第九章 第十三話 東京黙示録

12月25日、先帝祭で祭日であった。
ホテルでは午後の早い時間に人払いされ、従業員も宿舎に待機となった。
溜池通には軍用トラックが二台停められ、数人の立哨が警備に付く。

クリスマスパーティは中止となり、
客のないロビーに飾りがむなしく輝いていた。

そして皆が案じている
虹人こうじん行方ゆくえ――
数百年の時を越えた思念の繋属けいぞくが、虹人の中に白金江しろかねこうを形成するに至った。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
虹人さん――
この時間になっても、
波形も全然観測されません!

隊長……
虹人さんは自分の中に白金江の
姿を見ていたんでしょうか?
【帆村魯公】
何かしら感じておったに違いない。
だが受け入れはしなかった――
虹人と名前を変えたわけだしな。
【喪神梨央】
こうって言う名前、
お父様がお付けになったんですね。
【帆村魯公】
そうだ……
変わり者の親父だ。
親父は虹人が生まれて半年ほどで、
姿をくらませてしまった。

ノックの音とともに九頭が姿を見せた。

【九頭幸則】
歩一の九頭くずです。
先生、隊の方で、
小耳に挟んだことがあって――
【喪神梨央】
虹人さんの行方でも、
わかったんですか?
【九頭幸則】
いや、そうじゃないんだ。
鈴代の叔父おじ山郷やまごうの方に、
内偵の入った形跡があると――
【帆村魯公】
ほう!
さては内務省でも動いたかな――
【喪神梨央】
殿下の仰っていた有澤機関、
あそこじゃありませんか?
だとすると――
【九頭幸則】
拠点はセルパン堂、だよね?
休暇の准尉じゅんいに行かせたよ、
目立たぬように平服でね。
【喪神梨央】
セルパン堂にですか?
式部しきべさん、いなくなったんですよ。
【九頭幸則】
梨央りおちゃん、裏切られたみたいで、
怒ってる?
【喪神梨央】
あまりいい気はしません。
私たちのことも探っていたんです!
身内のように思っていたのに――
【九頭幸則】
でも敵というわけでもなさそうだ。
准尉じゅんいがこれを持って帰った――

【帆村魯公】
これは芭蕉ばしょうの句だな。
漁火いさりびかじかなみしたむせび――
【喪神梨央】
かじかって魚ですよね?
鳴いたりするんですか?
――むせぶって……
【帆村魯公】
昔、かじかかわずの区別がなくてな、
かじかは鳴き声を立てると思われていた。
漁火に驚いたりしてな。

そういや梨央、
前に鰍沢かじかざわの話、なかったか?
【喪神梨央】
ありました!
赤坂哈爾浜ハルピンのお熊アストラルです!
それと――
式部さんも鰍沢かじかざわの落語聞いたと、
そう話していました。
【九頭幸則】
この俳句は、
何か意味を含むのかなぁ……
入口の引き戸にしてあったそうだ。
【帆村魯公】
うむ……
鰍沢かじかざわちなむ場所は何処どこだ?
甲州か――
【喪神梨央】
そうです、甲州きっての急流です。
吉原女郎だったお熊は……
【九頭幸則】
どうしたの、梨央ちゃん?
【喪神梨央】
お熊は心中にしくじって、
しばらく品川溜めに置かれます――
【九頭幸則】
それじゃこのカードは、
品川にいざなってるんじゃないのか?
そうだよ、風魔!

【喪神梨央】
どうしますか?
品川に怪人の報告はありませんが。
それにそろそろ日も暮れます。
【帆村魯公】
構わん!
梨央、公務電車の手配だ。
中尉も同行してくれ!
【喪神梨央】
承知しました!
品川まで手配します!

【九頭幸則】
行こう、風魔、
何があるかわからんが――

〔吉原遊郭〕

式部しきべの残したカードにヒントを期待して、九頭くず風魔ふうまは品川遊郭ゆうかくへ。
遊郭一帯は物々しい雰囲気だった。軍用トラックが何台も停まり、憲兵や兵が方々に展開している。

【九頭幸則】
何だ、騒然そうぜんとしているなぁ――
それにこの憲兵らはどこから……

【死骨崎憲兵中尉】
おい、貴様!
ここで何をしている!
【九頭幸則】
そっちこそ……
これは公務なのか?
【死骨崎憲兵中尉】
なんだと?
公務だとぉ?
俺達の公務なんざ、
とっくに終わってるんだ!
擅権せんけんの大罪など関係ないわ!!

そう言うなり憲兵は脱兎のごとく走り去った。

【九頭幸則】
どうやらめいあるわけじゃなく、
勝手にいきり立っているようだ。
――それにしても……

何だ、この甘い匂いは……
どこかで嗅いだことあるぞ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測しました!
すぐ近くです!

そこへ太った将校らしきが駆けて来た。右の肩章は大尉だが左には少佐のを付けている。

【地獄谷上級大佐】
無念だ、無念だ!
せっかく上級大佐まで上り詰め、
これからだと言うのに!

貴様らは悔しくないのか!
【九頭幸則】
じょ、上級大佐ですか?
――まるでナチのようです。
【地獄谷上級大佐】
うるさい!!
我が帝国陸軍はナチなどではない!
神洲大八洲しんしゅうおおやしまから世界をべる、
選ばれし神民の軍隊だ!

その最たるは東京ゼロ師団!
またの名をゼームス師団――

国立防疫研究所――
戸山砲工学校――
渋谷憲兵大隊――
全ては泡沫うたかたの夢であったか――
【九頭幸則】
わかってますよ、大尉。
すべては魔の力で仮構されたもの、
この甘い匂いとともにね!
それを泡沫うたかたとは――
随分とロマンチストですね!

【地獄谷上級大佐】
地獄谷じごくだにの名を得た夜、
私は生まれ変わったのだ!
う・ま・れ・か・わ・っ・た!
【九頭幸則】
地獄谷……
こりゃすごい名前もあったもんだ。
(風魔、気を付けろ、相当なもんだ)

【地獄谷上級大佐】
どうせちるところは同じだ、
貴様らを道連れにしてやる!!

《バトル》

【地獄谷上級大佐】
……荒川の……
帝国……モスリン……
あすこだけは――

――うっ
【九頭幸則】
帝国モスリンの他はどこだ?
まだあるんだろ、工廠こうしょうが!
――おい、答えろ!
【地獄谷上級大佐】
――

謎の将校は斃れ、そのままセヒラと化した。

【九頭幸則】
山本――
少尉だが同輩の付き合いだった……
奴は近づきすぎたんだ。
帝国モスリンに――

いや、違う!
工廠こうしょうにだ!

そして――
工廠こうしょうはまだ他にもある!
だが……場所はわからない――

そこへ芸者がしなを作りながら歩いて来た。

【品川芸者幾松】
四谷からお越しのお二人様かしら?
【九頭幸則】
四谷?
――あ、ああ、そうだ、四谷だ。
ここから来た。

九頭は咄嗟とっさにセルパン堂にあった、式部の残したとおぼしきカードを見せた。
それを見た瞬間、芸者は体を硬直させた。わずかに震えてもいる。

【品川芸者幾松】
嘘と誠の二瀬川ふたせがわ
だまされぬ気で~
だまされて~

妖艶な声で端唄はうたを愛唱すると、芸者幾松いくまつうつろな表情となった。
そして別な言葉を口ずさみ始めた――

【品川芸者幾松】
山郷やまごう、甲府にて甲斐絹かいきを扱う、
屋号は山郷絹糸けんし
最寄りは富士身延みのぶ鉄道
金手かねんて停留所――

芸者は報告書を読むような口調で、
山郷についての調べを述べた――

芸者は音もなく消えた。

【九頭幸則】
芸者は暗示をかけられた――
そんな感じだよな。
山郷側調査の内容を、
芸者に覚えさせてあるようだ。
これじゃ漏洩ろうえいは難しそうだな。

そこへもう一人、芸者が現れた。そして端唄の調子を披露した。

【品川芸者稲貞】
青いガスとう 斜めに受けて~
白い襟足えりあし 夜会巻き~

芸者は新京シンキョウに在る山郷の取引会社、柞蚕糸さくさんし問屋の満蒙絲線まんもうシーチェンについて語った。
山郷は社長の好文海ハオウェンハイに取引を持ちかけている。

芸者は音もなく歩き去った。

【九頭幸則】
柞蚕さくさんが不良で新京シンキョウハオ社長は困り、
山郷は甲斐絹かいきを調達したそうだ。
おかげで急場をしのげたと――

その見返りに山郷は、
太古たいこに北支に落ちた隕石いんせきをもらう。
その隕石をどうするつもりだ?

また一人、芸者がやって来た。またもや端唄の調子だ。

【品川芸者菊丸】
お前とならば どこまでも~ 
箱根山はこねやま 白糸滝しらいとたきの中までも~

芸者曰く、山郷は隕石いんせきの力で麗華れいかに深い霊異りょういをもたらし、その力を利用して支族末裔まつえいの思念を呼ぶ――
山郷はどこまでも
力に固執していたのだ。

芸者が去った。

【九頭幸則】
山郷は麗華さんに何をしたんだ?
それに……
どうやって麗華さんを呼び出した?
泣く子も黙るあの関東軍が、
麗華さんを保護していたんだろ?
容易よういには手出しできんぞ――

またもや芸者が来る。

【品川芸者市若】
雪はともえに降りしきる~ 
屏風びょうぶが恋の仲立ちに~

端唄に続けて芸者は、東雲しののめ流に伝わる香合こうごうは、互いに瑞祥ずいしょうを現すのだと語った。芸者にたくされた言葉はこれが最後であった――

芸者は遊郭の路地を歩いて行った。

【九頭幸則】
麗華さんに協力お願いすれば、
山郷の香合こうごう瑞祥ずいしょうを表して、
それで居場所がわかるはずだ。
麗華さんは鈴代がかくまっている、
そうだよね?

俺、鈴代の家に行ってくる!
瑞祥ずいしょうとやらが現れたら、
そこが山郷の居場所だ、
急ぐんだぞ、風魔!

九頭くず鈴代すずよの家に円タクを飛ばした。
二つのアルツケアンを取り込んだことで、古式東雲しののめ流の奥義おうぎ会得えとくした麗華――
まだ強い霊異りょういを現すには至らないようである。

【着信 喪神梨央】
先程、紀伊国坂きのくにざかで、
芽府めふ須斗夫すとおの身柄が確保されました。
麹町こうじまち署の巡査にです――
機関本部で山王さんのうホテルに部屋を取り、
今はそこで休んでいます。
独逸ドイツ大使館で名前を思い出し、
その後の意識がないそうです。
大使館からは一キロ少々です……
彼は歩いてきたと思われますが、
紀伊国坂きのくにざかで車から降りた、
そんな目撃もあるのです。

ホテルの屋上から、
瑞祥ずいしょうを探しますがまだ見えません。
見つかり次第しだい、連絡入れます。

東雲しののめ流の霊異りょういしずまっている。
しかし受継がれた香合こうごう瑞祥ずいしょうを現すという。
それは空に差す霊光として現れるのだ。

果たして瑞祥ずいしょうは現れた。
山王さんのうからほぼ東の方角、銀座の辺りに霊光が差したのだ。

夕の空に現れた瑞祥ずいしょうを手がかりに、銀座方面へ公務電車を走らせる。
四丁目を過ぎたところで電車は停止した。

〔銀座街路〕

銀座の電車通には異様な光景が広がっていた。大通の中央に巨大な繭玉がいくつも重なり、巨大な一つの塊を為していた。黃灰色の繭玉は、むっとするような熱気を発していた。

市電は通行止めとなり、車も止まらされていた。京橋署の巡査が総出で物見遊山の市民を押さえ込んでいた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
幾つもの波形を観察します。
まだセヒラはありません――
波形の数、尋常ではないのです!

脇の路地からスーッとレンザが現れた。

【吉祥院蓮三郎】
風魔ふうまさま――
あれは何でございましょうか?
私、不思議な感覚がしたのです。
それを頼りにここへ来ました。
そうしたらあのようなものが――
さしずめ、まゆというところですか?
それも幾多いくたまゆが合わさり――
一つ一つがとても大きいですよ!

レンザがはっと目を見開いた。その視線の先、巨大な繭玉の塊から白い霧のようなものが現れているのが見えた。銀座の電車通が見る見る白くなっていく。

【吉祥院蓮三郎】
何か気配がします!
風魔さま!
お気を付け遊ばし!!

レンザの姿が白い霧のようなものにかき消されてしまった。

〔白の狭間〕

そこは時空の狭間であろうか。不透明な白い空間が広がっていた。
空間が歪んだかと思うと山郷武揚が現れた。山郷はセヒラを帯びている。

【山郷武揚】
君たちはこのような機械で、
人をさぐっていたのかね?
いや、よく出来ている。
人も波形を現すとはな――

牛頭の賛同者が飯倉いいくら技研にもいてね。
機械が示してくれたんだ。
ひときわ目立つ波形が二つ――
思わぬ僥倖ぎょうこうだったよ!
一つはここにいる――
遠い過去からの繋累けいるいだ。
そしてもう一つ――
私にとっては馴染み深いものだ。

アルツケアン!
はははは、まだ残っていたとはな!
あの書生風情が大使館から持ち出し、
三宅坂みやけざかを下っていた――
さっそく迎えの車を用意したよ。
今宵こよいはやけに冷え込む。
歩くと風邪を引くからね!

一瞬、周囲が白く輝いた。

【山郷武揚】
北支の隕石いんせき月詠つくよみ麗華れいかを満たした。
人の役に立てて実に嬉しい限りだ。
達成感は空虚くうきょ感をもたらす――
私の中に小さな穴が空いてね。
それをめてみよう、そう考えた。
はからずとも私は導かれた。

アルツケアン――
私のために残っていたのだよ、
私を待ってくれていたのだ。
これをなんとかしないと、
万能の石に申し訳なくてね!
君もそう思うだろう?
私は僥倖ぎょうこうを得たのだよ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし!!
尋常じんじょうではないセヒラです、
最大限の警戒を!!
【山郷武揚】
おやおや、こんなところにまで!
技術はける――
しかし人生はかくも短い!

《バトル》

山郷は風魔を見ている。しかしその視線はもはや風魔を捉えてはいなかった。

【山郷武揚】
見てくれ!
第五齢の熟蚕じゅくさん相成あいなった!
じき排尿するぞ!
排尿が終わると吐糸としを始める。
愈々、営繭えいけんに取りかかるのだ!!
さぁ、私をまぶしに収めてくれないか。
上蔟じょうぞくが終わると、吐糸を始めるぞ。
私は完成の域にあるのだ――

一瞬、周囲が白く眩しく輝いた。

【山郷武揚】
何だ? どうした?
私は……これは……
又昔またむかし? 赤熟せきじゅく? 小石丸――

違うのか!!
――かいこの種類は何だ?
これは……家蚕かさんではないのか!

再びの輝き――

【山郷武揚】
まさか……
北支の柞蚕さくさん――
好文海ハオウェンハイの作った白黄斑山繭しろきまだらやままゆなのか!

はぁはぁはぁ~
全滅したのではなかったのか――
私の持ち込んだかびで。

ウアハハハハ~
そうだよ、斑僵病まだらきょうびょうで全滅だぁ~
ハオ柞蚕さくさんは全滅だぁ~

周囲が白く輝いた後、真っ暗になった。
暗闇の中で山郷がもがいている。しかしその声はは聞こえない。山郷は強烈な幻覚におそわれていたのだ。
その幻覚は現実に一端いったんあらわした。
山郷は口から大量の糸を吐いたのだった。吐糸は果てることなく続いた。

【吉祥院蓮三郎】
ひゃぁ~
大変でございます!
黄色い糸がそこいら中に!!

