第九章 第九話 ヴンダー

〔猟奇倶楽部・左閲覧室〕

そこは階段状に椅子が3段に並ぶ、
小さな劇場のような部屋であった。
正面はガラス張りでカーテンが引かれている。

風魔ふうまが椅子から立ち上がると、
白衣姿の人物が姿を見せた。

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうであった――

【柄谷生慧蔵】
気が付きましたか――
頭痛や吐き気はありませんね。
何しろ酷いセヒラでしたから。
黒頭巾はセヒラを防ぐのですが、
さすがに危険でした――

物理一筋の私が、
科学に限界を感じ始めたのは、
ある不思議な体験がきっかけでした。

あれは四年前のことです――
哈爾浜ハルピン技院に招かれた私は、
キタイスカヤ街のホテル、
東方飯店に宿を取ったのです。
確か四〇八号室でした――
転寝うたたねをする私は夢かうつつかの状態で、
ホテルの便箋びんせんにメモを取ったのです。
目覚めてメモを見ると、
それはシュレーディンガー方程式、
まさにそのものだったのです。

【柄谷生慧蔵】
決してそらんじているわけでもない、
その複雑な方程式を、
まるで誰かの意思のようにしたためた――
私は自分の頭が、
誰かに乗っ取られたような気になり、
そのままホテルを飛び出しました。
するとどうでしょう――
あれほどにぎやかだった大通に、
白昼夢はくちゅうむのように人影がないのです。
所在なく私は部屋に戻りました。
先ほどの便箋びんせんは消えていました――

そして天啓てんけいのように新しい方程式を
書き始めたのです。
四日間、飲まず食わずで――

この体験の翌年です、
帝都にセヒラが観測されたのは。
セヒラ粒子が解を求めるかぎでした。

長広舌ちょうこうぜつはもういいでしょう。
さぁ、すべての準備は整いました。

音もなくカーテンが開かれた。大きな窓から見下ろすのは、白いタイル張りのまるで手術室のような部屋であった。
部屋の周囲に幾人もの人物が寝かされている。その部屋の中央にフォス大佐とクルトが、まるで双子の胎児のように向き合い丸くなっている。2人は床から浮き上がっているのか、ゆっくりと回転していた。

【柄谷生慧蔵】
アストラルとなった二人を、
均一きんいつになるまで混ぜ合わせる――
兄の実験ノートにそうありました。
どうやって混ぜれば良いか、
さっぱりわかりませんでしたが――
それが起きてみると、
どうです、自らが混ざり合おうと、
あのように回っているのです!

自ずから生起すること――
物理の世界での常識が、
この霊異りょういの中でも現れるのです。

背を丸めて回転する2人の周囲にセヒラが漂い始めた。セヒラは見る見るその濃度を増して、とうとう2人をすっかり包み込んでしまった。
なおもセヒラは濃くなり、風魔のいる部屋にも押し寄せてくる。柄谷生慧蔵は窓に向かって両手を広げたり閉じたりしながら何かを唱えている。そして2人の名を呼ぶ声が聞こえた。

【柄谷生慧蔵】
ヘル、ゲルハルト!
ヘル、クルト!
合わされ、合わされ――
ゲパーツ! ゲパーツ!

さぁ、愚かしい肉体を、
今ここに、むさぼむさぼれ!

濃厚セヒラを通してなおも回転する2人が見える。その周囲に部屋の方々から怪人と思しき連中が集まってきた。

【柄谷生慧蔵】
静かに目を閉じて――
私は一介いっかいの観察者に過ぎない。
家鴨いえがもひなのように無垢むくな私!!
さぁ、まぶたを開けますよ!
家鴨いえがもひなが、お池の上で――

一瞬、目の前が真っ暗になったかと思うと晴れた。
もうセヒラは収まっていた。階下に見える手術室にらしき1体が立つ。人の背丈をやや越すくらいのそれは、砲身のようなものを体中から突き出していた。

【柄谷生慧蔵】
見えましたよ――
私には確かにあいつが!
あの白きみにくき塊が!
独逸ドイツ語で不思議を意味する、
ヴンダーと名付けましょう!

ヴンダー……

あれはヴンダー……
この意味がわかりますか?
私の理論が完結した瞬間なのです。
ヴンダーの存在がそのあかしです。
ジンネマン対称性たいしょうせいを含む、
私の方程式が正しかったと、
それが証明されたのです!

あれは破壊神ではありません。
あれは創造神なのです。

私はこれで十分です。
もう、十分です――

柄谷生慧蔵は素早い動きで部屋を出て行った。階段を駆け下りていく音がする。

【着信 帆村魯公】
そっちの場所、確定できたぞ、風魔!
じき、警察が到着する。
お前を迎える車も出たぞ!

交信が終わるや否や、遠くの方でくぐもった銃声がした。あれはたしかに銃声である。

【着信 帆村魯公】
何だ、今の音は?
銃声じゅうせいか?

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうが現したヴンダー。
それはイメージの実体化というべき存在だ。

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうを求め、
そして得たのだ。

彼は思い残すことないと
遺書を残し自殺した。
猟奇倶楽部に警察隊が
なだれ込んできた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん――
猟奇倶楽部の場所、判明しました。
四谷谷町のあたりです。
戒行寺かいぎょうじの坂を降りきる手前――
低いところなので、
探信たんしんしにくかったようです。
【帆村魯公】
柄谷がらたに生慧蔵いえぞうは死んだ。
何通もの遺書があった――

遺書により生慧蔵いえぞう
猟奇倶楽部の会員のうち、
最高位の位にあることが判明した。
しかし主催者については
触れられていない。

また兄の
ルドルフ・ユンカーについても、
まるで他人のことのように
したためてある。
ユンカー殺しについては
言及がなかった。

また瑛山会えいざんかいについては、
シュタインベルク中将の動きは、
親衛隊長ヒムラーの
疑義ぎぎを買っていること、
セヒラ同定から山王さんのう機関設立まで、
すべてが首尾よく進んだことも
しるされていた。

そして戦の論文を書いた以上は、
を確認しないと理論が閉じない、
そのためにすべてを尽くすとあった。

【喪神梨央】
ユンカー所長と、
兄弟だったのですね――
【帆村魯公】
双子の兄弟だな。
兄のユンカーは独逸ドイツに戻り、
弟は日本に残された――
弟は独逸ドイツで兄への面会を申し込むが、
墺太利オーストリアのアカデミー入学をひかえた
兄はそれを退しりぞける――
生慧蔵いえぞうの胸に暗い炎が灯るのは、
その時じゃないだろうか……

ノックの音とともに九頭が現れた。

【九頭幸則】
失礼します、歩一の九頭くずです。
――大変ですよ、先生! 風魔!
【喪神梨央】
どうしたんですか?
幸則ゆきのりさんも見える組ですか?
【九頭幸則】
何だい、その見える組って?
【帆村魯公】
ヴンダーじゃよ、
ラヂオで言っておるぞ、
ヴンダーを見よ、ヴンダーを見よ――

ヴンダーは破壊神ではありません、
ヴンダーは創造神なのです。
ヴンダーを見よ、ヴンダーを見よ――

【喪神梨央】
見える者は前進者です。
幸則さんは前進組ですか?
【九頭幸則】
梨央ちゃん、勘弁してくれよ。
ヴンダーが見えるのは、
怪人だけだって言うじゃないか!
【帆村魯公】
その怪人、市中から姿を消して、
怪人になりそうな市民は、
おそおののいているようだな。
【喪神梨央】
でも怪人になれば新世界に行ける、
みたいなことを言う人も――
一時いっとき帥先そっせんヤみたいです。
【帆村魯公】
うむ……
風魔、表の様子でも見てきてくれ。
【九頭幸則】
俺も行くよ、風魔。

〔山王ホテルロビー〕

山王さんのうホテルはいつもとは異なり、
どことなく落ち着かない様相を見せていた。

【九頭幸則】
何だ、どうしたんだ?
そわそわした感じだな。
いつもの山王さんのうホテルじゃないな。

ホテル玄関から新山和斗が駆け込んで来た。

【新山和斗】
一体、どういうことなんですか?
【九頭幸則】
これはまた奇遇だな。
いや、そうでもないか――
ブンヤが騒ぎを大きくするわけだな!
【新山和斗】
騒ぎも何もありませんよ!
通報が相次あいつぎ現場に取材に出るも、
写真部のカメラに写らないんです!
【九頭幸則】
ヴンダーの話だな?
新聞社に通報でもあるのか?
【新山和斗】
もうすごいです!
朝から電話が鳴り止みません!

ヴンダーは市中の
方々で目撃されていた。
人形町、赤羽橋、築地つきじ
錦糸町、目白――
目撃されるたび
巨大化しているようである。

【新山和斗】
最初は見えなかったのに、
ラヂオを聴くうちに見え始めた、
そういう話もあるようです。
【九頭幸則】
あれは新手の帥先そっせんヤだな。
新聞ではどうなんだ、
怪人川柳が復活したりしないのか?
【新山和斗】
とっくにしていますよ!
担当の新米記者が行方不明なのに、
どんどん投稿が寄せられて――
まだ掲載はしていませんけどね。

そのとき着信があった。

【着信 喪神魯公】
風魔、ホテル前で騒動だ。
ちょっと見てくれないか!
【新山和斗】
怪人騒動ですか?
それくらいじゃ記事になりません。
【九頭幸則】
そうだろうな!
ブンヤにはここにいてもらうぞ。
風魔、表を見てくれ!

九頭の声を背に、
風魔はホテル玄関へ向かった。

〔山王ホテル前〕

ホテル前には数名の市民が押しかけていた。皆、てんでバラバラな方向を向いている。
ホテルから出てきた風魔に近くの白衣姿の男性が声をかけてきた。

【神谷町の元医者】
あなたには見えるんですね?
あああ、私も見たい、
見て前進者になりたい!
もう医者は辞めたんです!
病人なんか診たくもない!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測します。
まだ怪人化して、
間もない怪人のようです。
でも波形が変です――

脇から2人、駆け寄って来た。

【本郷追分町の元学生】
僕はすべてを知ったんだ!
すべてをな!
――だから言葉がめぐる!

怪人の
眼に逆様さかさま
ことばかり

ギャハハハハハハハ~
【角筈の元訓導】
ここならなんとかなるって聞いた!
どうなんだ、ええ?
この私を怪人に変えてくれる、
そうなんだろ?
怪人が新しい世界に行けるんだろ?
堅苦しい訓導くんどうなんか辞めて、
自由になるんだ、邪魔するな!!
いいか、邪魔立てはするな!!

【着信 喪神梨央】
これまでにない速さです、
気を付けてください!

