第九章 第十三話 東京黙示録

12月25日、先帝祭で祭日であった。
ホテルでは午後の早い時間に人払いされ、従業員も宿舎に待機となった。
溜池通には軍用トラックが二台停められ、数人の立哨が警備に付く。

クリスマスパーティは中止となり、
客のないロビーに飾りがむなしく輝いていた。

そして皆が案じている
虹人こうじん行方ゆくえ――
数百年の時を越えた思念の繋属けいぞくが、虹人の中に白金江しろかねこうを形成するに至った。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
虹人さん――
この時間になっても、
波形も全然観測されません!

隊長……
虹人さんは自分の中に白金江の
姿を見ていたんでしょうか?
【帆村魯公】
何かしら感じておったに違いない。
だが受け入れはしなかった――
虹人と名前を変えたわけだしな。
【喪神梨央】
こうって言う名前、
お父様がお付けになったんですね。
【帆村魯公】
そうだ……
変わり者の親父だ。
親父は虹人が生まれて半年ほどで、
姿をくらませてしまった。

ノックの音とともに九頭が姿を見せた。

【九頭幸則】
歩一の九頭くずです。
先生、隊の方で、
小耳に挟んだことがあって――
【喪神梨央】
虹人さんの行方でも、
わかったんですか?
【九頭幸則】
いや、そうじゃないんだ。
鈴代の叔父おじ山郷やまごうの方に、
内偵の入った形跡があると――
【帆村魯公】
ほう!
さては内務省でも動いたかな――
【喪神梨央】
殿下の仰っていた有澤機関、
あそこじゃありませんか?
だとすると――
【九頭幸則】
拠点はセルパン堂、だよね?
休暇の准尉じゅんいに行かせたよ、
目立たぬように平服でね。
【喪神梨央】
セルパン堂にですか?
式部しきべさん、いなくなったんですよ。
【九頭幸則】
梨央りおちゃん、裏切られたみたいで、
怒ってる?
【喪神梨央】
あまりいい気はしません。
私たちのことも探っていたんです!
身内のように思っていたのに――
【九頭幸則】
でも敵というわけでもなさそうだ。
准尉じゅんいがこれを持って帰った――

【帆村魯公】
これは芭蕉ばしょうの句だな。
漁火いさりびかじかなみしたむせび――
【喪神梨央】
かじかって魚ですよね?
鳴いたりするんですか?
――むせぶって……
【帆村魯公】
昔、かじかかわずの区別がなくてな、
かじかは鳴き声を立てると思われていた。
漁火に驚いたりしてな。

そういや梨央、
前に鰍沢かじかざわの話、なかったか?
【喪神梨央】
ありました!
赤坂哈爾浜ハルピンのお熊アストラルです!
それと――
式部さんも鰍沢かじかざわの落語聞いたと、
そう話していました。
【九頭幸則】
この俳句は、
何か意味を含むのかなぁ……
入口の引き戸にしてあったそうだ。
【帆村魯公】
うむ……
鰍沢かじかざわちなむ場所は何処どこだ?
甲州か――
【喪神梨央】
そうです、甲州きっての急流です。
吉原女郎だったお熊は……
【九頭幸則】
どうしたの、梨央ちゃん?
【喪神梨央】
お熊は心中にしくじって、
しばらく品川溜めに置かれます――
【九頭幸則】
それじゃこのカードは、
品川にいざなってるんじゃないのか?
そうだよ、風魔!

【喪神梨央】
どうしますか?
品川に怪人の報告はありませんが。
それにそろそろ日も暮れます。
【帆村魯公】
構わん!
梨央、公務電車の手配だ。
中尉も同行してくれ!
【喪神梨央】
承知しました!
品川まで手配します!

【九頭幸則】
行こう、風魔、
何があるかわからんが――

〔吉原遊郭〕

式部しきべの残したカードにヒントを期待して、九頭くず風魔ふうまは品川遊郭ゆうかくへ。
遊郭一帯は物々しい雰囲気だった。軍用トラックが何台も停まり、憲兵や兵が方々に展開している。

【九頭幸則】
何だ、騒然そうぜんとしているなぁ――
それにこの憲兵らはどこから……

【死骨崎憲兵中尉】
おい、貴様!
ここで何をしている!
【九頭幸則】
そっちこそ……
これは公務なのか?
【死骨崎憲兵中尉】
なんだと?
公務だとぉ?
俺達の公務なんざ、
とっくに終わってるんだ!
擅権せんけんの大罪など関係ないわ!!

そう言うなり憲兵は脱兎のごとく走り去った。

【九頭幸則】
どうやらめいあるわけじゃなく、
勝手にいきり立っているようだ。
――それにしても……

何だ、この甘い匂いは……
どこかで嗅いだことあるぞ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測しました!
すぐ近くです!

そこへ太った将校らしきが駆けて来た。右の肩章は大尉だが左には少佐のを付けている。

【地獄谷上級大佐】
無念だ、無念だ!
せっかく上級大佐まで上り詰め、
これからだと言うのに!

