第九章 第十一話 世界軸

異なる世界とでも言うべき体験の後、発生したセヒラ異常で赤坂哈爾浜ハルピンへ。
中味に人を残すカバネを迎えることに――

〔赤坂哈爾浜〕

【着信 新山眞】
喪神もがみさん――
あのカバネ、あ、いや、綾部あやべ氏は、
とても知識が豊富です。
帝大文科の出ですが、
独学で時間旅行と魂の研究をし、
論文までしたためたそうです。

喪神さんに話があるとか――
是非ぜひ、同行お願いします。
その先で待っていますよ。

【内務省安寧課D課員】
安寧あんねいですか? 安寧あんねいですか?
勿論、安寧あんねいですよね――
この国で、安寧あんねいでないなんて、
ちょっとあり得ません。

【内務省安寧課S課員】
安寧あんねいですか? 安寧あんねいですね!
新しい標語です――
黙って労働、笑って安寧あんねい
心がしずまるようではないですか!
貴方も難しい顔などしないで、
安寧あんねいにしてください!

【内務省安寧課E課員】
安寧あんねい課ではラヂオ番組を提供します。
安寧唱和あんねいしょうわを十三回行ってから、番組が始まりますよ!
番組とは安寧あんねい料理相談です。
記念すべき第一回は西洋料理相談。
リードボーの葡萄酒ワイン煮込みです!

【内務省安寧課K課員】
今は冬ですから、起床時間は六時、
夏にはこれが五時に繰り上がります。
起床後、直ちに安寧釦あんねいボタンを押して、
一日の安寧あんねいを当局に誓いましょう。
――ご安寧あんねいに、ご安寧あんねいに!

【内務省安寧課A課員】
日々の労働で安寧あんねいな生活を!
独逸ドイツ人はいいことを言いますよ――

アルバイト マハト フライ――
働いて自由になろう。
安寧あんねいに、ご安寧あんにに。

【内務省安寧課Y課員】
おい、貴方!
国民の安寧あんねいを乱すでない!
国民安寧あんねい必携ひっけいを所持するか?

ああん、どうなんだ?
貴方……内務省安寧あんねい課をめるな!!

《バトル》

【内務省安寧課Y課員】
ううう――
私の心に巣食うものは何だ?
直ぐに安寧あんねい運動で取り去らねば!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
カバネと合流してください!

【綾部研究員】
大学の資料室にあった赤新聞に、
英吉利イギリスの空想科学小説、
八十万年後の社会が載っていました。
航空機ではなく時を移動する航時機タイムマシン
それに乗って未来に行く話です――

それはHGウェルズが発表した空想小説、タイムマシンを翻訳したものだった。
大衆紙に連載され人気を博した。
そこに描かれている遠い未来は、明るく広い庭に果樹が点在する、まるで楽園のような場所であった。

【綾部研究員】
その一節、そらんじていますよ!

博士は四方を見廻みまわしたが、
広い広い庭である、今し方、雨が降ったと見え、芝草にはつゆが宿っている、
土も柔らかに、我が足跡と航時機のわだちの跡がむほど湿っているが、時は夏の初めで有ろうか日の光が強い。

博士の前には、大理石できざんだ大きな獅子女面の像がある。
広い庭に古い遺跡が点在しているのだ。

【綾部研究員】
この時代の人は、皆、小さいのです。
その一節です――

家の窓から三四人の小さい人が
首を出して博士をながめていた――
彼等は子供ではない、
全くの成人おとなである、
背の丈は四尺に足るか足らずである。
声はヴァイオリンの音のごとく聞こえ、博士に接する彼等の手は真綿の如く
柔らかである――
アゝ、ここ
全く平和の天地である――

素晴らしいと思いませんか!
私は時間旅行の研究に着手し、
そして気付いたのです。
時間旅行するには人は重すぎる。
でも魂ならそれが可能になると。
魂の重さは四分の三オンスといいます。
卒業し、冒険青年の編集に職を得、
出社したらそこが防疫研究所でした。

時間旅行の研究をした仲間がいます。
アストラルですが話せるはずです。
こちらへ――

そう言うとカバネは踵を返して歩き去った。風魔は後に続く。
次の街区に行くと小型の二体のアストラルが浮かんでいた。カバネは向かって左のアストラルに話しかけた。

【綾部研究員】
新町君、君は時間とは線路のようだ、そう言っていたね。
【防疫研S研究員アストラル】
はい、時間は線路です。
過去から未来へ繋がる線路――
しかも複数あるのです。

独逸ドイツのエッセンである学校の先生が、
町角で自分の分身と出食わしたとか。
それがドッペルゲンガーと言います。
つまり別の世界を生きる自分、
それが不意に現れたわけです。
【綾部研究員】
私もかねてより世界は複数ある、
そう考えていたんだよ。
そして世界は時間に従い、
一つの方向を向いている――
だから世界軸と呼ぶことにしたんだ。
【防疫研S研究員アストラル】
その世界軸にはことわりがあります。
ことわりが違うと
世界軸も変わってくる――
そうじゃないんですか?
【綾部研究員】
ことわりことわりの間には、
ある種の閾値いきちのようなものがあり、
値を超えると別な世界軸に入る――
私はそう考えているのだが――
堀川君は、ことわりについてはどうだい?

カバネは向かって右のアストラルに話しかける。

【防疫研H研究員アストラル】
例えば無心と有心というのがあり、
それらはどちらもことわりを為します。
亜當アダム夏娃イブが禁断の実をかじる前、
二人は無心の中にいました。
かじった後は有心に堕ちたのです。
【綾部研究員】
その場合の世界軸は二本だね――
世界軸を移る、あるいは、
ひょんなことから世界軸が繋がる、
そういうこともあると考えています。
【防疫研H研究員アストラル】
無心軸から有心軸へ移ったように、
ある閾値いきちを超えると元の軸には
留まることはできないようです。
【防疫研S研究員アストラル】
別な世界軸から移ってきた自分、
それがドッペルゲンガーなんですね。
【綾部研究員】
もう一つ大切なこと――
それは別な世界軸に繋がるなどして、
結果的に時間旅行ができることです。
そうなれば――
大仰な航時機の発明は不要です。
ただ――
【防疫研S研究員アストラル】
世界軸をほしいままに操ることは、
今の技術ではできないのです。
【防疫研H研究員アストラル】
ただ世界軸の繋がりは起きている、
それだけは間違いないようです。
【綾部研究員】
世界軸の理屈であるなら、
魂ばかりか肉体を従えて移動でき――

嗚呼ああ! 魂……魂……
私は中味だけしか無いのです!
私には肉体が……無い……

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
満洲から電報がありました。
式部さんが哈爾浜ハルピンに――
キタイスカヤの東方飯店に
チェックインしました。
キタイスカヤに向かえますか?

交信の終わるのを待たずに二体のアストラルはスーッと滑るように去って行った。

〔キタイスカヤ街〕

まるで白昼夢のようなキタイスカヤ街。カバネと風魔がその街角に立つ。

【綾部研究員】
先程は取り乱してしまって――
もう大丈夫です。

さて、ここは――
キタイスカヤが再構築されている、
そうなんですね?
まるで本物の哈爾浜ハルピンですね。
でもその実は帝都満洲――
東亰ゼロ師団もここは知らないはず。
私、ちょっと見て回ります、
構いませんね?

そう言い残してカバネは歩いて行った。

【着信 喪神梨央】
東方飯店ホテルボストークに向かってください。
そこで式部さんのアストラルと
話せるかも知れません。
彼は何かをつかんでいるはずです――

ホテルの部屋では式部丞しきべじょうが回想している――
彼は混乱を極めつつある帝都を離れ、哈爾浜ハルピンで人心地付けたようである。

【式部丞】
日本人が来ると、
この部屋に案内するのが、
ここの暗黙の了解なのか――
最上階の角部屋、
確かに安全ではあるが――

これまで以上に細心の注意が必要だ。
私の報告が上がっていなかった――
そのことが自明になったからだ!

ナチの釣鐘デーグロケ山王さんのう機関にあり。

そのエニグマ電文は、
上層部が握り潰したのだ。
日独は防共をむねとする協定を、
おそらく来年には締結するだろう。
そうなれば――
私の知る情報は、
両国関係に水をすことになる。
何より上層部には都合の悪い情報だ。

ヴンダーの出現に帝都の武装SS隊員たちは、生捕いけどりにして本国送還の指令を受けていた。
そのことで式部は気付くのである――

【式部丞】
帝都の釣鐘つりがねについて知っていれば、
山王さんのう側が釣鐘つりがねをどう扱うのか、
その詳細な情報を求めるはずだ。
それをヴンダーの生け捕りだと?

――有り得ない!
ナチ本部は山王さんのう釣鐘つりがねを知らない。
山王さんのう釣鐘つりがねは、あってはならない事実なのだ。
そしてこの私の存在も――


何だ?
――誰かの気配がする……
――●△◇◎――

急にホテルの部屋のセヒラ濃度が高くなった。そして式部の姿は揺らぎながら消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
ホテル外でセヒラ急上昇です!
明確な波形も確認します!

〔キタイスカヤ街〕

通りの真ん中に中型のアストラルが浮かんでいた。そのアストラルは人の顔に当たるところが黒く潰されたようになっている。

【有澤機関SKアストラル】
またお会いしましたね――
貴方は……おそらく……
山王さんのう機関の――

私はね、二班の班長でしたよ。
二班は流言飛語の調査です。
もっとも、それすら表向きで――

実際は乙亥きのといの年にあるとされる、
悪魔降臨の予言を調べること……
帝都じゃ予言が実現しますからね!

おそらく偽書でしょうが、
予言書を手に入れ調査しました。
悪魔は痩身そうしんの青年の格好をする――
それは学生でしょうか?
たとえば文民社のようなところの?
可能性は全部当たるのですよ。

降臨悪魔のことは、
東亰ゼロ師団も狙っていました。
でも彼らは仮構かこうに守られ、
我々では手出しができない――
連中のことは山王さんのう機関に任せる、
それが組織の決定でした。
有澤機関ではなく、更に上の組織――
上には上があるのですよ。

書生、芽府めふ須斗夫すとおは、
淀橋署の新入り巡査が保護しました。
仮構かこう憲兵らが右往左往うおうさおうする間にね。
調べは一班に引き継ぎました。

一班は瑛山会えいざんかいの動向を探ります。
それが有澤機関設立の趣旨しゅしです。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
もしや、影森愁一かげもりしゅういちという人の……
そうですか?
だとすると……
彼の思念だけが残って――
【有澤機関SKアストラル】
――フフフ、私の勘は的中ですね。
一班の動きを助けるために、
私は身をさらしたのです。
おとりと言うほどではありません、ただ目をらせるのが目的でした。

神保町じんほちょう交差点に合図あいずがありました。
縁石に二本の黒い線が――
第二連絡所に行けとの指令です。
新宿旭町あさひちょうにある柏屋かしわや旅館、
二階、芙蓉ふようの間で待機しました。
そこへ三人の丁稚でっちが入ってきて――

アストラルからセヒラがほとばしった。

【有澤機関SKアストラル】
白い布を被せられ――
そこまでは覚えています。

私はもう柏屋かしわやにはいないのですね?
あの湿気しけた客間にはもういない……
――私はどこにいるのでしょうか?
なんだか無念です――
ものすごく無念です!!
悪い勘が的中したようですね!

《バトル》

【有澤機関SKアストラル】
組織というのは……
げに恐ろしいところですね――
あなたも気を付けることです。

そう言い終えると
アストラルは霧散した。

【着信 帆村魯公】
影森愁一かげもりしゅういちは用済みになったわけだ。
さて、くだんの一班に誰が関わったのか、
およその見当はついたがな。
【着信 喪神梨央】
もう一度、ホテルへお願いします。
四〇八号室です――

〔ホテルボストーク〕

【式部丞】
釣鐘つりがね山王さんのう搬入はんにゅうした――
それが瑛山会えいざんかいの存在をあきらかにした。

皮肉ひにくなことにその瑛山会えいざんかいが、顕現けんげんさそうとたくらむ――

会の頭目、柄谷がらたに生慧蔵いえぞうその人物だ。
双子の兄ルドルフ・ユンカーと違い、
生慧蔵いえぞうは科学に全てを求めた。
そして学際がくさいの迷宮に彷徨さまよったのだ。
しくも同じ字名だった――

私は猟奇人Θシータ、そして生慧蔵いえぞうは、
従順なる隸Θしもべシータ師と呼ばれた。
彼が猟奇趣味の男女を組織したのも、
一人でも異能者を集め、
召喚を目の当たりにしたい、
そのことだけが目的だったようだ。

理論はあっても実践がない、
科学者は手を選ばず実践を求めた。
絡繰からくりは不明だが、とにかく顕現けんげんした。
見える者には見えたはずだ――
お陰で私には真実が見えた――

本を無粋ぶすいに扱うことで、
彩女あやめ君には退いてもらった。
丁度ちょうど、潮時でもあった――

それにしても――
メリュジーヌがセルパンの名の店に来る、
なんていう皮肉だ!

二班の班長にも退場頂いた。
神保町の交差点に印を付けて――
身辺整理はとどこおりなく行ったつもりだ。

当面、気配を殺して、
新しき天地あめつちの誕生でも見物しよう。
おそらく帝都は消える――

式部の姿が揺らめいて消えた。そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
式部しきべさん、古本屋さんなんて、
大嘘だったんですね!
私たちをスパイしていただなんて――
【着信 新山眞】
大変です!
キタイスカヤの通りで、
綾部あやべ研究員の気配が消えました!
【着信 喪神梨央】
特に異常なセヒラはありません。
念のため、巡視パトロールお願いします。

〔キタイスカヤ街〕

キタイスカヤ街の通り、20mほど先にカバネの姿があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
眼の前にいるのは……
それはカバネですか?
波形がいちじるしく乱れています。
全然一致いっちしないのです――

カバネが風魔に気付いてやって来ようとしたその刹那、カバネの背後にうっすらと人影が見えた。
白衣のようなものを纏っているが、その体、透けている。
体を透かして街が見える。

【綾部研究員】
私が……抜け出してしまいました!
――前にいるのが私です……
いや、違う、あれはカバネです!
正確にはカバネの肉体です。
私は……たましいか思念の状態です――

カバネは風魔の前を過ぎて止まった。
ずっと前を見たままである。
カバネのいたところに白衣姿の青年が見える。体は透けたままである。

【着信 喪神梨央】
セヒラの値が……
負の値を示しています!
――負のセヒラって、何ですか……

カバネと白衣の青年の間に白い球体が現れた。
輝くような真っ白な球体はほどなく一抱えほどの大きさになり、道の上に浮かんでいる。
そして球体の周りにセヒラの輪が生まれた。球体が傍に漂うセヒラを押しやっているようにも見える。
やがて白い球体は道幅一杯にまで膨張を始め、風魔は白い世界に包まれてしまった。

視界が戻ると、街は白い霧のようなもので覆われていた。
風魔の前に柴崎が立っている。
柴崎は苛ついた表情を浮かべている。

【柴崎周】
君たちは自分たちの周囲で、
起きていることを理解しているかね?

何の目的も持ち得ない世界――
すべてに価値を見い出せない世界――
まさに虚無きょむの世界が口を開き、私たちをもうとしている。

これが君たちの求めるものなのか?
怒りも悲しみも喜びもない、無限に広がる安寧あんねいの平原だ――

白い霧のようなものがますます濃さを増してきた。

【柴崎周】
平和というのは素晴らしい――
そうではないかな?
白いはとを飛ばし、赤い薔薇ばらぎ、青い空に夢を描く――

だが君たちの青空に、
夢を描くことはできない。
何一つとして価値を持たないからだ。
真っ白な世界は何も含まない。

闇は多くを含み、にぎやかなのにだ。
ただただ寂寞せきばくとしている――
闇を味方に付けるほうが、
幾倍いくばいも望ましいのだよ、
真っ白な世界に取り込まれるよりも。

いよいよ視界は白くなり、目の前の柴崎すらはっきりしなくなってきた。

【柴崎周】
何も為さず、何も起こらず、
何も得られぬ世界など、
憎しみの刃で両断する!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし!!
セヒラの値、計測限界を超えます!
これまでにない値です!!
【柴崎周】
ハハハハハハ~
君も私も虚無の世界では、
生きていくことができないのだよ!

《バトル》

静けさが戻った。
風魔は帝都満洲鉄道の赤坂哈爾浜駅にいた。ホームに立つ風魔の前に柴崎がいる。汽車はまだ来ない。

【柴崎周】
暗闇の中で孤独を感じる必要はない。
そのような必要はまったくない。
暗闇はにぎやかな遊園地だ。
あらゆる色が混ざり合い、
暗闇という色が生まれるのだ。

駅舎の方に人の気配がする。
振り返ると先程の白衣姿の青年がいた。青年の体は透けている。
白衣の青年はゆっくりと近づいてきた。
そして柴崎に向き合う。

【綾部研究員】
あなたのことは存じ上げませんが、
混濁こんだくの世をもたらすことを、
お考えなのでしょうか?
【柴崎周】
君は研究者かね?
それとも闇を操る者かね?
【綾部研究員】
魂に向き合っています。
魂なら時間旅行ができるかと――
【柴崎周】
時を操るのか――
私の時間はこの三十年間動かない。
サラエボ、桑 港サンフランシスコ羅南らなん――
十五年前のあの大地震が、
状況を大きく変えた――
帝都に資源があふれたのだ!
【綾部研究員】
資源とはセヒラのことですね?
きが現れ怪人騒動が起きた。
それがあなたの僥倖ぎょうこうなのですか?
【柴崎周】
ハハハ、私の心を読むのか――
なるほど僥倖ぎょうこうだ、
しかしそれだけではない。

独逸ドイツ人たちが興味を示したロッホ
あれは一種の支点なのだよ。
この世界を裏返すためのね。

【綾部研究員】
世界が裏返る?
――そんなことがあるのですか?
一つの世界に一つのことわりがある……

世界が裏返るとは、
ことわりもすべて変容するのですか?
この世界が別の世界軸に接続する、
そういうことではないのですか?
【柴崎周】
世界などいくつも必要ない。
この世界が呑み込まれるだけだ。
抗えば消える、アストラルとなる。
【綾部研究員】
それは違います!
僕たちは既に別な世界軸に、
向き合っているのです。
接続は時間の問題――
それはあなたの求める、
混沌カオスの世界ではありません!

――私にはわかるんです……
真っ白な世界、一点の不安もない――
そんな世界の存在することが!

そこまで言うと白衣姿の青年はいよいよ透けていき、とうとう消えてしまった。
そこへ声がする――

【???】
たわわに実る果樹の下、
暖かな日差し、ぬる清水しみず
何の不安もないのです――
【柴崎周】
やめろ!
私に語りかけるな!
【???】
楽園では、欲も失望もありません。
失うものなどなにもないのです――
【柴崎周】
――

柴崎は全身からセヒラを放った。濃厚なセヒラが柴崎の体を包み込んでいた。

《バトル》

【柴崎周】
すべては宇宙の混沌から生まれた――
それを君たちは無き物にしようと。
私は残念でならない――
――残念だ……
至極しごく残念だ――

そこに音はなかった。
風もなかった。
温かいとも寒いとも感じない場所だった。始終、白い霧のようなものが漂う。
井戸の前に母子がいる。

【母親】
薬師如来やくしにょらいさまの竜水は、
とっても効くのよ、まあくん!
【まあくん】
うん、そうだね!
母様の言うとおりだと思うよ、僕!
眼が良くなると安寧あんねいになれるんだね!
【母親】
そうよ、まあくん!
遠くまで見えるから悩まないの。
欲しいものもなくなるのよ!
【まあくん】
じゃ羊羹ようかんも欲しくなくなるんだね!
【母親】
羊羹ようかんになんかに値打ちはないのよ!
さぁ、竜水を手ですくうのよ。
それで目を洗うの。
【まあくん】
うん、わかったよ、母様!

風魔は白い世界にいた。
暗闇には多くが蠢く。
しかし白い世界にあるものは……それは虚無であった。
虚無を理とする世界から声がする。
虚無に生きる人の声である。

【はにかんだ女の声】
佐竹さたけのお母様は病気がちなんです――
少しでも滋養じようになればと思い、
実家から届いた――
納豆を持って家に行ったのです。
昼寝をしていたという佐竹は、
少しばかり眠そうでしたが――
私を玄関で迎えると、
いつも通り、ご安寧あんねいにと挨拶あいさつし、
納豆を受け取ってくれました。
私は佐竹の家を後にして、
省線と市電を乗り継いで、
三河台みかわだいの下宿に帰りました――
一人で……帰ったんです――
――一人で……

ふと、そこへ別な声がする。
いや、同じ女の声だ、風魔の心の中に残る声だ。

【思い詰めた女の声】
私、佐竹のことを信じ切っていて、
私たち二人はまるで同体のように
思えるほどでした。
先週、葡萄酒ワインで眠る佐竹の胸に、
小刀で私の名を彫ったのです――

もう声はしない。
代わりに白い空から降るような声が聞こえた。

【はにかんだ女の声】
どうしたのかしら?
――安寧あんねいでございますわね!
まったくもって、安寧あんねいでございます。

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
兄さん、お帰りなさい――
帝都では怪人騒動もすっかりしずまり、
落ち着きを取り戻しています。
【新山眞】
時間もかなり経過しました――
【喪神梨央】
新山さん、
世界軸って本当に複数あるんですね。
ドッペルゲンガーのこととか――
【新山眞】
ドッペルゲンガーは、
セヒラがもたらした一時的な現象、
私はそう考えています。
【喪神梨央】
でも世界軸はそうじゃないと――
常にいくつかの軸があるのですね。
【新山眞】
あの綾部あやべ研究員は、
複数の世界軸がめんのようにからまり、
別の世界軸へ移動できると――
世界軸をりっしていることわりに、
収まりきらなくなった時に移動する、
そう考えているようです。
【喪神梨央】
その時、時間をさかのぼったり、
そんなこともあるんでしょうか?
【新山眞】
明言はなかったですが、
時間の移動もありそうですね。
場所の移動も有り得ます。
世界軸の接続によって、
夢玄器むげんきを使わずに移動できる――
異なる時代、異なる場所へ。

【喪神梨央】
フリーダさん、
携行式けいこうしきの活動写真お持ちでした。
しかも総天然色です!
フリーダさんは、
ニ〇一五年の香港ホンコンと、
この帝都とを行き来すると――
【新山眞】
すでに世界軸の接続は、
始まっているようですね。
アストラルなら、
時空を超えて行き来していましたね。
いとも簡単に――
ただ好きなところへ、
とはならないようです。
【喪神梨央】
何か繋がりのあるところしか、
行くことができない、
そうなんですね?
【新山眞】
そのようです。

【喪神梨央】
研究員の綾部あやべさんは、
八十万年後に行きたかった、
そうなんでしょうか?
【新山眞】
未来の楽園的社会に憧憬どうけいしていた、
それは間違いありませんね。
その強い念が影響している――
【喪神梨央】
綾部さんとカバネの間から、
虚無きょむが生まれたように思えます。
【新山眞】
はいわば逆人籟じんらいです。
ヴンダーがたおれたことが契機けいきとなり、
逆相が生じた――
はその逆相の象徴です。
自身が虚無きょむ世界軸の接続点、
その役目を果たしたようですね。

【着信 帆村魯公】
風魔――
ホテルに客人だ。
レーネ嬢だ、覚えているな?
【喪神梨央】
藤沢レーネさんですね!
F基金の運用責任者ですよ。
新京シンキョウからおいでなんですね!
【新山眞】
私は飯倉いいくら技研に参ります。
そろそろ鏡の完成する頃――
様子を見てきます。

〔山王ホテルロビー〕

藤沢レーネが久しぶりに来日した。
満洲国商務省に勤めるかたわら、F基金を管理する金庫番でもある。

【喪神梨央】
レーネさん!
お変わりございませんか?
今朝着いた亜洲丸あしゅうまるですよね?
【藤沢レーネ】
ええ、横浜に着き、
新橋から参りました。
道中、帝都は静かでした――
【喪神梨央】
このところ怪人騒動は鳴りを潜め、
何だかそれが不気味なんです。

【藤沢レーネ】
時機が近づいているのです。
祖母の遺品を整理していたら、
一冊の古書が出てきました。
太陽の書リブロソロスという書名です。
最後のページに祖母の字で、
ある言葉がつづられていたのです――
【喪神梨央】
どんな言葉ですか?
【藤沢レーネ】
冬至とうじの朝陽がしめす――
支族帰還の地へ――
アルツァレトはせまる――
【帆村魯公】
冬至……
支族帰還……
――アルツァレト……
アルツァレトとは何ですかな?
【藤沢レーネ】
古い猶太ユダヤの言葉で、
桃源郷とうげんきょうとか新天地の意味だそうです。
支族が戻ればそこが桃源郷――

【喪神梨央】
兄さん! 冬至ですよ!
範奈はんなさんのお姉さんが言ったこと……
――冬至の朝、水辺に……
そこでお姉さんと二人、
為すことがあるのだって――
【帆村魯公】
なるほど! なるほど!
それで、その書はお持ちなのですか?
【藤沢レーネ】
書は満洲中央銀行の貸金庫です。
新京シンキョウにある父の基金を置く銀行です。
【帆村魯公】
それは結構ですな。
この上なく安全ですな!
それでと――
真名井まないの鏡にまつわる古文書にも、
冬至についてしるされておった。
託言たくげんを顕す光があると。
【藤沢レーネ】
おそらくは、失われた支族、
その末裔まつえいの居場所が明かされる――
私はそう考えております。
【帆村魯公】
その末裔まつえいとやらが、
山郷らが血眼ちまなこになるほど、
すごい力を秘めておるのか……
【喪神梨央】
千年以上前に日本に渡った、
マナセ一族の末裔ですね。
【帆村魯公】
鈴代のご先祖は、
まぁ庶家しょけというところだな。
愈々いよいよ、本家本元が現れるのか――
【藤沢レーネ】
いずれにせよその日を待ちます。
N計画にもはずみが付くはずですから。

藤沢レーネは山王さんのうホテルに部屋を取っていた。
梨央りおが部屋まで案内するという。

【帆村魯公】
風魔ふうま、先程お前が見た光景だがな、
あれはおそらく虚無きょむの世界だ、
そいつが垣間かいま見えたんだよ。

新井薬師の井戸にいた子供、
それに神田川の女――

あの女は生成なまなりだったはずだ。
男の胸に自分の名をったんだ。
虚無きょむの……なんて言う、世界軸か、
そいつの中ではうらみも何もない、
いたって平穏無事へいおんぶじの様子だな。

ホテル玄関から九頭が小走りに駆けてきた。

【九頭幸則】
先生! 風魔!
また妙な噂だ!
新世界が誕生するとかで――
【帆村魯公】
ほう!
その噂の出処でどころは?
【九頭幸則】
興亜日報ですよ!
たぶんあのブンヤがんでますよ!

まるで芽府めふ須斗夫すとおの予言がれたかのように、興亜日報では新しい世界の誕生を報じていた。

風魔は暗闇を覗いていた。そこには鬼龍豪人が立っている。まるで見当識を失ったかのようである。
そこへ淀みのない声がした。

【???】
ほまたかき京都第十六師団――
第十六師団輜重しちょう部隊!
隊付き将校、鬼龍きりゅう豪人たけと
【鬼龍豪人】
誰だ?
この私に気安く声をかけるのは!
【???】
君のガールフレンドは、
師団街道の円タクに乗って、
黄泉よみの国へ向かった!
【鬼龍豪人】
私の中ではもう過ぎたことだ――
【???】
君は梯子はしごを外され途方に暮れた――
わだかまりは大きく黒い蜷局とぐろとなった!
君はルサンチマンにまれた!
【鬼龍豪人】
私は完璧だ、染 化ファーブストッフを終えたのだ!
【???】
青白き少年ハンスは、
売女ばいたの腹にナイフを突き立てた!
君のナイフはどこにあるのかな?
【鬼龍豪人】
ハンス?
そんな人物など知らん!
貴様、いい加減に去れ!
【???】
月詠つくよみ麗華れいかに求められ、
鬼龍きりゅう少年は子羊のように震えた!
【鬼龍豪人】
あの女が欲しいのは力だ、
美しさの欠片かけらもないただの力だ!
【???】
君こそ求める存在だよ、
迷える子羊ストレイシープ君!
さぁ、私にゆだねるのだ――
【鬼龍豪人】
私は誰の指図も受けない!
【???】
それでこそ鬼龍クソッタレ大尉だ!
州間道路のドライブと洒落込しゃれこもう!
【鬼龍豪人】
何の話をしている――
貴様は誰だ!! 何者だ!!
【???】
気高きやかたあるじにして、
君の主人だよ、コンプレット鬼龍!

第九章 第七話 ゼーラム525

〔山王機関本部〕

その朝、機関本部には新山眞にいやままことの姿があった。
芽府めふ須斗夫すとおが語ったという暗号が解け、いの一番で持参したのだった。

【喪神梨央】
兄さん!
新山さんが、エニグマ暗号を
解読されたんですよ!
【新山眞】
いやいや、正面から向き合って、
なんとかなる相手ではありません。
技研にはエニグマの試作機があり、
それを分解して研究はしました。
組み立て直しも大変でした。
ようやく仕組みは理解しましたが、
暗号はさっぱり解読できません。
【喪神梨央】
新山さんでも無理だったんですか?
【新山眞】
無理も無理、大無理ですよ!
なにせ欧文文字の組み合わせ、
まさに天文学的です!
ジョという単位です。

【喪神梨央】
ジョ?
それって大きいんですか?
初めて聞きました、その単位――
【新山眞】
億、兆、けいがい、その次です。
二十六の階乗なわけですが、
四千兆かける一千億の値です。
それだけの組み合わせがある――
しかも日鍵といって、
毎日、暗号鍵あんごうかぎが変更されるんです。
総当りで解くなんて無理な相談――
【喪神梨央】
それじゃ新山さんは、
どうやって解読を?
【新山眞】
日鍵の一部はわかっています。
芽府めふ須斗夫すとおの語る最初の英字三文字、
それが日鍵のひとつです。
あとはラヂオで送られるのです。
実は日本時間の朝八時少し前に、
独逸ドイツ語の短波放送が流れるのです。
放送自体、アルファベットの羅列られつ
何も意味のない放送ですが、
工作員に日鍵を伝えるもの――
参謀本部はそう見ています。
およそ千のアルファベットの、
どれかがプラグの接続を意味します。
日鍵を割り出す乱数表が、
あるのでしょう――

でもうちにもあるのです。
【喪神梨央】
え?
乱数表、お持ちなんですか?
【新山眞】
我が国には霊式れいしきヘテロヂンという、
優れた技術があります。
セヒラ歪振器わいしんきを使うのです。

ラヂオの前で通電しておくと、
あるアルファベットのところで、
奇妙な波形を現します。
その文字を覚えておき、
歪振器わいしんきを前に同じ波形が出るまで、
アルファベットを話します――
最も反応の強い
アルファベットを書き写すんです。
それがプラグの位置を示すのです。
話す時は独逸ドイツ式に、
ABCDアーベーツェーデーとやらないとダメですが。

そう言いながら新山は、和文タイプした紙を取り出した。

【喪神梨央】
アタラシキ 
アメツチ
ヒラカレリ
【新山眞】
新しき天地あめつちひらかれり――
この前の言葉は、
日蝕ひくけ――
【喪神梨央】
つまり日蝕にっしょくの日の明け方、
新しい天地あめつち……
――新山さん!
【新山眞】
日蝕にっしょくは十二月二十六日です。
その明け方に何かが起きる――
そう読めますね!
【喪神梨央】
前日は十二月二十五日、クリスマス。
先帝祭せんていさいで祭日ですよ。
その翌朝ですね――
【新山眞】
第八の予言も解いてみます。
明朝のラヂヲ放送を待ちます。

そうそう、独逸ドイツから外交郵袋がいこうゆうたいで、
くだんのゼーラム五ニ五が届きました。
愈々いよいよですね!
【喪神梨央】
兄さん、憲兵本部に、
式部さんがお戻りです。
また予言が出るかも知れません。
公務電車、手配しますね!

〔東京憲兵隊本部〕

芽府めふ須斗夫すとおが戻り、式部も憲兵本部へ。そこで憲兵大尉からお目玉を食らっていると。風魔が山王さんのう機関の特務として介入することに。

憲兵隊本部には立哨が付く。他2名の憲兵と式部が話し込んでいた。風魔の来たのを知ると、式部は早足でやって来た。

【式部丞】
喪神さん――
お手数をおかけします。
芽府めふ須斗夫すとお君が戻ったのですが、
いつ姿を消したかもわからず、
困惑こんわくしています。
今日、憲兵から呼び出され、
やって来るとお叱りを――

喪神さんに一言、
口添くちぞえいただければと――
公務中、かたじけないです。

式部に請われ、風魔は憲兵隊玄関へ。階段にいた憲兵が話しかけてきた。

【等々力憲兵大尉】
ん?
特務中尉とは貴様か?
【池上憲兵少尉】
いくら中尉殿の公務とは言え、
民間人がこうも勝手に、
出たり入ったりするのは――
【等々力憲兵大尉】
ここは憲兵司令だ、わかるな?
泣く子も黙る――
【池上憲兵少尉】
いろいろ示しがつかない、
そういうわけであります、中尉殿。
【等々力憲兵大尉】
逃亡すら許されぬのに、
のこのこと戻ってくるとは!
憲兵もめられたものだ!
【池上憲兵少尉】
中尉殿、それにそちらの……

そのとき、式部が話に加わった。

【式部丞】
式部です。
四谷のセルパン堂の――
【池上憲兵少尉】
ああ、あなたですね!
本来は特高の領分ですが、
軍部に関係深しと憲兵が扱う事案です。
【等々力憲兵大尉】
この扱い、特例中の特例だ!
それなのに勝手は許されんぞ!
【池上憲兵少尉】
式部さん――
今後は面会願いを書いてください。
管理が厳しくなったのです。
【式部丞】
承知しました。
それでその面会願いは、
どちらにございますか?
【等々力憲兵大尉】
陸軍省一階の購買こうばい部だ、式部氏。
面会願い、書式ムの三◯八だ。
【式部丞】
面会願いは面会のたびに、
提出するのでしょうか?
【池上憲兵少尉】
規則ではそうなっています。
よろしくお願いします――

通りの方から白衣姿のドクター・ヨネダがやって来た。その顔からは血の気が失せていた。

【アレクサンダー・ヨネダ】
私は見た!
とうとう見てしまったのだ!!
うぎゃら~~~~~~

咄嗟に2名の憲兵がヨネダを捕縛した。しかしヨネダは常人離れした力で憲兵らを突き飛ばした。玄関にいた立哨は素早く左右に別れて様子をうかがう。
気丈にも式部がヨネダに声をかけた。

【式部丞】
ドクターじゃないですか!
どうされましたか?
――まだ影響が……

その声にヨネダは式部に振り返る。

【アレクサンダー・ヨネダ】
全部を見た!
何もかもだ!
オールオブオールだ!!
【式部丞】
ドクターは芽府めふ須斗夫すとお君の傍に?
彼の傍にいらっしゃったのですか?
【アレクサンダー・ヨネダ】
いなくても見えた!
私は見た!!
そうだ、見たんだ――
パンデモニアムは
ルシファーの城府、
かの輝ける星をサタンにたくらべて、
かく呼べる!!
うううううううぅ~

ヨネダの背後にセヒラが集まった。

《バトル》

【アレクサンダー・ヨネダ】
はぁはぁはぁはぁ――
星の夜に大君ルシファーは昇りゆく
その暗の統御とうぎょあぐむんで 
雲の半ばにおおはれた廻球かいきゅうの上に
魔は揺らぎゆく――

そう言うとヨネダは崩れ落ちた。

【式部丞】
何かの思念が帝都をめぐり始めた――
どうもそのようですね。

私は今の間に芽府めふ須斗夫すとお君の元へ。
また予言が語られたら、
すぐに連絡します。

喪神さん――
残念なことですが、
彩女あやめ君はもうこの世にはおりません。
肉体はあってもです。
肉体の主は千紘ちひろ――
兄の高麿たかまろは彩女君が作った人格、
その彩女君が人格の死を向かえた――

高麿たかまろを殺したのは誰でしょうか?
千紘ちひろが殺したのでしょうか?

結局、のなすがままですね。
――もしや……
あの蛭川ひるかわ博士も、
千紘ちひろに飛ばされたのかも知れません。

それでは喪神さん、私はこれで――
先日、鰍沢かじかざわという落語、
ラヂオで聴きましたよ。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
山王さんのうホテルにお戻りください。
麻美さんが帰国されました。

〔山王ホテル〕

麻美はナチ党本部褐色館ブラウネスハウスから、ゼーラム五ニ五をくすねたのである。

【聖宮成樹】
喪神さん――
麻美さんが戻られました。
もうじきここへおいでです。
【喪神梨央】
麻美さん、昨夜下関しものせき八時半の、
特急富士にお乗りでした。
【聖宮成樹】
伯林ベルリンからも鉄路でしょうね。
西伯利亞シベリア鉄道ですか――
【喪神梨央】
はい! 西伯利亞シベリア鉄道です。
――きっとお疲れでしょうね……
一週間以上の長旅です。
【聖宮成樹】
独逸ドイツから届いた電報には、
アヲニヨシとありました。
首尾よくいったということです。
【喪神梨央】
ナチ党本部からゼーラム持ち出して、
よく見つからずに済みましたね。
――麻美さん、すごい……
【聖宮成樹】
人から疑われたりしない、
天性の何かをお持ちなんでしょう。
私にはつとまりませんね……
【喪神梨央】
うふふふ……
兄さんも無理そうですわ。
あっ、麻美さんです!

