一瞬、周囲が白く眩しく輝いた。

【山郷武揚】
何だ? どうした?
私は……これは……
又昔またむかし? 赤熟せきじゅく? 小石丸――

違うのか!!
――かいこの種類は何だ?
これは……家蚕かさんではないのか!

再びの輝き――

【山郷武揚】
まさか……
北支の柞蚕さくさん――
好文海ハオウェンハイの作った白黄斑山繭しろきまだらやままゆなのか!

はぁはぁはぁ~
全滅したのではなかったのか――
私の持ち込んだかびで。

ウアハハハハ~
そうだよ、斑僵病まだらきょうびょうで全滅だぁ~
ハオ柞蚕さくさんは全滅だぁ~

周囲が白く輝いた後、真っ暗になった。
暗闇の中で山郷がもがいている。しかしその声はは聞こえない。山郷は強烈な幻覚におそわれていたのだ。
その幻覚は現実に一端いったんあらわした。
山郷は口から大量の糸を吐いたのだった。吐糸は果てることなく続いた。

【吉祥院蓮三郎】
ひゃぁ~
大変でございます!
黄色い糸がそこいら中に!!

【着信 帆村魯公】
風魔ふうまよ、山郷やまごうはアストラル化した。
レンザが見た糸は幻覚だぞ。
【着信 喪神梨央】
兄さん、銀座通ですが、
もうじき通行止めを解除します。
近くに虹人こうじんさんらしき波形も……
先程までは日劇前で確認……
今は波形は不安定ですが、
通行戻る前に急いで下さい!

〔日劇前〕

人の姿のない日劇前に虹人がいた。
虹人は白い光をまとっている。風魔に並ぶレンザが一歩踏み出した。

【吉祥院蓮三郎】
なんとなくこの辺りではと――
私、最近、えてきております。

虹人さまに古よりの繋累けいるいが及ぶと?
――私にはまだのように見えます。
さしずめ私は及び損ねた存在――
それゆえ、よく分かるのです。
まだ及んではおりません。

虹人を包む光が一瞬だけ大きく広がった。光は虹人の内側をも照らすかのようだった。

【吉祥院蓮三郎】
何でしょうか?
【帆村虹人】
やぁ、風魔!
すっかり審神者さにわのなりが板についた。
自分でもそう思うだろ?
今通う道場は目黒だよね?
競馬場跡近くの目黒不動だね。
省線駅から東横乗合を使うんだろ?
兄貴は目黄道場も開くって――
小松川区、荒川の西岸だよ。
総武本線の平井が最寄りだって。
目黄道場が開かれたら、
僕はそっちに通うことになりそうだ。
ちょっと遠いんだけど――
赤坂山王さんのうに特務機関を作る話も――
そうなれば、風魔、
お前と一緒になれるのかな?

虹人は相変わらず白い光の中にいる。

【吉祥院蓮三郎】
これは少し過去の話のようです。
時間が巻き戻ったみたいです。

虹人を包む光が大きく揺らいだ。

【吉祥院蓮三郎】
気を付けてください、風魔さま!
【帆村虹人】
目黄不動は府立七高女の近くだ――
高女といえばだよ、風魔、
面白い話があるんだ。

オフィーリア誌にページいて、
君影きみかげたよりをもうけることになった。
読者交流が発展するな!

虹人の光が一層の輝きを増す。

【帆村虹人】
――鈴蘭すずらんの子たち、
みんな僕のことを、
シロカネコウと呼ぶ――

虹人の周囲にセヒラが集まり始めた。その勢い、濃度ともにこれまでにないほどである。

【着信 喪神梨央】
気を付けてください!
セヒラ急上昇です!

セヒラの紫色が、先程までの白い光を追い出したかのように、虹人はすっかりセヒラに呑まれている。

【帆村虹人】
風魔には聞こえているかい?
まるで自分のことのように――
この言葉が僕をめぐるんだ。

全魔域パンデモニアムはルシファーの城府、
かの輝ける星をサタンにたくらべて、
かく呼べる――

虹人の声が遠ざかり、やがて周囲から光が失せた。
真っ白な空間に一台のラヂオがある。
ノイズ混じりの声が聴こえる――

安寧あんねいですか? 安寧あんねいですか?
――皆さま、どなたも、安寧あんねいですか?

淀橋区・東洋ホテル――
山梨からの上京時、山郷武揚の定宿である。山郷は甲府市内で生糸きいと商を営んでいる。屋号は山郷絹糸けんしであった。

【山郷武揚】
ついに興亜撚糸ねんしとの商談が決まった。
これで念願ねんがんかなった――
私たちの努力がむくわれたのだ。

今夜は泊まらずに夜行で帰ろう。
朝の四時頃には甲府に着くはずだ。
そのまま社で仮眠を取ればよい。
明日、朝一番に社の皆に知らせよう。
吉報きっぽうだ、皆、喜んでくれるぞ!
眠いなど言ってはおられんな!

四谷区・塩町尋常じんじょう小学校――
鈴代すずよ九頭くず風魔ふうまたちの出身校だ。
この春、音楽訓導くんどうとして赴任ふにんした柴崎周しばさきあまね。五月の合唱会に向けて練習に余念よねんがない。
毎年、唱歌夏は来ぬが選ばれる。

【柴崎周】
はなの 匂う垣根かきね
時鳥ほととぎす 早も来鳴きて
忍音しのびねもらす 夏は来ぬ~♪

我が胸に響くは子らの歌声だ。
伸びやかなる声は初夏の空のように、
瑞々みずみずしく、くもりのないもの――
子らの歌声を聞いていると、
私の心も洗われるようだ。
さぁ、今日も練習にはげもう!

赤坂区・料亭一繁いちしげ――
四谷荒木町の万屋よろずや御用聞ごようぎきに来ていた。万屋よろずやは屋号を木曽屋きそやという。酒や乾物かんぶつも扱う大店おおだなである。
小森こもり時夫ときおは木曽屋の番頭ばんとうであった。

【小森時夫】
一繁いちしげさんで政治家の壮行会があると。
麦酒ビールが二十ダースとは大注文おおちゅうもんだな!
きっと親爺おやっさん、喜ぶぞ!
確か日本平世党の政治家だと――
春はあけぼののような穏やかな世の中は、
平世党のおかげだなぁ……

いけない、いけない、いけないぞ!
塩町の如月きさらぎさん宅に向かわないと。
如月きさらぎさんは木曽屋の大得意だしな!

京都市伏見区・墨染すみぞめ――
輜重しちょう兵営第十六大隊の隊附中尉、鬼龍きりゅう豪人たけと
士官室の窓辺に置いた机に月光が差す。その灯りを得て、鬼龍は手紙をしたためている。西陣にしじん商家の娘、小原時子に宛てである――

【鬼龍豪人】
もうじき中秋の名月ですね。
今年は九月十二日だそうです――
来週の木曜日になります。昨年、君と嵐山で拝観はいかんした秋月しゅうげつは、今も私の心を照らしています。いささかのかげりを含ませた物憂ものうげな光――
なげけとて 月やは物を思はする 
かこち顔なる わが涙かな――
西行法師の歌を君に贈ります。豪人

日本橋区・興亜百貨店――
バンカツこと坂東勝一郎の読書会が開かれる。バンカツとは帆村ほむら虹人こうじんのペンネームだ。冒険少年年末号に六十八ページにわたり、書き下ろしの冒険小説が掲載けいさいされるのだ。

【帆村虹人】
南海の蒼風そうふうは構想二年の大作だ。
海賊に育てられた少年が成長し、
海の軍閥ぐんばつを率いる話だ。
波高い満剌加マラッカの海を舞台に、
海賊や賊軍相手に戦いを繰り広げ、
やがて海の支配者になっていく――

話は今日の読書会で初めて披露ひろうする。
先月号にその案内が載ったが、
わずか三日で予約は埋まったそうだ。

麻布あざぶ区・麻布あざぶ市兵衛いちべえ町――
聖宮ひじりのみや邸に植木職人新山眞にいやままことの姿があった。
東京電気通信工業を休職中の新山は、陸軍登戸のぼりと研究所の依頼いらいでく号兵器開発のかたわら、植木屋松巧まつこうの職人として働いていた――

〔聖宮邸庭〕

白い霧に覆われた宮邸の庭。垣根の低木を選定していた庭師が立ち上がりこちらに来た。庭に姿を見せた風魔に気が付いたのだ。

【新山眞】
おうちの方でいらっしゃいますか?
――私、植木屋です。
いやぁ、今日は五月晴れですな!
梅雨なのに五月とはこれ如何いかに?
ははは、旧暦ですよ、旧暦。
旧暦では梅雨は五月だったのです。
梅雨の合間の晴れを五月晴れ――
今日みたいな日和ひよりのことですね。

今日の剪定せんていはほぼ終わりました。
久しぶりに社に顔でも出しますか。
はは、こう見えても技術屋なんです。

突然、辺りが紫色に変わった。セヒラに満たされようとしているのだ。
そこへバールが現れた。バールは風魔をまっすぐ見て言う。

【バール】
ここに長居は無用だニャ!
すごく危険だニャ!
【バールの帽子】
ゲロゲロ、ここには何もない、
喜びも悲しみも、愛も憎しみも、
何も何もないゲロよ!
【バールの帽子背後】
無限に広がる虚無きょむの世界じゃよ。
皆、本心を押し殺して暮らし、
そのうち本心さえなくなった世界だ。
【バールの帽子】
誰もがうわつらだけで生きているゲロ、
早くこんなところからずらかるゲロ!
【バール】
ん?
誰か来るニャ!
風魔、気を付けるニャ!

邸の方から聖宮がやって来た。

【聖宮成樹】
何か騒がしいですが――
どうかされましたか?

その時である、白い霧が一気に晴れて明るい庭となった。

【新山眞】
喪神さん!
――ここは……
私は……何をしているでしょうか?
――この庭で……

【聖宮成樹】
――
――喪神……さん?

一瞬、世界は白い霧に包まれかけた。しかしすぐに晴れる。

【聖宮成樹】
喪神さん!
ご公務でいらっしゃいますか?

周りの光景が滲んで消えた。
薄暗闇の中に風魔は立っている。
不意に声がした。

【???】
風魔――
私よ、淑子としこよ。
今、あなたを近くに感じるわ。

風魔――
あなたに会いたいわ……

風魔は声の方へと歩き出した。
そこへバールが現れた。

【バール】
風魔、耳を貸すんじゃないニャ!
さぁ、事変の世界に戻るニャ!

風魔は闇に呑まれてしまった。

1935年12月26日未明――
愈々いよいよ、新しい天地が現れようとしていた。それは柴崎が求めて止まなかった混沌カオスの世界であった。

あらゆるものが不整合に融合し、歪み、軋んだ音を立てている世界であった。
それこそが悪魔の望む世界なのである――

しかしそこにもう一つの力学が作用して、二つの世界は弾かれようとしていた。
その中央に姿を見せるのが虚無の世界であった。綾部研究員が言及した世界だ。

【着信 喪神梨央】
兄さん!
同じ場所に三つの波形があります!
――兄さんが立っている場所です!
これだと兄さんが三人いる、
そういうことになってしまいます!
ドッペルゲンガーではありません!

【着信 新山眞】
三本の世界軸が接近している、
どうもそのようです。
混沌世界、虚無世界、そして現世――

一本に合わさるのでしょうか?
それとも――

再び周囲から光が失われた。
3つの世界の狭間に吸われたかのように。

そこに虹人がいた。
風魔を見据えるその目は歓喜に輝いている。

【シロカネコウ】
長い間、眠っていたワ!
十年、いや二十年……
その前からすると、もっとヨ!

お前が私を待っている人なの?
そうぢゃないのか知ら?
違うならどうして此処ここに居るの?
待っていたんでしょ?
さっきまでの人は、
すっかり居なくなっちゃったワ。
だからぐに繋がるのヨ!

あら、嬉しかないの?
嬉しいはずヨ、屹度きっと
ほら、私ヨ、見て、見て、見て!!

《バトル》

【シロカネコウ】
やっとね!
やっとよ……
随分と長かったワ!

星の夜に大君ルシファーは昇りゆく
その暗の統御とうぎょあぐむんで 
雲の半ばにおおはれた廻球かいきゅうの上に

魔は揺らぎゆく

虹人の体から色が失われた。
そして不自然な姿勢でのけぞっている。その胸の辺りか真っ白に輝く気体が立ち上る。
光でもない、煙でもないそれは、やがて人の形となった。

今年、五度目の日蝕にっしょくが南極地方で発生した。

帝都にもたらされた予言は現実のものとなった。
第五の予言
世界は光と闇の天秤てんびんによって計られるであろう

第六の予言
無垢むくなる力が真の導きを為すであろう

第七の予言
日蝕ひくく明け新しき天地あめつちひらかれり

第八の予言
全地の主なる大王あらわれり

第九の予言
すべては新王のたなごころに收まるであろう

第四までの預言はついぞ語られなかった。

帝都事変を経て世界は3つに分かたれた。
事変、虚無きょむ、そして現世という世界――

予言はそのことをまさしく言い当てていた。
いつしか予言は東京黙示録と呼ばれ始めた。
それを知るごくわずかな者たちの間で。

特異点は大震災のあった1923年だった。
その時から世界軸はわずかにずれ始めていた。

ずれが愈々いよいよ極大化したのだ――

混沌世界と現世、この二つが接近し、離反したことで虚無世界が現れた。
三本の世界軸はしかし合わさることはなかった。ただそれにより、歴史は大きく巻き戻ることになる――


1904年3月17日、硫黄島いおうじま
16時30分44秒、ここに金環日蝕が始まった。その光を受け、すべての始まりとなるひとつの結晶が生まれた。

小さなケアン――

やがて光と闇の交錯する地に漆黒の穴が開いた。五分ほど続いた金環蝕の終わる時、ケアンは音もなくその穴へ吸い込まれて消えた。

二十世紀初頭の特異点から新たな歴史が始まった。そして世界軸は三本に分かたれたままである。

1904年、この歴史上の特異点から真の20世紀は始まった。再生の特異点として、後にルネサンスと呼ばれる。
やがて合わさる時まで、世界軸は三本に分かれたままである――

現世軸にも帝都はあった――

〔赤坂街路〕

赤坂街路――
電停から市電が発車するや、子どもたちが車道を駆け渡る。
市内で一斉に桜が色づき、まさに春爛漫らんまんの時季を迎えようとしていた。

時は1935年4月――
セヒラもゲートも存在しない世界――

【九頭幸則】
なんとかに潜り込めた――
近歩一きんぽいちなんて無理な相談だよな。
ま、でも習うより慣れろというからな!

尋常の同級でただ一人の軍人だ――
風魔ふうま審神者さにわ免許皆伝めんきょかいでんだと言うし。
みちは違うが、ある意味競争だな!

【如月鈴代】
山郷やまごう叔父おじ様と力を合わせて、
東雲しののめ流を護らないと――

降りた神を見極める神眼しんがん
そう簡単にはそなわることなど、
あり得ませんが!

【喪神梨央】
丹那たんなトンネルは一昨年おととしに貫通、
鉄道ダイヤが組まれたのは去年です。
去年末、省線のダイヤ大改正が――

前に淑子としこ姉さんを見舞った時は、
ダイヤ改正前でしたね。
東海道線三島駅から、
駿豆すんず鉄道で修善寺しゅぜんじに行きました。

――兄さん、姉さんがお呼びですよ。

〔溜池通〕

【喪神淑子】
待ちましてよ、風魔――

フフフ、
今日はもう稽古けいこはおしまいでしょ?
ならよかったわ、
オウルグリルでオムライスでも――

あらいいのよ、私がご馳走するわ。

〔是枝邸〕

1935年12月26日、夜――

大崎おおさき是枝これえだ邸は夜の静寂しじまに包まれていた。瑛山会えいざんかいは是枝邸の離れに本部を置いていた。
その庭先に探信儀たんしんぎはなかった。

【案じる声】
今年、ついに怪人騒動も何も
起こりませんでしたわ。
そして今日この日を迎えても――
【静かな声】
五度目の日蝕にっしょくの日が終わるまでは、
予断を許さないものでした。
この一年、いや二年、三年――
混乱極める世界が近付き、
さらにもう一つ、生まれたのです。
何もない世界が――
【案じる声】
何もない世界――
そういうのが御座いますの?
【静かな声】
所謂いわゆる虚無きょむ世界です。
私は虚無きょむ世界を垣間見た気がする――
麻布あざぶうちで……

【案じる声】
殿下、おうかがいしますが、
この写真が何か関係しますかしら?
確か興亜日報の記者が写したもの――

【静かな声】
ええ、この写真は浅草の雷門です。
ですが震災を経なかった雷門ですね。
それがあの帝都に存在したのです――
【案じる声】
大提灯おおちょうちんが下がっていますね――
震災の後は、小さな提灯が――
そのように覚えていますわ。

震災のなかった世界――
それがあの帝都にあったのですね?
それが虚無の世界――
【静かな声】
少しは顔を覗かせていたのでしょう。
ただ――
の世界は、
それ以上に混沌世界の影響を受け、
を戦わせる事態を招いた――
【案じる声】
のこの世界には――
影響は及んでいないのですか?
その、混沌からも虚無からも……
【静かな声】
少なくとも今のうちは。
次、世界軸の変動が起きるのがいつか
誰にもわかりません。

【案じる声】
殿下――
柄谷がらたに博士は達者でおいでですが、
別な世界ではやはり……
殿下の仰るようなことになっていた、
そうなのですね?
【静かな声】
それぞれの世界で、
皆、さだめのもとにあるのです。
生き死には関係なく――

私たちは帝都が、いや日本が、
歴史的に真っ当な道を進むために、
監視する必要がありそうです。
それが瑛山会えいざんかいの使命だと考えます。

今後、何が起きようとも――

6年後の1941年12月――
世界軸の日本は
太平洋戦争に突入する。

第九章 第十二話 冬至の朝

太陽は蛇遣へびつかい座の南西から東に移動して、愈々いよいよ射手座に入る――
明日、午前三時三十七分には冬至を迎える。日の出は六時四十七分、日の入り四時三十二分――
この一年で最も昼の短い日となる。

〔山王ホテルロビー〕

心なしか普段の年に比べクリスマスの飾り付けも控えめな山王ホテルロビー。
12月22日、日曜日の夜ということもあり、客の姿はなかった。
役所からの要請もあり、レストラン等の夜の営業時間は9時までとされていた。

【喪神梨央】
兄さん――
無理を言ってすみません。
どうしてもお話したいと――

ガランとしたホテル玄関から、新山和斗が足早にやって来た。

【喪神梨央】
新山にいやまさん――
【新山和斗】
僕の記事、すごい反響ですよ!
新しい世界が生まれるという――
編集でも大騒ぎです。
【喪神梨央】
新山さん、
どこからそういうネタを?
【新山和斗】
いやね、兄貴のメモにね、
アタラシキアメツチヒラカレリ――
そうあったものですから。
【喪神梨央】
メモに書いてあったんですか?
【新山和斗】
鉛筆の跡がね、へこむじゃないですか、
それをなぞって見ると文字が……
フフフ、僕は抜け目ないですよ!
【喪神梨央】
そんな落書きだけで、
興亜日報に特報打ったんですか?
【新山和斗】
きっかけは小さなことでもいい、
事件とはほぼそういうものです。

――それで……
誕生するという新世界に、
我々も行けるわけですか?
それとも選別がなされる――
そもそも新世界は、
この地上に生まれるのですか?
それとも……
【喪神梨央】
あんなに報じておきながら、
よくわからないわけですか?

山王機関本部から新山眞がやって来た。
手に風呂敷に包んだ箱のようなものを持っている。

【新山和斗】
兄さん!
さては兄さんも――
【新山眞】
和斗、お前は勘は鋭いんだが、
辛抱しんぼうが足りんな――
【新山和斗】
僕たちはね、時間との戦いなんだ。

で、兄さん、その箱は何ですか?
また何かの計測器ですか?
【新山眞】
ああ、これは大変なものだ。
セヒラを計る装置だな。
世界軸の歪みを観測する――
【新山和斗】
セヒラ量子?
世界軸?
これまた新理論ですか――
【新山眞】
米粒大ほどの臨界セヒラが、
最終的には新しい宇宙を生む、
その一部始終を観測するのだよ。
ヤスパース=クルーガー効果――
観測に成功した学者の名前だ。
超ベンヤミン現象とも言うが――
【新山和斗】
兄さん!けむに巻くつもりですね!
僕はねこの目で見て、
この手で記事を書く。
【新山眞】
その脚でおもむくことを忘れるなよ。
【新山和斗】
言われなくても――
それじゃ、失敬します!

新山和斗は足早に去って行った。

【新山眞】
やれやれ……
せいぜいブンヤを喰われないよう、
気をつけないとな、彼奴あやつも――
【喪神梨央】
新山さん――
セヒラ量子とか、
そんな難しい話があるのですか?
【新山眞】
セヒラ量子論はありますが、
私はからっきしの門外漢もんがいかんですよ。

そう言うと眞は風呂敷を解き、箱の蓋を開けた。

【新山眞】
これは例の魔鏡まきょうです、完成しました。
ゼーラム五ニ五を塗布とふして、
愈々いよいよ、鏡が常態を取り戻した、
つまり魔鏡となったのです。

【新山眞】
私は本部で待機します。
なにせ冬至は明日ですから。

【喪神梨央】
兄さん――
レーネさんがお話があると。
私も本部にいますね。

梨央の去ったそのタイミングで藤沢レーネがやって来た。
レーネは風魔を認めると歩調を落とし、そしてゆっくりと近付いた。

【藤沢レーネ】
表は満天の星空ですわね。
明日はきっといいお天気ですわ。

実は……
ここだけのお話なのですが――
露西亜ロシアが秘密結社を使って、
満洲転覆てんぷくを計画しています。
李景明りけいめいさんからの情報です――

李景明りけいめいから寄せられた情報では、満洲は関東地方にソ連軍を侵攻させ、白系露西亜ロシア人の拠点きょてんを確保する計画があり、その準備のために新京シンキョウ露西亜ロシア人秘密結社、ウートロシーリが結成されたという。

【藤沢レーネ】
ウートロシーリの日本要員は、
ウラジミール・グロトフという、
露西亜ロシア人が務めます。

露西亜ロシア人グロトフはご存知ぞんじですよね。
是枝これえだ咲世子さよこさん宅の書生でした。

もう一人、グロトフが徴用ちょうようした、
露西亜ロシア人司祭がいます。
この二名が今夜連絡します――

ホテル玄関からに二名の背広姿の男性がやって来た。彼らの身のこなしには無駄がない。
二人は藤沢レーネの後ろに付いた。

【要員Q】
司祭が東洋ホテルを出ました。
円タクで下大崎に向かいます。
【要員R】
運転手が前照灯ぜんしょうとう合図あいずを――
点滅が二度ありました。
【藤沢レーネ】
つまりは二番目の目的地ね。
――それが下大崎――

連中、牛頭ごず機構と結託けったくしている、
その情報があります。
後の話は車の中で――

グロトフが徴用ちょうようした司祭は、イーゴリ・ゲラシモフという。
本業は日満を行き来する雑貨商だった。
その二名が今夜、下大崎で連絡する。
それを捕獲するのがこの計画だった。

警護に牛頭ごず機構から
要員が出ている――

その噂もあり、レーネは風魔ふうまの同行を頼んだ。

【藤沢レーネ】
N計画の阻害そがいということでは、
露西亜ロシア人結社も牛頭ごず機構も、
利害の一致があるはずです。

急なお願いで、
申し訳ありません――

〔下大崎〕

日曜夜更けの下大崎は静まり返っていた。車のドアを閉める音がやけに大きく響く。

【藤沢レーネ】
喪神もがみさん――
一人の日本人が来ます。
気を付けてください。この先で二人のロシア人を捕縛する手筈です。
今、邪魔が入ると……

レーネの視線の先に一人の着物姿の男性の姿があった。男性は寒空の下、コートも羽織っていない。
男性はゆっくりと近付いてくる。
顔に薄笑いを浮かべていた。

【牛頭機構関東会構成員G】
牛頭機構ごずには粗野そやな連中が多く、
ご迷惑をおかけしていますね。
うちは新京シンキョウで料亭を営み、
日満の親睦しんぼくにこれつとめるわけです。
そこへ猶太ユダヤやからを住まわすなど、
全くの無用の策というもの!
――そうではありませんか?

山郷某やまごうそれがしは姿をくらませた。
何か計略でもあるのでしょう――
ただ、時間がない!
いろいろ情報はつかんでいます、
露西亜ロシア人らの目も節穴ではない。

明日、託言たくげんが明かされる――
それを是非ぜひ知りたいものです。
さぁ、ここはお引き取りください。

風魔の脇に音もなく先程の背広姿の男性が来た。その様子を見た着物姿の男は、やおらセヒラを集め始めた。
二人の背広姿は素早く退いた。

【牛頭機構関東会構成員G】
そういうわけにもいかないと――
それは残念です!

《バトル》

【牛頭機構関東会構成員G】
露西亜ロシア人をふうじても、
まだ我々がいますよ――
想定外の数がね!

建物の角から二人の聖職者が現れて立ち止まった。
そして静かな声で告げる――

【要員X】
私はです。
露西亜ロシア正教の神父です。
【要員V】
私はです。
露西亜ロシア正教の司祭です。

そう言うと、二人はまた建物の影に隠れてしまった。
車に戻った風魔にレーネが言う。

【藤沢レーネ】
首尾よく捕縛出来たようです。
本物のグロトフとゲラシモフは、
憲兵隊本部に向かいました――
近く満洲国軍憲兵に継がれます。
今の二人は替玉として、
ウートロシーリと連絡します。
これで無事に明日を迎えられます。

喪神もがみさん――
ありがとうございました。
山王さんのうへ戻りましょう。

藤沢レーネの運転する車で山王さんのうホテルへ。レーネは重ねて礼を述べた。
明日はホテルの部屋で静かに待機するという。

〔山王機関本部〕

山王機関本部では梨央がじりじりしながら待っていた。
湯呑みの茶はすっかり冷めている。

【喪神梨央】
兄さん!
突然いなくなるから心配しました!
あのグロトフさん――
露西亜ロシアの秘密結社って、
ぜんせんそんなふうじゃ――

魯公と眞が奥から現れた。

【帆村魯公】
連中が明日のことを、
聞き及んでおったとはな。
どこかられたことやら。
【新山眞】
冬至を特別な日とする風習は、
世界中にあります。
こちらの動きを探れば――
【喪神梨央】
想定はできたということですか。
でも魔鏡のことは知られていません、
そうですよね、新山さん!
【新山眞】
勿論もちろんです!
ようやく鏡は安定しました。
備えは十分でしょう。
【帆村魯公】
鏡に付随していた文書によると――

マナイノカガミハ
ソレノサマ ウルワシクテ
モロカミタチノ
ミココロニモアエリ――

【喪神梨央】
ひとつあらかわたらして詰まる――
その朝、言葉がしめされるのです。
それからレーネさんの言う、
冬至とうじの朝陽が示す支族の帰還――
冬至とうじ、朝陽、鏡、それから――

水辺です!
範奈はんなさんがお姉さんから伝えられ――
このあたりで水辺といえば……
【新山眞】
清水谷しみずだに公園ですかな。
あるいはお堀、外堀――
あまり水辺という感じじゃないです。
【帆村魯公】
清水谷しみずだに公園か――
よし、梨央りお、連絡だ。
わしは宮司ぐうじと殿下に伝える。
【喪神梨央】
私、範奈はんなさんに伝えます。
電話、渋谷局です――
【新山眞】
電話をお持ちなんですね、
お宅で電話なんてすごいですね!

【帆村魯公】
ところで、明日、天気だがな、
中野の気象部に問い合わせてみた。
今日と同じ冬晴れだそうだ。
【新山眞】
明日も西高東低の冬型です。
北西ノ風、晴、寒サ厳シ――
予報にはそうありました。
【帆村魯公】
よし、早速連絡だ。
新山にいやま君、君は鏡を持って、
奥で休んでくれ。
【新山眞】
承知しました。
【帆村魯公】
風魔も本部に待機してくれ。
わしはもう一度――
(気象部の当直と話そう……)

昼、強く吹いていた北風はんでいた。
あと1時間ほどで
冬至の日を迎える時刻、
帝都は夜の闇の中に沈んでいた――

〔清水谷公園〕

夜が明けた――
1935年12月23日、冬至。
帝都は雲一つない冬晴れであった。
清水谷しみずだに公園には、多加美たかみ宮司、
そして廣秦ひろはた範奈はんなが集まっていた。九頭くずの手配した兵が規制線を張っていた。

【九頭幸則】
なぁに、ちょいと気をかせて、
隊から兵を調達したってわけだ。
梨央りおちゃんに聞いたら、
今日が予言だかが現れる日なんだろ?
俺も付き合うぜ、
ここまで来たんだからな!
【新山眞】
まだ確かなことは何も――
ただ試すだけのことはあるかと。
さぁ、参りましょう!

大久保利通碑の先に心字池しんじいけがある。
池の端に多加美宮司と廣秦範奈が立っていた。

【多加美宮司】
範奈はんなさんは先日、満洲から戻られ、
今日の日に備えておいでです。
【廣秦範奈】
父と、姉と、言葉を交わしました。
姉と私には
たくされたものがあると――
それが何かはわかりません。
【多加美宮司】
廣秦ひろはたさんの出自からすると、
やはり失われた支族に繋がること、
そうだと考えています。
【廣秦範奈】
姉と私とで為すことがあると――
父はそう姉に伝えたようです。
【多加美宮司】
お姉さんはこちらにおいでですか?
【廣秦範奈】
いえ――
ですが繋がると思います、
おそらく、きっと――
【新山眞】
ちょうど陽も差してきました。

そう言うと新山はおもむろに鏡を取り出し、明るい朝陽をその鏡面に受けた。鏡は眩しく輝いている。

【九頭幸則】
どうなってるんだ?
――何も映らない……
【多加美宮司】
水です、水面を照らすのです!
範奈さんは水辺でと仰っています。
【廣秦範奈】
――姉さま……

新山は鏡面で受けた朝陽で、公園の心字池の水面みなもを照らした。
わずかに水面が小波立っている――

【九頭幸則】
あっ!
池の水面が――

池の水面に光が集まり、やがて水面自体がまばゆく輝き始めた。
池から放たれた光は
周囲を包み込む――

【廣秦範奈】
――姉さま……
おいでになるのですね――
姉さまのこと、感じます――
もっと……そばに……
おいでください――

廣秦ひろはた範奈はんなは姉を迎えたかに見えた。
しかしすぐに光はついえてしまった。

【新山眞】
見てください!
池です、水面に何かが見えます!
【多加美宮司】
あれは……
何かの文字……
【九頭幸則】
なんて書いてあるんだ?

それこそが範奈はんなと姉にたくされた言葉、
まさしく託言たくげんであった――

【多加美宮司】
すえ有り、に在りて――
【九頭幸則】
何ですか、そのとは?
【新山眞】
それがメ、シ、アだとすれば――
メシアとは救世主のことです。
ですが池に現れた託言たくげんは、
場所を示しているようにも――

【多加美宮司】
範奈はんなさんはどこですか?
【九頭幸則】
あれ、今さっき、ここにいたのに!
【新山眞】
さっきのまばゆい光の中で、
消えたようにも見えましたが――
【九頭幸則】
公園の山手の方を探してくるよ!

【多加美宮司】
すえとは末裔のことですね、
それがすなわち救世主ということです。
私はそう読み解きますが。
【新山眞】
その救世主はどこにいるのでしょう?
待てば姿を見せるのでしょうか?
【多加美宮司】
あっ!
見てください、池の字が消えます!

池の水面に現れた文字は、見る見る薄くなり、小さな波紋はもんを残して、跡形もなく消えてしまった。

【新山眞】
託言たくげんらしきは確認できました。
ひとまず戻りましょう。

鏡ですが……
表面がくもってしまいました。
もう霊力が失われたのかも――

風魔ふうま新山眞にいやままこと多加美たかみ宮司とともに、山王さんのうホテルへと戻った。九頭くずは兵に指示を出して範奈はんなを探すという。

〔山王ホテルロビー〕

【喪神梨央】
兄さん!
隊長がお待ちかねです!
【帆村魯公】
柴崎しばさきがいみじくも言っておったな、
地震でセヒラがいたようなことを。
それで思い出したんだ、
仏蘭西フランスの地震学者シャルボー氏をな!

シャルボーは前回の乙亥きのといの年、1875年、明治8年に波動を観測。
しかしそれは地震のものではなかった。

【新山眞】
セヒラの波動を観測したのですね。
その後に大震災が起きています。
もしやセヒラが地震を招いたとか?
【帆村魯公】
わしもそれが気になって、
気象部の宿直しゅくちょくに聞いたんだ、
この六十年の地震記録を――
【新山眞】
それで、どうだったんですか?
セヒラの波動と地震の関係は?
【帆村魯公】
それが特にはなかった。
やはり柴崎しばさきが触れた関東大震災――
それが、何というか……
【新山眞】
特異点といった言葉があります。
波形では特異点で変調して、
別な波形に変わるのです。

【喪神梨央】
範奈はんなさんの言葉――
確かメシアに在りですよね?
【帆村魯公】
何か地震に因む言葉なら、
場所の特定ができたのだが――
【多加美宮司】
地震……
地震!
まさかとは思うのですが――
【帆村魯公】
どうされましたかな?
【多加美宮司】
はい……
語感が似ているのですが、
メヂアンというのがあります。
【新山眞】
メヂアン?
何ですか、それは?
【多加美宮司】
中央構造線です。
メヂアン線とも言いますが――
日本列島の中央を貫く巨大な断層で、
数多あまたの地震震源地でもあります。
【帆村魯公】
梨央りお、列島の地図だ!

梨央が作戦卓の上に地図を広げ、一堂は見入っている。

【多加美宮司】
メヂアン線は九州から四国、
紀伊きい半島を横断して中部へ、
茨城の鹿島かしまで終わっています。
この地図で見ると――

【新山眞】
この地図は……
わざわざメヂアン線を書き入れた?
そういう地図なんですか?
【喪神梨央】
いえ、ただ本部にあった地図です。
こんな線、ありませんでしたよ。
――おかしいですね……
【多加美宮司】
メヂアン線の上には、
今では多くのおやしろが建ちます。
断層が暴れないように抑えるのです。

諏訪すわ大社もその一つとされています。
千葉の香取神宮や茨城の香取神宮、
それら官幣かんぺい大社も
線上に建ちます――
中でも鹿島かしま神宮は、
構造線を要石かなめいしで封じているとされ、
いくら掘っても石の根は見えません。
【帆村魯公】
確か光圀みつくに公が掘るのを命じた、
でも断念したのですな。
【新山眞】
それにしても――
メシアがメヂアンなんですか?
メヂアンに在りというと――

キロにも及ぶ構造線のどこかに、支族しぞく末裔まつえいがいる、そういうことなのでしょうか。

【多加美宮司】
ああ、そうです!
長野にも構造線のほぼ上に建つ、
御蔭みかげ神社があると聞きます。

その時である――
多加美たかみ宮司の手にする地図に
光が走った。
まるでナイフでいたかのように――

【新山眞】
これは……
地図に霊異りょういが発現したのですか!
【帆村魯公】
メヂアン線と交差するこの線は――
一体、何ですかな?
【喪神梨央】
丹後半島です!
先日、お出になった京都、
このあたりではありませんか?
【多加美宮司】
そうです!
元伊勢、この神社の外宮、
真名井まない神社、まさにこの場所です!
【喪神梨央】
東の端は――
帝都ですよ、ちょうど……
日枝ひえ神社の辺りです。

山王機関本部にサイレンの音が鳴り響いた。

【帆村魯公】
何だ、今度は!
サイレンが鳴ってるぞ!
【喪神梨央】
すぐ調べます!!

〔山王ホテル前〕

サイレンが鳴ったのは、ホテルに執事型ホムンクルスが来たからだ。
梨央りおの要請で風魔はホテル前で対峙たいじした――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
注意してください!
――新型の波形が観測されます!

【執事型ホムンクルス】
異変!ウンファール異変!ウンファール
コウジン――
異変!ウンファール

【着信 喪神梨央】
セヒラの値が――
急になくなりました!
彼ら、戦うようではなさそうです。
【着信 帆村魯公】
連中は伝えに来たのだ!
虹人こうじんに異変と言っておるぞ!
三宅坂みやけざかへ向かってくれ!
【着信 喪神梨央】
独逸ドイツ大使館、すぐ近くですが、
公務電車出します!

地図にしるされた二本のライン――
その交点に御蔭みかげ神社があると宮司が思い出す。
かつてそこに勤めていた
巫女みこがいた――
その名を白金江しろかねこうという――

【着信 喪神梨央】
兄さん!
白金江しろかねこうとは虹人こうじんさんの……
虹人さんのペンネームです!

〔アーネンエルベ〕
【聖護院丸】
先程、虹人さんがいきなり――
いきなり大声を上げて、
地下の講堂に駆け込んだのです。
講堂に行くと、
虹人さんの体から光が――
光がほとばしっていたのです!
【鳴滝丸】
あの光はクラウフマンこう――
ユリアさんが付き添っている。
クラウフマン光は、
カー体が崩壊するときに出る光だ。
――一体、何が起きたんだ?

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
独逸ドイツ大使館近辺で、
異常な波形を観測しました!
セヒラの値は通常ですが、
注意してください!

〔アーネンエルベ講堂〕

そこにはたして虹人の姿があった。
虹人は苦しそうに腰を折り肩で息をしていた。何よりもその体、まるで桃色の光背を現すかのように光を放っている。
虹人を見守るようにして二人のユーゲントがいた。

【上賀茂丸】
さっきからずっとこうなんだ!
ユリアさんが原因を調べると――
この光は危ない光なんだ!
【化野丸】
喪神さん!
虹人さんはどうなるんでしょうか?
この二日ほど、
頭が痛い、割れそうだと――
喪神さん!!
それから……
多分ダンテの神曲だと思う、
憑かれたみたいにつぶやくんだ――

三つの咽喉のどある暴戻ぼうれい
巨怪チェルベロいぬのごと
奈落の民にゆるなり

【帆村虹人】
風魔!
――僕の中に何がいるんだ?
悪魔でも飼うのか――
僕は、僕は、僕は!!

風魔の目に虹人の見てきた光景が映し出された。

「はじめまして、咲世子さん。
 是枝大佐には――

「ところで、僕たちは似た者同士――

「僕の哀れな感情は、翼を痛め、
 飛ぶことができない――

「……実を言うと
 僕は貴紙の投稿者です。

「僕の中には冷まさなきゃいけない、
 そういうものがあるんだ――

「僕が参加するのは今夜で二回目だ。

「僕は今、混迷の中にいる!

「そうさ、僕は僕だ、誰でもないんだ!

「踏み出す一歩は
 見えているのだが――

世に在る、世に在らぬ、それが悩み。
そこへユリア・クラウフマンが姿を見せた。虹人を見るユリアの目は見開かれている。

【ユリア・クラウフマン】
コージンの中から、
何かが生まれようとしている――

カー体の臨界光にそっくり……
でもまったく別物のよ。
何かの終わりであることは確かね。
カー体の崩壊は二万年以上――
だから誰も臨界光は見られない。

コージンの光は……

虹人は相変わらず光を放ちながら腰を折っている。ユーゲントの姿はなかった。

【ユリア・クラウフマン】
見て、フーマ!
あれは……ヴェアーなの?

虹人の放つ光が凝集して人の形をなしつつある。それは少女の姿であった。まるで虹人そのものが光となって少女の姿を成すかのようである。
やがて虹人の体が透けながら消え、講堂には光の少女だけが輝いている。

【ユリア・クラウフマン】
消えた……
――フーマ……
コージンが……消えた……

光の少女は一層激しく輝いている。

【ユリア・クラウフマン】
まさにカー体が崩壊するときの光、
そのものです――
似た現象が起きているのですね。

何かが崩壊し、
何かが生まれようとしている――
カー体よりも何万倍もの強い力、
それを感じます――

そこへユーゲントが走り込んで来た。

【嵯峨野丸】
大変だ!
大使館の玄関に……

【ユリア・クラウフマン】
フーマ!
表よ! 行きましょう!

〔独逸大使館〕

独逸大使館前に一人の少女が立っていた。白いワンピースドレスを着ている。
少女は大使館の玄関を凝視していた。
そのとき、大使館の中庭から芽府須斗夫がやって来て、少女の脇に立った。

少女はゆっくりと
芽府須斗夫の方を向く。

【芽府須斗夫】
もうじき名前を思い出す……
きっとそうだよ。
【ユリア・クラウフマン】
あなたは……

芽府須斗夫を見てユリアは怪訝そうな表情を浮かべた。

【芽府須斗夫】
僕は名前を思い出した。
元の古い名前の方だ。
それも完全じゃないけど――
【ユリア・クラウフマン】
名前を忘れるとどうなるの?
【芽府須斗夫】
やって来られなくなるんだ。
途中で止まってしまうとか、
いろいろ言われているよ。

名前を失念した、
そういう人に会ったことがある、
ついこの間ね。

【ユリア・クラウフマン】
あなたはどんな名前なの?
【芽府須斗夫】
メフィ……スト……
【ユリア・クラウフマン】
メフィスト……
【芽府須斗夫】
フェレス!
メフィストフェレスさ!
これで全部思い出した。
【ユリア・クラウフマン】
メフィストフェレス――
ファウストの……悪魔……

――あなた、そうなの?
【芽府須斗夫】
僕は伝承の中にいた。
どのみち人が生み出したものだけど。

そしてここに来た――
呼ばれて来たはずだけど、
行き先の名前を忘れたんだ。

でも元の名前を思い出した。
名前は自分で思い出さないと、
駄目なんだよ、
教えてもらっちゃ駄目なんだ。
【ユリア・クラウフマン】
あなたの話には興味がある――
ゆっくり聞かせてね。
【芽府須斗夫】
わかったよ――

それで、ここに来るのは、
どこの誰なんだい?
この子の元にも誰か来るんでしょ?

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
急激にセヒラ上昇しています!
今まで何も観測しなかったのに。

少女の周囲にセヒラが集まり、見る見る濃さを増していく。
やがて何も見えなくなってしまった。

〔時空の狭間〕

【芽府須斗夫】
聞いていいかい?
君は誰なの?
どこから来たの?