貴様らは悔しくないのか!
【九頭幸則】
じょ、上級大佐ですか?
――まるでナチのようです。
【地獄谷上級大佐】
うるさい!!
我が帝国陸軍はナチなどではない!
神洲大八洲しんしゅうおおやしまから世界をべる、
選ばれし神民の軍隊だ!

その最たるは東京ゼロ師団!
またの名をゼームス師団――

国立防疫研究所――
戸山砲工学校――
渋谷憲兵大隊――
全ては泡沫うたかたの夢であったか――
【九頭幸則】
わかってますよ、大尉。
すべては魔の力で仮構されたもの、
この甘い匂いとともにね!
それを泡沫うたかたとは――
随分とロマンチストですね!

【地獄谷上級大佐】
地獄谷じごくだにの名を得た夜、
私は生まれ変わったのだ!
う・ま・れ・か・わ・っ・た!
【九頭幸則】
地獄谷……
こりゃすごい名前もあったもんだ。
(風魔、気を付けろ、相当なもんだ)

【地獄谷上級大佐】
どうせちるところは同じだ、
貴様らを道連れにしてやる!!

《バトル》

【地獄谷上級大佐】
……荒川の……
帝国……モスリン……
あすこだけは――

――うっ
【九頭幸則】
帝国モスリンの他はどこだ?
まだあるんだろ、工廠こうしょうが!
――おい、答えろ!
【地獄谷上級大佐】
――

謎の将校は斃れ、そのままセヒラと化した。

【九頭幸則】
山本――
少尉だが同輩の付き合いだった……
奴は近づきすぎたんだ。
帝国モスリンに――

いや、違う!
工廠こうしょうにだ!

そして――
工廠こうしょうはまだ他にもある!
だが……場所はわからない――

そこへ芸者がしなを作りながら歩いて来た。

【品川芸者幾松】
四谷からお越しのお二人様かしら?
【九頭幸則】
四谷?
――あ、ああ、そうだ、四谷だ。
ここから来た。

九頭は咄嗟とっさにセルパン堂にあった、式部の残したとおぼしきカードを見せた。
それを見た瞬間、芸者は体を硬直させた。わずかに震えてもいる。

【品川芸者幾松】
嘘と誠の二瀬川ふたせがわ
だまされぬ気で~
だまされて~

妖艶な声で端唄はうたを愛唱すると、芸者幾松いくまつうつろな表情となった。
そして別な言葉を口ずさみ始めた――

【品川芸者幾松】
山郷やまごう、甲府にて甲斐絹かいきを扱う、
屋号は山郷絹糸けんし
最寄りは富士身延みのぶ鉄道
金手かねんて停留所――

芸者は報告書を読むような口調で、
山郷についての調べを述べた――

芸者は音もなく消えた。

【九頭幸則】
芸者は暗示をかけられた――
そんな感じだよな。
山郷側調査の内容を、
芸者に覚えさせてあるようだ。
これじゃ漏洩ろうえいは難しそうだな。

そこへもう一人、芸者が現れた。そして端唄の調子を披露した。

【品川芸者稲貞】
青いガスとう 斜めに受けて~
白い襟足えりあし 夜会巻き~

芸者は新京シンキョウに在る山郷の取引会社、柞蚕糸さくさんし問屋の満蒙絲線まんもうシーチェンについて語った。
山郷は社長の好文海ハオウェンハイに取引を持ちかけている。

芸者は音もなく歩き去った。

【九頭幸則】
柞蚕さくさんが不良で新京シンキョウハオ社長は困り、
山郷は甲斐絹かいきを調達したそうだ。
おかげで急場をしのげたと――

その見返りに山郷は、
太古たいこに北支に落ちた隕石いんせきをもらう。
その隕石をどうするつもりだ?

また一人、芸者がやって来た。またもや端唄の調子だ。

【品川芸者菊丸】
お前とならば どこまでも~ 
箱根山はこねやま 白糸滝しらいとたきの中までも~

芸者曰く、山郷は隕石いんせきの力で麗華れいかに深い霊異りょういをもたらし、その力を利用して支族末裔まつえいの思念を呼ぶ――
山郷はどこまでも
力に固執していたのだ。

芸者が去った。

【九頭幸則】
山郷は麗華さんに何をしたんだ?
それに……
どうやって麗華さんを呼び出した?
泣く子も黙るあの関東軍が、
麗華さんを保護していたんだろ?
容易よういには手出しできんぞ――

またもや芸者が来る。

【品川芸者市若】
雪はともえに降りしきる~ 
屏風びょうぶが恋の仲立ちに~

端唄に続けて芸者は、東雲しののめ流に伝わる香合こうごうは、互いに瑞祥ずいしょうを現すのだと語った。芸者にたくされた言葉はこれが最後であった――

芸者は遊郭の路地を歩いて行った。

【九頭幸則】
麗華さんに協力お願いすれば、
山郷の香合こうごう瑞祥ずいしょうを表して、
それで居場所がわかるはずだ。
麗華さんは鈴代がかくまっている、
そうだよね?