ホテル玄関から優美な足取りで麻美がやって来た。

【聖宮成樹】
麻美さん!
ご苦労様でした――
【喪神梨央】
麻美さん、よくご無事で――
【麻美】
少しハラハラしましたわ――
【聖宮成樹】
何か不都合なことでもありましたか?
【麻美】
褐色館ブラウネスハウスですが、少し工事が入り、
その間、地下へは降りられず――
【聖宮成樹】
リヒャルトガルテンの間ですね?
あの部屋は地下にあります。
【麻美】
でも舞踏会ぶとうかいまでには工事も終わり、
何とか手に入れられました。
本番の日に間に合いましたわ。
【喪神梨央】
本番ということは、
練習とかするのですか?
舞踏会ぶとうかいなのに――
【麻美】
たとえ舞踏会ぶとうかいでも、
何かの手落ちがあってはいけない、
そういうことですの、ナチでは。
どの将校と踊るかまで、
すべて決められるのです。
勝手には振る舞えません。
【聖宮成樹】
いかにもナチらしいですね――
【麻美】
舞踏会ぶとうかいの前に秘密めかした
ナチ独特の儀式が行われるのです。
柘榴ざくろの板に隊員たちが、
血でルーン文字を書くのです。
蝋燭ろうそくだけの明かりを頼りに――
【喪神梨央】
ルーン文字って?
【聖宮成樹】
北欧に伝わる古代文字ですよ。
彼らは古代アーリア人が、
北方のエデンの園からやってきた、
そう信じ込んでいますからね。
残された野卑やひな者がけものとの間に
もうけたのがアーリア人以外の人種だ、
その考えに凝り固まっています。
【喪神梨央】
けものとって……
なんかすごいですね――
日本人など相手じゃない感じですね。
【麻美】
でも日本人には豊かな神性が宿る、
そういう考えを持つ人もいます。
シュタインベルク中将も――
【聖宮成樹】
あはは……

それで麻美さん、
ゼーラムはどうされましたか?
【麻美】
外交郵袋がいこうゆうたいで送りました。
飯倉技研いいくらぎけんでよろしかったですね?
容器のかぎは私が持ちます。
郵袋ゆうたい、もう着いているはずです――
【聖宮成樹】
それでは多加美たかみ宮司に連絡し、
さっそく向かって頂きましょう。
【喪神梨央】
多加美たかみ宮司の警護は要りますか?
【聖宮成樹】
まだ鏡は霊性を現しません。
むしろ目立たないほうがいいですね。
【喪神梨央】
承知しました、殿下。
私は本部で探信たんしんしています。
【聖宮成樹】
危険なのは鏡が霊性を取り戻した時、
その時が最も危険です。
【喪神梨央】
おこたりなく探信たんしんします!
公務電車、手配します!

〔飯倉技研〕

飯倉技研の前では新山眞が待ち構えていた。

【新山眞】
殿下!
やはり例のものは本物なのですね?
【聖宮成樹】
新山さん、愈々いよいよですよ!
麻美さんがナチ本部で手に入れ、
外交郵袋がいこうゆうたいで送られたのです。
【新山眞】
特製の容器に収まっているせいか、
セヒラ歪振器わいしんきを近づけても、
まったく反応しません。
でも間違いなく、
ゼーラム五ニ五なのですね――
【麻美】
リヒャルトガルテンの間で、
手に入れたものです。
鍵は私が――
【聖宮成樹】
さて、多加美たかみ宮司は、
もうおいでになりましたか?
【新山眞】
ええ、中でお待ちです。
参りましょう。

そう言うと新山はスタスタ歩き出した。麻美、聖宮、そして風魔も後に続いた。

〔飯倉技研ホール〕

飯倉技研のホールには多加美宮司が一同を待っていた。

【多加美宮司】
真名井まない真鏡しんきょうは無事です、
ここにあります――
【聖宮成樹】
分かりました――
麻美さん、容器の鍵を――
鍵を新山さんにお渡しください。
【麻美】
はい……
【聖宮成樹】
新山さん、こちらには、
隔離かくりして容器を扱える設備、
整っているのですか?
【新山眞】
先日、釣鐘つりがねのことをうかがって以来、
ゼーラムを扱うことを前提に、
いろいろ整えてきました。
今据え付けてある気密筐体きみつきょうたいは、
〇・一ピーピーエムさえ通しません。
またアルミ蒸着じょうちゃくの護りがあります。
【聖宮成樹】
なるほど!
それでは早速お願いします。

聖宮にうながされ、新山は宮司ぐうじから鏡を預かり、奥の実験室へと向かった。

【多加美宮司】
真名井まない真鏡しんきょうに霊力が戻れば、
古式東雲しののめ流がおこる――
正しい継承者に継がれるのです。
私は如月きさらぎ鈴代すずよさんに知らせます。
宗家そうけとして準備もあるでしょう。
【聖宮成樹】
よろしくお願いします、宮司ぐうじ

宮司は聖宮に深々を頭を下げ、ホールを出ていった。

【聖宮成樹】
ゼーラムを塗布とふして、
鏡が霊性を宿すには、
多少の時間が必要でしょう。

喪神さん、
山王さんのうホテルで話しませんか?
相談したいことがあります。
麻美さんもご一緒ください。
【麻美】
承知しました。
参りましょう。

〔山王ホテルロビー〕

聖宮が話があるというのは、山王さんのう機関にもたらされた報告書の件だった。六十ページを越す立派な報告書である。
報告書には山王さんのう機関をスパイする組織が、まことしやかに示されていた。興亜貿易をかくみのにする有澤機関ありさわきかんである。

ロビーの奥では梨央と魯公が一行を迎えた。聖宮を認めると魯公はお辞儀をして前に進み出た。

【帆村魯公】
殿下のお耳にも入っておりましたか?
【聖宮成樹】
八分課ハチブンの情報は、
いち早く届きます。
【喪神梨央】
参謀本部の八分課ハチブンって、
市民から怪人情報を集める、
そういうところじゃないのですか?
【帆村魯公】
表向きはな。
その実、寄せられた情報を分析して、
ときに深く探りを入れるのじゃよ。
【喪神梨央】
それじゃスパイみたいなんですね。
【帆村魯公】
こら、大きな声で――
で、山王さんのう機関の何を
スパイするのですかな――
【聖宮成樹】
山王さんのう機関の活動自体は、
軍幹部はおよそ知っているはずです。
ただ釣鐘つりがねのことを除いては。
【喪神梨央】
帝都満洲のことも、
ほとんどは知られていないはずです。
【聖宮成樹】
そのスパイとやらは、
有澤機関ありさわきかんという特務機関で、
参謀本部第六課の所轄しょかつだそうです。
【帆村魯公】
第六は欧州課ですな――
【聖宮成樹】
有澤というのは、
おそらく有澤盛隆ありさわもりたか中将ですね。
前駐独武官だった人物です。
有澤中将について、
少し調べてみます。
ところで報告書はお持ちですか?

聖宮ひじりのみやの問いに魯公ろこうは報告書を見せた。そのとき、麻美が素早く前に踏み出した。

【麻美】
その報告書――
甘い香りがします。
――ベラドンナの香りです。
【聖宮成樹】
ベラドンナ……
それはまた――

【喪神梨央】
殿下、魔法です、
魔法使いが用いる膏薬こうやくに、
ベラドンナが使われるのです。
この帝都では仮構かこうを為すのに、
ベラドンナが使われていると――
青山せいざんホテルや憲兵大隊がそうです。
【聖宮成樹】
よくそこまで調べが付きましたね!
――すると、この報告書は?
これも偽物ですか?
【麻美】
わかりません――
まるでませたように香ります。

【喪神梨央】
麻美さん――
夢玄器むげんきのぞくと何か見えませんか?
報告書の本当の中身が――
【麻美】
夢玄器むげんきならありますが、
今はホテルです。

【喪神梨央】
ゼットー博士のを借りましょう!
隊長、ゼットー博士にお願いを――
夢玄器むげんきをお借りしたいのです。
【帆村魯公】
うむ、悪い考えじゃないな。
行きましょうか、麻美さん。
博士は調整室のはずですぞ。

麻美と魯公は課に向かうべくフロントの脇を抜けて行った。

【喪神梨央】
興亜貿易って……
どこかで聞きましたね――
えーっと……
そうだ!
多加美たかみ宮司が京都にたれる時、
東京駅で会った人です。
モートルを扱うとか――
影森愁一かげもりしゅういちという人ですね。
一時いっとき幸則ゆきのりさんのお目付け役――
でも結局は正体不明でした。

あと、新文民社のメンバーFは、
影森愁一かげもりしゅういちを尾行して
拉致らちされた――
新文民社で名簿作りを進め、
帝大の学生は間諜かんちょうだと
怪しんでいた、
それも同じ影森愁一かげもりしゅういちですよ。
【聖宮成樹】
なるほど――
公務記録にいろいろ顔を出す、
その人物……
スパイにしては目立ちすぎますね。
まるで陽動ようどうしようとするかのよう、
そうじゃありませんか?
【喪神梨央】
そうですね――
人は音の鳴る方を向くと言いますし。
【聖宮成樹】
いいことを言いますね。
普通スパイは組になるといいます。
その影森かげもりの他にまだいるのでは?

先ほどの報告書、
仮構かこうの産物だとしても、
本物を使う必要があったようですね。
【喪神梨央】
――というと……
どういうことですか、殿下?
【聖宮成樹】
本物の報告書を用いて、
一部を書き換え真実を伝える――
ある種の美学さえ感じます。

有澤ありさわ中将のこと、
わかりましたら連絡を入れます。

聖宮は軽く会釈をしてホテルロビーを出て行った。

【喪神梨央】
こうして兄さんと二人になるの、
久しぶりですね――

先ほど虹人こうじんさんから連絡があり、
今日は紀伊国坂界隈きのくにざかかいわいに出るって。
寄ってあげればどうですか?

〔紀伊国坂〕

紀伊国坂の長塀の前に虹人とユーゲントがいた。

【帆村虹人】
やぁ風魔――
人生という熱病は、
一向いっこうに回復するきざしを見せないよ。
【鳴滝丸】
美少年倶楽部では、
お見苦しいところを――
ヒュアキントス役の鳴滝丸です。
ヘル松ヶ崎はあの寸劇がお気に入り、
いつもやらされるのです。
【帆村虹人】
鳴滝丸――
でも君は寸劇はもうやらないと……
今さっき、そう言っていたよ!
【鳴滝丸】
やらないというか、
もうできそうもないんだ――
【帆村虹人】
自律係数が下がったりしたのかい?
ああしたことは自律的にする、
そう言っていたよね――
【鳴滝丸】
僕は……僕は……
【帆村虹人】
どうしたんだい、
具合でも悪いんじゃないかい?
【鳴滝丸】
僕は……僕は……
あああ、体が言うことを聞かない!

別のユーゲントが走り込んできた。その眼は虚ろである。

【嵯峨野丸】
六、ニ◯フタマル――シチ一五ヒトゴ
洗面、寝台整理、朝食!
七、ニ◯フタマル
国旗掲揚けいよう
七、三◯サンマル
仕事場へ出発!
七、四五――一◯ヒトマル◯◯マルマル
労働奉仕!

僕たちの時間は、正確無比!
僕たちの時間を奪う者は許せない!!

《バトル》

【嵯峨野丸】
一九、一五――一九、一五、
掃除、修繕しゅうぜん、洗濯!
ニ◯フタマル、一五――ニ一、四五、
唱歌、演説、余興!
僕たちは……初期化イニツァリジオロンされた!

甲高い声を上げた嵯峨野丸は、そのまま走り去った。

【帆村虹人】
鳴滝丸も駆け出したよ――
まったく僕を無視してね!
一体、何があったんだ?

――このところ、連中は、
僕の指示をあまり聞かなくなって、
昨日なんか同じ指示を三度も出した。

外から干渉かんしょうを受けているようだ。
それ以外に考えられないよ。
【着信 喪神梨央】
金ノ七号帥士きんのしちごうすいし――
特に不穏ふおんなセヒラはありません。

今の着信音は虹人の無線からであった。

【帆村虹人】
お、何だ、僕の無線?
二人の無線が同時に受信しているな。
嵯峨野さがの丸は初期化とか言っていたよ!
【着信 喪神梨央】
一旦初期化した時、
陸軍幼年学校の時間割の思念が、
流れ込んだようです。
【帆村虹人】
そんな思念まであるのか!
【着信 喪神梨央】
怪人川柳や猟奇歌だけではなく、
普通のことも表出しているようです。
【帆村虹人】
この様子じゃ、
連中を指揮するのは難しそうだな。
アプドロックは時間とともに、
揮発きはつする性質がある。
でも今のは揮発きはつじゃないな――

初期化され、
その状態のまま凍結されている。
よほどの干渉があるに違いない。
僕はアーネンエルベまで戻るよ。
また顔を出してくれ、風魔。

虹人は嵯峨野丸の走り去った方へ歩いて行った。

【着信 喪神梨央】
先ほどから、
飯倉いいくら技研でセヒラを観測します。
ただ、値は低いままですが――
念のため、巡視パトロールお願いできますか?
異常なければ帰還してください。

〔飯倉技研ホール〕

【新山眞】
喪神さん――
今、山王さんのう機関に
連絡したところで――
早かったですね!
ゼーラムの塗布とふは無事終わりました。
あの鏡が霊性を現すのは、
もう少し掛かりそうです――
しかし不思議です――

気密筐体きみつきょうたいの中に鏡を置き、容器を開けると、ゼーラム五ニ五と思しき臙脂えんじ色の煙が、容器の口から立ち上ったという。
そしてその煙はしばらく容器の上に漂い、不意に鏡の表面に集まったのだ。
みるみる鏡が色に染まったという――

【新山眞】
まるで煙が鏡の存在を知って、
自らを鏡に塗布とふしたようでした。
あの煙には意志があるみたいで、
見ていて妙な気持ちになりました――
気密筐体きみつきょうたいから煙が完全に消えれば、
鏡は完成かと思います。
それを見届け、連絡を入れますね。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
セヒラを観測するのは、
飯倉いいくら技研の裏手です。
まわっていただけますか?

飯倉いいくら技研の裏手に伸びる路地――
聖宮ひじりのみや邸を含む東久邇宮邸ひがしくにのみやていへいが伸びる。
元は静寛院宮邸せいかんいんのみやてい皇女和宮こうじょかずのみやが暮らした地だ。
右手、御組坂おくみさかの途中には、作家永井荷風ながいかふう偏奇館へんきかんが建つ。

【着信 喪神梨央】
その角のところです、
セヒラ、高まっています!
注意してください!

【XLのアストラル】
今は……何月ですか……
もう時間が経ちましたか……
麻美マーメイ、心配していたかしら……
私……麻布あざぶの張ホテルから、
荷風かふう先生の偏奇館へんきかんに寄り、
その後、ここへ来たのです。
飯倉いいくら技研という研究所の方も、
荷風かふう先生の偏奇館へんきかんにおいででした。
あと一人、
その方が道を開いてくれました。
邪魔する者を除いたのです。

【着信 喪神梨央】
もしかして……
蘭暁梅ラン・シャオメイさんかも知れません!
イニシャルXL――

【XLのアストラル】
私、母の形見の手鏡を持ち、
日本へ舞台挨拶ぶたいあいさつに来ました。
時を継ぐ日、鏡で身を写すように――
そう教えられていたのです。
日本へ発つ二日前、
母が夢に現れ告げました――
暁梅シャオメイ、さぁ、時を繋ぐのよ――
はっとして目が覚め、
鏡を旅行鞄りょこうかばんに収めました。

私がここに来てから、
時間が経ちましたか――
私にはわからないのです――
でも時は繋がっているのですね、
すべてはうまくいったのですね――
でも……ここはまだ不安定なのでは?
そうではありませんか?
気を付けてください、
何かがやって来ます!
――すぐそこです!!

XLのアストラルが消え、ほぼ同じ場所に別の大型アストラルが現れた。それは苛立つかのように蠢き続けている。

妖帝ヤオディ残滓ざんしのアストラル】
時を繋いだつもりでいるのか?
お前の時は途絶えたままだ。
自分から目をそむけるな!!

《バトル》

妖帝ヤオディ残滓ざんしのアストラル】
時の流れなど、
いつでも断ち切ってやる!
私は時を越えた存在なのだ!

大型アストラルは霧散した。暫くして、先程のアストラルが現れた。

【XLのアストラル】
よかった!
あなたが退けてくれたのですね!

でも五月は別の方がお力を――
邪悪な存在をはらってくださいました。
その方にお礼を言い忘れました。
今となっては、
顔も何も思い出せません。
すべてが白いもやの中です――

そう言い終えると、XLアストラルは薄くなり、やがて消えた。

【着信 喪神梨央】
辺りからセヒラの値、
すっかり消えました!
その場所で蘭暁梅ラン・シャオメイさんが、
神獣の見立てを受けたのですね。
麻美さんと一緒に来日され、
蘭暁梅ラン・シャオメイさん、行方知れずに――
そのときのことだと思います。

わからないのは形見の手鏡で、
蘭暁梅ラン・シャオメイさんを写したのが
誰なのか――
風水師なのかさえわかりません。

新山さんがご存知かも知れません。
機関本部へお戻りください。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい――
兄さん――

麻美さん、夢玄器むげんき使って
報告書をご覧になったんです。
報告書は本物でした。
でも中味が別物だったのです。

こんな内容でした――
満洲にける麻袋またい調査報告書――
そう言うんです。

大同だいどう三年だから去年のですね。
一、黄麻こうまに就いて
ニ、麻袋またいの種別
三、縫糸ほうし

そのような項目がありました。
麻美さんによると、
書いてある字だけが違ったそうです。
【帆村魯公】
おう、風魔――
【喪神梨央】
あっ、隊長!
式部さん、捕まりましたか?
【帆村魯公】
いや、まだだ。
例の芽府めふ須斗夫すとおだが、
また予言を吐いた――
今回は暗号じゃなく、
普通の言葉でだ。
式部氏が電報を送ってきたのだ。
第八の予言、
全地の主なる――
それだけだ。
【喪神梨央】
第八はもうひとつありました。
そちらはエニグマ暗号です。
【帆村魯公】
暗号が解読できれば、
二つを合わせて一本になるな。
明日、新山氏がラヂオを聴く。
【喪神梨央】
例の独逸ドイツ語放送ですね――
【帆村魯公】
そうだ、それで解読できるはずだ。
【喪神梨央】
明日を待ちましょう――
兄さん、蘭暁梅ラン・シャオメイさんのこと、
新山さんは何も覚えていないと。
【帆村魯公】
わしが代わりに聞いたんじゃが、
永井荷風ながいかふう先生にも会ったことがない、
そういうことなんじゃよ。
もしかするとブンヤの弟かも知れん。
作家先生ともコネがあるだろうから。
【喪神梨央】
それにしても式部さん、
急にいなくなるなんて――
どうされたんでしょうか?

謎の霊的物質、ゼーラム五ニ五を塗布とふして、真名井まない真鏡しんきょうに霊性の現れるのを待つ。
そして予言は
日蝕にっしょくの日の異変を告げる――
山王さんのう機関を探る
スパイ組織がある――
その怪情報が不吉な旋律せんりつを奏でていた。

第九章 第六話 水の想い

〔山王機関本部〕

九頭くず幸則ゆきのりの同輩、歩一の山本少尉が伝えた、荒川の工廠こうしょうについては、別途べっと、参謀本部の内偵ないていが入ることになった。

【帆村魯公】
山本少尉は秘密に近づきすぎた、
どうもそのようだ。
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさん、大丈夫でしょうか?
一昨日から音信がありません――
本部にもおいでじゃないです。
【帆村魯公】
確か、あの……
吉祥院某きっしょういんそれがしが警護するとか、
そんな話じゃったな。
【喪神梨央】
レンザさんが付かれるんですね!
それじゃ安心です――
そうですよね、兄さん!
【帆村魯公】
鬼龍きりゅう大尉の同輩、御荷鉾みかぼ大尉も、
独逸ドイツ勢の動きに通じておるな――
【喪神梨央】
そして今は回廊を巡る――
【帆村魯公】
うむ……
御荷鉾みかぼ大尉の見解では、風魔、
お前は回廊に入ったことになる――

アラヤ回廊――
その存在はそれとなく伝わるが、実在を確認した者は誰一人としていない。

【喪神梨央】
独逸ドイツ人は修善寺しゅぜんじロッホを探して……
結局、見つけたんでしょうか?
淑子としこ姉さんの入院していた
サナトリウム、修善寺です――
【帆村魯公】
連中の言うロッホとやらが、
下で繋がって回廊を形成する――
理屈はわかるがな、
この目で見ないことには、
どうにもかいせんわ。

魯公ろこうはやや難しい顔をして本部を後にした。
修善寺しゅぜんじロッホの件、重ねて参謀本部に、調査を依頼することになったのである。

【喪神梨央】
そうそう、兄さん――
あきらさんがお話があるって。
アトリエに寄ってあげたら?

今日の公務ですが、
巡視パトロールの方面、後ほどお知らせします。

〔旭のアトリエ前〕

山王ホテルの裏、日枝神社の石垣に穿たれた入口。それを塞ぐ頑丈な鉄扉の前で能海旭の出迎えを受けた。

【能海旭】
梨央りおさんから、
連絡あったわけじゃないよ。
何となく来るってわかったんだ。
入って――

〔旭のアトリエ〕

【能海旭】
梨央さんからね、
ベラドンナのこと聞かれたんだ。
だから、風魔さんにも教えておくね。

【能海旭】
ベラドンナは花の名前よ。
美しい女性っていう意味よ。
イタリア語だって教わった。
くすんだ紫色の花を咲かせるの――
美しさとは裏腹に、
根や茎に強い毒を持つのよ。
その毒から作った膏薬こうやくによって、
さまざまな幻覚作用が起きる――
トロパンアルカロイドという成分ね。

魔女がほうきで飛んだりするのは、
空飛ぶ幻覚にとらわれるから――
実際に飛ぶわけじゃないんだ。
バスク地方の魔女たちは、
幻覚を見る膏薬こうやくを身体に塗って、
エメンエタハン、エメンエタハン――
そう唱えながら錯乱さくらん状態になる。

魔女の膏薬こうやくは他の地域でも、
例えばフランスや北欧にも伝わる。
ベラドンナの他に、
トリカブトの毒を調合することも。
より空飛ぶ感覚が得られるのよ。

そこへ吉祥院蓮三郎が姿を見せた。

【吉祥院蓮三郎】
失礼します、
あきらさま、風魔ふうまさま――
【能海旭】
どうした?
九頭くず中尉の警護は大丈夫か?
【吉祥院蓮三郎】
その九頭中尉ですが、
青山一丁目から市電で渋谷に。
次の電車で追ったのですが……
【能海旭】
何だ? 見失ったのか?
【吉祥院蓮三郎】
かたじけないであります――

【能海旭】
しかし、何で渋谷になんか、
用があるのだ、あの中尉は?
【吉祥院蓮三郎】
渋谷には憲兵大隊が――
おそらくはゼロ師団の仮構かこうかと。
【能海旭】
そうか……
いざなわれたりしなければいいが。

風魔さん、
今日の公務、渋谷方面はどう?
電車通を進むといいよ。

〔旭のアトリエ前〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
赤坂見附電停においでください。
公務電車、待機させます。

それから……
赤坂の大柱ですが、消えました。
すっかりなくなったんです。
新山さんが調査中です。
あとで落ち合ってください。

〔青山街路〕

青山通を渋谷に向かっていた公務電車だが、青山三丁目で九頭くず幸則ゆきのりの姿を確認、風魔は電車を降り、九頭の元へ駆け寄った。

【九頭幸則】
風魔!
ちょうどよかった。
機関本部に行こうと思っていたんだ。

いやな、渋谷憲兵大隊に招待され、
主だったところを見て回ったんだ。
隊舎の中は、歩一なんかと大違い、
廊下には赤絨毯あかじゅうたんが敷かれているんだ。
広間では音楽が流れている――
ちょっといいか――

九頭は風魔を路地裏に誘った。

【九頭幸則】
大きな声じゃ言えないがな、
あそこはやっぱり怪しいぞ。
東京の憲兵は一ツ橋に移った、
東京憲兵隊本部が統括する。
山梨、神奈川を除く第一師管だいいちしかんだ。
そのうち東京憲兵隊渋谷分隊は、
道玄坂どうげんざかの途中、上通うえどおりにある。
渋谷区、目黒区、荏原えばら区を管轄する。
道玄坂上どうげんさかうえの渋谷憲兵大隊は、
おそらく工廠こうしょうと同じ性質だ。

そこまで言うと九頭は青山通に用心深そうな視線を投げかけた。

【九頭幸則】
壁に耳ありだからな!

それでだ、憲兵大隊の方だけど、
安寧あんねい課少尉係長というのが出てきて、
俺を憲兵中尉として迎えると、
そう言うんだ。
上等兵で志願して憲兵下士になる、
というのならわかるけど――
歩騎ほき将校から憲兵になるなんて、
聞いたことがない。
そう言うと係長は、
転隊を認めるとまで言い出すんだ。

あまり深入りしないほうがいいな、
なんか嫌な感じがしてきた――

【着信 喪神梨央】
新山さんが向かっておいでです。
【九頭幸則】
うわっ!
びっくりしたよ、梨央りおちゃん!
【着信 喪神梨央】
中尉は公務電車でお戻りください。
青山三丁目にて待機中です。
【九頭幸則】
了解了解!
公務電車、乗せてもらえるんだ。
風魔、先に戻るよ。

九頭と入れ替わるようにして新山がやって来た。

【新山眞】
喪神さん、愈々いよいよですよ、
事態は動き始めたようです。
赤坂の二本の大柱、
綺麗さっぱり消えてしまいました。

おそらくは――
帝都満洲にキタイスカヤが、
しっかりと定着したからでしょう。
あの二本の柱を依代よりしろにして、
キタイスカヤは存在し得たのです。
それが今や確かなものとなり……
大柱は不要となったのです。
キタイスカヤの街は、
帝都満洲にあって結界内のように、
ほとんどセヒラを観測しません。

思うのですが……
キタイスカヤ街は哈爾浜ハルピンにある、
キタイスカヤ街と繋がっている――
そうではないでしょうか?

つまり……ややこしいですが、
現世にあるキタイスカヤと繋がる、
その場所が、きっとあるはずです。

二人の話すところへ赤坂方面から梨央がやって来た。

【喪神梨央】
満洲風に言うと、埠頭区プリスタン新城大通ワゴロドナヤにある東方飯店ホテルボストーク――
ホテルで二つのキタイスカヤ街が
繋がっているのです。

兄さんと麗華さんが、
その部屋でお話されました――
あれは四◯八号室でした。
二つの波形が重なり、
微動だにしないのです。
そのホテルのある辺りが……
【新山眞】
なるほど――
ホテルで二つの世界が繋がる、
なかなかおもしろいですね。

【喪神梨央】
兄さん――
これを見てください。
【新山眞】
これは……
ホテルボストークの便箋びんせんですね。
何が書いてありますか?

【喪神梨央】
先程、式部さんがおいでになり、
読んでいただきました。
希伯来ヘブライ語だそうです――
【新山眞】
それで、意味は?
【喪神梨央】
エラ ツエーツエイン マイム
ハダシュ オ……

オの後がわかりません。
これは文章ではなく単語だそうです。
女神、子孫、水、新しい――
エラといういうのは女神なんですね。
範奈さんのお父さんが、
キタイスカヤでおっしゃいました。
エラ、エラ――
でも後が続かなくて……
あの時は何のことやら、
さっぱりでした。
【新山眞】
するとこのメモは……
【喪神梨央】
範奈はんなさんが書かれたようです。
ホテルの部屋で書かれたのです。
【新山眞】
この便箋びんせんがヒントですね。
喪神さん、キタイスカヤ街です。
ということは範奈はんなさんは――
【喪神梨央】
鈴代さんからうかがったのですが、
範奈はんなさん、満洲に渡られました。
おそらく哈爾浜ハルピンです――
お父さんとお会いになったのも、
キタイスカヤでした――
あれは帝都満洲の側ですね?
【新山眞】
そのはずです――
今度は……

なるほど!
現実の哈爾浜ハルピンと帝都満洲が接続し、
メモが帝都に現れた――

我々にはゲートがあります。
喪神さん、キタイスカヤ街には、
赤坂哈爾浜ハルピンから行けるはずです。
【喪神梨央】
これから戻って、
赤坂哈爾浜ハルピンのセヒラ、
観測始めますね!!

埠頭区プリスタンにあるホテルボストークが、満洲と帝都満洲を繋ぐという。
風魔は赤坂哈爾浜ハルピンからホテルを目指した。

〔キタイスカヤ街〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
先の十字路を右に曲がってください。
ホテルボストークは、
ワゴロドナヤ街十一号地です。
わずかにセヒラを観測します。
注意してください。

キタイスカヤ街は静寂の中に沈んでいた。人の姿はなく渡る風さえなかった。
そこへ一人の背広姿の男性がやって来た。

【千葉の莫大小メリヤス商】
いやぁ、困りました――
すっかり見当識を失いました。
松花江スンガリーに出ようとね、
いやね、遊覧船にでも乗ろうかと。
ホテルでうたた寝したのです。
ロビーに降りたら、なんと私一人!
町の中にも誰もいない――

ここはキタイスカヤなんですか?
哈爾浜ハルピンかキタイスカヤか、
キタイスカヤか哈爾浜ハルピンか――

日本人は哈爾浜ハルピン銀座と呼ぶそうです。
石畳いしだたみの歩道には散策の外国人が、
軽快なるステップを運び、
およそ東洋からかけ離れた雰囲気は――

って、誰もいないじゃないですか!!
私一人、あなた一人、一人、一人!
うぎゃぁぁぁぁ~

《バトル》

【千葉の莫大小商】
はぁはぁはぁはぁ……
何が東洋のモスコーだ、
こんなところ!

【着信 喪神梨央】
今の人は、哈爾浜ハルピンのホテルから、
こっちに来たようですね。
他にもいるかも知れません。
注意して進んでください。

四つ辻を曲がって山郷武揚が姿を見せた。山郷は風魔を認めると静かに切り出した。

【山郷武揚】
人助けというのは、
人の為ならずとはよく言ったものだ。

ハオ社長ご自慢の野蚕やさん
白黄斑山繭しろきまだらやままゆかびで全滅してね。
それじゃ商売上がったりだ!
そこで私が特上の絹糸けんしを調達した。
そのときの社長の喜びよう、
なかなかのものだったよ。

甲斐絹かいきの対価として、
私はアルツケアンを受け取った。
その不思議な石のことは、
エメリヒと言う名のかい族の少年から
詳しく聞き及んでいたよ――

エメリヒは独逸ドイツ人研究者につかえたかい族だ。
研究者に気に入られ、独逸ドイツに連れて行かれ、アーネンエルベにも出入りしたらしい。

【山郷武揚】
独逸ドイツから戻ってきたエメリヒは、
別人のように利口りこうになっていた。
私はあの子から多くを学んだよ――

烏魯木斉ウルムチ近くに落ちた隕石いんせき
アルツケアンには、
宇宙が閉じ込められている――

アルツケアンの衝突により、
大きなセヒラ場が生じる――
それはまるで宇宙創造の瞬間だ。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ、上昇しています!
注意してください。

俄に山郷の周囲にセヒラが漂い始めた。

【山郷武揚】
山王機関は熱心だね!
こんなところまで探信たんしんしているのか。
君たちは大いに勘違いしている。
私の開いた古式東雲しののめ流――
それはもはや古式ではなかった。
鬼神や妖魔を自らに降ろす古式、
しかしそれでは戦力にはならない。
古式を超えてを指揮する――
私はそこに至ったのだ。

しかしそこに頂きはなかった。
鈴代によって未来を奪われたのだ。
鈴代にすれば私は家系の染みだ。
一点の染み――
フフフフ……

だが私と鬼龍きりゅう大尉には、
残されたものがあるのだよ。
もう一度、機会をもらおうではないか!

《バトル》

【山郷武揚】
まだ他にも手はあるはずだ。
猶太ユダヤすえを招き寄せる方法がな。
この世界にはまだ見ぬ力が眠る。
触れてはならないかも知れないが。
パンドラのはこは開かれるのだ――

そう言うと山郷は踵を返して去った。

【着信 喪神梨央】
アルツケアンって、
そんなに大きな力を秘めている、
そうなんですね――

黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
まだ何かの波形を観測します。
ホテルの方へ向かってください。

ホテルのある街区へ入ったところで、鉢合わせするかのように廣秦範奈と出食わした。

【廣秦範奈】
喪神さん――
私、姉に呼ばれたのです。
いえ、姉の思念に触れたというか……

目覚めたらホテルの部屋でした。
そこではっきりと、
姉に触れたのです。
姿は見えないけれど――
とても確かなことでした。

範奈は姉の印象を語る――

【???】
範奈はんな――
あなたを見たのは、
小さな頃、一度だけよ。
万世橋駅近くの商家ね。
あなたの前では私は美香みか
廣秦美香ひろはたみかだったわ――

範奈は風魔から目をそらし俯いた。
再び姉の印象を呼び覚ましている。

【廣秦範奈】
先程のお父さまのこと、
お話いただけませんか?
廣秦伊佐久ひろはらいさく、それが父さまですよね?
【美香の声】
ええ、私たちが生まれてからはね。
その前は古賀容山こがようざんという篆刻師てんこくしよ。
雅号を持つ前は古賀喜一こがきいち――
父は古賀家の婿養子むこようしなの。
篆刻師てんこくしとして五大幻石ごだいげんせきを探して、
長野の方で行方不明になったのよ。
【廣秦範奈】
五大幻石ごだいげんせき
【美香の声】
自然珪しぜんけい天竺瑠璃てんじくるり雌黄しおう捻綿石ねんめんせき
玄武晶げんぶしょう。まだ発見されていない石よ。
父はそれらを求めて姿を消したの。
【廣秦範奈】
お姉さまはお父さまに、
お会いになったのですか?
【美香の声】
父は何かの拍子に遠い未来に行き、
そこで気脈を整える装置を作った――
それが働いたのよ。
私も父と同じ時代に生きた。
ニ〇一五年、九龍城砦にある光明路、
私は今もそこにいるのよ。
【廣秦範奈】
ニ〇一五年……
日本ではないのですね?
お父さまもご一緒ですか?
【美香の声】
父とははぐれてしまったの。
また深いところを巡っているようよ。
この町で私はラウ美鈴メイリンを名乗るの。
そうすることが自然だから――
でもたまに父に近づくの。
そして言葉を預かったわ。
【廣秦範奈】
どのような言葉ですか?
【美香の声】
冬至の朝、水辺に――
私たち姉妹で為すことがある、
父はそう伝えたわ。
【廣秦範奈】
水辺……
それは海ですか、湖ですか?
それとも――
【美香の声】
まだわからないわ――
【廣秦範奈】
水辺で姉さまに、
お目にかかれるのでしょうか?

しかし姉の答えはなかった。範奈の姉の印象は消えてしまった。

【廣秦範奈】
姉さま!
もう行かれたのですか?
姉さま――

範奈は風魔を見た。その眼を力強く見つめた。

【廣秦範奈】
喪神さん――
私、ここに何度か来たような、
そんな気がしています。
眠っている間に、
父上の言葉を預かったような――

もう一度、ホテルの部屋に戻ります。
冬至に間に合うように、
日本には戻ります。

範奈は踵を返し、確かな足取りで歩き去った。
そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂哈爾浜ハルピンにお戻りください。
ホテルでは戻れません!

〔山王ホテルロビー〕

祓えの間から山王に戻った風魔。ホテルロビーにいると梨央が本部からやって来た。

【喪神梨央】
兄さん!
大変です、彩女あやめさんが――
青山の脳病院に、
彩女さんの遺書があったと。
もうじき式部しきべさんがおいでに――

梨央が言い終わらないうちにホテル玄関から式部がやって来た。

【喪神梨央】
式部さん!
彩女さんの遺書って、本当ですか?
【式部丞】
ええ、あれは遺書です。
間違いようもありません――
捜索そうさくの依頼で警察に渡しましたが。
警察では何とか追いつける、
そう見込んでいるようです。
今は任せるしかありません。
【喪神梨央】
それで、遺書には、
どんなことが書いてあったんですか?
【式部丞】
このような乾いた世界では、
もう生きていけない、
兄さんを追いかけるのだと――
【喪神梨央】
彩女さんのお兄さんって……
【式部丞】
周防高麿すおうたかまろ、文学青年でした。
四年ほど前、一碧湖いっぺきこで入水しました。
【喪神梨央】
え? そうなんですね……
一碧湖いっぺきこ――
【式部丞】
一碧湖いっぺきこは、ある女性が入水してから、
しばらく後追いが続きました。
【喪神梨央】
独逸ドイツ人医師に殺されたユーゲントが、
投げ込まれたのも一碧湖いっぺきこです。
それにしても――

彩女さん、お兄さんのこと、
よほどお好きなのですね?
【式部丞】
兄さんが読書家なので、
少しでも話が合えばと、
セルパン堂で働いていたのです。
そしてオフィーリアという文芸誌を
購読していました。
【喪神梨央】
オフィーリア――
【式部丞】
ハムレットのヒロインです。
最後には気が触れて川に落ちます。
その様子を描いた絵が――
【喪神梨央】
ミレーの絵ですね!
上野の死ぬ死ぬ団の女性が、
口にしていました。
【式部丞】
漱石そうせきも取り上げていますね。
草枕にあります――

オフェリヤの合掌がっしょうして水の上を
流れて行く姿だけは、
朦朧もうろうと胸の底に残って――

漱石そうせきはテイト・ギャラリーで、
実物を見ているはずです。
そして思い違いをした――
【喪神梨央】
実際に見ているのに?
【式部丞】
ミレーのオフィーリアは、
合掌がっしょうに組んではいません。
思うのですが――
一碧湖いっぺきこといい、オフィーリアといい、
いずれも水にちなみますね。
【喪神梨央】
そういえば、彩女さん、
魚座だと言っていました。
【式部丞】
魚座は情緒じょうちょ豊かな空想家――
まさに彩女君そのものですね。
【喪神梨央】
彩女さん……
もう手遅れでしょうか?
【式部丞】
警察からの連絡を待ちます。
私たちにはそれしかできません。
喪神さん、
私はセルパン堂に戻ります。
【喪神梨央】
兄さん――

【新山眞】
喪神さん、梨央ちゃん!
広尾橋界隈かいわいでセヒラ急上昇です。
波形からすると――
【喪神梨央】
どうしたんですか?
【新山眞】
周防すおう彩女あやめさんです、おそらく……
【喪神梨央】
ええ? だって彩女さんは――

梨央は新山に彩女の遺書の話をした。
現在、警察が全力で追っていることも。

【新山眞】
だとしたら――
広尾橋にあるのは……
アストラル?
【喪神梨央】
じゃ、もう……
彩女さんは――

兄さん、お願いします!
広尾橋……いや、その近くです。

〔渋谷区豊受町〕

広尾橋電停で公務電車を降りた風魔は、宮邸脇を抜け豊受町界隈へ。
省線恵比寿駅と高樹町を結ぶ通りに出た。

【着信 喪神梨央】
%▲&士――
そこ◎★%&▲%ですか?