《バトル》

【角筈の元訓導】
体が……軽くなっていく……
これだ、これでこそ怪人だ!
アーハハハハハハ~

男性の背中にアストラルらしきが現れた。それはゆらゆらしながら、男性の体の傍を漂う。

【元訓導のアストラル】
軽いぞ、軽いぞ!
体を失うとこんなに軽いとは!
あのにくき肉体め!!
あのような肉体、
いくらでもくれてやる!!

アストラルが消えた。男性は倒れたがすでにその実体はなくなっていた。

【着信 帆村魯公】
今すぐ、ホテルに戻ってくれ。
おかしな客がいるんだ!

〔山王ホテルロビー〕

ホテルロビーは人払いしてあるようで、
魯公ろこうと話す男性以外に客はいなかった。

【帆村魯公】
風魔、キタイスカヤのホテルが
どうのこうのと――
【料亭大和の大番頭】
私ネ、支那シナ人みたいな話し方ネ、
れっきとした日本人ネ!
【帆村魯公】
落ち着いてください、
ここは日本ですぞ、帝都東京です。
【料亭大和の大番頭】
ひぇ~~~~
――やっぱりですかい!
私、新京シンキョウ三笠町みかさちょうにある、
料亭大和やまとの番頭です。
新京シンキョウ一の花街かがいですよ――
大事なお客さんを迎えに、
哈爾浜ハルピンまで行って、
キタイスカヤのホテルに入りました。
【帆村魯公】
ホテルはなんというホテルですかな?
【料亭大和の大番頭】
東方飯店、露西亜ロシア語で、
ホテルボストークです。
ここより狭いロビーで、
お客さんを待つんですが、
約束の時間になっても来ない――

しびれを切らした大番頭は
表通りへ出る。
しかしそこには人の姿はなく、
音さえしない場所だったという。
ホテルに戻ったとき気を失って、
次に気が付いたときは
山王ホテルの地下、
エレベーター前で
うずくまっていたというのだ。

【帆村魯公】
エレベーターとは、
どちらのですかな?
【料亭大和の大番頭】
そっちです、そっち!
フロントの脇に出てくるやつ――
客が乗らない感じのやつ――
【帆村魯公】
なるほど!
あれは特別でしてな。
詳しくお話を聞きたいものです。
【料亭大和の大番頭】
もう話しました!
私は哈爾浜ハルピンにいたんですっ!
あずからない間に東京に――
【帆村魯公】
風魔、後は頼む。
こちらの方と出かけてくる。
もうじき殿下がお見えだ。

そこへ着信があった。

【着信 新山眞】
喪神さん――
どうやらいろいろ繋がり始めた、
そんな気がします。
ここは人払いしてあります。
そのまま殿下をお待ち下さい。

交信が終わったその時、ホテル玄関から聖宮がやって来た。

【聖宮成樹】
喪神さん――
独逸ドイツのある筋から仕入れました、
有澤ありさわ中将のことです。
彼は特務機関長でした――

10年前、駐独武官だった有澤少将は、
ナチ親衛隊に入党したばかりの
ヒムラーと出会い、意気投合する。
ヒムラー、当時25歳、
有澤41歳である。
1930年、SS親衛隊のヒムラーは、
フンメル博士に命じて
北支ほくし発掘を実行する。

【聖宮成樹】
フンメル博士は日本でも発掘を行い、
セヒラの量と質において優れている、
そう報告を上げるのです。

日本では柄谷がらたに博士の
論文上梓じょうしにより、
参謀本部は瑛山会えいざんかいを組織します。
私はその時に参加しました。
背後にいるシュタインベルク中将が、
強い影響力を持ちます。
リヒャルトガルテンの所長です。
しかしヒムラーは彼を疑っていた――

釣鐘つりがねのこともそうなのです。
表向きは壊れたことになっています。
実際はこの地下に移送されています。
ヒムラーはそうした動きを探るため、
有澤中将に依頼をしたのです――
つまりスパイするようにと。

それで有澤機関が設立され、
何名かのスパイが活動を始めます。
興亜貿易という会社がかくみのです。
機関にはエニグマ暗号機が与えられ、さらに日独で同じ本を乱数表に用い、
念には念を入れていました。
その本とは――
ゲエテのきつね裁判さいばんという本です。

アーネンエルベも内偵ないていの対象に、
なっているかもしれませんね。
確かめてみようと思います。

【聖宮成樹】
喪神さん、市民が押しかけています。
このホテルで怪人になれると、
そんな噂が飛び交うのです。
怪人になれば新しい世界に行ける、
そんな噂にそそのかされるのです。
ここは私がなんとかします――

聖宮ひじりのみやには考えがあった。
釣鐘つりがねの出力を調整することで、ヴンダーに流れ込むセヒラを抑える――
それでヴンダーの勢いをぐことができる。
勝算のあるものではなかったが、試す価値はあると踏んでいた。

【聖宮成樹】
市民がしずまれば、
私は釣鐘つりがねの出力を調整します。
セヒラの制御を試みてみます!

ホテルのことは聖宮ひじりのみや
ホテルの守衛に任せ、
風魔は裏口からホテルを出た。

人々が2階の窓や物干しから表を見ている。ある者は雲を指差し、ある者は煙を見て、あれがヴンダーに違いないなどと騒ぐ。胸に大きなカメラを下げる者もいた。

新聞にはヴンダーを見たという市民が寄せた、素描そびょうが掲載され、人々の想像力を刺激した。
担当記者不在なのに怪人川柳も掲載された。軍が出動してヴンダーに攻撃するも、市街に砲弾を降らせただけであった。

怪人の
叫び真理の
上を超す

怪人の
前を横切る
黒い猫

怪人の
一人渡る
長い橋

不思議な波形を観測したとの知らせで、風魔は紀伊国坂きのくにざかおもむいた。
山王さんのうホテルからほど近い場所だ。

〔紀伊国坂〕

着物姿の老人が道の真中にぼんやりと立っている。風魔の姿を認め、ふらふらと近寄って来た。

【為次郎】
おいら猫の為次郎ニャ~
こう見えても次男会の一員ニャ~
かなりの古株ニャ~
この人は日本橋の団扇うちわ商ニャ、
昔からおっきな隙間拵すきまこしらえるニャ、
危なっかしいニャ~

おいらどら焼きの佐加美屋の猫ニャ、
おちおち昼寝もできないニャ~
なんせ団扇うちわ屋は向かいだからニャ~

さっきから別な何かが、
おいらの場所を狙ってるニャ~

その時、老人はビクンと背中を伸ばし、のけぞったようになった。そしてゆっくりと直った。

【為次郎】
びっくりしたニャ~
あんたに話があるみたいだニャ、
おいらしばらく場所を空けるニャ!

老人はうつむいてしまった。その背中からアストラルが現れた。

【ユンカーのアストラル】
ドイツに来た弟を日本へ帰したのは、
私ではない、父だ。
父には私の成功が必要だった。
私は一点のくもりもない状態だった。
墺太利オーストリアのアカデミーにも入学できた。
弟が物理学者として、
まさかセフィラを分析し、
に興味を持つとは驚きだった。

私は弟の論文を全て読んでいる。
彼は筋金入りの科学信奉者であり、
無神論者だ――
その弟がの論文など……

だが私は確信した。
弟がやがて私のもとに現れ、
私の成果を求めるだろうと――
私は知り得たことをノートにしたため、
弟の興味を引くように仕向けた。
もちろんすべて研究の賜物たまものだ、
嘘偽りなど何一つとてない。

私は内的イメージの具現化、
つまり幻視の研究を手がけ、
多くの成果を得たのだ――

弟は学者として、
自らの理論の統一のために、
を自分の目で確認する、
そのことだけを祈念きねんしていた。

無神論者の彼が、
霊異りょういかしずくように、
を求めたのだ――
考えてみれば滑稽こっけいなことだ。
無神論者が霊異りょういを求めるなど……

――ここには長居は無理そうだ。
赤坂哈爾浜ハルピンで君を待つ。

アストラルが消え、老人が顔を上げた。

【為次郎】
もういいかニャ?
おいら、疲れたニャ~
そろそろ帰るニャ~

そう言うと老人はふらつきながら歩き去った。そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
はらえの間においでください。

〔祓えの間〕

【新山眞】
ヴンダーの見える派と、
見えない派に別れるの、
なんとなく納得しました。
あれは実存しないのですね。
軍の砲弾も当たるはずがありません。
皆の心の恐怖があいつなのですよ。

――ですが……
やがて実体化するのは時間の問題。
そうなれば大量殺戮の兵器になる、
私が最も懸念することです。

赤坂哈爾浜ハルピンに、
先ほどと同じ波形があります。
向かってください。

〔赤坂哈爾浜〕

赤坂哈爾浜ではアストラルたちが右往左往していた。その中から1体のアストラルが寄って来た。

【本郷の元書生アストラル】
怪人川柳、企画したのは、
蛇穴さらぎ先輩だ!
アハハハ~
先輩がどうなったか知っているか?

先輩は素っ裸の上に、
女物の襦袢じゅばんだけを羽織はおって、
夜な夜な出歩くんだ。
きっと誰かに入れ知恵された、
そうなんだろ?
お前たち軍部の仕業なのか?
帝都の騒ぎも、みんなそうだろ?

僕はね、アナーキスト共を、
片っ端から特高に売ったんだ!
国体を維持するためにね!

それなのに……
お前たちがその体たらくで、
何もかもがダメになる!!
許さん!!

《バトル》

【本郷の元書生アストラル】
たかがこれしき――
もっと強くなってやる!

【着信 喪神梨央】
申し訳ありませんでした!
あまりに急なことで……
何か逆恨さかうらみしていたようですね。
もう大丈夫です――

新たなアストラルが近寄って来る。

【ユンカーのアストラル】
ここでなら話せるが、
あまり時間はない――
ヴンダーの影響は、
市民の心の深くに及ぶ。
やがて取り返しの付かないことに――

では話そう――
私は幻視を現すだけではなく、
真理をあらわにする力も、
合わせて研究していた。
言わば幻視を解く魔法だ。
だれか魔法に明るい者はいるかな?
魔法の知識が必要だ――
ううう……もう持ちそうにない!
私は……流される――

全てを言い終わらないうちにユンカーのアストラルは震えながら消えた。

【着信 喪神梨央】
新山さんがお話があると――
山王さんのうにお戻りください。

〔祓えの間〕

【新山眞】
ヴンダーは益々ますます大きくなっています。
その攻撃、見た目凄まじいのですが、
市内に何の被害はありません。
見える派の市民たちは、
もはや恐怖を感じ始めています。
見える派から怪人が生まれ、
すぐに姿を消すからです。
ヴンダーに食われている――
そんな噂も出始めました。

殿下が釣鐘つりがねの出力を試されて、
その効果も表れているようです。
ただしずめるには至りません。

ヴンダーの出現する場所に
印をつけていきます。
毎日ほぼ同じ場所なのです。
何か意味があるはずです――
わかったらお知らせします。
【着信 喪神梨央】
兄さん――
魔法のこと、あきらさんに相談して、
受け入れてもらいました。
あきらさんのアトリエにお願いします。

〔旭のアトリエ〕

【能海旭】
梨央りおさんから聞いたよ。
魔法がいるんだって?