俺、鈴代の家に行ってくる!
瑞祥ずいしょうとやらが現れたら、
そこが山郷の居場所だ、
急ぐんだぞ、風魔!

九頭くず鈴代すずよの家に円タクを飛ばした。
二つのアルツケアンを取り込んだことで、古式東雲しののめ流の奥義おうぎ会得えとくした麗華――
まだ強い霊異りょういを現すには至らないようである。

【着信 喪神梨央】
先程、紀伊国坂きのくにざかで、
芽府めふ須斗夫すとおの身柄が確保されました。
麹町こうじまち署の巡査にです――
機関本部で山王さんのうホテルに部屋を取り、
今はそこで休んでいます。
独逸ドイツ大使館で名前を思い出し、
その後の意識がないそうです。
大使館からは一キロ少々です……
彼は歩いてきたと思われますが、
紀伊国坂きのくにざかで車から降りた、
そんな目撃もあるのです。

ホテルの屋上から、
瑞祥ずいしょうを探しますがまだ見えません。
見つかり次第しだい、連絡入れます。

東雲しののめ流の霊異りょういしずまっている。
しかし受継がれた香合こうごう瑞祥ずいしょうを現すという。
それは空に差す霊光として現れるのだ。

果たして瑞祥ずいしょうは現れた。
山王さんのうからほぼ東の方角、銀座の辺りに霊光が差したのだ。

夕の空に現れた瑞祥ずいしょうを手がかりに、銀座方面へ公務電車を走らせる。
四丁目を過ぎたところで電車は停止した。

〔銀座街路〕

銀座の電車通には異様な光景が広がっていた。大通の中央に巨大な繭玉がいくつも重なり、巨大な一つの塊を為していた。黃灰色の繭玉は、むっとするような熱気を発していた。

市電は通行止めとなり、車も止まらされていた。京橋署の巡査が総出で物見遊山の市民を押さえ込んでいた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
幾つもの波形を観察します。
まだセヒラはありません――
波形の数、尋常ではないのです!

脇の路地からスーッとレンザが現れた。

【吉祥院蓮三郎】
風魔ふうまさま――
あれは何でございましょうか?
私、不思議な感覚がしたのです。
それを頼りにここへ来ました。
そうしたらあのようなものが――
さしずめ、まゆというところですか?
それも幾多いくたまゆが合わさり――
一つ一つがとても大きいですよ!

レンザがはっと目を見開いた。その視線の先、巨大な繭玉の塊から白い霧のようなものが現れているのが見えた。銀座の電車通が見る見る白くなっていく。

【吉祥院蓮三郎】
何か気配がします!
風魔さま!
お気を付け遊ばし!!

レンザの姿が白い霧のようなものにかき消されてしまった。

〔白の狭間〕

そこは時空の狭間であろうか。不透明な白い空間が広がっていた。
空間が歪んだかと思うと山郷武揚が現れた。山郷はセヒラを帯びている。

【山郷武揚】
君たちはこのような機械で、
人をさぐっていたのかね?
いや、よく出来ている。
人も波形を現すとはな――

牛頭の賛同者が飯倉いいくら技研にもいてね。
機械が示してくれたんだ。
ひときわ目立つ波形が二つ――
思わぬ僥倖ぎょうこうだったよ!
一つはここにいる――
遠い過去からの繋累けいるいだ。
そしてもう一つ――
私にとっては馴染み深いものだ。

アルツケアン!
はははは、まだ残っていたとはな!
あの書生風情が大使館から持ち出し、
三宅坂みやけざかを下っていた――
さっそく迎えの車を用意したよ。
今宵こよいはやけに冷え込む。
歩くと風邪を引くからね!

一瞬、周囲が白く輝いた。

【山郷武揚】
北支の隕石いんせき月詠つくよみ麗華れいかを満たした。
人の役に立てて実に嬉しい限りだ。
達成感は空虚くうきょ感をもたらす――
私の中に小さな穴が空いてね。
それをめてみよう、そう考えた。
はからずとも私は導かれた。

アルツケアン――
私のために残っていたのだよ、
私を待ってくれていたのだ。
これをなんとかしないと、
万能の石に申し訳なくてね!
君もそう思うだろう?
私は僥倖ぎょうこうを得たのだよ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし!!
尋常じんじょうではないセヒラです、
最大限の警戒を!!
【山郷武揚】
おやおや、こんなところにまで!
技術はける――
しかし人生はかくも短い!

《バトル》

山郷は風魔を見ている。しかしその視線はもはや風魔を捉えてはいなかった。

【山郷武揚】
見てくれ!
第五齢の熟蚕じゅくさん相成あいなった!
じき排尿するぞ!
排尿が終わると吐糸としを始める。
愈々、営繭えいけんに取りかかるのだ!!
さぁ、私をまぶしに収めてくれないか。
上蔟じょうぞくが終わると、吐糸を始めるぞ。
私は完成の域にあるのだ――

一瞬、周囲が白く眩しく輝いた。

【山郷武揚】
何だ? どうした?
私は……これは……
又昔またむかし? 赤熟せきじゅく? 小石丸――

違うのか!!
――かいこの種類は何だ?
これは……家蚕かさんではないのか!