不意に建物の影から彩女が現れた。彼女は真っ直ぐ風魔のもとへ来た。

【周防彩女】
喪神もがみさん――
彩女、乱歩先生にご迷惑を
おかけしたかしら?
勝手にオリムピア号のお話、
披露ひろうしたりして――

でも言葉がどしどし出るのですわ。
オフィーリアを読んでいても、
ちっとも頭に入って来なくて、
知らない間につづっているのですわ。

彩女、兄さまにいざなわれている、
そう思うようになったのですわ。

するとどうでしょう、
すーっと身体が軽くなり、
いろいろのこともなくなり――

あれはまだ小さなときですわ。
兄さまと高尾山たかおさんに行き迷子に……
何時間も暗い山の中を彷徨さまよいました。
兄さまは、彩女、大丈夫か、
まだ歩けるかとしきりに心配され、
彩女は歯を食いしばって歩きました。
ようやくさわにたどり着き、
そこで少し休むことになりました。
彩女は木にもたれ眠りました。

いかほど経ったことでしょうか、
兄さまの声で目を覚ますと――
兄さまは沢の水をてのひらみ、
彩女に飲ませてくれたのです。
兄さまのてのひらから頂くお水は、
とても甘く柔らかくそして暖かく、
彩女の中に溶けていったのです――

彩女は兄さまとひとつになりました。

式部しきべ店長が御本に向き合われる時、
そこに兄さまの面影おもかげを認めますわ。
うなじの姿がそっくり――

でも兄さまとは違うのです!
兄さまはあんなことはされません。
大切な御本を破くなんて――

ある日、彩女は夜まで眠りました――
目を覚ますと書庫の方で物音がして、
その後店長がお出かけになりました。

彩女、書庫をのぞいて吃驚びっくりしたのです。
ゲエテの御本のページが破られ、
御本が半分ほどの薄さに――
きつねの裁判という美しい御本です。

兄さまは絶対ご本を破るなど、
そんなことなさいません!

店長の中に兄さまを認めていた、
彩女はとてもおろものなのです。

兄さま――兄さま――
兄さまは彩女をお呼びなのです。
呼んではいけないのだとお思いです。

――そんなことはございません。
彩女は行かなくてはなりません。
水の中で再び結ばれるのです。

私たちはまるでウンディーネと
ユーゴのようなのですわ――

そこまで言うと彩女は暗誦を始めた。

【周防彩女】
時計の十二時を示すや一陣いちじんの風と共に雨さえ加わり雷鳴がして、
ウンディーネが現れる。
ユーゴーは非常に後悔こうかいをして、
ウンディーネの腕を取ってびるが、
しかしウンディーネはそのままユーゴーをひかれて深く深くしずんでく――

突如として激浪げきろうが起こり、
華美を尽くせる大広間は
忽然こつぜんとして大海の如くなり、
水の神の水晶宮すいしょうきゅうが現出する――

彩女が語り終えた時、辺りが暗くなり薄暮のようになった。再び光が戻った時、目の前には千紘がいた。

【千紘】
ここは彩女の記憶なんだね――
彩女をそのままにしていて、
僕は自分のことが少し見えた――
そんな気がするんだ。
とかく水にちなむからね、彼女は。

それは、とりもなおさず、僕の中に、
水の要素を含むということさ!

心霊的なビジョンとされる、
メリュジーヌは、水の中にあり、
楽園的な存在を留めているのさ。
メリュジーヌは、人の血液にも、
命脈を保ち続けたと言われている。

僕の中の水の要素が、
高麿たかまろの入水自殺をもたらし
そこに彩女が強くかれた――

一見、不安定な彩女だけど、
水に向き合うことで、
彼女は安定していたんだよ。

でも彼女は式部丞に何かを見た――
兄を重ねているのは知っていた。
でもそれじゃない。
彼女の心に小さな穴が空いたんだ。
そういう中はじきに大きくなる。

だからおしまいにしたのさ。

フフ――
この僕が何かに不安を覚えるなんて。

どうだい?
君の力で僕の不安を払拭ふっしょくするのは?
いい考えだと思うよ!!

《バトル》

【千紘】
君はとても力をつけている。
新しい世界でもやっていけるね。
そのときが楽しみさ!

僕はホテルボストークにいる。
また時機じきを見て姿を見せるよ。
芽府めふ須斗夫すとおの予言通りなら――

千紘は音もなく建物の影に消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
大丈夫でしたか?
ユリアさんが相談したいと――
アーネンエルベに向かってください。

〔アーネンエルベ〕

ユーゲントを指揮する虹人こうじんからの連絡で、帝都で怪人が姿を消しつつあるという。
廓清かくせいされるのではなく怪人のまま消えるのだ。

【ユリア・クラウフマン】
フーマ!
来てくれたのですね。
コージンはユーゲントを連れて、
帝都をめぐっています。
そして妙なことを――

怪人が怪人のまま、
どこかに姿を消すと。

怪人はきを解かれて、
はじめて怪人ではなくなる――

怪人のままいなくなるなんて。
何かの作用が及んでいる、
そう思えてなりません。
フーマ、また新しいことがわかれば、
連絡します。

私……不安です……

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい、兄さん!
先ほど、あきらさんたちがおいでになり、
彩女あやめさん、あ、いや、千紘ちひろさん、
間違いなくメリュジーヌですって。
その転生した姿だそうです。

メリュジーヌは仏蘭西フランスの伝承で、
魚の尾を付けた女性だそうです。
毎週末、尾を付けて海に帰る、
それを夫に見られたことで、
ずっと水の中で生きることに――

詳しいこと、あきらさんが調べるって、
そう仰っていました。
学校の図書館に向かわれました。
式部しきべさんからはまだ何も……

うまく受信できませんでしたが、
もう彩女さんはいらっしゃらない、
そうなんですね?

でも、どうして本を破ったり……
本を大事にされないのでしょうか?

その夜、式部から電話があり、一碧湖いっぺきこでは彩女は見つからなかったという。
風魔の報告を受けた梨央が彩女の件を話し、式部は考え込んだ後、人格の死と命名した。
周防すおう彩女あやめは人格の死を向かえたのである――

第九章 第二話 結晶

青山新京シンキョウに向かうべく帝都満洲鉄道の駅へ。満鉄列車長は何かにおびえている様子だった。

【満鉄列車長】
何か普段とは違うのです――
どう申せばよいでしょうか?
ですが、原因はわかっています!
機関車です、あじあ号をく機関車。
帝満パシナ形ではあるのですが、
昨日乗務したのは別物でした。
得体の知れない何かであり、
名状し難いものであったのです。
どうも背筋がスーッとするのです。

でも、ご安心ください。
今は大丈夫です――
当列車、青山新京シンキョウにまいります。

〔青山新京〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
式部しきべさんに代わりますね。
彩女あやめさんのこと、心配されています。
【着信 式部丞】
さっきはなんとか切り抜けましたね。
お七やお熊……長年堆積たいせきした思念、
あんなふうに現れるのですね。
さて、彩女君ですが、いや……
千紘ちひろ、自分が何者かわかったと、
そう言っていましたね。
芽府めふ須斗夫すとお君と――
それに吉祥院きっしょういん……
【着信 喪神梨央】
レンザです。
吉祥院蓮三郎きっしょういんれんざぶろうです。
彼は元は悪魔でした――
【着信 式部丞】
悪魔が人間に転生しようとした――
芽府めふ君も同様とするのなら、
千紘ちひろも何か出自があるのかもです。
彩女君のこと、
少し調べてみようと思います。

交信の後、一体のアストラルが近寄って来た。引かれるように別の3体も姿を見せた。

【旅行者Sアストラル】
わて、大阪からな、来たんやけどな、
えろうよろしな、新京シンキョウ
さすが満洲帝国国都でんがな!
夜にな、チィ~トな、羽目はめ外そ思て。
ほなな、書館しょかんの表出しよんねん!
表の上に書館一覧て書いたぁる――
阿呆あほか、のろけか、何さらてんねん!
何で本屋行かなあかんねんちゅうて、
案内の支那シナ人どやしつけたんや!
そしたら、あんた、
一流の芸妓げいぎ屋は書館やねんて!
そう言うのが満洲流儀やそうや。
なんやら書館が一流のとこでっせ。
二流はなんやら班、
三流はなんやら堂、そう言うんやて。
ほな書館行って楽しみまひょかな、
開盤子カイパンズて言うんでっしゃろ!
うずくわ、うずくわ、うずいてきたわ~

【入植者Hアストラル】
大同だいどう大街を下って、西公園の南、
関東軍司令の建物、
もうすっかり出来ていますね!
大通りの西が司令本部、
東が新京憲兵隊司令部だそうで。
年末には引っ越し終わるそうです。

【露西亜人Pアストラル】
ここシンキョウはロシヤ人には、
ちょっと住みづらいですネ!
その点、ハルピンはいいですヨ!
ソフィースキー寺院とかネ、
キタイスカヤとか……
モストナヤ、ボレワヤ――
ロシヤ人に馴染みの町がたくさんネ!
ワゴロドナヤのホテルボストーク!
でもここ、かなり違いますネ。
ヒノデ、イズミ、フヨウ、ニシキ……
皆、日本的な町ですネ!

【大学生Kアストラル】
南広場の新京シンキョウ放送の隣にあるのが、
あの興亜日報なんだね!
ああ、憧れるなぁ……
僕もね、絶対に敏腕びんわん記者になって、
特報記事を発表するんだ!
興亜日報、
メールボーイを募集するから、
応募してみようかな!

【着信 喪神梨央】
普通に新京シンキョウにいる人たちの
アストラルですね。
セヒラ反応はありません。

風魔は先の街区へと進んだ。そこでは2体のアストラルが会話をしていた。

【D次郎アストラル】
ここは……青山ニャ?
――なんだか頭がムズムズするニャ!
さっき赤坂で、
懐かしい名前聞いたって、
S次郎が言ってたニャ!

そうだニャ、S次郎!
【S次郎アストラル】
万世橋まんせいばしの商家、古賀こが――
懐かしいニャ!
【D次郎アストラル】
S次郎、お前、山王さんのうあたりに来る前、
万世橋まんせいばしの辺にいたかニャ?
【S次郎アストラル】
そうニャ! そうニャ!
トラックの荷台で寝てたら、
溜池まで連れてこられたニャ。
【D次郎アストラル】
それでお前は、
古賀って家に飼われてたのかニャ?
【S次郎アストラル】
そうニャ!
古善ふるぜんて屋号のコークス問屋だニャ。
看板にFURUZENとあるニャ。
創業者が一郎というニャ。
四代目は娘婿むすめむこで、喜一というニャ。
善と喜で縁起がいいってニャ!
でも喜一はアレルギーが酷くて、
コークス扱えないニャ!
それで篆刻師てんこくし鞍替くらがえしたニャ。
篆刻師てんこくしになってから容山ようざんという、
雅号がごうを持ったニャ。
古賀こが容山ようざんだニャ――
【D次郎アストラル】
今、古賀容山はどうしてるニャ?
【S次郎アストラル】
万世橋まんせいばしにはいないニャ。
奇石を探しに長野に出かけたまま、
帰ってこないニャ。
【D次郎アストラル】
残された奥さん、
さぞかし大変だろうニャ!
【S次郎アストラル】
あすこの奥さん、変わり者だニャ。
深水ふかみ察智ざっちという卜占師ぼくせんしの言うなりに、
娘を修善寺しゅぜんじの旅館に預けたニャ!
容山には双子の娘がいたニャ。
預けられたのは姉の方ニャ!
二人は生き別れになったニャ。

【D次郎アストラル】
ん?
ニャんか感じるニャ!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ、急上昇しています。
すぐ近くです!!

【D次郎アストラル】
おいらたちも失敬するニャ!
S次郎、行くニャ!

2体のアストラルはさーっと左右に去った。
風魔は先へ進んだ。そこには大穴が開き、セヒラが盛大に吹き出していた。

【着信 喪神梨央】
ものすごいセヒラです!
ここは一時撤退てったいしてください!!

交信が終わるや穴から吹き出すセヒラが一段と濃くなった。すべてがセヒラに呑まれそうになった刹那、急にセヒラの噴出が止んだ。
穴の前に月詠麗華の姿があった。風合は麗華の前に歩み寄った。

【月詠麗華】
風魔ふうまさま……
お久しぶりです。
新京シンキョウ神社にある井戸に降りたのです。
運河で東京に繋がっていると、
そう教えられました――

【着信 喪神梨央】
麗華れいかさん!?
麗華さんがおいでになったのですね!
帥士すいし、セヒラは観測しません。
麗華さんと一緒に、
帰還してください。

【月詠麗華】
でも……
まだここは帝都ではありませんね。

麗華の後ろに仮面の男がゆっくりと降りてきた。仮面の男は大穴の上に浮かんでいる。

【仮面の男】
よくぞ戻れたな、月詠つくよみ麗華れいか――
さぁ、決意したのなら私と組み、
より大きな力を得ようではないか。
純粋なる戦いに燃焼するのだ!!

仮面の男の呼びかけにも麗華は答えない。麗華は風魔をじっと見据えたまま言う――

【月詠麗華】
私はまだ不完全なのです――
古式東雲しののめの奥義を継がねばならず、
こうして戻ってまいりました。
【仮面の男】
二人の迷える子羊たちが、
この道を開いてくれたのだ。
お前のための道だ。
さぁ、二本の柱の消えぬうちに。
柱が消えるとお前はまた新京シンキョウだ。
あの町に戻ることになるぞ――
月詠麗華よ――
整えて私に立ち向かうのだ。
それが最善の方法だ。

周囲の風景が滲みながら消え暗転した。暗闇の中に月詠麗華が立っている。その背後に仮面の男が立つ。

【仮面の男】
私は特別な力を得ている。
それは古の結晶アルツケアンという。
太古の昔、北アジアに堕ちた隕石いんせき
まさにアルツケアンだ――

麗華は風魔を見たまま仮面の男の言葉を返す。

【月詠麗華】
――隕石……
【仮面の男】
不思議の結晶、そして学者は言う、
転生の結晶だと――
メントロピー現象が生起する!
AGKアーゲーカーのフェラー博士は、
私にアルツケアンを用いた!
ウハハハハ~
アルツケアンは実に不思議だ――
結晶は私の前で気体となり、
今や私の体に染み渡っている!
【月詠麗華】
――結晶……気体……
【仮面の男】
アルツケアンによって、
私は転生の途上とじょうにある!
さぁ、私を完成させてくれ。
お前の戦いのすべてを披露ひろうするのだ。
それで私はアプシュロスを目指す!
永遠の存在となるのだ!!

麗華と風魔の間に光が現れた。それは稲妻のような光だった。やがて光は一抱えほどもあるセヒラ球を作った。セヒラ球から放たれた光が麗華と風魔に届く。二人の体が発光を始めた。

【仮面の男】
何故だ!?
月詠……麗華……
お前は何をしたのだ!
うわぁぁぁぁぁ~

セヒラ球がひときわ大きくなり、周りを呑み込んでしまった。
すぐにセヒラ球は収束し、元の暗闇に戻った。仮面の男も麗華も消えていた。
そこへ山郷武揚が現れた。それは実体ではなく思念的な存在のようである。

【山郷武揚】
二つのアルツケアンが出会えば、
未曾有みぞうのセヒラ場が生じる――
失われた支族しぞくすえは、
必ずや引き寄せられるだろう。
――どこにいようともだ。
どちらかがたおれるか、
あるいは共倒れになるか……
とうと犠牲ぎせいというやつだな。

山郷は揺らぎながら消えた。
周囲に光が戻った。そこは先程と同じ青山新京、大穴の前である。何事もなかったかのように穴の前に麗華がいた。そして2体のアストラルも現れている。

【関東軍軍人Sアストラル】
あろうことか、関東軍特務部が、
黒幇フェイパンに襲撃された!
まだ関東軍司令部の移転前だ、
警備も手薄であったに違いない――
しかし、特務部に何の用がある?
あそこは満蒙まんもうの経済政策を担う部署。
半数が民間出身の軍属じゃないか!
【支那人Rアストラル】
関東軍特務部を襲ったのは、
牛頭ごず機構にやとわれた黒幇フェイパンの連中だ。
何かの特務機関と勘違いしたらしい。
奴ら、考える前に行動に出るからな。

【着信 喪神梨央】
麗華さん、まだおいでなのですか?

着信がきっかけなのか、いきなり麗華がアストラルを突き飛ばして走り去った。

【着信 新山眞】
仮面の男がセヒラの道を開き、
麗華さんを導いたのです。
それを知っていた山郷やまごうは、
仮面の男を利用したわけです。
おそらく麗華さんにも、
アルツケアンが取り込まれている、
そう考えて良さそうです。
アルツケアンについては、
アーネンエルベの記録を調査中です。
山郷がどう入手したのかも。

【着信 喪神梨央】
すぐ近くに巨大なセヒラです。
麗華さんではありません、
何か別のもののようです!

風魔は踵を返して大穴を背にした。
進んだ先に大型のアストラルが風魔を待ち受けていた。

【メカノフィリアアストラル】
とうとうなれた!
機関車だ、パシナ形だ!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
メカノフィリアです!
聞く耳持たないようです――

【メカノフィリアアストラル】
全長二十五・六七五メートル
全幅ぜんぷく三・三六ニメートル、全高四・八メートル
全重量ニ〇三・三一トン
日本最大、ニメートル動輪どうりんで、一万五千八百五十トン牽引力けんいんりょく
うははは、どうだ、パシナ形だ!
満蒙まんもう沃野よくやを駆け抜ける!
何人なんぴとたりとも邪魔はさせん!!

《バトル》

【メカノフィリアアストラル】
東より~ 光は来る~
光をのせて~ 東亜とうあの土に~
使いす我等われら我等われらが使命~

あああ、俺はパシナ形だ――
だがもう保てない!

【着信 喪神梨央】
今のメカノフィリアは、
本物のパシナ形に心を寄せたのです。
あじあ号、この九月に京浜けいひん線にまで運転区間が延伸えんしんされました。
でも新京シンキョウ哈爾浜ハルピン間の牽引けんいん汽車は、パシナ形ではありません。
線路が弱くて走れないのです――
【着信 新山眞】
先程の山郷やまごう武揚ぶようの思念、それに影響を受けた波形があり、吉林キツリン延吉エンキツ図們トモンで観測します。
まずは広尾吉林キツリンへ――
向かってみてください。

風魔を乗せた帝都満洲鉄道あじあ号は一路広尾吉林を目指した。

【満鉄列車長】
パシナ形になりきっていたのですね。
取り除いていただき感謝します。
もう不安はなくなりました。

さて、当列車、間もなく、
広尾吉林キツリン、広尾吉林キツリンに到着です。

〔広尾吉林〕

【満人Fアストラル】
関東軍の連中、
日本語で話せばいいものを、
変な支那シナ語使うから混乱する!
你是打那兒来的ニーシーターナールーライテ――
お前はどこから来たのか?
你要打算上那兒去 ニーヤオターソアヌシャンナールチュイ――
お前はどこへ行くつもりか?
連中、軍にて支給された、
新々実用支那シナ語会話という本を使う。
あまり実用的ではないな!

【関東軍軍人Hアストラル】
隊の中からも何人かが、
牛頭ごず機構に加わるという。
すでに内地では特別な力を発揮はっきする
会員もあるらしい――
だがな、私としては、
頭目とうもく山郷やまごうという人物、
どこか信用ならんのだ!

【拓殖者Kアストラル】
吉林キツリンの町角に、
牛頭ごず機構のポスタアが貼ってあった。
勇躍ゆうやくして征途せいとけ!
どこにいくさに出るつもりだ?
そもそもあの頭目とうもく山郷やまごうという男、
この間、満人の豆タク運転手を、
ひどい剣幕けんまくで怒鳴りつけていたぞ。
あれは人をく器じゃないな!

憤るアストラルを見ていた一体が何かに気付いたように風魔の前を通り過ぎた。

【満人Fアストラル】
おお、郎平ランピンがいるのか?

風魔はそのアストラルを追った。

〔広尾吉林〕

先程のアストラルと思しき一体が別のアストラルと話していた。

【満人Fアストラル】
おい、郎平ランピン、お前だろ?
【満人Rアストラル】
くそったれ!
あの日本人、道を間違えただけで、
俺を怒鳴りつけやがった!
まるで虫けらみたいに言いやがった!
【満人Fアストラル】
どう間違えたんだ?
【満人Rアストラル】
一本筋を間違えただけだ。
ちゃんと着けたんだ!
支那シナ人の糸屋にな。
【満人Fアストラル】
支那シナ人の糸屋か……
満蒙絲線まんもうシーチェンという店だな?
【満人Rアストラル】
ああそうだ!
日本人も支那シナ人もクソッタレだ!
【満人Fアストラル】
あそこは柞蚕糸さくさんしを扱う糸問屋だ。
北支ほくし原産の柞蚕サクサンだな――
社長は好文海ハオウェンハイと言ったな。
【満人Rアストラル】
詳しいじゃないか、お前!
【満人Fアストラル】
新聞で読んだ。
白黄斑山繭シロキマダラヤママユという希少種の、
人工飼育に成功したらしい。
【満人Rアストラル】
あの日本人、俺に言ったんだ!
你要跑我就打你ニーヤオパオウォーユターニー――
お前が逃げようとすれば打つぞ!
【満人Fアストラル】
柞蚕サクサンというのは山繭蛾ヤママユガの仲間だ。
日本の絹、家蚕糸かさんしには劣るが、
独特の野趣やしゅがあるんだ。

【着信 喪神梨央】
彼らの言う日本人とは、
おそらく山郷のことかと思われます。
山梨やまなしで山郷絹糸けんしを営みます。
でも今は何も観測できません。

交信後、一体のアストラルがやって来た。そして風魔の前で止まった。

【牛頭機構構Aアストラル】
もしかすると新京シンキョウには何もない、
そうじゃないのか?
山郷さん、あの支那シナ人の糸屋に、
言いくるめられているんじゃ……
あの糸屋、いけ好かない奴だ。
奴の野蚕やさん、あのみょうな黄色いだ、
それらが伝染病になって、
今年は全滅したという――
山郷さんを拝み倒して、
山梨の甲斐絹かいきを調達しやがった。
野蚕やさんとは大違いだ――
吉林キツリン延吉エンキツ図們トモン
どの町にも奴の店はあるが、
N計画なんて影も形もない!

そこまで言うとアストラルは去って行った。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
高輪延吉エンキツでセヒラ反応です。
波形も観測します。
高輪延吉エンキツに向かってください。

高輪延吉に向かうべく風魔は満鉄に乗り込んだ。

【満鉄列車長】
今、この帝都満洲は、
実際の満洲の町と対になっています。
次の高輪たかなわ延吉エンキツも、
実際の延吉エンキツに繋がるようです。
間もなく、高輪延吉エンキツ
高輪延吉エンキツに到着です。

〔高輪延吉〕

【鮮人Dアストラル】
昌京チャンギョンったら目の色変えてたわ!
ハオの店で日本の絹糸を扱う、
その話よ、そりゃいい品よ、きっと!
いつもの野蚕やさんじゃね、
晴れ着は作れないもの!

【支那人Qアストラル】
今年はまいったな!
ハオ社長の白黄斑山繭シロキマダラヤママユが全滅だ。
斑僵病まだらきょうびょうだってさ!
白黄斑シロキマダラだけがかかる伝染病で、
かいこかびが繁殖して固くなってしまう。
そうなると蚕糸さんしは見込めない――
【支那人Lアストラル】
まぁ、でも、日本の山郷やまごうさんが、
甲斐絹かいきを三トンも送ってくれて、
今年も商売続けられるな。
【支那人Qアストラル】
ハオさん、資金底ついて、
あの変な石ころ売ったんだろ?
【支那人Lアストラル】
ん? 回族から買ったという石か?
いや、石それ自体を渡したそうだ。
【支那人Qアストラル】
ええ? そうなのか?
石を渡した――
甲斐絹かいきの支払いにてたのか?
【支那人Lアストラル】
山郷さんは石がいいと。
正確には不思議の結晶と呼ぶらしい。
【支那人Qアストラル】
何が不思議なもんか!
まぁ、でも、お陰で日本製の、
いい蚕糸さんしが手に入ったわけだ。
俺達も路頭ろとうに迷わずに済むな!

【着信 喪神梨央】
不思議の結晶ですね、
さっきも出ましたね。
アルツケアンのことでしょうか……
とすると――
山郷もアルツケアン持っていた、
そうなりますね!

〔高輪延吉〕

風魔の進んだ次の街区で、三体のアストラルが言葉を交わしていた。

【牛頭機構Gアストラル】
山郷さんは僥倖ぎょうこうを得た、
そう仰っていたな。
【牛頭機構Mアストラル】
中央郵便局の帰りだそうだ。
新京シンキョウ神社のところで声をかけられた。
――月詠つくよみ麗華れいかにな。
【牛頭機構Cアストラル】
何で山郷さんとわかったんだ?
そんなに二人は昵懇じっこんの仲だったのか?
【牛頭機構Gアストラル】
互いに見たことはある程度だと……
だからこそ、僥倖ぎょうこうなんだよ。
【牛頭機構Mアストラル】
山郷さん、茶の器を持っていたって?
交趾焼こうしやき香合こうごうふところに入れていて、
月読麗華はそれで気付いたんだとか。
【牛頭機構Cアストラル】
だとするとすごい勘だな!
【牛頭機構Mアストラル】
鮮やかな黄色の亀の香合こうごうだ。
鍵をたばねるのに使っていたらしい。
もとは久遠くおん流の茶道具だ。
【牛頭機構Gアストラル】
月詠麗華も茶の道にいる。
それで香合に引き寄せられた――
山郷さんにすりゃ僥倖ぎょうこうだな!

三体のアストラルは互いに近寄った。

【牛頭機構Cアストラル】
俺たちも少しは勘が働く。
そうだよな、おい!
【牛頭機構Mアストラル】
勘というか嗅覚だな、これは。
わかるんだ、臭いのが!
【牛頭機構Gアストラル】
魚の腐った臭いだな!
これが山王機関の臭いなのか?

そう言うや三体は合体した。合体して中型のアストラルとなった。

【牛頭機構関東会アストラル】
牛頭ごず会が牛頭ごず機構になり、
ここ関東で関東会を結成だ!
これは記念すべき初陣ういじん!!

《バトル》

【牛頭機構関東会アストラル】
何故だ?
新天地を求めて来たのに……
セヒラが足りないのか?

中型アストラルは爆ぜるように散った。

【着信 喪神梨央】
山郷が麗華さんに会っていた、
そうなんですね?
麗華さんが察知したんですね。
【着信 新山眞】
山郷は麗華さんに、
アルツケアンを処方したのです。
麗華さんが仮面の男にいざなわれている、
それを知って、二人を利用した。
そのように思われます。
アルツケアンのこと、
もう少し調べられますか?
好文海ハオウェンハイ図們トモンにいるようです。
彼ならアルツケアンについて、
よく知っているでしょう。
かい族から買ったそうですから。

風魔は品川図們を目指して満鉄の客となった。

【満鉄列車長】
図們トモンは満洲の南東にある、
朝鮮との国境の町です。
いろんな国の人が集います。

〔品川図們〕

【満鉄列車長】
まもなく品川図們トモン、品川図們トモン
当列車の終着です。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
強いセヒラを観測しました!
注意してください。

【支那人Dアストラル】
かい族が新種の柞蚕さくさんを発見した、
そんな噂があったんだ。
好先生ハオシェンシャンはそれに飛びついた。
好先生ハオシェンシャンをはるばる烏魯木斉ウルムチまで
案内したのは私だ――
だが新種のなんていなかった!
でも先生はすごく満足して、
新京に帰っていったんだ。

【支那人Wアストラル】
烏魯木斉ウルムチには独逸ドイツ人がいた。
何かを発掘するという。
彼らにかい人夫にんぷの手配を頼まれた。
それで手配したよ。
手配した人夫にんぷは全部で六人のかい族だ。
皆、独逸ドイツ風の呼び名が付いた。
俺が知るのは、
アヒム、ベンヤミン、カール――
フランクまでいたはずだ。
だがアヒムは死んだ。
不思議な死に方だったそうだ。
まだ少年だった――

【支那人Eアストラル】
うとうとしていると、
不意に独逸ドイツ語がするんだ。
五年前、図們トモンにいたからな――
そのときの何かなのか?

【着信 喪神梨央】
隣の街区に進んでください。
不思議な波形を観測します!

五年前に独逸ドイツ人の一団が、
図們トモンに滞在しています。
八人の独逸ドイツ人です。
その時の残留思念かも知れません。
何かわかるでしょうか……

【AGK研究員Fアストラル】
フンメル博士は不思議の結晶と呼ぶ。
なるほど、あの物性は謎だ。
果たして固体なのか気体なのか、
そのどちらでもあるのか……
発見時は結晶だった。
かい族の少年アヒムが、
身をていして教えてくれたのだ。

一体のアストラルが話し始めると、他のアストラルもそれに続く格好となった。

【AGK研究員Dアストラル】
アヒムは風邪を引き、
一人宿舎で寝ていた。
そばにアルツケアンがあった――
調査を終えてベンヤミンが戻ると、
アヒムは宿舎の壁一面に、
難しい数式をつらねていた。
急遽きゅうきょ、フンメル博士が呼ばれた。
博士はひと目見て、それが、
シュレーディンガー方程式だと、
そう見抜いたんだ。
人夫にんぷの少年が方程式を導出した。
驚くべきことだ――

【AGK研究員Vアストラル】
その夜遅く、アヒムは死んだ。
アヒムの寝台の下に、
アルツケアンが落ちていた。
昼にはなかったのだ。
アヒムがアルツケアンを取り込み、
変調を来たしたのでは――
フンメル博士はそう推論した。
幾度いくどかの実験の結果、
アルツケアンは揮発きはつすると判明し、
密封容器に厳重に保管された。
ある時は結晶、ある時は気体、
それがアルツケアンの物性だ。
アヒムは結晶気体を吸い込んだのだ。

【AGK研究員Jアストラル】
アヒムは学校に通わなかった。
だが勉強がしたくて仕方なく、
我々の調査団に参加したという――
フンメル博士は、アルツケアンを、
人を意志のままに変える結晶、
転生の結晶であると同定した。
勉強して身を立てることを望んだ、
かい族のアヒムを学者に転生させた。

【AGK研究員Uアストラル】
アルツケアンは二つ見つかった。
二つともドイツ本国に送られ、
アーネンエルベで解析されるという。
ユルゲン・フェラー博士は、
アルツケアンの存在を理論化した。
その理論が実証される時が来た!

5体の研究員アストラルは話した順に消えた。そこへ中型のアストラルがやって来た。

【満蒙絲線社長Hアストラル】
私はだまされたアル!
山郷にだまされたアルね!
そうだ、まんまとアルね!
一級品の甲斐絹かいきアルと?
嘘つくアル、あんなモノ三級品アル、
いや級外品アル、それ以下アルね!!
お前!
お前も山郷の一味アルか!
そうアルね!

《バトル》

【満蒙絲線社長Hアストラル】
儞説実話我不殺儞ニーショウシーホアウォプーシャニー――
お前が本当言えば私は殺さない!!

【着信 喪神梨央】
独逸ドイツ人アストラルによって、
アルツケアンのこと、
おおむねわかりました。
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし、帰還してください。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい、兄さん――
今、青山墓地に穴が開いています。
でもセヒラは観測しません――
麗華さんの行方も知れないままです。
【新山眞】
アルツケアン、大体わかりました。
人の意志を現実のものにする、
そういう働きがあるようです。
フンメル博士は後に論文を発表し、
その中でメントロピーという言葉で、
この転生現象を定義します。
転化を意味する希臘ギリシャ語のトロフに、
メンシェンヒ トを接頭語として付し、
メントロピーとしたのです。
【喪神梨央】
では麗華さんも転生したのですか?
審神者さにわか召喚師として完成した?
麗華さんの意志ならそうなりますね。
【新山眞】
愈々いよいよ機根きこんを備えるようになった、
そうなのかも知れませんね。
山郷がたくらんだアルツケアンの衝突、
結局、起きませんでした。
【喪神梨央】
未曾有みぞうのセヒラ場など、
どこにも観測されていません。
【新山眞】
麗華さんはアルツケアンを、
よほど深く取り込んだみたいですね。
揺るぎないものを感じます。
【喪神梨央】
仮面の男は、
麗華さんを見くびっていたのですね。
【新山眞】
それなら山郷も同じですね。
【喪神梨央】
仮面の男の言ったアプシュロス――
これって卒業くらいの意味です。
さっき調べました。

兄さん――
帝都と帝都満洲で異なる時間が
進んでいます――
兄さんにとっての五日ほどが、
帝都では一月近くになります。
今、こよみは十二月になりました。

人の意志に沿う転生を引き起こす結 晶アルツケアン――
仮面の男も月詠麗華もそれを取り込む。
メントロピーは起きたのであろうか?

東経43度22分41秒、
北緯85度23分22秒――
独逸ドイツ人が結 晶アルツケアンを発掘した座標である。

第九章 第一話 赤坂の大柱

〔山王機関本部〕

その朝、山王さんのう機関本部にやってきた新山眞にいやままことは、どこか浮かない表情をしていた。
弟、新山和斗にいやまかずとが当局に引拉いんらされたというのだ。

【新山眞】
日比谷の事務所で執務中に、
いきなり憲兵らが雪崩込なだれこみ、
和斗を連れて行ったのです。
【帆村魯公】
当局というのは、
それじゃ憲兵のことか?
警察や特高じゃなく、
なんで憲兵が記者を連れて行く?
に落ちんな……
【喪神梨央】
最近、些細な事でも、
スパイ容疑に絡めて憲兵が出ます。
擾乱じょうらん阻止も十分な名目ですよ。
【新山眞】
和斗の奴、赤坂の御柱騒動を、
面白おかしく書き立てたのです。
【喪神梨央】
赤坂に現れたる柱――
ソロモン大王の二柱か?
はたまた諏訪すわ大社の御柱か?
そんな見出しでした。
【新山眞】
しかるべき引受人が来れば放つと、
先程、憲兵隊から連絡が――
山王さんのう機関でお願いできますか?
【喪神梨央】
和斗さんを引き受けるのですね。
隊長、如何いかがですか?
【帆村魯公】
うむ、新山君の頼みだ、
無下むげにはできん。
風魔ふうま、行くぞ、憲兵司令部だ。
【喪神梨央】
それでは公務電車、手配します!

一ツ橋を目指して走っていた公務電車は、銀座に差し掛かり、減速して停車した。大勢の市民が進路をふさいでいたのだ。市民らは往来で一人の若い男を輪のようにして囲んでいた。

〔銀座四丁目〕

【帆村魯公】
これはいったいどういう事態だ?
市民が銀座の往来を妨害しておる。

魯公の声に一人の着物姿の夫人が振り返った。

【牛込区の婦人】
あら~
そこのお二人も参加なすっては?
【帆村魯公】
ご婦人――
参加とはどういうものですか?
ぜんたい、何に参加するのですかな?
【牛込区の婦人】
決まってるじゃありませんか!
怪人川柳の競技会ですわよ。
うーふふふ……
私、とっておきのがあるのです。
披露ひろうしちゃいますわよ!

怪人の
ひとみに棚引く
秋の雲

怪人は瞳をいくらのぞいても、
その奥には何もないと申します。
それを言うのですわ!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ、やや高めです。
用心してください。
【帆村魯公】
ここで時間を食われるのはまずい。
風魔、わしは憲兵指令に向かう。
お前も後で合流してくれ。

そう言い残して魯公は歩き去った。虚ろな目をした背広姿の男性が近寄ってきた。

【赤坂区の男性】
怪人川柳競技会で、
なんと僕は奨励賞しょうれいしょうをもらった!
君もぼんやりしていないで、
積極的に参加してはどうかね。
それともあれかな、
川柳が思いつかないとか――
ひゃははは~
そいつは気の毒だね。
じゃ、僕のを披露するよ!

憲兵も
巡査も酒屋も
皆怪人

どうかね!
これが奨励賞の一本さ!

背広の男性が立ち去った。風魔は銀座四丁目に向かった――

〔銀座四丁目〕

蛇穴さらぎ洋右ようすけ記者】
なんともはや、
いいのが出ましたね!
もう一度、よく聞いてくださいね――

怪人が
口笛で行く
暗い道

うまくつかんでいますね!
怪人も平素は普通人です。
そこのところをよく現している――
おっと……
軍人さんが何か用ですかな?
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
探信儀たんしんぎを使ってください!
蛇穴さらぎ洋右ようすけ記者】
僕はね、心の自由を満喫まんきつするんだ。
帝大の拓務たくむ文理専修科で、
そのことを学んだんだよ!
君たちは見るからに不自由そうだね。
あの新山記者も同類だよ。
今頃、不自由の極みにいるだろう!
アハハハハハ!
いい気味だ、僕のことを詮索せんさくするから
身動き取れなくなるんだ!
さぁ、次は君の番かな!
愈々いよいよ、その時だ!!