うーん……
私にできるかな?
十四のときに左肩に入れた、
スペードの刺青いれずみ――
すーっと消えたのよ!

魔女になるために必要なもの、
それが私から去ったの。
だから私……
魔法そのものからも、
見捨てられたような気がしてる。

でも風魔さんに必要なら……
学校で復習しなきゃね、魔法のこと。

〔旭のアトリエ前〕

あきらは溜池通から円タクで学校に向かった。
アトリエ前に新山がやって来た。ここを梨央から聞いたのである。

【新山眞】
ヴンダーの出現位置には、
何か意味がある――
そう考えていたのですが……
すでに投書が来たそうです。
和斗かずとが教えてくれました。

ヴンダーの出現位置を、
帝都の地図に落すと、
古代北欧ほくおう文字になるそうです。

今日、最初に出現したのは、
淀橋区の角筈つのはず電停前――
次が麻布あざぶ区の四ノ橋電停前……

そのあとヴンダーは、小石川区春日町かすがちょう電停前、
浅草区三筋町みすじちょう電停前、京橋区新富町しんとみちょう電停前――
合わせて5箇所に出現したのだった。

【新山眞】
それら五箇所を線で結ぶと、
古代北欧ほくおう文字のオセルになります。
魚のような形になります。
三筋町みすじちょうが頭、角筈つのはずと四ノ橋が尾、
それがオセルという字です。
【着信 喪神梨央】
ラヂオでも言ってますよ――
オセルとは執着を捨てて、
素の自分に向き合うことだって。
【新山眞】
今日は他に、パース、ライゾ、カノ、
ラグズ、全部で五つの文字が――
昨日も全く同じだそうです。

これら古代文字はルーンと言います。
ナチがアーリア人の起源を求め、
祭儀さいぎにルーン文字を用いるのです。

しかし……
この文字をどうするかまでは、
さっぱりわかりません。
【着信 喪神梨央】
独逸ドイツ大使館で騒ぎです。
巡視パトロール中の金ノ七号きんのしちごうから連絡です。
三宅坂に向かってください!

〔独逸大使館前〕

大使館の玄関前ではユリアと鬼龍が対峙していた。鬼龍は背を向けている。
その手前に武装SSが
進入を阻んでいた。
武装SSが風魔の到来を鬼龍に告げた。
鬼龍はさっと風魔を向いた。

【鬼龍豪人】
今、こちらのユリア女史から、
ルーンの解釈を教えてもらってね。
ナチ的解釈というわけだ。
【ユリア・クラウフマン】
フーマ!
日本人はもっと礼儀正しいと――
私の買いかぶりでしょうか?
いきなり押しかけてきて、
ルーンの資料を寄越よこせなど――
一体、どういうおつもりですか?
【鬼龍豪人】
本国ではトゥーレの館と、
アーネンエルベは蜜月みつげつの関係ですよ。
日本でももっと向き合うべきです。
【ユリア・クラウフマン】
今のここには、
そのような余裕はありません。
お察しいただかないと――
【鬼龍豪人】
アハハ、いろいろあったようですね。
ですが解答は得たから、
これ以上求めるのはしましょう。
【ユリア・クラウフマン】
タケト大 尉カピティーン――
あなたは染 化ファーブストッフによって
トゥーレの召喚師となった。
すべてを手に入れたはずです。
そうじゃありませんか?
【鬼龍豪人】
私はもはや大尉などではない。
孤独な彷徨さまよえる召喚師だ。
小さな私から、
まことに小さな助言を与えよう――

しかし鬼龍は風魔を向いた自分に言い聞かすようにして続けた。

【鬼龍豪人】
ヴンダーはルーンを描く。
ルーンはそれだけでは何も為さない。
ルーンを用いスターヴを描くことだ。
五つのルーンの意味が合わさり、
ただひとつの魔法となる。
願いを叶える白魔法だ――
夢のある話じゃないか!
【鬼龍豪人】
だがしかし――
山王さんのう機関に魔法使いはいるのか?
アハハハハ、いればケッサクだな!
よしんば魔法をかけたとして、
あのヴンダーがどうなるか、
何の確証もないがな――

鬼龍は風魔に一瞥をくれた後、歩き去った。武装SSも後に続く。

【ユリア・クラウフマン】
タケト大 尉カピティーン染 化ファーブストッフにより、
完全な状態コンプレットとなったのです。

そうでなければ、
ヴンダーの力を求めたかも――
ナチではルーンに独自の解釈をあて、
その効力をより高めています。

おそらく……
ユンカー博士が何か仕込んだのです。
それでヴンダーはこの町に、
ルーンを描くのです。
巨大なルーンを――

それ以上のことは、
私にはわかりません。

梨央からの連絡で
鈴蘭すずらん女学園に向かうことに。
あきらの通う学校が
併設へいせつされているのだ。
といっても仮構かこうされた存在では
あるのだが――

〔鈴蘭女学園〕

学園正面玄関には袴姿の女学生がいた。
やって来た風魔を見て1人が言う――

【鈴蘭女学生聖子】
あら、歴史研究所の先生ね!
お若い先生だこと……
オホホホホ~

【着信 喪神梨央】
そのまま学園の中へ進んでください。
あきらさんがお待ちです。

〔祭儀室〕

自由サーベラス学園の祭儀室さいぎしつは、
高いへいに囲まれた中庭にあった。
丸屋根の中で
あきらが迎えてくれた――

【能海旭】
梨央さんから教えてもらったわ。
ルーンでスターヴを描くのね。
やりかたは一通り確認したよ。
図書室から本を引っ張り出してね。
前に習っただけで忘れていたから――

オセル、パース、ライゾ、カノ、
ラグズ――
これらルーンで文様を描くのよ。

このスターヴは、
真理をあらわにする白魔法のもの。
教科書によるとだけど――

さて、準備があるから、
風魔さんはここで待っていて。
私、地下のドームに降りるから。

祭儀には専用のローブをまとうのよ。
ブレナン先生のだから大きいけれど、
贅沢ぜいたくは言ってられないよね。

地下のドームであきらはスターヴを描いた。柘榴ざくろの板に自らの血で文様をなぞった。
教科書にある呪文を唱えながら――

2時間が経過した――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
清水谷公園で異様な波形を観測!
至急、向かってください!

あきらさんのことは、
そちらに警護部隊を派遣します。
安心してください。

異様な波形があるとの報告で、清水谷公園に向かった風魔。
そこで見たものは果たして――

〔清水谷公園〕

万朶の桜花が春爛漫を告げている。公園の方々で宴が催されていた。
そこへ将校服の青年が近寄って来た。

【九頭幸則】
おい!
風魔じゃないか!
久しぶりだな!

何やってんだ、こんなところで!
一人前の審神者さにわになったんだろ?

【着信 帆村魯公】
風魔!
一体、誰と話しているんだ?

【九頭幸則】
ちょっと悪い――
あそこに騒ぐのがいるんだ。
せっかくの桜の公園が台無しだ。

そこへ洋服姿の女性が
風魔を向いて言う。

【如月鈴代】
あら風魔さん――
帆村流、修められたのですね。
今日は野点に参ったのですが……

着物姿の若い女性が面を向けた。

【月詠麗華】
前に一度、お会いしましたかしら。
いいお日和でございますわね。
でも……あちらの方が……

着物の女性が顔を曇らせた。
少し離れたところで怒鳴る声が聞こえる。

【九頭幸則】
風魔、ちょっと見ててくれ!
俺、紀伊国坂の交番にひとっ走り、
巡査を呼んでくるよ。

言われた方を見ると、2人の男性が何やら言い争っていた。風魔は2人に近寄った。
スーツの男性が年嵩のトンビ服の男性を懸命になだめているところだった。

【着信 帆村魯公】
風魔!
お前は誰の時間を生きているんだ?
お前は陸軍中尉だぞ!
九頭も鈴代もそれを知っているだろ!
まずは騒いでいる男のところへ
向かうんだ。
それで何か分かるだろう。

風魔に気付いたスーツ姿の男性が困り果てた顔をして言う。

【スーツの男】
うちの先生、
同僚が首席訓導くんどうに昇進して、
爾来じらい、虫の居所いどころが悪いんです――

いや、せっかくの花見の席で
うちの先生が申し訳ないです。

トンビ服の男性が風魔を向いた。血走った目をしている。酒の勢いもあって鬱憤を爆発させた。

その時だ――
周囲から色が失せた。

再び色が戻った時、
風景は一変していた。
桜の花は消え、花見に来ていた市民もいない。公園は初冬の冷たい空気に包まれていた。

目の前にはトンビ服の男性の代わりに1体のアストラルが浮かんでいる。

【酔漢先生のアストラル】
どけ!
ええい、そこをどかんか!

貴様ら、国賊こくぞくどもめ!
天誅てんちゅうだ、天誅てんちゅうくだす!
私を何だと思うか!!

《バトル》

【酔漢先生のアストラル】
ふぅ、ふぅ、ふぅ……

一旦緩急いったんかんきゅうあれば、
義勇公ぎゆうこうほうじ!
臣民しんみん
ちゅうこうにぃ~
皇祖こうそ皇宗こうそう
くにはじむること宏遠こうえんに~

アストラルは震えながら消えた。
そこへ着信があった。

【着信 帆村魯公】
風魔、よく聞け!
お前だけが時間から離されている。
いや、むしろ違う世界にいるのか?
相手からはお前がちゃんと
見えていないようだったな。
長居は無用だ、すぐ戻るんだ。

第九章 第八話 必要なもの

〔山王機関本部〕

その朝、機関本部には興奮気味の新山眞にいやままことの姿があった。
霊式ヘテロヂン技術によって暗号が解読でき、芽府めふ須斗夫すとおの語る第8の予言が判明したのだ。

【新山眞】
とうとう解読できました!
【喪神梨央】
すごいです、新山さん!
それで何とあるんですか?
【新山眞】
ダイオウ
アラワレリ

【喪神梨央】
だいおうあらわれり?