再びの輝き――

【山郷武揚】
まさか……
北支の柞蚕さくさん――
好文海ハオウェンハイの作った白黄斑山繭しろきまだらやままゆなのか!

はぁはぁはぁ~
全滅したのではなかったのか――
私の持ち込んだかびで。

ウアハハハハ~
そうだよ、斑僵病まだらきょうびょうで全滅だぁ~
ハオ柞蚕さくさんは全滅だぁ~

周囲が白く輝いた後、真っ暗になった。
暗闇の中で山郷がもがいている。しかしその声はは聞こえない。山郷は強烈な幻覚におそわれていたのだ。
その幻覚は現実に一端いったんあらわした。
山郷は口から大量の糸を吐いたのだった。吐糸は果てることなく続いた。

【吉祥院蓮三郎】
ひゃぁ~
大変でございます!
黄色い糸がそこいら中に!!

【着信 帆村魯公】
風魔ふうまよ、山郷やまごうはアストラル化した。
レンザが見た糸は幻覚だぞ。
【着信 喪神梨央】
兄さん、銀座通ですが、
もうじき通行止めを解除します。
近くに虹人こうじんさんらしき波形も……
先程までは日劇前で確認……
今は波形は不安定ですが、
通行戻る前に急いで下さい!

〔日劇前〕

人の姿のない日劇前に虹人がいた。
虹人は白い光をまとっている。風魔に並ぶレンザが一歩踏み出した。

【吉祥院蓮三郎】
なんとなくこの辺りではと――
私、最近、えてきております。

虹人さまに古よりの繋累けいるいが及ぶと?
――私にはまだのように見えます。
さしずめ私は及び損ねた存在――
それゆえ、よく分かるのです。
まだ及んではおりません。

虹人を包む光が一瞬だけ大きく広がった。光は虹人の内側をも照らすかのようだった。

【吉祥院蓮三郎】
何でしょうか?
【帆村虹人】
やぁ、風魔!
すっかり審神者さにわのなりが板についた。
自分でもそう思うだろ?
今通う道場は目黒だよね?
競馬場跡近くの目黒不動だね。
省線駅から東横乗合を使うんだろ?
兄貴は目黄道場も開くって――
小松川区、荒川の西岸だよ。
総武本線の平井が最寄りだって。
目黄道場が開かれたら、
僕はそっちに通うことになりそうだ。
ちょっと遠いんだけど――
赤坂山王さんのうに特務機関を作る話も――
そうなれば、風魔、
お前と一緒になれるのかな?

虹人は相変わらず白い光の中にいる。

【吉祥院蓮三郎】
これは少し過去の話のようです。
時間が巻き戻ったみたいです。

虹人を包む光が大きく揺らいだ。

【吉祥院蓮三郎】
気を付けてください、風魔さま!
【帆村虹人】
目黄不動は府立七高女の近くだ――
高女といえばだよ、風魔、
面白い話があるんだ。

オフィーリア誌にページいて、
君影きみかげたよりをもうけることになった。
読者交流が発展するな!

虹人の光が一層の輝きを増す。

【帆村虹人】
――鈴蘭すずらんの子たち、
みんな僕のことを、
シロカネコウと呼ぶ――

虹人の周囲にセヒラが集まり始めた。その勢い、濃度ともにこれまでにないほどである。

【着信 喪神梨央】
気を付けてください!
セヒラ急上昇です!

セヒラの紫色が、先程までの白い光を追い出したかのように、虹人はすっかりセヒラに呑まれている。

【帆村虹人】
風魔には聞こえているかい?
まるで自分のことのように――
この言葉が僕をめぐるんだ。

全魔域パンデモニアムはルシファーの城府、
かの輝ける星をサタンにたくらべて、
かく呼べる――

虹人の声が遠ざかり、やがて周囲から光が失せた。
真っ白な空間に一台のラヂオがある。
ノイズ混じりの声が聴こえる――

安寧あんねいですか? 安寧あんねいですか?
――皆さま、どなたも、安寧あんねいですか?

淀橋区・東洋ホテル――
山梨からの上京時、山郷武揚の定宿である。山郷は甲府市内で生糸きいと商を営んでいる。屋号は山郷絹糸けんしであった。

【山郷武揚】
ついに興亜撚糸ねんしとの商談が決まった。
これで念願ねんがんかなった――
私たちの努力がむくわれたのだ。

今夜は泊まらずに夜行で帰ろう。
朝の四時頃には甲府に着くはずだ。
そのまま社で仮眠を取ればよい。
明日、朝一番に社の皆に知らせよう。
吉報きっぽうだ、皆、喜んでくれるぞ!
眠いなど言ってはおられんな!