芽府須斗夫が少女に語りかけている。
少女は芽府須斗夫の方を見ないまま静かに答える。

【???】
シ、ロ、カ、ネ――
――コ、ウ――
【芽府須斗夫】
シロカネコウ――
それが君の名前だね?
元の名前なのかな?
【シロカネコウ】
モ、ト、ノ……
――ナマエ!
【芽府須斗夫】
そうだよ、
ここに来る前の名前なのかって、
そういう話さ。
【シロカネコウ】
マンナカノ、ナマエ!
――シロカネコウ!
【芽府須斗夫】
シロカネコウがいつの人か、
それは知らないけど、
君自身はもっと前の人なんだね?
【シロカネコウ】
――イャシャン……
――フルイ
――アルツ
【芽府須斗夫】
これは驚いた!
君は幾多いくたの思念の重なった存在、
そうなんだね?
長い時間の中を抜けて、
ここにたどり着いたんだね!
――今まではさっきの人の……

時空の狭間にセヒラを纏う虹人の姿が映し出された。

【帆村虹人】
風魔――
今の僕はまるで抜け殻だよ。
自分の内側がすっかり剥がれて、
僕は薄っぺらな皮一枚だ。
お前を思ったりする気持ちは、
どこから湧いてくるんだろうか?

僕の気持ちはお前の中につちかわれる、
きっとそういうことだよ――

そういうことだよ――

【帆村虹人】
僕を追い出して、何かが来る――
風魔、気を付けるんだ!
もうこれはじゃないから!

そう言うと、虹人の姿は消えた。
その時、芽府須斗夫が叫んだ。

【芽府須斗夫】
何か来るよ、
とても強いものが!

見ると少女はセヒラに包まれている。
それは、やがてひとつの形を成そうとするかのように蠢いていた。

《バトル》

少女の体は希薄になり、やがて消えた。
始終を見ていた芽府須斗夫はおもむろに口を開いた。

【芽府須斗夫】
遠い過去の思念が繋がった――
途中、色んな人の念を吸収して。

この世界に大きな影響を与える、
それだけは間違いないよ。
世界を変えるほどの力が、
ほうぼうに生まれそうだね。

僕も自分の理由が思い出せそうだ!

独逸ドイツ大使館の霊異りょういは去った。
光が消え、虹人も消えた。
遠い過去から繋がった思念――
それは自らを白金江しろかねこうと名乗った。
まるで虹人を依代よりしろとしていたかのように。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
虹人さんの行方、
幸則ゆきのりさんが指揮して探すそうです。
将兵二百余人を動員するとか――

白金江しろかねこうさん――
本当にいたんですね。
【新山眞】
多加美たかみ宮司の話では、
長野の御蔭みかげ神社には、
白金江しろかねこうという巫女さんがいたと――
ただし二十年ほど前のことで、
今では無人のやしろだそうです。

まさに交点に建つのです――
真名井まない神社と日枝ひえ神社を繋ぐ線、
これはマナセ一族にちなむ線、
マナセ線と呼んでいいでしょう。

中央構造線とマナセ線、
二つの線の交点に、
まさに御蔭みかげ神社はあった。

中央構造線にすえ在り――

託言たくげんは告げる。
諏訪すわから秋葉街道を南へ、
四十キロほど下った山中である。

【喪神梨央】
失われた十支族の末裔まつえい
それが白金江しろかねこうなんですね。
――でも今は思念のような存在……
【新山眞】
遠い過去から繋がった思念ですね。
途中、多くの人の思念が合わさり――
【喪神梨央】
皇女和宮かずのみやの思念の時みたいです。
でもあの時と違うのは……

虹人さんの中に宿やどっていたことです!
虹人さんが狙われるかも知れない――
兄さん!
【新山眞】
明後日、先帝祭が終わって、
日付が変わると……
愈々いよいよ日蝕にっしょくが起きます――
そのとき、新しい天地あめつちが――
ただ待つしかないのでしょうか?

【喪神梨央】
――隊長……
さっきから黙りこくって、
どうされたんですか?
【帆村魯公】
虹人じゃ――
奴はいつそんな霊異りょういを備えたのか?

――もしやあの時……

失われた猶太ユダヤ十支族の末裔まつえいは、
白金江しろかねこうという存在として
虹人に継がれた。

真名井まない神社の魔鏡は霊力を失い、伝えられた冬至の日は静かに過ぎていく。

予言の語る日まで三日も残っていなかった。

第九章 第十一話 世界軸

異なる世界とでも言うべき体験の後、発生したセヒラ異常で赤坂哈爾浜ハルピンへ。
中味に人を残すカバネを迎えることに――

〔赤坂哈爾浜〕

【着信 新山眞】
喪神もがみさん――
あのカバネ、あ、いや、綾部あやべ氏は、
とても知識が豊富です。
帝大文科の出ですが、
独学で時間旅行と魂の研究をし、
論文までしたためたそうです。

喪神さんに話があるとか――
是非ぜひ、同行お願いします。
その先で待っていますよ。

【内務省安寧課D課員】
安寧あんねいですか? 安寧あんねいですか?
勿論、安寧あんねいですよね――
この国で、安寧あんねいでないなんて、
ちょっとあり得ません。

【内務省安寧課S課員】
安寧あんねいですか? 安寧あんねいですね!
新しい標語です――
黙って労働、笑って安寧あんねい
心がしずまるようではないですか!
貴方も難しい顔などしないで、
安寧あんねいにしてください!

【内務省安寧課E課員】
安寧あんねい課ではラヂオ番組を提供します。
安寧唱和あんねいしょうわを十三回行ってから、番組が始まりますよ!
番組とは安寧あんねい料理相談です。
記念すべき第一回は西洋料理相談。
リードボーの葡萄酒ワイン煮込みです!

【内務省安寧課K課員】
今は冬ですから、起床時間は六時、
夏にはこれが五時に繰り上がります。
起床後、直ちに安寧釦あんねいボタンを押して、
一日の安寧あんねいを当局に誓いましょう。
――ご安寧あんねいに、ご安寧あんねいに!

【内務省安寧課A課員】
日々の労働で安寧あんねいな生活を!
独逸ドイツ人はいいことを言いますよ――

アルバイト マハト フライ――
働いて自由になろう。
安寧あんねいに、ご安寧あんにに。

【内務省安寧課Y課員】
おい、貴方!
国民の安寧あんねいを乱すでない!
国民安寧あんねい必携ひっけいを所持するか?

ああん、どうなんだ?
貴方……内務省安寧あんねい課をめるな!!

《バトル》

【内務省安寧課Y課員】
ううう――
私の心に巣食うものは何だ?
直ぐに安寧あんねい運動で取り去らねば!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
カバネと合流してください!

【綾部研究員】
大学の資料室にあった赤新聞に、
英吉利イギリスの空想科学小説、
八十万年後の社会が載っていました。
航空機ではなく時を移動する航時機タイムマシン
それに乗って未来に行く話です――

それはHGウェルズが発表した空想小説、タイムマシンを翻訳したものだった。
大衆紙に連載され人気を博した。
そこに描かれている遠い未来は、明るく広い庭に果樹が点在する、まるで楽園のような場所であった。

【綾部研究員】
その一節、そらんじていますよ!

博士は四方を見廻みまわしたが、
広い広い庭である、今し方、雨が降ったと見え、芝草にはつゆが宿っている、
土も柔らかに、我が足跡と航時機のわだちの跡がむほど湿っているが、時は夏の初めで有ろうか日の光が強い。

博士の前には、大理石できざんだ大きな獅子女面の像がある。
広い庭に古い遺跡が点在しているのだ。

【綾部研究員】
この時代の人は、皆、小さいのです。
その一節です――

家の窓から三四人の小さい人が
首を出して博士をながめていた――
彼等は子供ではない、
全くの成人おとなである、
背の丈は四尺に足るか足らずである。
声はヴァイオリンの音のごとく聞こえ、博士に接する彼等の手は真綿の如く
柔らかである――
アゝ、ここ
全く平和の天地である――

素晴らしいと思いませんか!
私は時間旅行の研究に着手し、
そして気付いたのです。
時間旅行するには人は重すぎる。
でも魂ならそれが可能になると。
魂の重さは四分の三オンスといいます。
卒業し、冒険青年の編集に職を得、
出社したらそこが防疫研究所でした。

時間旅行の研究をした仲間がいます。
アストラルですが話せるはずです。
こちらへ――

そう言うとカバネは踵を返して歩き去った。風魔は後に続く。
次の街区に行くと小型の二体のアストラルが浮かんでいた。カバネは向かって左のアストラルに話しかけた。

【綾部研究員】
新町君、君は時間とは線路のようだ、そう言っていたね。
【防疫研S研究員アストラル】
はい、時間は線路です。
過去から未来へ繋がる線路――
しかも複数あるのです。

独逸ドイツのエッセンである学校の先生が、
町角で自分の分身と出食わしたとか。
それがドッペルゲンガーと言います。
つまり別の世界を生きる自分、
それが不意に現れたわけです。
【綾部研究員】
私もかねてより世界は複数ある、
そう考えていたんだよ。
そして世界は時間に従い、
一つの方向を向いている――
だから世界軸と呼ぶことにしたんだ。
【防疫研S研究員アストラル】
その世界軸にはことわりがあります。
ことわりが違うと
世界軸も変わってくる――
そうじゃないんですか?
【綾部研究員】
ことわりことわりの間には、
ある種の閾値いきちのようなものがあり、
値を超えると別な世界軸に入る――
私はそう考えているのだが――
堀川君は、ことわりについてはどうだい?

カバネは向かって右のアストラルに話しかける。

【防疫研H研究員アストラル】
例えば無心と有心というのがあり、
それらはどちらもことわりを為します。
亜當アダム夏娃イブが禁断の実をかじる前、
二人は無心の中にいました。
かじった後は有心に堕ちたのです。
【綾部研究員】
その場合の世界軸は二本だね――
世界軸を移る、あるいは、
ひょんなことから世界軸が繋がる、
そういうこともあると考えています。
【防疫研H研究員アストラル】
無心軸から有心軸へ移ったように、
ある閾値いきちを超えると元の軸には
留まることはできないようです。
【防疫研S研究員アストラル】
別な世界軸から移ってきた自分、
それがドッペルゲンガーなんですね。
【綾部研究員】
もう一つ大切なこと――
それは別な世界軸に繋がるなどして、
結果的に時間旅行ができることです。
そうなれば――
大仰な航時機の発明は不要です。
ただ――
【防疫研S研究員アストラル】
世界軸をほしいままに操ることは、
今の技術ではできないのです。
【防疫研H研究員アストラル】
ただ世界軸の繋がりは起きている、
それだけは間違いないようです。
【綾部研究員】
世界軸の理屈であるなら、
魂ばかりか肉体を従えて移動でき――

嗚呼ああ! 魂……魂……
私は中味だけしか無いのです!
私には肉体が……無い……

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
満洲から電報がありました。
式部さんが哈爾浜ハルピンに――
キタイスカヤの東方飯店に
チェックインしました。
キタイスカヤに向かえますか?

交信の終わるのを待たずに二体のアストラルはスーッと滑るように去って行った。

〔キタイスカヤ街〕

まるで白昼夢のようなキタイスカヤ街。カバネと風魔がその街角に立つ。

【綾部研究員】
先程は取り乱してしまって――
もう大丈夫です。

さて、ここは――
キタイスカヤが再構築されている、
そうなんですね?
まるで本物の哈爾浜ハルピンですね。
でもその実は帝都満洲――
東亰ゼロ師団もここは知らないはず。
私、ちょっと見て回ります、
構いませんね?

そう言い残してカバネは歩いて行った。

【着信 喪神梨央】
東方飯店ホテルボストークに向かってください。
そこで式部さんのアストラルと
話せるかも知れません。
彼は何かをつかんでいるはずです――

ホテルの部屋では式部丞しきべじょうが回想している――
彼は混乱を極めつつある帝都を離れ、哈爾浜ハルピンで人心地付けたようである。

【式部丞】
日本人が来ると、
この部屋に案内するのが、
ここの暗黙の了解なのか――
最上階の角部屋、
確かに安全ではあるが――

これまで以上に細心の注意が必要だ。
私の報告が上がっていなかった――
そのことが自明になったからだ!

ナチの釣鐘デーグロケ山王さんのう機関にあり。

そのエニグマ電文は、
上層部が握り潰したのだ。
日独は防共をむねとする協定を、
おそらく来年には締結するだろう。
そうなれば――
私の知る情報は、
両国関係に水をすことになる。
何より上層部には都合の悪い情報だ。

ヴンダーの出現に帝都の武装SS隊員たちは、生捕いけどりにして本国送還の指令を受けていた。
そのことで式部は気付くのである――

【式部丞】
帝都の釣鐘つりがねについて知っていれば、
山王さんのう側が釣鐘つりがねをどう扱うのか、
その詳細な情報を求めるはずだ。
それをヴンダーの生け捕りだと?

――有り得ない!
ナチ本部は山王さんのう釣鐘つりがねを知らない。
山王さんのう釣鐘つりがねは、あってはならない事実なのだ。
そしてこの私の存在も――


何だ?
――誰かの気配がする……
――●△◇◎――

急にホテルの部屋のセヒラ濃度が高くなった。そして式部の姿は揺らぎながら消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
ホテル外でセヒラ急上昇です!
明確な波形も確認します!

〔キタイスカヤ街〕

通りの真ん中に中型のアストラルが浮かんでいた。そのアストラルは人の顔に当たるところが黒く潰されたようになっている。

【有澤機関SKアストラル】
またお会いしましたね――
貴方は……おそらく……
山王さんのう機関の――

私はね、二班の班長でしたよ。
二班は流言飛語の調査です。
もっとも、それすら表向きで――

実際は乙亥きのといの年にあるとされる、
悪魔降臨の予言を調べること……
帝都じゃ予言が実現しますからね!

おそらく偽書でしょうが、
予言書を手に入れ調査しました。
悪魔は痩身そうしんの青年の格好をする――
それは学生でしょうか?
たとえば文民社のようなところの?
可能性は全部当たるのですよ。

降臨悪魔のことは、
東亰ゼロ師団も狙っていました。
でも彼らは仮構かこうに守られ、
我々では手出しができない――
連中のことは山王さんのう機関に任せる、
それが組織の決定でした。
有澤機関ではなく、更に上の組織――
上には上があるのですよ。

書生、芽府めふ須斗夫すとおは、
淀橋署の新入り巡査が保護しました。
仮構かこう憲兵らが右往左往うおうさおうする間にね。
調べは一班に引き継ぎました。

一班は瑛山会えいざんかいの動向を探ります。
それが有澤機関設立の趣旨しゅしです。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
もしや、影森愁一かげもりしゅういちという人の……
そうですか?
だとすると……
彼の思念だけが残って――
【有澤機関SKアストラル】
――フフフ、私の勘は的中ですね。
一班の動きを助けるために、
私は身をさらしたのです。
おとりと言うほどではありません、ただ目をらせるのが目的でした。

神保町じんほちょう交差点に合図あいずがありました。
縁石に二本の黒い線が――
第二連絡所に行けとの指令です。
新宿旭町あさひちょうにある柏屋かしわや旅館、
二階、芙蓉ふようの間で待機しました。
そこへ三人の丁稚でっちが入ってきて――

アストラルからセヒラがほとばしった。

【有澤機関SKアストラル】
白い布を被せられ――
そこまでは覚えています。

私はもう柏屋かしわやにはいないのですね?
あの湿気しけた客間にはもういない……
――私はどこにいるのでしょうか?
なんだか無念です――
ものすごく無念です!!
悪い勘が的中したようですね!

《バトル》

【有澤機関SKアストラル】
組織というのは……
げに恐ろしいところですね――
あなたも気を付けることです。

そう言い終えると
アストラルは霧散した。

【着信 帆村魯公】
影森愁一かげもりしゅういちは用済みになったわけだ。
さて、くだんの一班に誰が関わったのか、
およその見当はついたがな。
【着信 喪神梨央】
もう一度、ホテルへお願いします。
四〇八号室です――

〔ホテルボストーク〕

【式部丞】
釣鐘つりがね山王さんのう搬入はんにゅうした――
それが瑛山会えいざんかいの存在をあきらかにした。

皮肉ひにくなことにその瑛山会えいざんかいが、顕現けんげんさそうとたくらむ――

会の頭目、柄谷がらたに生慧蔵いえぞうその人物だ。
双子の兄ルドルフ・ユンカーと違い、
生慧蔵いえぞうは科学に全てを求めた。
そして学際がくさいの迷宮に彷徨さまよったのだ。
しくも同じ字名だった――

私は猟奇人Θシータ、そして生慧蔵いえぞうは、
従順なる隸Θしもべシータ師と呼ばれた。
彼が猟奇趣味の男女を組織したのも、
一人でも異能者を集め、
召喚を目の当たりにしたい、
そのことだけが目的だったようだ。

理論はあっても実践がない、
科学者は手を選ばず実践を求めた。
絡繰からくりは不明だが、とにかく顕現けんげんした。
見える者には見えたはずだ――
お陰で私には真実が見えた――

本を無粋ぶすいに扱うことで、
彩女あやめ君には退いてもらった。
丁度ちょうど、潮時でもあった――

それにしても――
メリュジーヌがセルパンの名の店に来る、
なんていう皮肉だ!

二班の班長にも退場頂いた。
神保町の交差点に印を付けて――
身辺整理はとどこおりなく行ったつもりだ。

当面、気配を殺して、
新しき天地あめつちの誕生でも見物しよう。
おそらく帝都は消える――

式部の姿が揺らめいて消えた。そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
式部しきべさん、古本屋さんなんて、
大嘘だったんですね!
私たちをスパイしていただなんて――
【着信 新山眞】
大変です!
キタイスカヤの通りで、
綾部あやべ研究員の気配が消えました!
【着信 喪神梨央】
特に異常なセヒラはありません。
念のため、巡視パトロールお願いします。

〔キタイスカヤ街〕

キタイスカヤ街の通り、20mほど先にカバネの姿があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
眼の前にいるのは……
それはカバネですか?
波形がいちじるしく乱れています。
全然一致いっちしないのです――

カバネが風魔に気付いてやって来ようとしたその刹那、カバネの背後にうっすらと人影が見えた。
白衣のようなものを纏っているが、その体、透けている。
体を透かして街が見える。

【綾部研究員】
私が……抜け出してしまいました!
――前にいるのが私です……
いや、違う、あれはカバネです!
正確にはカバネの肉体です。
私は……たましいか思念の状態です――

カバネは風魔の前を過ぎて止まった。
ずっと前を見たままである。
カバネのいたところに白衣姿の青年が見える。体は透けたままである。

【着信 喪神梨央】
セヒラの値が……
負の値を示しています!
――負のセヒラって、何ですか……

カバネと白衣の青年の間に白い球体が現れた。
輝くような真っ白な球体はほどなく一抱えほどの大きさになり、道の上に浮かんでいる。
そして球体の周りにセヒラの輪が生まれた。球体が傍に漂うセヒラを押しやっているようにも見える。
やがて白い球体は道幅一杯にまで膨張を始め、風魔は白い世界に包まれてしまった。

視界が戻ると、街は白い霧のようなもので覆われていた。
風魔の前に柴崎が立っている。
柴崎は苛ついた表情を浮かべている。

【柴崎周】
君たちは自分たちの周囲で、
起きていることを理解しているかね?

何の目的も持ち得ない世界――
すべてに価値を見い出せない世界――
まさに虚無きょむの世界が口を開き、私たちをもうとしている。

これが君たちの求めるものなのか?
怒りも悲しみも喜びもない、無限に広がる安寧あんねいの平原だ――

白い霧のようなものがますます濃さを増してきた。

【柴崎周】
平和というのは素晴らしい――
そうではないかな?
白いはとを飛ばし、赤い薔薇ばらぎ、青い空に夢を描く――

だが君たちの青空に、
夢を描くことはできない。
何一つとして価値を持たないからだ。
真っ白な世界は何も含まない。

闇は多くを含み、にぎやかなのにだ。
ただただ寂寞せきばくとしている――
闇を味方に付けるほうが、
幾倍いくばいも望ましいのだよ、
真っ白な世界に取り込まれるよりも。

いよいよ視界は白くなり、目の前の柴崎すらはっきりしなくなってきた。

【柴崎周】
何も為さず、何も起こらず、
何も得られぬ世界など、
憎しみの刃で両断する!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし!!
セヒラの値、計測限界を超えます!
これまでにない値です!!
【柴崎周】
ハハハハハハ~
君も私も虚無の世界では、
生きていくことができないのだよ!

《バトル》

静けさが戻った。
風魔は帝都満洲鉄道の赤坂哈爾浜駅にいた。ホームに立つ風魔の前に柴崎がいる。汽車はまだ来ない。

【柴崎周】
暗闇の中で孤独を感じる必要はない。
そのような必要はまったくない。
暗闇はにぎやかな遊園地だ。
あらゆる色が混ざり合い、
暗闇という色が生まれるのだ。

駅舎の方に人の気配がする。
振り返ると先程の白衣姿の青年がいた。青年の体は透けている。
白衣の青年はゆっくりと近づいてきた。
そして柴崎に向き合う。

【綾部研究員】
あなたのことは存じ上げませんが、
混濁こんだくの世をもたらすことを、
お考えなのでしょうか?
【柴崎周】
君は研究者かね?
それとも闇を操る者かね?
【綾部研究員】
魂に向き合っています。
魂なら時間旅行ができるかと――
【柴崎周】
時を操るのか――
私の時間はこの三十年間動かない。
サラエボ、桑 港サンフランシスコ羅南らなん――
十五年前のあの大地震が、
状況を大きく変えた――
帝都に資源があふれたのだ!
【綾部研究員】
資源とはセヒラのことですね?
きが現れ怪人騒動が起きた。
それがあなたの僥倖ぎょうこうなのですか?
【柴崎周】
ハハハ、私の心を読むのか――
なるほど僥倖ぎょうこうだ、
しかしそれだけではない。

独逸ドイツ人たちが興味を示したロッホ
あれは一種の支点なのだよ。
この世界を裏返すためのね。

【綾部研究員】
世界が裏返る?
――そんなことがあるのですか?
一つの世界に一つのことわりがある……

世界が裏返るとは、
ことわりもすべて変容するのですか?
この世界が別の世界軸に接続する、
そういうことではないのですか?
【柴崎周】
世界などいくつも必要ない。
この世界が呑み込まれるだけだ。
抗えば消える、アストラルとなる。
【綾部研究員】
それは違います!
僕たちは既に別な世界軸に、
向き合っているのです。
接続は時間の問題――
それはあなたの求める、
混沌カオスの世界ではありません!

――私にはわかるんです……
真っ白な世界、一点の不安もない――
そんな世界の存在することが!

そこまで言うと白衣姿の青年はいよいよ透けていき、とうとう消えてしまった。
そこへ声がする――

【???】
たわわに実る果樹の下、
暖かな日差し、ぬる清水しみず
何の不安もないのです――
【柴崎周】
やめろ!
私に語りかけるな!
【???】
楽園では、欲も失望もありません。
失うものなどなにもないのです――
【柴崎周】
――

柴崎は全身からセヒラを放った。濃厚なセヒラが柴崎の体を包み込んでいた。

《バトル》

【柴崎周】
すべては宇宙の混沌から生まれた――
それを君たちは無き物にしようと。
私は残念でならない――
――残念だ……
至極しごく残念だ――

そこに音はなかった。
風もなかった。
温かいとも寒いとも感じない場所だった。始終、白い霧のようなものが漂う。
井戸の前に母子がいる。

【母親】
薬師如来やくしにょらいさまの竜水は、
とっても効くのよ、まあくん!
【まあくん】
うん、そうだね!
母様の言うとおりだと思うよ、僕!
眼が良くなると安寧あんねいになれるんだね!
【母親】
そうよ、まあくん!
遠くまで見えるから悩まないの。
欲しいものもなくなるのよ!
【まあくん】
じゃ羊羹ようかんも欲しくなくなるんだね!
【母親】
羊羹ようかんになんかに値打ちはないのよ!
さぁ、竜水を手ですくうのよ。
それで目を洗うの。
【まあくん】
うん、わかったよ、母様!

風魔は白い世界にいた。
暗闇には多くが蠢く。
しかし白い世界にあるものは……それは虚無であった。
虚無を理とする世界から声がする。
虚無に生きる人の声である。

【はにかんだ女の声】
佐竹さたけのお母様は病気がちなんです――
少しでも滋養じようになればと思い、
実家から届いた――
納豆を持って家に行ったのです。
昼寝をしていたという佐竹は、
少しばかり眠そうでしたが――
私を玄関で迎えると、
いつも通り、ご安寧あんねいにと挨拶あいさつし、
納豆を受け取ってくれました。
私は佐竹の家を後にして、
省線と市電を乗り継いで、
三河台みかわだいの下宿に帰りました――
一人で……帰ったんです――
――一人で……

ふと、そこへ別な声がする。
いや、同じ女の声だ、風魔の心の中に残る声だ。

【思い詰めた女の声】
私、佐竹のことを信じ切っていて、
私たち二人はまるで同体のように
思えるほどでした。
先週、葡萄酒ワインで眠る佐竹の胸に、
小刀で私の名を彫ったのです――

もう声はしない。
代わりに白い空から降るような声が聞こえた。

【はにかんだ女の声】
どうしたのかしら?
――安寧あんねいでございますわね!
まったくもって、安寧あんねいでございます。

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
兄さん、お帰りなさい――
帝都では怪人騒動もすっかりしずまり、
落ち着きを取り戻しています。
【新山眞】
時間もかなり経過しました――
【喪神梨央】
新山さん、
世界軸って本当に複数あるんですね。
ドッペルゲンガーのこととか――
【新山眞】
ドッペルゲンガーは、
セヒラがもたらした一時的な現象、
私はそう考えています。
【喪神梨央】
でも世界軸はそうじゃないと――
常にいくつかの軸があるのですね。
【新山眞】
あの綾部あやべ研究員は、
複数の世界軸がめんのようにからまり、
別の世界軸へ移動できると――
世界軸をりっしていることわりに、
収まりきらなくなった時に移動する、
そう考えているようです。
【喪神梨央】
その時、時間をさかのぼったり、
そんなこともあるんでしょうか?
【新山眞】
明言はなかったですが、
時間の移動もありそうですね。
場所の移動も有り得ます。
世界軸の接続によって、
夢玄器むげんきを使わずに移動できる――
異なる時代、異なる場所へ。

【喪神梨央】
フリーダさん、
携行式けいこうしきの活動写真お持ちでした。
しかも総天然色です!
フリーダさんは、
ニ〇一五年の香港ホンコンと、
この帝都とを行き来すると――
【新山眞】
すでに世界軸の接続は、
始まっているようですね。
アストラルなら、
時空を超えて行き来していましたね。
いとも簡単に――
ただ好きなところへ、
とはならないようです。
【喪神梨央】
何か繋がりのあるところしか、
行くことができない、
そうなんですね?
【新山眞】
そのようです。

【喪神梨央】
研究員の綾部あやべさんは、
八十万年後に行きたかった、
そうなんでしょうか?
【新山眞】
未来の楽園的社会に憧憬どうけいしていた、
それは間違いありませんね。
その強い念が影響している――
【喪神梨央】
綾部さんとカバネの間から、
虚無きょむが生まれたように思えます。
【新山眞】
はいわば逆人籟じんらいです。
ヴンダーがたおれたことが契機けいきとなり、
逆相が生じた――
はその逆相の象徴です。
自身が虚無きょむ世界軸の接続点、
その役目を果たしたようですね。

【着信 帆村魯公】
風魔――
ホテルに客人だ。
レーネ嬢だ、覚えているな?
【喪神梨央】
藤沢レーネさんですね!
F基金の運用責任者ですよ。
新京シンキョウからおいでなんですね!
【新山眞】
私は飯倉いいくら技研に参ります。
そろそろ鏡の完成する頃――
様子を見てきます。

〔山王ホテルロビー〕

藤沢レーネが久しぶりに来日した。
満洲国商務省に勤めるかたわら、F基金を管理する金庫番でもある。

【喪神梨央】
レーネさん!
お変わりございませんか?
今朝着いた亜洲丸あしゅうまるですよね?
【藤沢レーネ】
ええ、横浜に着き、
新橋から参りました。
道中、帝都は静かでした――
【喪神梨央】
このところ怪人騒動は鳴りを潜め、
何だかそれが不気味なんです。

【藤沢レーネ】
時機が近づいているのです。
祖母の遺品を整理していたら、
一冊の古書が出てきました。
太陽の書リブロソロスという書名です。
最後のページに祖母の字で、
ある言葉がつづられていたのです――
【喪神梨央】
どんな言葉ですか?
【藤沢レーネ】
冬至とうじの朝陽がしめす――
支族帰還の地へ――
アルツァレトはせまる――
【帆村魯公】
冬至……
支族帰還……
――アルツァレト……
アルツァレトとは何ですかな?
【藤沢レーネ】
古い猶太ユダヤの言葉で、
桃源郷とうげんきょうとか新天地の意味だそうです。
支族が戻ればそこが桃源郷――

【喪神梨央】
兄さん! 冬至ですよ!
範奈はんなさんのお姉さんが言ったこと……
――冬至の朝、水辺に……
そこでお姉さんと二人、
為すことがあるのだって――
【帆村魯公】
なるほど! なるほど!
それで、その書はお持ちなのですか?
【藤沢レーネ】
書は満洲中央銀行の貸金庫です。
新京シンキョウにある父の基金を置く銀行です。
【帆村魯公】
それは結構ですな。
この上なく安全ですな!
それでと――
真名井まないの鏡にまつわる古文書にも、
冬至についてしるされておった。
託言たくげんを顕す光があると。
【藤沢レーネ】
おそらくは、失われた支族、
その末裔まつえいの居場所が明かされる――
私はそう考えております。
【帆村魯公】
その末裔まつえいとやらが、
山郷らが血眼ちまなこになるほど、
すごい力を秘めておるのか……
【喪神梨央】
千年以上前に日本に渡った、
マナセ一族の末裔ですね。
【帆村魯公】
鈴代のご先祖は、
まぁ庶家しょけというところだな。
愈々いよいよ、本家本元が現れるのか――
【藤沢レーネ】
いずれにせよその日を待ちます。
N計画にもはずみが付くはずですから。

藤沢レーネは山王さんのうホテルに部屋を取っていた。
梨央りおが部屋まで案内するという。

【帆村魯公】
風魔ふうま、先程お前が見た光景だがな、
あれはおそらく虚無きょむの世界だ、
そいつが垣間かいま見えたんだよ。

新井薬師の井戸にいた子供、
それに神田川の女――

あの女は生成なまなりだったはずだ。
男の胸に自分の名をったんだ。
虚無きょむの……なんて言う、世界軸か、
そいつの中ではうらみも何もない、
いたって平穏無事へいおんぶじの様子だな。

ホテル玄関から九頭が小走りに駆けてきた。

【九頭幸則】
先生! 風魔!
また妙な噂だ!
新世界が誕生するとかで――
【帆村魯公】
ほう!
その噂の出処でどころは?
【九頭幸則】
興亜日報ですよ!
たぶんあのブンヤがんでますよ!

まるで芽府めふ須斗夫すとおの予言がれたかのように、興亜日報では新しい世界の誕生を報じていた。

風魔は暗闇を覗いていた。そこには鬼龍豪人が立っている。まるで見当識を失ったかのようである。
そこへ淀みのない声がした。

【???】
ほまたかき京都第十六師団――
第十六師団輜重しちょう部隊!
隊付き将校、鬼龍きりゅう豪人たけと
【鬼龍豪人】
誰だ?
この私に気安く声をかけるのは!
【???】
君のガールフレンドは、
師団街道の円タクに乗って、
黄泉よみの国へ向かった!
【鬼龍豪人】
私の中ではもう過ぎたことだ――
【???】
君は梯子はしごを外され途方に暮れた――
わだかまりは大きく黒い蜷局とぐろとなった!
君はルサンチマンにまれた!
【鬼龍豪人】
私は完璧だ、染 化ファーブストッフを終えたのだ!
【???】
青白き少年ハンスは、
売女ばいたの腹にナイフを突き立てた!
君のナイフはどこにあるのかな?
【鬼龍豪人】
ハンス?
そんな人物など知らん!
貴様、いい加減に去れ!
【???】
月詠つくよみ麗華れいかに求められ、
鬼龍きりゅう少年は子羊のように震えた!
【鬼龍豪人】
あの女が欲しいのは力だ、
美しさの欠片かけらもないただの力だ!
【???】
君こそ求める存在だよ、
迷える子羊ストレイシープ君!
さぁ、私にゆだねるのだ――
【鬼龍豪人】
私は誰の指図も受けない!
【???】
それでこそ鬼龍クソッタレ大尉だ!
州間道路のドライブと洒落込しゃれこもう!
【鬼龍豪人】
何の話をしている――
貴様は誰だ!! 何者だ!!
【???】
気高きやかたあるじにして、
君の主人だよ、コンプレット鬼龍!

第九章 第十話 逆相

〔山王機関本部〕

その日、山王さんのう機関本部は重苦しい空気が支配していた。
本部には新山眞にいやままことが詰めていた。

【喪神梨央】
兄さん――
清水谷しみずだに公園のこと、
なんだか不安になりました。
だって四月と同じことが――
でも様子はまったく違いました。

兄さんは審神者として修行した――
陸軍士官になったのは幸則さんだけ、
そういうことでした。
【新山眞】
清水谷だけ時間が戻ったのか、
それとも別な世界に突出したのか、
あるいはその両方ですね。
【帆村魯公】
別な世界と繋がった――
わしにはそんな風に思われたぞ。
あるいは風魔だけが世界を渡った……
【喪神梨央】
兄さんはずっと山王でした、
ずっと探信していました!
【帆村魯公】
うむ……
新山の、つまりはどういうことじゃな?
【新山眞】
並行世界かと思われます。
公園だけ繋がったのです。
将校ではない喪神さんのいる世界――

機関本部に探信儀の警報が鳴り響いた。

【喪神梨央】
警報です!
強いセヒラ――
おそらくヴンダーかと……
【帆村魯公】
どっち方面じゃ?
ヴンダーが出たのは?
【喪神梨央】
上野です、上野広小路界隈かいわい
強いセヒラ、歪みのある波形、
ヴンダーに間違いありません。
【新山眞】
ルーン文字の魔法、
どうなったんでしょうか?
【喪神梨央】
公務電車手配します!
上野広小路です、お願いします。

〔上野広小路〕

果たしてヴンダーは上野に現れていた。
見える者は慌てて避難し、見えない者は噂に触れおののきを深めていた。

【鶯谷の菓子問屋】
まるで蜘蛛くもを散らすように、
そこの交差点から皆逃げたけど、
私にはさっぱりです、見えません!
新聞に写生絵もあったのに、
ヴンダーが見えないのですよ――
かえって恐ろしくなりますね!

【御徒町の錠前屋丁稚】
おいら勘がいいからさ、
ちょっとだけわかるさ!
ヴンダーはね、
あのビルの屋上さ!
仮面の男みたいにね!

【錦糸町のデパートガール】
姉さまにはちゃんと見えるって――
ヴンダーですわ、見えるのですわ。
妹も見えると言い張って、
なんか憎たらしいわね!
私だけが見えないのですわ!
悔しいのですわ!!

【着信 喪神梨央】
セヒラ上昇していますが……
その人ではありません。
今さっき、魔法をかけ終えたと、
その連絡が入りました。
変化はありませんか?

能海旭のうみあきらがスターヴを用いた魔法をかけ、やがてヴンダーの真理しんりあらわになる――

オセル、パース、ライゾ、
カノ、ラグズ――
5つのルーン文字がスターヴを現す。
真実を露わにし
全てをつまびらかにする願いだ。

ヴンダーは音もなく消えた。
ヴンダーのいたあたりに濃厚なセヒラの塊が見える。
それははっきりと見えた。交差点付近にいた市民らは一斉に走って逃げた。

洋服姿の女性が風魔のところへ駆け寄って来た。

【錦糸町のデパートガール】
あーははははは!
見えましたわ、見えましたわ!
あれがそうですのね!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ確認です。
目の前です!!

【錦糸町のデパートガール】
もう引け目を感じる事など、
何も無いのですわ!
怖いものも、無いのですわ!

《バトル》

【錦糸町のデパートガール】
ああ、悔しい悔しい、
もっと早く見えていれば……
私はもっと――

【着信 喪神梨央】
セヒラのかたまりに、
影響を受けたみたいです。
依然いぜん、高い濃度です――
【着信 新山眞】
ヴンダーのいたところに、
特徴的な波形を観測します。
喪神さん、調べられますか?

【着信 喪神梨央】
ナチの車列が向かっています。
対応お願いします!

ヴンダー騒動を聞きつけてか、武装SSのトラックが到着した。SSたちは濃厚セヒラにも構わず、ヴンダーの消えた場所からその二人を運んできた。
ゲルハルト・フォスとクルト・ヘーゲン、巨大人籟じんらいたましいを喰われた二人だ。

地面に横たわるフォスとクルト。その前に3名のSSが立って見下ろしていた。SS大尉が風魔の前に来る。そして背中を丸めて横たわるフォス大佐を見下ろして言った。

【武装SSホッケ大尉】
ゲルハルト・フォス大佐、
長きご辛労には頭が下がる思いです。
いえ、シュタイナー大佐――

SS大尉は顔を上げ風魔を見据えた。

【武装SSホッケ大尉】
彼はシュタイナー男爵家に生まれ
筆頭で爵位を継ぐはずだったが、
実弟の奸計に嵌められてしまった。
貧しい文具屋に貰われ、
ゲルハルト・フォスとなったのだ。
そしてナチ党員となる。

遅れてナチ党入りしたエルヴィンは、
爵位の助けで出世階段を順調に昇り、
SS上級大佐まで進んだ。
フォス大佐は弟エルヴィンが、
突撃隊員と共謀している、
SS親衛隊本部にそう告げた。

長いナイフの夜――
突撃隊員らは粛清された。

弟エルヴィンも逃れられなかった。
フォス大佐の父グンターも粛清され、
シュタイナー家には火が放たれた。

しかし謀略などなかったのだよ。
エルヴィンは突撃隊員の一人と、
男色関係にあった――

事実はそれだけアインファだ。
私たちは禍根を残さないのだよ、
ヘルフーマ!

ヒムラー長官は清潔がお好きでね。
フォス大佐、この一点の染みを
綺麗に拭って私は帰国する。
祖国ドイツは懐深く私を迎える。

フェルキッシュ!
私の心はドイツに踊る!

君たちにも感謝する、ヘルフーマ。
これら二個については、
君たちの科学者ヴェッセンシャフラーにも
知恵を借りよう。
我が方の研究もはかどるな!

そう言うとSS大尉は回れ右をして歩き去った。残るSSが軍用トラックを誘導している。フォスとクルトの自失体を運び出すためだ。

【着信 喪神梨央】
周辺のセヒラは消えました。
ヴンダーは見えなくなりました。
【着信 新山眞】
まぼろしを見る魔力が消えた、
そんな感じですね。
ひとまず落着です、喪神さん。

魔法という大仕事を終えた能海旭のうみあきらは、アトリエに戻り休んでいるという。
風魔はあきらねぎらうべく赤坂へ――

しかし、すぐには戻れなかった。
不意に周囲から光が消え、風魔は真っ暗闇に立たされた。
そこへどこからともなく声がする――

【柴崎周】
私の交響曲シンホニー愈々いよいよ第四楽章、
ソナタを奏でる時を迎えた。
無上の喜びを覚えざるをえないよ!

巣鴨すがもの監房でサラエボで、
はたまた羅南らなん廠舎しょうしゃで、
私は時を超え、力を尽くした――
この帝都に一輪でも多く、
美しい花をはぐくみたくてね。

君たちのお陰で、
私の努力は報われつつある――
まさに百花繚乱ひゃっかりょうらん――
あらゆる思いの交錯こうさくする世界こそ、
私の望んだ世界なのだよ。

さぁ、フィナーレを、
心豊かに迎えようではないか!

公務電車は上野広小路から万世橋まんせいばし御茶ノ水おちゃのみずを経由して飯田橋へ。
その時、梨央りおから無線着信があった。

【着信 喪神梨央】
申し訳ありません!
本日の公務はまだ継続しそうです。
戸山の砲工学校で騒動です。
まるで暴動のような状態だとか。
怪人が絡んでいるかは不明です。
念のため巡視パトロールお願いします!

〔戸山砲工学校中庭〕

【牛首頭主任研究員】
なぜ我々は解散になるのだ?
研究はあと一歩まで迫った!
【宝珠花専任研究員】
炭疽菌たんそきんに感染させた赤南京蚤あかなんきんのみを、二百キロ砲弾に詰めるんだ!
八千六百匹もな!
【牛首頭主任研究員】
この細菌のみ弾が成功すれば、我国は世界を圧倒する地位となる!
【宝珠花専任研究員】
細菌のみ弾、その生産計画は、なんと年間三百万発だ!
日本万歳! 大大和万歳!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
おかしな状況です――
建物自体がセヒラを発しています。
波形の形に建物が浮かび……
うまく説明できませんが、
建物からセヒラが剥がれていく、
そんなふうに見えるのです。
校舎を検分してください。

ホールに足を踏み入れるとそこには異様な光景が広がっていた。
ホールに置かれている棚がセヒラを帯びていたのである。セヒラは見る見るその濃度を増していく。

【血吸川特任研究員】
これは何事だ!
薬品棚に細工したのはお前か?
貴重な人工血液が保管してある、
その棚に火を放ったのか?

左手から2人の白衣姿の男性が駆け込んで来た。そして血吸川研究員に向かって声を荒げる。

【近藤研究員】
おい、お前!
大切な試料を盗もうとしたな!
【山下研究員】
露西亜ロシア人で培養ばいようした人工血液、
門外不出もんがいふしゅつの試料だ!
イワンの苦しみが生んだ試料だ!

血吸川研究員は怯むことなく2人の研究員を突き飛ばした。

【血吸川特任研究員】
うるさい! 
【近藤・山下両研究員】
うわぁぁぁぁ~

【着信 喪神梨央】
気を付けてください!
建物からあふれるセヒラを観測!
怪人はその影響を受けています!

【血吸川特任研究員】
ここはもうおしまいなのか?
――いや、そんなはずはない!
東亰ゼロ師団が、
そんな簡単にあばかれてなるか!
我々には後ろ盾がある!!

《バトル》

【血吸川特任研究員】
うう……
終わりなのか……
本当に……これで……

――いい思いをさせてもらった。
いい思いをな――

今やホールはセヒラに塗れている。

【着信 喪神梨央】
兄さん!
セヒラ濃度が異常です!
至急しきゅう退避してください!