【着信 帆村魯公】
風魔ふうまよ、山郷やまごうはアストラル化した。
レンザが見た糸は幻覚だぞ。
【着信 喪神梨央】
兄さん、銀座通ですが、
もうじき通行止めを解除します。
近くに虹人こうじんさんらしき波形も……
先程までは日劇前で確認……
今は波形は不安定ですが、
通行戻る前に急いで下さい!

〔日劇前〕

人の姿のない日劇前に虹人がいた。
虹人は白い光をまとっている。風魔に並ぶレンザが一歩踏み出した。

【吉祥院蓮三郎】
なんとなくこの辺りではと――
私、最近、えてきております。

虹人さまに古よりの繋累けいるいが及ぶと?
――私にはまだのように見えます。
さしずめ私は及び損ねた存在――
それゆえ、よく分かるのです。
まだ及んではおりません。

虹人を包む光が一瞬だけ大きく広がった。光は虹人の内側をも照らすかのようだった。

【吉祥院蓮三郎】
何でしょうか?
【帆村虹人】
やぁ、風魔!
すっかり審神者さにわのなりが板についた。
自分でもそう思うだろ?
今通う道場は目黒だよね?
競馬場跡近くの目黒不動だね。
省線駅から東横乗合を使うんだろ?
兄貴は目黄道場も開くって――
小松川区、荒川の西岸だよ。
総武本線の平井が最寄りだって。
目黄道場が開かれたら、
僕はそっちに通うことになりそうだ。
ちょっと遠いんだけど――
赤坂山王さんのうに特務機関を作る話も――
そうなれば、風魔、
お前と一緒になれるのかな?

虹人は相変わらず白い光の中にいる。

【吉祥院蓮三郎】
これは少し過去の話のようです。
時間が巻き戻ったみたいです。

虹人を包む光が大きく揺らいだ。

【吉祥院蓮三郎】
気を付けてください、風魔さま!
【帆村虹人】
目黄不動は府立七高女の近くだ――
高女といえばだよ、風魔、
面白い話があるんだ。

オフィーリア誌にページいて、
君影きみかげたよりをもうけることになった。
読者交流が発展するな!

虹人の光が一層の輝きを増す。

【帆村虹人】
――鈴蘭すずらんの子たち、
みんな僕のことを、
シロカネコウと呼ぶ――

虹人の周囲にセヒラが集まり始めた。その勢い、濃度ともにこれまでにないほどである。

【着信 喪神梨央】
気を付けてください!
セヒラ急上昇です!

セヒラの紫色が、先程までの白い光を追い出したかのように、虹人はすっかりセヒラに呑まれている。

【帆村虹人】
風魔には聞こえているかい?
まるで自分のことのように――
この言葉が僕をめぐるんだ。

全魔域パンデモニアムはルシファーの城府、
かの輝ける星をサタンにたくらべて、
かく呼べる――

虹人の声が遠ざかり、やがて周囲から光が失せた。
真っ白な空間に一台のラヂオがある。
ノイズ混じりの声が聴こえる――

安寧あんねいですか? 安寧あんねいですか?
――皆さま、どなたも、安寧あんねいですか?

淀橋区・東洋ホテル――
山梨からの上京時、山郷武揚の定宿である。山郷は甲府市内で生糸きいと商を営んでいる。屋号は山郷絹糸けんしであった。

【山郷武揚】
ついに興亜撚糸ねんしとの商談が決まった。
これで念願ねんがんかなった――
私たちの努力がむくわれたのだ。

今夜は泊まらずに夜行で帰ろう。
朝の四時頃には甲府に着くはずだ。
そのまま社で仮眠を取ればよい。
明日、朝一番に社の皆に知らせよう。
吉報きっぽうだ、皆、喜んでくれるぞ!
眠いなど言ってはおられんな!

四谷区・塩町尋常じんじょう小学校――
鈴代すずよ九頭くず風魔ふうまたちの出身校だ。
この春、音楽訓導くんどうとして赴任ふにんした柴崎周しばさきあまね。五月の合唱会に向けて練習に余念よねんがない。
毎年、唱歌夏は来ぬが選ばれる。

【柴崎周】
はなの 匂う垣根かきね
時鳥ほととぎす 早も来鳴きて
忍音しのびねもらす 夏は来ぬ~♪

我が胸に響くは子らの歌声だ。
伸びやかなる声は初夏の空のように、
瑞々みずみずしく、くもりのないもの――
子らの歌声を聞いていると、
私の心も洗われるようだ。
さぁ、今日も練習にはげもう!

赤坂区・料亭一繁いちしげ――
四谷荒木町の万屋よろずや御用聞ごようぎきに来ていた。万屋よろずやは屋号を木曽屋きそやという。酒や乾物かんぶつも扱う大店おおだなである。
小森こもり時夫ときおは木曽屋の番頭ばんとうであった。

【小森時夫】
一繁いちしげさんで政治家の壮行会があると。
麦酒ビールが二十ダースとは大注文おおちゅうもんだな!
きっと親爺おやっさん、喜ぶぞ!
確か日本平世党の政治家だと――
春はあけぼののような穏やかな世の中は、
平世党のおかげだなぁ……

いけない、いけない、いけないぞ!
塩町の如月きさらぎさん宅に向かわないと。
如月きさらぎさんは木曽屋の大得意だしな!

京都市伏見区・墨染すみぞめ――
輜重しちょう兵営第十六大隊の隊附中尉、鬼龍きりゅう豪人たけと
士官室の窓辺に置いた机に月光が差す。その灯りを得て、鬼龍は手紙をしたためている。西陣にしじん商家の娘、小原時子に宛てである――

【鬼龍豪人】
もうじき中秋の名月ですね。
今年は九月十二日だそうです――
来週の木曜日になります。昨年、君と嵐山で拝観はいかんした秋月しゅうげつは、今も私の心を照らしています。いささかのかげりを含ませた物憂ものうげな光――
なげけとて 月やは物を思はする 
かこち顔なる わが涙かな――
西行法師の歌を君に贈ります。豪人

日本橋区・興亜百貨店――
バンカツこと坂東勝一郎の読書会が開かれる。バンカツとは帆村ほむら虹人こうじんのペンネームだ。冒険少年年末号に六十八ページにわたり、書き下ろしの冒険小説が掲載けいさいされるのだ。

【帆村虹人】
南海の蒼風そうふうは構想二年の大作だ。
海賊に育てられた少年が成長し、
海の軍閥ぐんばつを率いる話だ。
波高い満剌加マラッカの海を舞台に、
海賊や賊軍相手に戦いを繰り広げ、
やがて海の支配者になっていく――

話は今日の読書会で初めて披露ひろうする。
先月号にその案内が載ったが、
わずか三日で予約は埋まったそうだ。

麻布あざぶ区・麻布あざぶ市兵衛いちべえ町――
聖宮ひじりのみや邸に植木職人新山眞にいやままことの姿があった。
東京電気通信工業を休職中の新山は、陸軍登戸のぼりと研究所の依頼いらいでく号兵器開発のかたわら、植木屋松巧まつこうの職人として働いていた――

〔聖宮邸庭〕

白い霧に覆われた宮邸の庭。垣根の低木を選定していた庭師が立ち上がりこちらに来た。庭に姿を見せた風魔に気が付いたのだ。

【新山眞】
おうちの方でいらっしゃいますか?
――私、植木屋です。
いやぁ、今日は五月晴れですな!
梅雨なのに五月とはこれ如何いかに?
ははは、旧暦ですよ、旧暦。
旧暦では梅雨は五月だったのです。
梅雨の合間の晴れを五月晴れ――
今日みたいな日和ひよりのことですね。

今日の剪定せんていはほぼ終わりました。
久しぶりに社に顔でも出しますか。
はは、こう見えても技術屋なんです。

突然、辺りが紫色に変わった。セヒラに満たされようとしているのだ。
そこへバールが現れた。バールは風魔をまっすぐ見て言う。

【バール】
ここに長居は無用だニャ!
すごく危険だニャ!
【バールの帽子】
ゲロゲロ、ここには何もない、
喜びも悲しみも、愛も憎しみも、
何も何もないゲロよ!
【バールの帽子背後】
無限に広がる虚無きょむの世界じゃよ。
皆、本心を押し殺して暮らし、
そのうち本心さえなくなった世界だ。
【バールの帽子】
誰もがうわつらだけで生きているゲロ、
早くこんなところからずらかるゲロ!
【バール】
ん?
誰か来るニャ!
風魔、気を付けるニャ!

邸の方から聖宮がやって来た。

【聖宮成樹】
何か騒がしいですが――
どうかされましたか?

その時である、白い霧が一気に晴れて明るい庭となった。

【新山眞】
喪神さん!
――ここは……
私は……何をしているでしょうか?
――この庭で……

【聖宮成樹】
――
――喪神……さん?

一瞬、世界は白い霧に包まれかけた。しかしすぐに晴れる。

【聖宮成樹】
喪神さん!
ご公務でいらっしゃいますか?

周りの光景が滲んで消えた。
薄暗闇の中に風魔は立っている。
不意に声がした。

【???】
風魔――
私よ、淑子としこよ。
今、あなたを近くに感じるわ。

風魔――
あなたに会いたいわ……

風魔は声の方へと歩き出した。
そこへバールが現れた。

【バール】
風魔、耳を貸すんじゃないニャ!
さぁ、事変の世界に戻るニャ!

風魔は闇に呑まれてしまった。

1935年12月26日未明――
愈々いよいよ、新しい天地が現れようとしていた。それは柴崎が求めて止まなかった混沌カオスの世界であった。

あらゆるものが不整合に融合し、歪み、軋んだ音を立てている世界であった。
それこそが悪魔の望む世界なのである――

しかしそこにもう一つの力学が作用して、二つの世界は弾かれようとしていた。
その中央に姿を見せるのが虚無の世界であった。綾部研究員が言及した世界だ。

【着信 喪神梨央】
兄さん!
同じ場所に三つの波形があります!
――兄さんが立っている場所です!
これだと兄さんが三人いる、
そういうことになってしまいます!
ドッペルゲンガーではありません!

【着信 新山眞】
三本の世界軸が接近している、
どうもそのようです。
混沌世界、虚無世界、そして現世――

一本に合わさるのでしょうか?
それとも――

再び周囲から光が失われた。
3つの世界の狭間に吸われたかのように。

そこに虹人がいた。
風魔を見据えるその目は歓喜に輝いている。

【シロカネコウ】
長い間、眠っていたワ!
十年、いや二十年……
その前からすると、もっとヨ!

お前が私を待っている人なの?
そうぢゃないのか知ら?
違うならどうして此処ここに居るの?
待っていたんでしょ?
さっきまでの人は、
すっかり居なくなっちゃったワ。
だからぐに繋がるのヨ!

あら、嬉しかないの?
嬉しいはずヨ、屹度きっと
ほら、私ヨ、見て、見て、見て!!

《バトル》

【シロカネコウ】
やっとね!
やっとよ……
随分と長かったワ!

星の夜に大君ルシファーは昇りゆく
その暗の統御とうぎょあぐむんで 
雲の半ばにおおはれた廻球かいきゅうの上に

魔は揺らぎゆく

虹人の体から色が失われた。
そして不自然な姿勢でのけぞっている。その胸の辺りか真っ白に輝く気体が立ち上る。
光でもない、煙でもないそれは、やがて人の形となった。

今年、五度目の日蝕にっしょくが南極地方で発生した。

帝都にもたらされた予言は現実のものとなった。
第五の予言
世界は光と闇の天秤てんびんによって計られるであろう

第六の予言
無垢むくなる力が真の導きを為すであろう

第七の予言
日蝕ひくく明け新しき天地あめつちひらかれり

第八の予言
全地の主なる大王あらわれり

第九の予言
すべては新王のたなごころに收まるであろう

第四までの預言はついぞ語られなかった。

帝都事変を経て世界は3つに分かたれた。
事変、虚無きょむ、そして現世という世界――

予言はそのことをまさしく言い当てていた。
いつしか予言は東京黙示録と呼ばれ始めた。
それを知るごくわずかな者たちの間で。

特異点は大震災のあった1923年だった。
その時から世界軸はわずかにずれ始めていた。

ずれが愈々いよいよ極大化したのだ――

混沌世界と現世、この二つが接近し、離反したことで虚無世界が現れた。
三本の世界軸はしかし合わさることはなかった。ただそれにより、歴史は大きく巻き戻ることになる――


1904年3月17日、硫黄島いおうじま
16時30分44秒、ここに金環日蝕が始まった。その光を受け、すべての始まりとなるひとつの結晶が生まれた。

小さなケアン――

やがて光と闇の交錯する地に漆黒の穴が開いた。五分ほど続いた金環蝕の終わる時、ケアンは音もなくその穴へ吸い込まれて消えた。

二十世紀初頭の特異点から新たな歴史が始まった。そして世界軸は三本に分かたれたままである。

1904年、この歴史上の特異点から真の20世紀は始まった。再生の特異点として、後にルネサンスと呼ばれる。
やがて合わさる時まで、世界軸は三本に分かれたままである――

現世軸にも帝都はあった――

〔赤坂街路〕

赤坂街路――
電停から市電が発車するや、子どもたちが車道を駆け渡る。
市内で一斉に桜が色づき、まさに春爛漫らんまんの時季を迎えようとしていた。

時は1935年4月――
セヒラもゲートも存在しない世界――

【九頭幸則】
なんとかに潜り込めた――
近歩一きんぽいちなんて無理な相談だよな。
ま、でも習うより慣れろというからな!

尋常の同級でただ一人の軍人だ――
風魔ふうま審神者さにわ免許皆伝めんきょかいでんだと言うし。
みちは違うが、ある意味競争だな!

【如月鈴代】
山郷やまごう叔父おじ様と力を合わせて、
東雲しののめ流を護らないと――

降りた神を見極める神眼しんがん
そう簡単にはそなわることなど、
あり得ませんが!