四谷区・塩町尋常じんじょう小学校――
鈴代すずよ九頭くず風魔ふうまたちの出身校だ。
この春、音楽訓導くんどうとして赴任ふにんした柴崎周しばさきあまね。五月の合唱会に向けて練習に余念よねんがない。
毎年、唱歌夏は来ぬが選ばれる。

【柴崎周】
はなの 匂う垣根かきね
時鳥ほととぎす 早も来鳴きて
忍音しのびねもらす 夏は来ぬ~♪

我が胸に響くは子らの歌声だ。
伸びやかなる声は初夏の空のように、
瑞々みずみずしく、くもりのないもの――
子らの歌声を聞いていると、
私の心も洗われるようだ。
さぁ、今日も練習にはげもう!

赤坂区・料亭一繁いちしげ――
四谷荒木町の万屋よろずや御用聞ごようぎきに来ていた。万屋よろずやは屋号を木曽屋きそやという。酒や乾物かんぶつも扱う大店おおだなである。
小森こもり時夫ときおは木曽屋の番頭ばんとうであった。

【小森時夫】
一繁いちしげさんで政治家の壮行会があると。
麦酒ビールが二十ダースとは大注文おおちゅうもんだな!
きっと親爺おやっさん、喜ぶぞ!
確か日本平世党の政治家だと――
春はあけぼののような穏やかな世の中は、
平世党のおかげだなぁ……

いけない、いけない、いけないぞ!
塩町の如月きさらぎさん宅に向かわないと。
如月きさらぎさんは木曽屋の大得意だしな!

京都市伏見区・墨染すみぞめ――
輜重しちょう兵営第十六大隊の隊附中尉、鬼龍きりゅう豪人たけと
士官室の窓辺に置いた机に月光が差す。その灯りを得て、鬼龍は手紙をしたためている。西陣にしじん商家の娘、小原時子に宛てである――

【鬼龍豪人】
もうじき中秋の名月ですね。
今年は九月十二日だそうです――
来週の木曜日になります。昨年、君と嵐山で拝観はいかんした秋月しゅうげつは、今も私の心を照らしています。いささかのかげりを含ませた物憂ものうげな光――
なげけとて 月やは物を思はする 
かこち顔なる わが涙かな――
西行法師の歌を君に贈ります。豪人

日本橋区・興亜百貨店――
バンカツこと坂東勝一郎の読書会が開かれる。バンカツとは帆村ほむら虹人こうじんのペンネームだ。冒険少年年末号に六十八ページにわたり、書き下ろしの冒険小説が掲載けいさいされるのだ。

【帆村虹人】
南海の蒼風そうふうは構想二年の大作だ。
海賊に育てられた少年が成長し、
海の軍閥ぐんばつを率いる話だ。
波高い満剌加マラッカの海を舞台に、
海賊や賊軍相手に戦いを繰り広げ、
やがて海の支配者になっていく――

話は今日の読書会で初めて披露ひろうする。
先月号にその案内が載ったが、
わずか三日で予約は埋まったそうだ。

麻布あざぶ区・麻布あざぶ市兵衛いちべえ町――
聖宮ひじりのみや邸に植木職人新山眞にいやままことの姿があった。
東京電気通信工業を休職中の新山は、陸軍登戸のぼりと研究所の依頼いらいでく号兵器開発のかたわら、植木屋松巧まつこうの職人として働いていた――

〔聖宮邸庭〕

白い霧に覆われた宮邸の庭。垣根の低木を選定していた庭師が立ち上がりこちらに来た。庭に姿を見せた風魔に気が付いたのだ。

【新山眞】
おうちの方でいらっしゃいますか?
――私、植木屋です。
いやぁ、今日は五月晴れですな!
梅雨なのに五月とはこれ如何いかに?
ははは、旧暦ですよ、旧暦。
旧暦では梅雨は五月だったのです。
梅雨の合間の晴れを五月晴れ――
今日みたいな日和ひよりのことですね。

今日の剪定せんていはほぼ終わりました。
久しぶりに社に顔でも出しますか。
はは、こう見えても技術屋なんです。

突然、辺りが紫色に変わった。セヒラに満たされようとしているのだ。
そこへバールが現れた。バールは風魔をまっすぐ見て言う。

【バール】
ここに長居は無用だニャ!
すごく危険だニャ!
【バールの帽子】
ゲロゲロ、ここには何もない、
喜びも悲しみも、愛も憎しみも、
何も何もないゲロよ!
【バールの帽子背後】
無限に広がる虚無きょむの世界じゃよ。
皆、本心を押し殺して暮らし、
そのうち本心さえなくなった世界だ。
【バールの帽子】
誰もがうわつらだけで生きているゲロ、
早くこんなところからずらかるゲロ!
【バール】
ん?
誰か来るニャ!
風魔、気を付けるニャ!

邸の方から聖宮がやって来た。

【聖宮成樹】
何か騒がしいですが――
どうかされましたか?

その時である、白い霧が一気に晴れて明るい庭となった。

【新山眞】
喪神さん!
――ここは……
私は……何をしているでしょうか?
――この庭で……

【聖宮成樹】
――
――喪神……さん?

一瞬、世界は白い霧に包まれかけた。しかしすぐに晴れる。

【聖宮成樹】
喪神さん!
ご公務でいらっしゃいますか?