交信を終えると風魔はホールから走り出た。校舎を振り返ると、建物全体がセヒラに覆われて揺らめいて見える。

【着信 喪神梨央】
新山にいやまさんの憶測ですが、
仮構ががれはじめているのでは、
とのことでした。
その新山さんですが、
異様な波形を観測するとのことで、
防疫研究所に向かわれました。
もっとも仮構かこうの疑われる場所です。

〔白金三光町〕

車通りも少なく人影まばらな白金三光町。公務電車を降りると、向こうから新山眞がやって来た。

【新山眞】
ルーン文字の魔法、
効力を発揮したようです。
それでヴンダーはたおれました――
でもヴンダーのたおれたことが、
何かの引き金を引いた――
そんな気がします。

釣鐘つりがねの調整の効果もあります。
ただその反動というか、
理解不可能な現象が起きています。

機関本部で見た限り、
防疫研の波形はこれまでの
どの波形とも違っています。
何というか、山と谷が逆になって、
まるで逆さまの位相を作っている、
そんな波形なのです。

仮構によって隠されていたものが、
ここに来て見え始めた、
そんな風にも考えられます。
【着信 喪神梨央】
申し訳ありません!
どうしてもと詰め寄られ――
つい隊長が……
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいしの場所を、
教えてしまいました――
まだやって来ませんか?
猫みたいに話す人です。
おそらくは猫憑ねこつきです。
セヒラの観測はありません――

電車通りを渡って背広姿の男性が足早に近づいてきた。

【新山眞】
喪神もがみさん、誰かが来ます――

【京橋のラヂオ商】
無理を言って、
ここを教えてもらったニャ~
快く教えてくれたニャ!
どうしてもあんたに話したい、
そういうのがいてニャ、
この人の隙間すきまを借りたニャ!
あんまり隙間すきまは広くないニャ、
話は早く済ませるニャ!

男性はそう言うと急に腰折れになった。
その男性の背中にアストラルが影のように現れた。

【歩一M大尉アストラル】
元歩一大尉の御荷鉾みかぼだ、喪神中尉。
鬼龍きりゅうがトゥーレの館としていた、
青山の青山ホテルだが、あそこは
フンゲルハウワー公爵邸こうしゃくていだ。

幼少期、私は父と青島チンタオに暮らした。
父はフンゲルハウワー商会で、
筆頭会計係を務めていた。
日本では青山の邸宅が定宿だった。
明帝崩御ほうぎょの年、私はやしきにいた。
四歳の時だった――
その後、世界戦争で青島チンタオち、
独逸ドイツは当地の権益けんえきを失ってしまった。
私たちも独逸ドイツに渡ることに――

爾来じらい、青山のやしきは無人の館、
公爵は二度と訪問することなく、
五年前に亡くなった――

あそこがホテルであったことなど、
かつて一度もないのだ――
あわわ……わ……

アストラルは揺らぎながら消えた。
背広姿の男性は持ち直して言う。

【京橋のラヂオ商】
どうニャ?
話はできたかニャ?
おいらもそろそろ戻るニャ!
また会うニャ!
それまで元気でニャ!
おいら、猫の時次郎ニャ!

男性は歩き去った。

【新山眞】
いやぁ、驚きです。
アストラルが猫憑きを利用して――
それに、またもや仮構かこうの話です。

どんどん仮構ががれている、
そんな感じですね。
――急ぎましょう!

〔防疫研究所所長室〕

所長室の机の横に陳列されている市松人形がセヒラを帯びていた。

【新山眞】
喪神さん!
見てください、あの棚を――
セヒラが盛大に表出して、
そのうちあの人形は消えてしまう、
そうではないでしょうか?

ドアの音がした。
誰かが入ってきたのだ。

【新山眞】
今の音は何でしょうか?

振り向くと
そこにはカバネが立っていた。

【新山眞】
うわぁ!
何でしょうか?
――……ですか――
まさか……
そんなはずはありません!
【綾部研究員】
どうか驚かないでください――
【新山眞】
うわぁ!わわわ!
しゃべった!
なんという驚きスルプリーゾ
【綾部研究員】
皆さん、私はではありません、
私はここの研究員です。
これの中味は人間なのです。
【新山眞】
な、中味が、人間?
――するとあなたが……
これのたましいったのですか!?
【綾部研究員】
違います!
これはカバネというですが、
カバネが私をったのです。
ただ魂ではなく、
私の肉体をったのです――
【新山眞】
肉体を……う……
まるで食人譚しょくじんたんですね、
猟奇倶楽部のことうかがいましたぞ!
カバネにもその趣味があるのですか?
【綾部研究員】
そんなこと知りません!
何かの手違いです。
そうでなければ私は……
【新山眞】
魂をわれて、
人籟じんらいの材料になっていた、
そうなんですね?
【綾部研究員】
私はめられたのです。
副所長らはナチに働きかけ、
ヴンダーの核を手に入れようと――

魔法によって顕現けんげんしたヴンダー。
その核となったフォス大佐とクルト召喚師、二人は人籟じんらいの材料である。
それらを奪取するため、防疫研の副所長らは、人籟じんらいの取扱を指南すると申し出た。
ナチはその申し出に乗ったのだった。

【綾部研究員】
私はその計画に反対でした。
ヴンダーなど
わざわいのたねでしかない――
そう訴えました。

先日、副所長に呼ばれ、
私はセヒラ室に閉じ込められました。
高濃度セヒラに被曝ひばくせられました。
【新山眞】
セヒラ室……
そんな部屋があるのですね。
【綾部研究員】
人籟じんらいを作る部屋です。
でも私の魂は無事でした。
体が……こうなっただけです――
【新山眞】
それじゃは召喚できない、
そうなんですか?
【綾部研究員】
召喚などできません、
体がカバネなだけですから。
【新山眞】
だけですじゃ済まない感じですが――

新山は眉間にしわを寄せ、目をグリグリと動かしている。

【新山眞】
思い出しました!
独逸ドイツの論文にありましたよ、
逆相波形リバースファーズという現象です。

ある波形に対して逆相の波形が現れ、互いを打ち消してしまう現象のことだ。
論文ではそれを逆相波形リバースファーズと名付けていた。
ある方向への動きに対して、逆方向への動きが生まれる――
新山はそのことを言っているのだ。

【綾部研究員】
私が魂ではなく肉体をわれた、
そのことも逆相に関係するのですね?
ここの上部組織、
東亰ゼロ師団は世界に混乱を招く、
それが目的だと聞き及んでいます。
ということは、
混乱とは逆を向く動きがある、
そういうことでしょうか?
【新山眞】
混乱と言うか宗教的には混沌カオスですね。
混沌カオス秩序コスモス、悪魔と神です。
混沌カオスに光があたり
秩序コスモスが生まれた――
【綾部研究員】
私は研究者ですので、
その辺はよくわかりませんが、
逆相とは秩序ある世界なんですね。
【新山眞】
そうかも知れません。
わたしも技術者ですので、
これ以上は……
もっとも霊異りょういを扱うのは、
慣れていますが――

霊異りょういといえば、喪神もがみさん――
例の京都の真鏡まかがみですが、
そろそろ完成しそうです。
ゼーラムの定着を確認しました。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
銀座の上空に大型飛行船が――
参謀本部では何の計画もなく、
独逸ドイツのフリードリッヒ号も、
来日らいにちは来年の春の予定だそうです。
また浅草十二階や、
上野博覧会のようなものかも――
一応、巡視パトロールお願いします。
【着信 帆村魯公】
新山君とそのもう一人、
綾部あやべ研究員は山王さんのう機関本部へ願う。
部屋を用意しておく。以上だ。

銀座の夜空に
巨大な飛行船が姿を見せた。
人々は皆あんぐりと
口を開いて眺めている。

【憧れの声】
あれが噂のフリードリッヒ号ですわ!
なんとも素敵じゃございませんか!
私も乗りとうございますっ!

【警戒する声】
尾翼びよくにも胴体どうたいにも、
どこにも国籍こくせきがないぞ!
あれはまぼろしなんじゃないか?

【畏怖する声】
いつぞやのカグツチ様を思い出す!
ああ、恐れ多いではないか!
お祈りすること、考えなきゃ!

謎めいた飛行船は日劇ビルの屋上に、ゆっくりと降り係留けいりゅうされた。京橋署の巡査が人払いをしている。

日劇のビルを背にして大勢の巡査が警戒にあたっていた。

【京橋署の巡査E】
部長のお達しです。
これ以上は立ち入りできません。
たとえ公務であっても――

【京橋署の巡査T】
前にお会いしましたね――
ナチの偉いさんの出国パレードで。
今夜も偉いさんなのでしょうか?
偉いさんはめんどくさいですね、
とにかく立ち入りは禁止です。

【京橋署の巡査N】
結局、荘月しょうげつ会館での幻燈会げんとうえは、
四回開かれたんですよ。
都合つごう四千人弱のお客らは、
最近の騒動でふっと姿を消しました。
誘拐ゆうかいされたと言う噂もあります。

【京橋署の巡査A】
覚えていますか、私を。
あなたに立ち向かって破れました。
稲荷いなり戻した私です。
以来、廓清かくせいしたままで、
もうすっかり大丈夫です。
怪人になると拉致らちされるって――

【京橋署の刑事K】
こんな夜に、ご公務ご苦労様!
山王さんのう機関はなかなかあきらめない、
そうじゃありませんか?
私はね、木乃伊ミイラ取りが木乃伊ミイラでん
そのまんまですね、
絵に描いたようにね、フフフ!

いたずらに踊りまくる市民を追ううちに、
私もね、踊りの達人になった!
そうしたらどうです、
見事に昇進しょうしんしたのです。
今じゃ刑事です、フハハハハ!

【着信 喪神梨央】
気を付けてください、
セヒラ上昇しています!

【京橋署の刑事K】
ほう!ほうほうほう!
君とお手合わせ願えると!
いいでしょう!
私はね、大切な役割を仰せ付かり、
飛行船を降りてきたのです。
さぁ、整いましたよ!

《バトル》

【京橋署の刑事K】
私もまだまだのようですね!
でもご安心ください、
道はひらけた、そう思うのですよ!

巡査は頭を振りながら見向きもせず歩き去った。他の巡査もいなくなっていた。

【着信 喪神梨央】
幻燈会げんとうえの影響で踊りだし市民が出た、
あの事変のときの巡査ですね。
記録から波形が一致しました――
今や波形は一段と鮮明になり、
廓清かくせいされようもありません。

見ると日劇ビルの前に
柴崎周しばさきあまねが立っていた。
彼は風魔を静かに見据えている――

【柴崎周】
ようやく静かになったね。

君の目を見ていると、
サラエボの青年を思い出すよ。
彼は透き通った目をしていた。
その透明な輝きの奥に、
揺るぎなく強い意志を感じたよ。
その意志が彼に僥倖ぎょうこうをもたらした。
ラテン橋近くのレストランで、
道に迷った皇太子こうたいしの車に出会う――
彼の放った銃弾が世界を動かした。

目眩めくるめく鋼鉄と火焔かえんのページェント!

世界では憎しみが連鎖して、
美しいハーモニーを奏でた。
その調べは日本にもしかと届いた。
あの青年はセルビアの英雄として、
ラテン橋は彼の名を冠した。
プリンツィプ橋としてね!

次に私は日本に目を向けた――
日本には豊かな資源がある。
私たちは実に恵まれているのだよ。

しかし、日本という国は難しい。
人の心は幾重いくえものひだおおわれている。
隔靴掻痒かっかそうようの思いに
見舞われている――
アナーキストは絞首台こうしゅだいつゆと消え、
期待の星、慷慨こうがいする大尉は――
なんと自失して大柱に姿を変え、
世界の歪みを更に進めた!
私のあずからぬ事態が起き始めた。

私の企図きとするものはもっと簡素だ。
血盟将校らの理念を支える――
しかし大いなる計画は頓挫とんざした。
計画は慎重に進めるべきだった。
しかし拙速せっそくに走りすぎたのだ。

――何故だ?
君たちが加担かたんしたとは思えない。
いろいろのことが私を離れ、
勝手に動き出している――

ようやく静かになった。
静けさの奥に蠢動しゅんどうを認める――
だが、それが見当たらないのだ!!

これが杞憂きゆうであれば良いのだが!

そう言うと柴崎は自分の周囲にセヒラを集めた。セヒラはまるで煙幕のように柴崎を包み隠した。

【着信 喪神梨央】
セヒラ異常です!
至急、退避してください!!
し……き……●◇×――

無線の声が遠のいた。風魔は目の前が暗くなるのを感じた。

〔清水谷公園〕

周囲が明るくなった。
ここは清水谷公園。
風魔は隣に九頭幸則の姿を認めた。
目の前にいた書生が話しかけてきた。

【書生】
うちの先生、この春に昇進されて、
えある首席訓導くんどうになられたんです。
今日はそのお祝いです――
【スーツの男】
先生の組の卒業生さん、
皆、陸士に進まれ、そのご功績こうせきで。
もう任官された卒業生さんも――
【主席訓導】
いやいや、小生など、
たいして力にはなっとらんですな!
偉いのは生徒たちですわ。

【九頭幸則】
先生!
田村先生ですね!
お久しぶりです、九頭くずです!
【田村先生】
おお、九頭君!
君も確か陸士に進んだんだね!
見たところもう任官したようだが――
【九頭幸則】
いやぁ、お恥ずかしい!
僕は第三連隊です。
い組の風魔ふうまは第一連隊です。
【田村先生】
そうか!
三連も歴史ある連隊だぞ、
堂々と胸を張るんだ、九頭くず君!
いやぁ、それにしても――
小生、愈々いよいよ鼻が高いな!
【九頭幸則】
これも先生のご指導あってのこと、
僕は先生に学べて幸せです!
アハハハハハ~

春もたけなわの清水谷しみずだに公園に、
ほがらかな笑い声が響いていた。
人、皆、幸せ色に染まる
帝都であった――

ラヂオノイズに混ざり
僅かに声が聞こえる――

【???】
日々、安寧あんねいデスカ?
日々、安寧あんねいデスカ?

急に辺りが暗くなり、次に風魔は赤坂哈爾浜ハルピンにいた。

【着信 喪神梨央】
やっと捕まえた!
兄さん、そこは赤坂哈爾浜ハルピンです。
ずっと弱いセヒラを観測します。
【着信 帆村魯公】
柴崎しばさきという人物、
セヒラを扱うのだな!
奴は赤坂哈爾浜ハルピンへ向かったようだ。

新山にいやま君が、
カバネを送ってはどうかと――
いい考えだと思うぞ、風魔!

いみじくも柴崎周しばさきあまねの言うように、
世界は予知不能な動きを
見せ始めていた。
まるで別な世界が
並行するかのようであった。

皆が幸せそうに暮らす帝都の有様――
風魔が垣間かいま見た世界もまた、
別の軸に存在するのかも
知れなかった。

第九章 第九話 ヴンダー

〔猟奇倶楽部・左閲覧室〕

そこは階段状に椅子が三段に並ぶ、
小さな劇場のような部屋であった。
正面はガラス張りでカーテンが引かれている。

風魔ふうまが椅子から立ち上がると、
白衣姿の人物が姿を見せた。

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうであった――

【柄谷生慧蔵】
気が付きましたか――
頭痛や吐き気はありませんね。
何しろ酷いセヒラでしたから。
黒頭巾はセヒラを防ぐのですが、
さすがに危険でした――

物理一筋の私が、
科学に限界を感じ始めたのは、
ある不思議な体験がきっかけでした。

あれは四年前のことです――
哈爾浜ハルピン技院に招かれた私は、
キタイスカヤ街のホテル、
東方飯店に宿を取ったのです。
確か四〇八号室でした――
転寝うたたねをする私は夢かうつつかの状態で、
ホテルの便箋びんせんにメモを取ったのです。
目覚めてメモを見ると、
それはシュレーディンガー方程式、
まさにそのものだったのです。

【柄谷生慧蔵】
決してそらんじているわけでもない、
その複雑な方程式を、
まるで誰かの意思のようにしたためた――
私は自分の頭が、
誰かに乗っ取られたような気になり、
そのままホテルを飛び出しました。
するとどうでしょう――
あれほどにぎやかだった大通に、
白昼夢はくちゅうむのように人影がないのです。
所在なく私は部屋に戻りました。
先ほどの便箋びんせんは消えていました――

そして天啓てんけいのように新しい方程式を
書き始めたのです。
四日間、飲まず食わずで――

この体験の翌年です、
帝都にセヒラが観測されたのは。
セヒラ粒子が解を求めるかぎでした。
長広舌ちょうこうぜつはもういいでしょう。
さぁ、すべての準備は整いました。

音もなくカーテンが開かれた。大きな窓から見下ろすのは、白いタイル張りのまるで手術室のような部屋であった。
部屋の周囲に幾人もの人物が寝かされている。その部屋の中央にフォス大佐とクルトが、まるで双子の胎児のように向き合い丸くなっている。二人は床から浮き上がっているのか、ゆっくりと回転していた。

【柄谷生慧蔵】
アストラルとなった二人を、
均一きんいつになるまで混ぜ合わせる――
兄の実験ノートにそうありました。
どうやって混ぜれば良いか、
さっぱりわかりませんでしたが――
それが起きてみると、
どうです、自らが混ざり合おうと、
あのように回っているのです!

自ずから生起すること――
物理の世界での常識が、
この霊異りょういの中でも現れるのです。

背を丸めて回転する二人の周囲にセヒラが漂い始めた。セヒラは見る見るその濃度を増して、とうとう二人をすっかり包み込んでしまった。
なおもセヒラは濃くなり、風魔のいる部屋にも押し寄せてくる。柄谷生慧蔵は窓に向かって両手を広げたり閉じたりしながら何かを唱えている。そして二人の名を呼ぶ声が聞こえた。

【柄谷生慧蔵】
ヘル、ゲルハルト!
ヘル、クルト!
合わされ、合わされ――
ゲパーツ! ゲパーツ!

さぁ、愚かしい肉体を、
今ここに、むさぼむさぼれ!

濃厚セヒラを通してなおも回転する二人が見える。その周囲に部屋の方々から怪人と思しき連中が集まってきた。

【柄谷生慧蔵】
静かに目を閉じて――
私は一介いっかいの観察者に過ぎない。
家鴨いえがもひなのように無垢むくな私!!
さぁ、まぶたを開けますよ!
家鴨いえがもひなが、お池の上で――

一瞬、目の前が真っ暗になったかと思うと晴れた。
もうセヒラは収まっていた。階下に見える手術室にらしき一体が立つ。人の背丈をやや越すくらいのそれは、砲身のようなものを体中から突き出していた。

【柄谷生慧蔵】
見えましたよ――
私には確かにあいつが!
あの白きみにくき塊が!
独逸ドイツ語で不思議を意味する、
ヴンダーと名付けましょう!

ヴンダー……

あれはヴンダー……
この意味がわかりますか?
私の理論が完結した瞬間なのです。
ヴンダーの存在がそのあかしです。
ジンネマン対称性たいしょうせいを含む、
私の方程式が正しかったと、
それが証明されたのです!

あれは破壊神ではありません。
あれは創造神なのです。

私はこれで十分です。
もう、十分です――

柄谷生慧蔵は素早い動きで部屋を出て行った。階段を駆け下りていく音がする。

【着信 帆村魯公】
そっちの場所、確定できたぞ、風魔!
じき、警察が到着する。
お前を迎える車も出たぞ!

交信が終わるや否や、遠くの方でくぐもった銃声がした。あれはたしかに銃声である。

【着信 帆村魯公】
何だ、今の音は?
銃声じゅうせいか?

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうが現したヴンダー。
それは
イメージの実体化というべき存在だ。

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうを求め、
そして得たのだ。

彼は思い残すことないと
遺書を残し自殺した。
猟奇倶楽部に警察隊が
なだれ込んできた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん――
猟奇倶楽部の場所、判明しました。
四谷谷町のあたりです。
戒行寺かいぎょうじの坂を降りきる手前――
低いところなので、
探信たんしんしにくかったようです。
【帆村魯公】
柄谷がらたに生慧蔵いえぞうは死んだ。
何通もの遺書があった――

遺書により生慧蔵いえぞう
猟奇倶楽部の会員のうち、
最高位の位にあることが判明した。
しかし主催者については
触れられていない。

また兄の
ルドルフ・ユンカーについても、
まるで他人のことのように
したためてある。
ユンカー殺しについては
言及がなかった。

また瑛山会えいざんかいについては、
シュタインベルク中将の動きは、
親衛隊長ヒムラーの
疑義ぎぎを買っていること、
セヒラ同定から山王さんのう機関設立まで、
すべてが首尾よく進んだことも
しるされていた。

そして戦の論文を書いた以上は、
を確認しないと理論が閉じない、
そのためにすべてを尽くすとあった。

【喪神梨央】
ユンカー局長と、
兄弟だったのですね――
【帆村魯公】
双子の兄弟だな。
兄のユンカーは独逸ドイツに戻り、
弟は日本に残された――
弟は独逸ドイツで兄への面会を申し込むが、
墺太利オーストリアのアカデミー入学をひかえた
兄はそれを退しりぞける――
生慧蔵いえぞうの胸に暗い炎が灯るのは、
その時じゃないだろうか……

ノックの音とともに九頭が現れた。

【九頭幸則】
失礼します、歩一の九頭くずです。
――大変ですよ、先生! 風魔!
【喪神梨央】
どうしたんですか?
幸則ゆきのりさんも見える組ですか?
【九頭幸則】
何だい、その見える組って?
【帆村魯公】
ヴンダーじゃよ、
ラヂオで言っておるぞ、
ヴンダーを見よ、ヴンダーを見よ――

ヴンダーは破壊神ではありません、
ヴンダーは創造神なのです。
ヴンダーを見よ、ヴンダーを見よ――

【喪神梨央】
見える者は前進者です。
幸則さんは前進組ですか?
【九頭幸則】
梨央ちゃん、勘弁してくれよ。
ヴンダーが見えるのは、
怪人だけだって言うじゃないか!
【帆村魯公】
その怪人、市中から姿を消して、
怪人になりそうな市民は、
おそおののいているようだな。
【喪神梨央】
でも怪人になれば新世界に行ける、
みたいなことを言う人も――
一時いっとき帥先そっせんヤみたいです。
【帆村魯公】
うむ……
風魔、表の様子でも見てきてくれ。
【九頭幸則】
俺も行くよ、風魔。

〔山王ホテルロビー〕

山王さんのうホテルはいつもとは異なり、
どことなく落ち着かない様相を見せていた。

【九頭幸則】
何だ、どうしたんだ?
そわそわした感じだな。
いつもの山王さんのうホテルじゃないな。

ホテル玄関から新山和斗が駆け込んで来た。

【新山和斗】
一体、どういうことなんですか?
【九頭幸則】
これはまた奇遇だな。
いや、そうでもないか――
ブンヤが騒ぎを大きくするわけだな!
【新山和斗】
騒ぎも何もありませんよ!
通報が相次あいつぎ現場に取材に出るも、
写真部のカメラに写らないんです!
【九頭幸則】
ヴンダーの話だな?
新聞社に通報でもあるのか?
【新山和斗】
もうすごいです!
朝から電話が鳴り止みません!

ヴンダーは市中の
方々で目撃されていた。
人形町、赤羽橋、築地つきじ
錦糸町、目白――
目撃されるたび
巨大化しているようである。

【新山和斗】
最初は見えなかったのに、
ラヂオを聴くうちに見え始めた、
そういう話もあるようです。
【九頭幸則】
あれは新手の帥先そっせんヤだな。
新聞ではどうなんだ、
怪人川柳が復活したりしないのか?
【新山和斗】
とっくにしていますよ!
担当の新米記者が行方不明なのに、
どんどん投稿が寄せられて――
まだ掲載はしていませんけどね。

そのとき着信があった。

【着信 喪神魯公】
風魔、ホテル前で騒動だ。
ちょっと見てくれないか!
【新山和斗】
怪人騒動ですか?
それくらいじゃ記事になりません。
【九頭幸則】
そうだろうな!
ブンヤにはここにいてもらうぞ。
風魔、表を見てくれ!

九頭の声を背に、
風魔はホテル玄関へ向かった。

〔山王ホテル前〕

ホテル前には数名の市民が押しかけていた。皆、てんでバラバラな方向を向いている。
ホテルから出てきた風魔に近くの白衣姿の男性が声をかけてきた。

【神谷町の元医者】
あなたには見えるんですね?
あああ、私も見たい、
見て前進者になりたい!
もう医者は辞めたんです!
病人なんか見たくもない!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測します。
まだ怪人化して、
間もない怪人のようです。
でも波形が変です――

脇から二人、駆け寄って来た。

【本郷追分町の元学生】
僕はすべてを知ったんだ!
すべてをな!
――だから言葉がめぐる!
怪人の
眼に逆様さかさま
ことばかり
ギャハハハハハハハ~
【角筈の元訓導】
ここならなんとかなるって聞いた!
どうなんだ、ええ?
この私を怪人に変えてくれる、
そうなんだろ?
怪人が新しい世界に行けるんだろ?
堅苦しい訓導くんどうなんか辞めて、
自由になるんだ、邪魔するな!!
いいか、邪魔立てはするな!!

【着信 喪神梨央】
これまでにない速さです、
気を付けてください!

《バトル》

【角筈の元訓導】
体が……軽くなっていく……
これだ、これでこそ怪人だ!
アーハハハハハハ~

男性の背中にアストラルらしきが現れた。それはゆらゆらしながら、男性の体の傍を漂う。

【元訓導のアストラル】
軽いぞ、軽いぞ!
体を失うとこんなに軽いとは!
あのにくき肉体め!!
あのような肉体、
いくらでもくれてやる!!

アストラルが消えた。男性は倒れたがすでにその実体はなくなっていた。

【着信 帆村魯公】
今すぐ、ホテルに戻ってくれ。
おかしな客がいるんだ!

〔山王ホテルロビー〕

ホテルロビーは人払いしてあるようで、
魯公ろこうと話す男性以外に客はいなかった。

【帆村魯公】
風魔、キタイスカヤのホテルが
どうのこうのと――
【料亭大和の大番頭】
私ネ、支那シナ人みたいな話し方ネ、
れっきとした日本人ネ!
【帆村魯公】
落ち着いてください、
ここは日本ですぞ、帝都東京です。
【料亭大和の大番頭】
ひぇ~~~~
――やっぱりですかい!
私、新京シンキョウ三笠町みかさちょうにある、
料亭大和やまとの番頭です。
新京シンキョウ一の花街ですよ――
大事なお客さんを迎えに、
哈爾浜ハルピンまで行って、
キタイスカヤのホテルに入りました。
【帆村魯公】
ホテルはなんというホテルですかな?
【料亭大和の大番頭】
東方飯店、露西亜ロシア語で、
ホテルボストークです。
ここより狭いロビーで、
お客さんを待つんですが、
約束の時間になっても来ない――

しびれを切らした大番頭は
表通りへ出る。
しかしそこには人の姿はなく、
音さえしない場所だったという。
ホテルに戻ったとき気を失って、
次に気が付いたときは
山王ホテルの地下、
エレベーター前で
うずくまっていたというのだ。

【帆村魯公】
エレベーターとは、
どちらのですかな?
【料亭大和の大番頭】
そっちです、そっち!
フロントの脇に出てくるやつ――
客が乗らない感じのやつ――
【帆村魯公】
なるほど!
あれは特別でしてな。
詳しくお話を聞きたいものです。
【料亭大和の大番頭】
もう話しました!
私は哈爾浜ハルピンにいたんですっ!
あずからない間に東京に――
【帆村魯公】
風魔、後は頼む。
こちらの方と出かけてくる。
もうじき殿下がお見えだ。

そこへ着信があった。

【着信 新山眞】
喪神さん――
どうやらいろいろ繋がり始めた、
そんな気がします。
ここは人払いしてあります。
そのまま殿下をお待ち下さい。

交信が終わったその時、ホテル玄関から聖宮がやって来た。

【聖宮成樹】
喪神さん――
独逸ドイツのある筋から仕入れました、
有澤ありさわ中将のことです。
彼は特務機関長でした――

10年前、駐独武官だった有澤少将は、
ナチ親衛隊に入党したばかりの
ヒムラーと出会い、意気投合する。
ヒムラー、当時25歳、
有澤41歳である。
1932年、褐色館ブラウネスハウス
警備主任のヒムラーは、
フンメル博士に命じて
北支ほくし発掘を実行する。

【聖宮成樹】
フンメル博士は日本でも発掘を行い、
セヒラの量と質において優れている、
そう報告を上げるのです。

日本では柄谷がらたに博士の
論文上梓じょうしにより、
参謀本部は瑛山会えいざんかいを組織します。
私はその時に参加しました。
背後にいるシュタインベルク中将が、
強い影響力を持ちます。
リヒャルトガルテンの所長です。
しかしヒムラーは彼を疑っていた――

釣鐘つりがねのこともそうなのです。
表向きは壊れたことになっています。
実際はこの地下に移送されています。
ヒムラーはそうした動きを探るため、
有澤中将に依頼をしたのです――
つまりスパイするようにと。

それで有澤機関が設立され、
何名かのスパイが活動を始めます。
興亜貿易という会社がかくみのです。
機関にはエニグマ暗号機が与えられ、さらに日独で同じ本を乱数表に用い、
念には念を入れていました。
その本とは――
ゲエテのきつね裁判さいばんという本です。

アーネンエルベも内偵ないていの対象に、
なっているかもしれませんね。
確かめてみようと思います。

【聖宮成樹】
喪神さん、市民が押しかけています。
このホテルで怪人になれると、
そんな噂が飛び交うのです。
怪人になれば新しい世界に行ける、
そんな噂にそそのかされるのです。
ここは私がなんとかします――

聖宮ひじりのみやには考えがあった。
釣鐘つりがねの出力を調整することで、ヴンダーに流れ込むセヒラを抑える――
それでヴンダーの勢いをぐことができる。
勝算のあるものではなかったが、試す価値はあると踏んでいた。

【聖宮成樹】
市民がしずまれば、
私は釣鐘つりがねの出力を調整します。
セヒラの制御を試みてみます!

ホテルのことは聖宮ひじりのみや
ホテルの守衛に任せ、
風魔は裏口からホテルを出た。

人々が二階の窓や物干しから表を見ている。ある者は雲を指差し、ある者は煙を見て、あれがヴンダーに違いないなどと騒ぐ。胸に大きなカメラを下げる者もいた。

新聞にはヴンダーを見たという市民が寄せた、素描そびょうが掲載され、人々の想像力を刺激した。
担当記者不在なのに怪人川柳も掲載された。軍が出動してヴンダーに攻撃するも、市街に砲弾を降らせただけであった。

怪人の
叫び真理の
上を超す

怪人の
前を横切る
黒い猫

怪人の
一人渡る
長い橋

不思議な波形を観測したとの知らせで、風魔は紀伊国坂きのくにざかおもむいた。
山王さんのうホテルからほど近い場所だ。

〔紀伊国坂〕

着物姿の老人が道の真中にぼんやりと立っている。風魔の姿を認め、ふらふらと近寄って来た。

【為次郎】
おいら猫の為次郎ニャ~
こう見えても次男会の一員ニャ~
かなりの古株ニャ~
この人は日本橋の団扇うちわ商ニャ、
昔からおっきな隙間拵すきまこしらえるニャ、
危なっかしいニャ~

おいらどら焼きの佐加美屋の猫ニャ、
おちおち昼寝もできないニャ~
なんせ団扇うちわ屋は向かいだからニャ~

さっきから別な何かが、
おいらの場所を狙ってるニャ~

その時、老人はビクンと背中を伸ばし、のけぞったようになった。そしてゆっくりと直った。

【為次郎】
びっくりしたニャ~
あんたに話があるみたいだニャ、
おいらしばらく場所を空けるニャ!

老人はうつむいてしまった。その背中からアストラルが現れた。

【ユンカーのアストラル】
ドイツに来た弟を日本へ帰したのは、
私ではない、父だ。
父には私の成功が必要だった。
私は一点のくもりもない状態だった。
墺太利オーストリアのアカデミーにも入学できた。
弟が物理学者として、
まさかセフィラを分析し、
に興味を持つとは驚きだった。

私は弟の論文を全て読んでいる。
彼は筋金入りの科学信奉者であり、
無神論者だ――
その弟がの論文など……

だが私は確信した。
弟がやがて私のもとに現れ、
私の成果を求めるだろうと――
私は知り得たことをノートにしたため、
弟の興味を引くように仕向けた。
もちろんすべて研究の賜物たまものだ、
嘘偽りなど何一つとてない。

私は内的イメージの具現化、
つまり幻視の研究を手がけ、
多くの成果を得たのだ――

弟は学者として、
自らの理論の統一のために、
を自分の目で確認する、
そのことだけを祈念きねんしていた。

無神論者の彼が、
霊異りょういかしずくように、
を求めたのだ――
考えてみれば滑稽こっけいなことだ。
無神論者が霊異りょういを求めるなど……

――ここには長居は無理そうだ。
赤坂哈爾浜ハルピンで君を待つ。

アストラルが消え、老人が顔を上げた。

【為次郎】
もういいかニャ?
おいら、疲れたニャ~
そろそろ帰るニャ~

そう言うと老人はふらつきながら歩き去った。そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
はらえの間においでください。

〔祓えの間〕

【新山眞】
ヴンダーの見える派と、
見えない派に別れるの、
なんとなく納得しました。
あれは実存しないのですね。
軍の砲弾も当たるはずがありません。
皆の心の恐怖があいつなのですよ。

――ですが……
やがて実体化するのは時間の問題。
そうなれば大量殺戮の兵器になる、
私が最も懸念することです。

赤坂哈爾浜ハルピンに、
先ほどと同じ波形があります。
向かってください。

〔赤坂哈爾浜〕

赤坂哈爾浜ではアストラルたちが右往左往していた。その中から一体のアストラルが寄って来た。

【本郷の元書生アストラル】
怪人川柳、企画したのは、
蛇穴さらぎ先輩だ!
アハハハ~
先輩がどうなったか知っているか?

先輩は素っ裸の上に、
女物の襦袢じゅばんだけを羽織はおって、
夜な夜な出歩くんだ。
きっと誰かに入れ知恵された、
そうなんだろ?
お前たち軍部の仕業なのか?
帝都の騒ぎも、みんなそうだろ?

僕はね、アナーキスト共を、
片っ端から特高に売ったんだ!
国体を維持するためにね!

それなのに……
お前たちがその体たらくで、
何もかもがダメになる!!
許さん!!

《バトル》

【本郷の元書生アストラル】
たかがこれしき――
もっと強くなってやる!

【着信 喪神梨央】
申し訳ありませんでした!
あまりに急なことで……
何か逆恨さかうらみしていたようですね。
もう大丈夫です――

新たなアストラルが近寄って来る。

【ユンカーのアストラル】
ここでなら話せるが、
あまり時間はない――
ヴンダーの影響は、
市民の心の深くに及ぶ。
やがて取り返しの付かないことに――

では話そう――
私は幻視を現すだけではなく、
真理をあらわにする力も、
合わせて研究していた。
言わば幻視を解く魔法だ。
だれか魔法に明るい者はいるかな?
魔法の知識が必要だ――
ううう……もう持ちそうにない!
私は……流される――

全てを言い終わらないうちにユンカーのアストラルは震えながら消えた。

【着信 喪神梨央】
新山さんがお話があると――
山王さんのうにお戻りください。

〔祓えの間〕

【新山眞】
ヴンダーは益々ますます大きくなっています。
その攻撃、見た目凄まじいのですが、
市内に何の被害はありません。
見える派の市民たちは、
もはや恐怖を感じ始めています。
見える派から怪人が生まれ、
すぐに姿を消すからです。
ヴンダーに食われている――
そんな噂も出始めました。

殿下が釣鐘つりがねの出力を試されて、
その効果も表れているようです。
ただしずめるには至りません。

ヴンダーの出現する場所に
印をつけていきます。
毎日ほぼ同じ場所なのです。
何か意味があるはずです――
わかったらお知らせします。
【着信 喪神梨央】
兄さん――
魔法のこと、あきらさんに相談して、
受け入れてもらいました。
あきらさんのアトリエにお願いします。

〔旭のアトリエ〕

【能海旭】
梨央りおさんから聞いたよ。
魔法がいるんだって?

うーん……
私にできるかな?
十四のときに左肩に入れた、
スペードの刺青いれずみ――
すーっと消えたのよ!

魔女になるために必要なもの、
それが私から去ったの。
だから私……
魔法そのものからも、
見捨てられたような気がしてる。

でも風魔さんに必要なら……
学校で復習しなきゃね、魔法のこと。

〔旭のアトリエ前〕

あきらは溜池通から円タクで学校に向かった。
アトリエ前に新山がやって来た。ここを梨央から聞いたのである。

【新山眞】
ヴンダーの出現位置には、
何か意味がある――
そう考えていたのですが……
すでに投書が来たそうです。
和斗かずとが教えてくれました。

ヴンダーの出現位置を、
帝都の地図に落すと、
古代北欧ほくおう文字になるそうです。

今日、最初に出現したのは、
淀橋区の角筈つのはず電停前――
次が麻布あざぶ区の四ノ橋電停前……

そのあとヴンダーは、小石川区春日町かすがちょう電停前、
浅草区三筋町みすじちょう電停前、京橋区新富町しんとみちょう電停前――
合わせて五箇所に出現したのだった。

【新山眞】
それら五箇所を線で結ぶと、
古代北欧ほくおう文字のオセルになります。
魚のような形になります。
三筋町みすじちょうが頭、角筈つのはずと四ノ橋が尾、
それがオセルという字です。
【着信 喪神梨央】
ラヂオでも言ってますよ――
オセルとは執着を捨てて、
素の自分に向き合うことだって。
【新山眞】
今日は他に、パース、ライゾ、カノ、
ラグズ、全部で五つの文字が――
昨日も全く同じだそうです。

これら古代文字はルーンと言います。
ナチがアーリア人の起源を求め、
祭儀さいぎにルーン文字を用いるのです。

しかし……
この文字をどうするかまでは、
さっぱりわかりません。
【着信 喪神梨央】
独逸ドイツ大使館で騒ぎです。
巡視パトロール中の金ノ七号きんのしちごうから連絡です。
三宅坂に向かってください!

〔独逸大使館前〕

大使館の玄関前ではユリアと鬼龍が対峙していた。鬼龍は背を向けている。
その手前に武装SSが
進入を阻んでいた。
武装SSが風魔の到来を鬼龍に告げた。
鬼龍はさっと風魔を向いた。

【鬼龍豪人】
今、こちらのユリア女史から、
ルーンの解釈を教えてもらってね。
ナチ的解釈というわけだ。
【ユリア・クラウフマン】
フーマ!
日本人はもっと礼儀正しいと――
私の買いかぶりでしょうか?
いきなり押しかけてきて、
ルーンの資料を寄越よこせなど――
一体、どういうおつもりですか?
【鬼龍豪人】
本国ではトゥーレの館と、
アーネンエルベは蜜月みつげつの関係ですよ。
日本でももっと向き合うべきです。
【ユリア・クラウフマン】
今のここには、
そのような余裕はありません。
お察しいただかないと――
【鬼龍豪人】
アハハ、いろいろあったようですね。
ですが解答は得たから、
これ以上求めるのはしましょう。
【ユリア・クラウフマン】
タケト大 尉カピティーン――
あなたは染 化ファーブストッフによって
トゥーレの召喚師となった。
すべてを手に入れたはずです。
そうじゃありませんか?
【鬼龍豪人】
私はもはや大尉などではない。
孤独な彷徨さまよえる召喚師だ。
小さな私から、
まことに小さな助言を与えよう――

しかし鬼龍は風魔を向いた自分に言い聞かすようにして続けた。

【鬼龍豪人】
ヴンダーはルーンを描く。
ルーンはそれだけでは何も為さない。
ルーンを用いスターヴを描くことだ。
五つのルーンの意味が合わさり、
ただひとつの魔法となる。
願いを叶える白魔法だ――
夢のある話じゃないか!
【鬼龍豪人】
だがしかし――
山王さんのう機関に魔法使いはいるのか?
アハハハハ、いればケッサクだな!
よしんば魔法をかけたとして、
あのヴンダーがどうなるか、
何の確証もないがな――

鬼龍は風魔に一瞥をくれた後、歩き去った。武装SSも後に続く。

【ユリア・クラウフマン】
タケト大 尉カピティーン染 化ファーブストッフにより、
完全な状態コンプレットとなったのです。

そうでなければ、
ヴンダーの力を求めたかも――
ナチではルーンに独自の解釈をあて、
その効力をより高めています。

おそらく……
ユンカー博士が何か仕込んだのです。
それでヴンダーはこの町に、
ルーンを描くのです。
巨大なルーンを――

それ以上のことは、
私にはわかりません。

梨央からの連絡で
鈴蘭すずらん女学園に向かうことに。
あきらの通う学校が
併設へいせつされているのだ。
といっても仮構かこうされた存在では
あるのだが――

〔鈴蘭女学園〕

学園正面玄関には袴姿の女学生がいた。
やって来た風魔を観て一人が言う――

【鈴蘭女学生聖子】
あら、歴史研究所の先生ね!
お若い先生だこと……
オホホホホ~

【着信 喪神梨央】
そのまま学園の中へ進んでください。
あきらさんがお待ちです。

〔祭儀室〕

自由サーベラス学園の祭儀室さいぎしつは、
高いへいに囲まれた中庭にあった。
丸屋根の中で
あきらが迎えてくれた――

【能海旭】
梨央さんから教えてもらったわ。
ルーンでスターヴを描くのね。
やりかたは一通り確認したよ。
図書室から本を引っ張り出してね。
前に習っただけで忘れていたから――

オセル、パース、ライゾ、カノ、
ラグズ――
これらルーンで文様を描くのよ。

このスターヴは、
真理をあらわにする白魔法のもの。
教科書によるとだけど――

さて、準備があるから、
風魔さんはここで待っていて。
私、地下のドームに降りるから。

祭儀には専用のローブをまとうのよ。
ブレナン先生のだから大きいけれど、
贅沢ぜいたくは言ってられないよね。

地下のドームであきらはスターヴを描いた。柘榴ざくろの板に自らの血で文様をなぞった。
教科書にある呪文を唱えながら――

二時間が経過した――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
清水谷公園で異様な波形を観測!
至急、向かってください!

あきらさんのことは、
そちらに警護部隊を派遣します。
安心してください。

異様な波形があるとの報告で、清水谷公園に向かった風魔。
そこで見たものは果たして――

〔清水谷公園〕

万朶の桜花が春爛漫を告げている。公園の方々で宴が催されていた。
そこへ将校服の青年が近寄って来た。

【九頭幸則】
おい!
風魔じゃないか!
久しぶりだな!

何やってんだ、こんなところで!
一人前の審神者さにわになったんだろ?

【着信 帆村魯公】
風魔!
一体、誰と話しているんだ?