【喪神梨央】
丹那たんなトンネルは一昨年おととしに貫通、
鉄道ダイヤが組まれたのは去年です。
去年末、省線のダイヤ大改正が――

前に淑子としこ姉さんを見舞った時は、
ダイヤ改正前でしたね。
東海道線三島駅から、
駿豆すんず鉄道で修善寺しゅぜんじに行きました。

――兄さん、姉さんがお呼びですよ。

〔溜池通〕

【喪神淑子】
待ちましてよ、風魔――

フフフ、
今日はもう稽古けいこはおしまいでしょ?
ならよかったわ、
オウルグリルでオムライスでも――

あらいいのよ、私がご馳走するわ。

〔是枝邸〕

1935年12月26日、夜――

大崎おおさき是枝これえだ邸は夜の静寂しじまに包まれていた。瑛山会えいざんかいは是枝邸の離れに本部を置いていた。
その庭先に探信儀たんしんぎはなかった。

【案じる声】
今年、ついに怪人騒動も何も
起こりませんでしたわ。
そして今日この日を迎えても――
【静かな声】
五度目の日蝕にっしょくの日が終わるまでは、
予断を許さないものでした。
この一年、いや二年、三年――
混乱極める世界が近付き、
さらにもう一つ、生まれたのです。
何もない世界が――
【案じる声】
何もない世界――
そういうのが御座いますの?
【静かな声】
所謂いわゆる虚無きょむ世界です。
私は虚無きょむ世界を垣間見た気がする――
麻布あざぶうちで……

【案じる声】
殿下、おうかがいしますが、
この写真が何か関係しますかしら?
確か興亜日報の記者が写したもの――

【静かな声】
ええ、この写真は浅草の雷門です。
ですが震災を経なかった雷門ですね。
それがあの帝都に存在したのです――
【案じる声】
大提灯おおちょうちんが下がっていますね――
震災の後は、小さな提灯が――
そのように覚えていますわ。

震災のなかった世界――
それがあの帝都にあったのですね?
それが虚無の世界――
【静かな声】
少しは顔を覗かせていたのでしょう。
ただ――
の世界は、
それ以上に混沌世界の影響を受け、
を戦わせる事態を招いた――
【案じる声】
のこの世界には――
影響は及んでいないのですか?
その、混沌からも虚無からも……
【静かな声】
少なくとも今のうちは。
次、世界軸の変動が起きるのがいつか
誰にもわかりません。

【案じる声】
殿下――
柄谷がらたに博士は達者でおいでですが、
別な世界ではやはり……
殿下の仰るようなことになっていた、
そうなのですね?
【静かな声】
それぞれの世界で、
皆、さだめのもとにあるのです。
生き死には関係なく――

私たちは帝都が、いや日本が、
歴史的に真っ当な道を進むために、
監視する必要がありそうです。
それが瑛山会えいざんかいの使命だと考えます。

今後、何が起きようとも――

6年後の1941年12月――
世界軸の日本は
太平洋戦争に突入する。

第九章 第六話 水の想い

〔山王機関本部〕

九頭くず幸則ゆきのりの同輩、歩一の山本少尉が伝えた、荒川の工廠こうしょうについては、別途べっと、参謀本部の内偵ないていが入ることになった。

【帆村魯公】
山本少尉は秘密に近づきすぎた、
どうもそのようだ。
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさん、大丈夫でしょうか?
一昨日から音信がありません――
本部にもおいでじゃないです。
【帆村魯公】
確か、あの……
吉祥院某きっしょういんそれがしが警護するとか、
そんな話じゃったな。
【喪神梨央】
レンザさんが付かれるんですね!
それじゃ安心です――
そうですよね、兄さん!
【帆村魯公】
鬼龍きりゅう大尉の同輩、御荷鉾みかぼ大尉も、
独逸ドイツ勢の動きに通じておるな――
【喪神梨央】
そして今は回廊を巡る――
【帆村魯公】
うむ……
御荷鉾みかぼ大尉の見解では、風魔、
お前は回廊に入ったことになる――

アラヤ回廊――
その存在はそれとなく伝わるが、実在を確認した者は誰一人としていない。

【喪神梨央】
独逸ドイツ人は修善寺しゅぜんじロッホを探して……
結局、見つけたんでしょうか?
淑子としこ姉さんの入院していた
サナトリウム、修善寺です――
【帆村魯公】
連中の言うロッホとやらが、
下で繋がって回廊を形成する――
理屈はわかるがな、
この目で見ないことには、
どうにもかいせんわ。

魯公ろこうはやや難しい顔をして本部を後にした。
修善寺しゅぜんじロッホの件、重ねて参謀本部に、調査を依頼することになったのである。

【喪神梨央】
そうそう、兄さん――
あきらさんがお話があるって。
アトリエに寄ってあげたら?

今日の公務ですが、
巡視パトロールの方面、後ほどお知らせします。

〔旭のアトリエ前〕

山王ホテルの裏、日枝神社の石垣に穿たれた入口。それを塞ぐ頑丈な鉄扉の前で能海旭の出迎えを受けた。

【能海旭】
梨央りおさんから、
連絡あったわけじゃないよ。
何となく来るってわかったんだ。
入って――

〔旭のアトリエ〕

【能海旭】
梨央さんからね、
ベラドンナのこと聞かれたんだ。
だから、風魔さんにも教えておくね。

【能海旭】
ベラドンナは花の名前よ。
美しい女性っていう意味よ。
イタリア語だって教わった。
くすんだ紫色の花を咲かせるの――
美しさとは裏腹に、
根や茎に強い毒を持つのよ。
その毒から作った膏薬こうやくによって、
さまざまな幻覚作用が起きる――
トロパンアルカロイドという成分ね。

魔女がほうきで飛んだりするのは、
空飛ぶ幻覚にとらわれるから――
実際に飛ぶわけじゃないんだ。
バスク地方の魔女たちは、
幻覚を見る膏薬こうやくを身体に塗って、
エメンエタハン、エメンエタハン――
そう唱えながら錯乱さくらん状態になる。

魔女の膏薬こうやくは他の地域でも、
例えばフランスや北欧にも伝わる。
ベラドンナの他に、
トリカブトの毒を調合することも。
より空飛ぶ感覚が得られるのよ。

そこへ吉祥院蓮三郎が姿を見せた。

【吉祥院蓮三郎】
失礼します、
あきらさま、風魔ふうまさま――
【能海旭】
どうした?
九頭くず中尉の警護は大丈夫か?
【吉祥院蓮三郎】
その九頭中尉ですが、
青山一丁目から市電で渋谷に。
次の電車で追ったのですが……
【能海旭】
何だ? 見失ったのか?
【吉祥院蓮三郎】
かたじけないであります――

【能海旭】
しかし、何で渋谷になんか、
用があるのだ、あの中尉は?
【吉祥院蓮三郎】
渋谷には憲兵大隊が――
おそらくはゼロ師団の仮構かこうかと。
【能海旭】
そうか……
いざなわれたりしなければいいが。

風魔さん、
今日の公務、渋谷方面はどう?
電車通を進むといいよ。

〔旭のアトリエ前〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
赤坂見附電停においでください。
公務電車、待機させます。

それから……
赤坂の大柱ですが、消えました。
すっかりなくなったんです。
新山さんが調査中です。
あとで落ち合ってください。

〔青山街路〕

青山通を渋谷に向かっていた公務電車だが、青山三丁目で九頭くず幸則ゆきのりの姿を確認、風魔は電車を降り、九頭の元へ駆け寄った。

【九頭幸則】
風魔!
ちょうどよかった。
機関本部に行こうと思っていたんだ。

いやな、渋谷憲兵大隊に招待され、
主だったところを見て回ったんだ。
隊舎の中は、歩一なんかと大違い、
廊下には赤絨毯あかじゅうたんが敷かれているんだ。
広間では音楽が流れている――
ちょっといいか――

九頭は風魔を路地裏に誘った。

【九頭幸則】
大きな声じゃ言えないがな、
あそこはやっぱり怪しいぞ。
東京の憲兵は一ツ橋に移った、
東京憲兵隊本部が統括する。
山梨、神奈川を除く第一師管だいいちしかんだ。
そのうち東京憲兵隊渋谷分隊は、
道玄坂どうげんざかの途中、上通うえどおりにある。
渋谷区、目黒区、荏原えばら区を管轄する。
道玄坂上どうげんさかうえの渋谷憲兵大隊は、
おそらく工廠こうしょうと同じ性質だ。

そこまで言うと九頭は青山通に用心深そうな視線を投げかけた。

【九頭幸則】
壁に耳ありだからな!

それでだ、憲兵大隊の方だけど、
安寧あんねい課少尉係長というのが出てきて、
俺を憲兵中尉として迎えると、
そう言うんだ。
上等兵で志願して憲兵下士になる、
というのならわかるけど――
歩騎ほき将校から憲兵になるなんて、
聞いたことがない。
そう言うと係長は、
転隊を認めるとまで言い出すんだ。

あまり深入りしないほうがいいな、
なんか嫌な感じがしてきた――

【着信 喪神梨央】
新山さんが向かっておいでです。
【九頭幸則】
うわっ!
びっくりしたよ、梨央りおちゃん!
【着信 喪神梨央】
中尉は公務電車でお戻りください。
青山三丁目にて待機中です。
【九頭幸則】
了解了解!
公務電車、乗せてもらえるんだ。
風魔、先に戻るよ。

九頭と入れ替わるようにして新山がやって来た。

【新山眞】
喪神さん、愈々いよいよですよ、
事態は動き始めたようです。
赤坂の二本の大柱、
綺麗さっぱり消えてしまいました。

おそらくは――
帝都満洲にキタイスカヤが、
しっかりと定着したからでしょう。
あの二本の柱を依代よりしろにして、
キタイスカヤは存在し得たのです。
それが今や確かなものとなり……
大柱は不要となったのです。
キタイスカヤの街は、
帝都満洲にあって結界内のように、
ほとんどセヒラを観測しません。

思うのですが……
キタイスカヤ街は哈爾浜ハルピンにある、
キタイスカヤ街と繋がっている――
そうではないでしょうか?

つまり……ややこしいですが、
現世にあるキタイスカヤと繋がる、
その場所が、きっとあるはずです。

二人の話すところへ赤坂方面から梨央がやって来た。

【喪神梨央】
満洲風に言うと、埠頭区プリスタン新城大通ワゴロドナヤにある東方飯店ホテルボストーク――
ホテルで二つのキタイスカヤ街が
繋がっているのです。

兄さんと麗華さんが、
その部屋でお話されました――
あれは四◯八号室でした。
二つの波形が重なり、
微動だにしないのです。
そのホテルのある辺りが……
【新山眞】
なるほど――
ホテルで二つの世界が繋がる、
なかなかおもしろいですね。

【喪神梨央】
兄さん――
これを見てください。
【新山眞】
これは……
ホテルボストークの便箋びんせんですね。
何が書いてありますか?

【喪神梨央】
先程、式部さんがおいでになり、
読んでいただきました。
希伯来ヘブライ語だそうです――
【新山眞】
それで、意味は?
【喪神梨央】
エラ ツエーツエイン マイム
ハダシュ オ……

オの後がわかりません。
これは文章ではなく単語だそうです。
女神、子孫、水、新しい――
エラといういうのは女神なんですね。
範奈さんのお父さんが、
キタイスカヤでおっしゃいました。
エラ、エラ――
でも後が続かなくて……
あの時は何のことやら、
さっぱりでした。
【新山眞】
するとこのメモは……
【喪神梨央】
範奈はんなさんが書かれたようです。
ホテルの部屋で書かれたのです。
【新山眞】
この便箋びんせんがヒントですね。
喪神さん、キタイスカヤ街です。
ということは範奈はんなさんは――
【喪神梨央】
鈴代さんからうかがったのですが、
範奈はんなさん、満洲に渡られました。
おそらく哈爾浜ハルピンです――
お父さんとお会いになったのも、
キタイスカヤでした――
あれは帝都満洲の側ですね?
【新山眞】
そのはずです――
今度は……

なるほど!
現実の哈爾浜ハルピンと帝都満洲が接続し、
メモが帝都に現れた――

我々にはゲートがあります。
喪神さん、キタイスカヤ街には、
赤坂哈爾浜ハルピンから行けるはずです。
【喪神梨央】
これから戻って、
赤坂哈爾浜ハルピンのセヒラ、
観測始めますね!!

埠頭区プリスタンにあるホテルボストークが、満洲と帝都満洲を繋ぐという。
風魔は赤坂哈爾浜ハルピンからホテルを目指した。

〔キタイスカヤ街〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
先の十字路を右に曲がってください。
ホテルボストークは、
ワゴロドナヤ街十一号地です。
わずかにセヒラを観測します。
注意してください。

キタイスカヤ街は静寂の中に沈んでいた。人の姿はなく渡る風さえなかった。
そこへ一人の背広姿の男性がやって来た。

【千葉の莫大小メリヤス商】
いやぁ、困りました――
すっかり見当識を失いました。
松花江スンガリーに出ようとね、
いやね、遊覧船にでも乗ろうかと。
ホテルでうたた寝したのです。
ロビーに降りたら、なんと私一人!
町の中にも誰もいない――

ここはキタイスカヤなんですか?
哈爾浜ハルピンかキタイスカヤか、
キタイスカヤか哈爾浜ハルピンか――

日本人は哈爾浜ハルピン銀座と呼ぶそうです。
石畳いしだたみの歩道には散策の外国人が、
軽快なるステップを運び、
およそ東洋からかけ離れた雰囲気は――

って、誰もいないじゃないですか!!
私一人、あなた一人、一人、一人!
うぎゃぁぁぁぁ~

《バトル》

【千葉の莫大小商】
はぁはぁはぁはぁ……
何が東洋のモスコーだ、
こんなところ!

【着信 喪神梨央】
今の人は、哈爾浜ハルピンのホテルから、
こっちに来たようですね。
他にもいるかも知れません。
注意して進んでください。

四つ辻を曲がって山郷武揚が姿を見せた。山郷は風魔を認めると静かに切り出した。

【山郷武揚】
人助けというのは、
人の為ならずとはよく言ったものだ。

ハオ社長ご自慢の野蚕やさん
白黄斑山繭しろきまだらやままゆかびで全滅してね。
それじゃ商売上がったりだ!
そこで私が特上の絹糸けんしを調達した。
そのときの社長の喜びよう、
なかなかのものだったよ。

甲斐絹かいきの対価として、
私はアルツケアンを受け取った。
その不思議な石のことは、
エメリヒと言う名のかい族の少年から
詳しく聞き及んでいたよ――

エメリヒは独逸ドイツ人研究者につかえたかい族だ。
研究者に気に入られ、独逸ドイツに連れて行かれ、アーネンエルベにも出入りしたらしい。

【山郷武揚】
独逸ドイツから戻ってきたエメリヒは、
別人のように利口りこうになっていた。
私はあの子から多くを学んだよ――

烏魯木斉ウルムチ近くに落ちた隕石いんせき
アルツケアンには、
宇宙が閉じ込められている――

アルツケアンの衝突により、
大きなセヒラ場が生じる――
それはまるで宇宙創造の瞬間だ。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ、上昇しています!
注意してください。

俄に山郷の周囲にセヒラが漂い始めた。

【山郷武揚】
山王機関は熱心だね!
こんなところまで探信たんしんしているのか。
君たちは大いに勘違いしている。
私の開いた古式東雲しののめ流――
それはもはや古式ではなかった。
鬼神や妖魔を自らに降ろす古式、
しかしそれでは戦力にはならない。
古式を超えてを指揮する――
私はそこに至ったのだ。

しかしそこに頂きはなかった。
鈴代によって未来を奪われたのだ。
鈴代にすれば私は家系の染みだ。
一点の染み――
フフフフ……

だが私と鬼龍きりゅう大尉には、
残されたものがあるのだよ。
もう一度、機会をもらおうではないか!