周りの光景が滲んで消えた。
薄暗闇の中に風魔は立っている。
不意に声がした。

【???】
風魔――
私よ、淑子としこよ。
今、あなたを近くに感じるわ。

風魔――
あなたに会いたいわ……

風魔は声の方へと歩き出した。
そこへバールが現れた。

【バール】
風魔、耳を貸すんじゃないニャ!
さぁ、事変の世界に戻るニャ!

風魔は闇に呑まれてしまった。

1935年12月26日未明――
愈々いよいよ、新しい天地が現れようとしていた。それは柴崎が求めて止まなかった混沌カオスの世界であった。

あらゆるものが不整合に融合し、歪み、軋んだ音を立てている世界であった。
それこそが悪魔の望む世界なのである――

しかしそこにもう一つの力学が作用して、二つの世界は弾かれようとしていた。
その中央に姿を見せるのが虚無の世界であった。綾部研究員が言及した世界だ。

【着信 喪神梨央】
兄さん!
同じ場所に三つの波形があります!
――兄さんが立っている場所です!
これだと兄さんが三人いる、
そういうことになってしまいます!
ドッペルゲンガーではありません!

【着信 新山眞】
三本の世界軸が接近している、
どうもそのようです。
混沌世界、虚無世界、そして現世――

一本に合わさるのでしょうか?
それとも――

再び周囲から光が失われた。
3つの世界の狭間に吸われたかのように。

そこに虹人がいた。
風魔を見据えるその目は歓喜に輝いている。

【シロカネコウ】
長い間、眠っていたワ!
十年、いや二十年……
その前からすると、もっとヨ!

お前が私を待っている人なの?
そうぢゃないのか知ら?
違うならどうして此処ここに居るの?
待っていたんでしょ?
さっきまでの人は、
すっかり居なくなっちゃったワ。
だからぐに繋がるのヨ!

あら、嬉しかないの?
嬉しいはずヨ、屹度きっと
ほら、私ヨ、見て、見て、見て!!

《バトル》

【シロカネコウ】
やっとね!
やっとよ……
随分と長かったワ!

星の夜に大君ルシファーは昇りゆく
その暗の統御とうぎょあぐむんで 
雲の半ばにおおはれた廻球かいきゅうの上に

魔は揺らぎゆく

虹人の体から色が失われた。
そして不自然な姿勢でのけぞっている。その胸の辺りか真っ白に輝く気体が立ち上る。
光でもない、煙でもないそれは、やがて人の形となった。

今年、五度目の日蝕にっしょくが南極地方で発生した。

帝都にもたらされた予言は現実のものとなった。
第五の予言
世界は光と闇の天秤てんびんによって計られるであろう

第六の予言
無垢むくなる力が真の導きを為すであろう

第七の予言
日蝕ひくく明け新しき天地あめつちひらかれり

第八の予言
全地の主なる大王あらわれり

第九の予言
すべては新王のたなごころに收まるであろう

第四までの預言はついぞ語られなかった。

帝都事変を経て世界は3つに分かたれた。
事変、虚無きょむ、そして現世という世界――

予言はそのことをまさしく言い当てていた。
いつしか予言は東京黙示録と呼ばれ始めた。
それを知るごくわずかな者たちの間で。

特異点は大震災のあった1923年だった。
その時から世界軸はわずかにずれ始めていた。

ずれが愈々いよいよ極大化したのだ――

混沌世界と現世、この二つが接近し、離反したことで虚無世界が現れた。
三本の世界軸はしかし合わさることはなかった。ただそれにより、歴史は大きく巻き戻ることになる――


1904年3月17日、硫黄島いおうじま
16時30分44秒、ここに金環日蝕が始まった。その光を受け、すべての始まりとなるひとつの結晶が生まれた。

小さなケアン――

やがて光と闇の交錯する地に漆黒の穴が開いた。五分ほど続いた金環蝕の終わる時、ケアンは音もなくその穴へ吸い込まれて消えた。

二十世紀初頭の特異点から新たな歴史が始まった。そして世界軸は三本に分かたれたままである。

1904年、この歴史上の特異点から真の20世紀は始まった。再生の特異点として、後にルネサンスと呼ばれる。
やがて合わさる時まで、世界軸は三本に分かれたままである――

現世軸にも帝都はあった――

〔赤坂街路〕

赤坂街路――
電停から市電が発車するや、子どもたちが車道を駆け渡る。
市内で一斉に桜が色づき、まさに春爛漫らんまんの時季を迎えようとしていた。

時は1935年4月――
セヒラもゲートも存在しない世界――

【九頭幸則】
なんとかに潜り込めた――
近歩一きんぽいちなんて無理な相談だよな。
ま、でも習うより慣れろというからな!

尋常の同級でただ一人の軍人だ――
風魔ふうま審神者さにわ免許皆伝めんきょかいでんだと言うし。
みちは違うが、ある意味競争だな!