【九頭幸則】
ちょっと悪い――
あそこに騒ぐのがいるんだ。
せっかくの桜の公園が台無しだ。

そこへ洋服姿の女性が
風魔を向いて言う。

【如月鈴代】
あら風魔さん――
帆村流、修められたのですね。
今日は野点に参ったのですが……

着物姿の若い女性が面を向けた。

【月詠麗華】
前に一度、お会いしましたかしら。
いいお日和でございますわね。
でも……あちらの方が……

着物の女性が顔を曇らせた。
少し離れたところで怒鳴る声が聞こえる。

【九頭幸則】
風魔、ちょっと見ててくれ!
俺、紀伊国坂の交番にひとっ走り、
巡査を呼んでくるよ。

言われた方を見ると、二人の男性が何やら言い争っていた。風魔は二人に近寄った。
スーツの男性が年嵩のトンビ服の男性を懸命になだめているところだった。

【着信 帆村魯公】
風魔!
お前は誰の時間を生きているんだ?
お前は陸軍中尉だぞ!
九頭も鈴代もそれを知っているだろ!
まずは騒いでいる男のところへ
向かうんだ。
それで何か分かるだろう。

風魔に気付いたスーツ姿の男性が困り果てた顔をして言う。

【スーツの男】
うちの先生、
同僚が首席訓導くんどうに昇進して、
爾来じらい、虫の居所いどころが悪いんです――

いや、せっかくの花見の席で
うちの先生が申し訳ないです。

トンビ服の男性が風魔を向いた。血走った目をしている。酒の勢いもあって鬱憤を爆発させた。

その時だ――
周囲から色が失せた。

再び色が戻った時、
風景は一変していた。
桜の花は消え、花見に来ていた市民もいない。公園は初冬の冷たい空気に包まれていた。

目の前にはトンビ服の男性の代わりに一体のアストラルが浮かんでいる。

【酔漢先生のアストラル】
どけ!
ええい、そこをどかんか!

貴様ら、国賊こくぞくどもめ!
天誅てんちゅうだ、天誅てんちゅうくだす!
私を何だと思うか!!

《バトル》

【酔漢先生のアストラル】
ふぅ、ふぅ、ふぅ……

一旦緩急いったんかんきゅうあれば、
義勇公ぎゆうこうほうじ!
臣民しんみん
ちゅうこうにぃ~
皇祖こうそ皇宗こうそう
くにはじむること宏遠こうえんに~

アストラルは震えながら消えた。
そこへ着信があった。

【着信 帆村魯公】
風魔、よく聞け!
お前だけが時間から離されている。
いや、むしろ違う世界にいるのか?
相手からはお前がちゃんと
見えていないようだったな。
長居は無用だ、すぐ戻るんだ。

第九章 第八話 必要なもの

〔山王機関本部〕

その朝、機関本部には興奮気味の新山眞にいやままことの姿があった。
霊式ヘテロヂン技術によって暗号が解読でき、芽府めふ須斗夫すとおの語る第七の予言が判明したのだ。

【新山眞】
とうとう解読できました!
【喪神梨央】
すごいです、新山さん!
それで何とあるんですか?
【新山眞】
ダイオウ
アラワレリ

【喪神梨央】
だいおうあらわれり?

新山はタイプ打ちされた用紙を見せた。

【新山眞】
大王現れり――
この予言の前の部分は……
【喪神梨央】
全地の主なる――
です、続けると、
全地の主なる大王現れり
【新山眞】
まさしく予言めいていますね。
第六の予言と繋げると――

日蝕ひくく明け新しき天地あめつちひらかれり
全地の主なる大王現れり

【喪神梨央】
日蝕にっしょくの日の明け方、
新しい天地あめつちひらかれて、
それを支配する大王が現れる――
【新山眞】
日蝕にっしょくは十二月二十六日の明け方、
まさにその時ですね。
【喪神梨央】
二十五日は先帝祭で祭日です。
山王さんのうホテルでもクリスマスの会が
もよおされます。
【新山眞】
パーティとかあるのですか?
【喪神梨央】
はい……
舞踏会ぶとうかい晩餐会ばんさんかいが予定されています。
大勢が参加します。
【新山眞】
異変がどこに起きるか不明な以上、
避難誘導ひなんゆうどうなどはできませんね――
【喪神梨央】
……
【新山眞】
山王さんのうにゲートがある限りは、
ここで何も起きないはずはない……

新山が危惧しているのはゲートの制御が効かなくなり、セヒラの奔流を招く事態であった。

【帆村魯公】
二十五日のうちに切り上げてもらう、
それがもっとも穏便おんびんな方法じゃな。
【喪神梨央】
あ、隊長!
――今、そのことで新山さんと……
【帆村魯公】
新山君の心配もごもっとも。
ただいたずらに騒ぎ立てるのも良くない。
【新山眞】
予言では二十六日を語ります。
前日のうちはまだ――
【帆村魯公】
パーティやらは、
早めに終えてもらうとしよう。
――それで大王がどうしたと?
【新山眞】
新しい世界をべる大王です。
それが現れるのだと――
大王とは何者でしょうか?

【喪神梨央】
帝都では度々たびたび、神曲が語られます。
地の底に氷漬けになるルシファー……なんだか気になります。
【新山眞】
しかし、帥士すいしの方も召喚師も、
まだルシファーの召喚は、
行えていないのですよね?
【喪神梨央】
ええ今のところは……
最近、独逸ドイツ勢の動きが、
読みづらくなってはいますが。
一度、虹人こうじんさんに、
近況を尋ねてみますね。

【帆村魯公】
新山君――
予言というのは、これですべてか?
【新山眞】
わかりません――
ただ、語り尽くされた感じはします。

【帆村魯公】
鏡の方はどうだね?
例のゼーラム何とかを塗った鏡だ。
【新山眞】
気密筐体きみつきょうたいにまだ煙が残ります。
もう少し時間がかかるかと――

ノックの音とともに九頭が姿を見せた。

【九頭幸則】
歩一、九頭くずです!
ちょっとした事件が――
顔をつぶされた死体が発見されました!!
【喪神梨央】
以前、似たようなレントゲン写真、
ありませんでしたか?
【新山眞】
沼津ぬまづの省線病院で撮られた、
顔を吹き飛ばされた怪人です。
中からが出たのではと――
【帆村魯公】
今では人前には現せない、
その仕組は保たれておるがな。
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさん、顔のつぶされた死体、
どこへ運ばれたんですか?
【九頭幸則】
戸山とやま衛戍えいじゅ病院だ。
公務出動するのか?
だったら俺も同行するよ!
【喪神梨央】
気を付けてください!
公務電車、手配します!

九頭と風魔を乗せ、公務電車は一路戸山を目指した。

〔戸山衛戍病院〕

衛戍病院の前には軍用トラックが停まり、その脇に黒塗りの車もあった。白衣姿の医者、看護婦、玄関前を2名の憲兵が立哨に付く。

【九頭幸則】
なんだか物々しいなぁ……
ちょっと俺、
あの憲兵と話してくる。
怪人が運ばれたかも知れないって。

九頭は向かって左の憲兵の元へ。そこに別の医者がやって来た。白衣姿で頭には反射鏡を乗せている。

【猟奇的な医者Σ】
なかなか興味深い検体ですよ!
顔がつぶされている――

と思いきや、そうではなく、
あれは糜爛剤びらんざいの大量曝露ばくろによるもの。
目や口の粘膜ががり、
表にまで飛び出しています。
皮膚は方々で拘縮こうしゅくしています。
口が大きくゆがむのはそのためです。
内臓も酷い有様でしょう。
おそらく出血性肺水腫はいすいしゅ
消化器官に重篤じゅうとくな障害が
ありますね。
死後五時間というところ――
顔の一部は野良犬のらいぬに食われています。

九頭が駆け戻って来た。

【九頭幸則】
顔をつぶされた死体、
影森かげもりだと言うぞ!
影森愁一かげもりしゅういちだ――
一時、俺のお目付け役だった。
でも会ったことはない――
軍人かどうかもわからない――

目の前の医者の周りにセヒラが漂い始めた。

【猟奇的な医者Σ】
係留細線維けいりゅうさいせんいのプロテアーゼによる
分解によって
重篤じゅうとく水疱すいほう形状を招き、
角化かくか細胞や骨髄こつずい細胞で細胞死を生起!
ウハハハハハ~
その痛みは全身の皮を、
力任せにかれるかの如し!!

【九頭幸則】
風魔!!
注意するんだ!
こいつ、おかしくなってるぞ!

《バトル》

【猟奇的な医者Σ】
ルイサイトに大量暴露ばくろした例だ、
最高の検体ではないか!
捜査そうさなどさせないっ!

医者は斃れた。

【九頭幸則】
医者というのも困りものだな。
検体を独り占めしたいばかりに、
怪人になるなんて――

しかし影森かげもりとはまったく謎の人物だ。
その影森かげもりを誰が殺したんだ――
糜爛剤びらんざいきかけたりして。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
防疫研で奇妙な波形を確認しました!
急ぎ向かってください。
糜爛剤びらんざいはルイサイトかも知れません。
参謀本部が調査を引き継ぐそうです。
防疫研、一般中尉も同行されますか?

【九頭幸則】
ああ、一般も行くよ。
あと、このあたりの医者も、
全部しょっぴいたほうがいいな!

〔白金三光町〕

二人は公務電車で白金三光町電停へ向かった。電車通は静まり返っている。二人が電車を降りると、何十羽ものカラスが羽音を立てて飛び去った。

【九頭幸則】
なんだか不気味な雰囲気だ――
人の姿もないしなぁ。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
本当に奇妙な波形です――
注意してください!

二人は国立防疫研究所へ向かった。
かねてより仮構組織かこうそしきとの疑義のある施設だ。

〔国立防疫研究所・所長室〕

所長室の大きな机の前に白衣姿の柄谷生慧蔵が立っていた。

【柄谷生慧蔵】
ここにあった大きな市松人形、
あれは果たして何でしょうか?
気味が悪いので、
先ほど焼却炉しょうきゃくろてましたよ。

【九頭幸則】
あなたは……
ここの責任者の方ですか?
――この仮構かこうの場所の?
甘い匂いはしないようですが。

九頭の質問には答えず、柄谷は風魔を向いたまま続けた。

【柄谷生慧蔵】
軍人というのは単純ですね。
喪神さんは審神者さにわでおいでだ、
一線をかくしておいでなのでは?

九頭は前に踏み出し声を荒げた。

【九頭幸則】
おい、あんた!
我々は公務で来ているんだ。
いい加減なことを言っていると――

そのとき、柄谷はようやく九頭に気付いたというふうに九頭を向いて言う。

【柄谷生慧蔵】
私は山王さんのう機関の生みの親です。
帝都のセヒラ同定を受けて、
参謀本部に論文を出しました――
【九頭幸則】
すると、あんたが……
瑛山会えいざんかいの――
【柄谷生慧蔵】
その名前はあまり出さないほうが、
よろしいでしょうな。
私は一介の物理学者です。
森羅万象しんらばんしょうのすべてを計算で求める。
しかしそれでは真実は得られない――
存在と非存在の間には、
極めて曖昧模糊あいまいもことした空隙くうげきがある。
そこを貫く穴もあるはずです――
私はようやくそうした思いに至り、
内面にあるイメージも実は、
眼前に存在しうるのではと――
【九頭幸則】
何のことを言っているんですか?
もしやのことですか――
風魔たちが見ているという。
人の魂を食わせて作る人籟じんらい
その研究がここでなされていました。
それはご存知ですね?
【柄谷生慧蔵】
軍人にしては勘が鋭いですね。
人籟じんらいの材料になりそうな、
そういう怪人を期待したのですが。
実験にはおろかしい肉体も、
数多く必要なのですが――
別の手を考えますよ。

柄谷は教授のような口調になり続けた。

【柄谷生慧蔵】
さて、話を戻しますが、
心的なイメージから想起される、
幻視的な存在を表出させ得る――
その表出を見るためには、
見る側にも意識が必要なのです。
ある種の共犯関係ですな――
【九頭幸則】
似たようなことは帝都でも起きた。
銀座幻燈会げんとうえや人生よろづ相談――
憎しみや恐怖をあおてた。
怪人化をそそのかすような動き、
帥先そっせんヤと呼ばれて摘発てきはつを受けた。
それとどう違うんですか?
【柄谷生慧蔵】
新しい宗教の誕生、
とでも呼べばいいでしょうか?
信仰の対象を現すのですよ。
その瞬間に立ち会ってみては、
如何いかがでしょうか?

不意に柄谷は所長室を出て行った。

【九頭幸則】
待ってください!

九頭と風魔は柄谷を追って部屋を出た。柄谷はホールを横切り地下へと降りていくところであった。

〔防疫研究所処置室〕

処置室の奥には果たしてクルト・ヘーゲンがいた。
目を半開きにして明らかに様子が変だ。彼は車椅子に乗せられている――

【柄谷生慧蔵】
残念ですがこれは自失体ですよ――
クルト・ヘーゲンは自失した、
その実体、いや元の実体ですね。
状態としては前頭葉ぜんとうようが無くなった、
それと同じでしょうか――
欲望に正直なのですよ。

さぁ、クルト、
聞こえる言葉は何ですか?

【クルト・ヘーゲン】
きみジーのあまいしずくトロプン
はちみつリーブリング――
はちみつリーブリングがなくなる!
【柄谷生慧蔵】
君とは誰かね、クルト?
【クルト・ヘーゲン】
はんすHANS――はんすHANS――
ぼくのきみジー――
はんすHANS――
【柄谷生慧蔵】
クルトよ、黒胆汁くろたんじゅうの主よ、
さぁ、求めるものを思え!
戻らない日々を思え!
【クルト・ヘーゲン】
ううう……
はんすHANS……はんすHANS……
ぼくらはふたりミッツ――

クルトがたどたどしく話し終えるや、彼の顔の前に小さなセヒラの球が現れた。

【柄谷生慧蔵】
クルトよ、これがそうではないかな?
君の求めてやまない想い出――
ハンスの持ち物!
【クルト・ヘーゲン】
これは……てちょうノーボク……
はんすHANSの……てちょうノーボク……
ぼくのにがおえポートレイ……はんすHANSがかいた!
【柄谷生慧蔵】
そうとも!
バーデン国家青年団で支給された、
ハンスの手帳だ!
ハンスは親愛のあかしに、
この手帳に君の似顔絵にがおえを描いた。
絵のうまい子だったのかな?
これを君に授けよう。
いろいろ蘇ることだろう。

柄谷がさっと両手を広げた。するとセヒラの球は真っ赤な炎に包まれた。

【クルト・ヘーゲン】
やめろ!
もやすな!!
はんすHANSの……てちょう……

上体を小刻みに震わせるクルトの背後にアストラルが現れた。アストラルは膨張と収縮を繰り返している。

【クルト・ヘーゲンのアストラル】
貴様!
兄殺しを私になすけ、
まだ何を望む?
【柄谷生慧蔵】
ついに出ましたか!
あまりにも強い念が、
アストラルを表出させましたね!
【クルト・ヘーゲンのアストラル】
ここにを降ろし、
貴様をなぶり殺してやる!!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
整えてください!!

《バトル》

【クルト・ヘーゲンのアストラル】
糞!
山王さんのう機関の猿と戦うつもりはない!

柄谷がらたに
貴様をどこまでも追ってやる!
覚悟しておけ!

アストラルは回転しながら消えた。柄谷は消えたアストラルをあたりを見ている。

【柄谷生慧蔵】
その調子です、いいですよ――
まされた憎しみは、
濃厚セヒラの中で悪の実体を呼ぶ。
兄の研究ノートが正しければ――
【九頭幸則】
今のは一体どういうことですか?
【柄谷生慧蔵】
ほんの小手調べですよ、
まだ本番はこれからです。
【九頭幸則】
何を言ってる?
ヘーゲン召喚師はどうなった?
【柄谷生慧蔵】
これはがらですよ。
日本人はせみがらにも美を求む。
あながちてたものじゃないですよ。

九頭は車椅子のクルトに向かって声をかけた。

【九頭幸則】
おい、意識はあるのか?
聞こえるか、俺の声が?
【クルト・ヘーゲン】
あう……あう……あう……
はちみつリーブリング……

【柄谷生慧蔵】
さぁ、もうこれくらいでいいでしょう。
彼にはまだ仕事があるのです。
大事な仕事がね――

風魔に一瞥をくれた後、生慧蔵はクルトの乗る車椅子を押して出て行った。

梨央りおからの無線でゲルハルト・フォス大佐を、品川駅前から警護するよう公務指示があった。
独逸ドイツ大使館からの要請だという――
影森愁一かげもりしゅういちのことを刑部おさかべ大佐に報告すべく隊に戻る九頭くずと別れ、風魔ふうまは品川へ向かった。

〔品川駅前〕

【着信 喪神梨央】
ユーゲントが出迎えるみたいです。
大佐は間もなく到着します。
船は花鳥玲愛カトレア丸でした――

交信が終わった時、大型の車が滑り込んできた。

【ゲルハルト・フォス】
ヘル! モガミフーマ!
君の警護を受けられるとは、
実に光栄の極みだ――
無粋ぶすいなSS隊員は行かせたよ。
フフフ――
ナチ党は何でも知りたがる。
独日どくにちは来年にでも協定を結ぶ。
君は同盟国の公務として、
私のことを余さず伝えてくれ――

それとも――

そうか!
君たちが使う無線で、
私の話はすべて伝わるのだな――
いいだろう――
いずれにせよ、そろそろ潮時しおどきだ。
それに私はあと一息なのだ。
愈々いよいよ、完成の域に達したからな!

フォス大佐は横浜港への入港直前に、アルツケアンを体内に取り込んだと語った。
蟻走痒感府ぎそうようかんふのカーンから入手したものだ。

【ゲルハルト・フォス】
カーンは私にたくしたのだよ。
第四帝国の総統として、
広大な欧亜ユーラシア大陸を統べることをね。

第三帝国は多くの爆弾を抱える。
各国の利欲がくすぶり続けるからな。
しかし欧亜ユーラシア大陸は違う。
まったくの新天地なのだ!

これから前祝いだ!
シナガワのレストランに向かう。
君も同行したまえ――

フォスは徒歩で品川遊郭に向かうようだ。風魔はフォスのやや後ろに付いた。

【着信 喪神梨央】
大佐はおそらく、
帝都のセヒラを確認して、
アルツケアンを入れたのです。
そのほうが効果が高いそうです。
公務、続行してください。

〔品川遊郭〕

暮れなずむ品川遊郭。長塀に添ってユーゲントが等間隔で立っていた。

【ゲルハルト・フォス】
アルツケアンは、
世界のどの聖石にもおとらないだろう。
フリジアのペシヌスにある太母の石、
ヘリオガバルス皇帝が、
ローマに持ち帰ったエメサの石――
メッカはカアバ神殿に置かれた石。
いずれも磁石である。
――北極星を指すことはあるが……

アルツケアンは北極星から来た。
至高の神のもとからやって来たのだ!
いや至高の神そのものなのだ!
仰ぎ北極星を見上げるがいい。
大熊座、小熊座が四季ごとに現す、
宇宙の意志、大スワスティカを!
あれこそアーリア人の起源を示す。
大スワスティカは調和であり永遠だ。
たゆまぬ宇宙の運動へと意思を繋ぐ――
私の精神は宇宙の至高の極みに向き、
永遠の呼応を約束されたのだ!!

間もなく私は完全体となる。
新帝国を統べる完全なる総統コンプレットヒューラーとなる!
そろそろ食事の時間だ――

長広舌を終えるとフォスは遊郭へと入って行った。

〔遊郭廊下〕

【ゲルハルト・フォス】
大使館には余すこと無く伝えたかな?
完全体になれば、
誰も私に手出しはできない。
親衛隊長のヒムラーでさえな!

ところで、モガミフーマ――
このトウキョウに、
ヒムラーの間諜かんちょうがいるらしいな。
長官の股肱ここうしんに、
裏切る者がいると――
その者はトウキョウと関係が深い。
疑う者は悲しき存在だ。
自ら疑念のうずに巻き込まれるのだ。
私は信じた――
桃源郷を信じ、アルツケアンを信じ、
だからこそカーンは私にたくした。
もっともカーンは、
SS特務部隊の侵攻に恐れを為した、
そういう見方もあるがな。

廊下の奥から一人の遊女が現れフォスの前に立ち、端唄の節回しで歌った。フォスはリズムを取りながら聞き入っている。

【遊女櫻木】
心でとめて帰す夜は 
可愛いお方のためにもなろと
泣いて別れて又御見文字ごげんもじ
猪牙ちょき蒲団ふとん夜露よつゆれて
あとは物憂ものうき独り寝するも
ここが苦界くがいの真ん中かいな

フォスは遊女とともに廊下の奥に消えた。

〔品川遊郭〕

遊郭を出ると一人のユーゲントが素早く風魔に寄ってきた。

【嵯峨野丸】
ニ〇、一五――ニ一、四五、
唱歌、演説、余興!
ニニ、◯◯、
消灯、就寝!

――全部言わないとね、
何だか気持ち悪くって。
これ、幼年学校の時間割だね。
もう君とは戦わないよ。
アプドロックが解けたみたいだ。
不思議な気分だよ――

二人のもとにユリアがやって来た。

【ユリア・クラウフマン】
フォス大佐のことは聞きました。
彼は完全に踏み外しています――
私、心配で……
本国に問い合わせてみました。
フォス大佐のこと――
フォス大佐、爵位しゃくいを奪われて、
奸計かんけいめた弟に復讐したのです。
反逆者の汚名を着せて――

フォス大佐はシュタイナー家の長男だった。
弟の奸計かんけいめられ、爵位しゃくい剥奪はくだつされる。
弟はエルヴィン・シュタイナー――
SS上級大佐の地位にあった。
その弟が突撃隊員と男色関係にあり、
フォス大佐はそれを利用したのである。

【嵯峨野丸】
エルヴィンはフォス大佐を
追い出すために嘘を付いた。
大佐が別の男性の子だと父に告げ、
疑り深い父は大佐を追い出すことで、
自分に答えを出そうとした。
ゲルハルト・シュタイナー男爵だんしゃくは、
文具商のフォス家の養子になった。
ゲルハルト・フォスの誕生さ。
【ユリア・クラウフマン】
フォス大佐はシュタイナー家を告発、
一家はSS武装部隊の粛清しゅくせいを受け、
屋敷には火が放たれた――
【嵯峨野丸】
長いナイフの夜――
去年の出来事だよ。
シュタイナー家はなくなったのさ。
【ユリア・クラウフマン】
あなたはどこでそれを知ったの?
【嵯峨野丸】
何日か前だよ。
先のアプドロックのときに、
一緒に入ってきたんだ。
【ユリア・クラウフマン】
きっとフォス大佐が、
そのことを思い出したのね――
【嵯峨野丸】
かも知れない――
今は解けているよ、アプドロック。
【ユリア・クラウフマン】
そうみたいね。
コージンに指揮を任せましょう。
彼も張り合いが出るでしょう。

【着信 喪神梨央】
四谷見附に向かってください。
猟奇倶楽部りょうきくらぶから招待が来ました。
隊長と合流してください。

〔四谷見附〕

公務電車は四谷見附で停まった。町は普段通りの賑わいを見せていた。
電車を降りる風魔を魯公が待ち受けていた。

【帆村魯公】
どういう風の吹き回しか、
猟奇倶楽部から招待が届いた。
特別のもよおし――
招待状にはそうあるだけだ。
開催は本日になっておる。
前に本部に届いたのと同じ封筒だ。

今度もさそいに乗ってみる――
ただ、前回と違うのは、
探信儀たんしんぎを新しくしたことだ。
この探信儀たんしんぎを使うんだ、風魔。

そう言うと魯公は携行式探信儀けいこうしきたんしんぎを取り出した。
これまでのと見たところ変わりはない。

【帆村魯公】
それは新山君が、
帝国電工製真空管に変えたもので、
探信たんしん力が高まっておる。
猟奇倶楽部は探信儀たんしんぎの空白域にある。
一探、ニ探、四探、六探――
それぞれの探信儀たんしんぎの範囲外だ。
携行式けいこうしきの性能を上げて、
なんとか場所を突き止めたい。
それがこの公務の目的だ。
じき、迎えの車が来る。
無理はするなよ、風魔。

四谷見附の省線を見下ろすところに立つ風魔。そこへ一台の車が近づき停まった。ドアが開き、黒服の男性が降り立った。

【黒服の男】
お待ちになりましたか、
喪神もがみ風魔ふうまさま――
さぁ、ご案内します。
――車へお乗りください。
例によって目隠し、
させていただきます。
きまりはきまりですから――
ご協力有難うございます。
それでは参ります――

迎えの車は例によって幾度いくたびも角を曲がり、坂を登ったり降りたりを繰り返し、やがて速度を増して走り出した。
突然、急ブレーキの音とともに停車した。ドアの開く音がして、何人かの靴音もする。
風魔は車を降りた――

車は路地裏のような狭い道に停まっている。前にはもう一台の車があった。風魔と黒服の男は、三人の黒頭巾姿の人物に取り囲まれた。

【黒服の男】
一体、何事ですか?
車の前に飛び出すなんて!
あなたたちは、もしかして――

うわぁ~~~

目にも留まらぬ速さで黒頭巾が黒服の男を突き飛ばした。そして風魔を向いて言う。他の黒頭巾も寄ってきた。

【真光の大元老Σシグマ師】
我々を締め出して、
ぜんたい、どういう了見りょうけんですか?
あなたは何を知るのですか?
【永久の聖石工長Γガンマ師】
我々には高位の会員としての、
プライドがある――
わかりますか、プライドだ。
今日のもよおしのことなど、
何も聞かされていない。
なのにあなたは招待されている――
【真光の大元老Σ師】
おかしいではないですか?
筋が通りませんねぇ――
【永久の聖石工長Γ師】
特務機関の人間が、
果たして猟奇倶楽部に何用だ?
一体、何を計画している?
【暗黒の凱旋がいせん将軍Δデルタ師】
秘匿ひとく中の秘匿ひとくというわけですね。
これは無理にでも聞き出すしか、
なさそうですね。

我慢は美徳と教わりましたが、
今日はたがはずしましょう!!

《バトル》

【暗黒の凱旋将軍Δ師】
一体、何を隠している!
我々を出し抜いて――

黒頭巾は斃れた。

【真光の大元老Σ師】
仕方ないですね――
車はもう一台出ています。
【永久の聖石工長Γ師】
品川駅か?
【真光の大元老Σ師】
あちらには二人向かいました。
東方の黒騎士長Δデルタ師と、
大階段の審判長Λラムダ師です。
【永久の聖石工長Γ師】
なら大丈夫だろう。
【真光の大元老Σ師】
しかしΔデルタ師が、リードボーで、
食あたりとなり不参加かも……
【永久の聖石工長Γ師】
何だと?
なら我々が行くしかない!
急ぐぞ、Σシグマ師!

そう言うや2人の黒頭巾は走り去った。それを見計らうかのように先程の黒服の男性がやって来た。

【黒服の男】
いやぁ、何でしょうか、
あの乱暴狼藉らんぼうろうぜきぶりは!
私はね、喪神風魔さん、
より高位の会員から
仰せつかっているのですよ。
さぁ、参りましょう。
また目隠し――
もうご自分でお願いします。

再び車は走り出したが、
ものの五分ほどで猟奇倶楽部に到着した。風魔は案内を受けながらホールに入った。

〔猟奇倶楽部〕

猟奇倶楽部のホールは、以前と同様、
かすかに乳香にゅうこうの香りがしていた。
他に人影はなく静まり返っている。

ホールの端、大きく開いた開口部からフォスがやって来た。

【ゲルハルト・フォス】
君はよほど仕事熱心と見える。
そうではないか、モガミフーマ!
クラブの迎えがシナガワに来る、
そう知らされてね――
もちろん食事は済ませたよ。

君に届いた招待状はどうだ?
私のにはシュタイナー家の紋章もんしょうが、
それは美しく印刷されていた。

ユリアの話ではフォスは家を追われた身だ。
その家こそがシュタイナー家である。

【ゲルハルト・フォス】
長いナイフの夜、
シュタイナー邸は焼かれてしまった。
両親と弟は炎を恐れなかった――
なぜなら、屋敷が燃える前に、
SS隊員に処刑されていたからだ。
弟エルヴィンは爵位しゃくいを持つために、
とても出世が早かった。
死んだ時はSS上級大佐だった。

エルヴィンは突撃隊員のハンスと、
男色の関係にあった――
あの田舎出の青年と仲睦なかむつまじくね。
弟が反逆思想に染まるのに、
そう時間はかからないだろう。
どうだ、違うかね?

ここのクラブが何を知るのか、
私にはわからないが、
あの紋章が意味するところは――

完全なる総統コンプレットヒューラーを前にして、
是非ぜひ埋めておきたい小さな穴――
完全体に穴は不要だからな!
【???】
大佐にはご用意がありますよ――

その声の後、黒頭巾くろずきん姿の人物が、
ホールに姿を見せた。

【従順なる隸Θしもべシータ師】
シュタイナー家の紋入りのカップ、
私の手元に残りますよ。
世界でただひとつの品です。
【ゲルハルト・フォス】
何だと?
あの紋入りのカップを持つのか?
それは本物か?
【従順なる隸Θ師】
ご自分の眼で、
お確かめになっては如何ですか?
付いてきてください。

黒頭巾姿の男は廊下に入り、
小さな部屋へ二人を案内した。
隣の部屋がガラス越しに見えている――

〔猟奇倶楽部・控室〕

【従順なる隸Θ師】
さぁ、大佐――
あなた自身を示すものを、
ご確認ください。
【ゲルハルト・フォス】
カップはどこにあるのだ?
この部屋には見当たらないぞ。
【従順なる隸Θ師】
隣の部屋ですよ、大佐。
さぁ、そこの扉から入ってください。

うながされてフォス大佐は隣室へ入った。
黒頭巾の男は扉を閉めかぎをかけた。
しばらくして時計がかねを打つ音がする。

フォスが入っていた扉の両脇にガラス窓があり、部屋の中を見ることができる。その部屋の壁際には伝声管のような管が突き出し、脇に何かの装置があった。フォスは部屋の中央に佇み、その目は宙を泳いでいた。

【ゲルハルト・フォス】
おおお!
これは……私のカップだ!
すべてをなくした私に、
唯一ゆいいつ残されたカップだ――
このカップで私は埋まる!

時計のかねは十二回鳴り、
さらにもう一度、打った。
かねは十三回鳴った――

【ゲルハルト・フォス】
あああ!
どうしたんだ!
私のカップが!!

何故だ?
なぜカップを……
割ったのだ!!

貴様――
殺してやる!

フォスがこちらを向く。両手をガラス窓に叩きつけている。

【従順なる隸Θ師】
これから濃厚セヒラを圧縮します。
喪神さん、愈々いよいよですよ!
本番です!
この館にはセヒラを圧縮する
装置が用意されています。
セヒラは大佐のいる部屋に出ます。

フォスのいる部屋にある伝声管のような管からセヒラと思しき気体が吹き出した。部屋は見る見る紫色に染まった。

その時である。フォスの体からアストラルが表出した。フォスの体は浮遊するかのように揺らいでいる。そしてもう一体、アストラルが現れた。2体のアストラルはセヒラの満ちた部屋で対峙している。

【クルト・ヘーゲンのアストラル】
暗闇の中、こうとした灯りが見えた。
それがこの場所なのか!
ハンスの名を呼ぶのは誰だ?

【ゲルハルト・フォス】
――あう……あう……うう……

【ゲルハルト・フォスのアストラル】
あの男色青年のことか!
弟のエルヴィンとよろしくやって、
共に粛清しゅくせいを受けたハンスのことか!
【クルト・ヘーゲンのアストラル】
貴様か!
ハンスをめたのは!

2体のアストラルは激しく打ち震えている。やがて濃縮セヒラによって部屋は深海のように暗闇に包まれてしまった。

第九章 第六話 水の想い

〔山王機関本部〕

九頭くず幸則ゆきのりの同輩、歩一の山本少尉が伝えた、荒川の工廠こうしょうについては、別途べっと、参謀本部の内偵ないていが入ることになった。

【帆村魯公】
山本少尉は秘密に近づきすぎた、
どうもそのようだ。
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさん、大丈夫でしょうか?
一昨日から音信がありません――
本部にもおいでじゃないです。
【帆村魯公】
確か、あの……
吉祥院某きっしょういんそれがしが警護するとか、
そんな話じゃったな。
【喪神梨央】
レンザさんが付かれるんですね!
それじゃ安心です――
そうですよね、兄さん!
【帆村魯公】
鬼龍きりゅう大尉の同輩、御荷鉾みかぼ大尉も、
独逸ドイツ勢の動きに通じておるな――
【喪神梨央】
そして今は回廊を巡る――
【帆村魯公】
うむ……
御荷鉾みかぼ大尉の見解では、風魔、
お前は回廊に入ったことになる――

アラヤ回廊――
その存在はそれとなく伝わるが、実在を確認した者は誰一人としていない。

【喪神梨央】
独逸ドイツ人は修善寺しゅぜんじロッホを探して……
結局、見つけたんでしょうか?
淑子としこ姉さんの入院していた
サナトリウム、修善寺です――
【帆村魯公】
連中の言うロッホとやらが、
下で繋がって回廊を形成する――
理屈はわかるがな、
この目で見ないことには、
どうにもかいせんわ。

魯公ろこうはやや難しい顔をして本部を後にした。
修善寺しゅぜんじロッホの件、重ねて参謀本部に、調査を依頼することになったのである。

【喪神梨央】
そうそう、兄さん――
あきらさんがお話があるって。
アトリエに寄ってあげたら?

今日の公務ですが、
巡視パトロールの方面、後ほどお知らせします。

〔旭のアトリエ前〕

山王ホテルの裏、日枝神社の石垣に穿たれた入口。それを塞ぐ頑丈な鉄扉の前で能海旭の出迎えを受けた。

【能海旭】
梨央りおさんから、
連絡あったわけじゃないよ。
何となく来るってわかったんだ。
入って――

〔旭のアトリエ〕

【能海旭】
梨央さんからね、
ベラドンナのこと聞かれたんだ。
だから、風魔さんにも教えておくね。

【能海旭】
ベラドンナは花の名前よ。
美しい女性っていう意味よ。
イタリア語だって教わった。
くすんだ紫色の花を咲かせるの――
美しさとは裏腹に、
根や茎に強い毒を持つのよ。
その毒から作った膏薬こうやくによって、
さまざまな幻覚作用が起きる――
トロパンアルカロイドという成分ね。

魔女がほうきで飛んだりするのは、
空飛ぶ幻覚にとらわれるから――
実際に飛ぶわけじゃないんだ。
バスク地方の魔女たちは、
幻覚を見る膏薬こうやくを身体に塗って、
エメンエタハン、エメンエタハン――
そう唱えながら錯乱さくらん状態になる。

魔女の膏薬こうやくは他の地域でも、
例えばフランスや北欧にも伝わる。
ベラドンナの他に、
トリカブトの毒を調合することも。
より空飛ぶ感覚が得られるのよ。

そこへ吉祥院蓮三郎が姿を見せた。

【吉祥院蓮三郎】
失礼します、
あきらさま、風魔ふうまさま――
【能海旭】
どうした?
九頭くず中尉の警護は大丈夫か?
【吉祥院蓮三郎】
その九頭中尉ですが、
青山一丁目から市電で渋谷に。
次の電車で追ったのですが……
【能海旭】
何だ? 見失ったのか?
【吉祥院蓮三郎】
かたじけないであります――

【能海旭】
しかし、何で渋谷になんか、
用があるのだ、あの中尉は?
【吉祥院蓮三郎】
渋谷には憲兵大隊が――
おそらくはゼロ師団の仮構かこうかと。
【能海旭】
そうか……
いざなわれたりしなければいいが。

風魔さん、
今日の公務、渋谷方面はどう?
電車通を進むといいよ。

〔旭のアトリエ前〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
赤坂見附電停においでください。
公務電車、待機させます。

それから……
赤坂の大柱ですが、消えました。
すっかりなくなったんです。
新山さんが調査中です。
あとで落ち合ってください。

〔青山街路〕

青山通を渋谷に向かっていた公務電車だが、青山三丁目で九頭くず幸則ゆきのりの姿を確認、風魔は電車を降り、九頭の元へ駆け寄った。

【九頭幸則】
風魔!
ちょうどよかった。
機関本部に行こうと思っていたんだ。

いやな、渋谷憲兵大隊に招待され、
主だったところを見て回ったんだ。
隊舎の中は、歩一なんかと大違い、
廊下には赤絨毯あかじゅうたんが敷かれているんだ。
広間では音楽が流れている――
ちょっといいか――

九頭は風魔を路地裏に誘った。

【九頭幸則】
大きな声じゃ言えないがな、
あそこはやっぱり怪しいぞ。
東京の憲兵は一ツ橋に移った、
東京憲兵隊本部が統括する。
山梨、神奈川を除く第一師管だいいちしかんだ。
そのうち東京憲兵隊渋谷分隊は、
道玄坂どうげんざかの途中、上通うえどおりにある。
渋谷区、目黒区、荏原えばら区を管轄する。
道玄坂上どうげんさかうえの渋谷憲兵大隊は、
おそらく工廠こうしょうと同じ性質だ。

そこまで言うと九頭は青山通に用心深そうな視線を投げかけた。

【九頭幸則】
壁に耳ありだからな!

それでだ、憲兵大隊の方だけど、
安寧あんねい課少尉係長というのが出てきて、
俺を憲兵中尉として迎えると、
そう言うんだ。
上等兵で志願して憲兵下士になる、
というのならわかるけど――
歩騎ほき将校から憲兵になるなんて、
聞いたことがない。
そう言うと係長は、
転隊を認めるとまで言い出すんだ。

あまり深入りしないほうがいいな、
なんか嫌な感じがしてきた――

【着信 喪神梨央】
新山さんが向かっておいでです。
【九頭幸則】
うわっ!
びっくりしたよ、梨央りおちゃん!
【着信 喪神梨央】
中尉は公務電車でお戻りください。
青山三丁目にて待機中です。
【九頭幸則】
了解了解!
公務電車、乗せてもらえるんだ。
風魔、先に戻るよ。

九頭と入れ替わるようにして新山がやって来た。

【新山眞】
喪神さん、愈々いよいよですよ、
事態は動き始めたようです。
赤坂の二本の大柱、
綺麗さっぱり消えてしまいました。

おそらくは――
帝都満洲にキタイスカヤが、
しっかりと定着したからでしょう。
あの二本の柱を依代よりしろにして、
キタイスカヤは存在し得たのです。
それが今や確かなものとなり……
大柱は不要となったのです。
キタイスカヤの街は、
帝都満洲にあって結界内のように、
ほとんどセヒラを観測しません。

思うのですが……
キタイスカヤ街は哈爾浜ハルピンにある、
キタイスカヤ街と繋がっている――
そうではないでしょうか?

つまり……ややこしいですが、
現世にあるキタイスカヤと繋がる、
その場所が、きっとあるはずです。

二人の話すところへ赤坂方面から梨央がやって来た。

【喪神梨央】
満洲風に言うと、埠頭区プリスタン新城大通ワゴロドナヤにある東方飯店ホテルボストーク――
ホテルで二つのキタイスカヤ街が
繋がっているのです。

兄さんと麗華さんが、
その部屋でお話されました――
あれは四◯八号室でした。
二つの波形が重なり、
微動だにしないのです。
そのホテルのある辺りが……
【新山眞】
なるほど――
ホテルで二つの世界が繋がる、
なかなかおもしろいですね。

【喪神梨央】
兄さん――
これを見てください。
【新山眞】
これは……
ホテルボストークの便箋びんせんですね。
何が書いてありますか?

【喪神梨央】
先程、式部さんがおいでになり、
読んでいただきました。
希伯来ヘブライ語だそうです――
【新山眞】
それで、意味は?
【喪神梨央】
エラ ツエーツエイン マイム
ハダシュ オ……

オの後がわかりません。
これは文章ではなく単語だそうです。
女神、子孫、水、新しい――
エラといういうのは女神なんですね。
範奈さんのお父さんが、
キタイスカヤでおっしゃいました。
エラ、エラ――
でも後が続かなくて……
あの時は何のことやら、
さっぱりでした。
【新山眞】
するとこのメモは……
【喪神梨央】
範奈はんなさんが書かれたようです。
ホテルの部屋で書かれたのです。
【新山眞】
この便箋びんせんがヒントですね。
喪神さん、キタイスカヤ街です。
ということは範奈はんなさんは――
【喪神梨央】
鈴代さんからうかがったのですが、
範奈はんなさん、満洲に渡られました。
おそらく哈爾浜ハルピンです――
お父さんとお会いになったのも、
キタイスカヤでした――
あれは帝都満洲の側ですね?
【新山眞】
そのはずです――
今度は……

なるほど!
現実の哈爾浜ハルピンと帝都満洲が接続し、
メモが帝都に現れた――

我々にはゲートがあります。
喪神さん、キタイスカヤ街には、
赤坂哈爾浜ハルピンから行けるはずです。
【喪神梨央】
これから戻って、
赤坂哈爾浜ハルピンのセヒラ、
観測始めますね!!

埠頭区プリスタンにあるホテルボストークが、満洲と帝都満洲を繋ぐという。
風魔は赤坂哈爾浜ハルピンからホテルを目指した。

〔キタイスカヤ街〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
先の十字路を右に曲がってください。
ホテルボストークは、
ワゴロドナヤ街十一号地です。
わずかにセヒラを観測します。
注意してください。

キタイスカヤ街は静寂の中に沈んでいた。人の姿はなく渡る風さえなかった。
そこへ一人の背広姿の男性がやって来た。

【千葉の莫大小メリヤス商】
いやぁ、困りました――
すっかり見当識を失いました。
松花江スンガリーに出ようとね、
いやね、遊覧船にでも乗ろうかと。
ホテルでうたた寝したのです。
ロビーに降りたら、なんと私一人!
町の中にも誰もいない――

ここはキタイスカヤなんですか?
哈爾浜ハルピンかキタイスカヤか、
キタイスカヤか哈爾浜ハルピンか――

日本人は哈爾浜ハルピン銀座と呼ぶそうです。
石畳いしだたみの歩道には散策の外国人が、
軽快なるステップを運び、
およそ東洋からかけ離れた雰囲気は――

って、誰もいないじゃないですか!!
私一人、あなた一人、一人、一人!
うぎゃぁぁぁぁ~

《バトル》

【千葉の莫大小商】
はぁはぁはぁはぁ……
何が東洋のモスコーだ、
こんなところ!