《バトル》

【山郷武揚】
まだ他にも手はあるはずだ。
猶太ユダヤすえを招き寄せる方法がな。
この世界にはまだ見ぬ力が眠る。
触れてはならないかも知れないが。
パンドラのはこは開かれるのだ――

そう言うと山郷は踵を返して去った。

【着信 喪神梨央】
アルツケアンって、
そんなに大きな力を秘めている、
そうなんですね――

黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
まだ何かの波形を観測します。
ホテルの方へ向かってください。

ホテルのある街区へ入ったところで、鉢合わせするかのように廣秦範奈と出食わした。

【廣秦範奈】
喪神さん――
私、姉に呼ばれたのです。
いえ、姉の思念に触れたというか……

目覚めたらホテルの部屋でした。
そこではっきりと、
姉に触れたのです。
姿は見えないけれど――
とても確かなことでした。

範奈は姉の印象を語る――

【???】
範奈はんな――
あなたを見たのは、
小さな頃、一度だけよ。
万世橋駅近くの商家ね。
あなたの前では私は美香みか
廣秦美香ひろはたみかだったわ――

範奈は風魔から目をそらし俯いた。
再び姉の印象を呼び覚ましている。

【廣秦範奈】
先程のお父さまのこと、
お話いただけませんか?
廣秦伊佐久ひろはらいさく、それが父さまですよね?
【美香の声】
ええ、私たちが生まれてからはね。
その前は古賀容山こがようざんという篆刻師てんこくしよ。
雅号を持つ前は古賀喜一こがきいち――
父は古賀家の婿養子むこようしなの。
篆刻師てんこくしとして五大幻石ごだいげんせきを探して、
長野の方で行方不明になったのよ。
【廣秦範奈】
五大幻石ごだいげんせき
【美香の声】
自然珪しぜんけい天竺瑠璃てんじくるり雌黄しおう捻綿石ねんめんせき
玄武晶げんぶしょう。まだ発見されていない石よ。
父はそれらを求めて姿を消したの。
【廣秦範奈】
お姉さまはお父さまに、
お会いになったのですか?
【美香の声】
父は何かの拍子に遠い未来に行き、
そこで気脈を整える装置を作った――
それが働いたのよ。
私も父と同じ時代に生きた。
ニ〇一五年、九龍城砦にある光明路、
私は今もそこにいるのよ。
【廣秦範奈】
ニ〇一五年……
日本ではないのですね?
お父さまもご一緒ですか?
【美香の声】
父とははぐれてしまったの。
また深いところを巡っているようよ。
この町で私はラウ美鈴メイリンを名乗るの。
そうすることが自然だから――
でもたまに父に近づくの。
そして言葉を預かったわ。
【廣秦範奈】
どのような言葉ですか?
【美香の声】
冬至の朝、水辺に――
私たち姉妹で為すことがある、
父はそう伝えたわ。
【廣秦範奈】
水辺……
それは海ですか、湖ですか?
それとも――
【美香の声】
まだわからないわ――
【廣秦範奈】
水辺で姉さまに、
お目にかかれるのでしょうか?

しかし姉の答えはなかった。範奈の姉の印象は消えてしまった。

【廣秦範奈】
姉さま!
もう行かれたのですか?
姉さま――

範奈は風魔を見た。その眼を力強く見つめた。

【廣秦範奈】
喪神さん――
私、ここに何度か来たような、
そんな気がしています。
眠っている間に、
父上の言葉を預かったような――

もう一度、ホテルの部屋に戻ります。
冬至に間に合うように、
日本には戻ります。

範奈は踵を返し、確かな足取りで歩き去った。
そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂哈爾浜ハルピンにお戻りください。
ホテルでは戻れません!

〔山王ホテルロビー〕

祓えの間から山王に戻った風魔。ホテルロビーにいると梨央が本部からやって来た。

【喪神梨央】
兄さん!
大変です、彩女あやめさんが――
青山の脳病院に、
彩女さんの遺書があったと。
もうじき式部しきべさんがおいでに――

梨央が言い終わらないうちにホテル玄関から式部がやって来た。

【喪神梨央】
式部さん!
彩女さんの遺書って、本当ですか?
【式部丞】
ええ、あれは遺書です。
間違いようもありません――
捜索そうさくの依頼で警察に渡しましたが。
警察では何とか追いつける、
そう見込んでいるようです。
今は任せるしかありません。
【喪神梨央】
それで、遺書には、
どんなことが書いてあったんですか?
【式部丞】
このような乾いた世界では、
もう生きていけない、
兄さんを追いかけるのだと――
【喪神梨央】
彩女さんのお兄さんって……
【式部丞】
周防高麿すおうたかまろ、文学青年でした。
四年ほど前、一碧湖いっぺきこで入水しました。
【喪神梨央】
え? そうなんですね……
一碧湖いっぺきこ――
【式部丞】
一碧湖いっぺきこは、ある女性が入水してから、
しばらく後追いが続きました。
【喪神梨央】
独逸ドイツ人医師に殺されたユーゲントが、
投げ込まれたのも一碧湖いっぺきこです。
それにしても――

彩女さん、お兄さんのこと、
よほどお好きなのですね?
【式部丞】
兄さんが読書家なので、
少しでも話が合えばと、
セルパン堂で働いていたのです。
そしてオフィーリアという文芸誌を
購読していました。
【喪神梨央】
オフィーリア――
【式部丞】
ハムレットのヒロインです。
最後には気が触れて川に落ちます。
その様子を描いた絵が――
【喪神梨央】
ミレーの絵ですね!
上野の死ぬ死ぬ団の女性が、
口にしていました。
【式部丞】
漱石そうせきも取り上げていますね。
草枕にあります――

オフェリヤの合掌がっしょうして水の上を
流れて行く姿だけは、
朦朧もうろうと胸の底に残って――

漱石そうせきはテイト・ギャラリーで、
実物を見ているはずです。
そして思い違いをした――
【喪神梨央】
実際に見ているのに?
【式部丞】
ミレーのオフィーリアは、
合掌がっしょうに組んではいません。
思うのですが――
一碧湖いっぺきこといい、オフィーリアといい、
いずれも水にちなみますね。
【喪神梨央】
そういえば、彩女さん、
魚座だと言っていました。
【式部丞】
魚座は情緒じょうちょ豊かな空想家――
まさに彩女君そのものですね。
【喪神梨央】
彩女さん……
もう手遅れでしょうか?
【式部丞】
警察からの連絡を待ちます。
私たちにはそれしかできません。
喪神さん、
私はセルパン堂に戻ります。
【喪神梨央】
兄さん――

【新山眞】
喪神さん、梨央ちゃん!
広尾橋界隈かいわいでセヒラ急上昇です。
波形からすると――
【喪神梨央】
どうしたんですか?
【新山眞】
周防すおう彩女あやめさんです、おそらく……
【喪神梨央】
ええ? だって彩女さんは――

梨央は新山に彩女の遺書の話をした。
現在、警察が全力で追っていることも。

【新山眞】
だとしたら――
広尾橋にあるのは……
アストラル?
【喪神梨央】
じゃ、もう……
彩女さんは――

兄さん、お願いします!
広尾橋……いや、その近くです。

〔渋谷区豊受町〕

広尾橋電停で公務電車を降りた風魔は、宮邸脇を抜け豊受町界隈へ。
省線恵比寿駅と高樹町を結ぶ通りに出た。

【着信 喪神梨央】
%▲&士――
そこ◎★%&▲%ですか?

不意に建物の影から彩女が現れた。彼女は真っ直ぐ風魔のもとへ来た。

【周防彩女】
喪神もがみさん――
彩女、乱歩先生にご迷惑を
おかけしたかしら?
勝手にオリムピア号のお話、
披露ひろうしたりして――

でも言葉がどしどし出るのですわ。
オフィーリアを読んでいても、
ちっとも頭に入って来なくて、
知らない間につづっているのですわ。

彩女、兄さまにいざなわれている、
そう思うようになったのですわ。

するとどうでしょう、
すーっと身体が軽くなり、
いろいろのこともなくなり――

あれはまだ小さなときですわ。
兄さまと高尾山たかおさんに行き迷子に……
何時間も暗い山の中を彷徨さまよいました。
兄さまは、彩女、大丈夫か、
まだ歩けるかとしきりに心配され、
彩女は歯を食いしばって歩きました。
ようやくさわにたどり着き、
そこで少し休むことになりました。
彩女は木にもたれ眠りました。

いかほど経ったことでしょうか、
兄さまの声で目を覚ますと――
兄さまは沢の水をてのひらみ、
彩女に飲ませてくれたのです。
兄さまのてのひらから頂くお水は、
とても甘く柔らかくそして暖かく、
彩女の中に溶けていったのです――

彩女は兄さまとひとつになりました。

式部しきべ店長が御本に向き合われる時、
そこに兄さまの面影おもかげを認めますわ。
うなじの姿がそっくり――

でも兄さまとは違うのです!
兄さまはあんなことはされません。
大切な御本を破くなんて――

ある日、彩女は夜まで眠りました――
目を覚ますと書庫の方で物音がして、
その後店長がお出かけになりました。

彩女、書庫をのぞいて吃驚びっくりしたのです。
ゲエテの御本のページが破られ、
御本が半分ほどの薄さに――
きつねの裁判という美しい御本です。

兄さまは絶対ご本を破るなど、
そんなことなさいません!

店長の中に兄さまを認めていた、
彩女はとてもおろものなのです。

兄さま――兄さま――
兄さまは彩女をお呼びなのです。
呼んではいけないのだとお思いです。

――そんなことはございません。
彩女は行かなくてはなりません。
水の中で再び結ばれるのです。

私たちはまるでウンディーネと
ユーゴのようなのですわ――

そこまで言うと彩女は暗誦を始めた。

【周防彩女】
時計の十二時を示すや一陣いちじんの風と共に雨さえ加わり雷鳴がして、
ウンディーネが現れる。
ユーゴーは非常に後悔こうかいをして、
ウンディーネの腕を取ってびるが、
しかしウンディーネはそのままユーゴーをひかれて深く深くしずんでく――

突如として激浪げきろうが起こり、
華美を尽くせる大広間は
忽然こつぜんとして大海の如くなり、
水の神の水晶宮すいしょうきゅうが現出する――

彩女が語り終えた時、辺りが暗くなり薄暮のようになった。再び光が戻った時、目の前には千紘がいた。

【千紘】
ここは彩女の記憶なんだね――
彩女をそのままにしていて、
僕は自分のことが少し見えた――
そんな気がするんだ。
とかく水にちなむからね、彼女は。

それは、とりもなおさず、僕の中に、
水の要素を含むということさ!

心霊的なビジョンとされる、
メリュジーヌは、水の中にあり、
楽園的な存在を留めているのさ。
メリュジーヌは、人の血液にも、
命脈を保ち続けたと言われている。

僕の中の水の要素が、
高麿たかまろの入水自殺をもたらし
そこに彩女が強くかれた――

一見、不安定な彩女だけど、
水に向き合うことで、
彼女は安定していたんだよ。

でも彼女は式部丞に何かを見た――
兄を重ねているのは知っていた。
でもそれじゃない。
彼女の心に小さな穴が空いたんだ。
そういう中はじきに大きくなる。

だからおしまいにしたのさ。

フフ――
この僕が何かに不安を覚えるなんて。

どうだい?
君の力で僕の不安を払拭ふっしょくするのは?
いい考えだと思うよ!!

《バトル》

【千紘】
君はとても力をつけている。
新しい世界でもやっていけるね。
そのときが楽しみさ!

僕はホテルボストークにいる。
また時機じきを見て姿を見せるよ。
芽府めふ須斗夫すとおの予言通りなら――

千紘は音もなく建物の影に消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
大丈夫でしたか?
ユリアさんが相談したいと――
アーネンエルベに向かってください。

〔アーネンエルベ〕

ユーゲントを指揮する虹人こうじんからの連絡で、帝都で怪人が姿を消しつつあるという。
廓清かくせいされるのではなく怪人のまま消えるのだ。

【ユリア・クラウフマン】
フーマ!
来てくれたのですね。
コージンはユーゲントを連れて、
帝都をめぐっています。
そして妙なことを――

怪人が怪人のまま、
どこかに姿を消すと。

怪人はきを解かれて、
はじめて怪人ではなくなる――

怪人のままいなくなるなんて。
何かの作用が及んでいる、
そう思えてなりません。
フーマ、また新しいことがわかれば、
連絡します。

私……不安です……

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい、兄さん!
先ほど、あきらさんたちがおいでになり、
彩女あやめさん、あ、いや、千紘ちひろさん、
間違いなくメリュジーヌですって。
その転生した姿だそうです。

メリュジーヌは仏蘭西フランスの伝承で、
魚の尾を付けた女性だそうです。
毎週末、尾を付けて海に帰る、
それを夫に見られたことで、
ずっと水の中で生きることに――

詳しいこと、あきらさんが調べるって、
そう仰っていました。
学校の図書館に向かわれました。
式部しきべさんからはまだ何も……

うまく受信できませんでしたが、
もう彩女さんはいらっしゃらない、
そうなんですね?

でも、どうして本を破ったり……
本を大事にされないのでしょうか?

その夜、式部から電話があり、一碧湖いっぺきこでは彩女は見つからなかったという。
風魔の報告を受けた梨央が彩女の件を話し、式部は考え込んだ後、人格の死と命名した。
周防すおう彩女あやめは人格の死を向かえたのである――

第九章 第二話 結晶

青山新京シンキョウに向かうべく帝都満洲鉄道の駅へ。満鉄列車長は何かにおびえている様子だった。

【満鉄列車長】
何か普段とは違うのです――
どう申せばよいでしょうか?
ですが、原因はわかっています!
機関車です、あじあ号をく機関車。
帝満パシナ形ではあるのですが、
昨日乗務したのは別物でした。
得体の知れない何かであり、
名状し難いものであったのです。
どうも背筋がスーッとするのです。

でも、ご安心ください。
今は大丈夫です――
当列車、青山新京シンキョウにまいります。

〔青山新京〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
式部しきべさんに代わりますね。
彩女あやめさんのこと、心配されています。
【着信 式部丞】
さっきはなんとか切り抜けましたね。
お七やお熊……長年堆積たいせきした思念、
あんなふうに現れるのですね。
さて、彩女君ですが、いや……
千紘ちひろ、自分が何者かわかったと、
そう言っていましたね。
芽府めふ須斗夫すとお君と――
それに吉祥院きっしょういん……
【着信 喪神梨央】
レンザです。
吉祥院蓮三郎きっしょういんれんざぶろうです。
彼は元は悪魔でした――
【着信 式部丞】
悪魔が人間に転生しようとした――
芽府めふ君も同様とするのなら、
千紘ちひろも何か出自があるのかもです。
彩女君のこと、
少し調べてみようと思います。

交信の後、一体のアストラルが近寄って来た。引かれるように別の3体も姿を見せた。

【旅行者Sアストラル】
わて、大阪からな、来たんやけどな、
えろうよろしな、新京シンキョウ
さすが満洲帝国国都でんがな!
夜にな、チィ~トな、羽目はめ外そ思て。
ほなな、書館しょかんの表出しよんねん!
表の上に書館一覧て書いたぁる――
阿呆あほか、のろけか、何さらてんねん!
何で本屋行かなあかんねんちゅうて、
案内の支那シナ人どやしつけたんや!
そしたら、あんた、
一流の芸妓げいぎ屋は書館やねんて!
そう言うのが満洲流儀やそうや。
なんやら書館が一流のとこでっせ。
二流はなんやら班、
三流はなんやら堂、そう言うんやて。
ほな書館行って楽しみまひょかな、
開盤子カイパンズて言うんでっしゃろ!
うずくわ、うずくわ、うずいてきたわ~

【入植者Hアストラル】
大同だいどう大街を下って、西公園の南、
関東軍司令の建物、
もうすっかり出来ていますね!
大通りの西が司令本部、
東が新京憲兵隊司令部だそうで。
年末には引っ越し終わるそうです。

【露西亜人Pアストラル】
ここシンキョウはロシヤ人には、
ちょっと住みづらいですネ!
その点、ハルピンはいいですヨ!
ソフィースキー寺院とかネ、
キタイスカヤとか……
モストナヤ、ボレワヤ――
ロシヤ人に馴染みの町がたくさんネ!
ワゴロドナヤのホテルボストーク!
でもここ、かなり違いますネ。
ヒノデ、イズミ、フヨウ、ニシキ……
皆、日本的な町ですネ!

【大学生Kアストラル】
南広場の新京シンキョウ放送の隣にあるのが、
あの興亜日報なんだね!
ああ、憧れるなぁ……
僕もね、絶対に敏腕びんわん記者になって、
特報記事を発表するんだ!
興亜日報、
メールボーイを募集するから、
応募してみようかな!