新山はタイプ打ちされた用紙を見せた。

【新山眞】
大王現れり――
この予言の前の部分は……
【喪神梨央】
全地の主なる――
です、続けると、
全地の主なる大王現れり
【新山眞】
まさしく予言めいていますね。
第七の予言と繋げると――

日蝕ひくく明け新しき天地あめつちひらかれり
全地の主なる大王現れり

【喪神梨央】
日蝕にっしょくの日の明け方、
新しい天地あめつちひらかれて、
それを支配する大王が現れる――
【新山眞】
日蝕にっしょくは十二月二十六日の明け方、
まさにその時ですね。
【喪神梨央】
二十五日は先帝祭で祭日です。
山王さんのうホテルでもクリスマスの会が
もよおされます。
【新山眞】
パーティとかあるのですか?
【喪神梨央】
はい……
舞踏会ぶとうかい晩餐会ばんさんかいが予定されています。
大勢が参加します。
【新山眞】
異変がどこに起きるか不明な以上、
避難誘導ひなんゆうどうなどはできませんね――
【喪神梨央】
……
【新山眞】
山王さんのうにゲートがある限りは、
ここで何も起きないはずはない……

新山が危惧しているのはゲートの制御が効かなくなり、セヒラの奔流を招く事態であった。

【帆村魯公】
二十五日のうちに切り上げてもらう、
それがもっとも穏便おんびんな方法じゃな。
【喪神梨央】
あ、隊長!
――今、そのことで新山さんと……
【帆村魯公】
新山君の心配もごもっとも。
ただいたずらに騒ぎ立てるのも良くない。
【新山眞】
予言では二十六日を語ります。
前日のうちはまだ――
【帆村魯公】
パーティやらは、
早めに終えてもらうとしよう。
――それで大王がどうしたと?
【新山眞】
新しい世界をべる大王です。
それが現れるのだと――
大王とは何者でしょうか?

【喪神梨央】
帝都では度々たびたび、神曲が語られます。
地の底に氷漬けになるルシファー……なんだか気になります。
【新山眞】
しかし、帥士すいしの方も召喚師も、
まだルシファーの召喚は、
行えていないのですよね?
【喪神梨央】
ええ今のところは……
最近、独逸ドイツ勢の動きが、
読みづらくなってはいますが。
一度、虹人こうじんさんに、
近況を尋ねてみますね。

【帆村魯公】
新山君――
予言というのは、これですべてか?
【新山眞】
わかりません――
ただ、語り尽くされた感じはします。

【帆村魯公】
鏡の方はどうだね?
例のゼーラム何とかを塗った鏡だ。
【新山眞】
気密筐体きみつきょうたいにまだ煙が残ります。
もう少し時間がかかるかと――

ノックの音とともに九頭が姿を見せた。

【九頭幸則】
歩一、九頭くずです!
ちょっとした事件が――
顔をつぶされた死体が発見されました!!
【喪神梨央】
以前、似たようなレントゲン写真、
ありませんでしたか?
【新山眞】
沼津ぬまづの省線病院で撮られた、
顔を吹き飛ばされた怪人です。
中からが出たのではと――
【帆村魯公】
今では人前には現せない、
その仕組は保たれておるがな。
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさん、顔のつぶされた死体、
どこへ運ばれたんですか?
【九頭幸則】
戸山とやま衛戍えいじゅ病院だ。
公務出動するのか?
だったら俺も同行するよ!
【喪神梨央】
気を付けてください!
公務電車、手配します!

九頭と風魔を乗せ、公務電車は一路戸山を目指した。

〔戸山衛戍病院〕

衛戍病院の前には軍用トラックが停まり、その脇に黒塗りの車もあった。白衣姿の医者、看護婦、玄関前を2名の憲兵が立哨に付く。

【九頭幸則】
なんだか物々しいなぁ……
ちょっと俺、
あの憲兵と話してくる。
怪人が運ばれたかも知れないって。

九頭は向かって左の憲兵の元へ。そこに別の医者がやって来た。白衣姿で頭には反射鏡を乗せている。

【猟奇的な医者Σ】
なかなか興味深い検体ですよ!
顔がつぶされている――

と思いきや、そうではなく、
あれは糜爛剤びらんざいの大量曝露ばくろによるもの。
目や口の粘膜ががり、
表にまで飛び出しています。
皮膚は方々で拘縮こうしゅくしています。
口が大きくゆがむのはそのためです。
内臓も酷い有様でしょう。
おそらく出血性肺水腫はいすいしゅ
消化器官に重篤じゅうとくな障害が
ありますね。
死後五時間というところ――
顔の一部は野良犬のらいぬに食われています。

九頭が駆け戻って来た。

【九頭幸則】
顔をつぶされた死体、
影森かげもりだと言うぞ!
影森愁一かげもりしゅういちだ――
一時、俺のお目付け役だった。
でも会ったことはない――
軍人かどうかもわからない――

目の前の医者の周りにセヒラが漂い始めた。

【猟奇的な医者Σ】
係留細線維けいりゅうさいせんいのプロテアーゼによる
分解によって
重篤じゅうとく水疱すいほう形状を招き、
角化かくか細胞や骨髄こつずい細胞で細胞死を生起!
ウハハハハハ~
その痛みは全身の皮を、
力任せにかれるかの如し!!

【九頭幸則】
風魔!!
注意するんだ!
こいつ、おかしくなってるぞ!

《バトル》

【猟奇的な医者Σ】
ルイサイトに大量暴露ばくろした例だ、
最高の検体ではないか!
捜査そうさなどさせないっ!

医者は斃れた。

【九頭幸則】
医者というのも困りものだな。
検体を独り占めしたいばかりに、
怪人になるなんて――

しかし影森かげもりとはまったく謎の人物だ。
その影森かげもりを誰が殺したんだ――
糜爛剤びらんざいきかけたりして。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
防疫研で奇妙な波形を確認しました!
急ぎ向かってください。
糜爛剤びらんざいはルイサイトかも知れません。
参謀本部が調査を引き継ぐそうです。
防疫研、一般中尉も同行されますか?

【九頭幸則】
ああ、一般も行くよ。
あと、このあたりの医者も、
全部しょっぴいたほうがいいな!

〔白金三光町〕

2人は公務電車で白金三光町電停へ向かった。電車通は静まり返っている。2人が電車を降りると、何十羽ものカラスが羽音を立てて飛び去った。

【九頭幸則】
なんだか不気味な雰囲気だ――
人の姿もないしなぁ。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
本当に奇妙な波形です――
注意してください!

2人は国立防疫研究所へ向かった。
かねてより仮構組織かこうそしきとの疑義のある施設だ。

〔国立防疫研究所・所長室〕

所長室の大きな机の前に白衣姿の柄谷生慧蔵が立っていた。

【柄谷生慧蔵】
ここにあった大きな市松人形、
あれは果たして何でしょうか?
気味が悪いので、
先ほど焼却炉しょうきゃくろてましたよ。

【九頭幸則】
あなたは……
ここの責任者の方ですか?
――この仮構かこうの場所の?
甘い匂いはしないようですが。

九頭の質問には答えず、柄谷は風魔を向いたまま続けた。

【柄谷生慧蔵】
軍人というのは単純ですね。
喪神さんは審神者さにわでおいでだ、
一線をかくしておいでなのでは?

九頭は前に踏み出し声を荒げた。

【九頭幸則】
おい、あんた!
我々は公務で来ているんだ。
いい加減なことを言っていると――

そのとき、柄谷はようやく九頭に気付いたというふうに九頭を向いて言う。

【柄谷生慧蔵】
私は山王さんのう機関の生みの親です。
帝都のセヒラ同定を受けて、
参謀本部に論文を出しました――
【九頭幸則】
すると、あんたが……
瑛山会えいざんかいの――
【柄谷生慧蔵】
その名前はあまり出さないほうが、
よろしいでしょうな。
私は一介の物理学者です。
森羅万象しんらばんしょうのすべてを計算で求める。
しかしそれでは真理は得られない――
存在と非存在の間には、
極めて曖昧模糊あいまいもことした空隙くうげきがある。
そこを貫く穴もあるはずです――
私はようやくそうした思いに至り、
内面にあるイメージも実は、
眼前に存在しうるのではと――
【九頭幸則】
何のことを言っているんですか?
もしやのことですか――
風魔たちが見ているという。
人の魂を食わせて作る人籟じんらい
その研究がここでなされていました。
それはご存知ですね?
【柄谷生慧蔵】
軍人にしては勘が鋭いですね。
人籟じんらいの材料になりそうな、
そういう怪人を期待したのですが。
実験にはおろかしい肉体も、
数多く必要なのですが――
別の手を考えますよ。

柄谷は教授のような口調になり続けた。

【柄谷生慧蔵】
さて、話を戻しますが、
心的なイメージから想起される、
幻視的な存在を表出させ得る――
その表出を見るためには、
見る側にも意識が必要なのです。
ある種の共犯関係ですな――
【九頭幸則】
似たようなことは帝都でも起きた。
銀座幻燈会げんとうえや人生よろづ相談――
憎しみや恐怖をあおてた。
怪人化をそそのかすような動き、
帥先そっせんヤと呼ばれて摘発てきはつを受けた。
それとどう違うんですか?
【柄谷生慧蔵】
新しい宗教の誕生、
とでも呼べばいいでしょうか?
信仰の対象を現すのですよ。
その瞬間に立ち会ってみては、
如何いかがでしょうか?

不意に柄谷は所長室を出て行った。

【九頭幸則】
待ってください!

九頭と風魔は柄谷を追って部屋を出た。柄谷はホールを横切り地下へと降りていくところであった。

〔防疫研究所処置室〕

処置室の奥には果たしてクルト・ヘーゲンがいた。
目を半開きにして明らかに様子が変だ。彼は車椅子に乗せられている――

【柄谷生慧蔵】
残念ですがこれは自失体ですよ――
クルト・ヘーゲンは自失した、
その実体、いや元の実体ですね。
状態としては前頭葉ぜんとうようが無くなった、
それと同じでしょうか――
欲望に正直なのですよ。

さぁ、クルト、
聞こえる言葉は何ですか?

【クルト・ヘーゲン】
きみジーのあまいしずくトロプン
はちみつリーブリング――
はちみつリーブリングがなくなる!
【柄谷生慧蔵】
君とは誰かね、クルト?
【クルト・ヘーゲン】
はんすHANS――はんすHANS――
ぼくのきみジー――
はんすHANS――
【柄谷生慧蔵】
クルトよ、黒胆汁くろたんじゅうの主よ、
さぁ、求めるものを思え!
戻らない日々を思え!
【クルト・ヘーゲン】
ううう……
はんすHANS……はんすHANS……
ぼくらはふたりミッツ――

クルトがたどたどしく話し終えるや、彼の顔の前に小さなセヒラの球が現れた。

【柄谷生慧蔵】
クルトよ、これがそうではないかな?
君の求めてやまない想い出――
ハンスの持ち物!
【クルト・ヘーゲン】
これは……てちょうノーボク……
はんすHANSの……てちょうノーボク……
ぼくのにがおえポートレイ……はんすHANSがかいた!
【柄谷生慧蔵】
そうとも!
バーデン国家青年団で支給された、
ハンスの手帳だ!
ハンスは親愛のあかしに、
この手帳に君の似顔絵にがおえを描いた。
絵のうまい子だったのかな?
これを君に授けよう。
いろいろ蘇ることだろう。

柄谷がさっと両手を広げた。するとセヒラの球は真っ赤な炎に包まれた。

【クルト・ヘーゲン】
やめろ!
もやすな!!
はんすHANSの……てちょうノーボク……

上体を小刻みに震わせるクルトの背後にアストラルが現れた。アストラルは膨張と収縮を繰り返している。

【クルト・ヘーゲンのアストラル】
貴様!
兄殺しを私になすけ、
まだ何を望む?
【柄谷生慧蔵】
ついに出ましたか!
あまりにも強い念が、
アストラルを表出させましたね!
【クルト・ヘーゲンのアストラル】
ここにを降ろし、
貴様をなぶり殺してやる!!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
整えてください!!