【着信 喪神梨央】
今の人は、哈爾浜ハルピンのホテルから、
こっちに来たようですね。
他にもいるかも知れません。
注意して進んでください。

四つ辻を曲がって山郷武揚が姿を見せた。山郷は風魔を認めると静かに切り出した。

【山郷武揚】
人助けというのは、
人の為ならずとはよく言ったものだ。

ハオ社長ご自慢の野蚕やさん
白黄斑山繭しろきまだらやままゆかびで全滅してね。
それじゃ商売上がったりだ!
そこで私が特上の絹糸けんしを調達した。
そのときの社長の喜びよう、
なかなかのものだったよ。

甲斐絹かいきの対価として、
私はアルツケアンを受け取った。
その不思議な石のことは、
エメリヒと言う名のかい族の少年から
詳しく聞き及んでいたよ――

エメリヒは独逸ドイツ人研究者につかえたかい族だ。
研究者に気に入られ、独逸ドイツに連れて行かれ、アーネンエルベにも出入りしたらしい。

【山郷武揚】
独逸ドイツから戻ってきたエメリヒは、
別人のように利口りこうになっていた。
私はあの子から多くを学んだよ――

烏魯木斉ウルムチ近くに落ちた隕石いんせき
アルツケアンには、
宇宙が閉じ込められている――

アルツケアンの衝突により、
大きなセヒラ場が生じる――
それはまるで宇宙創造の瞬間だ。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ、上昇しています!
注意してください。

俄に山郷の周囲にセヒラが漂い始めた。

【山郷武揚】
山王機関は熱心だね!
こんなところまで探信たんしんしているのか。
君たちは大いに勘違いしている。
私の開いた古式東雲しののめ流――
それはもはや古式ではなかった。
鬼神や妖魔を自らに降ろす古式、
しかしそれでは戦力にはならない。
古式を超えてを指揮する――
私はそこに至ったのだ。

しかしそこに頂きはなかった。
鈴代によって未来を奪われたのだ。
鈴代にすれば私は家系の染みだ。
一点の染み――
フフフフ……

だが私と鬼龍きりゅう大尉には、
残されたものがあるのだよ。
もう一度、機会をもらおうではないか!

《バトル》

【山郷武揚】
まだ他にも手はあるはずだ。
猶太ユダヤすえを招き寄せる方法がな。
この世界にはまだ見ぬ力が眠る。
触れてはならないかも知れないが。
パンドラのはこは開かれるのだ――

そう言うと山郷は踵を返して去った。

【着信 喪神梨央】
アルツケアンって、
そんなに大きな力を秘めている、
そうなんですね――

黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
まだ何かの波形を観測します。
ホテルの方へ向かってください。

ホテルのある街区へ入ったところで、鉢合わせするかのように廣秦範奈と出食わした。

【廣秦範奈】
喪神さん――
私、姉に呼ばれたのです。
いえ、姉の思念に触れたというか……

目覚めたらホテルの部屋でした。
そこではっきりと、
姉に触れたのです。
姿は見えないけれど――
とても確かなことでした。

範奈は姉の印象を語る――

【???】
範奈はんな――
あなたを見たのは、
小さな頃、一度だけよ。
万世橋駅近くの商家ね。
あなたの前では私は美香みか
廣秦美香ひろはたみかだったわ――

範奈は風魔から目をそらし俯いた。
再び姉の印象を呼び覚ましている。

【廣秦範奈】
先程のお父さまのこと、
お話いただけませんか?
廣秦伊佐久ひろはらいさく、それが父さまですよね?
【美香の声】
ええ、私たちが生まれてからはね。
その前は古賀容山こがようざんという篆刻師てんこくしよ。
雅号を持つ前は古賀喜一こがきいち――
父は古賀家の婿養子むこようしなの。
篆刻師てんこくしとして五大幻石ごだいげんせきを探して、
長野の方で行方不明になったのよ。
【廣秦範奈】
五大幻石ごだいげんせき
【美香の声】
自然珪しぜんけい天竺瑠璃てんじくるり雌黄しおう捻綿石ねんめんせき
玄武晶げんぶしょう。まだ発見されていない石よ。
父はそれらを求めて姿を消したの。
【廣秦範奈】
お姉さまはお父さまに、
お会いになったのですか?
【美香の声】
父は何かの拍子に遠い未来に行き、
そこで気脈を整える装置を作った――
それが働いたのよ。
私も父と同じ時代に生きた。
ニ〇一五年、九龍城砦にある光明路、
私は今もそこにいるのよ。
【廣秦範奈】
ニ〇一五年……
日本ではないのですね?
お父さまもご一緒ですか?
【美香の声】
父とははぐれてしまったの。
また深いところを巡っているようよ。
この町で私はラウ美鈴メイリンを名乗るの。
そうすることが自然だから――
でもたまに父に近づくの。
そして言葉を預かったわ。
【廣秦範奈】
どのような言葉ですか?
【美香の声】
冬至の朝、水辺に――
私たち姉妹で為すことがある、
父はそう伝えたわ。
【廣秦範奈】
水辺……
それは海ですか、湖ですか?
それとも――
【美香の声】
まだわからないわ――
【廣秦範奈】
水辺で姉さまに、
お目にかかれるのでしょうか?

しかし姉の答えはなかった。範奈の姉の印象は消えてしまった。

【廣秦範奈】
姉さま!
もう行かれたのですか?
姉さま――

範奈は風魔を見た。その眼を力強く見つめた。

【廣秦範奈】
喪神さん――
私、ここに何度か来たような、
そんな気がしています。
眠っている間に、
父上の言葉を預かったような――

もう一度、ホテルの部屋に戻ります。
冬至に間に合うように、
日本には戻ります。

範奈は踵を返し、確かな足取りで歩き去った。
そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂哈爾浜ハルピンにお戻りください。
ホテルでは戻れません!

〔山王ホテルロビー〕

祓えの間から山王に戻った風魔。ホテルロビーにいると梨央が本部からやって来た。

【喪神梨央】
兄さん!
大変です、彩女あやめさんが――
青山の脳病院に、
彩女さんの遺書があったと。
もうじき式部しきべさんがおいでに――

梨央が言い終わらないうちにホテル玄関から式部がやって来た。

【喪神梨央】
式部さん!
彩女さんの遺書って、本当ですか?
【式部丞】
ええ、あれは遺書です。
間違いようもありません――
捜索そうさくの依頼で警察に渡しましたが。
警察では何とか追いつける、
そう見込んでいるようです。
今は任せるしかありません。
【喪神梨央】
それで、遺書には、
どんなことが書いてあったんですか?
【式部丞】
このような乾いた世界では、
もう生きていけない、
兄さんを追いかけるのだと――
【喪神梨央】
彩女さんのお兄さんって……
【式部丞】
周防高麿すおうたかまろ、文学青年でした。
四年ほど前、一碧湖いっぺきこで入水しました。
【喪神梨央】
え? そうなんですね……
一碧湖いっぺきこ――
【式部丞】
一碧湖いっぺきこは、ある女性が入水してから、
しばらく後追いが続きました。
【喪神梨央】
独逸ドイツ人医師に殺されたユーゲントが、
投げ込まれたのも一碧湖いっぺきこです。
それにしても――

彩女さん、お兄さんのこと、
よほどお好きなのですね?
【式部丞】
兄さんが読書家なので、
少しでも話が合えばと、
セルパン堂で働いていたのです。
そしてオフィーリアという文芸誌を
購読していました。
【喪神梨央】
オフィーリア――
【式部丞】
ハムレットのヒロインです。
最後には気が触れて川に落ちます。
その様子を描いた絵が――
【喪神梨央】
ミレーの絵ですね!
上野の死ぬ死ぬ団の女性が、
口にしていました。
【式部丞】
漱石そうせきも取り上げていますね。
草枕にあります――

オフェリヤの合掌がっしょうして水の上を
流れて行く姿だけは、
朦朧もうろうと胸の底に残って――

漱石そうせきはテイト・ギャラリーで、
実物を見ているはずです。
そして思い違いをした――
【喪神梨央】
実際に見ているのに?
【式部丞】
ミレーのオフィーリアは、
合掌がっしょうに組んではいません。
思うのですが――
一碧湖いっぺきこといい、オフィーリアといい、
いずれも水にちなみますね。
【喪神梨央】
そういえば、彩女さん、
魚座だと言っていました。
【式部丞】
魚座は情緒じょうちょ豊かな空想家――
まさに彩女君そのものですね。
【喪神梨央】
彩女さん……
もう手遅れでしょうか?
【式部丞】
警察からの連絡を待ちます。
私たちにはそれしかできません。
喪神さん、
私はセルパン堂に戻ります。
【喪神梨央】
兄さん――

【新山眞】
喪神さん、梨央ちゃん!
広尾橋界隈かいわいでセヒラ急上昇です。
波形からすると――
【喪神梨央】
どうしたんですか?
【新山眞】
周防すおう彩女あやめさんです、おそらく……
【喪神梨央】
ええ? だって彩女さんは――

梨央は新山に彩女の遺書の話をした。
現在、警察が全力で追っていることも。

【新山眞】
だとしたら――
広尾橋にあるのは……
アストラル?
【喪神梨央】
じゃ、もう……
彩女さんは――

兄さん、お願いします!
広尾橋……いや、その近くです。

〔渋谷区豊受町〕

広尾橋電停で公務電車を降りた風魔は、宮邸脇を抜け豊受町界隈へ。
省線恵比寿駅と高樹町を結ぶ通りに出た。

【着信 喪神梨央】
%▲&士――
そこ◎★%&▲%ですか?

不意に建物の影から彩女が現れた。彼女は真っ直ぐ風魔のもとへ来た。

【周防彩女】
喪神もがみさん――
彩女、乱歩先生にご迷惑を
おかけしたかしら?
勝手にオリムピア号のお話、
披露ひろうしたりして――

でも言葉がどしどし出るのですわ。
オフィーリアを読んでいても、
ちっとも頭に入って来なくて、
知らない間につづっているのですわ。

彩女、兄さまにいざなわれている、
そう思うようになったのですわ。

するとどうでしょう、
すーっと身体が軽くなり、
いろいろのこともなくなり――

あれはまだ小さなときですわ。
兄さまと高尾山たかおさんに行き迷子に……
何時間も暗い山の中を彷徨さまよいました。
兄さまは、彩女、大丈夫か、
まだ歩けるかとしきりに心配され、
彩女は歯を食いしばって歩きました。
ようやくさわにたどり着き、
そこで少し休むことになりました。
彩女は木にもたれ眠りました。

いかほど経ったことでしょうか、
兄さまの声で目を覚ますと――
兄さまは沢の水をてのひらみ、
彩女に飲ませてくれたのです。
兄さまのてのひらから頂くお水は、
とても甘く柔らかくそして暖かく、
彩女の中に溶けていったのです――

彩女は兄さまとひとつになりました。

式部しきべ店長が御本に向き合われる時、
そこに兄さまの面影おもかげを認めますわ。
うなじの姿がそっくり――

でも兄さまとは違うのです!
兄さまはあんなことはされません。
大切な御本を破くなんて――

ある日、彩女は夜まで眠りました――
目を覚ますと書庫の方で物音がして、
その後店長がお出かけになりました。

彩女、書庫をのぞいて吃驚びっくりしたのです。
ゲエテの御本のページが破られ、
御本が半分ほどの薄さに――
きつねの裁判という美しい御本です。

兄さまは絶対ご本を破るなど、
そんなことなさいません!

店長の中に兄さまを認めていた、
彩女はとてもおろものなのです。

兄さま――兄さま――
兄さまは彩女をお呼びなのです。
呼んではいけないのだとお思いです。

――そんなことはございません。
彩女は行かなくてはなりません。
水の中で再び結ばれるのです。

私たちはまるでウンディーネと
ユーゴのようなのですわ――

そこまで言うと彩女は暗誦を始めた。

【周防彩女】
時計の十二時を示すや一陣いちじんの風と共に雨さえ加わり雷鳴がして、
ウンディーネが現れる。
ユーゴーは非常に後悔こうかいをして、
ウンディーネの腕を取ってびるが、
しかしウンディーネはそのままユーゴーをひかれて深く深くしずんでく――

突如として激浪げきろうが起こり、
華美を尽くせる大広間は
忽然こつぜんとして大海の如くなり、
水の神の水晶宮すいしょうきゅうが現出する――

彩女が語り終えた時、辺りが暗くなり薄暮のようになった。再び光が戻った時、目の前には千紘がいた。

【千紘】
ここは彩女の記憶なんだね――
彩女をそのままにしていて、
僕は自分のことが少し見えた――
そんな気がするんだ。
とかく水にちなむからね、彼女は。

それは、とりもなおさず、僕の中に、
水の要素を含むということさ!

心霊的なビジョンとされる、
メリュジーヌは、水の中にあり、
楽園的な存在を留めているのさ。
メリュジーヌは、人の血液にも、
命脈を保ち続けたと言われている。

僕の中の水の要素が、
高麿たかまろの入水自殺をもたらし
そこに彩女が強くかれた――

一見、不安定な彩女だけど、
水に向き合うことで、
彼女は安定していたんだよ。

でも彼女は式部丞に何かを見た――
兄を重ねているのは知っていた。
でもそれじゃない。
彼女の心に小さな穴が空いたんだ。
そういう中はじきに大きくなる。

だからおしまいにしたのさ。

フフ――
この僕が何かに不安を覚えるなんて。

どうだい?
君の力で僕の不安を払拭ふっしょくするのは?
いい考えだと思うよ!!

《バトル》

【千紘】
君はとても力をつけている。
新しい世界でもやっていけるね。
そのときが楽しみさ!

僕はホテルボストークにいる。
また時機じきを見て姿を見せるよ。
芽府めふ須斗夫すとおの予言通りなら――

千紘は音もなく建物の影に消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
大丈夫でしたか?
ユリアさんが相談したいと――
アーネンエルベに向かってください。

〔アーネンエルベ〕

ユーゲントを指揮する虹人こうじんからの連絡で、帝都で怪人が姿を消しつつあるという。
廓清かくせいされるのではなく怪人のまま消えるのだ。

【ユリア・クラウフマン】
フーマ!
来てくれたのですね。
コージンはユーゲントを連れて、
帝都をめぐっています。
そして妙なことを――

怪人が怪人のまま、
どこかに姿を消すと。

怪人はきを解かれて、
はじめて怪人ではなくなる――

怪人のままいなくなるなんて。
何かの作用が及んでいる、
そう思えてなりません。
フーマ、また新しいことがわかれば、
連絡します。

私……不安です……

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい、兄さん!
先ほど、あきらさんたちがおいでになり、
彩女あやめさん、あ、いや、千紘ちひろさん、
間違いなくメリュジーヌですって。
その転生した姿だそうです。

メリュジーヌは仏蘭西フランスの伝承で、
魚の尾を付けた女性だそうです。
毎週末、尾を付けて海に帰る、
それを夫に見られたことで、
ずっと水の中で生きることに――

詳しいこと、あきらさんが調べるって、
そう仰っていました。
学校の図書館に向かわれました。
式部しきべさんからはまだ何も……

うまく受信できませんでしたが、
もう彩女さんはいらっしゃらない、
そうなんですね?

でも、どうして本を破ったり……
本を大事にされないのでしょうか?

その夜、式部から電話があり、一碧湖いっぺきこでは彩女は見つからなかったという。
風魔の報告を受けた梨央が彩女の件を話し、式部は考え込んだ後、人格の死と命名した。
周防すおう彩女あやめは人格の死を向かえたのである――

第九章 第五話 トゥーレの館

九頭くずの報告を知り、新山眞にいやままことがやってきた。仮構かこう世界に向き合うために、夢玄器むげんきを改良したのだという。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん――
新山さんがお見えです。
夢玄器むげんきが新しくなったとか。

【新山眞】
新しいというのではないのですが、
思念の中に入っていく仕組みと、
仮構かこうの仕組みは似ているのです。
そこで共振回路に手を加えて、
復調波ふくちょうは大S値だいエスちを加えることで、
仮構かこう世界の実体が見えるようにと――
【九頭幸則】
ええ、じゃ、あの渋谷憲兵大隊も、
それでのぞくと活動キネマ館だったり、
薬屋の倉庫だったりするんですか?
【新山眞】
どうでしょうか……
仮構かこうされて時間が経っていると、
それは難しいかもしれませんね。
【九頭幸則】
三日前に青山せいざんホテルで、
ディナーを楽しんだ奴がいるよ。
うちの隊に――
【新山眞】
そうだとすれば、
トゥーレの館になって、
まだ間がないですね。
【喪神梨央】
それじゃ、兄さん、
青山ホテルへお願いします。
九頭中尉はどうされますか?
【九頭幸則】
え、う……あ、あ……
いきなりそう言われると、
俺まで仮構かこうされたみたいだな――
もちろん、風魔に同行だ!
【喪神梨央】
承知しました!
公務電車、手配します!

〔青山通〕

青山六丁目交差点で事故が発生した。
市電と車が衝突したとのことだった。公務電車は青山通で停止した――
電車通には車が二台停まるきりで市電はなかった。市民が数名たむろしている。そして空にはカラスが乱舞する――

【九頭幸則】
青山六丁目って、
よく事故があるな――
先だっても一日に六回もあった。
皆、市電と車の衝突だよ。
それにしても――

背広姿の男性が近寄って来た。渋谷方面からやって来たようだ。

【青山のラヂウム商】
ここにまでいやがりますなぁ~
ええ、カラスの奴です、黒い奴!
【九頭幸則】
普段とは違いますか?
【青山のラヂウム商】
違うも何も、軍人さん、
公爵邸こうしゃくていの周りはカラスだらけ、
まっくろけ~
【九頭幸則】
公爵邸?
それはどちらの公爵ですか?
【青山のラヂウム商】
この辺で公爵といえば、
フンゲルハウワー公爵ですよ、
まさにその館です。
【九頭幸則】
フンゲルハウワー?
聞いたことが無い……
【青山のラヂウム商】
タングステン貿易で大儲おおもうけ、
でも青島チンタオ権益けんえき失って没落ぼつらく
この帝都に館だけ残された――
この辺では有名な話です。

空き家になって、はや十年――
たまに電気がくといいますよぉ。

カァカァ カラスガ ナイテイク
カァカァ カラスガ トンデイク

カラスの鳴き真似をしながら男性は青山方面へと歩き去った。カラスが屋根の上でしきりに鳴いている。

【九頭幸則】
同輩どうはい付合いの日曜下宿が、
この近くの高樹町たかぎちょうにあるんだ。
海苔のり屋の二階だ。
俺もちょくちょく来るけど、
フンゲル何とかの話なんか、
まったくの初耳だぜ――
まるでお化け屋敷みたいだな。
そうか!!
そのフンゲルも仮構かこうじゃないか、
きっとそうだよ!

それに答えるかのようにさらにカラスが鳴く。

【九頭幸則】
いや……ホテルが仮構かこうなのか……
――ああ、なんか混乱するな!

鳴き声を重ねながらカラスが一斉に飛び立った。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
鈴代さんから連絡があり、
麗華さんと一緒にホテルに向かうと。
それ以上のことはわかりません。
【着信 帆村魯公】
カラスの鳴き声が聞こえるぞ。
やけに多くいるようだな――
アーネンエルベの使い魔――
かも知れんがな……
ユンカーもヘーゲンもいない今、
ぜんたい誰の使い魔なんじゃろか。
注意して進むべし、八号帥士はちごうすいし

二人は青山ホテルと思われていた洋館の前に来た。門前に二人の男性が立っていた。その二人の周囲にはカラスの群れがあった。

【九頭幸則】
ホテルに変わったところはないな。

九頭がそうつぶやくと、一人の男性が歩み寄った。

【西洋かぶれの紳士A】
ここは現代青年の作法心得を、
しかと学ぶ館であります!
それもほまたか仏蘭西フランス流儀です。

もう一人も来る。

【西洋かぶれの紳士B】
晩餐ばんさんの場についたなら、
剛健ごうけんなる現代青年の作法をもって、
終始しゅうしせねばなりません。
【西洋かぶれの紳士A】
出る皿々は、驚くべき速力と、
騒音とをもって見事に平らげます。
婦人たちに紳士しんしの力を見せるべく――
【西洋かぶれの紳士B】
フォークを二本の指で曲げる、
皿をこぶしにて叩き割るなどして、
食事が終わるやいなや――
【西洋かぶれの紳士A】
テーブルクロースをいて、
手や口をさっさとぬぐい、
悠然ゆうぜんと十三文甲高こうだかの靴をば、
【西洋かぶれの紳士B】
テーブルの上へと投げ出し、
巴奈馬パナマ葉巻をくゆらすのであります。

そこまで言うと二人の男性はそれぞれ左右に駆けて行った。

【九頭幸則】
何なんだ、今のは一体?
どんな作法なんだ――

九頭と風魔は洋館の庭へと踏み込んだ。洋館の脇に音もなく仮面の男が現れた。

【九頭幸則】
おい、見ろ、風魔!
あれは……仮面の男だ!!

やおら仮面の男がくぐもった笑い声を上げた。周囲の風景が歪み始めている――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です!
中尉は大丈夫ですか?

仮面の男はひとしきり笑い終えると、おもむろに両手を広げた。その手の周りにセヒラが漂い、やがて渦を巻き始めた。セヒラの渦は仮面の男の周囲に広がった。

【九頭幸則】
ううう、どうした、急に!
体が……重いぞ!

九頭は辛そうに腰折りとなった。その刹那、仮面の男が滲みながら消え、替わりに黒い仮面を被った人物が現れた。リヒャルト・フィンケである。セヒラはいたるところで渦巻いている。

【リヒャルト・フィンケ】
現実――仮構かこう――現実――
フフフ――

フィンケが不敵な笑いを残して消え、そこへ仮面の男が現れる。

【九頭幸則】
この……匂いは……
渋谷憲兵大隊と同じ――
この甘い……匂い……
――うっ!!

仮面の男がぶれながら消え、そこへフィンケが現れる。

【リヒャルト・フィンケ】
人間というのは、
あまり多くの現実に耐えられない。
――いい言葉じゃないか!
トゥーレの館へ、ようこそ!
ヘル、フーマ!

フィンケがぶれながら消えた。そして仮面の男――

【九頭幸則】
風魔!!
奴はすきを見せているぞ!

持ち直した九頭は、仮面の男を見据えたまま言った。それを聞いた風魔、すかさず仮面の男の前へ駆け寄った。

《バトル》

【仮面の男】
イッヒ……イッヒ……
――崩壊!ツーザンメンブロホ
――崩壊!ツーザンメンブロホ

――長い冬……ランガーヴィンター

仮面の男は腰を折っている。これまで被っていた仮面が地面に落ちていた。そして仮面の男の顔のあったところには小さなセヒラの渦が見える。渦の中心は漆黒の闇であった。
風魔は落ちている仮面を拾った。

【着信 喪神梨央】
物凄いセヒラです!!
波形も初めての形です!!
――兄さん!!

仮面の男から幾筋ものセヒラがほとばしり、やがて半球状のセヒラ球を形成した。周囲から光が失われた。

しばらくして光が戻った。セヒラ球は消えており、仮面の男の姿もなかった。風魔の傍へ九頭が駆け寄る。

【九頭幸則】
おい、風魔!
お前たち二人とも、
スーッと浮かび上がって――
ホテルの屋根あたりまで昇ったぞ!
その後、セヒラに包まれて、
姿が見えなくなった――
奴を倒したのか?
仮面の男だ。
お前だけがスーッと降りてきた……

九頭に言われ風魔は強く目を閉じた。次に目を開いたとき、仮面の男のいた場所に鬼龍が立っていた。

【九頭幸則】
あなたが騒動の元か!
鬼龍きりゅう大尉!
【鬼龍豪人】
歩一のロマンチスト将校と、
やりあうつもりは毛頭ない!
【九頭幸則】
白山集会所で監視下に置かれていた、
そうじゃないのか、大尉!
【鬼龍豪人】
時間は私に味方したのだ。
お陰でゆっくり自分に向き合えた。
【九頭幸則】
もしや……
仮面の男も、実は大尉、
あなたなんじゃないのか?
【鬼龍豪人】
ウワハハハハ~
それは新しいな!
私は昨夜から忙しくてね。
トゥーレの館で儀式を行った――
神の仕事ベルクゴッテスと呼ばれる儀式だ。

鬼龍はスターヴを現した。それは幻影なのか……

【鬼龍豪人】
私に与えられた文字は四つだ。
皆、ルーン文字だ――
自己マンナズ破壊ハガラズ変革サガズ、そして完全シグル――
シグルには太陽の意味もある。
これら文字を組み合わせる文様、
スターヴを柘榴ざくろの木の板にり、
それを私の血でなぞる――
心臓から繋がる左手の親指に、
銀のナイフを滑らせ滴る血でなぞる。
スターヴには願いを叶える、
強い霊力が宿る。
私の血で愈々いよいよ力が放たれる!
昨夜、大熊流星群の方角、
赤経一◯時ニ四分、赤緯三七度を
仰ぎ見て心の扉を開いた!
私は染 化ファーブストッフされたのだ――

スターヴのイメージは消えた。依然、鬼龍が語っている――

【鬼龍豪人】
スターヴを描いた柘榴ざくろ板を燃やし、
その煙を吸って儀式は終わった。
昨夜以来――
私は一度も息をしていない。
だがなんともないのだ!

そこへ鈴代が青山通の方からやって来た。

【九頭幸則】
鈴代!
どうしてここへ――
【鬼龍豪人】
私が呼んだのだ。
白山神社に置いた香合が、
瑞祥ずいしょうを現したようだね。
【如月鈴代】
香合の中にメモがありました。
トゥーレの館に来るようにと――
【鬼龍豪人】
あなたはご自分のことを、
よく理解されているようだ。
【如月鈴代】
そうでしょうか……
【鬼龍豪人】
鈴代さん――
あなたこそ古式を継ぐべきです。
あなたには機根きこんそなわる――
私は染 化ファーブストッフした――
トゥーレの館流の召喚師として、
今や完全な存在になろうとしている。
だからこそ、
古式の奥義をあなたに継ぎ、
私は身軽にならねばならない。
【如月鈴代】
鬼龍さん――
あなたにそなわる古式流儀ですが、
それは叔父山郷の……
【鬼龍豪人】
鈴代さん!
あなたは東雲しののめ流の再興を願った、
そう伝え聞きましたよ!
【九頭幸則】
しつこいぞ、大尉!
鈴代の決意は固いんだ。

どこからともなく麗華が現れ、鈴代の傍に来た。

【鬼龍豪人】
麗華さん!!
【九頭幸則】
――麗華さん……
【月詠麗華】
豪人たけとさま――
ようやくお目にかかれました。
豪人さまが白山神社に置かれた香合、
その瑞祥ずいしょうは、私に届いたのです。
北の夜空に現れた光の筋――
あの光が私を導いたのです。
そして香合を見つけました。新京シンキョウ神社にあったのと同じ香合です。
中にはメモが……
振り返ったその時、鈴代さんが――
神社で鉢合はちあわせになったのです。
【鬼龍豪人】
麗華さん!
あなたには何か深いものを感じる。
それは毒々しい色を帯びている!

そう言うや鬼龍は洋館の方へ面を向けた。

【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ!
トゥーレの館の扉を!

鬼龍の叫びに呼応するかのように洋館はまるごとセヒラに包まれた。

【着信 新山眞】
今です、夢玄器むげんきの装着を!
それで仮構かこうの中を確認できます。

風魔は夢玄器を装着した。眼前には銀河ゼットー博士の研究室で見たのと同じ夢玄域が現れた。夢玄域の中に洋館が浮かび鬼龍もそこにいた。

【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ!
私を見てください!
昨夜、無事に染 化ファーブストッフを済ませ、
トゥーレ召喚術のマイスターに――
そうではありませんか?
【リヒャルト・フィンケ】
この甘い香りを!
ベラドンナの香りはかくも甘い。
甘く、みつのようにまとわりつく――
【鬼龍豪人】
ヘル!
私には香りがわかりません。
昨夜から息をしていないのです。
【リヒャルト・フィンケ】
それは本物だよ、鬼龍きりゅう大尉。
君は愈々いよいよの時を迎える――
【鬼龍豪人】
やはり……
そうなんですね!
トゥーレ召喚師として成るのですね!

夢玄域の中に突然麗華が姿を見せた。

【月詠麗華】
豪人さま!
私にお授けなさいまし!
【鬼龍豪人】
麗華さん!
ここに来てはいけない!
あなたに奥義は授けられない!
奥義とは授けた先で、
貴くあらねばならない――
あなたが求めているのは力だ、
闘いのための力だけだ!
【月詠麗華】
私は純粋なのですわ、豪人さま。
憎しみもうらみもなく、
ただただ神さまを授かりたいだけ――
【リヒャルト・フィンケ】
君は愈々いよいよ見放されようとしている、
君の中にあるケアンからね――
【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ!
今はだめです、改めないと!
【リヒャルト・フィンケ】
時は進むのだよ、鬼龍君!
君は随分と物分りが良くなった。
それで時間がかかったのだ――
愈々いよいよケアンが君を見捨てるときだ。
【鬼龍豪人】
うわぁ!!

鬼龍の叫びとともに周囲から光が失われた。

〔時空の狭間〕

目の前には時空の狭間に吸われた鬼龍の姿が見える。鬼龍は薄っすらとセヒラに覆われていた。

【鬼龍豪人】
京都の師団にいたときだ――
あの小函こばこ独逸ドイツから届いた小函こばこ
日曜下宿に持ち帰った。
装飾を施した美しい小函こばこ――
トゥーレの館の招待状を収め、
そして……もうひとつ――
石だ!
黒ずみ、所々に光の粒を浮かせた、
不思議な石が収められていた――
あの石は……
――翌朝にはなかった!
机の上から消えていたのだ!

まるで鬼龍の内側から発せられるように大量のセヒラがほとばしった。

【鬼龍豪人】
どうした?
何が起きた?

青山せいざんホテル〕

周囲が戻るとそこは洋館の前だった。風魔は膝をついた状態だった。風魔が起き上がった時、軍用トラックが走り去った。門前には武装SSの立哨がいた。トラックの走り去った方からユリア・クラウフマンがやって来た。

【ユリア・クラウフマン】
フーマ、仮面の男に入っていた、
アルツケアンは回収しました。

青山ホテル前に落ちていたアルツケアンは、アーネンエルベが回収した。
防護服姿の隊員が回収作業を行った。

【ユリア・クラウフマン】
先程、リオから通信記録を見せられ、
タケト大 尉カピティーンにも、
アルツケアンが入っていた――
そう信じるに値する心証しんしょうを得ました。
トゥーレの館から送られた小函こばこに、
そっと収められていたのでしょう。
タケトのアルツケアンは、
今、レイカに取り込まれています。
サンノウの記録を読むと、
レイカには二つのアルツケアンが――
私たちの想定を超えた事態です。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ確認しました!

交信が終わるや否やフィンケがやって来た。

【リヒャルト・フィンケ】
実に素晴らしい!
月詠つくよみ麗華れいか
彼女は究極の力に目覚めようと――
【ユリア・クラウフマン】
フィンケ総統――
ユリア・クラウフマンです。
極東分局の開設と同時に来ました。
【リヒャルト・フィンケ】
お父上のローレンツ博士には、
私もよく教わったものだ。
【ユリア・クラウフマン】
父はアルツケアンについては、
まだ何も解明されていないと。
扱いには極めて慎重でした――
【リヒャルト・フィンケ】
そうだろうとも!
しかし時は待ってはくれない、
フロイライン・ユリア。
【ユリア・クラウフマン】
フェラー博士は父に無断で、
仮面の男にアルツケアンを――
コンプレットが目的なのでしょう!
【リヒャルト・フィンケ】
研究というのは、
頂きを見上げることなんだよ。
見上げるばかりか駆け登ることだ――
並のホムンクルスを凌駕りょうがする、
素晴らしい性能が誕生したのだ。
――まだ未完成だったがな!

洋館の中庭から鬼龍が走りくる。鬼龍、フィンケに面して言う。

【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ!
私の染 化ファーブストッフはすべて終わりました。
【リヒャルト・フィンケ】
素晴らしい!
これでトゥーレ流召喚術、
愈々いよいよこの国に根ざしたことになる。
【鬼龍豪人】
先程、急に息が詰まり、
その後、大きく深呼吸ができました。
――私は戻ったのです。

暫く鬼龍を見ていたフィンケは風魔の方に直った。そしてやや芝居がかった調子で言う。

【リヒャルト・フィンケ】
ヘル……いや、喪神もがみ風魔ふうま君!
私たちは僥倖ぎょうこうを得たようだ。
元より素晴らしい霊異りょういほこ帆村ほむら流、
この鬼龍君のトゥーレ流召喚術、
それに古式東雲しののめを継いだ月詠麗華――
アーネンエルベは、残念なことに
なったが、それをおぎなって余りある、
素晴らしい力の拮抗きっこうだ!
【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ――
麗華さんに継いだ東雲しののめ流、
果たして大丈夫でしょうか?
【リヒャルト・フィンケ】
彼女には素晴らしい素養そようがある。
それは揺るぎないものだ。
君が悩まされることはもうないよ。

フィンケは鬼龍の前を通って洋館の中へと入って行った。

【ユリア・クラウフマン】
鬼龍さん――
トゥーレ流のマイスターになり、
あなたのわだかまりは消えましたか?
【鬼龍豪人】
何かを為して満足することは、
私に関してはないでしょうね、
ユリアさん。

ユリアに冷たい視線を投げかけた後、鬼龍はフィンケを追うように洋館へと入って行った。

【ユリア・クラウフマン】
フーマ……
今のアーネンエルベには、
何かに対処する力はありません。
仮面の男がいなくなり、
コージンも出方を変える必要が――
コージンの組織するユーゲントは、
フォス大佐の命令に忠実です。
コージンはそれで苦労しています。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
青山通でセヒラ観測です!
おそらく――
【ユリア・クラウフマン】
レイカ――
まだ不安定なのかも知れません。
気を付けてください……フーマ……

風魔は踵を返し、青山通へ向かった。

セヒラが移動しているとの連絡を受け、風魔ふうまは明治神宮前電停から自潤会じじゅんかいアパートへ。
果たしてそこで出会った光景は――

【九頭幸則】
風魔!
どうしたんだ、何だこいつらは?
お前が倒したのか?

2両の軍用トラックが向き合うようにして歩道に乗り上げて停まっている。道路上には五人の憲兵が倒れていた。そこへ九頭が走り込む――

【九頭幸則】
それで、書生の二人はどこだ?
麗華さんは?
青山六丁目で鈴代さんと二人、
麗華さんの護衛についていたら、
いきなり麗華さんが走り出したんだ。
麗華さん、二人の書生を追っていた。
書生の二人、怪人には見えなかった。
でも麗華さんは追い続けた――
明治神宮前の交差点を曲がって、
ここまで来たら――
この有様だ。

その時、倒れていた憲兵が二人、相次いで起き上がった。だが戦う素振りは見せていない。

【渋谷憲兵大隊雲城くもぎ少尉】
息が……できない……
【渋谷憲兵大隊人首ひとかべ中尉】
ううう……
糞! 糞! 糞!
頭が……割れるようだ!

一瞬、周囲が暗くなり戻った時、トラックも倒れていた憲兵も消えていた。そこへ能海旭がやって来る。

能海旭のうみあきら
風魔さん!
さっきの連中、ゼロ師団よ、
そうに違いない。
レンザが青山通に何か感じるって、
悪魔の勘がうずくって――
それで飛んできたの!
【九頭幸則】
へぇ!
魔法のほうきにまたがって来たのかい!
能海旭のうみあきら
山王さんのうから円タクよ、中尉。
特別に二十円払ったの。
速かったよ、さすがに――
【九頭幸則】
に、二十円?
そんな大金……
能海旭のうみあきら
山王さんのうからここまで五分ちょうどね。
――それで……
【???】
風魔さま――
近くにおいでなのですね……
わかりますわ――

自潤会アパートの戸口を背にして麗華が立っていた。

【月詠麗華】
風魔さま――
私、まだちゃんとしていない、
そうなのでしょうか?
青山通を歩いていたら、
いきなり体が動いてしまい――
追いかけたのは二人の憲兵ですわ。
闘いの意思を強く感じましたわ。

旭が麗華を認めて歩み寄る。

【能海旭】
あなたも、召喚するの?
【月詠麗華】
神さまのことですか?
それならお招きできますわ。
――今もすぐ傍においでです。
【能海旭】
そうなの!
それは良かったわね!
あなたはなのね、きっと。
でも、東京ゼロ師団相手に、
ことを荒立てないで欲しいのよ。
私たちが調べてるんだから!
【月詠麗華】
随分ですわね! お言葉ですわ!
私は闘いのあるところなら、
どこにでも参りますわ!!

九頭が割って入るように言う。

【九頭幸則】
ふたりとも、落ち着いて!
ね、あきらちゃん――
さっきはちゃかして悪かったよ、
ね、ほら、今日はいい天気だよ!

旭は九頭に構わず麗華を見据えたまま言う。

【能海旭】
余計なこと、しないでよ!!
あんただって、はぐれ者なのよ!
足掻あがいても根無ねなぐさは流されるだけ!
【月詠麗華】
私は平静をたもちたいのに、
神さまがおいでになりました。
風魔さま、お願いします――

《バトル》

鈴代がやって来ていた。麗華は少し息が上がっているようだ。旭は依然麗華を睨みつけている。

【月詠麗華】
戦いの前より、
気持ちが落ち着きますわ。
【如月鈴代】
麗華さん!
これ以上はさわりますわ。
さぁ、戻りましょう。
【月詠麗華】
そうですわね、鈴代さん。
それに古式のこと、
もう少しお教えいただかないと――
風魔さま、楽しゅうございました。
またよろしくお願いします。
【如月鈴代】
風魔さん、
後ほど本部にお邪魔しますわ。

麗華、鈴代は電車通を青山方面へと歩き去った。旭は両手を腰に当てがい、二人を目で見送っている。

【能海旭】
呑気のんきなものよね……
が勝手に降りてくるなんて!
ふん! 素晴らしいじゃない!
【九頭幸則】
いやぁ、あきらちゃんの怒った顔、
たまらないなぁ~
まるで磁器じき人形のようで。
【能海旭】
九頭くず中尉――
君に話があるんだ。
ちょっと来てくれないか?
【九頭幸則】
え? え? 俺に?
何だい、話って?
【能海旭】
来れば話すよ。
君の同輩なんたらのことだよ。
――君は気になっていないのか?

風魔さん――
また会えますよね?

別れを告げ、旭はスタスタと歩き出す。慌てて九頭がその後を追う。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
青山墓地でセヒラの乱れを観測です。
念のためご確認ください。

〔青山墓地〕

青山墓地の大穴は依然いぜん開いたままである。
赤坂署により立入禁止区域に指定され、大穴の周囲を4人の巡査が見張っていた。物見遊山ものみゆさんの市民の姿はなかった。

大穴を背に一人に巡査が立っていた。

【赤坂署の巡査】
署員が総出で規制しております。
猫一匹たりとも入り込む、
そんな余地はちっともないニャ~

話し終えると巡査はいきなり駆け出した。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です、
これまでにない値です!!

いきなり、穴からセヒラが吹き出した。穴の周囲を警戒していた巡査は皆散り散りとなって逃げた。
セヒラは筒のようになり、その中へ一体の中型アストラルが姿を見せた。

【歩一Y少尉有心アストラル】
そこにいるのは――
もしや、喪神中尉?
喪神中尉!
――そうなのですね、中尉ですね!

喋った後、アストラルは少し膨張し、また縮んだ。

【歩一Y少尉有心アストラル】
自分、歩一少尉、山本であります。
今は九頭くずの身が危ないと、
それを伝えに参りました!
私には時間がありません!
しかし――
お越しください!
私にはがあるのです――

そこまで言ってアストラスは爆ぜるように消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラの値、依然いぜん高いままです!

大穴から大量のセヒラが吹き出した。
セヒラに呑まれ、
風魔は落ちていった――

〔時空の狭間〕

しゃがんでいた風魔が立ち上がると、それを待っていたかのように別の中型アストラルが現れた。

【歩一Y少尉無心アストラル】
私の実家は向島むこうしま区、白鬚しらひげ神社近く。
江戸指物さしもの師の三男坊です――
強くなるため陸士に入りました
荒川の向こう岸にある工場は、
帝国モスリンの工場です。
その工場、様子が変なのです。
私が工場のことを話すと、
九頭くずは大いに興味を持ったようです。

喋り終えるやアストラルは震えながら消えた。代わりにアストラルが現れた。先程、青山墓地の大穴に現れたアストラルである。同じ山本少尉が2つのアストラルに分離しているのである。

【歩一Y少尉有心アストラル】
私はあのふたを見て直感しました。
これはモスリン工場の入口だと。
すぐに二人に連絡を入れました。
能海旭のうみあきらさんと吉祥院蓮三郎きっしょういんれんざぶろうさんです。
九頭くずに電話を入れて、
能海のうみさんの無線を聞き出しました。
蓮三郎れんざぶろうさんの寿命、
にならないと尽きてしまうとは、
本当なのでしょうか……

アストラルは震えながら消えた。そこへ現れたアストラルは、詳しい事情を知らない方のアストラルであった。

【歩一Y少尉無心アストラル】
九頭くず偽装ぎそうしている施設がある、
そう疑っているようでした。
どこにも出入口のない工場です、
奴が疑うのも無理はないでしょう。
奴は詳しく知りたがりました。

またアストラルが入れ替わった。眼前には事情に通じたアストラルが浮かぶ。

【歩一Y少尉有心アストラル】
工場ではセヒラのうずが合わさり、
次々とが誕生します。
そのとき兵器も融合しているのです。
工廠こうしょうで危うく私は――
喪神もがみ中尉に助けられ、九頭くずの一声で、
私は自分を取り戻したのです。
東京ゼロ師団は工廠こうしょうの他に、
仮構かこうによって組織を作っています。
防疫研究所や砲工学校がそれです。
渋谷の憲兵大隊も仮構かこうの存在、
東京ゼロ師団自体も仮構かこうです。
大きな力が及んでいるのです――

アストラルが入れ替わり、事情に詳しくない方が現れた。

【歩一Y少尉無心アストラル】
帝国モスリンの前身は興亜こうあ毛織けおりです。
そこの波斯ペルシア人技師が鉄道事故で死に、
事故の一報が朝刊に載りました。
ところが朝刊の遅版では、
事故にったのは露西亜ロシア人通訳と、
なぜか記事が差し替わっていました。
鎌倉でのその事故を報じた、
唯一の新聞社、帝都日日ですが、
去年倒産しています――

喋り終えたアストラルは爆ぜるにようにして消えた。

【着信 喪神梨央】
なんか妙です――
セヒラ値はすごく低いのに、
激しい波形が現れています。

交信が終わった時、大型アストラルが現れた。

【歩一Y少尉アストラル】
鳥居坂町とりいざかまちの日曜下宿にいる時、
いきなり三人の憲兵大尉が来た。
憲兵は土足で部屋に上がった。

私は黒い車に乗せられ、
渋谷憲兵大隊本部へ連行された。
地下の談話室へ入れられたのだ。

両足を鉄輪てつわで床に留められ、
両手は天井からのくさりに繋がれた。
ギリギリと音がしてくさりが巻き上がる。
私は万歳ばんざいの姿勢となり宙に浮き、
そのまま何日も放置されたのだ。
上体が大きく前に倒れて気が付くと、
両肩の関節が抜け、私の体は
筋肉と皮で支える格好になっていた。
恐ろしい痛みは後からやってきた。
焼けた穂先ほさきを差し込まれた痛みだ!
私はそのとき飛んだのだ!

私は九頭くずを案じている。
しかし、同時に貴様らをにくむ!
私を返せ、今すぐに返せ!!