【着信 喪神梨央】
普通に新京シンキョウにいる人たちの
アストラルですね。
セヒラ反応はありません。

風魔は先の街区へと進んだ。そこでは2体のアストラルが会話をしていた。

【D次郎アストラル】
ここは……青山ニャ?
――なんだか頭がムズムズするニャ!
さっき赤坂で、
懐かしい名前聞いたって、
S次郎が言ってたニャ!

そうだニャ、S次郎!
【S次郎アストラル】
万世橋まんせいばしの商家、古賀こが――
懐かしいニャ!
【D次郎アストラル】
S次郎、お前、山王さんのうあたりに来る前、
万世橋まんせいばしの辺にいたかニャ?
【S次郎アストラル】
そうニャ! そうニャ!
トラックの荷台で寝てたら、
溜池まで連れてこられたニャ。
【D次郎アストラル】
それでお前は、
古賀って家に飼われてたのかニャ?
【S次郎アストラル】
そうニャ!
古善ふるぜんて屋号のコークス問屋だニャ。
看板にFURUZENとあるニャ。
創業者が一郎というニャ。
四代目は娘婿むすめむこで、喜一というニャ。
善と喜で縁起がいいってニャ!
でも喜一はアレルギーが酷くて、
コークス扱えないニャ!
それで篆刻師てんこくし鞍替くらがえしたニャ。
篆刻師てんこくしになってから容山ようざんという、
雅号がごうを持ったニャ。
古賀こが容山ようざんだニャ――
【D次郎アストラル】
今、古賀容山はどうしてるニャ?
【S次郎アストラル】
万世橋まんせいばしにはいないニャ。
奇石を探しに長野に出かけたまま、
帰ってこないニャ。
【D次郎アストラル】
残された奥さん、
さぞかし大変だろうニャ!
【S次郎アストラル】
あすこの奥さん、変わり者だニャ。
深水ふかみ察智ざっちという卜占師ぼくせんしの言うなりに、
娘を修善寺しゅぜんじの旅館に預けたニャ!
容山には双子の娘がいたニャ。
預けられたのは姉の方ニャ!
二人は生き別れになったニャ。

【D次郎アストラル】
ん?
ニャんか感じるニャ!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ、急上昇しています。
すぐ近くです!!

【D次郎アストラル】
おいらたちも失敬するニャ!
S次郎、行くニャ!

2体のアストラルはさーっと左右に去った。
風魔は先へ進んだ。そこには大穴が開き、セヒラが盛大に吹き出していた。

【着信 喪神梨央】
ものすごいセヒラです!
ここは一時撤退てったいしてください!!

交信が終わるや穴から吹き出すセヒラが一段と濃くなった。すべてがセヒラに呑まれそうになった刹那、急にセヒラの噴出が止んだ。
穴の前に月詠麗華の姿があった。風合は麗華の前に歩み寄った。

【月詠麗華】
風魔ふうまさま……
お久しぶりです。
新京シンキョウ神社にある井戸に降りたのです。
運河で東京に繋がっていると、
そう教えられました――

【着信 喪神梨央】
麗華れいかさん!?
麗華さんがおいでになったのですね!
帥士すいし、セヒラは観測しません。
麗華さんと一緒に、
帰還してください。

【月詠麗華】
でも……
まだここは帝都ではありませんね。

麗華の後ろに仮面の男がゆっくりと降りてきた。仮面の男は大穴の上に浮かんでいる。

【仮面の男】
よくぞ戻れたな、月詠つくよみ麗華れいか――
さぁ、決意したのなら私と組み、
より大きな力を得ようではないか。
純粋なる戦いに燃焼するのだ!!

仮面の男の呼びかけにも麗華は答えない。麗華は風魔をじっと見据えたまま言う――

【月詠麗華】
私はまだ不完全なのです――
古式東雲しののめの奥義を継がねばならず、
こうして戻ってまいりました。
【仮面の男】
二人の迷える子羊たちが、
この道を開いてくれたのだ。
お前のための道だ。
さぁ、二本の柱の消えぬうちに。
柱が消えるとお前はまた新京シンキョウだ。
あの町に戻ることになるぞ――
月詠麗華よ――
整えて私に立ち向かうのだ。
それが最善の方法だ。

周囲の風景が滲みながら消え暗転した。暗闇の中に月詠麗華が立っている。その背後に仮面の男が立つ。

【仮面の男】
私は特別な力を得ている。
それは古の結晶アルツケアンという。
太古の昔、北アジアに堕ちた隕石いんせき
まさにアルツケアンだ――

麗華は風魔を見たまま仮面の男の言葉を返す。

【月詠麗華】
――隕石……
【仮面の男】
不思議の結晶、そして学者は言う、
転生の結晶だと――
メントロピー現象が生起する!
AGKアーゲーカーのフェラー博士は、
私にアルツケアンを用いた!
ウハハハハ~
アルツケアンは実に不思議だ――
結晶は私の前で気体となり、
今や私の体に染み渡っている!
【月詠麗華】
――結晶……気体……
【仮面の男】
アルツケアンによって、
私は転生の途上とじょうにある!
さぁ、私を完成させてくれ。
お前の戦いのすべてを披露ひろうするのだ。
それで私はアプシュロスを目指す!
永遠の存在となるのだ!!

麗華と風魔の間に光が現れた。それは稲妻のような光だった。やがて光は一抱えほどもあるセヒラ球を作った。セヒラ球から放たれた光が麗華と風魔に届く。二人の体が発光を始めた。

【仮面の男】
何故だ!?
月詠……麗華……
お前は何をしたのだ!
うわぁぁぁぁぁ~

セヒラ球がひときわ大きくなり、周りを呑み込んでしまった。
すぐにセヒラ球は収束し、元の暗闇に戻った。仮面の男も麗華も消えていた。
そこへ山郷武揚が現れた。それは実体ではなく思念的な存在のようである。

【山郷武揚】
二つのアルツケアンが出会えば、
未曾有みぞうのセヒラ場が生じる――
失われた支族しぞくすえは、
必ずや引き寄せられるだろう。
――どこにいようともだ。
どちらかがたおれるか、
あるいは共倒れになるか……
とうと犠牲ぎせいというやつだな。

山郷は揺らぎながら消えた。
周囲に光が戻った。そこは先程と同じ青山新京、大穴の前である。何事もなかったかのように穴の前に麗華がいた。そして2体のアストラルも現れている。

【関東軍軍人Sアストラル】
あろうことか、関東軍特務部が、
黒幇フェイパンに襲撃された!
まだ関東軍司令部の移転前だ、
警備も手薄であったに違いない――
しかし、特務部に何の用がある?
あそこは満蒙まんもうの経済政策を担う部署。
半数が民間出身の軍属じゃないか!
【支那人Rアストラル】
関東軍特務部を襲ったのは、
牛頭ごず機構にやとわれた黒幇フェイパンの連中だ。
何かの特務機関と勘違いしたらしい。
奴ら、考える前に行動に出るからな。

【着信 喪神梨央】
麗華さん、まだおいでなのですか?

着信がきっかけなのか、いきなり麗華がアストラルを突き飛ばして走り去った。

【着信 新山眞】
仮面の男がセヒラの道を開き、
麗華さんを導いたのです。
それを知っていた山郷やまごうは、
仮面の男を利用したわけです。
おそらく麗華さんにも、
アルツケアンが取り込まれている、
そう考えて良さそうです。
アルツケアンについては、
アーネンエルベの記録を調査中です。
山郷がどう入手したのかも。

【着信 喪神梨央】
すぐ近くに巨大なセヒラです。
麗華さんではありません、
何か別のもののようです!

風魔は踵を返して大穴を背にした。
進んだ先に大型のアストラルが風魔を待ち受けていた。

【メカノフィリアアストラル】
とうとうなれた!
機関車だ、パシナ形だ!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
メカノフィリアです!
聞く耳持たないようです――

【メカノフィリアアストラル】
全長二十五・六七五メートル
全幅ぜんぷく三・三六ニメートル、全高四・八メートル
全重量ニ〇三・三一トン
日本最大、ニメートル動輪どうりんで、一万五千八百五十トン牽引力けんいんりょく
うははは、どうだ、パシナ形だ!
満蒙まんもう沃野よくやを駆け抜ける!
何人なんぴとたりとも邪魔はさせん!!

《バトル》

【メカノフィリアアストラル】
東より~ 光は来る~
光をのせて~ 東亜とうあの土に~
使いす我等われら我等われらが使命~

あああ、俺はパシナ形だ――
だがもう保てない!

【着信 喪神梨央】
今のメカノフィリアは、
本物のパシナ形に心を寄せたのです。
あじあ号、この九月に京浜けいひん線にまで運転区間が延伸えんしんされました。
でも新京シンキョウ哈爾浜ハルピン間の牽引けんいん汽車は、パシナ形ではありません。
線路が弱くて走れないのです――
【着信 新山眞】
先程の山郷やまごう武揚ぶようの思念、それに影響を受けた波形があり、吉林キツリン延吉エンキツ図們トモンで観測します。
まずは広尾吉林キツリンへ――
向かってみてください。

風魔を乗せた帝都満洲鉄道あじあ号は一路広尾吉林を目指した。

【満鉄列車長】
パシナ形になりきっていたのですね。
取り除いていただき感謝します。
もう不安はなくなりました。

さて、当列車、間もなく、
広尾吉林キツリン、広尾吉林キツリンに到着です。

〔広尾吉林〕

【満人Fアストラル】
関東軍の連中、
日本語で話せばいいものを、
変な支那シナ語使うから混乱する!
你是打那兒来的ニーシーターナールーライテ――
お前はどこから来たのか?
你要打算上那兒去 ニーヤオターソアヌシャンナールチュイ――
お前はどこへ行くつもりか?
連中、軍にて支給された、
新々実用支那シナ語会話という本を使う。
あまり実用的ではないな!

【関東軍軍人Hアストラル】
隊の中からも何人かが、
牛頭ごず機構に加わるという。
すでに内地では特別な力を発揮はっきする
会員もあるらしい――
だがな、私としては、
頭目とうもく山郷やまごうという人物、
どこか信用ならんのだ!

【拓殖者Kアストラル】
吉林キツリンの町角に、
牛頭ごず機構のポスタアが貼ってあった。
勇躍ゆうやくして征途せいとけ!
どこにいくさに出るつもりだ?
そもそもあの頭目とうもく山郷やまごうという男、
この間、満人の豆タク運転手を、
ひどい剣幕けんまくで怒鳴りつけていたぞ。
あれは人をく器じゃないな!

憤るアストラルを見ていた一体が何かに気付いたように風魔の前を通り過ぎた。

【満人Fアストラル】
おお、郎平ランピンがいるのか?

風魔はそのアストラルを追った。

〔広尾吉林〕

先程のアストラルと思しき一体が別のアストラルと話していた。

【満人Fアストラル】
おい、郎平ランピン、お前だろ?
【満人Rアストラル】
くそったれ!
あの日本人、道を間違えただけで、
俺を怒鳴りつけやがった!
まるで虫けらみたいに言いやがった!
【満人Fアストラル】
どう間違えたんだ?
【満人Rアストラル】
一本筋を間違えただけだ。
ちゃんと着けたんだ!
支那シナ人の糸屋にな。
【満人Fアストラル】
支那シナ人の糸屋か……
満蒙絲線まんもうシーチェンという店だな?
【満人Rアストラル】
ああそうだ!
日本人も支那シナ人もクソッタレだ!
【満人Fアストラル】
あそこは柞蚕糸さくさんしを扱う糸問屋だ。
北支ほくし原産の柞蚕サクサンだな――
社長は好文海ハオウェンハイと言ったな。
【満人Rアストラル】
詳しいじゃないか、お前!
【満人Fアストラル】
新聞で読んだ。
白黄斑山繭シロキマダラヤママユという希少種の、
人工飼育に成功したらしい。
【満人Rアストラル】
あの日本人、俺に言ったんだ!
你要跑我就打你ニーヤオパオウォーユターニー――
お前が逃げようとすれば打つぞ!
【満人Fアストラル】
柞蚕サクサンというのは山繭蛾ヤママユガの仲間だ。
日本の絹、家蚕糸かさんしには劣るが、
独特の野趣やしゅがあるんだ。

【着信 喪神梨央】
彼らの言う日本人とは、
おそらく山郷のことかと思われます。
山梨やまなしで山郷絹糸けんしを営みます。
でも今は何も観測できません。

交信後、一体のアストラルがやって来た。そして風魔の前で止まった。

【牛頭機構構Aアストラル】
もしかすると新京シンキョウには何もない、
そうじゃないのか?
山郷さん、あの支那シナ人の糸屋に、
言いくるめられているんじゃ……
あの糸屋、いけ好かない奴だ。
奴の野蚕やさん、あのみょうな黄色いだ、
それらが伝染病になって、
今年は全滅したという――
山郷さんを拝み倒して、
山梨の甲斐絹かいきを調達しやがった。
野蚕やさんとは大違いだ――
吉林キツリン延吉エンキツ図們トモン
どの町にも奴の店はあるが、
N計画なんて影も形もない!

そこまで言うとアストラルは去って行った。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
高輪延吉エンキツでセヒラ反応です。
波形も観測します。
高輪延吉エンキツに向かってください。

高輪延吉に向かうべく風魔は満鉄に乗り込んだ。

【満鉄列車長】
今、この帝都満洲は、
実際の満洲の町と対になっています。
次の高輪たかなわ延吉エンキツも、
実際の延吉エンキツに繋がるようです。
間もなく、高輪延吉エンキツ
高輪延吉エンキツに到着です。

〔高輪延吉〕

【鮮人Dアストラル】
昌京チャンギョンったら目の色変えてたわ!
ハオの店で日本の絹糸を扱う、
その話よ、そりゃいい品よ、きっと!
いつもの野蚕やさんじゃね、
晴れ着は作れないもの!

【支那人Qアストラル】
今年はまいったな!
ハオ社長の白黄斑山繭シロキマダラヤママユが全滅だ。
斑僵病まだらきょうびょうだってさ!
白黄斑シロキマダラだけがかかる伝染病で、
かいこかびが繁殖して固くなってしまう。
そうなると蚕糸さんしは見込めない――
【支那人Lアストラル】
まぁ、でも、日本の山郷やまごうさんが、
甲斐絹かいきを三トンも送ってくれて、
今年も商売続けられるな。
【支那人Qアストラル】
ハオさん、資金底ついて、
あの変な石ころ売ったんだろ?
【支那人Lアストラル】
ん? 回族から買ったという石か?
いや、石それ自体を渡したそうだ。
【支那人Qアストラル】
ええ? そうなのか?
石を渡した――
甲斐絹かいきの支払いにてたのか?
【支那人Lアストラル】
山郷さんは石がいいと。
正確には不思議の結晶と呼ぶらしい。
【支那人Qアストラル】
何が不思議なもんか!
まぁ、でも、お陰で日本製の、
いい蚕糸さんしが手に入ったわけだ。
俺達も路頭ろとうに迷わずに済むな!

【着信 喪神梨央】
不思議の結晶ですね、
さっきも出ましたね。
アルツケアンのことでしょうか……
とすると――
山郷もアルツケアン持っていた、
そうなりますね!