《バトル》

蛇穴さらぎ洋右ようすけ記者】
怪人の
白い笑いの
響く空

アーハハハハハハ~

【着信 喪神梨央】
今の記者が興亜日報で、
怪人川柳特集を組んでいたようです。
もうセヒラは観測しません。
東京憲兵隊本部へ向かってください。

〔東京憲兵隊本部〕

帝都を揺るがすクーデター未遂――
久鹿くろく計画の発覚で憲兵隊は大忙しであった。東京憲兵隊本部も多くが出払っていた。
立哨のいる玄関を魯公と和斗が出てきた。

【新山和斗】
例のクーデター騒動で、
憲兵も過敏になっているようです。
【帆村魯公】
とはえいだ、ソロモンの大柱だとか、
いろいろ書き立てすぎじゃよ。
筆禍ひっかこうむっても仕方あるまい。
【新山和斗】
浅草十二階、上野博覧会――
帝都の妄築もうちくシリーズですよ。
新京の本社から来ている写真部員が、
上野博覧会の写真を撮ったのです。
現像してみるともやのようなものが――
本人、確かに撮ったと言うのですが。
写っちゃいなんです。

フフフ……傑作けっさくですね!
むしろ写らないのが正解ですよね。
なんせ妄築もうちくですからね……
我々の網膜上にのみ存在するんです。
【帆村魯公】
赤坂の柱も同じだとお考えかな?
【新山和斗】
基本的には同類でしょう。
ただ――

そこへ式部が走り込んできた。息急いきせききった様子である。

【式部丞】
芽府めふ須斗夫すとおが……
蒸発しました――

ここ数日、寝たり起きたりを繰り返し、何も語ることのなかった芽府めふ須斗夫すとおだが、今日の未明、録音機に反応があったという。
朝一番で駆けつけたが、出動部隊が多く、式部しきべは表で二時間も待機させられた後、部屋を確認するともぬけからだったのだ。

【式部丞】
いなくなった時刻はわかりません。
【新山和斗】
その妙な名前の人は何ですか?
一碧湖いっぺきこの死んだ少年と、
何か関係でもあるんですか?

いや、待てよ……
憲兵隊本部に収監され、
録音もしていたと――

兄はどうやら暗号機に取り組む――
そうですよね?
先日、ふと飯倉いいくらを訪ねたんです。

和斗の兄、新山眞は飯倉いいくら技研で、ダイヤルのようなものと格闘していたと言う。
和斗の来訪らいほうで慌てて布を被せたそうだ。

【新山和斗】
フフフ……
兄は無我の境地で周りが見えない、
子供の頃から変わりません――
【式部丞】
ご明察ですね、新山和斗さん。
ご賢兄はエニグマ暗号機を製作中で、
芽府めふ須斗夫すとおの暗号符を解読します。
【新山和斗】
エニグマ暗号機!
ナチ独逸ドイツの最新技術ですね!
ぜんたい、どんな暗号符なんですか?
さっきの妙な名前の人が語る?
――それは日本語じゃないのですね。
【式部丞】
アルファベットの羅列られつですよ。
芽府めふ君は一文字ずつ話すんです、
エフ、ジェイ、ワイとね。
【新山和斗】
何か国体を揺るがすような、
そんな計略でも進むんですか?
【式部丞】
さぁ、義憤ぎふん慷慨こうがいはしませんよ。
久鹿くろく計画とは筋が違うのです。

ところで新山さん――
先の五月にも飯倉いいくら技研に寄られた。
帰りは偏奇館へんきかんですか?
永井先生はご在宅でしたか?
作家の永井荷風先生です。
時刻は午後の三時二十八分でした。
【新山和斗】
!!
――どうしてそれを……

するととぼけた様子で魯公が言う。

【帆村魯公】
牛頭会相手とは訳が違いますなぁ。
憲兵隊本部にはお堀から、
船で入る専用の入口もあるとか――
【新山和斗】
僕たちには知る権利がある!
おどしは効きません!
【式部丞】
それはお互い様ですね。

式部が言い終わらぬうちに和斗は駆け出した。

【帆村魯公】
あんなに喋って大丈夫かな、式部氏。
【式部丞】
知っていてもいいのです、記者は。
さえしなければ――
検閲体制が強化されるようです。

これから青山の脳病院に向かいます。
彩女あやめ君の様子を確認したいので。
【帆村魯公】
芽府めふ須斗夫すとお周防すおう彩女あやめ
響き合う二人ですな。
まさか行方をくらませたとか……
【式部丞】
いやぁ、もう何が起きても――
とにかく、連絡は入れます!

そう言うと式部は歩き去った。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
それに隊長!
赤坂に柱が現れました!
場所はみすじ通です……
いや、そこからよく見えるのです。
【帆村魯公】
近づくと消えるという代物だな!
風魔、急ぎ、向かってくれ!
わしは参謀本部におもむく。

〔みすじ通〕

【いづ勢の女将】
あの柱は、きっとそうですわ!
希伯來ヘブライ語の授業で習いました――

明君ソロモン王、治世四年二月二日をぼくして輪奐わかん壮麗そうれいなる神殿を造営し、その前面に二基の大きな柱を立て――
高さ三十五キュビトあったそうですわ!
一肘は一尺五寸、柱は五十二尺五寸。
明治神宮の大鳥居に匹敵ひってきしますわ!

【正直堂の番頭】
私なんかいつもね、
歴代志略の上と下を読むんですが、
下の第三章にありますです――

環飾わかざりを造り鏈索くさりこれらして、これを柱のいただきほどこし、石榴ざくろ一百いっぴゃくをつくりてその鏈索くさりの上に施こす――

あれはただの柱じゃございませんよ!

番頭が言い終えるや否や、背広姿の男性が割って入った。

【着信 喪神梨央】
特にセヒラ反応ありませんが……
でも、なんだか様子が変ですね。
継続してください。

【予備役少佐】
皇威こうい隆々りゅうりゅうもと
国の干城たてきと任じつつ~

予備役少佐が口にしたのは名古屋幼年学校の校歌であった。予備役少佐は番頭に向かって強い口調で言った。

【予備役少佐】
おい貴様!
貴様はそれでも日本男児か?
何が第三章だ!!
神洲大八洲しんしゅうおおやしま益荒男ますらおなるか!
ああん? 西洋柱のことなぞ知らぬ!
あれは正真正銘しょうしんしょうめいの御柱様だ!

やおら予備役少佐は
番頭を突き飛ばした。
それを見ていた巡査が駆け寄る――

【赤坂署の巡査】
こら、乱暴ならんぞ!
引くぞ、貴様!
【予備役少佐】
引くなら引いてみろ!
帝国陸軍少佐と知ってのことか?
【赤坂署の巡査】
はっ!
これは失礼しました!

巡査は逃げるようにしてその場を後にした。

【予備役少佐】
うはははは~
この国は迷走しよるな!
西洋かぶれに国体維持は任せられん。
さては貴様もかぶれ組だな!
そんな成りしおって、
忌々いまいましい、きたなおしてやる!!

《バトル》

【予備役少佐】
天原あまのはら
てる日に ちかき
富士の
今も神代かみよの 雪は残れり

【溜池の学生】
まるで前時代の遺物ですね!

学生は風魔に近寄り、静かな口調で話した。

【溜池の学生】
神を奉る信仰も、日々の習俗も、
多くは希伯來ヘブライに由来するのです。
あの柱の誇らしげな威容――
歴代志略下に書いてある通りです!

柱を拝殿の前にて、
一本を右に一本を左に
右なる者をヤキンとなづけ――
左なる者をボアズとなづく――
ボアズは愛らしきという義にして、
ダビデ王曽祖父そうそふの名前です。

学生は風魔と並んで大柱を見ている。そこへ子供が走り込んで来た。

【アンチモニー製作品商の丁稚】
おいらのよく読む民数記にはね、
汝、無酵たねなしのパンの節筵いわいを守るべし、正月の七日の間これを食うべし――
日本人はね、餅を食うんだよ!
正月の餅をくのをペンタラコ、
お江戸の頃からそう言うよ。
これは新穀で餅を五旬節ごじゅんせつ
ペンタコステからなまったってもっぱらさ!
遠く希伯來ヘブライから伝わったのさ!

【着信 喪神梨央】
大変です!
脳病院から彩女さんが消えました!!
式部さんから連絡があって――
病室のメモには、
哈爾浜ハルピンと書いたような跡が――
赤坂哈爾浜ハルピンかもしれません。

〔祓えの間〕

【新山眞】
また弟の奴がご迷惑を……
特報追うのも大概たいがいにしないと。
【喪神梨央】
兄さん、前に柱が現れたときと、
同じような波形が観測されます。
赤坂哈爾浜ハルピンにです――
【新山眞】
セヒラが寄り集まり柱状になり、
その影響からか、赤坂に大柱が……
どうもそういう絡繰からくりのようです。
前回に比べて、赤坂の大柱は、
随分と存在感を増しています。
しばらく消えないのではないでしょうか?
【喪神梨央】
するとまた、御柱様とか、
ヤキンだボアズだと騒ぐ一派が現れ、
怪人騒動に繋がりかねません。
【新山眞】
赤坂哈爾浜ハルピンに現れたという、
キタイスカヤ街が気になりますね。
あそこだけ違うんです――
【喪神梨央】
そうですね――
セヒラもあまり観測しないし、
波形も東京市内と似ています。
【新山眞】
つまり、普通の町……
そうなのかも知れません。
セヒラの異界に現れた、
まるで結界に守られたような場所……
だからこそ用心しないとです。

〔赤坂哈爾浜〕

赤坂哈爾浜ハルピンには、帝都赤坂に出現した柱の、まるで写しのような柱がそびえていた。
しかし、それらはセヒラをまとうのである。


【お熊アストラル】
わちきの連れ合い?
元来、本町ほんちょう生薬屋きぐすりやのしくじり、
膏薬こうやくるのは存じてますよ。
今はこの山ん中で熊を捕らえて、
熊の膏薬こうやくこさえて売り歩く。
江戸にいた頃とは大違いですよ。
さぁ、雪ん中で体も冷えたでしょう。
一口上げたいところですがね、
この辺は地酒ですから慣れないとね。
そうだ、卵酒にすれば、
臭いも飛ぶってもんですよ――
【着信 新山眞】
花魁おいらんお手ずから、
卵酒こしらえてもらえるなんざ、
地獄天国紙一重なもんですな!

喪神もがみさん――
今のは落語の鰍沢かじかざわですね。
女は身包みごうと狙っています。
【お熊アストラル】
何言ってんだい、ごちゃごちゃ――
さぁ、眠くなったかい、どうだい、
眠いだろう、こっちで寝んな、さぁ!
【着信 喪神梨央】
で助かった!!
【お熊アストラル】
ヒィィィィィッィ!!

アストラルは破裂するようにして消えた。

【着信 喪神梨央】
旅人の飲んだ卵酒に眠り薬が――
旅人は身延山みのぶさんで買った毒消しを飲んで
鰍沢かじかざわ山筏やまいかだで逃げるのです――
お熊はそれを鉄砲で狙う。
旅人、南妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょうを唱えます。
いかだは流れでばらばらになります――
なんとかにしがみつき、
旅人は逃げおおせます。
お題目とお材木を掛けてあるのです。

交信を終えると風魔は次の街区へと進んだ。

【八百屋お七アストラル】
思い 切なや いとおしや
お七 十六 初恋の
胸の炎は 初め
燃えて 身を焼く すすり泣き
【着信 喪神梨央】
今度は、八百屋やおやお七ですね。
――お七にまつわる思念のかたまり
皇女和宮かずのみやを思い出します。
【八百屋お七アストラル】
寝ては 夢にも 吉三きちざさま
起きて 幻し 吉三きちざさま
結ぶ えにしは 浅くとも
思いは 深い 胸と胸――
【着信 喪神梨央】
少し退いてもらいますね――

世のあわれ 春ふく風に 名を残し 
おくれ桜の けふきょう散りし身は
【八百屋お七アストラル】
こがれ こがΣし 明▼暮%
同じ 仮◎に ◎き伏Ωど
ЯЛШДШЭЮ――

またもやアストラルは破裂するようにして消えた。

【着信 喪神梨央】
さっきのはお七の辞世の句です――
【着信 新山眞】
きっと柱のせいですね。
アストラルの出自がおかしなことに。
ちょいとおかしな波形がありますよ!

風魔は次の街区へと進む。そこには2体の中型のアストラスが浮かんでいた。

【実況者Hアストラル】
南太平洋海戦にいて、
我が海軍航空部隊は、
敵空母集団を猛襲もうしゅうせり!

【実況者Sアストラル】
秋晴れに恵まれた神宮外苑じんぐうがいえん競技場、
まさに心も浮き立つような、
オリンピックマーチが鳴り響きます。

【観客Aアストラル】
おい、どっちなんだ!
私はどっちを信じればいいんだ?

【実況者Hアストラル】
こっちに決まってる!
秋雨あきさめけむる明治神宮外苑競技場。
日本にっぽんの学徒が多年たねん武技ぶ ぎを練り
を競ったこの聖域に――

【実況者Sアストラル】
おいおい、昔話はよしてくれ!
学徒出陣式じゃないんだ、
東京オリンピック開会式だ!
オリンピックの理想を歌い上げて、
聖火は秋空目掛けて駆け上ります――

【実況者Hアストラル】
邪魔をするんじゃない!
一億国民一丸いちがんとなって、
この難局を乗り切るときだろう!
十月二十一日朝まだき、
出陣学徒壮行の式典おごそかに挙行せり!!

別のアストラルがやって来た。

【観客Aアストラル】
やめろ!
混乱する!
私を……放してくれ!

2体の中型アストラルが合わさり、一回り大きなアストラルになった。

【神宮競技場アストラル】
いよいよ開催国、日本選手団の――
ΣΨШЛ――●□――
大君おおきみされて戦いの庭に――

《バトル》

【神宮競技場アストラル】
青空が見えます――
一筋の飛行機雲が伸びています――

さらに進むと、周囲が暗転した。再び明るくなると、そこはキタイスカヤ街であった。

〔キタイスカヤ街〕

【着信 新山眞】
そこですね……
キタイスカヤ街です。
帝都満洲とは波形がまるで違う――

【廣秦範奈】
喪神もがみさん!

そこへ廣秦範奈がやって来た。範奈は風魔を認めて近寄って来る。

【廣秦範奈】
ここは――
露西亜ロシア人の町なのでしょうか?
また父が呼んだのでしょうか?
ここへ来るようにと――
鍛冶橋かじばし志恩会しおんかいの事務所を出て、
ほどなく気分が悪くなり、
しばらくビルにもたれかかっていました。
目の前が明るくなったと思うと、
この町に来ていたのです――

範奈がいい終えたとき、そばの空間がわずかに歪み、中から中型のアストラルが姿を見せた。

【Kアストラル】
範奈はんな、よくぞ来てくれた――
【廣秦範奈】
お父様!
やっとお目にかかれましたね!
【Kアストラル】
範奈はんな、いいか、よく聞くんだ。
お前には双子のお姉さんがいる。
わかるな、瓜二うりふたつの双子だ――
【廣秦範奈】
お姉さま……
そのような印象が……ありました……
夢を見るのです、何度も同じ夢を――
【Kアストラル】
私はお前たちが生まれる前に、
ここにちてしまった。
ここはあらゆる場所に繋がっている。
【廣秦範奈】
お父様は未来にも行かれた――
そうなんですね?
お姉さまも未来においでなんですか?
【Kアストラル】
ああ、そうだ……
未来の香港、九龍城砦クーロンじょうさいという街だ。
そこは陰界いんかいという場所を漂う。
私があれこれしたせいか、
その未来にお前の姉さんが来たのだ。
光明路コウミョウろという街にだよ。
【廣秦範奈】
お父様はお姉さまと、
ご一緒においでだったのですね。
【Kアストラル】
ああ、わずか三年間だが……
古賀美香こがみか、それが姉さんの名前だ。
だが光明路コウミョウろではラウ美鈴メイリンを名乗った。
美香は十ニ歳でやってきた。
お前たちの世界では一九ニ六年だ。
彼女が十五の時、私は潜った……

中型アストラルが震えだした。

【廣秦範奈】
お父様!
それではお姉さまは十二の歳まで、
日本にいらしたのですね?
【Kアストラル】
豆州ずしゅう修善寺しゅぜんじの旅館で、
大事に育てられたんだ。
お母さんは物心付く前に、
お前たち二人を引き離した――
信頼する卜占ぼくせん先生の助言を得たのだ。
【廣秦範奈】
私たちは……
会ったことはあるのでしょうか?
お姉さまと私は……
【Kアストラル】
お前は万世橋まんせいばし駅傍の商家で育った。
二人がほんの幼い頃に会っていても、
おかしくはない――

中型アストラルはひときわ大きく震えた。アストラルを成す濛気もうきが不安定に揺らいでいる。

【廣秦範奈】
お父様!
お具合、お悪いのですか?
【Kアストラル】
――長くは……保てそうにない!
【廣秦範奈】
お父様、修善寺の旅館、
何というのですか?
お姉さまがいらした旅館です!
【Kアストラル】
ばい……げつ……
梅月館だ――
城山のち、か、く――
そこは……卜占ぼくせん師の――みさ……
深水ふかみ察智ざっちが求めた地だという――
【廣秦範奈】
お父様!
もう少しお話を――
お聞かせください。
【Kアストラル】
範奈……お前にたくす言葉がある――
エ……エラ……
エラ――
エラ……
――ああ、保てない!!

アストラルは大きく破裂して消えた。

【廣秦範奈】
お父様!!

範奈の父である伊佐久イサク、つまり古賀こが容山ようざんのアストラルは、すべてを語らずに去ってしまった――

範奈は気を失って倒れている。
そこへ千紘、芽府須斗夫、吉祥院蓮三郎の3人がやって来た。一同、じっとたおれた範奈を見下ろしている。

【芽府須斗夫】
ここには遠い未来からも、
思念が流れ込んでいるようだね。
学徒の出陣とかオリンピックとか――
【吉祥院蓮三郎】
それもすべては、
あの柱のせいでございましょうか?
【芽府須斗夫】
二本の柱を依代よりしろとして、
セフィラの流れが生まれたんだ。
まるでセフィラの道だね。
【千紘】
そして僕たちも呼ばれた――
そういうことのようだ。
【吉祥院蓮三郎】
あきらさまは仰います――
レンザ、お前は敏感なんだから、
ぼんやりしていちゃ駄目だと。
【芽府須斗夫】
それじゃ、何か感じることでも?
【千紘】
僕の中にも周防すおう彩女あやめの存在があり、
普段から何かと感じ取るけど、
きっと君のほうが達者なんだね。
【吉祥院蓮三郎】
かたじけなく存じます――
セフィラの流れですが、
この先にある町に向かうようです。
【芽府須斗夫】
この先……
それはこの帝都満洲でのこと?
【吉祥院蓮三郎】
左様でございます。
おそらくは……
【千紘】
青山新京シンキョウじゃないかな?
の記憶だと、あそこに穴が開いた、
そんな事件があったはず。

芽府須斗夫が風魔を向いて言う。

【芽府須斗夫】
君は向かったほうがいいよ。
これは立派な公務だよ――
何かが現れるかも知れないよ。
【吉祥院蓮三郎】
私たちはもう少しここを、
調べてみようと思います。
【芽府須斗夫】
廣秦ひろはた範奈はんなさんは送り届ける、
大丈夫だよ、心配しないで。
【千紘】
僕はようやくわかった気がする――
自分が何者なのかということがさ。

芽府めふ須斗夫すとおの助言に従い、風魔は青山新京シンキョウに向かうことにした。

第八章 第十三話 キタイスカヤ

〔山王機関本部〕

その日、梨央りおは一冊の本を手にしていた。尤志社ゆうししゃがこの夏に出版した本である。『暁光日本ぎょうこうにっぽん』という書名があった――

【喪神梨央】
兄さん、これです、この本です。
【帆村魯公】
例の尤志社ゆうししゃが出したという本だな。
――にしても、随分と薄いな……
本というより冊子だな。
【喪神梨央】
全部で八ページ、中面は六ページです。
どのページにも旭日旗きょくじつきと和歌があります。
【帆村魯公】
これは色々な百人一首から、
愛国的ともくされる歌を集めたものだ。
【喪神梨央】
わが国は いともたふとし 天地あめつち
神の祭を まつりごとにて
【帆村魯公】
この冊子には歌しか無いのか?
【喪神梨央】
表紙には文句が……
時弊じへいがいして我が国体こくたい精華せいかを説く!そうありますが――
大君おおきみの 御楯みたてとなりて つる身と
思へばろき 我が命かな
【帆村魯公】
うーむ……
かような貴族趣味を気取っていては、
国体を論じるなど無理そうだな。
【喪神梨央】
でも隊長!
裏表紙の広告を見てください。

そこには銀河ぎんがゼットー博士が開発した、夢玄器むげんき瓜二うりふたつの機械が紹介されていた。その名もキノライトという――

【帆村魯公】
これは――
夢玄器むげんきではないのか?
【喪神梨央】
活動キネマ界の一大事とあります――
【帆村魯公】
総天然色写像、パノラマ活動器、
軽量にして携行式けいこうしき――
【喪神梨央】
脳楽丸のうらくがんびん付随ふずい
脳楽丸、付いてくるんです、二びんも。
【帆村魯公】
課の情報が漏洩ろうえいしたか?
あるいは飯倉いいくら技研か……
だとすると由々ゆゆしき事態だ。
【喪神梨央】
三十三円六十銭です。
販売所、銀座です。東京幻燈げんとう工業――
この会社、ちょっと調べてみますね。

ノックの音がして新山眞が姿を見せた。

【新山眞】
失礼します。
飯倉いいくら技研の新山にいやまです。

梨央りおはいい按配あんばいにやってきた新山にいやまに、キノライトの広告を見せた。驚きの表情を見せた新山にいやまであったが――

【新山眞】
見てくれの形は似ていますが、
機能はまったく異なるようです。
――これはかぶ幻燈機げんとうきですね。
【帆村魯公】
なんと!
幻燈機げんとうきかぶったりして、
ぜんたい、何が面白いのだ?
【新山眞】
大きな写像が展開して、
あたかもその中にいるかのような、
めくるめく体験が得られるはずです。
キノライトが眼鏡型というところ、
そこが何よりユニークなのです。
【帆村魯公】
眼前に大きな写像が広がると、
まともには歩けんわな!
【新山眞】
銀座の町をかして見ながら、
華麗なレヴューを重ねて楽しむ、
そんなこともできそうですね。
【喪神梨央】
楽しそうです!!
【帆村魯公】
おい、梨央りお
滅多なことを言うもんじゃないぞ。
【喪神梨央】
――すみません……
脳楽丸付いてます、怪しいですよね。

そこへ如月きさらぎ鈴代すずよがやってきた。どことなく浮かない顔をしている――

【喪神梨央】
鈴代すずよさん――
何かご心配事ですか?
【如月鈴代】
胸騒ぎがするのです――
新京シンキョウにいる麗華れいかさんのことです。
【喪神梨央】
麗華れいかさん、高女の寄宿舎ですよね。
関東軍の護りもあるんですよね?
【如月鈴代】
関東軍特務部――
そこは満蒙まんもうの経済開発をうながすため、
設けられた部署です。
近く関東軍司令部が、
新京シンキョウに移転してくるのです。
そういった受け入れもやっています。

新京シンキョウ駅の南西に位置する西広場。その広場に面して新京シンキョウ敷島しきしま高等女学校が建つ。学校の南、平安町一丁目に杏花寮きょうかりょうがあった。

【如月鈴代】
西広場の辺りには満鉄社宅、
海軍公館、理事公館があります。
大きな給水塔が目印です――
くだると広々とした西公園があり、
公園の南側一帯が関東軍の用地です。
もう建物はほぼできていました。
【帆村魯公】
泣く子も黙る関東軍。
心強い限りではないですか!
【如月鈴代】
ええ、状況からすると、
何も心配いらないように思えます。
――でも、何か起きそうで……
青山新京シンキョウに大きな穴があったと――かつて青山墓地に現れたような。
【喪神梨央】
青山新京シンキョウの穴ですが、
帝都の青山墓地はいつも通りです。
まだ影響が及んでいないようにも――
【帆村魯公】
だがセヒラは確実に濃くなっておる。
そうだろ?

中座していた新山が神妙な面持ちで話す。

【新山眞】
ちょっとよろしいですか?
――際立つ波形を観測しました。
ホテルロビーへお願いします。
私もすぐ参ります。

〔山王ホテルロビー〕

【新山眞】
お待たせしました。
先程の際立つ波形、
発生場所は渋谷方面でした。
一瞬、極めて高い値を記録しました。
【喪神梨央】
渋谷ですか……
渋谷憲兵大隊がありますが。
まさか、宗谷そうや大尉が?
【新山眞】
その可能性はあります。
あの際立きわだかたは、死に直面したとき、
主に現れる波形ですから。
【喪神梨央】
――際立つ波形……
じゃ、宗谷そうや大尉が、処刑された?
裁判もなしにですか?
【新山眞】
わかりません――
ただ波形の記録が残るのみです。

【着信 帆村魯公】
風魔ふうま式部しきべ氏からでな、
芽府めふ須斗夫すとおが目を覚ました。
ちょっと行ってくれないか。
【喪神梨央】
一ツ橋の憲兵隊本部ですね。
あそこはれっきとした憲兵隊です。
それでは公務出動とします。

公務電車内で梨央りおから着信があった。宗谷そうや大尉は渋谷憲兵大隊で処刑された、そう陸軍省に連絡が入ったという。しかし処刑時の波形を詳しく調べると、宗谷そうや大尉のとは大きく異なるとのことだった。
これは何を意味するのか――

〔東京憲兵隊本部〕

【着信 喪神梨央】
青山新京シンキョウの穴のせいかわかりません、セヒラ、かなり強くなっています。
芽府めふ須斗夫すとおが予言を語る、
半覚半睡はんかくはんすいの状態になるには、
もっとセヒラが必要なんですね。

憲兵隊本部玄関前では、2人の憲兵が目つきの怪しい一人の憲兵を誰何すいかしていた。

【日吉憲兵中尉】
安心院あじむといったな。
貴様、見ない顔だ――
所属部隊を言え!
【奥沢憲兵少尉】
安心院あじむ中尉殿は、
新しく赴任ふにんされたのですか?
【安心院憲兵中尉】
何をごちゃごちゃ言ってる?
ウハハハハ~
ここは渋谷憲兵大隊の指揮下に置く。
さぁ、そこを退!!

本部奥から白衣姿の技手と思しき男性が走り来て目つきの怪しい憲兵を指差して叫んだ。

【長原技手】
中尉は小型写真機を隠し持ち、
エニグマ暗号機のダイヤルを、
撮影していました!
私、見たのです!
忘れ物を取りに戻ったとき、
あの部屋に人の気配があって――
【安心院憲兵中尉】
ミュンヘン仕込みの技術は、
人を詮索せんさくするのに費やされたのか!
国費の無駄遣いだな!!
【日吉憲兵中尉】
間諜かんちょうは許さんぞ、中尉!
今すぐ、写真機を渡せ!!
【安心院憲兵中尉】
邪魔だてするな!!

山王さんのう機関も随分と鼻が利くようだ。
比叡山ひえいざんもっておればいいものを。
法螺貝ほらがいでも調達してやろうか?

《バトル》

【安心院憲兵中尉】
フフフ……
お前たちがどう足掻あがこうが、
計画は進む――

憲兵怪人が倒れ消えた後に小型のカメラが落ちていた。白衣の技手はそのカメラを拾った。

【長原技手】
エニグマ暗号機は、飯倉いいくら技研に渡し、
研究を続けることになりました。
この写真機も届けておきます。
【沼部憲兵少尉】
大丈夫ですか?
怪我けがはありませんか?
【中延憲兵少尉】
山王さんのう機関の喪神もがみ中尉殿ですね。
奥で式部しきべさんがお待ちです。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
先程は咄嗟とっさのことで――
もうセヒラは観測しません。

無線交信後、風魔は憲兵隊本部へと入って行った。

〔東京憲兵隊本部尋問室前〕

尋問室前の広い部屋に式部丞と芽府須斗夫がいた。

【芽府須斗夫】
眠気を感じるけど、
横になると眠れないんだ――
だけど、うとうとしたとき、
ふと、あることを考えている――
そう、僕には行かなきゃならない、
場所があるってことをね。
そこはいわば僕にとっての約束の地、
いや、にとってのと言う方が、
うんと自然だね。
でもまだ行けない――
そこには一匹のへびが居着いたからさ!

【式部丞】
芽府めふ須斗夫すとお君……
そろそろ言葉は出そうかね?
【芽府須斗夫】
今日、これで三回目を覚ました。
前も三回目に浮かんだんだよ――
【式部丞】
例の暗号文のことだね。
【芽府須斗夫】
言葉はまるで木漏こものようにして、
頭の底に描かれるんだ。
陽の光が必要だし、風も必要――
【式部丞】
それじゃ、まだ少し掛かりそうかな?
【芽府須斗夫】
そうでもないんじゃない?
――同じ光を他にも感じるよ。
ひとつ……ふたつ……
この町に僕と同じような存在がある。
金雀枝えにしだ色の瞳をした少女、
そして若い男性だ――
【式部丞】
彩女あやめ君、いや千紘ちひろと名乗る人格――
もう一人は……もしや……
【芽府須斗夫】
言葉が見えるよ――
こんどもアルファベットだ!
【式部丞】
ゆっくり頼むよ、
芽府めふ須斗夫すとお君!
【芽府須斗夫】
T……E……T……K
YSWH……
それから……ACFQBD――

芽府めふ須斗夫すとおは自らの頭の中を探るようにして、アルファベットの文字の羅列られつを語った。
今回も言葉の意味はわからない――


【芽府須斗夫】
行かなきゃ!
その思いがますます強くなった。
僕は行くよ。
これは決められたことかも
知れないんだ。

そう言うと芽府須斗夫は踵を返して尋問室へと入った。式部と風魔は玄関へ向かった。

〔東京憲兵隊本部〕

【式部丞】
芽府めふ須斗夫すとおの語った言葉、
またもやエニグマ暗号文でしたね。
彼は覚醒かくせいして語る時は、
素の言葉は語らないようです。
エニグマ暗号機は試作機があり、
飯倉いいくら技研に研究を引き継ぐそうです。
あそこなら完成させられるでしょう。

私、これから青山の脳病院へ。
彩女あやめ君の様子を見てきます。
彩女あやめ君を預かっていた蛭川泊ひるかわとまり博士、
しばらく所在不明だったのですが、
昨日、見付かりました。
医科の学生が見かけたのです。
省線錦糸町きんしちょう駅前でした。
博士は煙草たばこ売りをしていたと――
自分のこと、十二歳の孤児こじなんだ、
そう強く思い込んでいたとか。
名前はタハラサダキチだと――
それに強い東北訛とうほくなまりがあったそうです。
蛭川ひるかわ博士は奈良の出身です。
でも見紛みまごうことはなかったと――
色々と博士に話を振るものの、
全く噛み合わなかったため、
医科生はあきらめたのだそうです。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂哈爾浜ハルピン宗谷そうや大尉の波形確認!
はらえのへ急いでください!

〔祓えの間〕

【帆村魯公】
渋谷憲兵大隊で処刑されたとおぼしきは宗谷そうや大尉ではなかったようだ。
連中、軍務局長暗殺が表沙汰になり、
力尽ちからずくで収束させようとしておる。
【新山眞】
まさに死人に口なしというやつです。
【帆村魯公】
宗谷そうや大尉の身柄を確保できれば、
連中の茶番もつまびらかになるわい。

【新山眞】
気を付けてください。
キタイスカヤ街が現れた、
そんな噂も飛び交っています。
【喪神梨央】
兄さん……
時間のずれが拡大しています。
帝都満洲の三日は、
帝都の二十日以上にもなります。
私たち、
どんどん歳を取っちゃいますね――

〔赤坂哈爾浜〕

赤坂哈爾浜ハルピンに着くと一人のアストラルがスーッと寄ってきて言う。

【脱走兵アストラル】
ふん、下関しものせきまで六日もかかった!
――何が静岡の第三十四連隊だ、
もう真っ平御免ごめんだ!
俺はな、見たんだ――
沼津ぬまづの省線病院でな。
顔吹き飛ばされた化物をだ!
今はトルゴワヤ街の崩れかけたビル、
その二階で満人苦力クーリーと同居の身だ。
脱走兵だからな、表にゃ出られない。
老いぼれ苦力クーリーを、
露人ピー屋の店先へれる、
それがせいぜいのらしだな!

そこまで言うとアストラルは音もなく去った。風魔は先へ進む。

【逃亡者アストラル】
キタイスカヤ街からモストワヤ街へ、
角を曲がって少し行くと、
ソフィースキー寺院があります。
亡命ぼうめい露人ろじん浄財じょうざいで建ちました。
計画からゆうに十数年――
私にはそういう場所がありません。
でも正金せいきん銀行からくすねた金がある。
実に一万五千六百円――
クックックッ……
この陋巷ろうこうを絵にしたような、
ボレヤワ街ともおさらばだ!
越南えつなんでホテルを開くのだ!

【満洲浪人アストラル】
傳家甸フーザテンの辺りは満人だらけだ。
日本人の多いモストワヤ街とは違う。
鉄道附属地外だからな、
道外タオワイと呼ぶのもよく分かる。
――だが、俺にはむしろお似合いだ。
松花江スンガリー沿いの阿片窟あへんくつにだけは、
近寄らないようにしているがな。
春観園チュンクワンイエンという店だ――

【行旅人アストラルW】
ロバート高台こうだいはおすすめです!
傳家甸フーザテンの南端にそびえる南崗なんこう高台こうだい
傳家甸フーザテン、八区、埠頭区プリスタン
および松花江スンガリーの一帯が、
浮刻うきぼりのごと一眺いっちょうの中に収められて、
まさに絶景である――
――俺、町を抜け出せたのか?
因須磨洲いんすますだよ、魚臭い陰気な町だ。
もう五年もいる――
町を出ようと省線の駅に来た……
薄暗く人気のない待合で、
因荒いんこう線の汽車を待つうちに――
つい、うとうとして――

はっ!!
何だよ、まだ待合にいるじゃないか!
まだ因須磨洲いんすますじゃないか!!
旅行案内が落ちている――
満洲へ。
台湾へ。
俺は落ちている旅行案内を見て、
町を抜けた気になっていただけだ!

ぎゃぁぁぁぁぁ~
俺は因須磨洲いんすますから抜けられないのか!
臭い、臭い、魚臭い!!

叫び声を上げながらアストラルはぐるぐると回転して消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
赤坂に再び塔が現れたと、
今、通報がありました。
先程の街区ですが、
強いセヒラを観測します。
警戒してください!

交信が終わると風魔は先程の街区へと戻った。奥から中型アストラルが近付いて来た。

【ファンターヂアの客アストラル】
埠頭区プリスタンのザオドスカヤ街――
ファンターヂアはそこにある、
絢爛豪華けんらんごうかなキャバレーだ!
ロシヤ料理あり、ステージあり、
バンドあり――
ロシヤ美人のむ甘酒に酔い、
美人と踊り、歌いたわむれ、
合間のステージのもよおものながめ、
国際都市の豪華ごうかな夜を過ごすのだ!
それもすべてはあの大柱の護り!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
探信儀たんしんぎを使ってください!
【ファンターヂアの客アストラル】
ウハハハハハ~
大柱はもう一本あるはずだ!
お前らに邪魔されてなるものか!!

《バトル》

【ファンターヂアの客アストラル】
カズヘック、オケヤン、モスコー、
ロンドン、エデム……
うるわしのキャバレーの数々――
どれもこれもがまぼろしだ――
愛は何故遠ざかるのだ?
爛酔らんすいのひとときはかくも短い!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし……
以前と同じ不思議な波形です。

交信が終わるや周囲が波打つようになり、やがて暗転した。
やがて朧げに明るくなると、そこは露西亜様式の建物が並ぶ哈爾浜はキタイスカヤの町並みだった。背広姿の男性の他に着物姿の女性も見える。皆、異国の街を楽しむようにそぞろ歩いている。


【着信 喪神梨央】
不思議な波形が続きます……
――そこは、本当に、満洲……
そうなのですね?
これまでの波形の記録を元に、
新山にいやまさんと仮説かせつを組み立てます。
――しばらくお待ちください。

【毛皮商の鳴海久男】
おや、内地ないちからですか?
ようこそ、うるわしの哈爾浜ハルピンへ!
いやぁ、商売が順調でね、
毎日浮足立つようです、私なんか!
私がここで扱う毛皮はね、
狐、銀狐、とらひょう――
もっぱらこの四種です。
哈爾浜ハルピンマダムに売れて売れて――
仕入れが追いつきません!

【菓子商のエフゲニー・チチェロワ】
あなた関東軍の人?
菓子の卸先おろしさきを探していてね。
どうです、軍隊でおひとつ。
ロシヤあめ、ロシヤキャンデー、
ウィスキーチョコレート、
それにモスコーボール――
どれも口に入れた途端とたん
あなた、ほっぺが落ちます!

【織物屋女将の吉塚静代】
うちの品物は満洲随一ずいいちよ。
ロシヤ更紗さらさ、ゴブラン織、
それにルパーシャ――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラを観測しました!
波形は相変わらず、
おかしなままです――

【織物屋女将の吉塚静代】
あら……
あんた、どっから声出してるの?
さっきの人のお仲間かしら――

着物姿の女性が離れるのと入れ替わりに、背広姿の男性が近づいて来た。どことなく虚ろな目をしている。

【宝石商の竹尾源二郎】
あんた――
徳次郎のこと、知ってるニャ!
おいら、源二郎だニャ。
この人、同じ名前ですっーと入った、
隙間すきまもなんも、まんま入った――
そういうこともあるニャ。
友達の藤次郎も似たようなことニャ。
同じトウジロウだニャ……
でもちょっと字が違っていて、
入るのに手こずったらしいニャ!