《バトル》

【クルト・ヘーゲンのアストラル】
糞!
山王さんのう機関の猿と戦うつもりはない!

ガラタニ!
貴様をどこまでも追ってやる!
覚悟しておけ!

アストラルは回転しながら消えた。柄谷は消えたアストラルのあたりを見ている。

【柄谷生慧蔵】
その調子です、いいですよ――
まされた憎しみは、
濃厚セヒラの中で悪の実体を呼ぶ。
兄の研究ノートが正しければ――
【九頭幸則】
今のは一体どういうことですか?
【柄谷生慧蔵】
ほんの小手調べですよ、
まだ本番はこれからです。
【九頭幸則】
何を言ってる?
ヘーゲン召喚師はどうなった?
【柄谷生慧蔵】
これはがらですよ。
日本人はせみがらにも美を求む。
あながちてたものじゃないですよ。

九頭は車椅子のクルトに向かって声をかけた。

【九頭幸則】
おい、意識はあるのか?
聞こえるか、俺の声が?
【クルト・ヘーゲン】
あう……あう……あう……
はちみつリーブリング……

【柄谷生慧蔵】
さぁ、もうこれくらいでいいでしょう。
彼にはまだ仕事があるのです。
大事な仕事がね――

風魔に一瞥をくれた後、生慧蔵はクルトの乗る車椅子を押して出て行った。

梨央りおからの無線でゲルハルト・フォス大佐を、品川駅前から警護するよう公務指示があった。
独逸ドイツ大使館からの要請だという――
影森愁一かげもりしゅういちのことを刑部おさかべ大佐に報告すべく隊に戻る九頭くずと別れ、風魔ふうまは品川へ向かった。

〔品川駅前〕

【着信 喪神梨央】
ユーゲントが出迎えるみたいです。
大佐は間もなく到着します。
船は花鳥玲愛カトレア丸でした――

交信が終わった時、大型の車が滑り込んできた。

【ゲルハルト・フォス】
ヘル! モガミフーマ!
君の警護を受けられるとは、
実に光栄の極みだ――
無粋ぶすいなSS隊員は行かせたよ。
フフフ――
ナチ党は何でも知りたがる。
独日どくにちは来年にでも協定を結ぶ。
君は同盟国の公務として、
私のことを余さず伝えてくれ――

それとも――

そうか!
君たちが使う無線で、
私の話はすべて伝わるのだな――
いいだろう――
いずれにせよ、そろそろ潮時しおどきだ。
それに私はあと一息なのだ。
愈々いよいよ、完成の域に達したからな!

フォス大佐は横浜港への入港直前に、アルツケアンを体内に取り込んだと語った。
蟻走痒感府ぎそうようかんふのカーンから入手したものだ。

【ゲルハルト・フォス】
カーンは私にたくしたのだよ。
第四帝国の総統として、
広大な欧亜ユーラシア大陸を統べることをね。

第三帝国は多くの爆弾を抱える。
各国の利欲がくすぶり続けるからな。
しかし欧亜ユーラシア大陸は違う。
まったくの新天地なのだ!

これから前祝いだ!
シナガワのレストランに向かう。
君も同行したまえ――

フォスは徒歩で品川遊郭に向かうようだ。風魔はフォスのやや後ろに付いた。

【着信 喪神梨央】
大佐はおそらく、
帝都のセヒラを確認して、
アルツケアンを取り込んだのです。
そのほうが効果が高いそうです。
公務、続行してください。

〔品川遊郭〕

暮れなずむ品川遊郭。長塀に添ってユーゲントが等間隔で立っていた。

【ゲルハルト・フォス】
アルツケアンは、
世界のどの聖石にもおとらないだろう。
フリジアのペシヌスにある太母の石、
ヘリオガバルス皇帝が、
ローマに持ち帰ったエメサの石――
メッカはカアバ神殿に置かれた石。
いずれも磁石である。
――北極星を指すことはあるが……

アルツケアンは北極星から来た。
至高の神のもとからやって来たのだ!
いや至高の神そのものなのだ!
仰ぎ北極星を見上げるがいい。
大熊座、小熊座が四季ごとに現す、
宇宙の意志、大スワスティカを!
あれこそアーリア人の起源を示す。
大スワスティカは調和であり永遠だ。
たゆまぬ宇宙の運動へと意思を繋ぐ――
私の精神は宇宙の至高の極みに向き、
永遠の呼応を約束されたのだ!!

間もなく私は完全体となる。
新帝国を統べる完全なる総統コンプレットヒューラーとなる!
そろそろ食事の時間だ――

長広舌を終えるとフォスは遊郭へと入って行った。

〔遊郭廊下〕

【ゲルハルト・フォス】
大使館には余すこと無く伝えたかな?
完全体になれば、
誰も私に手出しはできない。
親衛隊長のヒムラーでさえな!

ところで、モガミフーマ――
このトウキョウに、
ヒムラーの間諜かんちょうがいるらしいな。
長官の股肱ここうしんに、
裏切る者がいると――
その者はトウキョウと関係が深い。
疑う者は悲しき存在だ。
自ら疑念のうずに巻き込まれるのだ。
私は信じた――
桃源郷を信じ、アルツケアンを信じ、
だからこそカーンは私にたくした。
もっともカーンは、
SS特務部隊の侵攻に恐れを為した、
そういう見方もあるがな。

廊下の奥から1人の遊女が現れフォスの前に立ち、端唄の節回しで歌った。フォスはリズムを取りながら聞き入っている。

【遊女櫻木】
心でとめて帰す夜は 
可愛いお方のためにもなろと
泣いて別れて又御見文字ごげんもじ
猪牙ちょき蒲団ふとん夜露よつゆれて
あとは物憂ものうき独り寝するも
ここが苦界くがいの真ん中かいな

フォスは遊女とともに廊下の奥に消えた。

〔品川遊郭〕

遊郭を出ると1人のユーゲントが素早く風魔に寄ってきた。

【嵯峨野丸】
二〇、一五――二一、四五、
唱歌、演説、余興!
二二、◯◯、
消灯、就寝!

――全部言わないとね、
何だか気持ち悪くって。
これ、幼年学校の時間割だね。
もう君とは戦わないよ。
アプドロックが解けたみたいだ。
不思議な気分だよ――

2人のもとにユリアがやって来た。

【ユリア・クラウフマン】
フォス大佐のことは聞きました。
彼は完全に踏み外しています――
私、心配で……
本国に問い合わせてみました。
フォス大佐のこと――
フォス大佐、爵位しゃくいを奪われて、
奸計かんけいめた弟に復讐したのです。
反逆者の汚名を着せて――

フォス大佐はシュタイナー家の長男だった。
弟の奸計かんけいめられ、爵位しゃくい剥奪はくだつされる。
弟はエルヴィン・シュタイナー――
SS上級大佐の地位にあった。
その弟が突撃隊員と男色関係にあり、
フォス大佐はそれを利用したのである。

【嵯峨野丸】
エルヴィンはフォス大佐を
追い出すために嘘を付いた。
大佐が別の男性の子だと父に告げ、
疑り深い父は大佐を追い出すことで、
自分に答えを出そうとした。
ゲルハルト・シュタイナー男爵だんしゃくは、
文具商のフォス家の養子になった。
ゲルハルト・フォスの誕生さ。
【ユリア・クラウフマン】
フォス大佐はシュタイナー家を告発、
一家はSS武装部隊の粛清しゅくせいを受け、
屋敷には火が放たれた――
【嵯峨野丸】
長いナイフの夜――
去年の出来事だよ。
シュタイナー家はなくなったのさ。
【ユリア・クラウフマン】
あなたはどこでそれを知ったの?
【嵯峨野丸】
何日か前だよ。
先のアプドロックのときに、
一緒に入ってきたんだ。
【ユリア・クラウフマン】
きっとフォス大佐が、
そのことを思い出したのね――
【嵯峨野丸】
かも知れない――
今は解けているよ、アプドロック。
【ユリア・クラウフマン】
そうみたいね。
コージンに指揮を任せましょう。
彼も張り合いが出るでしょう。

【着信 喪神梨央】
四谷見附に向かってください。
猟奇倶楽部りょうきくらぶから招待が来ました。
隊長と合流してください。

〔四谷見附〕

公務電車は四谷見附で停まった。町は普段通りの賑わいを見せていた。
電車を降りる風魔を魯公が待ち受けていた。

【帆村魯公】
どういう風の吹き回しか、
猟奇倶楽部から招待が届いた。
特別のもよおし――
招待状にはそうあるだけだ。
開催は本日になっておる。
前に本部に届いたのと同じ封筒だ。

今度もさそいに乗ってみる――
ただ、前回と違うのは、
探信儀たんしんぎを新しくしたことだ。
この探信儀たんしんぎを使うんだ、風魔。

そう言うと魯公は携行式探信儀けいこうしきたんしんぎを取り出した。
これまでのと見たところ変わりはない。

【帆村魯公】
それは新山君が、
帝国電工製真空管に変えたもので、
探信たんしん力が高まっておる。
猟奇倶楽部は探信儀たんしんぎの空白域にある。
一探、二探、四探、六探――
それぞれの探信儀たんしんぎの範囲外だ。
携行式けいこうしきの性能を上げて、
なんとか場所を突き止めたい。
それがこの公務の目的だ。
じき、迎えの車が来る。
無理はするなよ、風魔。

四谷見附の省線を見下ろすところに立つ風魔。そこへ1台の車が近づき停まった。ドアが開き、黒服の男性が降り立った。

【黒服の男】
お待ちになりましたか、
喪神もがみ風魔ふうまさま――
さぁ、ご案内します。
――車へお乗りください。
例によって目隠し、
させていただきます。
きまりはきまりですから――
ご協力有難うございます。
それでは参ります――

迎えの車は例によって幾度いくたびも角を曲がり、坂を登ったり降りたりを繰り返し、やがて速度を増して走り出した。
突然、急ブレーキの音とともに停車した。ドアの開く音がして、何人かの靴音もする。
風魔は車を降りた――

車は路地裏のような狭い道に停まっている。前にはもう1台の車があった。風魔と黒服の男は、3人の黒頭巾姿の人物に取り囲まれた。

【黒服の男】
一体、何事ですか?
車の前に飛び出すなんて!
あなたたちは、もしかして――

うわぁ~~~

目にも留まらぬ速さで黒頭巾が黒服の男を突き飛ばした。そして風魔を向いて言う。他の黒頭巾も寄ってきた。

【真光の大元老Σシグマ師】
我々を締め出して、
ぜんたい、どういう了見りょうけんですか?
あなたは何を知るのですか?
【永久の聖石工長Γガンマ師】
我々には高位の会員としての、
プライドがある――
わかりますか、プライドだ。
今日のもよおしのことなど、
何も聞かされていない。
なのにあなたは招待されている――
【真光の大元老Σ師】
おかしいではないですか?
筋が通りませんねぇ――
【永久の聖石工長Γ師】
特務機関の人間が、
果たして猟奇倶楽部に何用だ?
一体、何を計画している?
【暗黒の凱旋がいせん将軍Δデルタ師】
秘匿ひとく中の秘匿ひとくというわけですね。
これは無理にでも聞き出すしか、
なさそうですね。

我慢は美徳と教わりましたが、
今日はたがはずしましょう!!