【如月鈴代】
山郷やまごう叔父おじ様と力を合わせて、
東雲しののめ流を護らないと――

降りた神を見極める神眼しんがん
そう簡単にはそなわることなど、
あり得ませんが!

【喪神梨央】
丹那たんなトンネルは一昨年おととしに貫通、
鉄道ダイヤが組まれたのは去年です。
去年末、省線のダイヤ大改正が――

前に淑子としこ姉さんを見舞った時は、
ダイヤ改正前でしたね。
東海道線三島駅から、
駿豆すんず鉄道で修善寺しゅぜんじに行きました。

――兄さん、姉さんがお呼びですよ。

〔溜池通〕

【喪神淑子】
待ちましてよ、風魔――

フフフ、
今日はもう稽古けいこはおしまいでしょ?
ならよかったわ、
オウルグリルでオムライスでも――

あらいいのよ、私がご馳走するわ。

〔是枝邸〕

1935年12月26日、夜――

大崎おおさき是枝これえだ邸は夜の静寂しじまに包まれていた。瑛山会えいざんかいは是枝邸の離れに本部を置いていた。
その庭先に探信儀たんしんぎはなかった。

【案じる声】
今年、ついに怪人騒動も何も
起こりませんでしたわ。
そして今日この日を迎えても――
【静かな声】
五度目の日蝕にっしょくの日が終わるまでは、
予断を許さないものでした。
この一年、いや二年、三年――
混乱極める世界が近付き、
さらにもう一つ、生まれたのです。
何もない世界が――
【案じる声】
何もない世界――
そういうのが御座いますの?
【静かな声】
所謂いわゆる虚無きょむ世界です。
私は虚無きょむ世界を垣間見た気がする――
麻布あざぶうちで……

【案じる声】
殿下、おうかがいしますが、
この写真が何か関係しますかしら?
確か興亜日報の記者が写したもの――

【静かな声】
ええ、この写真は浅草の雷門です。
ですが震災を経なかった雷門ですね。
それがあの帝都に存在したのです――
【案じる声】
大提灯おおちょうちんが下がっていますね――
震災の後は、小さな提灯が――
そのように覚えていますわ。

震災のなかった世界――
それがあの帝都にあったのですね?
それが虚無の世界――
【静かな声】
少しは顔を覗かせていたのでしょう。
ただ――
の世界は、
それ以上に混沌世界の影響を受け、
を戦わせる事態を招いた――
【案じる声】
のこの世界には――
影響は及んでいないのですか?
その、混沌からも虚無からも……
【静かな声】
少なくとも今のうちは。
次、世界軸の変動が起きるのがいつか
誰にもわかりません。

【案じる声】
殿下――
柄谷がらたに博士は達者でおいでですが、
別な世界ではやはり……
殿下の仰るようなことになっていた、
そうなのですね?
【静かな声】
それぞれの世界で、
皆、さだめのもとにあるのです。
生き死には関係なく――

私たちは帝都が、いや日本が、
歴史的に真っ当な道を進むために、
監視する必要がありそうです。
それが瑛山会えいざんかいの使命だと考えます。

今後、何が起きようとも――

6年後の1941年12月――
世界軸の日本は
太平洋戦争に突入する。

第九章 第十一話 世界軸

異なる世界とでも言うべき体験の後、発生したセヒラ異常で赤坂哈爾浜ハルピンへ。
中味に人を残すカバネを迎えることに――

〔赤坂哈爾浜〕

【着信 新山眞】
喪神もがみさん――
あのカバネ、あ、いや、綾部あやべ氏は、
とても知識が豊富です。
帝大文科の出ですが、
独学で時間旅行と魂の研究をし、
論文までしたためたそうです。

喪神さんに話があるとか――
是非ぜひ、同行お願いします。
その先で待っていますよ。

【内務省安寧課D課員】
安寧あんねいですか? 安寧あんねいですか?
勿論、安寧あんねいですよね――
この国で、安寧あんねいでないなんて、
ちょっとあり得ません。

【内務省安寧課S課員】
安寧あんねいですか? 安寧あんねいですね!
新しい標語です――
黙って労働、笑って安寧あんねい
心がしずまるようではないですか!
貴方も難しい顔などしないで、
安寧あんねいにしてください!

【内務省安寧課E課員】
安寧あんねい課ではラヂオ番組を提供します。
安寧唱和あんねいしょうわを十三回行ってから、番組が始まりますよ!
番組とは安寧あんねい料理相談です。
記念すべき第一回は西洋料理相談。
リードボーの葡萄酒ワイン煮込みです!

【内務省安寧課K課員】
今は冬ですから、起床時間は六時、
夏にはこれが五時に繰り上がります。
起床後、直ちに安寧釦あんねいボタンを押して、
一日の安寧あんねいを当局に誓いましょう。
――ご安寧あんねいに、ご安寧あんねいに!

【内務省安寧課A課員】
日々の労働で安寧あんねいな生活を!
独逸ドイツ人はいいことを言いますよ――

アルバイト マハト フライ――
働いて自由になろう。
安寧あんねいに、ご安寧あんにに。

【内務省安寧課Y課員】
おい、貴方!
国民の安寧あんねいを乱すでない!
国民安寧あんねい必携ひっけいを所持するか?