《バトル》

【歩一Y少尉アストラル】
両手を失った私は、
戸山の軍医病院に収められた。
私の腕は満洲に送られた――
片腕ずつ、腕を失った支那シナ人に、
移植するのだという。
善なる医学の実験だそうだ!
移植に成功すると、
今度は私の両足を切り落すらしい!!

私は関東軍第七十九軍に転隊した、
そういうことになっているようです。
九頭くずに伝えてください!
連中には近づくなと――

大型のアストラル、それは山本少尉の分離した思念の合わさったものであった。アストラルはゆっくりと、滲むようにして消えていった。

次に風魔が現れたのは溜池通である。しかし人も車もない、音すらしない場所であった。周囲にセヒラの影響が及んでいる――
佇む風魔の前に中型のアストラルが現れた。

【歩一M大尉アストラル】
赤坂哈爾浜ハルピンでは逆恨みのようになり、
申し訳なかった――
元歩一大尉の御荷鉾みかぼだ、喪神中尉。
君は時空の狭間から戻り、
おそらく帝都の何処かにいるはずだ。
――君の実体のことだ。

そこまで言うとアストラルは揺らいだ。

【歩一M大尉アストラル】
私は幼少期を独逸ドイツで過ごした。
ミュンヘンのブルエナー通――
陸士入学を目指して日本へ帰国した。
二十歳を前に駐独武官補として、
再び渡独して半年ほど過ごした。

そこでアーネンエルベと接触した。
連中は日本に大いなる興味を持ち、
私を快く受け入れてくれた。
中隊指導者のラルフが地図を手に、
私の元に来て尋ねたんだ――
伊豆の修善寺しゅぜんじについてだ。
ラルフは修善寺しゅぜんじロッホがあるという。
近く、それを発掘するのだと。
ロッホから資源を取り出して兵器を作る、
どうもそんな話だった。
ラルフと私はアーネンエルベの、
青年室で会った……何度かね……

セヒラのせいか景色が揺らいで薄くなり、別の街区が現れた。同じ赤坂である。

【歩一M大尉アストラル】
京都の師団を経て歩一に任官後、
ほどなく戸山砲工学校に出向した。
教官としてだ――

そこであの香りをいだのだ――
ベラドンナの濃密な甘い香りを。
アーネンエルベの青年室でも、
同じ香りがしていた。
それがベラドンナの香りだと、
ラルフが教えてくれたのだ――

私はラルフの言う修善寺しゅぜんじを思い出し、
休暇を取って温泉宿に逗留とうりゅうした。
毎日、山を歩き、ロッホを探した――
帰京の前日、小高い丘の頂きで、
倭文しどり神社の小さなほこらを見つけた。
ほこらにもたれて私は転寝うたたねをした――

再び景色が変わった。赤坂の一ツ木通に繋がる界隈だ。

【歩一M大尉アストラル】
今思えば、あのほこらロッホなのでは――
月詠つくよみ麗華れいかに飛ばされた私は、
終わりなくここを彷徨さまよう――

わかるか、ここは回廊かいろうだ。
アラヤ回廊、そう呼ばれる場所だ。
あらゆるロッホに通じる回廊だ。
そのロッホは帝都にもある――
少なくとも三箇所にだ!

――私は認められたようなのだ……
アラヤ回廊によって私は認められた、
そのように思えてならない。
だが、貴様はまだ帝都の魂を残す。
ここに長居は無用だろう――
私はもう行かねばならない。

アストラルは滲むようにして消えた。
歩き出した風魔の耳に
声が聞こえた――

【???】
風魔!
あなた、ここにいるの?
私よ、淑子としこよ――
風魔、後ろを振り返って頂戴!

風魔が向こうとしたその刹那、眼前に一体のアストラルが現れた。

【風水師HSアストラル】
ヘレナよ、ヘレナスー――
振り向かないで!
振り向くと、二度と出られなくなる!

――気を付けて!
その声はあなたの心の中の声よ。
自分の声に取り込まれると大変!
さぁ、目を覚まして。

風魔は気を取り直した。アストラルは話を続ける――

【風水師HSアストラル】
私は、目覚めた後、
また薬を飲んだ。
今度は一瓶ひとびん丸々飲んだよ!

――私……
永遠にここを彷徨さまようの――

話し終えても依然アストラルは浮かんだままである。やがて周囲が暗闇に呑み込まれた。風魔は帝都の山王に戻っていた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん!
もう大丈夫ですか?
――心配しました……
あれから、鈴代さんから、
いろいろお聞きしたんですよ。
古式東雲しののめ流のこととか――

古式東雲しののめ流は鬼神を人に降ろす秘儀である。
それは必ずしも闘いの神々ではない。
しかし古式の本来の姿はすでに失われている。
邪流にて古式が蘇ると、現前にを呼ぶ、そのような事態も招きかねない。
鈴代は麗華に対してそれを案じていたのだ。

【喪神梨央】
でも麗華さんはすごく霊感の強い、
蓼科たてしなという乳母うばに育てられ、
鈴代さんは麗華さんなら大丈夫、
そう見込まれたようです。
麗華さんは兄さんたちと同じ、
審神者さにわになられたのです――
【帆村魯公】
おう、風魔!
もういいんだな――
京都の帝大の古文書、
先般せんぱん、ようやく見つかってな。
係員が暗い書庫で書き写した。
その古文書こもんじょだが、持ち上げた途端とたん
細かな破片になって散ったそうだ。
――文言は電報で寄越よこされた。

ソノアサ ウラト 
アラハスヒカリ アリテ

【帆村魯公】
例によって式部氏の知り合いが、
読み解いてくれたぞ。
その朝、占いの言葉を、
現す光がある。
三つの文言を繋ぐと――
真名井まないの鏡、それの様、うるわしくて、
諸神もろかみたちの御心にも合えり――
その朝、占い現す光ありて、
一つのあらかに渡らして詰まる。
【喪神梨央】
一つのあらかとは冬至でした。
――つまり……
冬至の朝、真名井まないの鏡が、
占いの言葉を映し出す――
そういうことですね。
【帆村魯公】
魔鏡まきょう託言たくげんを写すのだな。
それで、冬至はいつだったかな?
【喪神梨央】
十二月二十三日です。
あと二週間です――

風魔が回廊にちた時、帝都と大きく時間がずれてしまった。
帝都でははや師走しわすを迎えようとしていた――

第九章 第四話 穴

〔山王機関本部〕

梨央りおは甲府連隊区に連絡を取り、山郷やまごう武揚ぶようの山梨での様子を確かめていた。
甲斐絹かいきを扱う生糸きいと商を営んでいた――

【喪神梨央】
屋号は山郷生糸きいとといいます。
甲府の北にある夢山ゆめやまという、
山の中腹に自宅があります。
【帆村魯公】
そうか――
そう言えばこれまで山郷のことなど、
詮索せんさくしてこなかったな――
【喪神梨央】
甲府連隊の糧抹りょうまつ係がよく知るのです。軍馬のまぐさを調達保管する軍属です。
【帆村魯公】
それで商売は順調なのか?
山郷の、甲斐絹かいき商とやらは。
【喪神梨央】
甲斐絹かいきは薄手で腰があって、
独特の光沢こうたくのある絹糸きぬいとです。
山郷はそれに飽き足らず――

北支ほくし原産の柞蚕糸さくさんしに興味を持っていたという。
柞蚕さくさん山繭蛾ヤママユガの仲間でさくの葉を食す天蚕てんさんだ。家蚕糸かさんしにはない野趣やしゅが持ち味である。

【喪神梨央】
新京シンキョウにある満蒙絲線まんもうシーチェンでは、
白黄斑山繭シロキマダラヤママユの人工飼育に成功して、
天蚕糸てんさんしの生産を本格化しました。
でも今年は病気が流行って――

かいこかび菌におかされる斑僵病まだらきょうびょうによって、柞蚕糸さくさんしが収穫できなかったのだ。
山郷は新京しんきょうに大量の甲斐絹かいきを調達した――

【喪神梨央】
満蒙絲線まんもうシーチェンの社長、好文海ハオウェンハイは、
山郷への支払いの一部に結 晶アルツケアンを、
充てたのです――
【帆村魯公】
今から考えると、
山郷は結 晶アルツケアンのことを知っていて、
取引を持ちかけたのかもな。
【喪神梨央】
その辺り、もう少し調べてみます。

ノックの音がして九頭がやって来た。

【九頭幸則】
歩一、九頭くずです――
って、のんびりですね、皆さん!
【喪神梨央】
軍帽を
着て怪人の
白い声
【九頭幸則】
物見遊山ものみゆさん
怪人来たりて
墓地の穴
【帆村魯公】
なんと!
【喪神梨央】
墓地に穴!?
【帆村魯公】
梨央りお、何か観測するか?
【喪神梨央】
いえ何も……何も観測していません。
幸則さん、青山墓地ですね。
――怪人、現れたんですか?
【九頭幸則】
いや……
ただ穴に人がたかっているだけ。
もう散歩しかすることなくて――

大掛かりなクーデター計画発覚後、
軍は綱紀粛清こうきしゅくせいとして
日曜下宿を禁止した。
そむキタル者は礼遇れいぐう停止ニ処スル――

【九頭幸則】
門限もんげんも早まって、午後四時だよ!
まるで尋常じんじょうの子供だよ!
【喪神梨央】
いいじゃないですか、
規律を守るのって素敵です。
青山の大穴、青山新京シンキョウで、
凄腕の風水師たちが守ります。
しばらくは安心なはずです。

ただ新聞がまた書きたてますね。
赤坂の大柱はお化け柱ですよ。
見ようと近付くと音もなく消える、
それでお化け呼ばわりされています。
【九頭幸則】
麗華さん、戻ったんだよね。
墓場の穴からじゃなく、
別の方法で戻ったの?
【喪神梨央】
ちゃんとゲートをくぐって――
兄さんが連れて帰ったのです。
今、あきらさんのアトリエにおいでです。
鈴代さんがお連れになりました。
【九頭幸則】
へぇ~
あきらさんとどんな接点があるんだい?
まさか米国アメリカ流お茶点前てまえとか?

あきら米国アメリカの魔法学校に身を置きながらも、麗華の通う学校の創設者、鴨脚敬祐いちょうけいゆうを尊敬し、その著書、東亜論とうあろんを愛読の書としていた。

【九頭幸則】
変わった接点だね――
鴨脚敬祐いちょうけいゆう、隊にも信奉者がいる。
でも今は自重のときだよ、さすがに。
【喪神梨央】
兄さん――
あきらさんのアトリエ、おうかがいすれば?
何かお話、聞けるかも知れませんよ。

〔旭のアトリエ前〕

日枝ひえ神社の裏にある
能海旭のうみあきらのアトリエ。
鉄扉てっぴの前であきらが出迎えてくれた。
梨央りおが一報入れてあったのである――

【能海旭】
風魔ふうまさん。
梨央さんから連絡もらったよ、
入って――

〔旭のアトリエ〕

【能海旭】
風魔ふうまさん――
レンザのが、
いろいろ情報を集めているみたい。
最近、あいつ、
よく出かけているようだし。
それに麗華さんとは気が合うんだ。

アトリエのドアが静かに開いてレンザが顔を覗かせた。

【吉祥院蓮三郎】
失礼します、あきらさま。
風魔さまも――
【能海旭】
何だ、いたのか、
びっくりさせるな。
レンザ、
お前は麗華さんのこと、
気に入ったようだな。
【吉祥院蓮三郎】
はい、キタイスカヤでお目にかかり、
あの方はまさに完成間近かと――
そんな様子にございました。
【能海旭】
お前の言う完成とは、
どんな感じなのだ?
【吉祥院蓮三郎】
何と申しましょうか、
他の何者でもない存在になる、
そういうことにございます。
【能海旭】
何者でもない――
うーん、そうだな。
レンザ、お前も早く完成しないとな!

【吉祥院蓮三郎】
アキラさま――
麗華さまの学校を作った方の、
ご本をお持ちなんですね。
【能海旭】
鴨脚敬祐いちょうけいゆう先生だ。
帝国女学園創設者にして、
明治時代の国学者だ――
先生は東亜論という著作の中で、
日本こそ欧亜ユーラシア大陸で盟主となるべき、そう説かれている――

ボストンの本屋で東亜論と出会って、
私の人生が回り始めたんだ。
CCW公園のベンチで読み終えた――
【吉祥院蓮三郎】
クリストファー・コロンブス
ウォーターフロント・パーク――
そうでございますね。
【能海旭】
人に例えて、日本、鮮満が頭となり、
肥沃ひよくな大陸が強い胴体、
西アジアが脚となる壮大な計画だ。
麗華さんは学校で先生をのこと習い、
日本人の心をみがくため、
お茶を始めたらしい。
【吉祥院蓮三郎】
久遠くおん流にございますね。
お茶を通じて鈴代さまと出会われ、
愈々いよいよ霊異りょうい現すのでございます。
体深くに取り込んだ霊的結晶――
仮面の男を軽く退けた力……
やはり完成間近は疑う余地なし!
【能海旭】
何だ、お前?
麗華さんが審神者さにわとして成るのが、
嬉しいのか?
【吉祥院蓮三郎】
それはもう!
完成とは如何いかなるものか、
見てみとうございますゆえ!

【能海旭】
それで、麗華さんはどうした?
まだお前の部屋なのか?
【吉祥院蓮三郎】
いえいえ、
はずむようにお出になりました。
【能海旭】
そうなのか……
風魔さん――
何だか胸騒ぎがするよ。
――こういうの、当たるんだ……

〔旭のアトリエ前〕

アトリエ前の鉄扉のところに鈴代が立っていた。梨央から請われて麗華を迎えに来たのである。

【如月鈴代】
あっ、風魔さん……
麗華さんをお迎えにまいったのです。
――もしや、もう出られた……
そうなのですね!

不意に鈴代は顔を曇らせた。まだ万全ではない麗華を案じるとともに、不測の事態を招かいないとも限らない状況を案じているのである。

【如月鈴代】
梨央ちゃんから一部始終聞きました。
叔父おじが大変な迷惑をおかけし、
申し訳ありません――
新京シンキョウでN計画の情報が得られない中、麗華さんの渡満を知って、
叔父は計画を変えたのです――
麗華さんに結晶を取り込ませ、
仮面の男の計略に載せたようにして、
大きな力をもたらそうとした――
その力に寄せられるようにして、
失われた猶太ユダヤ支族のすえが現れる――
叔父おじは何の根拠があって、
そんなことを考えたのでしょうか?
人に犠牲をいることまでして、
見つけ出す人って……

【着信 喪神梨央】
今、鈴代さんもご一緒ですね。
麗華さんはこちらでも探してみます。
青山墓地の様子が変です。
セヒラが安定しなくなりました。
念のため巡視パトロールをお願いします!

【如月鈴代】
私、麗華さんを探します。
心当たりがあるのです――

〔青山墓地〕

公務電車で青山墓地に向かった風魔。そこでは大穴の周囲に大勢の市民が集っていた。市民たちは様々な方向を向いておかしな挙動を繰り返していた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
比較的強いセヒラです。
市民は怪人化している模様!

【新聞売】
号外だよ~興亜日報の号外だよ~
赤坂のお化け柱に次いで、
青山墓地に謎の大穴出現だ!

新聞売に小僧が近寄った。

こら、坊主!
買わないならあっち行った行った!
【原宿の少年】
ねえねえ、何で興亜日報は、
おいらの川柳、載っけないの?
【新聞売】
何だ、読んでないのか?
怪人川柳はな、担当の記者が病気で、
当面休むとあったぞ。
記者は一日中、うつろな目をして、
ちゅうにらんでいるんだと。
神経の病だ、帝大出なのにな……
【原宿の少年】
怪人川柳、お休みか……
残念至極だな!
おいら、とっておきの、こしらえたのに。
【新聞売】
ふん、しょせん、
ガキのお遊びだろ?
【原宿の少年】
どうかな――

高い空
走る怪人
道柳みちやなぎ
【新聞売】
ふーん……
その道柳ってのは、
銀座の並木のあの柳か?
【原宿の少年】
何言ってんだよ!
別名庭柳、たで科の仲間の一年草――
道端みちばたでよく見かけるじゃないか!

大穴の脇で車投げの挙動を繰り返していた背広姿の男性がこちらを振り向いた。そして風魔に歩み寄る――

【飯倉の客】
新宿の東海館で観たんだ!
ああ、幻燈会げんとうえだよ、
天睛院てんせいいんオラクルだ。
奇術師の天睛院てんせいいんが銀幕に現れた。

血走った目をワイフに向けた!
私のワイフをにらみつけて言うんだ、
顔が見える、顔が見える――
アレが鼻、ソレが目、とな!
顔は貫禄かんろくのある紳士しんしです、
乳房の間に顔が埋まりまぁす!
顔の主は三河台みかわだいの銀行支店長だ、
天睛院てんせいいんはそう告げやがった!
銀幕の中からだ!

ワイフは真っ青になって、
頓狂とんきょうな声上げて活動キネマ館を飛び出し、
もう七日も戻らない!!

何が天睛院てんせいいんオラクルだ、
ふざけんな!!

《バトル》

【飯倉の客】
はぁ、はぁ、はぁ~
ワイフの服がやけに煙草たばこ臭い、
そういう日が少なからずあったなぁ。
煙草たばこ……三河台みかわだい……支店長……
――ううううううぅぅ~

【着信 喪神梨央】
今の話は天睛院てんせいいん一座のことですね。
女流奇術師の天睛院てんせいいんが率いる一座で、
透視術を専らとしています――
顔が見えるというのは、
天睛院てんせいいん十八番おはこなのです。
あまりいい顔は見えませんが――

黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
まだセヒラ収まりません!
引き続き警戒してください。

【台町の婦人】
真白ましろき細き
手をのべて……
血汐ちしお洗い去り~
吹けよ朝風あさかぜ
初陣ういじんの……
胸の火玉ひだまあれ!
永久とわさかえの  
だい亜細亜アジア
世界に示せ――

そこまで言うと着物姿の女性は力なくうなだれた。後れ毛が額にかかっている。目を閉じ、ゆっくりと開いた。風魔を見るようでもあり、見透かすようでもあった。

【台町の婦人】
どうしたのかしら……
私ったら、こんなところで?
――あなた、警察の方?
さ、帰って支度したくしなくちゃ!
支度したく支度したく――

女性はふらつきながら風魔の脇を抜け青山通へ去った。大穴の周囲にいた市民たちも一様にうなだれている。

【着信 喪神梨央】
支度したくって、何の支度したくでしょうか……
ちょっと気になりますが、
もう、セヒラは観測しません。
山王さんのうホテルに殿下がお見えです。
ご帰還ください――

〔山王ホテルロビー〕

ホテルロビーでは聖宮と魯公が立ち話をしていた。

【聖宮成樹】
喪神さん――
喪神さんの時間がずれ始めている、
そううかがいました。
【帆村魯公】
帝都満洲での一日が、
帝都の何日分にもなる、
そういう現象が起きています。
【聖宮成樹】
セヒラの動きが関係している、
そう考えられますね?
【帆村魯公】
セヒラの動き?
そんなものがあるのですか?
まるで日和ひよりのようですな!
【聖宮成樹】
まさに、循環じゅんかんする大気のようです。

そう言うと聖宮はセヒラ回廊かいろうの話をした。アラヤ界のさらに深い階層に、セヒラが無限に循環じゅんかんする場所があるという――

【聖宮成樹】
セヒラ回廊には古今東西、
ときには未来からも思念が流れ込み、
セヒラとなって循環してるのです。
【帆村魯公】
思念はセヒラとして実体化する、
そういうことなですな?
【聖宮成樹】
念とは質量を伴うものです。
それがさらに凝固して出るのが――
【帆村魯公】
アストラルですな!!
【聖宮成樹】
帝都にもアストラルが出た、
そう伺っています。
【帆村魯公】
ほう!!
目の当たりにしました!
あれは風水師のアストラルでしたな。
【聖宮成樹】
セヒラ異常が起きると、
アストラルも表出するようです。
セヒラ回廊そのものは制御不可能、
しかし帝都に湧出ゆうしゅつするセヒラ量は、
釣鐘つりがねでなんとかなるはずです。

しかし、このところ、
どうも様子が変なのです。
セヒラ回廊の動向が怪しくなり、
それがせいで釣鐘つりがねに影響が及び、
帝都の状況、予断を許しません。
【帆村魯公】
うむ……
仮面の男のせいで生まれた、
赤坂の大柱も依然いぜんと残ります。
【聖宮成樹】
数年前のことですが……
独逸ドイツ人たちはアラヤ回廊自体を、
なんとかしようとしたようです。

そう言うと聖宮ひじりのみやは一枚の青図を取り出した。
独逸ドイツ人たちが伊豆修善寺しゅぜんじ近くで見つけた穴、それをコンクリートで補強したのである。

青図には十進法で緯度経度が記してある。35、0018、138、9850――
伊豆修善寺しゅぜんじ近くの山中を示している。

【帆村魯公】
青山墓地にも穴が開いていますが、
あれはまた違うのですな?
【聖宮成樹】
墓地の穴は帝都満洲に繋がる穴、
独逸ドイツ人の探したロッホとは異なります。
伊豆の現場には倭文しどり神社のほこらがあるばかり、何も見当たらないとのことです。
【帆村魯公】
ほう、倭文しどり神社、またはしづり――
機織はたおりの神である建葉槌命たけはづちのみことまつる。
鳥取にある倭文しどり神社が有名ですな。

【聖宮成樹】
独逸ドイツ人たちは伊豆をよく調べ、
一箇所は見つけた――
それがこの青図のロッホなのです。
【帆村魯公】
そのロッホがアラヤ回廊に繋がる、
そういうことですな、殿下?
そしてロッホは他にももっとある――
【聖宮成樹】
山王さんのうにも品川にも、
ロッホのあった形跡は残ります。
山王さんのうが最もよく残しています――
【帆村魯公】
うむ……
そのようですな。
しかしもはや穴ではないと――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
ホテルにおいでですか?
青山新京シンキョウの風水師の一人、
覚醒かくせいしたようなんです。
それで離脱してしまい――
セヒラが物凄く不安定です!

【聖宮成樹】
喪神もがみさん、まずは目先の問題です。
ロッホの件、さらに調べましょう。
帝都の何処いずこかにあるはずです。
【帆村魯公】
梨央ははらえの間にいるはずだ。
風魔、頼んだぞ――

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
覚醒かくせいした人はヘレナさんです。
ヘレナスーさん――
八年間も昏睡こんすい状態だったとか。
昏睡こんすい状態から覚醒したので、
アストラルが弱くなった、
そのようです。

波形を確認すると、
品川図們トモンに漂うようです、
ヘレナさんのアストラル――

風魔は祓えの間からゲートを抜けて帝都満洲へ赴いた。

【満鉄列車長】
未来というのは必ずしも
一つというわけではない――
そう思いませんか?
川で小さな魚が跳ねただけで、
変わってしまう未来もあるようです。
力づくでは変えられないのに、
ささいなことで変わってしまう――
これは不条理なんでしょうか?

当列車、品川図們トモンに向かいます。
出発で~す!

風魔を乗せた帝都満洲鉄道あじあ号は一路品川図們を目指した。

〔品川図們〕

【AGK研究員Wアストラル】
アルツケアンは五つ見つかった――
蟻走痒感府ぎそうようかんふに二個ある。
アーネンエルベに二個、
あと一つはかい族が持ち去った――
【AGK研究員Aアストラル】
蟻走痒感府ぎそうようかんふではカーンが取り込み、
不老不死の存在になったんだ。
調査隊の副長、カーンと交渉すべく、
蟻走痒感府ぎそうようかんふに戻ろうとしたが迷った。
瑒納斯チャンナンス河畔かはんを二週間彷徨さまよい、
気が触れてしまったんだ。
【AGK研究員Wアストラル】
烏魯木斉ウルムチから百八十キロ南西、
緯度経度も正しいのに見つからない。
幻のように消えたんだ!
【AGK研究員Aアストラル】
かい族の少年カールが言ってた――
蟻走痒感府ぎそうようかんふが現れるには、
三十六の条件が必要らしい。
【AGK研究員Wアストラル】
条件で思い出した!
アルベルト、お前ゼーラム六八六の
フェラー還元方程式、知ってるか?
【AGK研究員Aアストラル】
ゼーラム六八六?
何だそれは?
ゼーラム五二五なら知っているが……
【AGK研究員Wアストラル】
俺の聞き違えかな……
確かに六八六なんて知らないな?
――あ、いや、知ってる気が……

会話をしていた2体のアストラルが音もなく消えた。そこへ中型アストラルがやって来た。

【ヘンリーオートCアストラル】
毎日がデリシャス!
ウェストロックのウェストダイナー、
カイザーひげのハモンド爺ちゃまは、
狼もちびるWWⅡの英雄さまだ!
油汚れでギトギトの厨房ちゅうぼうの窓から、
くそったれ災い州間道路をにらみつけ、
喧嘩けんか売るのが日課の爺さまだ!

あの州間道路は災いのデパートだ。
五十八年の大竜巻は、
あの道路に沿って移動しやがった!

ウェストロック高校の社会科教師、
オールドミスのドロシーも災難だ。
クルマは十八マイル先の沼で、
カエルの学校の校舎になっていた。
でもミスドロシーの姿はなかった――

ブライトン爺さん、
あの怪物こしらえたの俺だと思ってる。
あほらしー!
身体中から大小の砲身、
十二本も生やしてやがった!
一番でかいのは二五〇口径はある、
一五〇口径の榴弾りゅうだんも見たぞ!
怪物はウェストロックでは一発も、
撃たなかった――
その代わりツーソンは全滅した。

大和ヤマト天皇エンペラーは魔法を使うらしい。
エンペラーズヴンダーだ……
でもな、何でドイツ語なんだ?
クラスにドイツ野郎いたからな、
ヴンダーってのはドイツ語だぞ。

俺は今大和語ヤマトニーズを練習中だ。
自分名前も書けるぞ、大和語ヤマトニーズで。
湖泥亜駄無素コーディアダムス――

中型アストラルはぐるぐると回転して消えた。

〔品川図們〕

次の街区に進むと、アストラルが寄って来た。

【AGK2研究員Hアストラル】
フェラー還元方程式の完成で、
カー体の半減期が二万六千年に伸びた。
発見時は二秒半で崩壊したのに。

もう一体のアストラルも来た。風魔のすぐ目の前にいる。

【AGK2研究員Pアストラル】
カー体を触媒として、
ゼーラム六八六は誕生した!
釣鐘二ツヴァイに満たして荷電かでんすると、
強烈な量子場が形成される――
まさに量子力学の奇跡だ!
釣鐘二ツヴァイは、空中三百メートルで、
直径四十キロの椀状わんじょう空域を生じる。
椀の中は数千度の高温となる――
【AGK2研究員Hアストラル】
総統フューラーの決断は早かったな!
ロンドン、パリ、モスクワ……
皆、壊滅だ。
我々は神の意志を得た――

2体のアストラルは左右へ去った。そこへ一体のアストラルが来る。アストラルは様子をうかがうようにして風魔に近寄ってきた。

【AGK研究員Gアストラル】
何だ、今の連中は?
何を寝物語をしている!!
あああ、苦しい……
息ができない――

《バトル》

【AGK研究員Gアストラル】
勝手にAGKアーゲーカー2を名乗るな!
私はユルゲン・フェラー博士の、
一番弟子なんだぞ!!

アストラルが爆ぜるようにして消えた。

【着信 喪神梨央】
別のアストラルが来ます――
おそらくヘレナさんです、
かなり苦しんでいます……

無線の後、中型アストラルがやって来た。その動き、どことなく不安定である。

【風水師HSアストラル】
たしかに自暴自棄になっていたわ!
六年も付き合った人と、
酷い別れ方をしたんだもの。
でもね、死のうなんて考えない。
ただ眠りたかっただけ――
ぐっすりとね!
おかげでよく眠れた……
なのに、何故、目覚めるの?

ここはフカヒレ屋の奥ね!
壁には八年前のカレンダーが――
コーマ状態でも髪は伸びるのね!

フフフフ~
さぁ、戻して頂戴、
また眠りの世界へ!!

《バトル》

【風水師HSアストラル】
ふう……
体が軽くなっていくわ。
――これでいいのよ、これでね……

アストラルは滲むようにして消えた。

【着信 喪神梨央】
ヘレナさん、戻られたようです。
やっぱり……

桃源郷とされる蟻走痒感府ぎそうようかんふとアルツケアンは、繋がりを持っていた。
そして帝都は不思議な未来とも繋がっている。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい!
またちょっとズレた未来と、
繋がってしまいましたね!
【新山眞】
いやぁ、ズレているかどうかは、
まだわかりません。
それにしてもすごい未来です!
ナチが量子爆弾をこしらえ、
我が方は――
【喪神梨央】
ヴンダー、怪物です。
巨大なが、実体化している、
そういうことなでしょう?
【新山眞】
キタイスカヤでもその会話が……
芽府めふ須斗夫すとおが言っていました。
怪物とは巨大な人籟じんらいであると。
【喪神梨央】
でも、そんんなこと、
本当に起きるんですか?
が見えるようになるなんて。
【新山眞】
今のところ、可能性は低いです。
ただ、何が起きるかは――

ノックの音とともに九頭が現れた。

【九頭幸則】
歩一の九頭くずです、
今度こそゆっくりはダメだ、風魔ふうま
【喪神梨央】
どうしたんですか?
でも見たんですか?
【九頭幸則】
例の違うものに見えるって話さ!
――ほら……
【新山眞】
仮構かこう、ですね。
東京ゼロ師団による――
【九頭幸則】
それそれ!
青山の青山せいざんホテルが、
いつのまにやらトゥーレの館に――
【新山眞】
何ですって!
独逸ドイツ流儀の召喚術を伝授する……
【喪神梨央】
鬼龍大尉が宿舎として使い、
その後、麗華さんが部屋を取り――
あの青山ホテルですね!
リヒャルト・フィンケが、
以前、宣言していましたね。
帝都にも館を置くって――
【九頭幸則】
何だか知らないけど、
人だかりができているよ。
【喪神梨央】
――兄さん……
アルツケアンですが、
アーネンに渡ったうちの一つは、
仮面の男が取り込みました。
もう一つの行き場が気になります。

第九章 第三話 時間軸の歪み

赤坂の大柱のことはすっかり市民の知ることとなり、連日、物見遊山の市民が詰めかけた。

【洋服姿のモガ】
大柱様! お願いします――
私、大柱様のように二人で向き合い、
家庭を築きたいのです!
【油絵が趣味の男】
うーん、このアングルだと、
柱が全部は見えないなぁ。
だが柱の高さはよくわかる……
【水飴売】
水飴いらんかねぇ~
甘い、あま~い水飴だよ~

一方、青山墓地に開いた大穴の周囲には大勢の巡査が動員され、市民の接近を監視していた。好奇心に駆られた市民も遠巻きに眺めるのみであった。

〔釣鐘の間〕

しかし、怪人騒動が頻発ひんぱつすることもなく、帝都は静けさを保っていた。
すでに12月中旬になっていた。

【聖宮成樹】
喪神もがみさん――
今、釣鐘つりがねの出力を上げています。
【新山眞】
出力を上げると、
セヒラの量も増えそうですが、
そうはならないのですね。
【聖宮成樹】
あるところまではセヒラが増えます。
しかし、さらに出力を上げると、
不思議なことにセヒラが下がる――
どうもそのようです。
【新山眞】
スプライン曲線という、
三次元曲線があるのですが、
それに似た挙動を示すのですね。

喪神さん――
この穴が青山新京シンキョウに通じるのなら、
麗華れいかさんが戻るのは造作ありません。
ただ今はセヒラを何も観測せず、
大穴が開いているだけです。
すぐに麗華さんが戻るというのは、
ちょっと考えにくいのです。
【聖宮成樹】
再びセヒラが上昇した時、
釣鐘つりがねの出力をさらに上げると、
一瞬、高濃度のセヒラが発生します。
セヒラの濃くなるその一瞬は、
最大限の注意が必要です。
それは心しておいてください。

【着信 喪神梨央】
兄さん――
隊長がおいでです。
機関本部へお越しください。

【聖宮成樹】
独逸ドイツ人が発掘したアルツケアンは、
アーネンエルベに一肌ひとはだ脱いで
もらうのがいいでしょうね。

そう言うと聖宮は釣鐘の間を出ていった。風魔、新山も後に続いた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん――
参謀本部通いだった隊長が、
軍の謀反むほん計画を調べてくれました。
【帆村魯公】
謀反むほん計画――
確かにそうじゃな、謀反むほんじゃな。
参謀本部と陸軍省の調べで、
久鹿くろく計画の全貌ぜんぼうが明らかになり、
歩三では大掛かりな沙汰さたがあった。
【喪神梨央】
沙汰さたって……
つまり、人の異動とかですか?
【帆村魯公】
そうだな――
その実は粛清しゅくせいじゃよ。
とりわけ歩三には、
大鉈が振るわれたようじゃ。
連隊長の常田つねだ大佐も転隊になった。
【喪神梨央】
そうなんですね。
久鹿くろく計画の中心ですからね――
それで、常田大佐、どちらへ?
【帆村魯公】
新潟の第十三師団だ。
輜重しちょう兵第十三連隊渡河とか材料中隊――
部隊は新潟県中頸城なかくびき郡高田市にある。
【喪神梨央】
渡河とか材料中隊って……
橋を掛けるための資材を調達する、
そういう部隊ですよね。
【帆村魯公】
ああ、そうだな。戦闘部隊ではない。
部隊は高田城址じょうしの南に位置する。
部隊暗号は九一〇九だ――
久鹿くろく計画に関係するものなのか、
参謀本部第九部で、
このような伝単ビラが取得されていた。

下士官兵ニ告グ――
その標題で始まる伝単ビラであった。
一、今カラデモおそクナイカラ
  原隊げんたいかえ
ニ、抵抗ていこうスルもの
  全部逆賊ぜんぶぎゃくぞくデアルカラ射殺しゃさつスル
三、オ前達まえたち父母兄弟ふぼきょうだい
  国賊こくぞくトナルノデみなイテオルゾ

【喪神梨央】
原隊へ帰れ――
これって、計画の失敗を、
あらかじめ知っているのではないですか?

そこへノックの音がして九頭が入ってきた。

【九頭幸則】
歩一、九頭くずです。
この伝単ビラ、何ですか、先生?
【帆村魯公】
謀反むほんの将兵に投降とうこうを呼びかける、
その目的でられた伝単ビラだな。
【九頭幸則】
例の久鹿くろく計画ですね――
軍務局長暗殺、続く大暗殺計画、
実行されたら大変でした。
【喪神梨央】
こういう伝単ビラがあるというのは、
計画の失敗を予見よけんしていたと
そう考えられますね。
【帆村魯公】
失敗になる筋書きがあったとかな。
はなからそういう計画だったのかも。
結果、国体の再生は進むはずだ――
【九頭幸則】
だとすると、
宗谷そうや大尉の死は犬死ではなかった、
そうなのかも知れませんね。
【喪神梨央】
常田大佐の赴任ふにんした高田ですが――
上野から省線急行で行けますね!
【九頭幸則】
え? 
歩三の常田大佐、転隊したの?
その高田ってどこ?
【喪神梨央】
越後えちご高田です。信越しんえつ本線ですよ。
上野発夜八時五十五分、高田着は、
朝四時五分の夜間急行で行けます。
【帆村魯公】
常田大佐は輜重しちょう部隊に移った。
そういうことだ――
【喪神梨央】
川に橋をける資材を調達します。

再びノックの音が響く。フリーダ葉がドアの隙間から顔を覗かせた。

【フリーダよう
私、入って大丈夫かしら?
【喪神梨央】
フリーダさん!
どうしたんですか?
【フリーダよう
風水師のバーナードが、
仲間に声をかけてくれたのよ。
あのバーナードチャンよ。
それで五人の風水師が集まって、
青山新京シンキョウの穴を守ってくれている。
そういうことみたいよ。
みんな未来から繋がった思念、
大元はうんと遠くにいるのよ。
【喪神梨央】
そのおかげで青山墓地のセヒラ、
大きな値が観測されないのですね。
【フリーダよう
値の大小はわからないけど、
彼ら風水の術が効いているのかも。
【喪神梨央】
すると青山新京シンキョウに未来が繋がった、
そうなんですか?
【フリーダよう
そうじゃなくて、
彼らが思念を繋いだのよ。
でも――
【喪神梨央】
何か問題でもあるんですか?
【フリーダよう
他の思念もられてやってくる、
その可能性もあるわね。
あったらあったで面白いけど。
【喪神梨央】
ねぇ、フリーダさん。
前に見せてもらった小さな幻燈器げんとうき
あの原理ってどうなってるんですか?
【フリーダよう
あれはね、未来の技術なの。
この時代に披露ひろうすることはできない。
それはわかってね――

独逸ドイツ大使館〕

殿下の言葉もありアーネンエルベに寄っては、という魯公ろこうの提案があり、風魔ふうま三宅坂みやけざかへ。
ユリアと虹人こうじんが迎えてくれた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
独逸ドイツ大使館でセヒラ観測です!

交信終わるや否や、執事型ホムンクルスが駆け寄って来た。

【執事型ホムンクルス】
標的ツィール
――排除アンシュルス! 排除アンシュルス

《バトル》

【執事型ホムンクルス】
――終了エンデ……終了エンデ……

〔アーネンエルベ〕

【帆村虹人】
大丈夫だったか、風魔?
執事型の洗礼を受けたみたいだが。
【ユリア・クラウフマン】
フーマがここに来るのを、
知っていたようですね――
【帆村虹人】
そうそう、梨央りおが教えてくれたよ。
大昔の隕石いんせきなんだって?
アルツケアン――
【ユリア・クラウフマン】
私もアルツケアンのこと、
少し調べてみました。
コージンも手伝ってくれたのです。
アルツケアンはウルムチの南西、
およそ一九五キロの山中で発掘され、
アーネンエルベにもたらされました。
【帆村虹人】
かい族の少年、アヒムが犠牲になった。
彼は急に学者になったりした――
【ユリア・クラウフマン】
アルツケアンは人の意志を読み取り、
人がそう振る舞うように仕向けます。
【帆村虹人】
寝ている間に蒸発する結晶なんて、
なんだか厄介やっかいだよ。
【ユリア・クラウフマン】
アルツケアンは、
真空容器に入れて取り扱います。

【帆村虹人】
人が変わる現象はメントロピー……
そう言うんだね。
独逸ドイツ人は何でも名前を付けたがる。
【ユリア・クラウフマン】
そうですね……
メントロピーがいつまで続くか、
まだわからないことだらけです。
仮面の男にアルツケアンをほどこしたのは
フェラー博士に違いありません。
【帆村虹人】
それで仮面の男は、
自分以上の自分になれたのかな?
【ユリア・クラウフマン】
取り込み方も重要なようです。

気体化したアルツケアンを吸い込み、身体に定着しきるまえに目を覚ますと、メントロピーは短い時間で終わるという。

【帆村虹人】
かい族の少年は、
完全に取り込む前に目覚めたんだね。
【ユリア・クラウフマン】
仮面の男には慎重に施した――
フェラー博士はコンプレットを、
作ろうとしたのでしょう。
【帆村虹人】
コンプレット――
【ユリア・クラウフマン】
完全版といった意味です。
【帆村虹人】
麗華さんに結 晶アルツケアンを施したのが、
山郷だとすれば、
方法を知っていたのかな?
【ユリア・クラウフマン】
容器から出して、
部屋においておくだけです。
けれど、アルツケアンについて、
知識はあったんでしょうね。
【帆村虹人】
誰かが教えた、そうだよね、きっと。
【ユリア・クラウフマン】
アルツケアンどうしで、
大きなセヒラ場を生むことも。
よほど詳しい人物がいた――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
風水師たちを阻害そがいする者が――
青山新京シンキョウです。

【帆村虹人】
僕はユーゲントたちを組織して、
仮面の男の捜索そうさくをするよ。
捲土重来けんどちょうらいを狙ってそうだから!
【ユリア・クラウフマン】
私はヘーゲンの動向を探ります。
先ほど執事型を何体も連れて、
市内に出かけました。
何か目的があるようです。

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
青山新京シンキョウの穴を、
五人の風水師が守ります。
そこへ阻害する者が現れたと――
【新山眞】
ジョン・チュー、エリック・ホイ、
ヘレナ・スー、ドナルド・プー、
そしてアンドリュー・ワン――
アンドリューさん以外、
苗字の漢字はわかりません。
【喪神梨央】
一人、女性がいるのですね――
ヘレナさん……
何があったでしょうか。
【新山眞】
フリーダさんいわく、
五人とも昏睡こんすい状態にあるとか。
それで思念を飛ばすのです。
【喪神梨央】
フリーダさんの携行式けいこうしき幻燈器げんとうき
もしかしてキノライトの会社かも。
東京幻燈げんとう工業ってところです。
ちょっと調べてみますね!

〔赤坂哈爾浜駅〕

【満鉄列車長】
青山新京シンキョウにいる連中、
香港ホンコンから繋がっているようですね。
それもうんと未来の香港ホンコンから。
前にも似たようなことがありました。
それで未来から色々来たのです――
今度も来るかもしれませんね。
――どんな未来からでしょうか?

列車は青山新京シンキョウに向かいます。
間もなく出発します。

〔青山新京〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
見たこともない波形を観測しました。
注意してください!

交信後、すぐさま中型アストラルがやって来た。

【ダイナー店主Bアストラル】
俺があの怪物ヴンダーを初めて見たのは、
誰が呼んだかクソ退屈州間道路インターステーツ上だ。
ツーソンまで真っ直ぐ続くクソ道路、
あれを計画した奴は、
よほどの阿呆あほかおせっかい野郎だ。
ハンドル操作不要で楽々チンチン――
そう考えたのかもな。
救いようのないおせっかい野郎だな!

怪物はウェストロックを貫く州間道路を、ツーソン方面へ移動していたという。
町外れの小屋で暮らすセルマ婆さんが、ミッションオイルの染みを見て救世主キリストと信じ、全米からおかしな連中が集まった道路である。婆さんは純白のウェディングドレスをまとい、オイル染みのある場所へ日参した。
ドレスが灰色になる頃に騒ぎは収まった。

【ダイナー店主Bアストラル】
怪物はコーディの仕業だと考えた。
ヘンリーオートの穀潰ごくつぶし、
キング・オブくそったれコーディだ。

なんせあの怪物、
体中から砲身突き出していたからな。
歩く砲身天国だ、まったく!

コーディは車屋を営むが、
筋金入りのガンクレイジーだぞ。
弾の出るものなんでもござれ!
去年、二十八年型T1軽戦車を買い、
三十七ミリ歩兵砲を取り外して、
九十三ミリ砲に載せ替えやがった。
奴がそいつをぶっ放した時は、
地面は脂肪デブの腹みたいに波打ち、
砂煙が竜巻状に舞い上がったもんだ。
永久に太陽が顔を出さなくなり、
ウェストロックは氷河期を迎える、
そう心配したもんだ。

あの怪物もコーディの野郎がこしらえた、
そう考えるのも当然といえば当然だ。
真っ白な不気味や怪物をな!