《バトル》

【暗黒の凱旋将軍Δ師】
一体、何を隠している!
我々を出し抜いて――

黒頭巾は斃れた。

【真光の大元老Σ師】
仕方ないですね――
車はもう一台出ています。
【永久の聖石工長Γ師】
品川駅か?
【真光の大元老Σ師】
あちらには二人向かいました。
東方の黒騎士長Δデルタ師と、
大階段の審判長Λラムダ師です。
【永久の聖石工長Γ師】
なら大丈夫だろう。
【真光の大元老Σ師】
しかしΔデルタ師が、リードボーで、
食あたりとなり不参加かも……
【永久の聖石工長Γ師】
何だと?
なら我々が行くしかない!
急ぐぞ、Σシグマ師!

そう言うや2人の黒頭巾は走り去った。それを見計らうかのように先程の黒服の男性がやって来た。

【黒服の男】
いやぁ、何でしょうか、
あの乱暴狼藉らんぼうろうぜきぶりは!
私はね、喪神風魔さん、
より高位の会員から
仰せつかっているのですよ。
さぁ、参りましょう。
また目隠し――
もうご自分でお願いします。

再び車は走り出したが、
ものの5分ほどで猟奇倶楽部に到着した。風魔は案内を受けながらホールに入った。

〔猟奇倶楽部〕

猟奇倶楽部のホールは、以前と同様、
かすかに乳香にゅうこうの香りがしていた。
他に人影はなく静まり返っている。

ホールの端、大きく開いた開口部からフォスがやって来た。

【ゲルハルト・フォス】
君はよほど仕事熱心と見える。
そうではないか、モガミフーマ!
クラブの迎えがシナガワに来る、
そう知らされてね――
もちろん食事は済ませたよ。

君に届いた招待状はどうだ?
私のにはシュタイナー家の紋章もんしょうが、
それは美しく印刷されていた。

ユリアの話ではフォスは家を追われた身だ。
その家こそがシュタイナー家である。

【ゲルハルト・フォス】
長いナイフの夜、
シュタイナー邸は焼かれてしまった。
両親と弟は炎を恐れなかった――
なぜなら、屋敷が燃える前に、
SS隊員に処刑されていたからだ。
弟エルヴィンは爵位しゃくいを持つために、
とても出世が早かった。
死んだ時はSS上級大佐だった。

エルヴィンは突撃隊員のハンスと、
男色の関係にあった――
あの田舎出の青年と仲睦なかむつまじくね。
弟が反逆思想に染まるのに、
そう時間はかからないだろう。
どうだ、違うかね?

ここのクラブが何を知るのか、
私にはわからないが、
あの紋章が意味するところは――

完全なる総統コンプレットヒューラーを前にして、
是非ぜひ埋めておきたい小さな穴――
完全体に穴は不要だからな!
【???】
大佐にはご用意がありますよ――

その声の後、黒頭巾くろずきん姿の人物が、
ホールに姿を見せた。

【従順なる隸Θしもべシータ師】
シュタイナー家の紋入りのカップ、
私の手元に残りますよ。
世界でただひとつの品です。
【ゲルハルト・フォス】
何だと?
あの紋入りのカップを持つのか?
それは本物か?
【従順なる隸Θ師】
ご自分の眼で、
お確かめになっては如何ですか?
付いてきてください。

黒頭巾姿の男は廊下に入り、
小さな部屋へ2人を案内した。
隣の部屋がガラス越しに見えている――

〔猟奇倶楽部・控室〕

【従順なる隸Θ師】
さぁ、大佐――
あなた自身を示すものを、
ご確認ください。
【ゲルハルト・フォス】
カップはどこにあるのだ?
この部屋には見当たらないぞ。
【従順なる隸Θ師】
隣の部屋ですよ、大佐。
さぁ、そこの扉から入ってください。

うながされてフォス大佐は隣室へ入った。
黒頭巾の男は扉を閉めかぎをかけた。
しばらくして時計がかねを打つ音がする。

フォスが入っていた扉の両脇にガラス窓があり、部屋の中を見ることができる。その部屋の壁際には伝声管のような管が突き出し、脇に何かの装置があった。フォスは部屋の中央に佇み、その目は宙を泳いでいた。

【ゲルハルト・フォス】
おおお!
これは……私のカップだ!
すべてをなくした私に、
唯一ゆいいつ残されたカップだ――
このカップで私は埋まる!

時計のかねは12回鳴り、
さらにもう一度、打った。
かねは13回鳴った――

【ゲルハルト・フォス】
あああ!
どうしたんだ!
私のカップが!!

何故だ?
なぜカップを……
割ったのだ!!

貴様――
殺してやる!

フォスがこちらを向く。両手をガラス窓に叩きつけている。

【従順なる隸Θ師】
これから濃厚セヒラを圧縮します。
喪神さん、愈々いよいよですよ!
本番です!
この館にはセヒラを圧縮する
装置が用意されています。
セヒラは大佐のいる部屋に出ます。

フォスのいる部屋にある伝声管のような管からセヒラと思しき気体が吹き出した。部屋は見る見る紫色に染まった。

その時である。フォスの体からアストラルが表出した。フォスの体は浮遊するかのように揺らいでいる。そしてもう1体、アストラルが現れた。2体のアストラルはセヒラの満ちた部屋で対峙している。

【クルト・ヘーゲンのアストラル】
暗闇の中、こうとした灯りが見えた。
それがこの場所なのか!
ハンスの名を呼ぶのは誰だ?

【ゲルハルト・フォス】
――あう……あう……うう……

【ゲルハルト・フォスのアストラル】
あの男色青年のことか!
弟のエルヴィンとよろしくやって、
共に粛清しゅくせいを受けたハンスのことか!
【クルト・ヘーゲンのアストラル】
貴様か!
ハンスをめたのは!

2体のアストラルは激しく打ち震えている。やがて濃縮セヒラによって部屋は深海のように暗闇に包まれてしまった。

第八章 第十一話 蠢動する計画

〔セルパン堂〕

芽府めふ須斗夫すとおの語った予言、
ヒククアケ――
古文書こもんじょの研究者によってようやく解明された。ヒククとは日蝕ひくくのことであった。

【式部丞】
ヒククは日蝕にっしょくのことだったんですね。
この文を解読された蛙山かえるやま先生は、
独立の研究者なんですよ。
何処どこの大学にも組織にも属さず、
しかも独学で日本の古文書こもんじょを調べ、
今では斯界しかいの第一人者です。

さて、芽府めふ須斗夫すとお君の予言ですが、
日蝕にっしょくの日の明け方と語られました。
時期は……調べればわかりますね。
問題はその続きですね――
エニグマ暗号文とは中々厄介です。
新山にいやま技師なら解明できるでしょうか。
【着信 喪神梨央】
今年、五度目の日蝕にっしょくがあります。
十二月二十六日の未明――
皆既日蝕かいきにっしょく、場所は南極です。

梨央からの無線が終わったとき、塩町電停方面からユーゲントがやって来た。

【毘沙門丸】
君が喪神もがみさんだね――
僕は毘沙門丸びしゃもんまるだよ。
この間、会ったよね!
ヒエ神社にいたのは僕なんだ。
大型波動グローサベッレで命令された振りをしてね。
ヘーゲンを見張っていたんだ。
【式部丞】
ということは君は、
その大型波動グローサベッレの影響を受けていない、
そういうことなんだね?
【毘沙門丸】
ユーゲントが皆そうかは知らない。
少なくとも僕はそうだよ。
大型波動グローサベッレの影響を受けないんだ。
でも影響されたように振る舞う――
結構、楽しいもんだね、こういうの。
【式部丞】
つまりは間諜かんちょうすることが……
そういうことかな?
【毘沙門丸】
日本語ではそう呼ぶんだね、
ドイツではシュピオーンだよ。

【式部丞】
それで毘沙門丸びしゃもんまる君――
ユンカー所長の弟の話、
聞いたわけだが……
【毘沙門丸】
アーネンエルベでヘーゲンと
会っていたのは弟の方だよ。
双子だから見分けがつかない――
虹人こうじんさんがギンザで見たのは、
その弟と一緒にいたヘーゲンさ。
【式部丞】
柄谷がらたに生慧蔵いえぞう博士だったね。
博士の目的は一体何かな?
何故ヘーゲンに接触したのかな?
【毘沙門丸】
大型波動グローサベッレを連続で発動して、
この町中で戦を展開させて、
あわよくば現世にを認める――
それが目的だと思う。

危ない!!