〔高輪延吉〕

風魔の進んだ次の街区で、三体のアストラルが言葉を交わしていた。

【牛頭機構Gアストラル】
山郷さんは僥倖ぎょうこうを得た、
そう仰っていたな。
【牛頭機構Mアストラル】
中央郵便局の帰りだそうだ。
新京シンキョウ神社のところで声をかけられた。
――月詠つくよみ麗華れいかにな。
【牛頭機構Cアストラル】
何で山郷さんとわかったんだ?
そんなに二人は昵懇じっこんの仲だったのか?
【牛頭機構Gアストラル】
互いに見たことはある程度だと……
だからこそ、僥倖ぎょうこうなんだよ。
【牛頭機構Mアストラル】
山郷さん、茶の器を持っていたって?
交趾焼こうしやき香合こうごうふところに入れていて、
月読麗華はそれで気付いたんだとか。
【牛頭機構Cアストラル】
だとするとすごい勘だな!
【牛頭機構Mアストラル】
鮮やかな黄色の亀の香合こうごうだ。
鍵をたばねるのに使っていたらしい。
もとは久遠くおん流の茶道具だ。
【牛頭機構Gアストラル】
月詠麗華も茶の道にいる。
それで香合に引き寄せられた――
山郷さんにすりゃ僥倖ぎょうこうだな!

三体のアストラルは互いに近寄った。

【牛頭機構Cアストラル】
俺たちも少しは勘が働く。
そうだよな、おい!
【牛頭機構Mアストラル】
勘というか嗅覚だな、これは。
わかるんだ、臭いのが!
【牛頭機構Gアストラル】
魚の腐った臭いだな!
これが山王機関の臭いなのか?

そう言うや三体は合体した。合体して中型のアストラルとなった。

【牛頭機構関東会アストラル】
牛頭ごず会が牛頭ごず機構になり、
ここ関東で関東会を結成だ!
これは記念すべき初陣ういじん!!

《バトル》

【牛頭機構関東会アストラル】
何故だ?
新天地を求めて来たのに……
セヒラが足りないのか?

中型アストラルは爆ぜるように散った。

【着信 喪神梨央】
山郷が麗華さんに会っていた、
そうなんですね?
麗華さんが察知したんですね。
【着信 新山眞】
山郷は麗華さんに、
アルツケアンを処方したのです。
麗華さんが仮面の男にいざなわれている、
それを知って、二人を利用した。
そのように思われます。
アルツケアンのこと、
もう少し調べられますか?
好文海ハオウェンハイ図們トモンにいるようです。
彼ならアルツケアンについて、
よく知っているでしょう。
かい族から買ったそうですから。

風魔は品川図們を目指して満鉄の客となった。

【満鉄列車長】
図們トモンは満洲の南東にある、
朝鮮との国境の町です。
いろんな国の人が集います。

〔品川図們〕

【満鉄列車長】
まもなく品川図們トモン、品川図們トモン
当列車の終着です。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
強いセヒラを観測しました!
注意してください。

【支那人Dアストラル】
かい族が新種の柞蚕さくさんを発見した、
そんな噂があったんだ。
好先生ハオシェンシャンはそれに飛びついた。
好先生ハオシェンシャンをはるばる烏魯木斉ウルムチまで
案内したのは私だ――
だが新種のなんていなかった!
でも先生はすごく満足して、
新京に帰っていったんだ。

【支那人Wアストラル】
烏魯木斉ウルムチには独逸ドイツ人がいた。
何かを発掘するという。
彼らにかい人夫にんぷの手配を頼まれた。
それで手配したよ。
手配した人夫にんぷは全部で六人のかい族だ。
皆、独逸ドイツ風の呼び名が付いた。
俺が知るのは、
アヒム、ベンヤミン、カール――
フランクまでいたはずだ。
だがアヒムは死んだ。
不思議な死に方だったそうだ。
まだ少年だった――

【支那人Eアストラル】
うとうとしていると、
不意に独逸ドイツ語がするんだ。
五年前、図們トモンにいたからな――
そのときの何かなのか?

【着信 喪神梨央】
隣の街区に進んでください。
不思議な波形を観測します!

五年前に独逸ドイツ人の一団が、
図們トモンに滞在しています。
八人の独逸ドイツ人です。
その時の残留思念かも知れません。
何かわかるでしょうか……

【AGK研究員Fアストラル】
フンメル博士は不思議の結晶と呼ぶ。
なるほど、あの物性は謎だ。
果たして固体なのか気体なのか、
そのどちらでもあるのか……
発見時は結晶だった。
かい族の少年アヒムが、
身をていして教えてくれたのだ。

一体のアストラルが話し始めると、他のアストラルもそれに続く格好となった。

【AGK研究員Dアストラル】
アヒムは風邪を引き、
一人宿舎で寝ていた。
そばにアルツケアンがあった――
調査を終えてベンヤミンが戻ると、
アヒムは宿舎の壁一面に、
難しい数式をつらねていた。
急遽きゅうきょ、フンメル博士が呼ばれた。
博士はひと目見て、それが、
シュレーディンガー方程式だと、
そう見抜いたんだ。
人夫にんぷの少年が方程式を導出した。
驚くべきことだ――

【AGK研究員Vアストラル】
その夜遅く、アヒムは死んだ。
アヒムの寝台の下に、
アルツケアンが落ちていた。
昼にはなかったのだ。
アヒムがアルツケアンを取り込み、
変調を来たしたのでは――
フンメル博士はそう推論した。
幾度いくどかの実験の結果、
アルツケアンは揮発きはつすると判明し、
密封容器に厳重に保管された。
ある時は結晶、ある時は気体、
それがアルツケアンの物性だ。
アヒムは結晶気体を吸い込んだのだ。

【AGK研究員Jアストラル】
アヒムは学校に通わなかった。
だが勉強がしたくて仕方なく、
我々の調査団に参加したという――
フンメル博士は、アルツケアンを、
人を意志のままに変える結晶、
転生の結晶であると同定した。
勉強して身を立てることを望んだ、
かい族のアヒムを学者に転生させた。

【AGK研究員Uアストラル】
アルツケアンは二つ見つかった。
二つともドイツ本国に送られ、
アーネンエルベで解析されるという。
ユルゲン・フェラー博士は、
アルツケアンの存在を理論化した。
その理論が実証される時が来た!

5体の研究員アストラルは話した順に消えた。そこへ中型のアストラルがやって来た。

【満蒙絲線社長Hアストラル】
私はだまされたアル!
山郷にだまされたアルね!
そうだ、まんまとアルね!
一級品の甲斐絹かいきアルと?
嘘つくアル、あんなモノ三級品アル、
いや級外品アル、それ以下アルね!!
お前!
お前も山郷の一味アルか!
そうアルね!

《バトル》

【満蒙絲線社長Hアストラル】
儞説実話我不殺儞ニーショウシーホアウォプーシャニー――
お前が本当言えば私は殺さない!!

【着信 喪神梨央】
独逸ドイツ人アストラルによって、
アルツケアンのこと、
おおむねわかりました。
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし、帰還してください。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい、兄さん――
今、青山墓地に穴が開いています。
でもセヒラは観測しません――
麗華さんの行方も知れないままです。
【新山眞】
アルツケアン、大体わかりました。
人の意志を現実のものにする、
そういう働きがあるようです。
フンメル博士は後に論文を発表し、
その中でメントロピーという言葉で、
この転生現象を定義します。
転化を意味する希臘ギリシャ語のトロフに、
メンシェンヒ トを接頭語として付し、
メントロピーとしたのです。
【喪神梨央】
では麗華さんも転生したのですか?
審神者さにわか召喚師として完成した?
麗華さんの意志ならそうなりますね。
【新山眞】
愈々いよいよ機根きこんを備えるようになった、
そうなのかも知れませんね。
山郷がたくらんだアルツケアンの衝突、
結局、起きませんでした。
【喪神梨央】
未曾有みぞうのセヒラ場など、
どこにも観測されていません。
【新山眞】
麗華さんはアルツケアンを、
よほど深く取り込んだみたいですね。
揺るぎないものを感じます。
【喪神梨央】
仮面の男は、
麗華さんを見くびっていたのですね。
【新山眞】
それなら山郷も同じですね。
【喪神梨央】
仮面の男の言ったアプシュロス――
これって卒業くらいの意味です。
さっき調べました。

兄さん――
帝都と帝都満洲で異なる時間が
進んでいます――
兄さんにとっての五日ほどが、
帝都では一月近くになります。
今、こよみは十二月になりました。

人の意志に沿う転生を引き起こす結 晶アルツケアン――
仮面の男も月詠麗華もそれを取り込む。
メントロピーは起きたのであろうか?

東経43度22分41秒、
北緯85度23分22秒――
独逸ドイツ人が結 晶アルツケアンを発掘した座標である。

第六章 第一話 敏腕記者

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

風魔ふうまが持ち帰った指輪は4本。
ユリアから預かった分と合わせて5個の指輪はいずれも飯倉いいくら技研で研究されていた――

帆村ほむら魯公ろこう
平生へいぜいは善人、いざという間際まぎわ
急に悪人に変わるから恐ろしい――
指輪はそういう人間のさがあらわすな!
喪神もがみ梨央りお
隊長、新山にいやまさんがお見えです。
新山眞にいやままこと
皆さん、おそろいですね。
帆村ほむら魯公ろこう
ほう、ほうほう! 
もう指輪の研究が
終わったんですかな?
新山眞にいやままこと
いえいえ、まだ終わっておりません。
帆村ほむら魯公ろこう
ならば、何のご御用で?
新山眞にいやままこと
いや実は、弟がですね、
厄介事やっかいごとに巻き込まれまして。
帆村ほむら魯公ろこう
弟さんは、確か……
新山眞にいやままこと
ええ、興亜日報こうあにっぽうの記者です。
日比谷ひびやの東京支局の勤めです。
帆村ほむら魯公ろこう
その記者さんが、ぜんたいどんな
厄介事やっかいごとに巻き込まれたかな?
新山眞にいやままこと
弟は、和斗かずとといいますが、
帝都の怪人騒動を取材していました。
この山王さんのう機関のことも――
薄々は勘付かんづいていたようです。
目下もっか、和斗の興味は牛頭ごず機構と、
連中が着目する人籟魔じんらいまきなのです。
帆村ほむら魯公ろこう
それはまた厄介やっかいなところに
首を突っ込んだもんだ!
厄介やっかいの総本山であるな!
新山眞にいやままこと
和斗かずとですが、現在、戸山とやまの施設に
監禁されているとセヒラ通機で
連絡してきたのです。
喪神もがみ梨央りお
セヒラ通心機つうしんき、完成したんですか?
帆村ほむら魯公ろこう
こら、梨央りお
今はその話ではないぞ。
――で、新山にいやまさん、
弟さんは戸山とやまのどちらですか?
あの辺り、いろいろあるのでね……
新山眞にいやままこと
地図を貸してください。
およその見当は付きますので。
帆村ほむら魯公ろこう
了解した。
時間もない、
早速、向かってくれ、風魔ふうま
参謀本部からの視察しさつがある、
そういう話にしておく――
喪神もがみ梨央りお
その作り話、
牛頭ごず機能は信用しますか?
帆村ほむら魯公ろこう
目端めはしく連中は出払っているはずだ。
比類舎ひるいしゃの集団自決を教唆きょうさしたと、頭目の御厨みくりや車夫しゃふが逮捕されたろう……
喪神もがみ梨央りお
新宿旭町あさひまち木賃宿きちんやどから
逃げたんですよね。
帆村ほむら魯公ろこう
逃げたというか、
まぁ自決を躊躇ためらった、
奴は下宿に帰ったところを捕まった。
それで潜伏していた比類舎ひるいしゃの連中が、
芋蔓式いもづるしきに挙げられている。
牛頭ごずにすりゃ格好の材料だ――
新山眞にいやままこと
なるほど――
アナーキストであれば、
かせて、
人籟魔じんらいまきを作りやすいわけですね!
帆村ほむら魯公ろこう
警察にさきんじて、
連中の潜伏先を当たっているはずだ。
砲工ほうこう学校の視察、今のうちだぞ!
喪神もがみ梨央りお
公務電車、飯田橋いいだばしから若松町わかまつちょうに向かう経路を抑えました。
それと……虹人こうじんさんから連絡が――
帆村ほむら魯公ろこう
おう、丁度ちょうどよい、
虹人こうじんを差し向ける。
向こうで合流してくれ!

〔戸山砲工ほうこう学校中庭〕

戸山とやま砲工ほうこう学校は若松町わかまつちょう電停から、1.5キロほどのところにあった。牛込区うしごめくの西の区境にほど近い。

【帆村虹人】
風魔ふうま
どこに行こうか、迷っているのか?
僕は場所を教えてもらったよ。
さっき、兄上が無線で教えてくれた。
――お前、本部から来たんだよな。
僕は浅草あさくさからだ――
兄上の提案でね、
今日は市内を一巡ひとめぐりしていたのさ。
お前も公務電車だろ? 僕もさ!
あれ、二両あるんだな、
そんなこと初めて知ったよ!

瀧本たきもと砲工科生】
お二方は、参謀本部からの……
そうですよね?
――当校、全てが順調であります!
砲の学習と設計に、
日々、精進しております!!
【帆村虹人】
今日はやけに人が少ないようだが……
瀧本たきもと砲工科生】
上級生ならびに教官殿は、
皆、出払っております!

【帆村虹人】
さっき梨央りおから聞いたよ。
アナーキスト連中を、
人籟魔じんらいまきの候補にする計画だって。
それで出払ってるんだろ?
ここが牛頭ごずの関係なら……
警察の情報も筒抜つつぬけなんだな!

須沢すざわ砲工科生】
視察、ご苦労様であります!!
自分、九十五式迫撃砲はくげきほうの改良を、
任されております!
該砲がいほうは、可変砲かへんほうにあります!
口径こうけい、三段階にて可変するもので、
大國屋おおくにや機械社で開発されました!
【帆村虹人】
ええ、そうなのか?

大國屋だいこくやといえば、あの変人の、
ナナオセンジロウの工廠こうしょうだ。
あの人、奉天ホウテン錠前屋じょうまえやだったらしい。
英吉利イギリスのチャブ錠というのを真似まねて、
すごい錠前作ったそうだよ――

ところで、君、
ここに新聞記者がいるって聞いたが、
見かけなかったか?
須沢すざわ砲工科生】
――
あっ、いえ、ちっともです!
天にちかって全然であります!!

【帆村虹人】
ちょっといいか――

虹人こうじん清掃夫せいそうふからそれとなく新山にいやま和斗かずとのことを聞き出した。彼はそれらしき人物を見かけたという――

【帆村虹人】
風魔ふうま、ブンヤはどうやらいるようだ。
中へ入ろう、今のうちだ。

〔戸山砲工ほうこう学校玄関ホ―ル〕

【帆村虹人】
……おい、風魔ふうま――
(普通の砲工ほうこう学校じゃないな……)

検見川けみがわ砲工科生】
視察、ご苦労様です!
自分たちの上級教官様というのは、
神埼かんざき軍医少佐であります!!
神埼かんざき軍医少佐には、
弟さんがいらっしゃいます。
弟さんも軍医様で、
陸軍軍医学校で神埼かんざき班班長を、
なさっておいでです。
【帆村虹人】
神埼かんざき班……
確か、戸山とやま衛戍えいじゅ病院のかいの特務、
その記録にあったな――
やっぱり……
(ここは怪しいぞ)

手島てじま砲工科生】
ようこそ、おいでなさいました!
戸山とやま砲工ほうこう学校へ!
【帆村虹人】
ここでは、何を学んでいるんだ?
手島てじま砲工科生
砲の新技術であります!
【帆村虹人】
参謀に視察報告を上げねばならん、
技術のこと、くわしく教えてくれ。
手島てじま砲工科生】
可変かへん口径こうけいの砲、遠隔にて操作する砲、
自ら標的を探信たんしんする砲、
新物質にて霊異りょういす砲であります!
【帆村虹人】
霊異りょういす?
(こいつら審神者さにわを知っているのか)

【模範囚ト】
視察の方ですね?
【帆村虹人】
――そうだが……
【模範囚ト】
ああ、よかった!
間に合いましたね!
【帆村虹人】
ん?
何に間に合ったんだ?
【模範囚ト】
観察ですよ! これから始まる。
人に極度の苦しみを与えて、
魂の抜ける間際を観察するのです。
【帆村虹人】
お前、何の話をしている?
――もしや、新山にいやま和斗かずとのことか!
【模範囚ト】
ほう! よく知っているな!
――お前達が偽物にせものなのはお見通しだ。
そういうのはらしめないとな!
【模範囚ト】
ウハハハハ!
油断したな、貴様らの帆村ほむら流とは、
その程度のものか!