う……
何だ、私は……
あや、お客さんですかい!
如何いかがですか、黒ダイヤ、砂金石、
ウラルダイヤにアレキサンダー!
つぶぞろいですよ、お買い得です!

そこまで言うと男性は急に腰を折った。

【宝石商の竹尾源二郎】
そうだ、診療所しんりょうじょに行くんだった。
ブテワヤ街の診療所しんりょうじょに急ごう!
あああ、頭が割れるようだ――

男性は荒い息を吐きながら去った。風魔は先へ進んだ。
そこには将校服の男性が立っていた。茫然自失としている――

藤次郎とうじろう
おいら、次郎ニャ!
この人は次郎、字が違うニャ。
けど、入れたニャ――
宗谷東次郎という将校ニャ!
東次郎は少年に帰ったニャ。
岐阜ぎふ揖斐いび揖斐町いびちょう三輪みわの六、
三輪みわ神社参道前の米問屋のせがれニャ。
米問屋の屋号は矢野千やのせんだニャ。
先々代の矢野やの千太郎せんたろうちなむニャ。
――そうニャ!
この人は宗谷そうや東次郎とうじろうじゃないニャ!
姓は矢野やの、名は一作いっさく
矢野やの一作いっさくだニャ!
尋常小学校の頃はイッサだニャ!
その渾名あだなで呼ばれていたニャ!
イッサ、イッサ、イッサ!!

宗谷東次郎と思しき将校は、急に苦しそうに腰を折った。そして目を見開き風魔を見上げて尋ねる――

ねぇ、お兄さん――
三輪みわ尋常の校歌、知ってる?
僕の通う学校だよ!
揖斐いびの 流れよ 一朶いちだの雲よ~
妹のやつ、チエ子だけど、
校歌、ちっとも覚えないんだ。
今、三年なんだけど――
あいつ、もらい子だからな……
時々、妙なこと言うんだ。
何もないところをじっと見て、
顔が見える、顔が見えるって。
ほれ、あれがお目々、あれがお鼻――
僕には顔なんか見えやしないさ!
ああ、もう時分時じぶんどきだな。
帰らなきゃ!
おっかあうるさいんだ!

将校は何事もなかったかのように姿勢を正した。その目は膜が張ったように虚ろである。

藤次郎とうじろう
危ない危ない、
隙間すきまが広がりかけたニャ!
もう、これ以上はたもてないニャ!

そう言うと将校はふらつきながら去って行った。
風魔の目の前に不意にバールが現れた。

【バール】
この町はいろんなとこに、
繋がってるニャ~!!
【バールの帽子】
どうしたゲロ?
やけにしおらしいゲロ!
バーンと飛び出さないのかゲロゲロ。
【バール】
そうしたいけどおっかないニャ!
ここはとてつもない場所だニャ!
【バールの帽子】
時間と空間とがグーンとゆがみ……
ここは本当の満洲なのかゲロ?
【バールの帽子背後】
いろんな人の思念が合わさり、
結晶化した、そんな場所じゃな。
ある意味、じゃよ。
【バールの帽子】
ゲロゲロ!
どこを見ても確かに哈爾浜ハルピンだ、
キタイスカヤ街だゲロ!
【バールの帽子背後】
じゃがな、まだ隙間すきまがある、
そういうことじゃろ……
今さっきの奴、猫きの東次郎とうじろう――
東次郎とうじろうの記憶を辿ることじゃな!
【バールの帽子】
どっちだゲロ?
猫の藤次郎か、大尉の東次郎とうじろうか――
【バール】
暗殺事件を起こしたのは東次郎とうじろうニャ。
東次郎とうじろうの記憶を辿るニャ!
まだその辺に思念しねんただようニャ!

風景が揺らぎ始め暗転した。

〔若松町〕

現れたのは夕闇迫る帝都であった。周囲は薄ぼんやりしている。市電も車もない往来に2人の将校が向き合っている。一人は先程の宗谷であった。

【伊班宗谷隊員】
軍務局に課なる部署がある、
常田つねだ大佐はそうおっしゃるが、確かか?
【露班尾張隊員】
確かであります!!
軍務局兵器課の隣に、確かに!
我々は出し抜かれたのでしょうか?
【伊班宗谷隊員】
このまま看過かんかすればそうなる。
軍務局長、真坂まさか閣下かっかの首を取る!
すれば時局は動くだろう――
【露班尾張隊員】
続く久鹿くろく計画についても、
準備はとどこおりなく進んでおります。
先般せんぱん、襲撃目標の最終が出ました。
首相官邸、陸相りくしょう官邸、蔵相ぞうしょう邸、
教育総監、侍従長じじゅうちょう、それに――
【伊班宗谷隊員】
もうよい。
最大員数は何名だ?
その目標は?
【露班尾張隊員】
はっ!
警視庁占拠せんきょ班の二百五十名です!

【着信 喪神梨央】
久鹿くろく計画とは何ですか――
大きな襲撃計画があるようですね。
逐一ちくいち、参謀本部に連絡を入れます!

風景が揺らいで暗転した。

〔霞町街路〕

次に別な町角が現れた。宗谷が別の将校と向き合っている。

【伊班留萌隊員】
明日の午前中、
真坂まさか閣下かっかに予定はない。確認済みだ。
外出も面会もな――
【伊班宗谷隊員】
よし、決行は明朝だ!
――それで、車はどうだ?
三宅坂みやけざかに用意できるか?
【伊班留萌隊員】
ああ、大丈夫だ。
目立たない一台を用意する。
首を取ったらすぐ向かえ。
局長をった刀は執務室に捨て置け。
――それで、貴様、
どの刀を使うつもりだ?
【伊班宗谷隊員】
三輪みわ刀だ。
俺の地元の刀鍛冶かたなかじの手になる一振り、
そいつが一番馴染なじんでいる。
捨て置くに忍びないが……
【伊班留萌隊員】
刀は重要なしるしだ、仕方ない。
ただ首を取るだけではないのだ。

【着信 喪神梨央】
軍務局長暗殺前日の様子です!
確かに刀は局長室にありました。
血塗ちまみれながら刃毀はこぼれ一つなく――

またもや風景が揺らいで暗転した。

〔興亜百貨店前〕

次にぼんやりと現れたのは興亜百貨店前と思しき場所であった。宗谷の後ろから一人の佐官が声をかけた。

【伊班信濃隊員】
大尉――
ああ、いや、振り向かんでいい。
真坂まさか閣下かっかは即死だったそうだ。
苦しむ間もなかったろう――
貴様は計画実行まで身を隠しておけ。
久鹿くろく計画の襲撃目標は、
結局、全部で十一箇所になった。
【伊班宗谷隊員】
信濃しなの少佐殿……
あ、いや、信濃しなの隊員――
一箇所増えたのですか?
【伊班信濃隊員】
ああ、最後に付け加わったのは、
多田野ただの元内大臣邸だ――

宗谷はかかとを鳴らして振り向いた。

【伊班宗谷隊員】
多田野ただの伯爵はくしゃく……
何故、閣下かっかを?
それは何故なぜですか!!
【伊班信濃隊員】
多田野ただの閣下かっかが貴様の恩師おんし
幼年学校時代の恩師おんしなのは承知だ。
だがやむを得んのだ――
【伊班宗谷隊員】
多田野ただの閣下かっか……いや、先生――

宗谷はガクッと膝を折った。息遣いが荒くなっている。そして地面に目を落としたまま甲高い声を上げた。

どりゃーお久しぶり、
お元気でお過ごしやか?
蓬藁ほうこう深く 月えて~
松籟しょうらい高き 清洲城きよすじょう
今中村いまなかむらの 旧草蘆きゅうそうろう~~

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ、急上昇です!!

宗谷がすっと姿勢を直し風魔を見据えた。

【伊班宗谷隊員】
誰だ! そこに隠れているのは?
――姿を見せろ!
ううう、さもなくば――

《バトル》

【伊班宗谷隊員】
計画、復唱するであります!
各所襲撃後は首相、蔵相ぞうしょう鉄相てっしょう
農相のうしょう文相ぶんしょう各官邸、料理店幸楽こうらく
及び山王ホテルに宿泊せり!!

【着信 喪神梨央】
くろはち……帥士すいし
聞こ………か?
すい…を確………きません――

雑音混じりの交信が終わるや否や、周囲から光が消えた。宗谷と風魔はねっとりとした暗闇の中にいた。そこへ不意に声がする――

【驚愕する声】
逸材いつざいだ!
まさに千年に一度の逸材いつざいだ!
――君は力のみなもとだ!
大軍を率いてベツルアを包囲した、
アッスリアの元帥げんすいホロフェルネスよ!

宗谷は声の元を探しているのか、辺りを見巡らせている。そうしてある一点を見据えて言った。

【宗谷東次郎大尉】
真坂まさかつよし閣下かっか
自分……無念であります!
処断しょだんやいば、今ここに!!
【驚愕する声】
君のような稀代きだい益荒男ますらおられ、
真坂まさか閣下かっか本望ほんもうではないかな?

宗谷は両手で頭を抱えた。そして言う――

【矢野一作】
――あいつのせいなんだ……
チエ子だよ、あいつが告げたんだ、
そうに違いない!
【驚愕する声】
チエ子、それは君の妹だね。
もらわれ子だったね?
壁やへいに人の顔が見えると言う――
【矢野一作】
ああ、そうだよ。
チエ子には顔が見えるんだ。
あの日も顔が見えたに違いない!
顔が見えます、あれはおじさんです、
保険のおじさんの顔が見えます、
お母さまと仲良しのおじさんです――
父が休暇で一年ぶりに戻った日、
チエ子の奴、顔の話したんだ!
それで父は――
【驚愕する声】
見えた顔とは保険のオジサンだね!
君のお母さんとよく同衾どうきんしていた!!
お父さんの留守中にね!
お父さんは勇敢ゆうかんだったよ!
なんと、お母さんの白いお腹をね、
真っ赤になった火かき棒でね!

次に話す宗谷の声はこれまでになくか細いものだった――

【???】
クルト……
僕を見てくれる?
ほら、これだよ……
僕のファーターが彫ったんだよ――
僕とともに大きくなるんだ――
この十字架ダスクロイツはね!

【驚愕する声】
さぁ、身をささげよ。
お前自ら依代よりしろとなり、
道をひらくのだ――
二本目の柱となれ!
大柱、ボアズとなれ!!

頭を抱えていた宗谷はその両の手を掲げた。まるで天空に向かって身を捧げるかのように。

【宗谷東次郎大尉】
うわぁぁぁぁ~
体が……どうしたんだ!!

その後につんざくような悲鳴が響いた。風魔は固く目を閉じた。
次に目を開くと、宗谷の姿は闇に飲まれたかのように消えていた。もう声もしなくなっていた。暗闇がゆっくりと溶解していった。

〔山王機関本部〕

宗谷そうや大尉の遺体は衛戍えいじゅ病院に運ばれた。検屍けんしの結果、遺体に外傷はないとのこと。不思議なことに死斑しはん死後硬直しごこうちょくもないという。

【帆村魯公】
宗谷そうや大尉は碑文谷ひもんやにある、
林業試験場で見つかった。
木にもたれかかっていたという――
【喪神梨央】
その時はすでに死んでいたんですね。
【帆村魯公】
職員が肩に手をかけたら、
崩れるように倒れたそうだ。
死後、十時間は経っていたそうだ。
【喪神梨央】
大尉はメモを持っていました。
久鹿くろく計画をしるしたものです――

それは驚くべき襲撃計画であった。
首相官邸、陸相りくしょう官邸への襲撃を始め、蔵相ぞうしょう、内大臣、教育総監そうかん侍従長じじゅうちょうらを襲い、警視庁、新聞社を占拠せんきょする計画である。計画参加員数は総勢七百九十八名、国家、陸軍の中枢ちゅうすうを襲うという、まさにクーデターと呼ぶにふさわしい内容だ。

【喪神梨央】
山王さんのう機関も襲撃目標にありました。
十六名の員数が予定されています。
【帆村魯公】
久鹿くろく、つまり皇紀ニ五九六年、
襲撃は来年年初に予定されておった。
九六で久鹿くろくだな――
【喪神梨央】
久鹿くろく計画は未然みぜんに防げたのですか?
【帆村魯公】
陸軍省、参謀本部に知れてしまった。
秘匿ひとくのうちに進めることはできん。
はたして、連中、あきらめるかどうか――
【喪神梨央】
そういえば……
【喪神梨央】
別人を宗谷そうや大尉として逮捕たいほし、
裁判にかけず処刑した――
渋谷憲兵隊はどうからむのですか?
【帆村魯公】
逮捕たいほされたのは千葉連隊区の事務だ。
将校服着て憲兵と一緒のところを、
同僚に見られていたのだ。
【帆村魯公】
事務員がいつ将校になったのか、
同僚は大いにいぶかったそうだ。
【喪神梨央】
やはり、別口……ですね、
玄理げんり派と渋谷憲兵は。
ところで兄さん――

ノックの音が響き、新山眞が現れた。

【新山眞】
失礼します、新山にいやまです。
赤坂の柱ですが、
二本目も消えてしまいました。
【喪神梨央】
そうそう、そのことです。
兄さんが帝都満洲にいる間、
赤坂に柱が現れたんです。
帝都満洲で噂になっていた、
ヤキンとボアズ、二本の柱です。
依代よりしろになる柱だとか――
【新山眞】
猶太ユダヤ王ソロモンの神殿にあった柱、
高さ十八キュビトの青銅の柱――
それがヤキンとボアズです。
向かって左がヤキン、右がボアズ。
柱のこと、日本にも伝わり――
【喪神梨央】
猶太ユダヤの風習が日本に伝わり、
二本の柱は鳥居とりい門松かどまつに形を変えた。
そう言いますよね!
【新山眞】
赤坂の柱がどういう絡繰からくりなのか、
調べる必要がありそうです。
浅草十二階などと同じなのか……
【喪神梨央】
新山にいやまさん、
新しい機械でもこしらえるんですか?

帝都満洲に現れたキタイスカヤの街。そして帝都満洲の異変が時を同じくして、帝都にも影響を及ぼした――
ヤキンとボアズ、この二本の柱の出現は、いったいなにを意味しているのだろうか?

第八章 第十一話 蠢動する計画

〔セルパン堂〕

芽府めふ須斗夫すとおの語った予言、
ヒククアケ――
古文書こもんじょの研究者によってようやく解明された。ヒククとは日蝕ひくくのことであった。

【式部丞】
ヒククは日蝕にっしょくのことだったんですね。
この文を解読された蛙山かえるやま先生は、
独立の研究者なんですよ。
何処どこの大学にも組織にも属さず、
しかも独学で日本の古文書こもんじょを調べ、
今では斯界しかいの第一人者です。

さて、芽府めふ須斗夫すとお君の予言ですが、
日蝕にっしょくの日の明け方と語られました。
時期は……調べればわかりますね。
問題はその続きですね――
エニグマ暗号文とは中々厄介です。
新山にいやま技師なら解明できるでしょうか。
【着信 喪神梨央】
今年、五度目の日蝕にっしょくがあります。
十二月二十六日の未明――
皆既日蝕かいきにっしょく、場所は南極です。

梨央からの無線が終わったとき、塩町電停方面からユーゲントがやって来た。

【毘沙門丸】
君が喪神もがみさんだね――
僕は毘沙門丸びしゃもんまるだよ。
この間、会ったよね!
ヒエ神社にいたのは僕だなんだ。
大型波動グローサベッレで命令された振りをしてね。
ヘーゲンを見張っていたんだ。
【式部丞】
ということは君は、
その大型波動グローサベッレの影響を受けていない、
そういうことなんだね?
【毘沙門丸】
ユーゲントが皆そうかは知らない。
少なくとも僕はそうだよ。
大型波動グローサベッレの影響を受けないんだ。
でも影響されたように振る舞う――
結構、楽しいもんだね、こういうの。
【式部丞】
つまりは間諜かんちょうすることが……
そういうことかな?
【毘沙門丸】
日本語ではそう呼ぶんだね、
ドイツではシュピオーンだよ。

【式部丞】
それで毘沙門丸びしゃもんまる君――
ユンカー局長の弟の話、
聞いたわけだが……
【毘沙門丸】
アーネンエルベでヘーゲンと
会っていたのは弟の方だよ。
双子だから見分けがつかない――
虹人こうじんさんがギンザで見たのは、
その弟と一緒にいたヘーゲンさ。
【式部丞】
柄谷がらたに生慧蔵いえぞう博士だったね。
博士の目的は一体何かな?
何故ヘーゲンに接触したのかな?
【毘沙門丸】
大型波動グローサベッレを連続で発動して、
この町中で戦を展開させて、
あわよくば現世にを認める――
それが目的だと思う。

危ない!!

毘沙門丸が言い終わるや否や、執事型ホムンクルスが走り込んできた。

【執事型ホムンクルス】
――目標ダスツィル! 確認ベステーティグン
コレヨリ……排除アンシュルス……開始シュタート

《バトル》

【執事型ホムンクルス】
……失敗シャイタン……
――残念シャーム……
【毘沙門丸】
大型波動グローサベッレで命令受けた奴だね――
でも、今、残念って言ったよね。
連中が感情を現すなんて……

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
――突然のことで……
事前にセヒラはありませんでした。

【式部丞】
大丈夫ですか、喪神もがみさん。
いやしかし、一瞬の出来事ですね。
――は……見えませんでした。
【毘沙門丸】
この町中で戦いが起これば、
人前にが現れるかも知れない。
【式部丞】
今のところは――
は異能者にしか見えない。
喪神もがみさんたち審神者さにわや、
あるいは召喚師――
【毘沙門丸】
僕たちホムンクルスも、
を呼べる。
あとは怪人だね――
【式部丞】
一般市民がを見るようになると、
が人を襲うようになる――
そうなのだろうか……
【毘沙門丸】
が見えないから恐れない。
見えると恐れる、それだけだよ。

フォス大佐が満洲に行き、
ユンカー局長が殺されて、
アーネンエルベは管理者不在なんだ。
僕たちはユリアと虹人こうじんさんを、
支えなきゃならないんだ。
【式部丞】
ユンカー局長をに手をかけた犯人、
もう目星がついているのかな?
【毘沙門丸】
たぶん……ヘーゲンだよ。
でも常のヘーゲンじゃないよ、
何か違う気がするんだ。
じゃ、僕は戻るね、
妙な事があれば連絡するよ。
調べたいこともあるし――

【式部丞】
毘沙門丸びしゃもんまる君はヘーゲンのことを、
調べるつもりだろう。
彼は素養がありそうだね。

公務に出ようとした風魔ふうまの元に着電があった。
熱海あたみで怪人が現れたという。
その怪人の写真が機関本部に届いた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
あっ!
兄さん――
怪人のレントゲン写真が届きました。
【新山眞】
いや……なるほど……
セヒラに感光していますな!
本来白黒が、セヒラ色に――
【帆村魯公】
怪人は熱海あたみの浜で死体で見付かった。
鉄道病院の沼津ぬまづ病院に搬送はんそうし、
このレ線像を撮ったそうだ。

その頭蓋骨は、眼窩がんかから鼻にかけて、すっかり失われていた。

【帆村魯公】
右上が後頭部に当たる部分だな――
このレ線像レントゲンでは、目と鼻が、
吹き飛ばされたみたいに見えるぞ。
【喪神梨央】
脳の内部に何かつぶ状の物体が――
あのぎっしりあるのは何でしょうか?
【新山眞】
沼津ぬまづの医者のメモには、
網膜腫瘍もうまくしゅよう末期に似た症例があると。
医者が文献ぶんけんを切り取っています――

網膜腫瘍もうまくしゅよう四期では、腫瘍しゅよう転移てんいはなはだしく、頭骨、脳底、付近の淋巴リンパ腺に転移を認め、膿敗のうはいした腫瘍面しゅようめんからの出血と腐敗熱ふはいねつ著しく――

【新山眞】
角膜かくまくを破り瞼裂外けんれつがいに突出する腫瘍しゅようの患者は見たことがあるそうです。
――でも破裂したのは初めてだとか。
巡査によると怪人が倒れていたのは、
省線熱海あたみ駅近くの浜で、
怪人の近くには――
【喪神梨央】
二つの目玉が
視神経ごと飛び出していたんでしょ?
鼻は野良犬がくわえていた――
【新山眞】
ええ、まぁ……
そういうことのようです。
【帆村魯公】
病院で怪人の死亡が確認された。
遺体は戸山の衛戍えいじゅ病院に搬送はんそうし、
より詳しい検査を行うそうだ。
【新山眞】
でもなぜ怪人とわかったのですか?
【帆村魯公】
伊東いとうで旅館の客が暴れだした。
旅館はものの二十分で壊滅かいめつした――
その客と姿恰好すがたかっこうが同じとのことだ。
【喪神梨央】
去年、丹那トンネルが開通して、
熱海あたみ駅は東海道線の駅に格上げされ、
これから温泉や別荘の客が増える――
そう期待されているのですよ。
熱海あたみ町長はさぞかしがっかりですね。
【新山眞】
衛戍えいじゅ病院は目立たないように、
手堅く警備するべきです。
ブンヤがぎつけると厄介ですよ。

ホテルフロントが来客を取り次いだ。そういうとき、ホテルフロントから直通の内線電話がかかる。

【帆村魯公】
風魔ふうま……
ロビーにお客だ。お前にだという。
――何を隠そう柄谷がらたに生慧蔵いえぞうだ。
【喪神梨央】
兄さん!
ユンカー局長の弟です。
事件に関わっているかもしれない――
【新山眞】
私も同席しましょう。
参りましょう、喪神もがみさん。

〔山王ホテルロビー〕

【柄谷生慧蔵】
ここが山王さんのう――
いや、立派なホテルですね。
京都から参りました、柄谷がらたにです。
殿下とは既にお顔なじみだとか――
聖宮成樹ひじりのみやなるき殿下です。

【新山眞】
あなたが計画の大元ですね。
蔦博士にセヒラ同定を指示し、
戦計画綱領を認められた――

私は陸軍飯倉技研の技手ぎて
新山眞にいやままことと申します。
博士が論文を出されたのは――

【柄谷生慧蔵】
あれは七年の二月のことです。
兄、ルドルフがセフィラを見付け、
ミュンヘンに至急電を打ったのです。

殺害されたルドルフ・ユンカー局長の、双子の弟、柄谷がらたに生慧蔵いえぞう。京都瑛山会えいざんかい重鎮じゅうちんでもある。

【新山眞】
ミュンヘン……つまりナチ党本部――
それでアーネンエルベが設立された。
あなたも戦について具申ぐしんされた。
【柄谷生慧蔵】
戦実施計画綱領――
参謀本部の動きは速やかでした。
翌三月に山王さんのう機関が設立されました。
【新山眞】
博士はあらかじめご存知だったのですか、
帝都のセヒラについて。
【柄谷生慧蔵】
独逸ドイツに兄の動向を知らせる人がいて、
セヒラ同定の四年ほど前から、
日本でセヒラ調査が行われていると、
そのように聞き及んでいました。
【新山眞】
でですか?
独逸ドイツの調査は帝都東京ではなく?
【柄谷生慧蔵】
ナチの研究者たちは、
伊豆いず半島の随所で調査しました。
ロッホと呼ばれるセヒラ場の調査です。
東京での調査点は目黒の近辺です。
しかし穴は見付かりませんでした。
【新山眞】
独逸ドイツではどうだったんでしょうか?
【柄谷生慧蔵】
ブレーメン、エッセン、ハーゲン、
不安定なセヒラで犠牲者が出ました。
兄の論文にそうありました――
【新山眞】
なるほど――
山王さんのう機関に運ばれた釣鐘のことも、
お兄さんの論文で知ったのですね。
【柄谷生慧蔵】
そうです。日本への搬入はんにゅう計画は、
シュタインベルク中将の発案です。
私も計画の後押しをしました。
【新山眞】
探信たんしん技術については如何いかがですか?
日本ではいち早く成功しています。
【柄谷生慧蔵】
霊式ヘテロヂン技術ですね。
これも兄の論文に書かれていました。
それを元に改良を加えたのです。
霊波を電気的信号に変える、
その研究は私の専門です。
私の書いた技術書はご存知でしょう。
【新山眞】
飯倉いいくら技研では聖書のような存在です。
携行式けいこうしき探信儀たんしんぎの開発に役立ちました。
探信儀たんしんぎの設置も博士の提案ですね。
なぜ空白地帯を設けたのですか?

第一から第六までの探信儀たんしんぎでは、探信たんしんできない空白地帯が存在していた。山王さんのう機関の携行式けいこうしきを用いておぎなっている。

【柄谷生慧蔵】
最初は八基を設置するはずが、
途中で立ち消えになりました。
赤坂御所と浅草、この二箇所が、
設置かられたのです。
業者の事情とだけ聞きましたが……

【新山眞】
博士……
うかがってよろしいですか?
お兄さんのことですが――
ユンカー局長は無残にも殺され、
その後ろに博士の存在があるのです。
この点については如何いかがですか?
【柄谷生慧蔵】
わかっています――
今は信じていただく他ありません。
私の憎しみは小さな欠片かけらです。
【新山眞】
というと……
既に目星がついているのですか?
【柄谷生慧蔵】
クルト・ヘーゲン――
おそらく彼の仕業ではないかと。
彼は憎しみの塊なのです。
無限ともいえる憎しみ――
むしろ彼はそれを歓迎している、
私にはそのように見えました。

【新山眞】
喪神もがみさん……
私は衛戍えいじゅ病院に行きます。
ユンカー局長が運ばれました。
それに……
熱海あたみの怪人も到着するでしょう。
ご一緒に如何いかがですか、博士。
【柄谷生慧蔵】
ええ、参りましょう。
兄を確認しなければ――

一旦、機関本部に戻った風魔ふうまだったが、梨央りおからの呼び出しではらえのへ向かった。

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
新山にいやまさんが伝え忘れたって――
碑文谷ひもんや大連ダイレンにセヒラのかたまりが、
確認されるようです。
範奈はんなさんのお父さん――
古賀こが容山ようざんさんのアストラルが居ます。
【帆村魯公】
ところで、梨央りお――
碑文谷ひもんや大連ダイレンは、帝都で言うと、
やはり東横とうよこ電車の碑文谷ひもんや辺りなのか?
【喪神梨央】
ええ、移動はないようです。
帝都満州は必ずしも、
同じ場所に留まってはいません。
でも、上野黒河コクガと同じように、
碑文谷大連ダイレンも帝都に由来する場所、
そこから動いていないようです。
【帆村魯公】
碑文谷ひもんやのどの辺りなんだ?
【喪神梨央】
ちょうど角福園かくふくえんという果樹園のある、
その近辺ですね……
【帆村魯公】
あの辺は仕舞屋しもたやばかりで、
特に目を引くようなものはないな……
【喪神梨央】
郊外の住宅地です。
碑文谷ひもんやは東横電車で渋谷から五つ目、
所要時間は八分です。

【帆村魯公】
風魔ふうま碑文谷ひもんや大連ダイレンには、
玄理げんり派のアストラルが集しておる。
何やら陰謀いんぼうの匂いもする――
【喪神梨央】
碑文谷ひもんや大連ダイレンのセヒラは、
殿下が釣鐘を調整されて、
帝都にも流れ込んでいます。
とは言え、元から強いので、
十分気を付けてください。

風魔はゲートを抜け帝都満洲鉄道駅へ。
そこでは満鉄列車長が
迎えてくれた――

【満鉄列車長】
碑文谷ひもんや大連ダイレンでは、
随分ときな臭い言葉が飛び交います。

政党政治家、財閥、特権階級らが
結託けったくして国民思想の悪化を馴致じゅんちし、
国家滅亡の恐れあるに
いたらしめる――

以前のアナーキストとは違い、
現役の将兵らが蹶起けっきすべく、
息巻いているようです――
当列車、間もなく、
碑文谷ひもんや大連ダイレン碑文谷ひもんや大連ダイレン
碑文谷ひもんや大連ダイレンに到着します。

〔碑文谷大連〕

【伊班U隊員】
貴様も革命に加わるのか?
摂津せっつ隊員――
ならば登米川轍とめがわわだち先生の、
愛国革命論は読んだのだろうな?
俺はそらんじているぞ、聞け!
現代日本においては政党政治家、
財閥及び特権階級のいずれも
腐敗ふはい堕落だらくして国家観念を失い――
【露班S隊員】
勿論もちろん読んだ、何度もな!
全六百八十ページ、丸々覚えた。
この革命隊、敢えて名をかんせず。
素晴らしいお考えだ、
さすが登米川とめがわ先生だ。
大仰おおぎょうな隊名を名乗った、
アナーキスト共はみな引拉いんらされた。
無名の革命隊、それでいいのだ。

【伊班T隊員】
我々は小さな革命分子。
階級を捨て、皆、兵卒扱いだ。
中には予備役になった者もいるな。
常田つねだ大佐はよく仰る!
鸚鵡能言オウムよくいえど 不離飛鳥ひちょうはなれず――
鸚鵡オウムが人になることはないのだ。
続きもある。
――猩猩能言しょうじょうよくいえど不離禽獸きんじゅうはなれず――

【露班N隊員】
貴様ら、護符ごふは手に入れたのか?
【露班S隊員】
必中禮ひっちゅうれいの護符のことなら、
まだであります!
待ち遠しいであります!

【露班N隊員】
若狭わかさ少尉はどうした?
龍土町りゅうどちょう日曜にちよう下宿にもおらん――
若狭わかさは何処へ行った?
【伊班T隊員】
先日、若狭わかさ副長の日曜下宿に、
ある人物が訪問しました。
坂木さかきと名乗る男性です。
【露班N隊員】
その坂木さかきは何と言ったのだ?
【伊班T隊員】
はい、人は自死する時こそ、
思念が極大化すると述べたそうです。
ちょうど副長が宗谷そうや中隊長から、
ひどなじられて落ち込んでいた頃です。
副長、もしやとは思いますが――
【露班N隊員】
宗谷そうや大尉がか?
いよいよ蹶起けっきする気だな――
成り行きを見守ろう。

さて困ったのは――
若狭わかさがいないと護符が行き届かん。
【伊班U隊員】
必中禮ひっちゅうれい礼記射義らいきしゃぎであります。
進退周還必中禮――
進退周還必ずしんたいしゅうせんかなられいあた
人の行為はすべからく規範きはんに従うもの。
ありがたい礼記らいきの教えです。
ぜひとも護符を手に入れたいもの!
我々で手分けして、
若狭わかさ少尉を探しましょう!
【露班N隊員】
上野うえの摂津せっつ敦賀するが
貴様らは赤坂区を中心に探してくれ。
俺は浅草を回る――
【伊班U隊員】
若狭わかさ少尉行きつけの甘味処かんみどころが……
たしか、今木いまきという屋号です。
浅草にあります。

辺りを震わす衝撃が走った!

【露班N隊員】
誰かるのか!
誰だ! 
【露班S隊員】
誰もいません――
気のせいであります。

そう言うとアストラルは音もなく去った。警戒を強めるアストラルは依然眼の前にいる。

【露班N隊員】
宗谷そうや大尉は愈々いよいよ決意したようだな。
陸軍省軍務局長の首を取る――
大日本の暁光ぎょうこう、間もなくだ!

慷慨するアストラルがようやく去った。その時着信があった。

【着信 帆村魯公】
連中、軍務局長を狙うだと?
意味がわからん――
玄理げんり派の奴ら、何をたくらんでおるのだ?
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
ひときわ強いセヒラを観測しました。
警戒してください!

思念を強めているのか、比較的大きなアストラルが風魔の前に来た。

【伊班W隊員アストラル】
熊本幼年学校を主席で卒業した自分、
それなのに計画に加われないのか!
登米川とめがわ先生の愛国革命論、
すべてそらんじている!
――ただあの夜は酒が入り……
同志をつのるの項目を失念した――
なるべく係累けいるい少く
一家の責任軽きものなるか
あるいはそれらを超越せる人物なること
つのる同志の条件についての項目、
第八の項目を失念したのだ!
あああ、俺はもう駄目だ!
俺は、俺は、佐賀の父上、お許しを!!
うわぁぁぁぁ~

《バトル》

【伊班W隊員アストラル】
日曜にちよう下宿を飛び出して、
気付いたら四谷よつやをふらついていた。
以前は鮫河橋さめがはしと呼ばれた辺りだ。
戒行寺かいぎょうじの急坂を降りきる手前に、
立派な洋館が建っていた。
その洋館から黒頭巾くろずきんの人物が、
一瞬だけ姿を見せ、消えた。
あれは何だったのか――
俺のあずからない所で、
帝都に動きがあるわけだ!
鮫河橋さめがはしを抜けて省線信濃町しなのまちまで来た、
そこでまた俺は自失したのだ!

無念さと怒りがない混ぜになった感情を吐露し、アストラルは回転しながら消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
先程の街区にセヒラです。
大きくらいでいます――
おそらく、範奈はんなさんのお父さん、
そのアストラルです――

無線の梨央に促されるように、風魔は慎重に隣の街区へ向かった。そこにはひときわ大きなアストラルがいた。

【Kアストラル】
範奈はんなを知る者よ――
良くしてくれた、なかだちをしてくれた。
君がここに来たおかげで、
道が繋がった――
そうだ、繋がったのだ!
今から範奈はんなに会いに行く。
君も来てくれ!

アストラルが言い終わる前に周囲が暗くなった。次の瞬間、風魔は鍛冶橋の路地にいた。

〔鍛冶橋〕

周囲の風景はセヒラの影響で歪んで見える。先程の大型アストラルが浮かんでいる。そしてビルを背に一人の女性が立っていた。廣秦範奈である――

【Kアストラル】
範奈はんな
そこにいるのは範奈はんなだな!
【廣秦範奈】
――お父様……
私をここへ呼んだのも、
お父様なのですね?
喪神もがみさん――
父です……父が戻ったのです!

【Kアストラル】
範奈はんな、聞いてくれ。
私は廣秦ひろはた伊佐久いさくではない。
私は古賀こが容山ようざんという篆刻師てんこくしだ。
幻の石を求めて長野山中に赴き、
思念の世界へちたのだ。
そこはアラヤ界と呼ばれる場所で、
古今東西、あらゆる念が行き交う。
――実ににぎやかな場所だ。
私はそこである強い念と出会う。
そしてさとるのだ、私の使命を。

Kアストラルは娘に語って聞かせた。六世紀に日本に渡ったマナセ一族のすえを探し、その霊異りょういを護ることをたくされたのだと――

【Kアストラル】
すべてはお前の生まれる前のことだ。
範奈はんな……私は遠い時代に通じた。
そうだ、未来に通じたのだ。
一九九七年の香港ホンコン九龍城砦クーロンじょうさいにある、光明路コウミョウろという町に通じた――
そこで私は研究者として暮らした。
未来の技術をふんだんに用いて、
風水の気脈を調べる機械を作り、
アラヤ界と現世を繋ごうとした。
そうすればアラヤの回廊かいろうを行き交う、
思念を呼び出すことができると――
マナセ族のすえも呼べるはずだ。

もう戻らねばならない――
範奈はんな、未来の香港ホンコンでの私は、
エリオットラウという名前だった。
一九九七年から十五年、
私は研究に打ち込んだ――
しかしまた深い場所へとちたのだ。

ああ、だめだ――
また会えるだろう、範奈はんな
お前に伝えるべきことがあるのだ。

範奈の父というアストラルは震えながら消えた。周囲のセヒラは依然揺らいでいる。

【廣秦範奈】
お父様! 
もっと聞かせてください!
お父様!!

喪神もがみさん――
父はどうやってここへ、
現れたのですか?
喪神もがみさん!
喪神もがみさん!!

急にセヒラが強くなり、風魔は時空の狭間に飲み込まれてしまった――

〔時空の狭間〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
かなり強いセヒラ観測です。
――すぐ近くです!

無線が終わるや否や一体のアストラルがやって来た。

【伊班S隊員アストラル】
若狭わかさ副長は革命分子失格だ!
愛国革命論にある同志募集要項、
大切な条項を失念しおった!
事の発端は、軍務局の秘密主義だ。
しくも出入り業者によって、
課なるものの存在が明らかに!
軍務局長の真坂まさか殿下は王道おうどう派だ。
参謀本部についで陸軍省も、
王道おうどう派をようして覇権はけんを確立するのか!
常田つねだ大佐はひどく憤慨ふんがいしておいでだ。
義憤にたぎる青年将校らと血盟けつめいし、
革命運動の根幹が誕生したのだ!
蹶起けっきの準備は着々と整う。
必中禮ひっちゅうれいの護符が熱を帯びてきた!
あと数時間で日本は変わる!
ワハハハハ~

我が思念の先でおののく貴様は誰だ!
小手調こてしらべにうってつけだな!!

《バトル》

【伊班S隊員アストラル】
我ながら上出来だ!
真坂まさか閣下かっかは悪の総司令である!
大逆たいぎゃく枢軸すうじく殲滅せんめつし、
昭和維新いしん大業たいぎょう翼賛よくさんたてまつろう!!

慷慨収まらないまま、アストラルは回転しながら消えた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん、
軍務局長が狙われているのですか?
陸軍省の真坂まさか少将です――
【帆村魯公】
玄理げんり派の連中が、王道おうどう派を
こころよく思わないのは衆知しゅうちのことだ。
しかし命を狙うほどのことか?
課というのも気になるが。
我が山王さんのう機関課とは違う、
あくまで陸軍省の部署だな。
【喪神梨央】
蹶起けっきした班S隊員というのは、
宗谷そうや大尉のことだと思います。
【帆村魯公】
班は歩三の隊員だな、
元召喚小隊の一員だろう。
【喪神梨央】
帝都満洲は帝都に比べて、
時間の進みが遅くなっています。
およそ八倍ほども遅いようです。
【帆村魯公】
――そうか……
そうだったな!
数時間という猶予はないぞ!
梨央りお
陸軍省だ、軍務局に変事はないか、
確認してくれ!
【喪神梨央】
承知しました!