毘沙門丸が言い終わるや否や、執事型ホムンクルスが走り込んできた。

【執事型ホムンクルス】
――目標ダスツィル! 確認ベステーティグン
コレヨリ……排除アンシュルス……開始シュタート

《バトル》

【執事型ホムンクルス】
……失敗シャイタン……
――残念シャーム……
【毘沙門丸】
大型波動グローサベッレで命令受けた奴だね――
でも、今、残念って言ったよね。
連中が感情を現すなんて……

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
――突然のことで……
事前にセヒラはありませんでした。

【式部丞】
大丈夫ですか、喪神もがみさん。
いやしかし、一瞬の出来事ですね。
――は……見えませんでした。
【毘沙門丸】
この町中で戦いが起これば、
人前にが現れるかも知れない。
【式部丞】
今のところは――
は異能者にしか見えない。
喪神もがみさんたち審神者さにわや、
あるいは召喚師――
【毘沙門丸】
僕たちホムンクルスも、
を呼べる。
あとは怪人だね――
【式部丞】
一般市民がを見るようになると、
が人を襲うようになる――
そうなのだろうか……
【毘沙門丸】
が見えないから恐れない。
見えると恐れる、それだけだよ。

フォス大佐が満洲に行き、
ユンカー所長が殺されて、
アーネンエルベは管理者不在なんだ。
僕たちはユリアと虹人こうじんさんを、
支えなきゃならないんだ。
【式部丞】
ユンカー所長をに手をかけた犯人、
もう目星がついているのかな?
【毘沙門丸】
たぶん……ヘーゲンだよ。
でも常のヘーゲンじゃないよ、
何か違う気がするんだ。
じゃ、僕は戻るね、
妙な事があれば連絡するよ。
調べたいこともあるし――

【式部丞】
毘沙門丸びしゃもんまる君はヘーゲンのことを、
調べるつもりだろう。
彼は素養がありそうだね。

公務に出ようとした風魔ふうまの元に着電があった。
熱海あたみで怪人が現れたという。
その怪人の写真が機関本部に届いた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
あっ!
兄さん――
怪人のレントゲン写真が届きました。
【新山眞】
いや……なるほど……
セヒラに感光していますな!
本来白黒が、セヒラ色に――
【帆村魯公】
怪人は熱海あたみの浜で死体で見付かった。
鉄道病院の沼津ぬまづ病院に搬送はんそうし、
このレ線像を撮ったそうだ。

その頭蓋骨は、眼窩がんかから鼻にかけて、すっかり失われていた。

【帆村魯公】
右上が後頭部に当たる部分だな――
このレ線像レントゲンでは、目と鼻が、
吹き飛ばされたみたいに見えるぞ。
【喪神梨央】
脳の内部に何かつぶ状の物体が――
あのぎっしりあるのは何でしょうか?
【新山眞】
沼津ぬまづの医者のメモには、
網膜腫瘍もうまくしゅよう末期に似た症例があると。
医者が文献ぶんけんを切り取っています――

網膜腫瘍もうまくしゅよう4期では、腫瘍しゅよう転移てんいはなはだしく、頭骨、脳底、付近の淋巴リンパ腺に転移を認め、膿敗のうはいした腫瘍面しゅようめんからの出血と腐敗熱ふはいねつ著しく――

【新山眞】
角膜かくまくを破り瞼裂外けんれつがいに突出する腫瘍しゅようの患者は見たことがあるそうです。
――でも破裂したのは初めてだとか。
巡査によると怪人が倒れていたのは、
省線熱海あたみ駅近くの浜で、
怪人の近くには――
【喪神梨央】
二つの目玉が
視神経ごと飛び出していたんでしょ?
鼻は野良犬がくわえていた――
【新山眞】
ええ、まぁ……
そういうことのようです。
【帆村魯公】
病院で怪人の死亡が確認された。
遺体は戸山の衛戍えいじゅ病院に搬送はんそうし、
より詳しい検査を行うそうだ。
【新山眞】
でもなぜ怪人とわかったのですか?
【帆村魯公】
伊東いとうで旅館の客が暴れだした。
旅館はものの二十分で壊滅かいめつした――
その客と姿恰好すがたかっこうが同じとのことだ。
【喪神梨央】
去年、丹那トンネルが開通して、
熱海あたみ駅は東海道線の駅に格上げされ、
これから温泉や別荘の客が増える――
そう期待されているのですよ。
熱海あたみ町長はさぞかしがっかりですね。
【新山眞】
衛戍えいじゅ病院は目立たないように、
手堅く警備するべきです。
ブンヤがぎつけると厄介ですよ。

ホテルフロントが来客を取り次いだ。そういうとき、ホテルフロントから直通の内線電話がかかる。

【帆村魯公】
風魔ふうま……
ロビーにお客だ。お前にだという。
――何を隠そう柄谷がらたに生慧蔵いえぞうだ。
【喪神梨央】
兄さん!
ユンカー所長の弟です。
事件に関わっているかもしれない――
【新山眞】
私も同席しましょう。
参りましょう、喪神もがみさん。

〔山王ホテルロビー〕

【柄谷生慧蔵】
ここが山王さんのう――
いや、立派なホテルですね。
京都から参りました、柄谷がらたにです。
殿下とは既にお顔なじみだとか――
聖宮成樹ひじりのみやなるき殿下です。

【新山眞】
あなたが計画の大元ですね。
蔦博士にセヒラ同定を指示し、
戦計画綱領を認められた――

私は陸軍飯倉技研の技手ぎて
新山眞にいやままことと申します。
博士が論文を出されたのは――

【柄谷生慧蔵】
あれは七年の二月のことです。
兄、ルドルフがセフィラを見付け、
ミュンヘンに至急電を打ったのです。

殺害されたルドルフ・ユンカー所長の、双子の弟、柄谷がらたに生慧蔵いえぞう。京都瑛山会えいざんかい重鎮じゅうちんでもある。

【新山眞】
ミュンヘン……つまりナチ党本部――
それでアーネンエルベが設立された。
あなたも戦について具申ぐしんされた。
【柄谷生慧蔵】
戦実施計画綱領――
参謀本部の動きは速やかでした。
翌三月に山王さんのう機関が設立されました。
【新山眞】
博士はあらかじめご存知だったのですか、
帝都のセヒラについて。
【柄谷生慧蔵】
独逸ドイツに兄の動向を知らせる人がいて、
セヒラ同定の四年ほど前から、
日本でセヒラ調査が行われていると、
そのように聞き及んでいました。
【新山眞】
でですか?
独逸ドイツの調査は帝都東京ではなく?
【柄谷生慧蔵】
ナチの研究者たちは、
伊豆いず半島の随所で調査しました。
ロッホと呼ばれるセヒラ場の調査です。
東京での調査点は目黒の近辺です。
しかし穴は見付かりませんでした。
【新山眞】
独逸ドイツではどうだったんでしょうか?
【柄谷生慧蔵】
ブレーメン、エッセン、ハーゲン、
不安定なセヒラで犠牲者が出ました。
兄の論文にそうありました――
【新山眞】
なるほど――
山王さんのう機関に運ばれた釣鐘のことも、
お兄さんの論文で知ったのですね。
【柄谷生慧蔵】
そうです。日本への搬入はんにゅう計画は、
シュタインベルク中将の発案です。
私も計画の後押しをしました。
【新山眞】
探信たんしん技術については如何いかがですか?
日本ではいち早く成功しています。
【柄谷生慧蔵】
霊式ヘテロヂン技術ですね。
これも兄の論文に書かれていました。
それを元に改良を加えたのです。
霊波を電気的信号に変える、
その研究は私の専門です。
私の書いた技術書はご存知でしょう。
【新山眞】
飯倉いいくら技研では聖書のような存在です。
携行式けいこうしき探信儀たんしんぎの開発に役立ちました。
探信儀たんしんぎの設置も博士の提案ですね。
なぜ空白地帯を設けたのですか?

第1から第6までの探信儀たんしんぎでは、探信たんしんできない空白地帯が存在していた。山王さんのう機関の携行式けいこうしきを用いておぎなっている。

【柄谷生慧蔵】
最初は八基を設置するはずが、
途中で立ち消えになりました。
赤坂御所と浅草、この二箇所が、
設置かられたのです。
業者の事情とだけ聞きましたが……

【新山眞】
博士……
うかがってよろしいですか?
お兄さんのことですが――
ユンカー所長は無残にも殺され、
その後ろに博士の存在があるのです。
この点については如何いかがですか?
【柄谷生慧蔵】
わかっています――
今は信じていただく他ありません。
私の憎しみは小さな欠片かけらです。
【新山眞】
というと……
既に目星がついているのですか?
【柄谷生慧蔵】
クルト・ヘーゲン――
おそらく彼の仕業ではないかと。
彼は憎しみの塊なのです。
無限ともいえる憎しみ――
むしろ彼はそれを歓迎している、
私にはそのように見えました。

【新山眞】
喪神もがみさん……
私は衛戍えいじゅ病院に行きます。
ユンカー所長が運ばれました。
それに……
熱海あたみの怪人も到着するでしょう。
ご一緒に如何いかがですか、博士。
【柄谷生慧蔵】
ええ、参りましょう。
兄を確認しなければ――

一旦、機関本部に戻った風魔ふうまだったが、梨央りおからの呼び出しではらえのへ向かった。

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
新山にいやまさんが伝え忘れたって――
碑文谷ひもんや大連ダイレンにセヒラのかたまりが、
確認されるようです。
範奈はんなさんのお父さん――
古賀こが容山ようざんさんのアストラルが居ます。
【帆村魯公】
ところで、梨央りお――
碑文谷ひもんや大連ダイレンは、帝都で言うと、
やはり東横とうよこ電車の碑文谷ひもんや辺りなのか?
【喪神梨央】
ええ、移動はないようです。
帝都満州は必ずしも、
同じ場所に留まってはいません。
でも、上野黒河コクガと同じように、
碑文谷大連ダイレンも帝都に由来する場所、
そこから動いていないようです。
【帆村魯公】
碑文谷ひもんやのどの辺りなんだ?
【喪神梨央】
ちょうど角福園かくふくえんという果樹園のある、
その近辺ですね……
【帆村魯公】
あの辺は仕舞屋しもたやばかりで、
特に目を引くようなものはないな……
【喪神梨央】
郊外の住宅地です。
碑文谷ひもんやは東横電車で渋谷から五つ目、
所要時間は八分です。

【帆村魯公】
風魔ふうま碑文谷ひもんや大連ダイレンには、
玄理げんり派のアストラルが集しておる。
何やら陰謀いんぼうの匂いもする――
【喪神梨央】
碑文谷ひもんや大連ダイレンのセヒラは、
殿下が釣鐘を調整されて、
帝都にも流れ込んでいます。
とは言え、元から強いので、
十分気を付けてください。

風魔はゲートを抜け帝都満洲鉄道駅へ。
そこでは満鉄列車長が
迎えてくれた――

【満鉄列車長】
碑文谷ひもんや大連ダイレンでは、
随分ときな臭い言葉が飛び交います。

政党政治家、財閥、特権階級らが
結託けったくして国民思想の悪化を馴致じゅんちし、
国家滅亡の恐れあるに
いたらしめる――

以前のアナーキストとは違い、
現役の将兵らが蹶起けっきすべく、
息巻いているようです――
当列車、間もなく、
碑文谷ひもんや大連ダイレン碑文谷ひもんや大連ダイレン
碑文谷ひもんや大連ダイレンに到着します。

〔碑文谷大連〕

【伊班U隊員】
貴様も革命に加わるのか?
摂津せっつ隊員――
ならば登米川轍とめがわわだち先生の、
愛国革命論は読んだのだろうな?
俺はそらんじているぞ、聞け!
現代日本においては政党政治家、
財閥及び特権階級のいずれも
腐敗ふはい堕落だらくして国家観念を失い――
【露班S隊員】
勿論もちろん読んだ、何度もな!
全六八〇ページ、丸々覚えた。
この革命隊、敢えて名をかんせず。
素晴らしいお考えだ、
さすが登米川とめがわ先生だ。
大仰おおぎょうな隊名を名乗った、
アナーキスト共はみな引拉いんらされた。
無名の革命隊、それでいいのだ。

【伊班T隊員】
我々は小さな革命分子。
階級を捨て、皆、兵卒扱いだ。
中には予備役になった者もいるな。
常田つねだ大佐はよく仰る!
鸚鵡能言オウムよくいえど 不離飛鳥ひちょうはなれず――
鸚鵡オウムが人になることはないのだ。
続きもある。
――猩猩能言しょうじょうよくいえど不離禽獸きんじゅうはなれず――

【露班N隊員】
貴様ら、護符ごふは手に入れたのか?
【露班S隊員】
必中禮ひっちゅうれいの護符のことなら、
まだであります!
待ち遠しいであります!