《バトル》

【模範囚ト】
フフフ……
我々の計略は奥深いのだ……
【帆村虹人】
ぬかった……
ちょっと油断したんだ……
僕は……お前と一緒だと……

瀧本たきもと砲工科生】
――
今より、一瞬、停電します。
それにより……
【帆村虹人】
停電するって、どういう意味だ?
瀧本たきもと砲工科生】
停電によって地下室の扉が開きます。
記者さんはそこにいます。
――停電時間は一瞬です!
これは千載一遇せんざいいちぐうの機会なのです。
さぁ、教官らが戻る前に、早く!

【帆村虹人】
電気が消えたぞ!
風魔ふうま、地下室だ!
あそこの階段じゃないか。

〔戸山砲工ほうこう地下室〕

【帆村虹人】
おい、風魔ふうま
そこにいるの、ブンヤじゃないか?
【新山和斗】
――
気を付けたほうがいいですよ。
【帆村虹人】
貴方を助けに来ました。
――動けますか?
【新山和斗】
危ない!!
【模範囚ナ】
今日はあれですか?
――葬式ですかね?
【帆村虹人】
貴様、何を言っている!
【模範囚ナ】
帆村ほむら帰神きしん法、本日、終われり。
牛頭ごず機構の前では、赤子も同然。
そうではないですか?
【帆村虹人】
帆村ほむら流、貴様らの邪流じゃりゅうに、
負けるものではない!
【模範囚ナ】
それはさぞかし軒昂けんこうなことで!
では参りましょうか!!

《バトル》

【模範囚ナ】
なるほど!
我々ももっと研鑽けんさん積む必要が……
……ありそう……です……
【新山和斗】
わかったでしょう!
ここは牛頭ごず機構の影響下にある。
僕がぎつけたんです――
【帆村虹人】
随分と危ない橋を渡りましたね。
さぁ、戻りましょう。
お兄さんが心配されておいでです。
【新山和斗】
僕の調査、役に立ちますよね!

〔戸山砲工ほうこう学校中庭〕

【山郷武揚】
残念ながら、今は主だった連中、
皆、出払っていてね――
【新山和斗】
あなたは……
もしや、牛頭ごず機構の頭目とうもく
その人ですね!
【山郷武揚】
私はただの民間人だよ。
ここもただの砲工ほうこう学校だ――
そうではなかったかな?
【新山和斗】
あなた達はここで人籟魔じんらいまきの、
研究開発を行っている。
人の魂を食うだ!
【山郷武揚】
君にはなるものが見えるのか?
私には見えんが……
皆、参謀本部のでっち上げだ。
連隊に怪人部隊をもうける、
そんな話もあるようだな。
余計なことに巻き込まれないことだ。
【新山和斗】
防疫研ぼうえきけんと組むのは何故なぜですか?
あるいは市ヶ谷いちがや刑務所、
あそことはどういう関係ですか?
【山郷武揚】
私はね、受刑者の更生こうせいに、
尽力じんりょくしているのだよ。
さぁ、急がなくては!

【山郷武揚】
おお、ちょうどよかった。
戻りが早かったな、少佐。
彼らの相手をしてやってくれ!
神埼かんざき軍医少佐】
もう用事は済んだのですか、
お二方は?
【帆村虹人】
あんた、もしかして軍医か?
神埼かんざき軍医少佐】
しつけが出来ていませんねぇ、
軍属風情ふぜいがその口の聞きようですか!
――山王さんのう機関には教育が必要ですね。
【新山和斗】
これは驚きだ、
砲工ほうこう学校に医者がいるとはね!
いったい、何の研究をするのですか?
神埼かんざき軍医少佐】
君かね、ちょろちょろまわる、
三流記者というのは?
材料になったと報告を受けたが――
【帆村虹人】
材料とは何ですか?
人籟魔じんらいまきの材料ですか?
――ここではその研究を……

神埼かんざき軍医少佐】
おやおや!
山王さんのう審神者さにわにも効きましたか!
この新型閃光弾せんこうだん

さて、弟から報告は来ていますよ。
君とお手合わせ願えるとは、
光栄の極みですな!

《バトル》

神埼かんざき軍医少佐】
素晴らしい! 実に見事だ!
私に新たなる目標が出来た。
――感謝……する……よ……
【帆村虹人】
――風魔ふうま……済まない……
さっきの油断が……尾を引いている!
――公務電車を、呼んでくれ……

〔山王ホテルロビ―〕

三人は公務電車で赤坂あかさかまで戻った。電車は山王下さんのうした電停に留置された。

新山にいやま和斗かずと
さっきはいきなりでした。
目眩めくらましでも使ったんですかね。
僕はどうやら、真相に近づき過ぎ、
連中の警戒心を高めてしまった。
でもね、あきらめる気なんてないですよ!
ところで、あなた、
手に持つそれ、当社の原稿用紙です。
作家に渡すものです――
帆村ほむら虹人こうじん
ああ、これは兄が無線で、
砲工ほうこう学校の場所を知らせてくれ、
持っていた紙に書いたのですが……
新山にいやま和斗かずと
その用紙、貴方がお持ちだった、
そういうことなんですか?
帆村ほむら虹人こうじん
……実を言うと
僕は貴紙の投稿者です。
ペンネ―ム、白金江しろかねこうと言います。
時に投稿小説を書きます。
新山にいやま和斗かずと
ああ、あの白金江しろかねこうさんですか!
たしか、秋宮あきみやという小説ですね。
諏訪すわの旧家を舞台にした三姉妹の――
新山眞にいやままこと
なるほど、投稿作家が
こんなところにいたとは驚きです。
新山にいやま和斗かずと
ああ、兄貴!
セヒラ通心機つうしんき、ちゃんと使えたよ。
それにしても危なかった――
新山眞にいやままこと
ちぃとばかり、深入りが過ぎた、
およそ、そんなところだろう。
今はいろいろ不安定な時期だ……
新山にいやま和斗かずと
比類舎ひるいしゃ御厨みくりや車夫しゃふが逮捕され、
残された連中が不満をたぎらす、
これは想像にかたくない――
新山にいやま和斗かずと
牛頭ごず機構にすればそういう人間は、
人籟魔じんらいまきの材料にうってつけだ。
こぞって捕獲に乗り出すはず――
帆村ほむら虹人こうじん
あの砲工ほうこう学校が牛頭ごず機構の本拠だと、
知っていたのですか?
新山にいやま和斗かずと
勿論もちろん! 市ヶ谷いちがや刑務所、砲工ほうこう学校、
どちらにも牛頭ごず機構の構成員はいる。
防疫ぼうえき研究所にもいるといううわさです。
新山眞にいやままこと
いろいろ首を突っ込みすぎるなよ。
今回は運が良かったといえる。
この次はどうなるかわからんぞ。
新山にいやま和斗かずと
まぁ、程々にやりますよ。
新山にいやま和斗かずと
じゃあ、皆さん、僕は失敬しっけいします。
助けていただき、感謝しています。
兄貴、また浅草あさくさ今木いまきに顔出しなって!

新山にいやま和斗かずとは悪びれる風でもなく、軽い足取りでホテルを後にした。その目はすでに遠くを見つめているようだ。

新山眞にいやままこと
ああいう奴なんだ、
勘弁してやってください。

それで、みなさん――
預かった指輪なんですが、
特有の波形がわかりました。
指輪がかもすセヒラの波形です。
それを求めれば、他の指輪の
おそらくわかります。
喪神もがみ梨央りお
その波形の特徴をつかんでおけば、
指輪で怪人になる人を防げますね!
新山眞にいやままこと
ええ、理屈の上ではそうです。
喪神もがみ梨央りお
承知しました!
これから、留意して探信たんしんします。
新山眞にいやままこと
私が心配なのは月詠つくよみ麗華れいかさんです。
あの人は悪戯いたずらに召喚をしている――そう思えてならないのです。
喪神もがみ梨央りお
麗華れいかさん、行方不明なんですよ!
悪く言わないでください!
新山眞にいやままこと
いえ、決してそんなつもりは……
ただ――
……いずれ問題になりそうです。
喪神もがみ梨央りお
麗華れいかさん、鈴代すずよさんの側にいて、
術を会得えとくしたんでしょうか……
――そしたら、私も……

鈴代の決意

けたたましい警報が鳴り響いていた。それは何かおぞましいものの到来とうらいを告げるかのようであった。

〔山王機関本部〕

喪神もがみ梨央りお
兄さん!
異常なセヒラを観測しました!!
――見たことのない値です。
帆村ほむら魯公ろこう
何だったんだ、今の警報は?
喪神もがみ梨央りお
セヒラです、異常なセヒラです。
値がとても大きくて!
変動もすごくて!
帆村ほむら魯公ろこう
わかった、わかった、梨央りお
それで、まだあるのか?
その、異常なセヒラは。
喪神もがみ梨央りお
いえ、今は観測していません。
でも――

新山眞にいやままこと
失礼します、
飯倉技研いいくらぎけん新山にいやまです。
帆村ほむら魯公ろこう
ちょうどよかった……
今しがた、セヒラの異常を観測した。
――何があったんだ?
新山眞にいやままこと
もしかすると……
博士が――
しでかしたかもです。
帆村ほむら魯公ろこう
博士?
――銀河ぎんがゼットー博士がかな?
新山眞にいやままこと
ええ、そうです。
以前、博士からわれたんです。
――ある装置をこしらえるので、
新山眞にいやままこと
霊式れいしきヘテロヂンの理論が知りたいと。
波形合成の理論と解法を求められ、
私の研究ちょうをお渡ししました。
喪神もがみ梨央りお
それって、セヒラに関係する、
そういうたぐいの装置ですか?
新山眞にいやままこと
どうも、そのようです。
何でも画期的な装置だそうです。
それが作動して異常なセヒラを――

喪神もがみ梨央りお
兄さん、その博士から、
是非とも調整室に来て欲しいと。
――何があるんでしょうか……

〔山王機関魔課調整室〕

銀河ぎんがゼットー】
いやぁ~来たかね、君!!
驚天動地きょうてんどうちの大発明が完成したのだ!
世紀の、まさに世紀の大発明っ!!
落ち着くんだ、君!
ここにらせしは~
――夢玄器むげんきなりぃぃぃ~!

不可思議な眼鏡のような物が、銀河ゼットー発明による夢玄器むげんきであった。夢玄器むげんきは何かと繋がっているようである――

銀河ぎんがゼットー】
おーほほっ!
そうだ、夢玄器むげんき!!
大完成した我が夢玄器むげんきである。
こいつはアラヤ界の思念を吸い出し、
仮想的劇的空間を作り出す装置マシーンだ。
その空間を夢玄域むげんいきと呼ぶことにする。
先程、ボクも夢玄器むげんきを着けて、
夢玄域むげんいきに入ってみたんだ――
見えたよ……いや、ボクは訪れたんだ。
我が故郷……我が父、銀河Y太郎わいたろう
ボクは尋常小学校五年生だった……
あの夏の日、蒼天そうてん下の八月一日、
我家の木戸に父とペンキを塗った……
脳天を刺す日射熱を今も感じる。
数年後、父は実験でウランに被爆した――
さてだ、君も出かけたいだろう?
早速、こいつを着けて夢玄域へむげんいき!!
よぅし、準備はいいな、勿論もちろん!!
夢玄器むげんきを着け、君が行くのは、
愛と妄想に溢れる夢玄域むげんいき!!

〔夢玄域〕

皇紀2592年、昭和7年3月――
如月きさらぎ鈴代すずよはある決意を胸に、
帆村ほむら魯公ろこうもとを訪れていた。

如月きさらぎ鈴代すずよ
先日のことです……
銀座を歩いていて、一人の学生さんと
すれ違ったのです――
すれ違いざま、その人は振り返り、
ものすごい形相で
私をにらみつけました――
その人は気付いていたのです……
私の霊異りょういすことに――
あるいは想像したのかも知れません。
私のを呼ぶさまを――
帆村ほむら魯公ろこう
その学生は、おそらくを呼ぶ者。
流派にない者でもを呼ぶ例が、
どうやら増えてきておる――
如月きさらぎ鈴代すずよ
にらまれた私は何もできませんでした。
ただ、その場に立ちすくみ、
身を硬くするばかりでした。
――その時、悟ったのです。
もう私には霊異りょういは現れないと。
東雲流を守るほどの霊異りょういは――
先生、東雲しののめの流派を閉じようと……
これ以上、こだわっていても、
良い方向に向かうとは思えません。
帆村ほむら魯公ろこう
うむ……
鈴代さん、お前さんがそう思うのなら
そのようにすれば良い。
東雲流帰神法しののめりゅうきしんほう、わしが受け継ぐ。
お前さんが流派に戻りたければ、
いつでも戻れば良い。
如月きさらぎ鈴代すずよ
心強いお申し出、感謝します――
帆村ほむら魯公ろこう
ちょうど軍の方からも話があって、
帰神きしん法の流派をまとめてくれと。
そう頼まれておったところだ。
軍は軍で調査をしておったという。
わしら審神者さにわ帥士すいしと呼ばれておる。
ひきいる士官ということだな――
ただ流派を閉じるにしても、
一朝一夕いっちょういっせきには運ばないぞ。
しばらくは協力してもらうことになるな。
如月きさらぎ鈴代すずよ
勿論もちろん、協力は惜しみません。
帆村流帰神法ほむらりゅうきしんほうとしてお整えください。
帆村ほむら魯公ろこう
風魔ふうまの奴もめきめきと、
上達しておるからな!
如月きさらぎ鈴代すずよ
そうですわね。
とても頼もしく存じます。

年初に帝大のつた博士がセヒラを同定。並び発表されたに関する論文により、陸軍参謀本部では特務機関の設置を決めた。
喪神もがみ風魔ふうま、20歳――
陸軍士官学校予科の卒業を目前にしていた。卒業後は、本科進学に先立ち伍長ごちょうに任官する。

夢玄域むげんいき近代的モダンなビルヂングが現れた。それは東京新宿にある東洋ホテルだった。
一室人8えんの高級ホテルである。

麻美マーメイ
ここは新宿の東洋ホテルですね。
界隈かいわいきっての高級ホテルです。
外国人も多く利用しています。
実はこのホテル、鈴代さんの叔父おじ
山郷やまごう武揚ぶよう常宿じょうやどなのです。
山郷やまごう武揚ぶようは山梨から上京する毎に、
この東洋ホテルに投宿とうしゅくします。
彼は鈴代さんが流派を閉じることを、
良くは思っていません。
今、彼の思念が強く働いています――
ゆかりのある人の思念が、
縁のある場所を出現させるのです。
怪人もその場所に由来しています。
ホテルならホテルの従業員、
あるいは宿泊客もいるはずです。
残留思念から怪人が生まれるのです。
それでは慎重に取り組んでください。
期限が来ると思念はすべて
消えてしまいます――

《バトル》

山郷やまごう武揚ぶよう
あろうことか、鈴代すずよによって、
我が東雲しののめ流が閉じられようと――
そのような擅断せんだん、私はゆるさない!
研鑽けんさんを積めば、
いくらでも霊異りょういは得られるのだ。
おい、小森こもり
お前は荒木町あらきちょうの酒屋として、
如月きさらぎ家に用聞きをしているな?
小森こもり時夫ときお
――はい……
山郷やまごう武揚ぶよう
お前にも力を授けよう。
その代わり、如月きさらぎ家のこと、
細大漏らさず伝えるのだ。
小森こもり時夫ときお
承知しました。
おおせの通りに。

〔山王機関魔課調整室〕

銀河ぎんがゼットー】
むむむむむ――
君はすこぶる安定しておったな!!
――反してボクはダメだった……
夏空が真っ黒になり、父が消え、
世界の像がいちじるしーく乱れてしまい、
気付くとここに戻っていた――

君の場合は大丈夫なようだな!
君の働きに恐れをなしたか、
夢玄域むげんいきが観測できなくなった!
そうだよ、夢玄域むげんいきが消滅したんだ!
次に夢玄域むげんいきが現れたら、
赤札あかふだ特務を申請しておくぞ。
ひとまずゆっくりしてくれ!