玄理げんり派の一派が反逆を起こさんとしている。
陸軍省軍務局長の襲撃――
義憤の念が帝都満洲をめぐる。
一方、伊佐久いさくこと古賀こが容山ようざんのアストラルは、娘に伝えることがあるという。帝都と帝都満洲、二つの世界が、さまざまな思惑おもわくを通わせ始めた。

第八章 第十話 滾る憎しみ

〔山王ホテルロビー〕

その日、山王さんのうホテルには多加美たかみ宮司の姿が。真鏡に付随する三篇の古文書こもんじょについて、残すは愈々いよいよあと一篇であった。

多加美たかみ宮司】
紫水しすい会館の古文書こもんじょは、
やはり冬至についてのことでした。

ヒトツノ アラカニ
ワタラシテ ツマル

アラカとは宮のことですね。
ヒトツノ アラカ……
最初の宮ですね。
冬至は太陽の死であり、
同時に再生する日でもあります。
だから最初の宮となります。
京都帝大の方の古文書こもんじょ
見つかり次第、連絡が来るはずです。

ホテル玄関から廣秦ひろはた範奈はんなが入ってきた。風魔のところへ真っすぐ歩いてくる。

【廣秦範奈】
喪神もがみさん……
鍛冶橋かじばしの事務所で――
多加美たかみ宮司】
鍛冶橋かじばし……
もしや、志恩しおん会の――

多加美たかみは、自分は山郷やまごう武揚ぶように見限りを付け、今では風魔らに協力していると述べた。そして東雲しののめ流再興を手伝うのだとも。

【廣秦範奈】
如月きさらぎ鈴代すずよさんの決意は、
るがないのですね――
志恩しおん会では六世紀中頃、
ちょうど武烈ぶれつ天皇統治時代、
日本に渡ったマナセ一族を探します。
久志濱くしはま一族と呼ばれていて、
生糸きいとの生産にたずさわっていたようです。

喪神さん――
その志恩しおん会なのですが、
タイピストの女性から連絡があり――

タイピストが言うには、志恩しおん会の事務所から異音がするとのこと。風魔は範奈はんなとともに鍛冶橋かじばしへ向うことに――

範奈、風魔を乗せた公務電車は数寄屋すきや橋電停を通過、その先の鍛冶橋電停に着いた。

〔鍛冶橋〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
大丈夫ですか?
いきなり出かけるって言うから……
大慌てて公務電車の路線、
押さえたんですよ!

【廣秦範奈】
タイピストの女性が言うには、
志恩しおん会の事務所、人がいないのに、
人の気配がすると……
私も何度か、
同じような経験をしました。

そこへ白衣姿の人物がやって来た。頭には反射鏡を着けたままである――

【猫憑き】
ニャ~……
アンタもこの人の仲間ニャ?
この人、大っきな隙間すきまあるニャ。
おいらだけじゃスッカスカ!
おいら、猫の政次郎ニャ!

――言わんこっちゃないニャ!
誰か来るニャ!
ものすごい速さで来るニャ。

ひゃ~……
おいら、弾き飛ばされたニャ!!

白衣姿の男は呆然と立ちすくんだままだ。男の背後にアストラルが現れた。アストラルを透かして鍛冶橋の町が見えている。

【???】
FUMAサン……
JEREMIAHエレミヤデス……
ワカリマスカ?

【エレミヤの思念】
私ハ コンナニ ナリマシタ……
BUT心ニ JUSTIS!!
伝エタイコト I HAVEデス
【廣秦範奈】
エレミヤ……さん……
エレミヤ佐古田さこたさんですね?
――銀行家の……
【エレミヤの思念】
範奈はんなサン……
おお範奈はんなサン……
貴女にまつわるVERY大事なこと!
とても大事なこと――
I HAVEなのです。

でも今は話せません――
FUMAサンにお会いして、
I TALKしたいです!
来てください――大連ダイレンです――
碑文谷ひもんや大連ダイレンで、
I WAITしています。

アストラルが消えた。白衣姿の男ははっと我に返った。

【本郷の内科医】
ここは……どこですか?
私、白山上はくさんうえの電停にいた、
それまでは覚えていますが。
その後のことは、ちょっと――
やれやれ……
これで今年になって十六回目です。
しっかりしなきゃです。

白衣の医者は何やらつぶやきながら歩き去った。暫く見送っていた範奈だが、軽く深呼吸をして風魔に向き直る。

【廣秦範奈】
私にまつわる大事なこと――
それって何でしょうか?
【着信 喪神梨央】
ゲートの準備できています。
はらえのへお越しください。

祓えの間からゲートを潜り帝都満洲へ。帝都満洲鉄道あじあ号に乗るや、列車長から案内があった。

【満鉄列車長】
碑文谷ひもんや大連ダイレンに再びわだかまる存在が――
これまでになく大きいですね。
さて、本列車ですが、
先程、定刻ていこく通り目黒奉天ホウテンを通過、
まもなく碑文谷ひもんや大連ダイレンに到着です。

〔碑文谷大連〕

【演説家アストラル】
蹶起けっきせよ、将兵諸君!
――ああ、もっと声を張り上げて……
えー……
世相の頽廃たいはい、人身の軽佻けいちょうがいし、
国家の前途に憂心ゆうしん覚えありしが――

だめだな……
登米川とめがわ先生のようにはいかない。

【作家志望アストラル】
記念すべき第一回茶川賞で、
なぜ、僕の小説が落選するんだ?

「ケッケッケ――
怪人三面相は不敵な笑い声を上げた。
それを見た彼女は一段とおびえた!

この後、どんな展開を見せるか、
知りたくないかい?
フフフ、くまなく教えてあげるよ!

おびえた女は突如とつじょ大蛇だいじゃと化した!
そして怪人三面相の体に巻き付き、
ぐいぐいと締め上げた!

「怪人三面相は
憤怒ふんぬ形相ぎょうそうとなった。
しかしすでに手遅れだった――
怪人は青ざめて動かなくなった。

どうだい!
予想外だったろう!
僕は絶対に諦めないからな!!

作家志望のアストラルが去ったのと入れ違いに、三体のアストラルがやって来た。

【伊班R隊員アストラル】
ん?
貴様は……
さては将校か!
ならば心しておくように。
我々玄理げんり派は二班で構成される。
第一の班は班、
元召喚小隊、暁光ぎょうこう召喚隊の隊員ら、
およそ三百名だ。
第二の班は班、
歩三附きの一般将兵ら、
およそ五百名から成る。
玄理げんり派は腐敗国家日本を革新すべく、
多くの血盟者けつめいしゃを迎えている――

【露班O隊員アストラル】
現代日本においては、政党政治家、
財閥ざいばつ及び特権階級のいずれも、
腐敗ふはい堕落だらくはなはだしい。
国家観念をなくし、国家滅亡の、
恐れあるに至らしめたるとし、
愈々いよいよ廓清かくせいつるぎを掲げんとす――
農山漁村の窮乏きゅうぼうを見よ!
小商工業者の疲弊ひへいを見よ!
我国の現状、黙視し得ざるものあり!!

【伊班T隊員アストラル】
貴様は陸士か?
我々、玄理げんり派に加わりたくば、
次の問に答えよ!!

一、歩兵の本領ほんりょう及戦闘手段
一、軍紀について
一、軍人聖心せいしんの意義
一、国防の最良手段
一、勅諭ちょくゆの紀元
一、連隊の歴史
一、四大師しだいし
一、ファッショ
一、現代世相に対する観察

如何どうだ?
続けるぞ、次の趣旨しゅしを述べよ!

天子てんしは文武の大権を
掌握しょうあくするの義を存して
ふたたび中世以降の如き
失体しったいなからむ事を望むなり
――
貴様、貴様のような輩の存在が、
国体を減衰せしめるのだ!!

《バトル》

他二体のアストラルは姿を消していた。

【伊班T隊員アストラル】
武士もののふの道は違はたがわいつの世に
いずくの野辺のべ
つゆゆとも

義憤に燃えたアストラルが消えると、風魔を呼ぶ声がした。

【???】
FUMAサン……
こっちです、こっち……

一体のアストラルがぽつんと浮かんでいた。

【Jアストラル】
FUMAサン……
とても深いところから、
上がってきた人、MEETです――
昔、志恩しおん会の代表をされていた、
廣秦ひろはたサンです――
廣秦ひろはた伊佐久いさくサンです!
そうです……
廣秦ひろはた範奈はんなさんのお父さんです。
今、おいでです――

その言葉に誘われるように、中型のアストラルがやって来る――

【Kアストラル】
範奈はんなを……範奈はんなを知る者か?
――私は……古賀こが容山ようざん篆刻師てんこくしだ。
古賀こが篆刻てんこくを守る私は――

あああ……
ここでは自分を保てない――
私は……私は……

アストラルは揺らいでいた。

幻の五石を求め旅に出た――
自然珪じねんけい天竺瑠璃てんじくるり雌黄しおう捻綿石もんせき
玄武晶げんぶしょう――
私は多くを求めすぎたのだ。
範奈はんなが生まれる三ヶ月前のことだ――
私は……ちたのだ……

以来、私は思念を飛ばし、
廣秦ひろはた伊佐久いさくとして活動した。
志恩しおん会の一事務員にいたのだ。

アラヤ界の深くをめぐる、
孤独な念と出会ったのが始まりだ。
失われた支族を求めれば戻れる――
その念は私にそう伝えたのだ。
私はその言葉を信じて……
――ああ、だめだ、保てない!!

アストラルが大きく揺らいだ。

《バトル》

【Kアストラル】
範奈はんなを知る者よ――
範奈はんなを呼びたい。
どうかなかだちをしてくれないか。
世界の底を漂い、
私は多くを見てきた。
失ったもの以上のものを得た!!

そう言い残すとアストラルは滲むようにして消えた。

【着信 喪神梨央】
範奈はんなさんのお父さん、
アストラルだったんですね!
碑文谷ひもんや大連ダイレン依然いぜん、セヒラ観測中。
でも今は安定しています。
ひとまず帰還してください。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん、隊長が――
参謀本部から戻られました。
【帆村魯公】
玄理げんり派がいつの間にやら、
一大勢力となっておった。
【喪神梨央】
班、班と言っていました。
【帆村魯公】
うむ……
暁光ぎょうこう召喚隊を中心に班、
歩三将兵で構成する班だ。
玄理げんり派は地方出身の青年将校らの、
不満を刺激し、彼らを錬成れんせいしおった。
状況次第では蹶起けっきも辞さない、
その勢いだそうだ……
玄理げんり派は登米川轍とめがわわだちという
予備役の革命論者と接触を深めて、
革新の大義を掲げておるようだな。

ただ、常田つねだ大佐に大義などない。
覇権はけん確立を狙うばかりだろう。
将校らはうまく利用されておる――
【九頭幸則】
歩一の将兵にも、
玄理げんり派に血盟けつめいする者があると、
内偵ないてい調査が入りました。
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさんは、
政治や財閥の腐敗には、
義憤を感じないのですか?
【九頭幸則】
り、梨央りおちゃん――
いきなりふっかけるなぁ。
いや、感じなくはないけど――
天之道不而善勝てんのみちはあらそわずしてかつ――
そう言うじゃない!
【帆村魯公】
ほほう! 老子か!
ところで諸君は先の問題はどうだ?
【喪神梨央】
天子てんしは文武の大権を
掌握しょうあくするの義を存して
ふたたび中世以降の如き
失体しったいなからむ事を望むなり
【九頭幸則】
ええ、これまた何だよ!
――どっかで聞いたことあるけど……
【帆村魯公】
おいおい!
幸坊もれっきとした陸士だろ。
これは軍人勅諭ちょくゆの大事な一節だぞ。

ノックの音が響き、新山眞が姿を見せた。

【新山眞】
皆さん!
わかりましたよ!
ユンカー博士の居場所が――

ユンカー博士が体内に入れたシュタイン新山にいやまはその特有の波形を発見した。非常に弱い波形のため発見に手間取ったのだ。
ユンカー局長の弱い波動が確認されたのは、麹町こうじまち区の旧憲兵隊司令部だった。局長は裏庭の井戸で他殺体で見つかった。

【九頭幸則】
まさかな……
殺されていたなんて。
酷い有様だったようだ。
【着信 喪神梨央】
歩一の車列、
旧憲兵隊司令部に向かいます。
場所は……麹町こうじまち区です。

普段は静かな町に四両の軍用トラックの車列があった。歩一のトラックである。トラックが旧憲兵隊司令部に向けて走り出した。トラックを見送った風魔と九頭は、公務電車の待つ溜池電停へ向かう。その途中、聖宮と出会った。

【聖宮成樹】
喪神もがみさん――
京都でいろいろ調べが付きました。
私立探偵が頑張ってくれまして。

聖宮ひじりのみや九頭くずは自己紹介し合った。互いに相手のことは聞き及んでいた。

【九頭幸則】
私立探偵に依頼されたのですか?
【聖宮成樹】
ええ、信頼のおける人物です。
【九頭幸則】
京都でわかったというのは、
鈴代すずよのことですか?
ゆかりの神社から鏡を預かったという――
【聖宮成樹】
鏡のことは、試したいことがあり、
今、麻美マーメイさんという方に、
ある物を依頼しています――
実はユンカー博士には、
双子の弟がいたのです。
それが柄谷がらたに生慧蔵いえぞうなのです。
【九頭幸則】
その人は、確か……
【聖宮成樹】
戦実施計画綱領――
論文の執筆者です。
京都瑛山会えいざんかいの一員でもあります――

京都帝大の物理学者、柄谷がらたに生慧蔵いえぞう――
その手による論文が参謀本部に提出され、歩兵第一連隊に山王さんのう機関が設立された。セヒラやについて京都で管理するのが、聖宮ひじりのみやも所属する瑛山会えいざんかいなのである。
柄谷がらたに瑛山会えいざんかいの中核メンバーであった。

【九頭幸則】
その柄谷がらたに博士は日本人として、
振る舞っていたのですね?
【聖宮成樹】
やや外国人風の面立おもだちということで、
特に問題はなかったのでしょう。
出自しゅつじは明らかにしなかったようです。
【九頭幸則】
ユンカー局長の一家は、
双子の弟を日本に残して、
独逸ドイツに帰国したわけですね。
【聖宮成樹】
何か理由があってのことでしょう。
四十年ほど前のことです――
【九頭幸則】
柄谷がらたに博士は、
ユンカー局長殺害に関係している――
そうなのでしょうか?
【聖宮成樹】
何らかの関係はあると思います。
――おそらく強い確執かくしつがあった……

二十五年ほど前、生慧蔵いえぞうは渡独の際、兄ユンカーとの面会を希望した。しかしユンカーはこれを退しりぞけたのだ。

【聖宮成樹】
兄ユンカーは墺太利オーストリアの、
王立アカデミー入学への入学を控え、
独逸ドイツ政府の推薦が必要でした。
当時、日独は間接的な対立関係下、
日本にいる肉親の存在は、
ユンカーには不都合だったのです。
【九頭幸則】
四半世紀も前のことが……
今頃になって……
うーむ……あるかも知れませんね。

【聖宮成樹】
喪神もがみさん、私が山王さんのうに来たのは、
釣鐘つりがねを調整するためです。
帝都満洲のセヒラが、
一段と強くなったとのこと。
新山にいやまさんから連絡があったのです。
これより、
山王さんのう機関の方に向かいます。
釣鐘つりがねの制御を始めます。

聖宮はキビキビした所作を伴って歩き去った。そこへ着信があった――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
芽府めふ須斗夫すとおの声が記録されました。
ちょっと聞いてください――

【再生 芽府須斗夫】
……僕は会ったんだ……
彼女さ、そうさ、彼女だよ!
僕の眠りの中にセフィラが流れ込み、
その中に彼女は浮かんでいたのだ。
金雀枝えにしだ色の瞳が美しい彼女は、
千紘ちひろと名乗ったよ。
彼女は自分のことを僕と呼ぶ――
僕たちは響き合う――
彼女、そう言うんだ。
その言葉は柔らかく僕を包み込んだ。
するとどうだい――
僕の中に沈んでいた言葉が、
ゆらゆらと浮き上がったのさ!

再生音声は歪んだノイズとともに消えた。風魔と九頭は互いに顔を見合わせている。そこへ梨央がやって来た。

【喪神梨央】
兄さん!
芽府めふ須斗夫すとおが語った言葉です。
タイプライターで打ち出しました。

芽府めふ須斗夫すとおはアルファベットを語った。それを一文字ずつ大文字でタイプせよと、録音マイクに向かってそう命じたのである。

【九頭幸則】
さっぱり読めないよ――
まるで何かの暗号だね。
【喪神梨央】
私もそう思います。これは暗号です。
新山にいやまさんがお持ちの、
ナチの極秘資料ゲハイムドクメントにありました――
【九頭幸則】
ナチの……極秘資料?
そんなのがあるの?
【喪神梨央】
似た文字を見ました。
それはエニグマ暗号機でこしらえた、
暗号電文でした。

梨央りお九頭くずらとともに一旦山王さんのう機関本部へ。しかし、日枝ひえ神社境内けいだいにセヒラ観測され、風魔ふうま日枝ひえ神社へ向かった。

〔日枝神社境内〕

日枝神社の社を背に四体のホムンクルスがいた。執事型、メイド型、レーベンクラフト型、そしてユーゲント型である。そこへクルト・ヘーゲンがゆっくりした足取りでやって来た。

【クルト・ヘーゲン】
キョウトの学者ピーハディは、
私に不思議な体験をもたらした。
彼が差し出したのは、
水晶クリスタールだった――
完璧なでできている。
それを手に取り、いくら調べても、
完璧な三面体だった……
三角錐さんかくすいでも四面体となるはずだ。
この世にこのような、
美しい三面体が実在するとは……
その水晶を握りしめた瞬間、
私の血潮ちしお沸騰ふっとうしたのだ!
この一週間、
私は高みを飛翔ひしょうしている!
恐れすら一瞬で消え去ってしまう。
彼との初めての会話――
それは私が日本に着任して
間もなくの頃だった――

辺りが急に白く輝き、やがて光は失われた。暗闇の中にクルト・ヘーゲンの姿があった。何処からともなく声がする――

【???】
クルト・ヘーゲン――
君はもう苦しまなくてもいいのだよ。
【クルト・ヘーゲン】
誰だ、お前は?
私が何に苦しむというのだ?
【???】
君の忌々いまいましい過去は、
とうに過ぎ去った車窓しゃそうの景色だ。
すっかり色褪いろあせて冷えている。
【クルト・ヘーゲン】
ああ、そうだとも!
私は自分にったのだ!
【???】
自分につなどナンセンスだ。
誰もが自分を遠ざけるのだ、
そして空隙くうげきを生み出す。
【クルト・ヘーゲン】
何の話をしている?
私は逃げてなどいない!
ただ――
【???】
ただ、どうした?
憎しみをたぎらせる一方ではないか?
それでこそ君なのだ!
【クルト・ヘーゲン】
そうだ、憎しみだ。
私の憎しみは計り知れない。
ヒュドラの沼よりも底が知れない。
【???】
いいや、君には底が見えている。
それが君のおびえの全てを生み出す。
さぁ、私にゆだねるがいい――
君のたぎる憎しみの、
そのうつわを無限の大きさにしてやろう。
どんな宇宙よりも大きな器だ。
ただしだ――
【クルト・ヘーゲン】
フフフ――
交換条件があるのか?
いいだろう、言ってみろ。
【???】
簡単なことだよ。
多くの部下たちに指示を出す、
ただそれだけだ。

〔日枝神社〕

四体のホムンクルスを従えるような位置にクルト・ヘーゲンは立っていた。その目は風魔を見据えているようであり、また風魔を透かしてみているようでもあった。

【クルト・ヘーゲン】
セフィラは超低温、真空状態で、
五億倍という高濃度に凝縮ぎょうしゅくする。
フェラーの法則と呼ばれる現象だ。
圧縮セフィラはセフィラ光を発し、
それを八枚の純鏡シュピーゲルで反射させる。
セフィラ光はますます輝く!
その光を一気に放つのだ。
ユルゲン・フェラー博士の指導で、
完全なる大型波動グローサベッレが完成した。
これからもミヤケザカから、
継続的に大型波動グローサベッレが発せられる!
私のは成功したのだ。
さぁ、配下の者どもよ!
真の実力を見せてやれ!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です……
でも、日枝ひえ神社ではありません!
セヒラ、帝都中で上昇しています。
おそらく帝都満洲から流れている、
そう推測されます!

目の前の四体のホムンクルスにアストラルが現れた。四体は身じろぎ一つしない。

【クルト・ヘーゲン】
どうした!
何があった!
アプドロックが消えたのか!!
くそっ!
こうなったら私が試す!
大型波動グローサベッレ、私も受けたのだ!!

《バトル》

四体のホムンクルスの姿はなかった。

【クルト・ヘーゲン】
アハハハハハ~
私は負けていない!
そうだ、戦いの勝敗ではない!
こうしたみっともない戦いが、
私の憎しみをより大きくする!
お前には感謝せねばな!!

そう言い放った後、クルト・ヘーゲンはややふらつきながら境内けいだいを後にした。

【着信 喪神梨央】
殿下が釣鐘つりがねを……
釣鐘つりがねを調整されたようです。
現在、帝都のセヒラは高い値ながら、
安定しています。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
帝都満洲に、
強いセヒラがあるようです。
それって――
範奈はんなさんのお父さん……
そうじゃないでしょか?
古賀こが容山ようざんという日本的な名前でした。
【式部丞】
喪神もがみさん――
先程の芽府めふ須斗夫すとおの録音ですが、
彼は覚醒かくせいしたまま話したようです。
そして――
千紘ちひろと会った、そう言いました。
彩女あやめ君の第二人格です、千紘ちひろは。
響き合う――
彩女君も同じ台詞を語りました。
【喪神梨央】
夢の中で会った、
そんなようなことでしたよ。
【式部丞】
夢……あるいは自失した先。
帝都満洲かも知れませんね。
先の予言、ヒククアケ――
近く日本の古文書こもんじょ研究の先生が、
セルパン堂においでになります。
そのときに意味がわかるでしょう。
エニグマ暗号の方は、
新山にいやまさんに任せるしかなさそうです。

瑛山会えいざんかい柄谷がらたに生慧蔵いえぞうはユンカー局長の双子の弟であった。
兄の死に関わった恐れのある弟――
彼はまたクルト・ヘーゲンと取引をし、帝都に無益な戦いをもたらそうとした。柄谷がらたに生慧蔵いえぞうの目的とは果たして何であろうか?

第八章 第七話 響き合う者たち

〔山王機関本部〕

その日、機関本部に如月きさらぎ鈴代すずよの姿があった。月詠つくよみ麗華れいかが渡満することとなり、鈴代すずよが首都新京シンキョウまで付き添うのだという。

【喪神梨央】
月詠麗華さんが満洲に……
随分、急な話なんですね。
【如月鈴代】
何でも新京シンキョウの関東軍特務部が、
麗華さんの身柄みがらを預かる、
そういう話みたいですわ。
【九頭幸則】
この年末にも関東軍司令部が、
ごっそり新京シンキョウに移転するんだよ。
関東軍のお膝元ひざもとってことだね。
【如月鈴代】
ええ、そのようなことをうかがいました。
【喪神梨央】
それで鈴代さんも、
付き添われるのですね。
鈴代さん、新京シンキョウまでですか?
【如月鈴代】
ええ、そのつもりですわ。
麗華さん、いろいろあったから、
神経にさわらないようにしなくちゃ。
【九頭幸則】
麗華嬢、愈々いよいよのご出立しゅったつ
歩一の将校はみんな知ってるよ――
人の口に戸は立てられないね!
【喪神梨央】
もしかして――
幸則ゆきのりさんが言い触らすんでしょ?
【九頭幸則】
そんな眼でにらまないでくれ。
俺は魯公ろこう先生から聞いたんだ、
この件、参謀本部の決定だってね。
仮面の男に狙われるといけない、
そういうことだと聞いたけど。
仮面の男のことは歩一も知らない――
【如月鈴代】
麗華さんは鬼龍きりゅうさんに、
奥義おうぎ継承けいしょうを求めているのです。
今は二人を離したほうがいいですね。
【九頭幸則】
なるほど……
むしろその事情が重そうだね。
仮面の男は契機けいきにすぎないのか。
【喪神梨央】
仮面の男は波形で観察できます。
でも鬼龍さんの動向どうこうはわからない――二人を近付けちゃ駄目なんですね?
【如月鈴代】
麗華さんが落ち着くまでは――
道中どうちゅう、お話しようと思います。
【喪神梨央】
鈴代さんがわれるんですよ。
東京を午後に出ると、
新京シンキョウには明後日の夜に着きます。
【九頭幸則】
おやおや、また省線の時間表かい?
【喪神梨央】
一時半の特急さくら号、下関しものせきに明朝八時着、十時半の連絡船、釜山プサンからは鮮鉄満鉄の経路です。新京シンキョウ行きの急行はひかり号です――
このくらいはそらんじているんです!
【如月鈴代】
そろそろ参ります――
十一時には連隊本部に来るようにと。
【九頭幸則】
それじゃ俺がエスコートしようか?
【喪神梨央】
鈴代さんの警護、公務にします。
公務電車ではなく円タクを使います。
兄さん、お願いします。

〔第一連隊本部〕

第一連隊本部玄関前には16条旭日旗を掲げた旗手と立哨がいた。彼らの前には一台の円タクが停まっている。麗華はすでに円タクに乗っているようだ。

【如月鈴代】
道中、何もなかったですね――
麗華れいかさんが無事に新京シンキョウに着くまで、
見届けたいと思います。
麗華さんを鬼龍きりゅうさんから引き離す、
それが一の目的だと思います――
勿論もちろん、仮面の男も気になりますが……麗華さん、新京シンキョウには半年ほどかと――いろいろ落ち着いたら、またみんなで野点のだてを開きましょう。
風魔ふうまさん、有難うございました。
それでは行ってまいります。
【福井中尉】
如月きさらぎ鈴代すずよさんですね。
お待ちしておりました、
歩一中尉、福井ふくいです。
さぁ、どうぞこちらへ。
午後の特急を取っております。
歩一の兵、八名が随行ずいこうします。

鈴代が円タクに乗り込むと、車は滑るように走り去っていった。風魔は第一連隊を後にして霞町へ出た。

〔霞町街路〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
カラスの声がしています。
増上寺ぞうじょうじの変の時も、
防疫ぼうえき研究所の時も、
カラスが飛んでいました。
カラスにも留意して観察します。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測しました!
間違いなく怪人です!
小松川こまつがわの客】
怪人の
姿さびれた
町に消え

どうですか?
怪人川柳せんりゅう、六百八十もの作を、
投稿とうこうしたんです――

怪人が
入った路地の
阿鼻叫喚あびきょうかん

怪人を
総出そうでで探す
浜三町はまさんちょう

それだけではありませんぞ。
銀座幻燈会げんとうえも四回参加しました――
少尉の手鏡に映った顔……
それは他ならぬ持ち主の顔ですよ。
つまり少尉自身の顔――
敵弾に倒れたときの死に顔です。
鏡を見た少尉は気が触れて、
丸腰まるごしで高地へと駆け出した――
飛び来る弾丸にたちまち失せて~
旅順港外りょじゅんこうがい、恨みぞ深き~
軍神広瀬ひろせと、その名残れど~
つい歌ってしまいましたな、ウハハ~
人生よろづ相談には十八回も電話し、
もうすっかり悩みは解決しました!!
もうね、私は完全に仕上しあがった。
そう思うのですよ。
貴方にもわかっていただきたい!!

《バトル》

小松川こまつがわの客】
脳楽丸のうらくがんをもっと飲まないと――

【着信 喪神梨央】
大変です!
彩女あやめさんが消えました!
セルパン堂に向かってください!

〔セルパン堂〕

【着信 喪神梨央】
四谷よつや金ノ七号帥士きんのしちごうすいしがいたので、
そちらに合流してもらいます。

【式部丞】
彩女あやめ君と蛭川ひるかわ博士の姿もない――
出入りする派出婦はしゅつふからのしらせです。
博士宅は市谷台町いちがやだいまちです。
神経の病、愈々いよいよ亢進こうしんなのでしょうか?
なんとも悩ましい限りです。

セルパン堂前に虹人がやって来た。急いで来たせいか、少し息が上がっている。

【帆村虹人】
ちょうど四谷よつやにいたんだ。
アーネンエルベの巡視パトロールは独特だよ。
三宅坂みやけざかを起点にのの字を描くんだ。
梨央りおから聞いたけど、
二重人格の女を探すんだって?
【式部丞】
周防すおう彩女あやめという女店員です。
怪人を引き寄せる性質があり、
とうとう別の人格を出しました――
【帆村虹人】
別な人格ですか……
二重人格者の戦術的考察――
そんな論文が大使館にありましたよ。
【式部丞】
それは独逸ドイツでの研究ですか?
【帆村虹人】
独逸ドイツ大使館にあるのだから、
きっとそうでしょうね。
僕は独逸ドイツ語には暗いのですが。
【式部丞】
別人格の時には腕力わんりょくが倍増したり、
知らない外国語を話したり、
宇宙物理の難問を解いたりします。
【帆村虹人】
つまり、その人じゃない能力が
発揮はっきされることもあるわけですね。
【式部丞】
彩女あやめ君は千紘ちひろと名乗っていました。
その名前、店で見かけました――
メモに残されていたのです。
【帆村虹人】
でも彩女あやめさんでいるときには、
千紘ちひろのことはわからない――
そうなんですね?
【式部丞】
おそらく、そうですね。
今は彩女あやめ君ではなく千紘ちひろを探す、
そのほうが合理的ごうりてきです。
私は若松町から筑土八幡つくどはちまん辺り、
牛込うしごめ区を中心に探します。
お二人は四谷よつや近辺をお願いします。
【帆村虹人】
わかりました。
風魔ふうま四谷よつや方面だ、行こう。

〔四谷街路〕

【帆村虹人】
ユーゲントというホムンクルス、
かなりの数が日本に留まるようだ。
一部はフォス大佐と渡満したけど――
彼らは新しいシュタインを使っているよ。
AGKアーゲーカーのフェラー所長が開発した、
自律係数を変化させるシュタインらしい。
フェラー所長は大型波動グローサベッレも開発した。
ヘーゲンはそれを使いたがるけど、
ユンカー局長は猛反対している――

でもな……
不思議な事があるんだ――
ユンカー局長とヘーゲンについてだ。
反目する二人、銀座で見たんだ。
ブレーメという洋食屋から出てきた。
二人して笑いながらねだよ……
二人は日劇の前で別れた。
僕はユンカー博士の後を付けたんだ。
円タクを拾ってね――
でも青山一丁目で陸大の行進があり、
僕の円タクは身動きできなくなった。
博士の円タクは信濃町しなのちょう方面に行った。

さて、僕はアーネン巡視パトロールの続きで、
牛込見附うしごめみつけから上野広小路へ向かう。
お前は公務を続けるんだろ。
世に在る、世に在らぬ、それが悩み。
坪内逍遥つぼうちしょうよう沙翁さおうハムレットの一節だ。僕もまったく同じ心境だよ。
踏み出す一歩は見えているのだが、
躊躇ちゅうちょという懶惰者らんだものが邪魔をする。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
東京憲兵隊本部に向かってください。
大きなセヒラを観測します!!

〔東京憲兵隊本部〕

玄関前に2名の立哨、それに一人の将校がいた。

【式部丞】
彩女あやめ君らしきを乗せた、
円タクの運転手が見つかりましてね。
一ツ橋ひとつばしの憲兵司令までと――
先に着いた形跡はないですね。

【召喚小隊悪王子あくおうじ一等兵】
怪人の一軍が向かってきます。
立ち去ってください!
【召喚小隊神水くわみず二等兵】
ここは我々で対処します。
歩三、歩一の枠を超えた共闘です!

その時、着物姿の男がやって来た。

【召喚小隊月夜野つきよの少尉】
貴様!
立ち入りはならぬ!!
【九段の客】
呼ばれて来たんですよ、
そんな目でにらまないでください。
【召喚小隊月夜野つきよの少尉】
ここにいてはいけない、
早く立ち去れ!!

着物の男は全身にセヒラをまとわせ、風魔を見据えている。

【九段の客】
新宿は東海館での幻燈会げんとうえに参加し、
素晴らしい体験をしたのです。
三軍少尉の手鏡には、
白いドレースの少女が映ったのさ!
その少女は手鏡から少尉をいざなう。
少尉は手鏡をかざしたまま高地へ――
その時、敵弾が飛来する。
少尉は胸や腹を八発も撃たれる。
血のあぶくを吐きながらも、
少尉はとても幸せそうだったとさ!
ウハハハ~
私も愈々いよいよ完成の領分に来たな!!

《バトル》

【九段の客】
割れた手鏡には、笑う少女の顔が……
その眼は真紅しんくに輝いていたそうだ!!
ウハハハハハ~

着物の男が倒れ、やがてセヒラとなり消えた。

【召喚小隊月夜野つきよの少尉】
お見事でした、中尉。
怪人ははなから中尉を捕捉ほそくしており、
どうすることも――

【着信 喪神梨央】
今の怪人も、さっきの霞町かすみちょうの怪人も、波形がすごく安定していました。
ほとんど真円しんえんでした――
怪人になるべくしてなっている、
そんな感じです――
あっ――

着物の男と同じ方向から彩女がやって来た。

【式部丞】
彩女あやめ君!
――あ、いや……
君は……
【千紘】
怪人を引き寄せる力、
僕のじゃないよ。
元の人格、周防すおう彩女あやめのものだね――
フフフ――
なかなか便利な力だ。
使わせてもらうことにした。
【式部丞】
君は彩女君を取り込んだのか?
――そうなのか?
【千紘】
僕は僕だよ――
取り込むとか取り入るとか、
そういう話はどうでもいい。
周防彩女という女の、
その静謐せいひつな湖の底に沈殿ちんでんした、
それが僕なんだよ。
僕は響き合うためにここに来た。
【式部丞】
響き合う……
誰と響き合うのだ?
――もしや……
【千紘】
君たちが芽府めふ須斗夫すとおと呼ぶ存在だ。
彼はメフィストフェレスだ、
その転生した存在だ――
【式部丞】
メフィストフェレス……
独逸ドイツのファウストに登場する悪魔だ。
伝説上の存在でしかない。
【千紘】
それがどうしたの?
伝説だから? 造り物だから?
みんな造り物だよ――
君たちだって造り物さ。
悪魔もそうさ、はどうなんだい?
究極の造り物だろ?
僕は残りの言葉を知りたい。
造り物の悪魔がく言葉だよ。
さぁ、始めようか!
戦うんだ、怪人共!!

千紘の声に応じるかのように、2名の怪人が走り来た。召喚小隊の兵2名がこれに対峙するも、セヒラ濃度が急上昇して、見る見るうちに一抱えもある巨大な球になった。

【着信 喪神梨央】
セヒラ急上昇!!
退避してください!

セヒラ異常の発生である。セヒラの球が急速に巨大化して、辺り一帯を飲み込んでしまった――
やがて収束すると、地面に倒れる彩女と召喚小隊将校の姿があった。式部が彩女の傍へ駆け寄る。

【式部丞】
セヒラ異常が発生したのですね。
複数の怪人が戦ったせいで……
彩女あやめ君……
大丈夫かい……
今は……なんだろ……
喪神もがみさん、私は彩女あやめ君を……
蛭川ひるかわ博士の所在しょざいも聞き出さねば。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
辺りのセヒラは消えています。
ただ帝都満洲にセヒラのかたまりが……
はらえのにおいでください。

〔祓えの間〕

【新山眞】
またもや帝都満洲にセヒラのかたまりです。今度は碑文谷ひもんや大連ダイレン界隈かいわいです。
こうも何度もセヒラ異常が続くと、
帝都と帝都満洲をつらぬく新しい穴が
生まれるかもしれません。
穴のこと、独逸ドイツ人らはロッホと呼び、
以前から、調査をしていました。
今から七年前のこと、
昭和三年の冬でしたね。
まだ山王さんのう機関ができる前です。
ちょうど、目黒区碑文谷ひもんやあたり、
それと伊豆の修善寺しゅぜんじでです。
結局、ロッホは見つかりませんでした。
彼らは憶測おくそくを含めて、
一本の論文を発表しています――
それが日 本 に お け る 重 力 の 穴 の 調 査、フアション デ ロヒャ デ シュベアクラフト イン ヤーパン
頭文字でFLSJ論文と言います。
喪神もがみさん、
それでは準備はよろしいですか?
向かうは碑文谷ひもんや大連ダイレンです。

風魔はゲートを抜け、帝都満洲鉄道あじあ号の展望車に乗り込んだ。すぐさま列車は走り出した。

【満鉄列車長】
毎度ご乗車ありがとうございます。
本列車、只今ただいま碑文谷ひもんや大連ダイレン行きです。
碑文谷ひもんや大連ダイレンに、大きなわだかまる存在があるようです――
碑文谷ひもんや大連ダイレンまでは、
とどこおりなく運行していまいります。

碑文谷ひもんや大連ダイレン

碑文谷ひもんや大連ダイレンは恐怖の色に染め抜かれていた。累々たる白骨は恐怖が生み出した存在であろうか――
帝都では東横電車碑文谷ひもんや駅から南へ進んだ、目黒競馬場跡にほど近い住宅地が照応している。

【Y二等兵アストラル】
歩一三〇八小隊のうち、
十八名がここに集しているものと
思われます。
金沢かなざわ曹長、岡山おかやま軍曹は、
自分、確認しております。

【O軍曹アストラル】
山口やまぐち二等兵とは話しましたか?
彼が咄嗟とっさにここへ導いてくれました。
防疫研ぼうえきけんで何が起きたのか、
よくわかりません――
巨大な影が現れ、その瞬間に、
気を失ったのです。
一度だけ、目覚めました――
その時は目黒の権之助坂ごんのすけざかくだって、
目黒川を渡る最中でした。
そこでまた自失したのです――

これらアストラルは防疫研で姿を消した308小隊隊員のようである。

【N少尉アストラル】
防疫研ぼうえきけん巡察じゅんさつ、いざ本丸という段に、異変が生じたのです。防疫研ぼうえきけん軍閥ぐんばつの機関といううわさもあり、これ以上、看過かんかできない存在でした。
ですが、似たような謎の機関、
市内にいくつか存在しています――
歩一の九頭くず中尉は研究熱心ですね――
中尉の隊に向島むこうじま出身の将校がいます。その将校いわく、荒川あらかわ沿いに建つ帝国モスリンの工場では、
出入りする職工を見ないのだとか。
九頭中尉は大いに興味をそそられ、
帝国モスリンについて、
いろいろ調べられたようです。
中尉は、その工場では、
なるものを製造しているのだと、
そうお考えのようでした。

【K曹長アストラル】
自分、九頭中尉に頼まれ、
帝国モスリンの工場を見に行き、
なるほどと合点がてんしたのです。
巨大な四本の煙突からは、
盛大に煙が出ているのですが、
工場は高いへいで囲まれているばかり。
朝も夕も、出退勤の職工は、
誰一人として見かけませんでした。
へいの周りを一周したのですが、
出入口一つないのです!