だが違った! 真実は奇なり!
怪物は日本人ジャップが持ち込んだんだ。
今は大和人ヤマトニアンって呼ぶんだったな。

あの怪物どもとナチの新型爆弾で、
アメリカは日本とドイツに全面降伏、
西経百四度で分断統治されたんだ。
モンタナ州とノースダコタ州の州境、
それがになった。
百四度線と呼ばれる――

日本人ジャップ、いや大和人ヤマトニアンは、
ロスにアメリカ総督府を置いた。
西半分、大和ヤマト領ってわけだ。
そういや、大和人ヤマトニアンの連中、
あの怪物のことをなんと呼んだか……
確か――
ジンライマジン――
大和語ヤマトニーズは難しいぜ、まったく!

アストラルが回転しながら消え、風魔は街区を進んだ。そこでは2体のアストラルが会話していた。

【着信 喪神梨央】
未来のことのようですが――
何かズレが生じているようです。
警戒して進んでください。

【新聞記者Sアストラル】
横須賀よこすか港に停泊中の戦艦京畿けいき艦上で、
宮崎みやざき全権大使とモス米副大統領が、
横須賀よこすか条約に調印し――

ああ、何かうまくまとめられない。
イケダ、お前の方はどうだ?
【新聞記者Iアストラル】
日本国は大和やまと国として省庁再編、
拓務たくむ省から改組の拓殖経務たくしょくけいむ省が、
鮮満に次ぎ西米洲を管轄かんかつ――

サカイ、お前の原稿は、
条約の目玉を取り上げたほうが、
いいんじゃないか?
【新聞記者Sアストラル】
横須賀よこすか条約の目玉か――
ドル二十八円の固定相場制とか、
米国アメリカ石油の無制限輸入とかか?
【新聞記者Iアストラル】
そうだな――
それを見出しにして、
米国総督府のエドガー蒲田かまた総督の――

そう言い終わらないうちに5体のアストラルが同時に入ってきた。

【新聞記者Sアストラル】
ん、何だ、何があった?

【超級風水師AWアストラル】
私たちでは、
押さえきれない邪悪な存在だ。
頼む、なんとかしてくれ!
【風水師HSアストラル】
邪気の流れを整える、
私たちにできることよ。
それを超えては無理だわ――

そう言うと5体のアストラルは隣接する街区へと進んだ。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
隣の街区に進んでください。
セヒラ、観測します!

果たしてその街区には仮面の男が待ち構えていた。セヒラ異常に呑み込まれて消えて以来である。

【仮面の男のアストラル】
私は自分こそ虚無きょむだと思っていたが、
あの女ほどではない――
月詠麗華つくよみれいかだ!
あの女の内側には何もない。
怒りも憎しみも、さげすみも、何もだ。
あの女は戦いそれ自体を楽しむ――

二つのアルツケアン、
その衝突が狙いだったとはな!
私も焼きが回ったものだ。
だが、この戦いで私は再生する。
さぁ、憎しみをわけてくれないか!!

《バトル》

【仮面の男のアストラル】
お前は闇をのぞいているつもりか。
闇もまたお前をのぞいているのだ。
それを忘れるな――

仮面の男が消えた後、風魔はさらに街区を進んだ。地面に大穴の開いた場所である。穴の周りを5体のアストラルが囲んでいた。

【風水師HSアストラル】
助かりました――
私はヘレナ・スーです。
香港の風水師です。
今は九龍クーロンフロントの海鮮中心にある、
フカヒレ屋の奥の部屋で、
八年も昏睡コーマ状態になっています。
あの頃、眠れない夜が続き、
素人しろうと療法で睡眠薬を飲みすぎて――
先日、私の思念はバーナードに会い、
ここにいざなわれました。

【風水師JCアストラル】
さぁ、また私たち五人で、
ここの邪気をしっかり整えますよ。
私たちは誇り高きコーマ団ですから!!

5体のアストラルが穴の中央に集まった。その直後、穴からはセヒラの湧出が始まった。しかしアストラルたちが制御するためセヒラはか細くまるで糸のようであった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂哈爾浜ハルピンで麗華さんらしき波形、
確認しました。
赤坂哈爾浜ハルピンに向かってください。

大穴はひとまずアストラルたちに任せることにして風魔は踵を返した。

【満鉄列車長】
やはりです、憶測したとおりです。
赤坂哈爾浜ハルピンの町に、
キタイスカヤが出現しました。
哈爾浜ハルピンのキタイスカヤです、
あの大通りがそっくりそのまま!
そして私の状態では、
キタイスカヤに入れないのです!!

え~間もなく、赤坂哈爾浜ハルピン
赤坂哈爾浜ハルピンです~
キタイスカヤもこちらです~

赤坂哈爾浜の街頭に立つ風魔の周囲がゆらいで暗転した。光が戻るとそこはキタイスカヤ街であった。

〔キタイスカヤ街〕

【着信 喪神梨央】
そこは……
またキタイスカヤ街ですね!
依然いぜん、麗華さんらしき波形、
確認できています。

交信と入れ替えに千紘、芽府須斗夫、吉祥院蓮三郎がやって来た。

【芽府須斗夫】
なかなか、面白いことになってきた。
――そうじゃないかな?
【千紘】
未来から思念が繋がった――
【吉祥院蓮三郎】
香港の風水師は、
皆、昏睡こんすい状態にございます。
それでなお、思念を飛ばすのです!
【芽府須斗夫】
それもあるけど――
少しズレた未来と繋がっている。

そう言うと、芽府めふ須斗夫すとおは、先の新聞記者の思念に深く触れ、様々なことを知ったという。

【芽府須斗夫】
日本とドイツはアメリカと戦い、
結局、アメリカを打ち負かすんだ。
そういう未来だよ。
ドイツは六十発の量子爆弾を落とし、
日本は三百八十六体の怪物で攻めた。
怪物はヴンダーと呼ばれているよ。
【吉祥院蓮三郎】
ヴンダーとは独逸ドイツ語にございますか?
【芽府須斗夫】
その正体、人籟じんらいだよ!
それも相当大きな人籟じんらいだ。
【吉祥院蓮三郎】
人籟じんらい
東京ゼロ師団が関わる
それでございます!
【千紘】
ふーん……
東京ゼロ師団っていうと、
工廠こうしょうの上部組織なんだろ?
【芽府須斗夫】
アメリカを攻撃したのは、
普通の人籟じんらいじゃないさ。
ゼーラム六八六で改良されている。
【吉祥院蓮三郎】
それでヴンダーと、
独逸ドイツ語で呼ぶのでございますね!
【千紘】
そんなのを、アメリカ本土まで、
どうやって運んだの?
【芽府須斗夫】
伊五百号潜水艦百三十六せき
加えて戦艦阿蘇あそ、戦艦生駒いこま――
海軍が全面協力したんだ。
ドイツから釣鐘つりがね運んだときも、
伊号潜水艦が使われた。
人籟じんらい運んだのは最新型だね。
【吉祥院蓮三郎】
独逸ドイツの爆弾とは、
どのようなものでございますか?
【芽府須斗夫】
ゼーラム六八六を用いた量子爆弾――
それしかわからない。
東海岸の二十四の都市が壊滅した。
死者三百四十万人――
アメリカ本土は西経百四度で分断され、
東アメリカを独逸ドイツが占領、西アメリカは日本に併合へいごうされたという。
【千紘】
でもそれって、正しい未来なの?
【芽府須斗夫】
わからないさ――
いろんな時間の線が錯綜さくそうしている。
【吉祥院蓮三郎】
今の時点で米国アメリカと戦っていません。
それに……
アキラさまの学校、東海岸にあります。
それが独逸ドイツ領になってしまうのです。
何か複雑な感じがいたします。
【芽府須斗夫】
未来にはあらゆる可能性がある。
そういうことだね。

芽府須斗夫は風魔に向き直って言う。

【芽府須斗夫】
僕たち、帝都で石を拾ったんだ。
仮面の男が残した石だと思う。
【千紘】
田町たまち、広尾橋、大崎広小路おおさきひろこうじ――
仮面の男が結界破りに使ったんだ。
仮面の男は劣化れっかしているはずだ。
麗華さん、しばらく安全だね。
今はホテルにいるよ、麗華さん。
【芽府須斗夫】
ホテルボストーク。
この先にある小さなホテルだ。
【吉祥院蓮三郎】
私の勘としましては――
麗華さまと豪人たけとさまが出逢えば、
お二人とも愈々いよいよ完成するのでは?
そう思う次第しだいにございます。
お二人、完成寸前にございますゆえ。
アキラさまのお声が
聞こえるようです――

レンザ!
お前も早く完成させないとな――

【着信 喪神梨央】
ホテルボストーク、
ワゴロドナヤ街十一号地です。
東方 ボストーク飯店の看板が目印です。

交信を終え風魔が顔を上げると3人はいなくなっていた。風魔はホテルを目指した。

〔ホテルボストーク〕

公園越しにソフィースキー寺院を望む、八東方飯店ホテルボストーク408号室。
向かいは同發隆トゥンファールン百貨店である。

ホテルの窓辺に月詠麗華が立っていた。柔和な表情を浮かべている。

【月詠麗華】
風魔ふうまさま――
ようやく人心地つけました。

あの夜、八島通やしまどおりへだてた
新京シンキョウ神社に、
瑞祥ずいしょうの光を認めたのです――
久遠くおん流の師弟にだけ見える光、
それを新京シンキョウ神社に認めたのです。

光に誘われて新京シンキョウ神社に行くと、
そこに山郷さんがおいででした。
お茶で用いる香合をお持ちでした。
炭点前すみてまえのときに白檀びゃくだん香をきます。
そのお香を入れる香合、
交趾焼こうしやきで亀の形をしています。

三日後の夜、同じ時間に神社に来るように、そう伝え、山郷は麗華に香合を渡したのだ。
三日後、山郷と一緒に新京シンキョウ神社の井戸へ降り、次に気が付くと青山新京シンキョウにいたという。

【月詠麗華】
山郷さんは私を帝都に連れ戻す、
そう仰っておいででした。
神社の地下に運河が通るのだと――
でもここは帝都ではありません。

ここは……おそらく哈爾浜ハルピンです。
先程、レンザさまにお会いしました。
レンザさまは豪人たけとさまをご存じです。
お二人で修善寺しゅぜんじに出向かれたとか。
それでロッホをお調べになりました。
穴という意味だそうです。
豪人たけとさまは帝都にもロッホがある、
そうお考えになり、
帝都各所にお出になっていると――
白山の宿舎から――
小石川区の白山ですよね。
そこに豪人たけとさまがおいでなのですね。

私、帝都に戻ることにします。
是非、豪人たけとさまにお目にかかり、
教えをいとうございます。

【着信 喪神梨央】
兄さん――
麗華さんと一緒に戻ってください。
まずは戻ることです。

麗華を伴い風魔は祓えの間まで戻った。

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
麗華さん――
神社でもらった香合の中に、
何か結晶が入っていませんでしたか?
【月詠麗華】
仮面の人が言っていました――
隕石いんせきとか結晶とか。
ありました、そのようなものが。

梨央はアルツケアンについて説明した。
香合に入っていたのは不思議な結晶で、気体になって麗華の体内に吸収されたのだと。

【喪神梨央】
麗華さんはアルツケアンを、
ものすごく深く取り込んでいる――
そうに違いありません。
【月詠麗華】
では私は転生するのでしょうか?
そう言えばレンザさまも、
転生の途上だとか……
【喪神梨央】
吉祥院蓮三郎きっしょういんれんざぶろうさんですね。
悪魔セーレが転生した……
いえ、転生しようとしたのです。
【月詠麗華】
あの皆さんは、もしかして……
同じなのでしょうか――
【喪神梨央】
キタイスカヤにいた三人ですね。
でも、千紘ちひろさんは彩女あやめさんの別人格、
そう診断されています。
麗華さん――
あきらさんにはお会いになりました?
【月詠麗華】
レンザさまから話だけは――
まだお目にかかっていません。
【喪神梨央】
旭さんは鴨脚敬祐いちょうけいゆうという、
明治の女性国学者の書いた本を、
愛読されています。
麗華さんの学校を作られた方、
そうですよね?

鴨脚敬祐いちょうけいゆうは明治期の女性国学者で、帝国女学園の創設者でもある。
日本は欧亜ユーラシア世界の盟主であるとしたためた。
男装の麗人としても有名であった。

【月詠麗華】
鴨脚いちょう先生のことは、
よく教えられましたわ。
【喪神梨央】
アキラさんをご紹介します。
この近くにおいでなんですよ。
【月詠麗華】
それは是非ぜひに。
話が合うかもしれませんわ。

祓えの間に新山眞が入って来た。

【新山眞】
ホテルに如月きさらぎさんがお見えですよ。
【喪神梨央】
ありがとうございます。

麗華さん、まいりましょう。
鈴代さんもご一緒ですよ。
兄さん、麗華さんを、
アキラさんのアトリエにお連れします。
鈴代さんに来ていただきました。
【月詠麗華】
風魔さま、帝都に戻していただき、
ありがとうございます。
私は……大丈夫です。

梨央は麗華をエスコートするようにして祓えの間を出て行った。

【新山眞】
喪神さん、ヘーゲン召喚師ですが、
何かを企んでいるようです。
目黒近辺に執事型が集結しています。
現地の確認、お願いできますか?

〔目黒駅前〕

公務電車は予め梨央が用意していた。風魔は省線目黒駅前を目指した。
省線をまたぐ橋の中央にクルトがいた。クルトの周囲に執事型ホムンクルスが展開している。
手前からユリアが様子を見守っていた。

【ユリア・クラウフマン】
フーマ! 来てくれたのですね。
今、執事型が管理不能になって、
ヘーゲンが困惑の極みにいます。

セフィラにも疎密そみつがあります。
トウキョウのセフィラはみつなので、
ホムンクルスの指揮に向いています。
でも、今はセフィラがの状態、
アプドロックが長持ちしません。

同様の事態、ドイツでもありました。
エッセンでセフィラが急にとなり、
ホムンクルスが暴走したのです。

【着信 喪神梨央】
帝都のセヒラ、今は低い状態です。
五人の風水師が頑張っているので。
でも釣鐘つりがねが不安定との報告があり、
予断を許しません!

【ユリア・クラウフマン】
フーマ!
見てください!
ホムンクルスが一斉いっせいに――

橋の上で異変が起きた。クルトの目の前に巨大なセヒラ球が現れたのだ。セヒラ球の半分は地中に埋まっている。見る見る巨大化して、ついにはクルト、風魔を呑み込んでしまった。

〔時空の狭間〕

【クルト・ヘーゲン】
何故だ?
連中はアプドロックを守らないのだ?
私のめいだ、私の、私の、私の!!
くそっ!
勝手にアプドロックを解除するのか!

さてはお前がそそのかすのか!
これはエッセンの二の舞か!
そのようなことは断じて認めない!!

《バトル》

どこからともなく聞こえてくる声……クルトはうろたえている。

【???】
復唱するであります!
各所襲撃後は首相、蔵相、鉄相、
農相、文相各官邸、料理店幸楽こうらく
及び山王さんのうホテルに宿泊せり!!
【クルト・ヘーゲン】
誰だ、お前は?
私に何を言いに来たのだ?

【クルト・ヘーゲン】
――まさか……
ハンス……ハンスなのか?
そこにいるのは、ハンスなのか?

フルトヴァンゲンの泉……
リューゲン島の砂浜……
ハンス、本当にお前なのか?

クルトの問いには答えず、代わって甲高い声がした。

【???】
どりゃーお久しぶり、
お元気でお過ごしやか?

クルトは困惑の極みにいた。

【クルト・ヘーゲン】
やめろ!!
ハンス、すんだ!!
これ以上、翻弄ほんろうしないでくれ!

【???】
フフフ――
お前は神に召されるのだ、売女ばいため。
いざ、幸いなれ!!
きざんでやろう、
お前の為の十字架じゅうじかを――
その瑞々みずみずしく白い腹に!!

そのきしむような声は憎しみに彩られていた。クルトは大きく目を見開いている。口をあんぐりと開け、ほとんど息はしていない。

【クルト・ヘーゲン】
やめろ!!
あああああ~
やめてくれ!!

腹の底から絞り出すような声を出すクルト。続けようとしたがもう言葉にはならなかった。
闇の底から全く抑揚のない声が聞こえてきた――

【???】
おお、墓よ、
お前の勝利はどこにある?

遂にクルト・ヘーゲンが自失した。
目黒に大勢のホムンクルスを連れて、彼は何を企んでいたのだろうか?

月詠麗華の帰朝きちょうを受けて、深まる秋の中に静かなる緊張が走る。

第八章 第十二話 底流

アストラルらが俎上そじょうに載せた陸軍省軍務局。梨央りおが参謀本部に問いただすも、特段の報告は寄せられていなかった――

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん……
今朝、省線信濃町しなのまち駅近くで、
飛び込み自殺がありました。
死んだのは歩三附きの、
第四十八中隊副長、若狭わかさ少尉です。
【帆村魯公】
風魔ふうま、お前は若狭わかさ少尉の
アストラルと戦ったぞ――
山王さんのうに戻る一時間ほど前のことだ。
【喪神梨央】
若狭わかさ少尉は信濃町しなのまち発四時二十四分の、
浅川行き初発電車にかれました。
即死だったそうです。
運転手によると、
マント姿の将校がホームから浮いて、
空中歩行のように電車の前に来たと。
――そう言うんです。
【帆村魯公】
若狭わかさ少尉は省線駅で自失した、
そのようなことだったな。
【喪神梨央】
ええ……ただ、
戒行寺かいぎょうじの坂を降りたということは、
省線、上りホームのほうが近いです。
どうしてわざわざ、
下りホームに行ったのか……
自失のせいなのでしょうか。
【帆村魯公】
若狭わかさ少尉が彷徨さまよった界隈かいわい
その昔、鮫河橋さめがはしと言ってな――
市内有数の貧民窟ひんみんくつだった辺りだ。
皆、細民さいみんとして内職をしておった。
団扇うちわの骨作り、刷毛綴はけつづり、ぼたん開け、
燐寸マッチ箱貼り、石炭撰別せんべつ……
割れ硝子ガラス拾いというのもあった。
震災の後、随分と様変わりした。
今じゃ当時の様子はうかがえないな。
若狭わかさ少尉は戒行寺かいぎょうじの坂を降りる、
その途中で立派な洋館を見たと、
そう言っておった――
【喪神梨央】
黒頭巾くろずきんの人がいたと……
――その洋館、もしかして……
【帆村魯公】
どうだろうか……
【喪神梨央】
猟奇倶楽部!!
そうじゃありませんか?
ユーゲントの祇園丸ぎおんまるが、
猟奇倶楽部は信濃町しなのまちにあるかも、
そんなふうに言っていました。
信濃町しなのまちの一帯は探信儀たんしんぎの空白地帯、
機関本部の携行式探信儀けいこうしきたんしんぎでも、
低い場所ではうまく探信できません。
【帆村魯公】
探信儀たんしんぎの設置計画は、
京都帝大の博士が立案した。
物理学者の柄谷がらたに生慧蔵いえぞうだ――

帝都に6基、設置されたセヒラ探信儀たんしんぎ信濃町界隈しなのまちかいわいはその空白地帯にあった。探信儀たんしんぎの設置は柄谷がらたに生慧蔵いえぞう博士が提案した。

【喪神梨央】
柄谷がらたに博士はユンカー局長の弟です。
一時、局長になりすまして――
――あっ!
【帆村魯公】
どうした、梨央りお
【喪神梨央】
虹人こうじんさんがユンカー局長の乗る
円タクを尾行した時、
円タクは信濃町しなのまちに向かったと――
【帆村魯公】
銀座でヘーゲンと別れた後、
円タクで向かったんだな。
銀座にいたのは柄谷がらたに博士だな。
【喪神梨央】
それじゃ、博士は猟奇倶楽部へ……
柄谷がらたに博士が猟奇倶楽部に関係ある、
そう考えられますね!
噂は本当だったんですね。
従順なる隸Θしもべシータ師が最高位の会員です。それが、柄谷がらたに博士――

ノックの音がして九頭が本部に入ってきた。いつになく険しい表情をしている。

【九頭幸則】
失礼します!
歩一、九頭くず中尉です!
【喪神梨央】
どうしたんですか、改まって。
【九頭幸則】
それはこっちが聞きたいよ。
ここに来るまで何度も誰何すいかされた。
将校の肩章けんしょう付けているのに!
【喪神梨央】
ちゃんと名乗りましたか?
【九頭幸則】
勿論もちろんだ!
歩一、九頭くず中尉とな。
【喪神梨央】
それじゃ駄目です……
久留米くるめのク、隅田すみだのス、濁点だくてん――
そう言わないと。
【九頭幸則】
それって……もしかして……
【喪神梨央】
和文通話表の符号です。
若狭わかさのワ、摂津せっつのセ、宗谷そうやのソ……
連中、その符号を名乗るんです。
【九頭幸則】
連中というのは玄理げんり派のことだね。
このところ、妙な動きをするって、
隊の方でも噂になってるよ。
連中が手にするのはこの冊子だよ。

そう言うと九頭は葉書より一回り大きな、辞書のような分厚い本を取り出した。表紙には愛国革命論、登米川とめがわわだちあらわスとあった。

【喪神梨央】
随分と厚いのですね――
これ、裏表紙もたかぶっていますよ!
愛国青年の書の宣伝文句です――

建国精神を闡明せいめい日本にっぽん更生こうせいせしめるものは、遠大の理想を掲げる愛国の青年である。青年がすべき、倫理りんり的革新運動を提唱し――

【帆村魯公】
病弊ひへい国家をうれう気持ちはわかる。
しかし玄理げんり派の思惑おもわくは別にあるのだ。
常田つねだ大佐は大義など持たぬ人物だ。
【九頭幸則】
自分も同感です。
ただ血盟けつめいする将兵らは区別なく、
義憤をつのらせているのです。

本部に電話があったようだ。梨央が取り次いだ。

【喪神梨央】
幸則ゆきのりさん、隊に戻るようにと、
今、歩一から電話がありました。
急ぎだそうです。
【九頭幸則】
え? そうなの?
何だろう……
風魔ふうま、一緒に来てくれ。

〔山王ホテル前〕

【九頭幸則】
何だ、やけに静かだな――
今日は旗日はたびなのか?
いや、そんなわけがない……

溜池通からのアプローチを新山和斗が急ぎ足で登ってきた。

【新山和斗】
愈々いよいよですか、中尉!
軍が動くのですね――
【九頭幸則】
何の話をしている?
――また何をつかんだんだ?
【新山和斗】
シラを切る気ですか?
そうはいきませんよ、
町を見ればわかります!
永田町ながたちょう三宅坂みやけざか、赤坂、
どこもかしこも立哨りっしょうだらけ!
ハハハハ~もう隠せませんよ!
【九頭幸則】
町中に立哨りっしょうだと?
そんな話は聞いちゃいない。
【新山和斗】
聞くも何も見ればわかります。
しかし……中尉がご存じないとは……
山王さんのう機関も軽く見られたものです!

そこまで言うと和斗は小走りに去りホテル玄関に消えた。

【九頭幸則】
立哨りっしょうが出ているって言ってたな。
溜池通に行ってみよう。

〔溜池通〕

【九頭幸則】
ブンヤの言ったとおりだな――
立哨りっしょうがあんなに出ているぞ。
ぜんたい、何があったんだろう?

二人を見咎めでもしたのか、鋭い目をした将校が前に立ちはだかった。

【気の立った将校】
貴様!
どこの隊だ!
【九頭幸則】
歩一、九頭くず中尉だ。
これは何の命令だ?
【気の立った将校】
班長の命令だ!
そんなこともわからんのか!
ウハハハハ~
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
注意してください、
セヒラ反応です!
【伊班姫路隊員】
元召喚小隊、
現、最強部隊、班隊員姫路ひめじだ。
我が班におさなく、我が班に神あり!!

《バトル》

【伊班姫路隊員】
浅慮せんりょなる国体観念こくたいかんねんてよ!
凝固せる国民道徳をなげうて!
我々は国家己性こっかこせいを直視するのみだ!!

怪人化した将校はきびすを返して走り去った。

【九頭幸則】
出し抜けに、何だ!
今のは玄理げんり派だな。
姫路ひめじのヒっていうたぐいだぞ、きっと。
班、班長は誰だろう……
【着信 喪神梨央】
二人共、機関本部に戻ってください。
参謀本部から連絡が……
陸軍省で暗殺事件が発生しました!
【九頭幸則】
なんてことだ!
俺は隊に戻るぞ
風魔ふうま

九頭は溜池通を大股で渡っり赤坂の花街へと消えた。

陸軍省軍務局長真坂まさか少将が、青年将校によって斬殺ざんさつされた。陸軍参謀本部では厳戒げんかい態勢をくことになり、そのむね、市内全軍に軍令が下った。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
町に出ていた立哨りっしょうは、
玄理げんり派じゃなかったようですね。
【帆村魯公】
戒厳令かいげんれいの一歩手前といったところだ。
――それにしても……
【喪神梨央】
事件発生は午前七時半、
現場は陸軍省軍務局局長室、
被害者は軍務局長真坂まさかてつ少将――
【帆村魯公】
真坂まさか閣下かっか王道おうどう派の重鎮じゅうちんだ。
これは玄理げんり派で計画された暗殺だ。
【喪神梨央】
玄理げんり派は疑心暗鬼になっています。
アストラルが言っていました。
軍務局に課があったと――
【帆村魯公】
そんな話は聞いておらんがなぁ……
玄理げんり派の奴ら、蚊帳かやの外に置かれる、
そう思い込み、行動に出たようだな。
【喪神梨央】
青年将校らにみなぎる義憤も、
うまく利用しているようです。
【帆村魯公】
たとえ義憤であろうが看過かんかはできん。
いつ憎しみに代わるやも知れん。
さて、宗谷そうや大尉はどちらの側だ?
義憤のともがらか、誣言しいごとやからか――
【喪神梨央】
まだわかりません。
大尉ですが、剣の達人のようです。

現場は血飛沫ちしぶきに染まり凄惨せいさんを極めていた。真坂まさか少将は右肩に二刀、面に一刀、致命傷ちめいしょうとなった首は深々と一刀られていた。

【帆村魯公】
風魔ふうま時空じくう狭間はざまで戦った、
班S隊員、それが宗谷そうや大尉だ。
間違いないだろう――
【喪神梨央】
大尉はまだ逃走中です。
ただ――

ノックの音が響き九頭が姿を見せた。

【九頭幸則】
歩一、九頭くずです!
【喪神梨央】
あれ、どうしたんですか?
隊には戻らないんですか?
【九頭幸則】
戻るには戻ったけれど、
中に入れなかった。
門前に何人もの締め出し組がいて――
【帆村魯公】
それで情報は集まったかな?
【九頭幸則】
犯人は歩三の大尉です。
大尉の日曜下宿に捜索が入りました。
場所は六本木ろっぽんぎ三河台町みかわだいまち――
【帆村魯公】
なんだ、歩一のすぐ近くじゃないか。
【九頭幸則】
はい。酒屋の二階を借りていました。
日曜下宿の部屋ですが、
異様な光景だったそうです――

下宿の部屋には、壁中に必中禮ひっちゅうれいと書かれた、護符のような紙が隙間すきまなく貼られており、紙の重なる部分に朱でバツが記されていた。

【九頭幸則】
その朱書き、血ではないかと、
検査のために試料を持ち帰ったと。
【帆村魯公】
つまりは血判けっぱんの代わりか?
【九頭幸則】
いえ、血判けっぱんは別にありました。
進退周還必中禮しんたいしゅうせんひっちゅうれい墨書ぼくしょした麻紙ましに、総数七百九十八の血判けっぱんがありました。生乾なまがわききの血で半紙はずっしりと……
【帆村魯公】
必中禮ひっちゅうれい……礼記射義らいきしゃぎの引用だな。
しゃにあっては、
所作しょさのすべては礼に従う――
【喪神梨央】
弓の道では礼を尽くす、
そういう意味ですか?
【帆村魯公】
ここでの礼とはのりのことだろう。
皇国こうこく男子おのことしての矜恃きょうじを保つ、
血盟将兵の心意気じゃよ。

ノックの音がして新山眞が入って来た。

【新山眞】
いやぁ、和斗かずとの奴、
今度ばかりは特報のつかぞこねですね。
慌てて陸軍省に向かいました。
【喪神梨央】
新山にいやまさん、
宗谷そうや大尉のことですが……

風魔ふうま宗谷そうや大尉と思しきアストラルと、時空の狭間で戦った際に記録した波形、それを辿たどれば対の居場所がわかるのでは――
その波形はかなり特徴的だとのことだった。

【新山眞】
私も同じ考えです。
S隊員アストラルの波形は、
かなり鮮明なようですし――
実は青山新京シンキョウに、
不思議なセヒラを観測するのです。
【喪神梨央】
青山新京シンキョウにですか?
【新山眞】
そうです――
高輪延吉エンキツに置いたセヒラ歪振器わいしんきが、
不思議なセヒラ波をとらえました。
【喪神梨央】
それでは公務に設定します。
兄さん、はらえのへ――

〔祓えの間〕

【新山眞】
帝都満洲で班S隊員に再会すれば、
補完的に宗谷そうや大尉の波形も同定でき、
大尉の居場所を求めやすくなります。
【喪神梨央】
兄さん……
帝都満洲と帝都とで、
時間のずれが広がっています。
帝都満洲での一時間が、
帝都では五、六時間ほどに……
【新山眞】
宗谷そうや大尉の波形を同定したら、
迅速じんそくな対応が必要ですね。
【喪神梨央】
すでに東京憲兵司令に連絡し、
市内に五十個小隊を展開すると、
言質げんちを得ています。
【新山眞】
それだけあれば充分でしょう。
それでは、喪神もがみさん、お願いします。

〔赤坂哈爾浜ハルピン駅〕

ゲートを潜った先で帝都満洲鉄道の列車長が話しかけてきた。

【満鉄列車長】
赤坂哈爾浜ハルピンに、
キタイスカヤ街が現れたとか。
その噂で持ちきりですよ。
キタイスカヤでは、
人は実体を保てるのだとか。
そして私たちは中へ入れない、
まるで結界のような場所ですね。
うらやましいです、キタイスカヤ。
カフェにキネマにテアトルに――
何しろ東洋のモスコーですから!
帝政露西亜ロシア時代の建物も見所です。
さて、そんな赤坂哈爾浜ハルピンを後に、
当列車、青山新京シンキョウへ参ります。

あじあ号は青山新京を目指して走り出した。

【満鉄列車長】
間もなく青山新京シンキョウ、青山新京シンキョウ
この列車の終点です。

〔青山新京〕

【東京憲兵隊Eアストラル】
宗谷そうや大尉の日曜下宿に、
必中禮ひっちゅうれいしるした札があった。
同様のもの、他でも見た――
若狭わかさ少尉が所持していた――
残念ながら少尉は自死したが。

【東京憲兵隊Tアストラル】
真坂まさか閣下かっか暗殺の犯人は、
宗谷そうや東次郎とうじろう歩三附き大尉だ。
第三十六中隊を指揮する――
明治三十七年、岐阜ぎふ生まれ。
名古屋幼年学校を経て、
大正十四年、陸士りくし三十七期卒業。
同年、連隊附き少尉として、
朝鮮羅南らなん赴任ふにんしている。

【東京憲兵隊Sアストラル】
宗谷そうや大尉が歩三に転隊となったのは、
昭和八年のことだ――
翌年、大尉に昇進、中隊長となる。

【東京憲兵隊Aアストラル】
羅南らなん時代の宗谷そうや大尉を、
よく知る人物がいる。
来てくれ――

アストラルは全身で風魔についてくるように促した。風魔はアストラルの後を進み、隣の街区へ入った。そこには待ち構えるようにして中型のアストラルがいた。2体のアストラルが会話を始めた。

【元一等主計Kアストラル】
秋本あきもと憲兵大尉と俺は、
同じ陸士三十五期生でな。
任官後、俺は経理学校に入り直した。
【東京憲兵隊Aアストラル】
まさか、金子かねこ、お前が経理畑とはな。
剣道五段の腕前なのに!
あれには驚いた。
【元一等主計Kアストラル】
経理学校卒業後、二等主計として、
羅南らなんの師団に配属された。
師団の剣道試合で宗谷そうや大尉と会った。
【東京憲兵隊Aアストラル】
試合で会ったのか!
で、宗谷そうや大尉は強いのか?
まさか、お前、負けたんじゃ……
【元一等主計Kアストラル】
いやいや、勝負はしていない。
大尉の剣道は独特だった。
二天一流にてんいちりゅうを基礎としながら、
邪流に変じた怨白流おんぱくりゅうの使い手だ。
【東京憲兵隊Aアストラル】
うらみを備える形なのか……
すごい流派だな!
邪流中の邪流だな。
【元一等主計Kアストラル】
宗谷そうや本人がそう言うんだ。
次に奴と話したのは試合から一月後、
大正十四年八月のことだ――

宗谷そうや大尉の元に訪問者があったという。尤志社ゆうししゃという愛国主義運動団体の幹部である。その幹部は柴崎周しばさきあまねと名乗ったという――

【東京憲兵隊Aアストラル】
その二人は意気投合したんだな?
【元一等主計Kアストラル】
鶴屋旅館の大広間を借り切り、
真ん中に座布団ざぶとんき向き合い、
六時間も語り合ったそうだ。
月のよいままに二人して
羅南らなん神社の山に登り、
東の空を仰いでこころざしを新たにしたとか。
革命日本の建設、亜細亜アジア復興の戦闘、
宗谷そうやが時事を慷慨こうがいし出したのは、
ちょうどその頃からだ。
奴は道着の下に真っ白のさらしを巻く。
それが血盟の現れなのかどうか、
いつか聞こうと思っていた――

中型アストラルが風魔に向き直って言う――

【東京憲兵隊Aアストラル】
あんたが誰だか知らんが、
宗谷そうや大尉を追うのなら、
奴の変節の経緯も知っておかないと。
尤志社ゆうししゃというのも、
調べる必要があるな。
【着信 喪神梨央】
尤志社ゆうししゃですね――
承知しました、至急しきゅう調査します。
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
近くにセヒラを観測します。
進んでもらえますか?

風魔が歩み入れた先には大きな穴が開いていた。穴から霧のようにしてセヒラが立ち上っている。そこへぬっと大型アストラルが姿を見せた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
急激にセヒラ上昇しています!!
【渋谷憲兵大隊Hアストラル】
フフフフ――
貴様らが血眼ちまなこになって探すうちに、
宗谷そうや大尉の身柄、我々が確保した。
これで事件は解決だ――
だが残念なことに、
色々と鼻を突っ込み過ぎた者がいる。
そんなに我々のことが気になるのか!
東京ゼロ師団の命令に従い、
貴様を直ちに粛清しゅくせいする!!

《バトル》

【渋谷憲兵大隊Hアストラル】
フフフ……
生兵法なまびょうほう怪我けがのもとだ、
覚えておくがいい――

不意に周囲が暗くなった。暗闇の中、風魔と大型アストラルが対峙している。

【渋谷憲兵大隊Hアストラル】
な、何が起きた?
――目の前が真っ暗だ……

どこからともなく声がした――

【感嘆する声】
君たちはの活躍には舌を巻く、
そうじゃないか、灰雨はいざめ憲兵大尉。
【渋谷憲兵大隊Hアストラル】
誰だ?
貴様、何者だ?
【感嘆する声】
導く者とでもしておいて欲しい。
勇猛果敢ゆうもうかかん灰雨はいざめ憲兵大尉殿!
バビロンを征服した、
ペルシアはクロス大王が股肱ここうしん
【渋谷憲兵大隊Hアストラル】
黙れ! 貴様を粛清しゅくせいする!
姿を見せろ!!
【感嘆する声】
すぐにでも見えるようになる。
永遠に見続けることになる。
さぁ、セフィラの湧出ゆうしゅつを受けるのだ。大尉、お前自身を依代よりしろとして、ここに道をひらく!
さぁ、受けろ!!
【渋谷憲兵大隊Hアストラル】
何だ? どうした!
俺の腕が……黒ずんできた!
――ああああああ~

周囲に光が戻った。風魔は依然青山新京に開いた大穴の前にいた。

【感嘆する声】
人柱――まさに柱そのもの!
二本の柱が必要だ。
もう一本を調達するとしよう。

穴から吹き出すセヒラが一段と濃くなり、大型アストラルを包み隠してしまった。アストラルが見えなくなったその刹那、急にセヒラは消えた。アストラルの姿もなかった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂哈爾浜ハルピンにセヒラの奔流ほんりゅうです!
確認お願いします!

公務指令を受け風魔は帝都満洲鉄道で赤坂哈爾浜ハルピンへ戻った。

〔赤坂哈爾浜〕

【着信 喪神梨央】
そこにいるのは、
帝都赤坂のアストラルのようです。
思念が吸い込まれています!

【芸者千鳥ちどりアストラル】
会えば別れの悲しさよ
会わねばつのるこの思い
ああああああ~
なんとしょ~ なんとしょ~
恋は女の命取り~
歌で気をまぎらわせても、
もうどうにもできませんことよ――
頭ン中に入ってくるの!

白い乳を出させようとて
タンポを引き切る気持ち
彼女の腕を見る

アハハハハハ~

幇間ほうかん平左へいざアストラル】
都々逸どどいつ三下さんさがり大津絵おおつえ
粋な節回して歌いますのは、わっしの何よりの楽しみでござんして――
びんのほつれは 枕のとがよ
それをお前にうたぐられ~
つとめじゃえ~ 苦界くがいじゃえ~
あ~ゆるしゃんせ~
てな様子でありんすが、
どうも変なのが頭ン中に……
入ってくるでござんすよ!

闇の中から血まみれの猿が
ヨロ/\ヨロとよろめきか
俺の良心

ひぃひぃひぃ~
助けてくんろ!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂に何かが現れました。
原因は赤坂哈爾浜ハルピンかも知れません。
警戒して公務を進めてください。

赤坂哈爾浜ハルピンの街区を進むと、そこに風魔を待ち受けるようにして中型アストラルがいた。

【メソポタミア神学生アストラル】
クデルの大門を守るのは僕だ!
いや、ジプチエへの凱旋がいせんこそ僕の夢!
アーハハハハ!
ついに柱が現れた!
あれは大柱、ヤキンかボアズか!
高さ十八キュビト威容いようを誇る、
青銅の大柱だ!
二本目が現れるまで、
ここは誰も通せない!
お前を昇華させる!!

《バトル》

【メソポタミア神学生アストラル】
僕は……まだ至らないのか……
――あの柱の元に眠ろう……
柱は僕にはゲプスの祝塔に見える!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂に巨大な柱が現れました。
機関本部へお戻りください!

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん、報告があります。
赤坂に現れた柱ですが、
音もなく消えてしまいました。
高さ三十メートルほどの円柱でした。
一ツ木通ひとつぎどおりの先、歩一の裏辺りです。
また現れるかもしれません。

それと――
宗谷そうや大尉ですが、逮捕たいほされました。
ただ、波形が違うんです。
宗谷そうや大尉の波形とは別の波形が、
逮捕たいほされた人からは出ていました。
大尉の身柄を拘束こうそくしたというのは、
渋谷憲兵大隊です――
【帆村魯公】
うむ……またもや渋谷の大隊だな。
――実に怪しい……
連中、はたして正規の軍なのか?
【喪神梨央】
碑文谷ひもんや大連ダイレンのアストラルは、
そのことを調べていたようです。
渋谷憲兵大隊や砲工学校のことを――
それで自失したとか――
【帆村魯公】
うむ……実に怪しい。
怪しさ千万せんばんだな。

【喪神梨央】
怪しいと言えば、柴崎周しばさきあまねです――
またその名前が出ました。
宗谷そうや大尉をそそのかして、
愛国主義運動に向かわせたのでは?
大尉が羅南らなんの部隊にいるときです。
【帆村魯公】
柴崎しばさきの結社は何と言ったか……
【喪神梨央】
尤志社ゆうししゃです。
今、本を取り寄せています。
この夏、一冊、出しています。
【帆村魯公】
青山新京シンキョウに開いた大穴は、
まだ帝都には影響を及ぼしておらん。
だが時間の問題だろう。
柱の件も含めて観察が必要だな。

軍務局長暗殺事件は必中禮ひっちゅうれい事件として、新聞紙上を大いににぎわせた。そして犯人逮捕たいほしらせに大見出しが踊った。帝都は静けさを取り戻したが、それは嵐の前の静寂せいじゃくのようでもあった。

第八章 第十話 滾る憎しみ

〔山王ホテルロビー〕

その日、山王さんのうホテルには多加美たかみ宮司の姿が。真鏡に付随する三篇の古文書こもんじょについて、残すは愈々いよいよあと一篇であった。

多加美たかみ宮司】
紫水しすい会館の古文書こもんじょは、
やはり冬至についてのことでした。

ヒトツノ アラカニ
ワタラシテ ツマル

アラカとは宮のことですね。
ヒトツノ アラカ……
最初の宮ですね。
冬至は太陽の死であり、
同時に再生する日でもあります。
だから最初の宮となります。
京都帝大の方の古文書こもんじょ
見つかり次第、連絡が来るはずです。

ホテル玄関から廣秦ひろはた範奈はんなが入ってきた。風魔のところへ真っすぐ歩いてくる。

【廣秦範奈】
喪神もがみさん……
鍛冶橋かじばしの事務所で――
多加美たかみ宮司】
鍛冶橋かじばし……
もしや、志恩しおん会の――

多加美たかみは、自分は山郷やまごう武揚ぶように見限りを付け、今では風魔らに協力していると述べた。そして東雲しののめ流再興を手伝うのだとも。

【廣秦範奈】
如月きさらぎ鈴代すずよさんの決意は、
るがないのですね――
志恩しおん会では六世紀中頃、
ちょうど武烈ぶれつ天皇統治時代、
日本に渡ったマナセ一族を探します。
久志濱くしはま一族と呼ばれていて、
生糸きいとの生産にたずさわっていたようです。

喪神さん――
その志恩しおん会なのですが、
タイピストの女性から連絡があり――

タイピストが言うには、志恩しおん会の事務所から異音がするとのこと。風魔は範奈はんなとともに鍛冶橋かじばしへ向うことに――

範奈、風魔を乗せた公務電車は数寄屋すきや橋電停を通過、その先の鍛冶橋電停に着いた。

〔鍛冶橋〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
大丈夫ですか?
いきなり出かけるって言うから……
大慌てて公務電車の路線、
押さえたんですよ!