〔山王機関本部〕

喪神もがみ梨央りお
博士の発明、何かすごいですね。
あの異常なセヒラは夢玄器むげんき
せいだったんですね!
帆村ほむら魯公ろこう
アラヤ界から思念を集めて
ひとつの空間が仮想に再現された……
不思議な事もあるもんだ。
ゼットー博士は、同様の仕組みで、
も作られているのではと、
考えているようだな。
喪神もがみ梨央りお
じゃ、夢玄器むげんきのようなもの、
他にまだあるんですね?
帆村ほむら魯公ろこう
帥士すいしの前にを現すのだ、
夢玄器むげんきとはまた異なる原理だろうな。

銀河ゼットーがひらいた仮想の世界、夢玄域むげんいき。そこでは人々の思念が形を成していた。まるで心のうちを見かすかのようである。

黒札 第七話 山郷武揚の目論見

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

喪神もがみ梨央りお
兄さん!
鈴代すずよさんがお出かけされます。
帝都の状況はかんばしくありません……
鈴代すずよさんを尾行してください。
危険な目にわないとは限りません!

溜池ためいけ通〕

如月きさらぎ鈴代すずよは、誰かに呼び出されたようだ。
急ぎ足で溜池ためいけの電停方面へと向かっている。

【帝大生】
悪い気に当てられて、
怪人になっちまう奴がいっぱいだ!
うちの寮生りょうせいにも一人いるんだ!
この間なんざ、
混凝コンクリートの壁に拳で穴を開けたんだ!
【着信 喪神もがみ梨央りお
鈴代すずよさん、溜池ためいけから市電に乗ります。
三系統でしょうか……
公務電車を回します!

赤羽橋あかばねばし

鈴代すずよの乗る市電を付けて赤羽橋あかばねばしへ。
鈴代すずよ赤羽橋あかばねばしで四系統に乗り換えるようだ。

置屋おきや女将おかみ
あらいやだ、さっきの女性ひと
すっかり素敵すてきなモガさんね!
見とれちゃったのよ……

兵卒へいそつの男】
あんたも、ク号に興味あるってか?
あーん?
知らないってか!
見逸みそれしたな!
クは怪人クヮイジンのクだよ、
怪人兵士のことだ!
軍も大いに興味を持ち始めたってよ!
【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
急激きゅうげきなセヒラの上昇を観測しました!
注意してください!

【陸軍少尉】
われ大君おおきみされたる者!
おお八洲やしま大義たいぎにかけて、
貴様をち取る!

《バトル》

【陸軍少尉】
うううう……
この俺でもを指揮できる……
そのはずだったのに……
ちくしょう!
――お前は、もしや……
軍の者なのか?
【着信 喪神もがみ梨央りお
その辺りのセヒラはなくなりました。
――黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし……
清正公せいしょうこう前の近くでセヒラ観測です……
鈴代すずよさんは市電四系統です。
ちょうど清正公せいしょうこう前にいるはずです。

清正公前せいしょうこうまえ

如月きさらぎ鈴代すずよ
あっ!
風魔ふうまさん!
帝都が危険なことは承知しています。
でも……
――叔父おじに呼び出されたのです。
折り入って話したいことがあると……
――叔父おじ様……
山郷やまごう武揚ぶよう
鈴代すずよ……
それに風魔ふうま君も!
それなら、話が早いというものだ。
――いやね、小森こもりの不始末を
ここでびようと思ってね!
如月きさらぎ鈴代すずよ
小森こもり
――それじゃ……
この一連の騒動そうどうは……
山郷やまごう武揚ぶよう
なんだ、その目は?
――ああ、そうだよ、
私が小森こもりに指示を出したんだ。
如月きさらぎ鈴代すずよ
叔父おじ様!
――
山郷やまごう武揚ぶよう
鈴代すずよ、お前は知っているだろう。
私はお前のお父さんとは異母いぼ兄弟……
私は父、松丘しょうきゅうめかけに産ませた子だ――
――まぁ、長話はよしておこう。
私には、鈴代すずよ――
お前のような能力は備わっていない。
如月きさらぎ鈴代すずよ
私も……審神者さにわとしては、
まったく至らぬ存在でした……
それで……東雲しののめ流を閉じたのです。
山郷やまごう武揚ぶよう
ふん……ずいぶんと身勝手な理屈だ。
お前が東雲しののめ流を閉じなければ、
私も、もっと研鑽けんさんを積めたのだ!
東雲しののめ流から暖簾のれんを分けた帆村ほむら流が
今や陸軍に協力しているというのに、
我々はまるで浪人ろうにん風情ふぜいだ――
如月きさらぎ鈴代すずよ
叔父おじ様は……
ただ力を求めておられるだけでは――
山郷やまごう武揚ぶよう
力!
いろんな力があるものだな!
――審神者さにわには強い霊力れいりょくが必要だ。
鈴代すずよ、お前が自らの霊力れいりょくふうじ、
我々に神なる力が届かなくなった……
――やがて力は自らに宿る……
それが東雲しののめ流の教えではなかったか?
この私にも宿やどるのだと――
如月きさらぎ鈴代すずよ
――私にはもっと禍々まがまがしい力に
思えてなりません……
山郷やまごう武揚ぶよう
はははは、力は力だ。
だが、もうよい。
まじないめいたことはおしまいだ。
迷信めいしんは弱者の宗教とも言う。
そうだろう、鈴代すずよ――
科学の力によって、
未来が開けようとしているのだ。
――輝かしい未来がな!
如月きさらぎ鈴代すずよ
それは……いったいどのような……
山郷やまごう武揚ぶよう
お楽しみはとっておくものだよ。
さぁ、今際いまわの別れとなるだろうか……
鈴代すずよ、それに風魔ふうま君!
わたしは残念だよ――
おい、小森こもり
新しいを試す時だ!
準備はおこたりないか?

小森こもり時夫ときお
無沙汰ぶさただな、喪神もがみ風魔ふうま
お前には楽しませてもらったよ!
まだ自分の力を信じるか?
――科学が生んだ人籟じんらいを相手に、
せいぜい威勢いせいを張るが良い!

【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
なんだか不思議です……
セヒラが乱れていきます――
小森こもり時夫ときお
うははははは~
人籟じんらいはセヒラを取り込んで、
おのれの中で融合ゆうごうする!
お前らの技術は通用しない!

《バトル》

小森こもり時夫ときお
まだ序の口というやつだな。
人籟じんらいの材料は尽きない!
またお手合わせ願うとするぜ!
如月きさらぎ鈴代すずよ
風魔ふうまさん……
叔父おじは何かをつかんだ……
そうなのかも知れません。
人籟じんらい牛頭会ごずかいの肝いりだった、
そういうことなんでしょうか?
私も出来る限り調べてみます。
叔父おじのこと――
私も責任を感じています。
【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
先ほどは……
――うまく伝えられませんでした。
怪人がを指揮しているのに、
セヒラをちゃんと観測できなくて……
人籟じんらいは波形が乱れやすい――
これを教訓としておきます。
それと……
探信の仕方ですが、
私の方でいろいろ研究してみます。

小森こもりの挑発は山郷やまごうの計略であった。
国立防疫ぼうえき研究所で生み出される人籟じんらい
山郷やまごうらはそれをも利用し始めた――

黒札 第三話 牛頭会の誕生

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

帆村ほむら魯公ろこう
風魔ふうまよ……
ちょっと話があってな。
じつは、池袋のとある作家先生が
ゴエティアのことをぎつけたんだ。
先生はこんなことをおっしゃる……
何冊かの偽典が帝都に集まる――
いやはや、大した慧眼けいがんじゃ。
西洋の悪魔共がこの帝都を目指す、
そんな光景が見えるようだな!
ゴエティアの偽典は、
我ら審神者さにわにとっても大事な書ぞ!
その作家先生にゴエティアの書、
是非お目通し願いたくてな。
書を帝大から池袋の先生宅へ運ぶ。
移送中、何者かに襲われんとも……
第一連隊の精鋭が護衛に付くが、
お前さんも隊に合流してくれ!
喪神もがみ梨央りお
兄さん!
敵勢力は東雲しののめ流残党、小森こもり一派……
となれば、
これは黒札特務となります!
第一連隊第三小隊の車列トラック
通常訓練に偽装しています!
上野広小路うえのひろこうじに向かってください!

上野広小路うえのひろこうじ

満洲まんしゅう回教徒かいきょうとからもたらされた
ゴエティアの偽典。
それをねらう者があるという――
第一連隊の警護に加えて、万が一に備えることになり、山王さんのう機関の出動となった。

如月きさらぎ鈴代すずよ
風魔ふうまさん!
びっくりなさらないで!
池袋いけぶくろの先生って……
もしかして乱歩らんぽ先生ですか?
――梨央りおちゃんが教えてくれました。
江戸川えどがわ乱歩らんぽ先生……
私、乱歩先生のご本、大好きなの!
【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
聞こえますか?
上野近辺でセヒラ上昇確認!
それに……
連隊の車列トラックが停止したままです!
如月きさらぎ鈴代すずよ
風魔ふうまさん……
これをお持ちください……
――東雲しののめ流の霊符です!
東雲しののめ審神者さにわの力を、
一時的に弱くできます。
連中が降ろすにも
霊符れいふの力が及ぶはずです!
あっ!
誰か人が……
私は公務電車の中にいます!

【小料理屋の女将おかみ
さっきから軍人さんが
こっちを気にしてるのよ。
――なんだか嫌な感じよね!
建具師たてぐし
軍人さんがなんか騒いどるわい!
わしには関係ないけどな!

【小料理屋の女将おかみ
きまって新月の夜に
アタシがおかしくなる……
兄はそう決め込んでたのよ!
だからさぁ~
新月の夜に食ってやったよ!
むしゃむしゃとね!
あはははははは~

《バトル》

【小料理屋の女将おかみ
なんだか……
アタシってば、頭痛が治ったみたい!
ちょいと、どいてよ!

建具師たてぐし
わしはなぁ……
こいつらにおのれたましい
しゃぶらせてるんだ!
くせになる味なんだってよ!

《バトル》

建具師たてぐし
最近、とみにせてきちまった……
風呂でも浴びっか!
【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
その辺りのセヒラが弱まりました!
でも……
まだ少し残っています!
引き続き、警戒してください!

【???】
危ないっ!
こっちだ!

まだが残っていたんだ……
ところで……
君が……
喪神もがみ風魔ふうま君だね?
私は山郷やまごう……山郷やまごう武揚ぶようだ。
如月きさらぎ鈴代すずよ叔父おじに当たる……

山郷やまごう武揚ぶよう
もっとも、私は山郷やまごう家に婿入むこいりして、
姓は山郷やまごうと変わったけどね。
鈴代すずよのお父さんとは異母いぼ兄弟なんだ。

如月きさらぎ鈴代すずよ
叔父おじ様!
どうして、ここへ?
山郷やまごう武揚ぶよう
おおお、鈴代すずよもいたのか!
それなら二人に聞いて
欲しいんだが……
如月きさらぎ鈴代すずよ
どんな話ですの?
山郷やまごう武揚ぶよう
私は大いにうれいているのだよ。
この帝都まち享楽きょうらくに浸る様をね。
皆が自分の道を見失い、
求めるものさえわからず
彷徨さまよっているようだ――
正しき道を見つけねばならない。
そうではないかな、鈴代すずよ
如月きさらぎ鈴代すずよ
帝都では騒動が続いています。
市民はむしろ恐れているのでは?
山郷やまごう武揚ぶよう
恐れ! 誰が畏怖いふなどするものか!
鈴代すずよ、君は自分の進むべき道を
ちゃんと見通しているかね?
如月きさらぎ鈴代すずよ
私……それができそうもないから、
東雲しののめ流を閉じたんです。
霊力を……封じたのです。
山郷やまごう武揚ぶよう
我々は、世界を正しき道へと導く、
その役目を仰せつかっているんだよ。
私は歴史に学び、その役目を知った。
鈴代すずよ、君も私のように学ばなくては。
――私にはね、前進しようとする
力がみなぎっているのだよ。
今、一歩を踏み出すときなのだよ。

如月きさらぎ鈴代すずよ
父と叔父おじはお母さんが別々なの……
叔父おじはおめかけさんとの間に生まれた……
だから、父と叔父おじはほとんど口を
聞かなかった……
――そう聞いています。
それなのに……
父が受け継いだ東雲しののめ流に、
なぜあれほどこだわるのかしら……
【着信 喪神もがみ梨央りお
大変です!
連隊の車列トラック
怪人に襲撃されています!

【目付きの悪い男】
ちょっと道を聞きたいんだけどな……
兄さん、地獄の一丁目って、
このへんかい?
【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
危険です!
セヒラ急上昇です!

【目付きの悪い男】
おやおや、そんな怖い顔しちゃって!
お兄さん、もしかして地獄の住人?
そりゃよかった!
でもほんとの地獄はこうなんだよ!

《バトル》

【目付きの悪い男】
こりゃ、小森こもりさんも、
手を焼くはずだわな!
小森こもり時夫ときお
ふふふ、どんな塩梅あんばいだ?
うちの手下どもも、よくやるだろ?
力を欲しがってる奴は――
帝都にゃ五万ゴマンといるんだ!
それらを組織すりゃ、
一大勢力の出来上がりだ!
そうだ、勢力だ!
牛頭会ごずかい、そう名付けさせてもらうぜ!
どんどん人を集めて、
お前らを飲み込んでやる!
力のすべては牛頭会ごずかいがいただく!
【着信 喪神もがみ梨央りお
第一連隊の車列トラックは無事池袋に到着!
幻影城げんえいじょうという場所だそうです。
上野広小路にいたのは
囮の車列トラックでした……
山王さんのう機関の動きが探られている
そのおそれがあります……
――今後、警戒を強めます。
以上です!

よこしまな力を求める者達によりいよいよ牛頭会ごずかいが結成された。
帝都は混迷こんめいを極めようとしている。

山郷武揚やまごうぶよう

 如月鈴代の叔父である。鈴代の父、如月宗達の妾腹の子であり、その仲は芳しくなかったようだ。後に新潟の山郷家に婿入りしている。
 東雲流帰神法の審神者としての修練を積んでいたようで、セヒラの満ちた帝都にて魔神を求める言動も幾度か確認されている。
 一見温厚そうではあるが、その裡には野心を秘めているようだ。

yamagou
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