【F一等兵アストラル】
防疫研ぼうえきけんの他にも、
実体の不明な組織がある、
そういう話です。
ゼームス師団、渋谷憲兵大隊、
戸山とやまの砲工学校も怪しいです。
新型の導弾ミサイルこしらえる等と言います。
私たち三〇八小隊では、
独自の調査を開始しようと――
その矢先、皆が自失したのです。
――
何かあるのですか、千葉ちば曹長!

【C曹長アストラル】
またアレだ――
アレが来るぞ!
すぐそこだ!!

小隊アストラルたちは一斉に逃げてしまった。

【N少尉アストラル】
つい先日、我々とは異なる、
強い力を持つ存在が現れました。
兵のうち、何名かが飲み込まれ、
存在を消したのです。
――皆、怖れています……
私もこれにて失敬しっけいします!

そう言い残し、最後に残ったアストラルも去る。
そこへ4体のアストラルがもつれ合いながらやって来た。一人の人間の思念が分化したようである。

【H博士アストラル1】
周防すおう彩女あやめは病的な二重人格者です。
普通、二重人格では相手がもたらす
きょいて別人格が表出します。
それがいわゆる人格変換です。
しかし千紘ちひろは彩女を操り、
みずからの意志で表出した、
そのようにも思えます――

【H博士アストラル2】
気が付くと夕暮れでした――
私は人形町の電停にぼんやりと佇み、
電車を何本もやり過ごしていました。
その前は市谷台町いちがやだいまちの自宅、
洋式にしつらえた客間にいたのです。
自失する前のことです。
回教様式の浮彫レリーフを施した柱。
葡萄牙ポルトガル大理石でできた大きな暖炉。
――彩女さんの休む部屋です。
彼女は長椅子ながいすに横になっていました。

【H博士アストラル3】
彩女さんは靴下くつした素足すあしでした。
スカァトがまくり上がり……
私の頭にある一節がよみがえりました。

マシマロオでこしらえた脚。
清らかなメロディを流した脚。
青草を踏んでじなき脚。
食べてしまいたくなる脚。
いつまでもでていたい脚――

【H博士アストラル4】
こんな一節も浮かびました――

私は真っ白な女の素足の
こぼれて居るのをながめていた。
その女の素足は私にとり、
たっとき肉の宝玉ほうぎょくであった。
拇指おやゆびから起こって小指に終る繊細せんさい
五本の指の整い方、
絵の島の海辺でれるうすべに色の
貝にもおとらぬつめの色合い、
たまのようなきびすのまる
清洌せいれつな岩間の水がえず足下あしもと
洗うかと疑われる皮膚ひふ潤沢じゅんたく――

あゝ、あゝ、あゝ……
ついに私は無我むがち、
その素足に触れてしまった!!
その瞬間、全てが消え、
私は飛んでしまったのだ!!
ヒィィィィィ~

《バトル》

【H博士アストラル4】
あの足こそは、
やがて男の生血いきちふとり、
男のむくろをみつける足である!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
帝都にセヒラが噴出ふんしゅつしました!
セヒラの強い流れです!
至急しきゅう、お戻りください!

〔山王機関本部〕

【九頭幸則】
遅かったな、風魔ふうま
【喪神梨央】
帝都満洲と帝都とで、
時間の進みがずれ始めているのです。
【九頭幸則】
そうなのか――
昨日、帝都に生じたセヒラの流れ、
一ツ橋の憲兵司令に向かったんだ。
【喪神梨央】
まるで芽府めふ須斗夫すとおが、
セヒラを呼び込んだようにです。
今は収まっています。
【九頭幸則】
ヒククアケ――
予言が語られたそうだけど、
何のことやらさっぱりだな。
【帆村魯公】
式部しきべ氏とも話したのだが、
ヒククアケ――
明けというのは明け方のことじゃろ。
【喪神梨央】
それじゃヒククとは何でしょう?
【帆村魯公】
うーむ、
その、ヒククという言葉がきもだな。
【九頭幸則】
ヒクク……ひくく……
もしかして、
太陽が低くなるということでは?
【喪神梨央】
低くなる……
低くなる明け方……
それって冬至とうじのことですか?
【帆村魯公】
ほう!
そうかも知れんな!
――冬至とうじか……
【喪神梨央】
芽府めふ須斗夫すとおは、
冬至とうじの朝のことを言ったのですか?
【帆村魯公】
今年の冬至とうじはいつだ?
十二月の何日だ?
それもふくめて、中尉、
中野気象部に一っ走り頼む。
こよみのことを知りたい。
【九頭幸則】
電信でんしん第一連隊の気象班のことですね。
冬至とうじとその近辺のこと、
教えてもらってきます。

そう言い残し、九頭は本部を後にした。

【帆村魯公】
周防すおう彩女あやめ女史じょしは青山の脳病院だ、
あそこなら精密に検査もできる。
まだ意識は回復しないそうだが……
【喪神梨央】
青山脳病院、斎藤さいとう茂吉もきちが院長です。
世田谷せたがやに本院を移し、
青山のは分院となっています。
病院で、また蛭川ひるかわ博士みたいなことにならなければいいのですが。
【帆村魯公】
そのことだが……
彩女さんの第二人格が博士をほだした、
そうも考えられるぞ。
博士はアストラルになり、
結果、強いセヒラを生じて、
予言が語られたわけだしな。
【喪神梨央】
彩女さん……いや千紘さんの、
足を触ったりしたら、
飛ばされますよ、絶対に。
――幸則ゆきのりさん、大丈夫かしら……
彩女さん、病院なんですよね?
【帆村魯公】
病院には歩一の兵二個小隊が駐する。
元召喚小隊からも増援が来ておる。
病院を抜け出したりはできんだろう。

第七の予言の解明にはこよみの知識が必要だった。山王さんのう機関では冬至とうじの朝のことであると、暫定的ざんていてきに解釈していた。それに続くであろう、いわばしもはまだ語られていなかった。

第八章 第六話 東京大正博覧会

〔山王ホテルロビー〕

その日、興亜こうあ日報は二度目の怪人川柳せんりゅうを掲載。たちまち売り切れ続出となり、梨央りお四谷仲町よつやなかまちまで足を伸ばして買い求めた。

【喪神梨央】
興亜こうあ日報の記者の人が、
新聞を持って来るって――
なら買いに行かなきゃよかった。
まったく人騒がせな話です。
これで怪人騒動が起きたら、
記者の人、責任取るんですか?
今度の怪人川柳せんりゅう
前より投稿が増えています。
それに地方からも――
【新山和斗】
喪神もがみさん、新聞の件ではご迷惑を――
皇軍こうぐん機関が朝刊読めないのは、
国難こくなんを招きますね!
【喪神梨央】
新聞ならもうあります。
怪人川柳せんりゅう拝見はいけんしました。
【新山和斗】
今回のは傑作けっさくぞろいですからね!
仙台や熊本からも寄せられています。

怪人の
心に触れて
みたい秋

しみじみと秋を感じますね――
【喪神梨央】
怪人の
通る生垣いけがき
急に枯れ

これで怪人騒ぎが起きたら、
どうするんですか?
【新山和斗】
皆さんのご活躍が愈々いよいよとなります。
――違いますか?
怪人川柳せんりゅうはこの秋入社した、
新人社員の企画なんです。
帝大出の触れ込みでしてね――
蛇穴さらぎ洋右ようすけという青年ですが、
拓務たくむ文理専修科の卒業だそうです。
【喪神梨央】
そんな学科、あるんですね――
【新山和斗】
僕も初めて知りました。
拓殖たくしょく実務を高い水準で学ぶとか。
彼、川柳せんりゅうで張り切っています!
【喪神梨央】
以前、帥先そっせんヤというのがありました。
怪人川柳せんりゅうもその一つとみなされて、
特高の手入れを受けそうです。
【新山和斗】
最近では騒擾罪そうじょうざいを持ち出して、
憲兵が動くのが常ですからね。
今日はこちらの件でうかがいました――

そう言って和斗かずとは絵葉書を取り出した。東京大正博覧会を写した人工着色絵葉書だ。大正三年、上野公園一帯で開催かいさいされた。
上野公園に一夜にして博覧会場が現れ、会場見物の市民でごった返しているという。和斗かずとはそれをしらせに来たのだった。

【新山和斗】
前に浅草十二階が出現しました。
あれと同じ理屈なのではないですか?
浅草のときは当局の検閲けんえつを受け、
早版はやばんの記事から書き換えました。
くさ記事は沢山たくさんありましたから。
【喪神梨央】
今回も発表は無理だと思います。
参謀本部の検閲けんえつが入るでしょうね。
【新山和斗】
まぁ、従いますよ――
ただ記事自体は書いておきます。
いつか発表できるでしょうから。
【喪神梨央】
兄さん、今日の公務は上野ですね。
セヒラの観測、始めます。
【新山和斗】
僕はこの現象、妄築もうちくと名付けます。
ご公務、お気を付けください。

〔上野恩賜公園〕

上野の山はどことなく浮足うきあし立った空気だ。まるで春の花見の頃のようである――

【下谷区のラムネ商】
怪人川柳せんりゅうでいいのがあって、
つい浮かれちまってね!

怪人が
さっさと越へる
電車道

哀愁あいしゅうさえ感じるね、あんた!

怪人に
なったしるしに
かねが鳴り

不朽ふきゅうの名作じゃないか!
――次なんかもいいよ!

怪人を
残して冷える
町となり

文学的なたたずまいさえ感じるね!
――気分が益々ますます浮いてきた!

【谷中の客】
懐かしい見世物みせものがわんさかだよ!
ホントに懐かしい……
芝居しばい手踊ておどり、生人形、独楽こま、足芸、曲馬きょくば照葉狂言てりはきょうげん轆轤首ろくろくび大坂角力おおさかすもう、洋犬の芸、講釈こうしゃく
かっぽれ、女大力おんなだいりき
露店ろてんの洋食屋、りのシャツ屋、
アラスカ金の指環ゆびわ、電気ブラン、
木戸十銭きどじっせん浪花節なにわぶし――
たま乗り娘のあかじんだ肉襦袢にくじゅばん
倶利伽羅紋々くりからもんもんのお爺さん、江川一座のおはやしさんや一寸法師いっすんぼうし――
今はれっきとした昭和の時代、
まるであんた、大正はじめに
時が巻き戻ったみたいです!

トンビ服姿の男性が風魔を見ている。

【下谷第三十八尋常小学校訓導】
今より東京大正博覧会の
趣旨しゅしを述べるのである――
殖産しょくさん工業の進歩開発をうながすにあるは勿論もちろんなるも、第一に大正御即位式を記念し、あわせて我が帝国の改元かいげんともな万般ばんぱんの進歩発達をはかり、
いささかなりともこの大正の御代みよ
むくたてまつらんとするの赤心せきしんより
企図きとせられたものである。
――以上!

中年の男女二人連れがやって来た――

【碑文谷の蓄音機商】
いやね、博覧会案内というのが
落ちていたから拾ってみたんだが――
【蓄音機商の妻】
博覧会の見方が書いてありますわ。
【碑文谷の蓄音機商】
現今げんこん盛んに行われます石綿いしわた製品、
タングステン、ラヂユームらを見て、
鉱業に関する知識を養いましょう――
【蓄音機商の妻】
それは鉱業館の見学指南しなんですわ。
【碑文谷の蓄音機商】
教育館、学芸館、林業館、工業館、
水産館、美術館、拓殖たくしょく館、農業館、
運輸館、染織せんしょく館、外国館――
見学意欲は満々なのだけれどね、
ちっとも寄れないんだ。
近づくとすーっと消える――
【蓄音機商の妻】
知らない間に通り過ぎたんじゃ、
ありませんこと?
【碑文谷の蓄音機商】
そんなこと、あるものか!
――また明日にでも出直すとしよう。

〔東京大正博覧会〕

【内藤町の客】
大正三年に来た時は驚きましたよ。
なんせ本邦ほんぽう初公開のエスカレーター、
動く階段ですからね!
踏み台に足をせるのが怖くって!
でも今じゃ当たり前ですな!
ホホホホホ~
【着信 喪神梨央】
セヒラを観測しましたが、
低い値のままです。
あとで怪人化するかもですね――

【錦糸町の客】
独逸ドイツ館は見ものですよ!
一人気球、携帯電信、人造宇宙衛星、
脳楽のうらく装置、自白機じはくきプルトニウム発電機、
それに二体の自動人形です。
自動人形、人と見紛みまご出来栄できばえで。
サロメ号とオリムピア号ですよ。

口上屋こうじょうや
本邦ほんぽう初のサロメ号、
オートマタにございます。
もうお試しになりましたか?
【ヨカナーン役の学生】
ああ、すっかり試したよ。
僕がヨカナーン役となり、
サロメ号と台詞せりふわすんだ――
口上屋こうじょうや
猶太ユダヤ王女サロメは、ある一夕いっせき
預言者ヨカナーンの冷徹れいてつな声を聞き、その豊麗ほうれいな体にせられて、
たちまちそのとりことなり、
舞いの報酬としてその首を求め、
官能の爛酔らんすいの中で死ぬという筋書きなのであります――
サロメ号の前にて、
決まった台詞せりふを話せば、
会話が進むのであります。

不意にどこからか女性の声がした――

学生は声の元を探している。
その表情はすでに虚ろであった――

【サロメの声】
ヨカナーンや、ヨカナーン……
私はお前の体にがれている。
お前の体は草刈人くさかりびとが、
一度もかまを入れたことのない、
草原の百合ゆりのように白い。

学生はヨカナーン役となり、サロメ号のわきに掲げられた台詞せりふを話す――

【ヨカナーン役の学生】
さがれ、バビロンの娘! 
この世に悪が来たのは女人のためだ。
【サロメの声】
お前の体はいやらしい。
蝮蛇まむしっている漆喰しっくいの壁のようだ。
さそりが巣を作る漆喰しっくいの壁のようだ。
ヨカナーンや、ヨカナーン……
お前の髪の毛は葡萄ぶどうふさに似ている。
お前の髪の毛はレバノンすぎのようだ。
この世の中にはお前の髪の毛ほど
黒いものは何一つもない。
お前の髪に触らせておくれ。
【ヨカナーン役の学生】
さがれ、ソドムの娘! 
私に触るな。
【サロメの声】
ヨカナーンや、ヨカナーン……
お前のくちびるは艶めかしいひるのようだ。
二匹のひるが合わさりうごめくようだ。
私ががれるのはお前の口だ。
お前の口は象牙ぞうげとうにつけてある、
猩々緋しょうじょうひひものようだ。
象牙ぞうげの小刀で切った柘榴ざくろのようだ。
世にお前の口ほど赤いものはない。
……お前の口に接吻せっぷんさせておくれ。
【ヨカナーン役の学生】
ならぬ! バビロンの娘! 
ならぬ! ソドムの娘! 
姦淫かんいんの生んだ娘よ――

全部、正しく言えたはずなのに、
サロメ人形は血走った眼でにらんだ!
僕は全部言えたんだ、
一つもたがわずに言えたんだ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
探信儀たんしんぎを使ってください!!
【ヨカナーン役の学生】
僕は間違わなかった!
最初からだますつもりなんだ、
あの女は!!

《バトル》

【サロメの声】
ヨカナーンや、ヨカナーン……
お前は私の愛した、ただ一人の男だ。
お前は美しかった。
お前の体は銀の台石の上に立っている象牙ぞうげ円柱まるばしらだった。
はとと銀の百合ゆりとで一杯のそのだった。
私はお前の口に接吻せっぷんをしたのだよ。
お前のくちびるは苦い味があった。
あれは血の味だったろうか? 
いや、あれは恋の味かも知れない――

【戸越の客】
独逸ドイツ館は素晴らしいですね!
オリムピア号と目が合った時は、
胸が高鳴りました!
独逸ドイツ作家ホフマンの砂男に登場する、
あのオリムピア号そのままです。
砂男の粗筋あらすじはこうです――

大学生ナタニエルは、下宿先を訪問した、晴雨計せいうけい売りのコッポラから遠眼鏡とおめがねを買う。
それで裏窓をのぞき、一人の女性を見初みそめる。ナタニエルは女性の元を訪れ交際を申し込む。それがオリムピアである。しかしオリムピアは精巧せいこうな自動人形であった。
やがてナタにエルは気が触れてしまい、故郷に帰り婚約者と静かに過ごす。婚約者と市庁舎の屋上に上がったナタニエル、遠眼鏡で婚約者をのぞ動転どうてんして、市庁舎の屋上から墜落死ついらくしするのである。

【戸越の客】
遠眼鏡があやかしの力を秘めていた、
どうもそのようですね。

ホフマンの『砂男』の粗筋を話し終えた男が去ったとき、式部、彩女、そして江戸川乱歩の三人がやって来た。

【式部丞】
喪神もがみさん!
やはり見えていますね、大正博覧会。
――いやはや、驚きです。
【江戸川乱歩】
まるで浅草十二階の頃のようです。
その頃の浅草公園と云えば、
名物が蜘蛛くも男の見世物みせもの、娘剣舞けんぶ
玉乗り、源水げんすいの様の作り物、メーズと言う八陣はちじん隠れすぎ見世物みせもの――
当時と同じおもむきがありますな。

【式部丞】
乱歩らんぽ先生から電話いただいたのは、
他でもなく彩女あやめ君のことでした。
【江戸川乱歩】
オリムピア人形のことを聞いたと、
彩女あやめさんがやってきたのです――
それで式部しきべさんに連絡しました。
【式部丞】
彩女あやめ君、またぞろ話をこしらえました。
オリムピア号に関する話です。
そうだよね、彩女あやめ君?
【周防彩女】
彩女あやめ、文章がいてくるのです。
作家の先生のようにです。
言葉が連なってくるのですわ!
彩女あやめ、体の内側から、
ひっくり返りそうになるのですわ。
【江戸川乱歩】
文章がく……うらやましいですな!
私なんぞ、この一週間、
一行も書けておりませんぞ。
【式部丞】
彩女あやめ君、君のお話がどんなものか、
ここで披露ひろうしてくれるかな?
【周防彩女】
わかりましたわ、店長。
彩女あやめの筋書きがありますのよ、
三人で読みましょう。
乱歩先生がコッポラ、
式部店長がナタニエル、
彩女はオリムピア号ですわ。

三人は彩女版『砂男』の登場人物をそれぞれ演じ始めた。

【コッポラ】
晴雨計せいうけい売りのコッポラが、
学生ナタニエルの下宿を訪れる。
【ナタニエル】
ナタニエルはコッポラから、
小ぶりの遠眼鏡を買う。
それで裏窓を覗き、
窓に見えた若い女性に心奪われる。
【オリムピア】
その女性の名はオリムピア。
【ナタニエル】
ナタニエルはすぐさま交際を申込み、
二人は逢引あいびきを重ねる――
【オリムピア】
ヘッセン州ラウバッハの森に遊び、
町中では芝居しばい、オペラを楽しんだ。
【ナタニエル】
水浴すいよくに登山――
夏にはベルヒテスガーデンの山荘ヒュッテへ、
冬にはヴィンターベルクでスキー――
【コッポラ】
時に二人は危険な遊びにもいどんだ。
ガソリンバーナーに手をかざしたり、
長い時間、氷水に潜ったり――
四十度数のドッペルコルンを
何杯もあおったり、頭上の林檎りんご
投げナイフで落としたり――
ある日、二人はビュルガー塔に昇り、
遠くの景色を楽しんでいた――
【オリムピア】
オリムピアが提案しました。
この高い塔から飛び降りてみない?
最も危険な遊びでしょ?
【ナタニエル】
陽気になっていたナタニエルは、
オリムピアの手を取り飛び降りた――

石畳いしだたみ激突げきとつした二人――
オリムピアは首や手足がバラバラになり、方々に幾多いくたの歯車や弾条ぜんまいを散らばらせた。ナタニエルは墜落ついらくの衝撃で腹がけ、青黒いはらわたを広場に飛び散らせ、口や鼻から大量に噴血ふんけつしていた――

【周防彩女】
彩女あやめのナタニエルは、
オリムピアを自動人形と知らず、
とうから飛び降りたのです!!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です!

彩女の背後に濃厚なセヒラが集まり渦を巻き始めた。やがてセヒラの塊となり、あたりを包むこむ。
式部、乱歩は咄嗟とっさにその場を離れた。風魔は彩女とともにセヒラの中へ吸い込まれてしまった。

〔時空の狭間〕

【???】
何だか不思議なところだね――
君と会うのは二度目だね。
愈々いよいよ僕の出番かなと思う。
僕は千紘ちひろ――
周防すおう彩女あやめを遠ざけたから、
しばらくは僕の時間だよ。
千紘ちひろ
僕たちは響き合うのだ。
と――
でもまだ力がおよばない。
君が目覚めさせてくれるよね。
僕を目覚めさせてくれるよね。
前にもやったように。
お願いするよ!!

《バトル》

千紘ちひろ
うん……
この調子だよ。
これで少しは力がおよんだかな。

千紘の気配が消えると、風魔の周囲に町並みが姿を見せた。そこは凍てる上野黒河こくがであった。

〔上野黒河〕

【文科生Xアストラル】
新文民社しんぶんみんしゃに当局の手が入り、
我々文民社ぶんみんしゃも活動自粛じしゅく中だ。
だが手をこまねいているわけではない。
葛木かつらぎ素朴そぼく先生の回顧録かいころくを出す、
そのために資料を整理している。
素朴そぼく先生が述懐じゅっかいされたのを、
その弟子が手帖てちょうつづっていた――
それが発見されたのだ。

【法科生Qアストラル】
素朴そぼく先生は幸徳秋水こうとくしゅうすい先生のことを、
述懐じゅっかいされていた――
秋水しゅうすい先生、刑死直前のことだ。
明治四十四年一月二十二日、
素朴そぼく先生は市ヶ谷いちがや刑務所を訪れ、
秋水しゅうすい先生と面会した。
その日、秋水しゅうすい先生は茶万筋ちゃまんすじ
綿入わたい羽織ばおりを着ていた。
死刑囚に面して、
お体を大事と言うもみょうであり、
葬式そうしきの話題というのも出しづらい。
素朴そぼく先生はだんまりを決めたのだ。
すると秋水しゅうすい先生が
助け舟を出した――
僕は非墳墓ひふんぼ主義だから、
身体は海川にてて
魚腹ぎょふくやすもよし――
ニッコリ笑ってそう申されたそうだ。

【工科生Pアストラル】
爆弾の飛ぶよと見えし初夢は
千代田ちよだの松の雪折れの音
幸徳秋水こうとくしゅうすい先生の辞世じせいだ。
死刑の六年前、秋水しゅうすい先生が、
第五十ニ号事件で巣鴨に捕まり、
出獄後、桑 港サンフランシスコに外遊されたんだ。
それをお膳立てした人物がいる――
柴崎周しばさきあまねという駐米日本大使館勤めの一等書記官だ。
米国アメリカ数多あまたの無政府主義者とまじわり、
幸徳秋水こうとくしゅうすい先生はアナーキストに――その影にいたのが柴崎しばさき書記官だ。
柴崎しばさき書記官は完全なる英語を話し、
いつもぞろえの背広姿せびろすがただった――
素朴そぼく先生の述懐じゅっかいはそこで終わりだ。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号くろのはちごう――!
聞――ていますか?
セヒラ――が接近中です!

秋毫しゅうごう編集主幹アストラル】
私が活動をあきらめたとでも?
見くびってもらっちゃ困る。
何も危険を犯してまで、
演台えんだいに立つ必要はない。
ラヂオを使うのだ!
第一声に用いる草稿そうこうを用意した――
万国ばんこく労働者は眼を開け!
眼前がんぜんに新時代が訪れつつある。
広壮こうそう邸宅ていたくがあるのに橋の下に
しゃがむ必要はなく、
食物が数多あまたあるのに断食だんじきの必要なく、
毛皮でかざるのに凍死とうしするに及ばず。
理論においても実際においても、
万物ばんぶつ万人ばんにんのものであるのだ!
草稿そうこうる私がどこに身を潜めるか、
お前たち官憲かんけんにはわかるまい!
肉体は拘束こうそくできても、
たましいまでは拘束こうそくできないのだ!!

《バトル》

秋毫しゅうごう編集主幹アストラル】
権力なき自由世界の実現に向け、
私は復活をげるだろう。
その名は麦人バクニンである――
まさに、麦人バクニン誕生の瞬間だ。
神もなく、主人もなく! 
絶対捕捉ほそく不可能な麦人バクニン誕生セリ!!

【着信 喪神梨央】
黒ノくろの――帥士すいし
辺りか――ヒラ消失です。
帰還でき――か?

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん――
式部しきべさんがいらしてます。
彩女あやめさんのことで……
【式部丞】
彩女あやめ君は神経のやまいのようです。
帝大医科の蛭川泊ひるかわとまり博士に預け、
経過を観察中です。
蛭川ひるかわ博士は神経病の大の権威です。
市谷台町いちがやだいまちの立派な邸宅ていたくで、
金糸雀カナリアと暮らしておいでです。
博士曰く、彩女あやめ君の症状は、
ジャンヌ・ダルク症ではないかと。
つまりは強度のヒステリーです。
ジャンヌじょうはヒステリーを起こして、
仏国フランスの為に戦場にのぞめと幻聴げんちょうを聞き、二重人格をていしたそうです。
慢性幻覚性偏執へんしつ病と呼ぶそうです。
【喪神梨央】
彩女あやめさん、
自分のこと千紘ちひろと呼んでいました。
それも二重人格なのですね?
【式部丞】
ええ、そのようですね。
公務記録からしかわかりませんが、
彩女あやめ君の中に千紘ちひろがいるようです。
【喪神梨央】
その瞬間でしょうか……
強いセヒラを観測しました。
【式部丞】
そのセヒラによって、
芽府めふ須斗夫すとおが何かを語ったかも……
この間、第七の予言と言って、
ヒククアケ――
そう語ったのです。
この言葉の意味を、
調べないといけません。
近く古文書こもんじょ研究の先生に会います。
【喪神梨央】
そう言えば、兄さん――
柴崎しばさき一等書記官の名前を聞きました。
帝大生アストラルが話していました。
幸徳秋水こうとくしゅうすい米国アメリカ外遊をお膳立ぜんだてした、その外交官の名前としてです。
今から三十年前のことですよ――
柴崎しばさき外交官、歳を取っていない、
そうなんじゃありませんか?

まるで蜃気楼しんきろうのように現れた博覧会会場。それに触れてか周防すおう彩女あやめに異変が起きた。そして柴崎しばさき外交官という人物の謎――
帝都はまるで生き物のように、様々なものを飲み込んではしている。真実さえもがくだかれようとしていた。

第七章 第十話 釣鐘

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん、式部しきべさんがもうじき、
機関本部にいらっしゃいます。
第六の予言って、
どんな内容なんでしょうね。
淀橋よどばしの書生さん、
強いセヒラの影響で半覚半睡はんかくはんすいになり、
予言を語ったのですね、きっと。

【式部丞】
遅くなりました。
【喪神梨央】
式部しきべさん!
書生さんの予言、どんな内容ですか?
【式部丞】
ちゃんと語りました。
ちょっとぼんやりしていますが――
無垢むくな力が導くという内容です。

無垢むくなる力が
真の導きを為すであろう
――芽府めふ須斗夫すとおが語った第6の予言である。

【喪神梨央】
無垢むくな力って何でしょうね?
けがれのないということでしょうか?
【式部丞】
よこしまな考えを持たない、
あるいは誇示こじするようなことのない、
そういう力じゃないでしょうか。
【喪神梨央】
式部さん、書生さんの語るの、
目の前で聞いたんですか?
【式部丞】
芽府めふ君の寝る部屋にマイクがあって、
離れた所で録音するのです。
それを再生して聞きました。
【喪神梨央】
そうでした!
憲兵本部には最新式のマイクがある、
新山にいやまさんが言っていました。
ダイナミックマイクロフオン――
振動板を持たず、音波の強弱で、
直接発電する仕組みです。
振動板がないので、
湿気に強くてどこでも使えるって。
【式部丞】
くわしいですね!
米国アメリカでトーキー映画の撮影で、
使われるようになったと聞きました。
くだん芽府めふ君ですが、
今はまた深い眠りに就いています。
セヒラの方はどんな按配あんばいですか?
もう弱くなりましたか?
【喪神梨央】
ええ、弱くなっています。
赤坂一帯で観測しますが。
怪人の兆候ちょうこうも少しだけ……
【式部丞】
やはりそうですか……
ここに来る時、ホテル前に、
そのような人を見ました。
背広姿と学生、
二人は兄弟のようでした。
激しく口論していましたよ。
【喪神梨央】
歩三の召喚小隊……じゃなかった、
暁光ぎょうこう召喚隊でも対応できそうですが。
一応、巡視パトロールお願いします、兄さん。

〔山王ホテル前〕

【麹町の銀行員】
財布の五円、どこ行ったんだろう?
あの晩、酔っていたからなぁ……
でも、五円も使うわけがない!
【麹町の学生】
兄様あにさま、それはおかしいですよ、
きっと計算違いしています!
【麹町の銀行員】
そんなわけない!
銀行屋のこの僕が計算違いなんて、
金輪際こんりんざいするわけない!
【麹町の学生】
何です、その目は。僕を疑いますか?
…………あんまりです!
兄様あにさまこそ銀行の金に手を付けて――
【麹町の銀行員】
黙れ!! お前はいちいち生意気だ!
何でも俺の足を引っ張りやがって!
こ、こ、殺してやる!
【着信 喪神梨央】
急激にセヒラが高まっています!
注意してください!
【麹町の銀行員】
銀行の金なんぞ、しょせん
誰のものでもないだろうが!
お前まで邪魔じゃまするのか、ちくしょう!

《バトル》

【麹町の銀行員】
ふん! それしきか!
絶対にバレないようにしてやる!
【麹町の学生】
何でもかんでも僕のせいだ! 
子供の頃から、ずっとそうだ!
はぁはぁはぁ……
妹の絹代きぬよを池に突き落としたのは
兄さんなんだ……それなのに……
くそ! くそ! くそ!! もっと力を付けて
今度こそは兄さんを殺す!!
絶対にな!

【着信 喪神梨央】
隊長がお呼びです。
ホテルロビーにお願いします。

〔山王ホテルロビー〕

【帆村魯公】
じき、聖宮ひじりのみや殿下がおいでになる。
風魔ふうま咲世子さよこさんは知っているな――
【是枝咲世子】
私、殿下から是非ぜひにと言われ、
やって来ました。
【帆村魯公】
是枝これえだ大佐は独逸ドイツ国在勤帝国大使館の
駐在武官だ――
いろいろ情報をお持ちだ。

【聖宮成樹】
是枝これえだ咲世子さよこさん、
足労そくろう頂き、感謝します。
それに山王さんのう機関のお二人も。
【帆村魯公】
殿下、京都の方はいかがでしたか?
例の乙亥きのとい文書もんじょについて――
【聖宮成樹】
京都に情報はさほどありません。
あるのは歴史です。
参謀局の資料が残っていました。
明治八年にしたためられた、
地震観測要項という冊子があります。
仏蘭西ふらんすの気象学者がまとめました。
【帆村魯公】
例のシャルボー氏ですな。
乙亥きのといの年、波動を観測したという。
【聖宮成樹】
麹町こうじまち三宅坂みやけざかに、
参謀本部陸地測量部が置かれ、
その第八課が観測を引き継ぎました。
年を追うごとに波動は小さくなり、
三十年後の一九一五年、
大正四年には消えたようです。
【帆村魯公】
その八年後に関東大震災だ――
波動は地震とは無関係なようですな。
【聖宮成樹】
私もそう思います。
波動が消えた翌年、
大正五年、観測は中止になりました。
帝大の学者が考案した、
新型の地震計による観測は
続けられたのですが――
【帆村魯公】
ふむふむ……
その地震計ではセヒラは測れない、
そうなんですな!
【聖宮成樹】
シャルボー氏は乙亥きのといの年にこそ、
大きな波動が現れると言いました。
破滅的な力だとも伝わります。
シャルボー氏のそうした建言けんげんは、
忘れ去られていたようです。
乙亥きのとい文書の元だとも考えられます。
【帆村魯公】
それがゴエティアにはさまっていた――
なんとも奇遇きぐうとしか言いようがない。

魯公ろこうはシャルボーのメモ発見のいきさつを、手短に話した。そして淀橋よどばしで保護された、芽府めふ須斗夫すとおのことも語った。

【聖宮成樹】
なるほど、なるほど――
事態はある方向に
向かいつつあるようですね。
なおのこと、
お目にかけたいものがあります。
咲世子さよこさんにも是非ぜひ
【是枝咲世子】
それは父に関係することですか?
【聖宮成樹】
そうとも言えます。
さぁ、エレベーターへ。

聖宮ひじりのみやはエレベーターの階数ボタンの最下、真鍮しんちゅうふたを開き、みずのととあるボタンを押した。その時、かごの電気が消えた――

【帆村魯公】
このホテルには地下三階に、
スケートリンクがあります。
そのさらに下へ行くんですな?
【聖宮成樹】
山王機関よりもさらに深く、
地下六十八階に相当します。

そこは不思議な場所であった。高い天井の空間に釣鐘つりがね状の物がしつらえられているのだ。

〔釣鐘の間〕

【帆村魯公】
ここは一体……
目の前にある釣鐘つりがねみたいなのは、
あれは何ですか?
【聖宮成樹】
まさに釣鐘つりがねそのものです。
ナチが開発した量子兵器です。
デーグロケと呼ばれるものです。
咲世子さよこさん、昨年お父上が一時、
音信不通になられましたね。
釣鐘つりがねの移送の時期だったのです。
【是枝咲世子】
アルプスの方に行っていたと、
それだけ伺っていました。
この釣鐘つりがねはアルプスから?
【聖宮成樹】
アルプスにある光 の 庭リヒャルトガルテン――
その名の研究所で開発されました。
【帆村魯公】
この釣鐘つりがねは、一体、
何に使うのですかな?
【聖宮成樹】
釣鐘つりがねは高電圧で稼働かどうさせると
非常に強い量子場を形成します――
それがセヒラに影響します。
【帆村魯公】
つなり何ですかな、
セヒラを安定させるとか、
そういうことですか?
【聖宮成樹】
その通りです。
釣鐘つりがね稼働かどうによってセヒラが安定し、
利用が促進そくしんするのです。
【帆村魯公】
去年のホテル大工事、
この釣鐘つりがねのためだったのですな。
その頃から召喚の精度も上がった――
【是枝咲世子】
殿下、釣鐘つりがねの日本への移送いそうは、
ナチ上層部の決定なのでしょうか?
【聖宮成樹】
いえ、そうではありません――
ナチも一枚岩ではないのです。
親衛隊中将のシュタインベルク伯爵はくしゃく
反ヒトラー派であり、ナチ、独逸ドイツ
行く末を案じておられます。
やがてナチは倒され、釣鐘つりがねの技術、
英仏、挙句には露西亜ロシアに渡る――
そうなる前に日本へ運ぶことに。
【是枝咲世子】
父はその移送いそう計画に関わった、
そうなんですね?
【聖宮成樹】
陸海の垣根かきねを超えてご尽力じんりょくされ、
極秘裏ごくひり搬送はんそうまっとうできたのです。
【帆村魯公】
しかしまぁ、こいつをどうやって、
運んだのですか?
【聖宮成樹】
号第五潜水艦せんすいかんの飛行機格納筒を
改造して釣鐘つりがねを収めました。
【帆村魯公】
それは技術ですな!
それで、京都の方で管理されるのは、
この釣鐘つりがねなんですな?
【聖宮成樹】
釣鐘つりがねには四ヶ所の発電所から、
電気を送っています。
それを遠隔えんかくで管理するのです。
独逸ドイツにもセヒラを観測します。
ただ、濃度、純度――
要は質がよろしくないと。
日本のほうがはるかにすぐれている、
ユンカー博士はそう告げています。
【帆村魯公】
アーネンエルベも設立になり、
セヒラを狙う動きもあります。
【是枝咲世子】
先日、フォス大佐が父に会いに――
大佐は何か壮大な計画を持つと、
父が申しておりました。
【聖宮成樹】
あの人物は曲者くせものですね――
いや、ロマンチストと呼んでもいい。
そういう人物が事を起こすのですが。
【着信 喪神梨央】
新山にいやまさんがはらえのに来て欲しい、
そう仰っていますが――
向かえそうですか?
【聖宮成樹】
お願いします、喪神もがみさん。
瑛山会えいざんかいでは引き続き釣鐘つりがねを管理し、
その秘匿ひとくを守ります。
咲世子さよこさん、N計画の方も、
しっかりやってください。
【是枝咲世子】
ありがとうございます。
大連ダイレン特務の中条忍なかじょうしのぶさんとも協力して、
進めていきます。

〔祓えの間〕

【新山眞】
喪神もがみさん、セヒラの噴出ふんしゅつは、
今は収まっていますが、
またぶり返します。
大波のように間を置いて、
やってくるのです。
依然いぜん、セヒラ特異点があるからです。
ホテル前に現れたアストラルの言う
わだかまりですが、場所がわかりました。
戸山とやま海拉爾ハイラルです。
新しい拠点ですね。
――行けば何かがあるはずです。

赤坂哈爾浜ハルピンから帝都満洲鉄道に乗り、列車は市ヶ谷斉斉哈爾チチハル駅を通過した。

【満鉄列車長】
お知らせします。先程、定刻ていこく通り
市ヶ谷斉斉哈爾チチハル駅を通過しました。
あと、およそ十分で戸山とやま海拉爾ハイラル――
戸山とやま海拉爾ハイラルは希望の沃野よくや
しかし何かが居座ります。
遠い古い記憶です――

戸山海拉爾とやまハイラル・中央〕

そこはこれまでの帝都満洲とは異なり、希望の沃野よくやの呼び名にふさわしい場所だ。

黒手組ツルナルカБアストラル】
フェルディナント皇太子の車列、
車の数は四台だった。
狙撃銃を構えるエムは狙い定まらず――
黒手組ツルナルカДアストラル】
結局、一発も撃てなかったのだ。
大セルビア、統一か死か!
同志Чチェはフェルディナント皇太子の
車めがけてダイナマイトを投げ込む。
しかし導火線が燃え続け遅爆だった。
黒手組ツルナルカШシャアストラル】
皇太子の付き人の乗る後続車が、
爆発に巻き込まれたのだ。
大セルビア、統一か死か!
フェルディナント皇太子は、
怪我けがした付き人を見舞うべく、
市庁舎を出ると予定を変更した。
皇太子の車はラテン橋のところで、
道を誤り、バックで戻った――
大セルビア、統一か死か!