【露班N隊員】
若狭わかさ少尉はどうした?
龍土町りゅうどちょう日曜にちよう下宿にもおらん――
若狭わかさは何処へ行った?
【伊班T隊員】
先日、若狭わかさ副長の日曜下宿に、
ある人物が訪問しました。
坂木さかきと名乗る男性です。
【露班N隊員】
その坂木さかきは何と言ったのだ?
【伊班T隊員】
はい、人は自死する時こそ、
思念が極大化すると述べたそうです。
ちょうど副長が宗谷そうや中隊長から、
ひどなじられて落ち込んでいた頃です。
副長、もしやとは思いますが――
【露班N隊員】
宗谷そうや大尉がか?
いよいよ蹶起けっきする気だな――
成り行きを見守ろう。

さて困ったのは――
若狭わかさがいないと護符が行き届かん。
【伊班U隊員】
必中禮ひっちゅうれい礼記射義らいきしゃぎであります。
進退周還必中禮――
進退周還必ずしんたいしゅうせんかなられいあた
人の行為はすべからく規範きはんに従うもの。
ありがたい礼記らいきの教えです。
ぜひとも護符を手に入れたいもの!
我々で手分けして、
若狭わかさ少尉を探しましょう!
【露班N隊員】
上野うえの摂津せっつ敦賀するが
貴様らは赤坂区を中心に探してくれ。
俺は浅草を回る――
【伊班U隊員】
若狭わかさ少尉行きつけの甘味処かんみどころが……
たしか、今木いまきという屋号です。
浅草にあります。

辺りを震わす衝撃が走った!

【露班N隊員】
誰かるのか!
誰だ! 
【露班S隊員】
誰もいません――
気のせいであります。

そう言うとアストラルは音もなく去った。警戒を強めるアストラルは依然眼の前にいる。

【露班N隊員】
宗谷そうや大尉は愈々いよいよ決意したようだな。
陸軍省軍務局長の首を取る――
大日本の暁光ぎょうこう、間もなくだ!

慷慨するアストラルがようやく去った。その時着信があった。

【着信 帆村魯公】
連中、軍務局長を狙うだと?
意味がわからん――
玄理げんり派の奴ら、何をたくらんでおるのだ?
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
ひときわ強いセヒラを観測しました。
警戒してください!

思念を強めているのか、比較的大きなアストラルが風魔の前に来た。

【伊班W隊員アストラル】
熊本幼年学校を主席で卒業した自分、
それなのに計画に加われないのか!
登米川とめがわ先生の愛国革命論、
すべてそらんじている!
――ただあの夜は酒が入り……
同志をつのるの項目を失念した――
なるべく係累けいるい少く
一家の責任軽きものなるか
あるいはそれらを超越せる人物なること
つのる同志の条件についての項目、
第八の項目を失念したのだ!
あああ、俺はもう駄目だ!
俺は、俺は、佐賀の父上、お許しを!!
うわぁぁぁぁ~

《バトル》

【伊班W隊員アストラル】
日曜にちよう下宿を飛び出して、
気付いたら四谷よつやをふらついていた。
以前は鮫河橋さめがはしと呼ばれた辺りだ。
戒行寺かいぎょうじの急坂を降りきる手前に、
立派な洋館が建っていた。
その洋館から黒頭巾くろずきんの人物が、
一瞬だけ姿を見せ、消えた。
あれは何だったのか――
俺のあずからない所で、
帝都に動きがあるわけだ!
鮫河橋さめがはしを抜けて省線信濃町しなのまちまで来た、
そこでまた俺は自失したのだ!

無念さと怒りがない混ぜになった感情を吐露し、アストラルは回転しながら消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
先程の街区にセヒラです。
大きくらいでいます――
おそらく、範奈はんなさんのお父さん、
そのアストラルです――

無線の梨央に促されるように、風魔は慎重に隣の街区へ向かった。そこにはひときわ大きなアストラルがいた。

【Kアストラル】
範奈はんなを知る者よ――
良くしてくれた、なかだちをしてくれた。
君がここに来たおかげで、
道が繋がった――
そうだ、繋がったのだ!
今から範奈はんなに会いに行く。
君も来てくれ!

アストラルが言い終わる前に周囲が暗くなった。次の瞬間、風魔は鍛冶橋の路地にいた。

〔鍛冶橋〕

周囲の風景はセヒラの影響で歪んで見える。先程の大型アストラルが浮かんでいる。そしてビルを背に1人の女性が立っていた。廣秦範奈である――

【Kアストラル】
範奈はんな
そこにいるのは範奈はんなだな!
【廣秦範奈】
――お父様……
私をここへ呼んだのも、
お父様なのですね?
喪神もがみさん――
父です……父が戻ったのです!

【Kアストラル】
範奈はんな、聞いてくれ。
私は廣秦ひろはた伊佐久いさくではない。
私は古賀こが容山ようざんという篆刻師てんこくしだ。
幻の石を求めて長野山中に赴き、
思念の世界へちたのだ。
そこはアラヤ界と呼ばれる場所で、
古今東西、あらゆる念が行き交う。
――実ににぎやかな場所だ。
私はそこである強い念と出会う。
そしてさとるのだ、私の使命を。

Kアストラルは娘に語って聞かせた。6世紀に日本に渡ったマナセ一族のすえを探し、その霊異りょういを護ることをたくされたのだと――

【Kアストラル】
すべてはお前の生まれる前のことだ。
範奈はんな……私は遠い時代に通じた。
そうだ、未来に通じたのだ。
一九九七年の香港ホンコン九龍城砦クーロンじょうさいにある、光明路コウミョウろという町に通じた――
そこで私は研究者として暮らした。
未来の技術をふんだんに用いて、
風水の気脈を調べる機械を作り、
アラヤ界と現世を繋ごうとした。
そうすればアラヤの回廊かいろうを行き交う、
思念を呼び出すことができると――
マナセ族のすえも呼べるはずだ。

もう戻らねばならない――
範奈はんな、未来の香港ホンコンでの私は、
エリオットラウという名前だった。
一九九七年から十五年、
私は研究に打ち込んだ――
しかしまた深い場所へとちたのだ。

ああ、だめだ――
また会えるだろう、範奈はんな
お前に伝えるべきことがあるのだ。

範奈の父というアストラルは震えながら消えた。周囲のセヒラは依然揺らいでいる。

【廣秦範奈】
お父様! 
もっと聞かせてください!
お父様!!

喪神もがみさん――
父はどうやってここへ、
現れたのですか?
喪神もがみさん!
喪神もがみさん!!

急にセヒラが強くなり、風魔は時空の狭間に飲み込まれてしまった――

〔時空の狭間〕

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
かなり強いセヒラ観測です。
――すぐ近くです!

無線が終わるや否や1体のアストラルがやって来た。

【伊班S隊員アストラル】
若狭わかさ副長は革命分子失格だ!
愛国革命論にある同志募集要項、
大切な条項を失念しおった!
事の発端は、軍務局の秘密主義だ。
しくも出入り業者によって、
課なるものの存在が明らかに!
軍務局長の真坂まさか殿下は王道おうどう派だ。
参謀本部についで陸軍省も、
王道おうどう派をようして覇権はけんを確立するのか!
常田つねだ大佐はひどく憤慨ふんがいしておいでだ。
義憤にたぎる青年将校らと血盟けつめいし、
革命運動の根幹が誕生したのだ!
蹶起けっきの準備は着々と整う。
必中禮ひっちゅうれいの護符が熱を帯びてきた!
あと数時間で日本は変わる!
ワハハハハ~

我が思念の先でおののく貴様は誰だ!
小手調こてしらべにうってつけだな!!

《バトル》

【伊班S隊員アストラル】
我ながら上出来だ!
真坂まさか閣下かっかは悪の総司令である!
大逆たいぎゃく枢軸すうじく殲滅せんめつし、
昭和維新いしん大業たいぎょう翼賛よくさんたてまつろう!!

慷慨収まらないまま、アストラルは回転しながら消えた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん、
軍務局長が狙われているのですか?
陸軍省の真坂まさか少将です――
【帆村魯公】
玄理げんり派の連中が、王道おうどう派を
こころよく思わないのは衆知しゅうちのことだ。
しかし命を狙うほどのことか?
課というのも気になるが。
我が山王さんのう機関課とは違う、
あくまで陸軍省の部署だな。
【喪神梨央】
蹶起けっきした班S隊員というのは、
宗谷そうや大尉のことだと思います。
【帆村魯公】
班は歩三の隊員だな、
元召喚小隊の一員だろう。
【喪神梨央】
帝都満洲は帝都に比べて、
時間の進みが遅くなっています。
およそ八倍ほども遅いようです。
【帆村魯公】
――そうか……
そうだったな!
数時間という猶予はないぞ!
梨央りお
陸軍省だ、軍務局に変事はないか、
確認してくれ!
【喪神梨央】
承知しました!

玄理げんり派の一派が反逆を起こさんとしている。
陸軍省軍務局長の襲撃――
義憤の念が帝都満洲をめぐる。
一方、伊佐久いさくこと古賀こが容山ようざんのアストラルは、娘に伝えることがあるという。帝都と帝都満洲、2つの世界が、さまざまな思惑おもわくを通わせ始めた。

柄谷生慧蔵がらたにいえぞう

 聖宮殿下と同じく瑛山会に所属する京都帝国大学の物理学教授。東京帝大の蔦博士によるセヒラ同定を受けて魔神戦実施計画綱領を参謀本部に提出した。山王機関の設立に寄与し、帝都各所に探信儀を設置する計画も立案している。
 帝都における様々な霊異に人一倍の関心を寄せているようだが、物理学者がこうした実証のあやふやな事象に興味を抱くのには若干違和感を覚える。帝大の蔦博士とはかねてより面識があるらしい。