【廣秦範奈】
タイピストの女性が言うには、
志恩しおん会の事務所、人がいないのに、
人の気配がすると……
私も何度か、
同じような経験をしました。

そこへ白衣姿の人物がやって来た。頭には反射鏡を着けたままである――

【猫憑き】
ニャ~……
アンタもこの人の仲間ニャ?
この人、大っきな隙間すきまあるニャ。
おいらだけじゃスッカスカ!
おいら、猫の政次郎ニャ!

――言わんこっちゃないニャ!
誰か来るニャ!
ものすごい速さで来るニャ。

ひゃ~……
おいら、弾き飛ばされたニャ!!

白衣姿の男は呆然と立ちすくんだままだ。男の背後にアストラルが現れた。アストラルを透かして鍛冶橋の町が見えている。

【???】
FUMAサン……
JEREMIAHエレミヤデス……
ワカリマスカ?

【エレミヤの思念】
私ハ コンナニ ナリマシタ……
BUT心ニ JUSTIS!!
伝エタイコト I HAVEデス
【廣秦範奈】
エレミヤ……さん……
エレミヤ佐古田さこたさんですね?
――銀行家の……
【エレミヤの思念】
範奈はんなサン……
おお範奈はんなサン……
貴女にまつわるVERY大事なこと!
とても大事なこと――
I HAVEなのです。

でも今は話せません――
FUMAサンにお会いして、
I TALKしたいです!
来てください――大連ダイレンです――
碑文谷ひもんや大連ダイレンで、
I WAITしています。

アストラルが消えた。白衣姿の男ははっと我に返った。

【本郷の内科医】
ここは……どこですか?
私、白山上はくさんうえの電停にいた、
それまでは覚えていますが。
その後のことは、ちょっと――
やれやれ……
これで今年になって十六回目です。
しっかりしなきゃです。

白衣の医者は何やらつぶやきながら歩き去った。暫く見送っていた範奈だが、軽く深呼吸をして風魔に向き直る。

【廣秦範奈】
私にまつわる大事なこと――
それって何でしょうか?
【着信 喪神梨央】
ゲートの準備できています。
はらえのへお越しください。

祓えの間からゲートを潜り帝都満洲へ。帝都満洲鉄道あじあ号に乗るや、列車長から案内があった。

【満鉄列車長】
碑文谷ひもんや大連ダイレンに再びわだかまる存在が――
これまでになく大きいですね。
さて、本列車ですが、
先程、定刻ていこく通り目黒奉天ホウテンを通過、
まもなく碑文谷ひもんや大連ダイレンに到着です。

〔碑文谷大連〕

【演説家アストラル】
蹶起けっきせよ、将兵諸君!
――ああ、もっと声を張り上げて……
えー……
世相の頽廃たいはい、人身の軽佻けいちょうがいし、
国家の前途に憂心ゆうしん覚えありしが――

だめだな……
登米川とめがわ先生のようにはいかない。

【作家志望アストラル】
記念すべき第一回茶川賞で、
なぜ、僕の小説が落選するんだ?

「ケッケッケ――
怪人三面相は不敵な笑い声を上げた。
それを見た彼女は一段とおびえた!

この後、どんな展開を見せるか、
知りたくないかい?
フフフ、くまなく教えてあげるよ!

おびえた女は突如とつじょ大蛇だいじゃと化した!
そして怪人三面相の体に巻き付き、
ぐいぐいと締め上げた!

「怪人三面相は
憤怒ふんぬ形相ぎょうそうとなった。
しかしすでに手遅れだった――
怪人は青ざめて動かなくなった。

どうだい!
予想外だったろう!
僕は絶対に諦めないからな!!

作家志望のアストラルが去ったのと入れ違いに、三体のアストラルがやって来た。

【伊班R隊員アストラル】
ん?
貴様は……
さては将校か!
ならば心しておくように。
我々玄理げんり派は二班で構成される。
第一の班は班、
元召喚小隊、暁光ぎょうこう召喚隊の隊員ら、
およそ三百名だ。
第二の班は班、
歩三附きの一般将兵ら、
およそ五百名から成る。
玄理げんり派は腐敗国家日本を革新すべく、
多くの血盟者けつめいしゃを迎えている――

【露班O隊員アストラル】
現代日本においては、政党政治家、
財閥ざいばつ及び特権階級のいずれも、
腐敗ふはい堕落だらくはなはだしい。
国家観念をなくし、国家滅亡の、
恐れあるに至らしめたるとし、
愈々いよいよ廓清かくせいつるぎを掲げんとす――
農山漁村の窮乏きゅうぼうを見よ!
小商工業者の疲弊ひへいを見よ!
我国の現状、黙視し得ざるものあり!!

【伊班T隊員アストラル】
貴様は陸士か?
我々、玄理げんり派に加わりたくば、
次の問に答えよ!!

一、歩兵の本領ほんりょう及戦闘手段
一、軍紀について
一、軍人聖心せいしんの意義
一、国防の最良手段
一、勅諭ちょくゆの紀元
一、連隊の歴史
一、四大師しだいし
一、ファッショ
一、現代世相に対する観察

如何どうだ?
続けるぞ、次の趣旨しゅしを述べよ!

天子てんしは文武の大権を
掌握しょうあくするの義を存して
ふたたび中世以降の如き
失体しったいなからむ事を望むなり
――
貴様、貴様のような輩の存在が、
国体を減衰せしめるのだ!!

《バトル》

他二体のアストラルは姿を消していた。

【伊班T隊員アストラル】
武士もののふの道は違はたがわいつの世に
いずくの野辺のべ
つゆゆとも

義憤に燃えたアストラルが消えると、風魔を呼ぶ声がした。

【???】
FUMAサン……
こっちです、こっち……

一体のアストラルがぽつんと浮かんでいた。

【Jアストラル】
FUMAサン……
とても深いところから、
上がってきた人、MEETです――
昔、志恩しおん会の代表をされていた、
廣秦ひろはたサンです――
廣秦ひろはた伊佐久いさくサンです!
そうです……
廣秦ひろはた範奈はんなさんのお父さんです。
今、おいでです――

その言葉に誘われるように、中型のアストラルがやって来る――

【Kアストラル】
範奈はんなを……範奈はんなを知る者か?
――私は……古賀こが容山ようざん篆刻師てんこくしだ。
古賀こが篆刻てんこくを守る私は――

あああ……
ここでは自分を保てない――
私は……私は……

アストラルは揺らいでいた。

幻の五石を求め旅に出た――
自然珪じねんけい天竺瑠璃てんじくるり雌黄しおう捻綿石もんせき
玄武晶げんぶしょう――
私は多くを求めすぎたのだ。
範奈はんなが生まれる三ヶ月前のことだ――
私は……ちたのだ……

以来、私は思念を飛ばし、
廣秦ひろはた伊佐久いさくとして活動した。
志恩しおん会の一事務員にいたのだ。

アラヤ界の深くをめぐる、
孤独な念と出会ったのが始まりだ。
失われた支族を求めれば戻れる――
その念は私にそう伝えたのだ。
私はその言葉を信じて……
――ああ、だめだ、保てない!!

アストラルが大きく揺らいだ。

《バトル》

【Kアストラル】
範奈はんなを知る者よ――
範奈はんなを呼びたい。
どうかなかだちをしてくれないか。
世界の底を漂い、
私は多くを見てきた。
失ったもの以上のものを得た!!

そう言い残すとアストラルは滲むようにして消えた。

【着信 喪神梨央】
範奈はんなさんのお父さん、
アストラルだったんですね!
碑文谷ひもんや大連ダイレン依然いぜん、セヒラ観測中。
でも今は安定しています。
ひとまず帰還してください。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん、隊長が――
参謀本部から戻られました。
【帆村魯公】
玄理げんり派がいつの間にやら、
一大勢力となっておった。
【喪神梨央】
班、班と言っていました。
【帆村魯公】
うむ……
暁光ぎょうこう召喚隊を中心に班、
歩三将兵で構成する班だ。
玄理げんり派は地方出身の青年将校らの、
不満を刺激し、彼らを錬成れんせいしおった。
状況次第では蹶起けっきも辞さない、
その勢いだそうだ……
玄理げんり派は登米川轍とめがわわだちという
予備役の革命論者と接触を深めて、
革新の大義を掲げておるようだな。

ただ、常田つねだ大佐に大義などない。
覇権はけん確立を狙うばかりだろう。
将校らはうまく利用されておる――
【九頭幸則】
歩一の将兵にも、
玄理げんり派に血盟けつめいする者があると、
内偵ないてい調査が入りました。
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさんは、
政治や財閥の腐敗には、
義憤を感じないのですか?
【九頭幸則】
り、梨央りおちゃん――
いきなりふっかけるなぁ。
いや、感じなくはないけど――
天之道不而善勝てんのみちはあらそわずしてかつ――
そう言うじゃない!
【帆村魯公】
ほほう! 老子か!
ところで諸君は先の問題はどうだ?
【喪神梨央】
天子てんしは文武の大権を
掌握しょうあくするの義を存して
ふたたび中世以降の如き
失体しったいなからむ事を望むなり
【九頭幸則】
ええ、これまた何だよ!
――どっかで聞いたことあるけど……
【帆村魯公】
おいおい!
幸坊もれっきとした陸士だろ。
これは軍人勅諭ちょくゆの大事な一節だぞ。

ノックの音が響き、新山眞が姿を見せた。

【新山眞】
皆さん!
わかりましたよ!
ユンカー博士の居場所が――

ユンカー博士が体内に入れたシュタイン新山にいやまはその特有の波形を発見した。非常に弱い波形のため発見に手間取ったのだ。
ユンカー局長の弱い波動が確認されたのは、麹町こうじまち区の旧憲兵隊司令部だった。局長は裏庭の井戸で他殺体で見つかった。

【九頭幸則】
まさかな……
殺されていたなんて。
酷い有様だったようだ。
【着信 喪神梨央】
歩一の車列、
旧憲兵隊司令部に向かいます。
場所は……麹町こうじまち区です。

普段は静かな町に四両の軍用トラックの車列があった。歩一のトラックである。トラックが旧憲兵隊司令部に向けて走り出した。トラックを見送った風魔と九頭は、公務電車の待つ溜池電停へ向かう。その途中、聖宮と出会った。

【聖宮成樹】
喪神もがみさん――
京都でいろいろ調べが付きました。
私立探偵が頑張ってくれまして。

聖宮ひじりのみや九頭くずは自己紹介し合った。互いに相手のことは聞き及んでいた。

【九頭幸則】
私立探偵に依頼されたのですか?
【聖宮成樹】
ええ、信頼のおける人物です。
【九頭幸則】
京都でわかったというのは、
鈴代すずよのことですか?
ゆかりの神社から鏡を預かったという――
【聖宮成樹】
鏡のことは、試したいことがあり、
今、麻美マーメイさんという方に、
ある物を依頼しています――
実はユンカー博士には、
双子の弟がいたのです。
それが柄谷がらたに生慧蔵いえぞうなのです。
【九頭幸則】
その人は、確か……
【聖宮成樹】
戦実施計画綱領――
論文の執筆者です。
京都瑛山会えいざんかいの一員でもあります――

京都帝大の物理学者、柄谷がらたに生慧蔵いえぞう――
その手による論文が参謀本部に提出され、歩兵第一連隊に山王さんのう機関が設立された。セヒラやについて京都で管理するのが、聖宮ひじりのみやも所属する瑛山会えいざんかいなのである。
柄谷がらたに瑛山会えいざんかいの中核メンバーであった。

【九頭幸則】
その柄谷がらたに博士は日本人として、
振る舞っていたのですね?
【聖宮成樹】
やや外国人風の面立おもだちということで、
特に問題はなかったのでしょう。
出自しゅつじは明らかにしなかったようです。
【九頭幸則】
ユンカー局長の一家は、
双子の弟を日本に残して、
独逸ドイツに帰国したわけですね。
【聖宮成樹】
何か理由があってのことでしょう。
四十年ほど前のことです――
【九頭幸則】
柄谷がらたに博士は、
ユンカー局長殺害に関係している――
そうなのでしょうか?
【聖宮成樹】
何らかの関係はあると思います。
――おそらく強い確執かくしつがあった……

二十五年ほど前、生慧蔵いえぞうは渡独の際、兄ユンカーとの面会を希望した。しかしユンカーはこれを退しりぞけたのだ。

【聖宮成樹】
兄ユンカーは墺太利オーストリアの、
王立アカデミー入学への入学を控え、
独逸ドイツ政府の推薦が必要でした。
当時、日独は間接的な対立関係下、
日本にいる肉親の存在は、
ユンカーには不都合だったのです。
【九頭幸則】
四半世紀も前のことが……
今頃になって……
うーむ……あるかも知れませんね。

【聖宮成樹】
喪神もがみさん、私が山王さんのうに来たのは、
釣鐘つりがねを調整するためです。
帝都満洲のセヒラが、
一段と強くなったとのこと。
新山にいやまさんから連絡があったのです。
これより、
山王さんのう機関の方に向かいます。
釣鐘つりがねの制御を始めます。

聖宮はキビキビした所作を伴って歩き去った。そこへ着信があった――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
芽府めふ須斗夫すとおの声が記録されました。
ちょっと聞いてください――

【再生 芽府須斗夫】
……僕は会ったんだ……
彼女さ、そうさ、彼女だよ!
僕の眠りの中にセフィラが流れ込み、
その中に彼女は浮かんでいたのだ。
金雀枝えにしだ色の瞳が美しい彼女は、
千紘ちひろと名乗ったよ。
彼女は自分のことを僕と呼ぶ――
僕たちは響き合う――
彼女、そう言うんだ。
その言葉は柔らかく僕を包み込んだ。
するとどうだい――
僕の中に沈んでいた言葉が、
ゆらゆらと浮き上がったのさ!

再生音声は歪んだノイズとともに消えた。風魔と九頭は互いに顔を見合わせている。そこへ梨央がやって来た。

【喪神梨央】
兄さん!
芽府めふ須斗夫すとおが語った言葉です。
タイプライターで打ち出しました。

芽府めふ須斗夫すとおはアルファベットを語った。それを一文字ずつ大文字でタイプせよと、録音マイクに向かってそう命じたのである。

【九頭幸則】
さっぱり読めないよ――
まるで何かの暗号だね。
【喪神梨央】
私もそう思います。これは暗号です。
新山にいやまさんがお持ちの、
ナチの極秘資料ゲハイムドクメントにありました――
【九頭幸則】
ナチの……極秘資料?
そんなのがあるの?
【喪神梨央】
似た文字を見ました。
それはエニグマ暗号機でこしらえた、
暗号電文でした。

梨央りお九頭くずらとともに一旦山王さんのう機関本部へ。しかし、日枝ひえ神社境内けいだいにセヒラ観測され、風魔ふうま日枝ひえ神社へ向かった。

〔日枝神社境内〕

日枝神社の社を背に四体のホムンクルスがいた。執事型、メイド型、レーベンクラフト型、そしてユーゲント型である。そこへクルト・ヘーゲンがゆっくりした足取りでやって来た。

【クルト・ヘーゲン】
キョウトの学者ピーハディは、
私に不思議な体験をもたらした。
彼が差し出したのは、
水晶クリスタールだった――
完璧なでできている。
それを手に取り、いくら調べても、
完璧な三面体だった……
三角錐さんかくすいでも四面体となるはずだ。
この世にこのような、
美しい三面体が実在するとは……
その水晶を握りしめた瞬間、
私の血潮ちしお沸騰ふっとうしたのだ!
この一週間、
私は高みを飛翔ひしょうしている!
恐れすら一瞬で消え去ってしまう。
彼との初めての会話――
それは私が日本に着任して
間もなくの頃だった――

辺りが急に白く輝き、やがて光は失われた。暗闇の中にクルト・ヘーゲンの姿があった。何処からともなく声がする――

【???】
クルト・ヘーゲン――
君はもう苦しまなくてもいいのだよ。
【クルト・ヘーゲン】
誰だ、お前は?
私が何に苦しむというのだ?
【???】
君の忌々いまいましい過去は、
とうに過ぎ去った車窓しゃそうの景色だ。
すっかり色褪いろあせて冷えている。
【クルト・ヘーゲン】
ああ、そうだとも!
私は自分にったのだ!
【???】
自分につなどナンセンスだ。
誰もが自分を遠ざけるのだ、
そして空隙くうげきを生み出す。
【クルト・ヘーゲン】
何の話をしている?
私は逃げてなどいない!
ただ――
【???】
ただ、どうした?
憎しみをたぎらせる一方ではないか?
それでこそ君なのだ!
【クルト・ヘーゲン】
そうだ、憎しみだ。
私の憎しみは計り知れない。
ヒュドラの沼よりも底が知れない。
【???】
いいや、君には底が見えている。
それが君のおびえの全てを生み出す。
さぁ、私にゆだねるがいい――
君のたぎる憎しみの、
そのうつわを無限の大きさにしてやろう。
どんな宇宙よりも大きな器だ。
ただしだ――
【クルト・ヘーゲン】
フフフ――
交換条件があるのか?
いいだろう、言ってみろ。
【???】
簡単なことだよ。
多くの部下たちに指示を出す、
ただそれだけだ。

〔日枝神社〕

四体のホムンクルスを従えるような位置にクルト・ヘーゲンは立っていた。その目は風魔を見据えているようであり、また風魔を透かしてみているようでもあった。

【クルト・ヘーゲン】
セフィラは超低温、真空状態で、
五億倍という高濃度に凝縮ぎょうしゅくする。
フェラーの法則と呼ばれる現象だ。
圧縮セフィラはセフィラ光を発し、
それを八枚の純鏡シュピーゲルで反射させる。
セフィラ光はますます輝く!
その光を一気に放つのだ。
ユルゲン・フェラー博士の指導で、
完全なる大型波動グローサベッレが完成した。
これからもミヤケザカから、
継続的に大型波動グローサベッレが発せられる!
私のは成功したのだ。
さぁ、配下の者どもよ!
真の実力を見せてやれ!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です……
でも、日枝ひえ神社ではありません!
セヒラ、帝都中で上昇しています。
おそらく帝都満洲から流れている、
そう推測されます!

目の前の四体のホムンクルスにアストラルが現れた。四体は身じろぎ一つしない。

【クルト・ヘーゲン】
どうした!
何があった!
アプドロックが消えたのか!!
くそっ!
こうなったら私が試す!
大型波動グローサベッレ、私も受けたのだ!!

《バトル》

四体のホムンクルスの姿はなかった。

【クルト・ヘーゲン】
アハハハハハ~
私は負けていない!
そうだ、戦いの勝敗ではない!
こうしたみっともない戦いが、
私の憎しみをより大きくする!
お前には感謝せねばな!!

そう言い放った後、クルト・ヘーゲンはややふらつきながら境内けいだいを後にした。

【着信 喪神梨央】
殿下が釣鐘つりがねを……
釣鐘つりがねを調整されたようです。
現在、帝都のセヒラは高い値ながら、
安定しています。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
帝都満洲に、
強いセヒラがあるようです。
それって――
範奈はんなさんのお父さん……
そうじゃないでしょか?
古賀こが容山ようざんという日本的な名前でした。
【式部丞】
喪神もがみさん――
先程の芽府めふ須斗夫すとおの録音ですが、
彼は覚醒かくせいしたまま話したようです。
そして――
千紘ちひろと会った、そう言いました。
彩女あやめ君の第二人格です、千紘ちひろは。
響き合う――
彩女君も同じ台詞を語りました。
【喪神梨央】
夢の中で会った、
そんなようなことでしたよ。
【式部丞】
夢……あるいは自失した先。
帝都満洲かも知れませんね。
先の予言、ヒククアケ――
近く日本の古文書こもんじょ研究の先生が、
セルパン堂においでになります。
そのときに意味がわかるでしょう。
エニグマ暗号の方は、
新山にいやまさんに任せるしかなさそうです。

瑛山会えいざんかい柄谷がらたに生慧蔵いえぞうはユンカー局長の双子の弟であった。
兄の死に関わった恐れのある弟――
彼はまたクルト・ヘーゲンと取引をし、帝都に無益な戦いをもたらそうとした。柄谷がらたに生慧蔵いえぞうの目的とは果たして何であろうか?

第八章 第八話 交錯する思惑

魯公ろこうめいを受け、中野電信第一連隊気象部に、こよみの話を聞きに出かけた九頭くずであったが、班長が出張中とのことで不発に終わった。
今回、その班長から、折り入って相談があると連絡があり、公務後、風魔ふうまは九頭に同行することになった。

〔新井薬師〕

【九頭幸則】
風魔、あの人だよ、気象部の。
確か車折くるまざきという技手ぎてだ。
行ってみよう。

夕闇迫る新井薬師。香炉の前に気象部の技手らしき人物がいた。

【九頭幸則】
お待たせしましたか……
車折くるまざきさん、お一人ですか?
折り入っての話とは何でしょう?
車折くるまざき技手】
それは班長から申し上げます。
間もなく来ると思います――
先に冬至とうじの件ですが、
今年の天体画報てんたいがほう一月号にあります。
【九頭幸則】
年初ねんしょに発表があるんですね。
車折くるまざき技手】
ええ、計算で全てわかります。
今年の冬至とうじは十二月二十三日、
午前三時三十七分です――
太陽の位置、黄経こうけい二百七十度、
帝都の日出ひので六時四十七分、
日入ひのいり四時三十二分となります。
冬至とうじにおける太陽の赤緯せきい
赤道より最南の二十三度二十七分、
南中なんちゅう高度も最低となります――
【九頭幸則】
あの……
わかりました、二十三日ですね。
冬至とうじは十二月に十三日ですね。
車折くるまざき技手】
実はもう一つ、
大事なことがあるのです。
【九頭幸則】
どんなことですか?
車折くるまざき技手】
今年、五度目の日蝕にっしょくが起きます。
十二月二十六日にです。
【九頭幸則】
え?
――日蝕にっしょくって、年に何度あるのです?
車折くるまざき技手】
普通は三度、多くて四度です。
年に五度などまずありません――

グレゴリオ暦が採用されるようになってから、年に五度の日蝕にっしょくは一八〇五年以来だと言う。十二月二十六日の午前二時十八分から、同三時四十一分にかけて皆既蝕かいきしょくが起きる。場所は南極である――

そこへ年長の男性がやって来た。

鹿王ろくおう班長】
なかなか軒昂けんこうのようだね、車折くるまざき君。
車折くるまざき技手】
はっ!
五度目の日蝕にっしょくについて、
説明しておりました。
鹿王ろくおう班長】
――今年は実にまれな年だからな……
申し遅れました、
電信第一連隊の鹿王かおうです。
出張で京都に行っておりました。
【九頭幸則】
歩一の九頭です。
こちらは特務の喪神もがみ中尉です。
それで班長、
折り入っての話とは何でしょうか?
鹿王ろくおう班長】
冬至とうじについて問い合わせがあった――
車折くるまざき君から連絡を受けましてね、
妙な符号もあるものだと……
【九頭幸則】
冬至とうじのことはうかがいました。
十二月二十三日です。
鹿王ろくおう班長】
私が京都に呼ばれたのは、
ある古文書こもんじょこよみのことがあり、
その鑑定を行っていたのです。
【九頭幸則】
――古文書こもんじょ、ですか?
鹿王ろくおう班長】
ええ、京都の紫水しすい会館、
そこに収められている古文書こもんじょです。

ヒトツノ アラカニ 
ワタラシテ ツマル

【九頭幸則】
何ですか、それは?
まるで呪文ですね。
鹿王ろくおう班長】
おそらく太陽の運行です、
それについての言葉かと。
ツマル、すなわち行き詰まるのです――
車折くるまざき技手】
班長、自分もそう思います。
ヒトツノは最初で最後、
つまり冬至とうじですよ。
太陽が冬至の位置まで行き、
そこから戻してくる、
その様子を語っているのです!
鹿王ろくおう班長】
もう少し研究を続けます。
紫水しすい会館は参謀本部からの依頼で、
古文書こもんじょ紐解ひもといたらしいです。
二方ふたかたと関係があるのでは?
そう思い、お呼び立てしました。
【九頭幸則】
わざわざ有難うございます。
解読が済めば教えてください。
鹿王ろくおう班長】
あはは、そうですね――
おそらく紫水しすい会館からじかに、
連絡が行くと思います。

鹿王班長はそう言い残して歩き去った。班長を見送ることもせず、車折技手は喋り始めた。

車折くるまざき技手】
自分、昨年二月の日蝕にっしょくでは、
コロナグラフを用いた観測を行い、
おおいに成果を上げました。
【九頭幸則】
去年もあったんですか、日蝕にっしょくが?
車折くるまざき技手】
はい、私たちは南洋庁トラック支庁、
ローソップ諸島レオール島に上陸、
二月十四日の蝕観測しょくかんそくでした!
海軍技研、逓信ていしん省電気試験所、帝大、電信第一連隊、各自観測小屋をもうけ、
各班平均十分二十八秒の観測!!
【九頭幸則】
大丈夫ですか、車折くるまざきさん……
車折くるまざき技手】
ヒィィィィィ~
イーストマン五十番の乾板かんばんで三枚、
四、八、十二秒の露出で撮影を試み、
すべて成功したのです!
レンズ口径こうけいは十三センチ
焦点距離は十一・五メートル
インフォード・パンクロマティック!!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
探信儀たんしんぎを使ってください!
車折くるまざき技手】
海軍はアインシュタインカメラ、
水平鏡すいへいきょうにて光を導く仕組み!!
レンズ口径二十センチ、焦点距離はぁ~

《バトル》

車折くるまざき技手】
アインシュタイン効果を確かめる、
その目的で撮影したのです――

【九頭幸則】
やれやれ……
技手ぎてまでが怪人化する――
この場所がよろしくないのか?
まぁ、冬至のことはわかったな。
五度目の日蝕にっしょくは新発見だった。
それにしても――
京都の古文書こもんじょが冬至に触れている、
それは参謀本部の指示で紐解ひもといた……
これは隊長に確認するほかないな。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
アーネンエルベのユンカー局長が、
どうやら失踪しっそうしたようです。
独逸ドイツ大使館にて、
金ノ七号帥士きんのしちごうすいしと合流してください。
それと……
一般中尉は隊へお戻りください。
【九頭幸則】
何だ、内輪揉うちわもめでもあったのか?
風魔ふうま、俺は帰るとするよ――
三宅坂みやけざかまで公務電車で送ってくれ。

〔アーネンエルベ〕

アーネンエルベ集会室には、虹人とユーゲントがいた。

【帆村虹人】
風魔ふうま、来てくれたんだな。
梨央りおに連絡したのは僕だよ――
ユンカー局長のこと、
ユリアが気をんでいるよ。
この一週間、姿を見ないらしい。
大型波動グローサベッレの使用をめぐって、
ユンカー局長とヘーゲン召喚師、
激しく対立していたからな……
配下のホムンクルスを一斉いっせいに操り、
総攻撃体制を作る――
それがヘーゲンの狙いなんだ。
【祇園丸】
彼は僕たちをかたきにしているんだ。
仲間のことが心配だよ――
【帆村虹人】
猟奇倶楽部の面々のこともある。
連中、あきらめが悪そうだ。
【祇園丸】
僕は西京極丸にしきょうごくまる香腺こうせんから、
短期記憶を得たんだ。
それに従って出かけた――
ヨツヤミツケで記録が途絶えた。
でもわずかな痕跡こんせきを頼りに、
北へ移動したんだ。
【帆村虹人】
それで戸山とやまに向かったんだよな。
でも作られた記憶のおそれがある、
君はそう言ったよね、祇園丸ぎおんまる
【祇園丸】
ヨツヤミツケから先のこと、
捏造ねつぞうされたものかも知れないんだ。
それで僕は動けなくなった――
【帆村虹人】
ユンカー局長とヘーゲン召喚師、
二人を銀座で見たって話したよな。
ユンカーを尾行したことも。
円タクは四谷見附方面に向かった。
探信儀たんしんぎの空白地帯の中心……
信濃町しなのまち界隈かいわいがそれに当たるんだ。
【祇園丸】
シナノマチに猟奇倶楽部がある、
その可能性は十分にあると思うよ。
僕が北にさえ行かなければ……

そこへユリア・クラウフマンがやって来た。その顔にはかげりがあった――
ユンカー局長の所在がわからなくなり、ユリア・クラウフマンが代表代理として、アーネンエルベに戻っていた。

【ユリア・クラウフマン】
西京極丸にしきょうごくまる、つまりユーゲントと、
拉致らち殺害犯のヘルマンを繋ぐのは、
唯一、ユンカー局長です。
【帆村虹人】
局長はヘルマンと交際があった、
そういうことなの?
【ユリア・クラウフマン】
フーマ……
以前、フーマは局長と戦った、
そうですよね?
局長、シュタインを入れていたのです。
執事型と同じ八石です。
執刀したのがヘルマン医師でした。
局長はシュタインに召喚の力を求めたのです。
本来、召喚師ではありません。
【帆村虹人】
それじゃ局長はヘルマンから、
ユーゲントのことを聞いた、
そういうわけなんだね。
【ユリア・クラウフマン】
ヘルマンは西京極丸にしきょうごくまるを、
猟奇倶楽部に誘い出し拘束こうそくした、
そう考えるのが妥当だとうですね。

【帆村虹人】
もしかしてユンカー局長も、
猟奇倶楽部の会員だったのか?
【ユリア・クラウフマン】
どうでしょうか?
コージンがギンザで見た局長、
本当に本人でしたか?
【帆村虹人】
洋食屋ブレーメから出てきたんだ、
ヘーゲンと一緒に……
楽しそうに笑いながら……
銀座にいたのが、
ユンカー局長じゃないとすると、
一体、誰なんだろう?
【ユリア・クラウフマン】
ユンカー局長になりすました誰か、
そういうことじゃないでしょうか。

フーマ、私、祇園丸ぎおんまると出かけます。
銀座のブレーメで話を聞いてきます。
局長の写真を持って――
局長はユーゲントと同じ、
新型のシュタインを入れていたのです。
フェラーが開発に成功したシュタインです。
シーナの方に落ちた隕石でできた
不思議なシュタインなのです。
普通のシュタインとは違うのです。
彼が黒幕にも思えてきました。
父の元助手だった人物が――

そう言うとユリアは踵を返した。祇園丸が後に続く。

【帆村虹人】
僕が銀座で見たのは、
まごうことなくユンカー局長だった。
でもヘーゲンと談笑するのは変だ。
引っかかるのは……
ユンカー局長はどうして、
自分にシュタインを入れたのかってことだね。

独逸ドイツ大使館を出たところで着信があり、青山で怪人の通報があったという。風魔ふうまは夜の青山通へ向かった。

〔青山街路〕

【角筈の女学生】
お友だちの忌子いみこさんち御暇おいとまして、
若松町の電停におりましたところ、
足元に光るものがありますの。
それは大ぶりの指輪でした。
巡査に届けようと拾ったのですが、
そうしないほうがいい気がして――
こっそり持ち帰りましたの。
その夜から、もう四日も眠れず、
こうして彷徨さまようんですの!
アハハハハハ~

【着信 喪神梨央】
二探が若松町のセヒラを観測!
指輪の波形です、仮面の男の!
さらに観測を続けます!

【池尻のワニス商】
うちは池尻なんですがね、
三宿の砲兵連隊のわきをよく通る――
せんだってもカミさんが歩いていると、
へいそば舶来はくらいの指輪が落ちていたと。
人気もない通りだったので、
指輪、ネコババしたそうな!
指輪を触ったカミさんの指、
真っ白に血の気がせてですね、
あれは軍の新物質か何かですか?
次の日、カミさんが家を出て……
私もこうして歩き回るんです!

【金杉橋の漁師】
新堀の路地ろじで皆が騒ぎよる。
何かと思うとほりに魚が浮かぶ。
何十匹も白い腹見せてな。
んでほりの底見ると何かがあるわい。
それはそれは綺麗きれいに光っちょる。
わしが潜って取ってきちゃる、
そうして潜ったんじゃがな、
不意ふいに目の前が真っ暗に――
気を失ったわしが次におったのは、
市電の中じゃな、六番の電車じゃ。
このなりで乗っちょる!
六本木ろっぽんぎちゅう電停で降りて、
もう五日も歩き回りよるわい!!
ブヒャヒャヒャヒャ~

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
霞町界隈かすみちょうかいわいで弱いセヒラです。
巡視パトロールお願いします。

〔霞町街路〕

【神田橋の法科生】
殿垣とのがき教授の研究室に、
輝く大きな指輪があった。
指輪を残し教授は忽然こつぜんと消えた――
机の上になぐきのメモを残して。
遊動神殿ゆうどうしんでんたる聖幕屋せいまくや、長さ三十キュビト、高さ十キュビト、幅十キュビトにてもうけるべし。
金張りの四十八枚の合歓木アカシヤの板を、交互こうごわせて、銀の足台の上に立てるべし――
メモにはそうあったよ。

【長者丸のご隠居】
先週、庭いじりをしておったら、
土中に指輪が埋まっておった。
掘り出すと土ひとつ着いておらん。
まっさらけのけだったわい。
不思議なこともあるもんじゃ!

【初台の羅紗商】
工業試験場の正門前にね、
指輪がぽつんと置いてあったって。
姉はそう申してましたの――
指輪は交番に届けたって、
けど姉はうそ付いたのです。
姉の鏡台にありましたわ、指輪!
翌朝、姉は古い魚みたいな顔で、
死んでいました。
カルモチン三百じょうも飲んだのよ。

【着信 喪神梨央】
観測したセヒラは今の人です。
でもまだ怪人じゃないですね――
それより金杉橋かなすぎばしでセヒラ観測です。
他の場所でも観測します――
新山にいやまさんに変わります!
【着信 新山眞】
若松町、三宿町みしゅくちょう金杉橋かなすぎばし――
いずれも指輪の波形を観測します。
三箇所を繋ぐと三角形ができます。
神田橋かんだばし長者丸ちょうじゃまる初台はつだい――
三角形、もう一つできます。
二つ重ねで六芒星ろくぼうせいが描かれます!
以前、仮面の男が描いた三角形、
あれより強い力を持つようです。
あの時は思念増幅器でこしらえた結界を、
仮面の男に破られました。
今回、指輪で何を目論もくろむのか――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
急にセヒラ観測しました。
青山墓地方面です。

〔青山墓地〕

【淀屋橋の寒暖計商】
あんさんらが、
おかしなことしたさかいにやな、
商売上がったりでんがな!
晴雨計せいうけい売りのコッポラちゅうのが、
余計なあやかしモン売りよるさかい、
ワテの寒暖計かんだんけいかてあやかしやろ!!
そう言われて、どえらい迷惑や!
ワテのはな、列氏れっし測りまんねんで!
レオーメルの列氏れっしでんがな!
摂氏せっしとも華氏かしともちゃいまっせ!
列氏れっしや、沸点を八十度で見まんねん。
独逸ドイツ墺太利オーストリアやと常識でんがな!
皆皆皆皆皆、列氏れっしやねんで!!

《バトル》

【淀屋橋の寒暖計商】
商売上がったりで、
ホンマ、もう、キーですわっ!
【着信 喪神梨央】
セヒラ、更に上昇しています!
注意してください!!

怪人が倒れて消えた後、青山墓地の薄暗闇から先程会話した3人が現れ、三角形の陣形を取る。角筈の女学生、池尻のワニス商、金杉橋の漁師の3人だ。
そして同様に次の3人が姿を見せ、先の三角形に重なるように陣形を取った。神田橋の法科生、長者丸のご隠居、初台の羅紗商――
二つの三角形の辺にセヒラが集まりはじめ、丁度六芒星の形を現した。
辺りのセヒラ濃度が急上昇する。梨央の観測を待たず、高濃度セヒラに包まれて風魔は時空の狭間へと飛んだ。

〔時空の狭間〕

正面に宙に浮くようにして仮面の男がいた。

【仮面の男】
君はどこへ向かおうというのだ?
それとも何かから逃れるのか?
それは何だ?
教えてくれてもいいだろう……
――黒焦くろこげになった姉の亡霊ぼうれいかね?
ウハハハハハ~

おびえる者はいつも走っている。
我らがクルト・ククックかっこう・ヘーゲン、
泣き虫大公、嘘つき元帥げんすい
お尻のえくぼの可愛い殿下!
クルトは憎しみのシュトラーセを走っている。探して相手をしてやって欲しい。
――君も走ってはどうかな?

そこまで言うと、仮面の男は濃いセヒラに包まれて姿を消した。
気が付くと風魔は赤坂哈爾浜にいた。

〔赤坂哈爾浜〕

【着信 喪神梨央】
高濃度のセヒラが一時に現れました。
帝都満洲に移動したのですね……
帥士すいしを赤坂哈爾浜ハルピンにて確認しました。
その赤坂哈爾浜ハルピンですが、
以前と町の繋がりが変わっています。
注意して進んでください。

【召喚小隊T二等兵アストラル】
隊長は……
暁光ぎょうこう召喚隊の一五市にのまえごいち隊長ですが……
おかしいです……
名前がスラスラ出てきます!
これまでイニシャルだったのに!
自分はちなみに……Tです……
ああ、自分の名前はダメですね。
はい、一五市にのまえごいち隊長のことです、
歩一で大きな演習のあった日、
慌ただしさにまぎれてのことです。
私たち同行しました――

【召喚小隊H二等兵アストラル】
にのまえ隊長の目的は、
歩一に確保されていた月詠つくよみ麗華れいかです。
隊長は月詠麗華に、
鬼龍きりゅう大尉が帝都にいることを
話していました。
大尉にはこの帝都で重要な用がある、
そういうことのようでした。
それで京都から戻られたのです。

【召喚小隊A軍曹アストラル】
鬼龍大尉は独逸ドイツ留学時代に、
トゥーレのやかたという秘密結社に、
身を寄せておいででした。
大尉はそこで召喚師として、
腕をみがき、帰国されたのです。
そのトゥーレの館が、
この帝都にも開かれるというのです。

【召喚小隊G曹長アストラル】
鬼龍大尉は心を開かれません。
ただし、御荷鉾みかぼ大尉は例外でした。
お二人は京都の師団時代から、
同じかまめしを食った仲とのことです。
その御荷鉾みかぼ大尉を感じます――
すぐ近くにおいでのようです。

すぐにひときわ大きなアストラルがやって来た。他のアストラルたちは一斉に退避した。

【歩一M大尉アストラル】
あの女は化物だ!
月詠つくよみ麗華れいかだ、化物だ――
あの女が私をここに飛ばした。

鬼龍きりゅうと私は京都の十六師団にいた。
といっても輜重兵しちょうへい第十六大隊だ。
駄載ださいは何キロなんだと冷やかされ――
鬼龍はそういう境遇きょうぐうが不満で、
審神者さにわ術武じゅつぶに精を出していた。
奴は相当のめり込んでいた……
上京区かみぎょうく相国寺しょうこくじの北にある道場、
奴はそこに通いつめていた――
東雲流の山郷武揚が開く道場だ。
雑誌広告を使い良家の子女を集めた。
鬼龍は師範代として活躍した。

奴の独逸ドイツ行きは寝耳に水だった。
正直、羨ましかった。
独逸は私の第二の故郷だからだ――
独逸ドイツで習得した召喚術が、
まだまっとうできないのは、
審神者さにわ素養そようが邪魔をする――
奴はそう考えている。
審神者さにわ奥義おうぎを継ぐ者はいないか、
懸命けんめいに探していた。
ある日、奴は気付くんだ。
奴の流派、東雲しののめ流の宗家そうけにこそ、
素養そよう持つ人物がいると。
奴は機根きこんとか、そんな言葉を使い、
その人物を確かめようとしていた。
それが如月きさらぎ鈴代すずよという女性だ――

そんな鬼龍と私の間柄あいだがらを聞き付け、
月詠麗華が私を尋ねてきた。
まるで郷里きょうりの妹のようにして。
私はこばんだのだ、話すのを。
鬼龍の詳細について話すのを。
答えられない、そう言ったのだ――
あの女は私を睨みつけるや、
背後から紫色の光を放った!
その直後、私は飛んだのだ!!
現世の私はどこにいる?
先程、神田川かんだがわらしきが見えた――
私を戻せ、戻すんだ!!

《バトル》

【歩一M大尉アストラル】
はぁはぁはぁ……
せめて鬼龍が私のようにならぬよう、
つとめるのが貴様らの役割だ!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし……
何か特異な波形を観測します。
――巡視パトロールを続けてください。

〔キタイスカヤ街〕

そこは帝都満洲とは様相ようそうことにしていた。帝政露西亜ロシア時代に築かれた哈爾浜ハルピン、キタイスカヤの街並みである。
露西亜ロシアバロックの町並みを背にクルト・ヘーゲンが呆然と立っていた。まるで見当識を失ったかのように――

【クルト・ヘーゲン】
お前は!!

ううう……
くそっ!
――ここは……どこだ……
異世界のことは知っていた――
ここが、そうなのか?

ウハハハハハ~
大型波動グローサベッレを何度も発して、
現れたのがこのロシアの辺境か!

うう……
ここの空気は合わないな!!
――セフィラ異常はどうなった?
大型波動グローサベッレ戦を常態化じょうたいかさせ、
やがて顕現けんげんさせる計画だ。
日本人の大勢が犠牲ぎせいになる――
トウキョウ中が戦場となり、
を降ろし、市民にけしかける!!

このような場所が現れるとは、
実現はまだ先のようだな!
市民の犠牲は計画の問題外だ。
百人の死は悲劇だが、
一万人の死は歴史だ。
私たちは歴史を作るのだ!!

《バトル》

【クルト・ヘーゲン】
犠牲は……必要なのだ……
うう……まだ血の臭いがする――
だが、これもすぐに消えるだろう!
私は超えたのだからな!!

クルト・ヘーゲンは膝を折り、そのままゆっくりと姿を消した。まるで空間から消し去ったかのように。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
現在位置が確認できません――
先程ユリアさんから連絡があり、
同行ユーゲントの波形、
同定できました。
このシュタインにはジリエンヌマーが……新山にいやまさんに尋ねると、
通し番号のことだそうです。
ユンカー博士のシュタインの波形、
予測できるかも知れません。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
ユリアさんが祇園丸ぎおんまると一緒なので、
その波形、正しく確認できました。
同じシュタインならユンカー局長の居場所も、探信儀たんしんぎで観測できそうです。
ヘーゲン召喚師が言うような
何百ものセヒラ異常はありません。
【帆村魯公】
アーネンエルベは、
秩序ちつじょが崩壊しておるのか?
この件は参謀に上げるほかない。
セヒラ異常を起こして、
そこへを降ろすなど、
聞いたことがない。
梨央りお、本当に異常はないのだな?
【喪神梨央】
ええ――
ただ、帝都満洲に妙な波形が……
兄さん――
さっきの場所とも関係するかも……
くわしく調べてみます。

大型波動グローサベッレを連発することで、何百ものセヒラ異常を招こうとしたものの、その目論見もくろみは失敗に終わったようだ。
しかし、その影響なのか、帝都満洲に現れた、哈爾浜ハルピンキタイスカヤの町並み――この意味するところはまだわかっていない。