黒手組ツルナルカЧチェアストラル】
同志Пは素晴らしい!
遂にフェルディナントをはいしたのだ!
セルビア人の宿敵をな!
奴は、同志П咄嗟とっさの判断で、
見事に目的を果たした、
素晴らしい――
だが、俺はどうだ?
投げた爆弾は遅爆になり、
その後、青酸を飲むも自殺に失敗!
俺はその時で止まっている!
俺はセルビアの英雄にすらなれない!
そんなことがあっていいのか!!

《バトル》

黒手組ツルナルカЧチェアストラル】
俺は……俺は……
どうなるのだ?
大セルビア、統一か死か!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
近くにセヒラの塊を観測します。
警戒してください!

黒手組ツルナルカФエフアストラル】
同志Пはラテン橋近くのレストラン、
リベ・イ・メサでサンドウィッチを
食べようとしていた――
その時だ、皇太子を乗せた車が、
店の前をゆっくりバックしていく。
同志П躊躇ためらうことなく撃った!
皇太子と皇太子妃が倒れた。
大セルビア、統一か死か!

黒手組ツルナルカЖツェアストラル】
同志Пの銃にはダムダム弾が
装填されていた――
ハーグ陸戦条約で禁止された弾だ。
ダムダム弾は人体に入ると、
中で大きく破裂して致命傷ちめいしょうを与える。
大セルビア、統一か死か!

黒手組ツルナルカЮアストラル】
同志Пにダムダム弾を渡したのは、
ダミアン・イリッチという男だ。
その弾は柔らかな水銀でできていた。
同志Пはイリッチに会うのは初めてで、
いぶかしく思ったが水銀弾を渡され、
皇太子暗殺の意欲が湧いたという。
イリッチは歳の頃三十代半ば、
三つ揃えのスーツを着こなし、
ベネチアンマスクを着けていた――
同志Пはそのように語っていた。
大セルビア、統一か死か!

黒手組ツルナルカПアストラル】
暗殺の後、俺はとらえられた。
青酸は効かなかったのだ。
収監しゅうかんされた俺は結核を悪化させた――
結核菌が右腕のずいに入り腕を切断、
その瞬間に俺は飛んだ。
以来、ここを彷徨さまよう――
暗殺以降、オーストリアはセルビアに
宣戦布告して戦争が始まる。
俺の希望は統一だ、戦争ではない!
まるで世界大戦争の原因となった、
そのような言われようは許しがたい!
大セルビア、統一か死か!!

《バトル》

黒手組ツルナルカПアストラル】
――教えてくれ……
あのラテン橋、名前が変わったと……
どう呼ばれているんだ?
俺が皇太子を撃った、
そのそばかっていた橋だ!
――なんと呼ぶ……
【着信 喪神梨央】
セヒラの特異点は解消したようです。
本部へ帰還してください。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
記録を確認中ですが……
ちょっと混乱します。
【帆村魯公】
無理もない。
なにせサラエボ事件の話だ。
サラエボ人青年団の思念だろう。
【喪神梨央】
最初の爆弾で付き人が怪我けがして、
見舞うため予定変更したんですね、
皇太子夫妻は。
それで道を間違えたところに、
暗殺犯が居合わせた――
ガヴリロ・プリンツィプです。
【帆村魯公】
黒手組ツルナルカПアストラルがその本人だな。
他は黒手組ツルナルカの仲間に違いない。
――気になることが……
暗殺犯に水銀弾を渡したのは、
三つ揃えの背広の男と言っていたな。
どこかで聞いたことがある。
【喪神梨央】
アナーキストの葛木かつらぎ素朴そぼくのときです、
彼にクロポトキンの本を渡した人物、
三つ揃えの背広姿の紳士でした。
一九〇五年のことです。
サラエボ事件は一九一四年――
同一人物でしょうか?
【帆村魯公】
当時三十五歳くらいとして、
今年、六十五……
そんな老人が何かに関わるのか?
葛木かつらぎ素朴そぼく幸徳秋水こうとくしゅうすいに本を貸し、
秋水しゅうすいはアナーキストになる――
そして大逆たいぎゃく事件を企てる。
【喪神梨央】
サラエボ事件は、
世界大戦争の引き金になった――
【帆村魯公】
どちらも、
混乱や破滅への道筋を描く――
背広男が同一人物であるなら、
同じような動機の存在が伺えるな。
【喪神梨央】
プリンツィプの思念が言ったこと……
ラテン橋は事件後に名前が変わって、
プリンツィプ橋になりました。
彼はセルビア人の間では、
英雄視されています。

帝都満洲ではサラエボ事件に関わる思念が、いくつも集い、セヒラのよどみを生んでいた。大波のようによどみから発する強いセヒラ――
強いセヒラは、同時に芽府めふ須斗夫すとおに作用して、彼を半覚半睡はんかくはんすい状態とし予言を語らせる。そして地下深くに鎮座ちんざするナチの秘密兵器。さまざまな事柄をからませながら、帝都は静かに晩夏ばんかを迎えていた。

第七章 第九話 芽府須斗夫

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん……
今日、歩一の警護車両が東京駅に。
要人でも来るんでしょうか?
【帆村魯公】
先ごろから車両運用は車両課で
管理するようになったからな。
車両課の計画は我々にも伝わる。
それで、どんな様子なんだ?
【喪神梨央】
乗用車二台、トラックは……ナシ。
今日の午後に予定されています。
この後だと特別急行さくら号です。
京都を八時四一分に出て
東京には午後四時四〇分着です。
【帆村魯公】
梨央りお、思うんだが、
省線しょうせん時刻ダイヤにやけに詳しいな!
【喪神梨央】
去年一ニ月に時刻改定がありました。
丹那たんなトンネル開通で東京大阪間はニ〇分短縮されたんです。

【式部丞】
どうにもらちきません――
【帆村魯公】
淀橋よどばしで見つかった書生のことですな。
それで、どうなりましたかな、
――芽府めふ須斗夫すとおは。
【式部丞】
彼は今、深い眠りにいています。
【帆村魯公】
憲兵隊本部に移送されて以来、
一度も起きていないと?
【式部丞】
何度か目は覚ましたようですが、
すぐ、深い眠りに落ちてしまう、
そんな様子だそうです。
【喪神梨央】
無理やり起こしちゃダメなんですか?
【式部丞】
彼は半覚半睡はんかくはんすいの状態でこそ、
あの予言を語るようです――
目覚めた時、何もおぼえていないと。
米国にエドガー・ケイシーという、
予言者がいるのですが、
ほとんど同じ様子だと思います。
【帆村魯公】
つまり半覚半睡はんかくはんすいで予言する?
【式部丞】
ケイシーの場合は深い催眠さいみん状態です。
静かに横になり、威厳のある声で、
様々なことを語ります――
ケイシーは相談者の悩みを聞き、
想像だにしなかったことを語り、
相談者の人生をひらいていきます。
【喪神梨央】
――何だか人生よろづ相談みたい……
【帆村魯公】
これ、梨央!
茶化ちゃかすんでないぞ。
【式部丞】
ケイシーのその能力は、
主に病気の治療にあてられました。
近年は霊能力者として活躍します。
【帆村魯公】
淀橋よどばしの書生は、質問に答える恰好かっこうで、
予言を語るのかな?
【式部丞】
予言を聞いた者によると、
特に質問はしないそうです。
勝手に語り始めたとか。
でも質問で聞き出すことも考え、
ある医者を呼んでいます。
アレクサンダー・ヨネダという、
日系米人の医者です。
彼はケイシーの研究家でもあります。
【帆村魯公】
覚えのある名のような――
さて、何をした人じゃな?
【式部丞】
今年、本を出しました。
宇宙よりの意識という題名です。
新聞に書評も載りましたよ。
【喪神梨央】
その書評、読みました!
瞑想めいそうして宇宙の意識を呼び込むと、
人生が変わるんです――
【式部丞】
一ツ橋の憲兵司令前で、
ドクターヨネダと落ち合います。
喪神もがみさん、ご一緒されますか?
【帆村魯公】
うむ、是非ぜひにな。
予言とやらがいらぬ連中に、
知れては困るのでな。
【喪神梨央】
東京憲兵隊本部はこの七月、
麹町こうじまち竹平町たけひらちょうに移転したばかりです。
最寄もよりの電停は一ツ橋ひとつばしです。
早速、公務電車を手配します。
さっきの要人ですが、
なんとなくわかりました――
【帆村魯公】
ほう、誰なんじゃい?
【喪神梨央】
聖宮ひじりのみや殿下だと思います。
京都から殿下が戻られる、
きっとそうです!

〔東京憲兵隊本部〕

憲兵司令部、憲兵練習所、東京憲兵隊本部は、この七月、大手町から麹町こうじまち竹平町たけひらちょう竣工しゅんこうした、新庁舎へと移転した。

【式部丞】
この憲兵隊本部、
新しくできたんですね。
以前は大手町おおてまちにありました――
麹町こうじまち憲兵分隊も移ってきたようです。

憲兵司令部、憲兵練習所、東京憲兵隊本部は、この七月、それまで所在した大手町おおてまちから麹町こうじまち竹平町たけひらちょう竣工しゅんこうした新庁舎へと移転した。麹町こうじまち憲兵分隊。大震災の混乱に乗じ逮捕たいほしたアナーキストの大杉栄おおすぎさかえ、内縁の妻伊藤いとう野枝のえを、尋問室で殺害して裏井戸に投げ入れた――
いわゆる甘粕あまかす事件のあった場所である。当時、分隊が麹町こうじまち大手町おおてまちにあったため、麹町こうじまち分隊と称されていた。

【雪ヶ谷の娘】
町内の善三ぜんざさま、憲兵少尉におなりに。
すっかり素敵な青年将校さまですわ。
でもおかしいの――
渋谷憲兵大隊の本部ってところ、
まるで活動館みたいでしたわ。
【式部丞】
つまり映画館のようだと?
そこも憲兵隊の本部ですよ、
場所違いではないですか?
【雪ヶ谷の娘】
玉川電車の渋谷道玄坂どうげんざか上電停前、
ちゃんとうかがいましてよ。
さらのビルヂングはありました――
でもやはりあれは活動館ですわ。
紅楼夢こうろうむのぼりがずらーっと並んで、
それはそれは華やかでしたわ!
甲楽城かぶらぎ善三郎ぜんざぶろう憲兵少尉……
一目ひとめでもお姿拝見しとうございます。

【噂好きの学生】
東京憲兵隊本部、立派なもんです!
いやね、ちょっと小耳に、
挟んだんですけどね――
お堀側に秘密の隧道すいどうがあるってね。
【式部丞】
あまりそういう風評に流されるのは、
好ましくないですね。
場所が場所ですよ、学生さん。
【噂好きの学生】
え? そうなんですか――
その隧道すいどうは地下牢に繋がっていて、
常に入るきりの一方通いっぽうとおりだそうです。
わぁ、にらまないでください!!

【アレクサンダー・ヨネダ】
式部しきべさんですね?
アレクサンダー・ヨネダです。
【式部丞】
ドクター・ヨネダ!
足労そくろう頂き、感謝します――
ここはすぐわかりましたか?
【アレクサンダー・ヨネダ】
新しく立派な建物です。
道でお二人の様子をうかがっていました。
それで我がリーダーはこの中ですか?
【式部丞】
リーダー?
それはひきいる者ですか?
【アレクサンダー・ヨネダ】
読み解くリーディングという意味です。
変性意識によって宇宙と繋がり、
あらゆる真理を読み解くのです。
【式部丞】
それならこの中です。
尋問室の隣で眠ります。
【アレクサンダー・ヨネダ】
まず目覚めさせましょう。
そのとき、二人くらいがいいです。
あまり大勢だと困惑させます――
【式部丞】
わかりました――
喪神もがみさん、ドクターと私が、
彼を目覚めさせます。
その後、お呼びします。

【渋谷憲兵大隊恋瀬川こいせがわ少尉】
探したぞ! 
貴様!
山王さんのうの山猿めが!
藍住あいずみのおかしくなったのは、
貴様のせいだろ!
渋谷憲兵大隊藍住あいずみ少尉のことだ!
乱歩らんぽ三文さんもん小説なぞに夢中になり、
四肢ししを失いある須永すなが中尉が
どうしたこうしたとつぶやく――
酒も飲まぬにあらぬことばかり
口走るようになり、
今や常にうつろの状態だ!
幼年学校も士官学校も首席だった、
あの聡明そうめい藍住あいずみの面影は微塵みじんもない!!
貴様がせいで藍住あいずみが……
――あああ、くそっ!!
我が友を返せ!!

《バトル》

【渋谷憲兵大隊恋瀬川こいせがわ少尉】
玉の外側に水銀を塗って、
その内側を一面の鏡にすること――
あああ、私の正気が失われるぅぅぅ~

〔憲兵隊本部尋問室前〕

【式部丞】
ここで待ちましょう。
先程、ドクターが起こしました……
じきにここへ来るはずです。
【芽府須斗夫】
向かいの公園からの風が、
心地いいね――
【式部丞】
向かいのとは……
つまりは宮城きゅうじょうのことかな?
【芽府須斗夫】
池の向こうにある公園だよ。
この部屋には風が吹かない――
【式部丞】
ところで、今、気分はどうかな?
よく眠っていたね――
【芽府須斗夫】
この世には哲学でさえ、
及ばないことがある――
【式部丞】
ん?
それは……
ハムレットの台詞かな――
この天地にはお前の哲学さえ、
及ばぬことがあるぞ、
ホレイシオよ――
ハムレットが友人である、
ホレイシオに言った台詞です。
芽府めふ君……
君は沙翁さおうが好きなのかね?
英吉利イギリスの劇作家の――
【芽府須斗夫】
ふと浮かんだんだ。
ここに来て四回目覚めた――
いろいろのこと、わかってきた。
【式部丞】
いろいろの?
それは、何についてだい?
【芽府須斗夫】
君たちはを召喚して戦う。
この町にはセフィラが豊富で、
それを狙う勢力もある――
君たちの国の軍隊は、
を人にけしかけられれば――
そういう淡い希望を抱いている。
でもまだ実現できていない。
【式部丞】
短い時間で随分とわかったんだね。
それも、頭の中に浮かんだのかな?
【芽府須斗夫】
すでに知っていたとする方が、
適切かな、この場合は。
町のセフィラが強くなると、
市民の恐怖心から出たものが、
いつの間にか実体を持つ――
それでますます恐れが蔓延まんえんして――
繰り返しているんだよね。

【式部丞】
何でしょうか、今の音は?
【芽府須斗夫】
多分、あの医者だよ。
僕が目覚めた時、何かを感じた、
そうなんじゃないかな?
【式部丞】
ドクター・ヨネダはどこですか?
姿が見えませんが――
【芽府須斗夫】
向かいの監視室なんじゃないかな?
ひとごと言いながら、
尋問室出ていったから――
あの医者、
手が小刻こきざみにふるえていたよ!
【式部丞】
ドクター、大丈夫でしょうか――
風魔さん、お願いできますか?

〔東京憲兵隊本部〕

【アレクサンダー・ヨネダ】
彼は途方とほうもない――
ものすごく深いところに繋がる!
その奥底を私は見てしまった!

彼はあらゆる者だ、
時を超越した存在だ!

彼は転生を繰り返す――
ソドムの衛戍兵えいじゅへい、ゴリアテの愛弟子まなでし
カペナウムの百卒長ひゃくそつちょう、ウルの神官――
時を越えたおののきが、
私を、私を、私を満たしていく!!

《バトル》

【アレクサンダー・ヨネダ】
ついに私は満たされた――
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
帝都満洲にセヒラの特異点です。
はらえのに来てください!

〔山王ホテル前〕

はらえのに向かうべく山王さんのうホテルに戻った時、ホテル前にセヒラ異常が発生していた。

【帆村魯公】
帝都満洲どころじゃないぞ、
帝都にセヒラ異常が起きた!
風魔ふうま
セヒラ球の中に何か見えるぞ!

【バーナードチャンのアストラル】
何かの勢いが私を押した――
現世の私は長い眠りに就く。
私はフリーダイップの同業だ――
香港ホンコンの風水師だ。
帝都満洲に蟠踞ばんきょするものがある。
とてもとても大きい――
私がめている。
しき気の脈筋みゃくすじを築いた。
さぁ、私を退しりぞけ、わだかまりを解くのだ。
しき気脈きみゃくの向かう先、うしの方位だ!
【着信 新山眞】
皇女和宮かずのみやのときは、
帝都満洲にてセヒラの壁を崩し、
帝都へのセヒラ奔流ほんりゅうを防ぎました。
今度は違います!
帝都にセヒラを流すというのです。
そんなことをしたら――
【バーナードチャンのアストラル】
案じるな!
しき気脈きみゃくは流れ込む先がある。
私はもう限界なのだ!!

《バトル》

【バーナードチャンのアストラル】
風水の龍穴りゅうけつは陽の気に満ちる。
だがこれは陰の気――
しき陰の気脈きみゃくだ。
その気脈きみゃくそそぐ先、うしの方位、
距離、およそ二十四町だ――
【帆村魯公】
アストラルだ――
まことに……アストラル……
まさか現出するとは――
目の錯覚さっかくではあるまい。
おぼろな命に蘇る息吹いぶき……
なんとも美しい……はぁ……
風魔ふうまや、聞いたか!
セヒラの流れ込む先、ここより北北東に、およそニキロ半――

【???】
ニャンニャンニャ~
【バール】
ここは帝都かニャ?
それにしてもすごいセヒラだニャ!
――何だか体がムズムズするニャ!

うわぁ、何だニャ!
びっくりするニャ!

何だ? 何だ? 
ニャニャニャ?

【進化バール】
バールは俺だ、
よろしく頼むぜ!

〔山王ホテル前〕

【帆村魯公】
ここより北北東に、およそニキロ半――
その方角と距離だと、
ちょうど憲兵隊本部の位置だな!
そこにセヒラが流れ込むのか!
芽府めふ須斗夫すとおがセヒラを求めるのか――
そうとしか考えられんな!

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
赤坂の方々で同時にセヒラを観測!
見附! 一ツ木通! 李王邸りおうてい
清水谷しみずだに公園でも――
セヒラは一ツ橋にある憲兵隊本部へ、
流れ込んでいる模様です!
【帆村魯公】
すると、界隈かいわいには漏れ出てはいない、
そういうことか?
【喪神梨央】
探信儀たんしんぎではそううかがえます。
新山にいやまさんがくわしく計測すると、
先程、出ていかれました。
【帆村魯公】
アストラルとなった風水師が、
気脈きみゃくを繋いだので、セヒラが
帝都に氾濫はんらんするのを防げておるわけだ。
【喪神梨央】
向かう先は芽府めふ須斗夫すとおですね。
予言を語るには強いセヒラがいる、
そういうことなんですね。
【帆村魯公】
ふむ……彼は果たして日本人か?
――日本のことを知らなかったぞ、
宮城きゅうじょうを公園と呼んだりしてな。
【喪神梨央】
お堀を池とも言っていました。
【帆村魯公】
外国の思念が実体化したりすると、
ややこしいことになりそうだ。
【喪神梨央】
でも隊長、さっきのアストラルも、
外国人です、きっと香港ホンコンの人です。
ようさんの知り合いと言っていました。
【帆村魯公】
確かに、そうであったな……
香港ホンコンの……アストラル……
いやはや――
アラヤ界に繋がるのは、
何も我が方だけではないな――
世界中が繋がっておるのだな!
今は式部しきべ氏からの連絡を待とう。
じき、来るだろ。

程なく式部しきべから一通の電報が届けられた。
ダイロク ノ ヨゲン カタレリ
電報には第六の予言語れりとあった。

第七章 第七話 化身降臨

〔山王機関本部〕

またしても新宿で騒動が持ち上がった。悪魔の化身とされる荒神あらかみが降りたという。憲兵が急行し物見遊山ものみゆさんの市民も集まっていた。

【喪神梨央】
兄さん、新宿に荒神あらかみが現れたって、
もっぱらの噂ですが、
本当なんでしょうか?
【九頭幸則】
歩一への連絡だと、
渋谷憲兵隊が出動したらしい。
【喪神梨央】
また渋谷の隊なんですか?
【九頭幸則】
そうみたいだよ――
よろづ相談所の件以来、
渋谷が所轄しょかつを広げたんだよ。

鉄道省病院の向い、人生よろづ相談所。摘発てきはつを受けたその場所は渋谷区にあった。渋谷憲兵隊の権益けんえき拡大の契機けいきとなった。

【九頭幸則】
渋谷憲兵大隊の本部、
ものすごく立派なんだよ――
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさん、行ったんですか、
渋谷憲兵大隊の本部に。
【九頭幸則】
この間、渋谷に出向いたついでにな。
公務入口というのがあったから、
そこから中へ入った――
【喪神梨央】
ええ?
幸則さん、勝手に憲兵隊本部に、
入って行ったんですか?
【九頭幸則】
公務としてだな……
そうしたら――
【喪神梨央】
逮捕たいほされて処置室送りですか?
【九頭幸則】
梨央りおちゃん――
係員に部屋に通されたんだ。
英吉利イギリス洋館みたいな優雅ゆうがな部屋だ。
そこに憲兵大隊安寧あんねい課少尉係長、
そういう肩書の憲兵がやって来て、
渋谷大隊の案内を受けたんだ。
【喪神梨央】
どんな案内を受けたんですか?
――憲兵隊本部の施設とか?
ついこの間、麹町こうじまち竹平町たけひらちょうに、
新築なった東京憲兵隊本部には、
すごい施設があるそうです――
くるぶしまで水の貯まる独房とか、
弱い電流の流れるベッド、
それにガラスびんを割る音波装置――
タボナール剤を一斉噴霧ふんむができる、
シャワー室もあるそうです。
【九頭幸則】
何だい、そのタボナール剤って?
【喪神梨央】
陸軍軍医学校が開発した、
強力な睡眠剤らしいです。
三週間も眠り続けるそうです。
【帆村魯公】
おう、中尉、来ておったか?
【九頭幸則】
先生、新宿で――
【帆村魯公】
うむ、荒神あらかみ騒ぎだな?
軍では悪魔と称しているぞ。
【九頭幸則】
憲兵も出ています。
例によって渋谷大隊です。
【帆村魯公】
前は陰陽師おんみょうじの憲兵まで繰り出し、
ねずみ一匹、出てこなかったな――
今日はどうなんだ?
【喪神梨央】
らぎはありますが、
セヒラを観測します。
公務に向かいますか?
【帆村魯公】
そうしてくれ、風魔ふうま
梨央、公務電車だ。
中尉はどうする?
【九頭幸則】
憲兵のこと、気になります。
風魔に同行します。

〔新宿駅前〕

【九頭幸則】
憲兵なんて見当たらないぞ、風魔ふうま
ここにいる人はどうなんだ?

【四谷の小間物商】
――あの噂は本当なんでしょうか?
アレですよ、悪魔の化身――
そう言うんでしょ?
悪魔の化身が新宿に出るって。
【九頭幸則】
なぜそんなにくわしいんだ?
新聞には荒神あらかみとあったぞ。
【四谷の小間物商】
ひょひょひょ~
新聞ですか!
新聞なんぞ嘘っぱちです!
うちはね、東京憲兵隊におろします、
購買課長の大尉様がですね、
こっそり教えてくれたんです。
【九頭幸則】
何? 誰だ、その大尉は?
情報の漏洩ろうえいか!
【四谷の小間物商】
んまぁ~吃驚びっくり
いやね、金の工面くめんを頼まれましてね、
百円ばかりね、大尉様にお渡しを――
その引き換えに悪魔の化身のこと、
教えてくれました!
猟奇グラフにでも投稿します!
投稿大賞もらうと、賞金百円ですわ!
【九頭幸則】
――情けない……
規律が……なっていない!

【中野の書生】
僕を書生として預かる親父さん、
代々、職業軍人です。
今、陸軍憲兵学校の副校長です。
【九頭幸則】
階級は何だ?
【中野の書生】
親父さんですか?
少佐ですよ――
乙亥きのとい文書というのがあるんでしょ?
小耳に挟みましてね!
【九頭幸則】
その親父さんが口を滑らせたか?
【中野の書生】
お上さんには内緒の二号さんがいて、
それ、実は僕の姉なんです――
だから、しとねの話、筒抜けなんですよ。
姉は話を聞き出すのがうまくて、
おかげで僕は日本の将来まで、
すっかり見通せていますよ。
【九頭幸則】
どういうことなんだ?
【中野の書生】
日本は米英と全面戦争になり、
帝都も商都もみな空襲で焼け野原、
新型爆弾で完全降伏ですよ!
【九頭幸則】
貴様! 
何を根拠にそのようなことを言うか!
【中野の書生】
露西亜ロシアに調停を頼むと失敗します。
不可侵条約を破りますよ、連中は。
僕は先を見通している――
今からせっせと資金を貯めて、
焼け野原の銀座に土地を買いますよ!
【九頭幸則】
焼け野原――
初めて聞いたぞ、そんな言葉……

荒木町あらきちょう女将おかみ
うちの店は陸軍省の常連さんがいて、
すっかり耳達者みみだっしゃになりましたわ!
【九頭幸則】
おそらくまた情報の漏洩ろうえいだな――
荒木町あらきちょう女将おかみ
六十年に一度、
乙亥きのといの年に魔物が出る、
そういうんでしょ?
【九頭幸則】
風魔、聞いたか?
魔物だってよ――
この人はあまり詳しくはないようだ。
荒木町あらきちょう女将おかみ
前の明治八年には現れなかった、
そうなんでしょ?
うふふふ~
北枕宣一きたまくらせんいちの文書はでっち上げ、
そういうことになってるそうですわ!
【九頭幸則】
何だか妙に詳しいな……
もっと聞き出すか?
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です!
警戒してください。

化女沼けじょぬま憲兵大尉】
貴様が山王さんのう機関の召喚師か!
それと歩兵中尉だな!
【九頭幸則】
大尉!
新宿はどういう状況ですか?
化女沼けじょぬま憲兵大尉】
悪魔の化身が降りた!
ハハハハハ~
文書は予言的中させたんだ!
【九頭幸則】
北枕宣一きたまくらせんいちの書いた乙亥きのとい文書は、
偽物だと言われています!
悪魔の化身がやって来るなど――
化女沼けじょぬま憲兵大尉】
アハハハ~
やって来などしない!
降りたのだ、この俺にな!

《バトル》

化女沼けじょぬま憲兵大尉】
ううう~
魔導の書があれば悪魔と合一ごういつする、
そのはずじゃないのか……
大日本おおやまと 神代かみよゆかけて伝へつる 
雄々おおしき道ぞ たゆみあらすな

【九頭幸則】
本だ!
これは……ゴエティアじゃないのか?

憲兵怪人が落とした古書は、まさにゴエティアの偽典ぎてんであった。

【九頭幸則】
さっきの憲兵は魔導の書と――
風魔、これゴエティアだよな!
【着信 喪神梨央】
辺りのセヒラ、ほぼなくなりました。
ゴエティアの偽典ぎてん
見つかったんですね!
つた博士に届けないと――
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
帝大方面、わずかにセヒラ観測!
急ぎ、向かってください!
【九頭幸則】
風魔、行こう!
帝大だ!

〔帝大キャンパス〕

【九頭幸則】
何だか落ち着かない様子だな!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ確認しました!
一般中尉も用心してください!
【九頭幸則】
一般って!
これでも歩一の――

【法科生D】
新文民社の連中、
芋蔓式いもづるしきに特高に検挙けんきょされた!
長崎の実家に逃げ帰った者は、
長崎県警察部の特高課に逮捕たいほされた。
特高は実家で待ち受けていたという。
貿易会社の影森かげもりなる人物が、
会員の名簿を作っていたらしい。
我々の名も載っているという。
【九頭幸則】
影森かげもり
まさか影森愁一かげもりしゅういちか?
【法科生D】
何だ、あんたらも仲間だろ!
頽廃たいはい国家を立て直す我々を、
非国民扱いしやがって!
【九頭幸則】
おい、早まるな!
――って、もう遅いか!

《バトル》

【法科生D】
影森かげもり……愁一しゅういち……
そいつが内務省の間諜かんちょうだ、
間違いない……ううう……
【九頭幸則】
影森かげもり愁一しゅういちって、
一時いっとき、俺のお目付け役だった人だ。
一度も会ったことはないんだ……
報告書を一通、上げただけだ。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
あたりのセヒラは消えました。
つた博士の元へ、お願いします。

つた博士研究室〕

【蔦博士】
ほほ、喪神もがみ君!
久しぶりに顔を見るな!
【九頭幸則】
博士、ゴエティアの書、
また見つかりました!
【蔦博士】
ほう!
もう見つからないかと――
どれどれ、拝見しよう。

九頭くずは大切に抱えてきた、
ゴエティアと思しき古書を差し出した。

【蔦博士】
ほう!
なるほど――
これは……
【九頭幸則】
博士、ゴエティアの偽典ぎてんですか?
【蔦博士】
まさしく、これは本物じゃな!
今までのどれよりも状態が良い。
大切にされてきたんじゃな!
【九頭幸則】
憲兵怪人が持っていました。
魔導書で力を得たと言って――
【蔦博士】
魔導書!
ふむ、あながち間違いではないがな。
しかし綺麗だ、まるでさらじゃな!
【九頭幸則】
博士!
何か落ちましたよ!
【蔦博士】
何じゃこれは……
――ふむ、誰かのメモランダムじゃ、
何と書いておるかのう……

そのメモには几帳面きちょうめんな字が認められていた。そして、H、SCHARBAUのサインが。外国人が書いた日本語のようであった。

【九頭幸則】
博士、何と書いてあるんですか?
【蔦博士】
間断かんだんなき波動をみとむ。
新しき天地の生まるるがごとく。
【九頭幸則】
波動……
それってセヒラの波動でしょうか?
【蔦博士】
サインにあるシャルボー氏は、
仏蘭西フランスから招いた気象学者じゃ。
氏は地震観測を優先すべきとした。
明治八年、内務省地理寮内に、
地震計を設置、観測を始めた――
【九頭幸則】
それじゃ、シャルボー氏の言う、
間断かんだんなき波動とは地震のことですか?
――博士!
どうかされましたか?

【蔦博士】
我々は宇宙の意志を継がねばならん!
我らが支配者アヌンナキに従い、
金を掘るのだ! 盛大せいだい掘るのだ!
金の蒸気でニビルの星をおおうのだ!!
【九頭幸則】
博士!
落ち着いてください!

【着信 喪神梨央】
新宿の淀橋よどばし自失じしつした書生を保護!
書生、予言めいた言葉を吐き、
戸山とやま衛戍えいじゅ病院で保護しています!
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
戸山に向かってください!

【蔦博士】
――おお、何だ、今の音は?
そうか、わしが……
【九頭幸則】
博士!
大丈夫ですか?
ゴエティアの解読、お願いします!
【蔦博士】
ああ、わかった……
しっかりと読み解こう。

〔陸軍戸山とやま衛戍えいじゅ病院〕

【九頭幸則】
何だか随分ずいぶんと物々しいな……
【第一連隊死人沢しびとざわ二等兵】
はっ!
自分、歩一第六十中隊、
死人沢しびとざわであります!
【九頭幸則】
歩一の九頭だ。
淀橋よどばしで保護された書生、
ここにいるのか?
【第一連隊死人沢しびとざわ二等兵】
いえ……
あの……その……
――ここにはおりません!
【九頭幸則】
それは変だな?
誰がいないんだって?
【第一連隊死人沢しびとざわ二等兵】
はっ、自失した書生であります!
【九頭幸則】
予言めいたことを言う書生だな?
【第一連隊死人沢しびとざわ二等兵】
はっ!
あ、いえ、その……
どうしようもないんです!
父が借金まみれで田畑を売っても、
焼け石に水で!! あああああ!!

《バトル》

【第一連隊死人沢しびとざわ二等兵】
はぁはぁはぁ~
もう、何も売るものがない……

【式部丞】
お二人、ちょっとよろしいですか?

〔陸軍戸山とやま衛戍えいじゅ病院〕

【式部丞】
新宿に悪魔の化身が現れるとか、
そんな噂が飛び交う中で、
一人の書生が保護されました。
【九頭幸則】
その書生が悪魔の化身なんですか?
【式部丞】
わかりません――
ただ、予言めいたことを口走り、
すぐ、昏睡こんすい状態になったとか……
山王さんのう機関からの要請で、
書生の言葉を研究するため、
この病院に来たのですが――
【九頭幸則】
直接は聞けなかったんですね?
すでに昏睡こんすい状態になっていた……
【式部丞】
ええ、そうなんです。
書生が語ったのは、
次のようなことです――
世界は光と闇によって
分かたれるであろう

世界は光と闇の天秤てんびんによって
計られるであろう
――芽府めふ須斗夫すとおが語った第5の予言である。

【式部丞】
第五の予言を申します、
そう宣言して言ったそうです。
【九頭幸則】
へぇ……そうなんですね!
それで世界が二つに分かれる……
そう言うんですか?
【式部丞】
まぁ、そのようです。
これだけではいたって普通ですね。
【九頭幸則】
え? 本当ですか?
世界の分裂が普通に語られている?
――それはどこで?
【式部丞】
世界の多くの宗教、文化に共通した、
終末のイメージです。
世界を支配する闇、混沌こんとん到来とうらい
そして悪魔の出現――
あの書生が語るのは、
終末の予言だと思うのですが、
もう少し聞き出さないといけません。
一般に、神託しんたくを得た者が語るのは、
言葉を預かると書いて預言、
あの青年の場合は言い当てる方です。
【九頭幸則】
未来を言い当てるわけですね。
未来は悪魔が支配するのですか?
悪魔というのは、
もっと、人をあやめたり、
わざわいをもたらす存在なのでは?
【式部丞】
それは違います。
悪魔は混沌こんとんを好むのです。
直接、手出しはしないのです。
秩序ちつじょを失った世界では、
人は本性をあらわにします。
悪魔はそれを望むのです、
【九頭幸則】
つまりは、たがが外れると?
悪魔の目的はそれなんですか?
【式部丞】
ええ、そうですね――
人に危害を加えるのは人間なのです。
悪魔は人の心にこそ潜むのです。

ほら、見てください、
東京憲兵隊のトラックです。
書生を本部に移送するようです。

【式部丞】
保護された書生は不思議な名です。
芽府めふ須斗夫すとお――
芽府めふが名字で須斗夫すとおが名前、
そう扱われています。
書生のズボンに入っていた、
手巾ハンケチにその名の刺繍ししゅうがあったのです。

〔山王機関本部〕

【帆村魯公】
淀橋よどばしで見つかった書生、
浄水池の土手に座っていたらしい。
何時間もそうしていて、
不審ふしんに思った係官が通報した――
【九頭幸則】
予言のようなことを言ったとか。
【帆村魯公】
書生は東京憲兵隊の本部だ。
式部しきべ氏を向かわせた。
予言が続けばしめたものだ。
【喪神梨央】
芽府めふ須斗夫すとおなんて、変な名前ですね。
【九頭幸則】
手巾ハンケチ刺繍ししゅうがあったらしい。
【帆村魯公】
芽府めふ須斗夫すとお、その名から、
悪魔メフィストフェレスに通じる――
参謀本部ではそうとらえているようだ。
独逸ドイツの作家、ゲーテの手になる戯曲、
ファウストに登場する悪魔、
メフィストフェレスだ――
【喪神梨央】
ファウスト博士は悪魔と契約します。
魂と交換に快楽の人生を手に入れる、
そんなお話ですね。
【九頭幸則】
梨央りおちゃん、よく知ってるね!
だとすると……
その書生自身が……
――悪魔の化身ですか?
【帆村魯公】
わからん――
かれておるだけのようにも思える。
あるいは――
思念が形を成した――
和宮かずのみやのときのようにな。
今後の調査を待つしかないな。

淀橋よどばし浄水場で保護された謎の書生――独逸ドイツ戯曲の悪魔に通じる名を持ち、予言めいた言葉を口にする。書生は東京憲兵隊本部に移送され、式部丞しきべじょうにより調査が始まろうとしていた。