ああん、どうなんだ?
貴方……内務省安寧あんねい課をめるな!!

《バトル》

【内務省安寧課Y課員】
ううう――
私の心に巣食うものは何だ?
直ぐに安寧あんねい運動で取り去らねば!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
カバネと合流してください!

【綾部研究員】
大学の資料室にあった赤新聞に、
英吉利イギリスの空想科学小説、
八十万年後の社会が載っていました。
航空機ではなく時を移動する航時機タイムマシン
それに乗って未来に行く話です――

それはHGウェルズが発表した空想小説、タイムマシンを翻訳したものだった。
大衆紙に連載され人気を博した。
そこに描かれている遠い未来は、明るく広い庭に果樹が点在する、まるで楽園のような場所であった。

【綾部研究員】
その一節、そらんじていますよ!

博士は四方を見廻みまわしたが、
広い広い庭である、今し方、雨が降ったと見え、芝草にはつゆが宿っている、
土も柔らかに、我が足跡と航時機のわだちの跡がむほど湿っているが、時は夏の初めで有ろうか日の光が強い。

博士の前には、大理石できざんだ大きな獅子女面の像がある。
広い庭に古い遺跡が点在しているのだ。

【綾部研究員】
この時代の人は、皆、小さいのです。
その一節です――

家の窓から三四人の小さい人が
首を出して博士をながめていた――
彼等は子供ではない、
全くの成人おとなである、
背の丈は四尺に足るか足らずである。
声はヴァイオリンの音のごとく聞こえ、博士に接する彼等の手は真綿の如く
柔らかである――
アゝ、ここ
全く平和の天地である――

素晴らしいと思いませんか!
私は時間旅行の研究に着手し、
そして気付いたのです。
時間旅行するには人は重すぎる。
でも魂ならそれが可能になると。
魂の重さは四分の三オンスといいます。
卒業し、冒険青年の編集に職を得、
出社したらそこが防疫研究所でした。

時間旅行の研究をした仲間がいます。
アストラルですが話せるはずです。
こちらへ――

そう言うとカバネは踵を返して歩き去った。風魔は後に続く。
次の街区に行くと小型の二体のアストラルが浮かんでいた。カバネは向かって左のアストラルに話しかけた。

【綾部研究員】
新町君、君は時間とは線路のようだ、そう言っていたね。
【防疫研S研究員アストラル】
はい、時間は線路です。
過去から未来へ繋がる線路――
しかも複数あるのです。

独逸ドイツのエッセンである学校の先生が、
町角で自分の分身と出食わしたとか。
それがドッペルゲンガーと言います。
つまり別の世界を生きる自分、
それが不意に現れたわけです。
【綾部研究員】
私もかねてより世界は複数ある、
そう考えていたんだよ。
そして世界は時間に従い、
一つの方向を向いている――
だから世界軸と呼ぶことにしたんだ。
【防疫研S研究員アストラル】
その世界軸にはことわりがあります。
ことわりが違うと
世界軸も変わってくる――
そうじゃないんですか?
【綾部研究員】
ことわりことわりの間には、
ある種の閾値いきちのようなものがあり、
値を超えると別な世界軸に入る――
私はそう考えているのだが――
堀川君は、ことわりについてはどうだい?

カバネは向かって右のアストラルに話しかける。

【防疫研H研究員アストラル】
例えば無心と有心というのがあり、
それらはどちらもことわりを為します。
亜當アダム夏娃イブが禁断の実をかじる前、
二人は無心の中にいました。
かじった後は有心に堕ちたのです。
【綾部研究員】
その場合の世界軸は二本だね――
世界軸を移る、あるいは、
ひょんなことから世界軸が繋がる、
そういうこともあると考えています。
【防疫研H研究員アストラル】
無心軸から有心軸へ移ったように、
ある閾値いきちを超えると元の軸には
留まることはできないようです。
【防疫研S研究員アストラル】
別な世界軸から移ってきた自分、
それがドッペルゲンガーなんですね。
【綾部研究員】
もう一つ大切なこと――
それは別な世界軸に繋がるなどして、
結果的に時間旅行ができることです。
そうなれば――
大仰な航時機の発明は不要です。
ただ――
【防疫研S研究員アストラル】
世界軸をほしいままに操ることは、
今の技術ではできないのです。
【防疫研H研究員アストラル】
ただ世界軸の繋がりは起きている、
それだけは間違いないようです。
【綾部研究員】
世界軸の理屈であるなら、
魂ばかりか肉体を従えて移動でき――

嗚呼ああ! 魂……魂……
私は中味だけしか無いのです!
私には肉体が……無い……

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
満洲から電報がありました。
式部さんが哈爾浜ハルピンに――
キタイスカヤの東方飯店に
チェックインしました。
キタイスカヤに向かえますか?

交信の終わるのを待たずに二体のアストラルはスーッと滑るように去って行った。

〔キタイスカヤ街〕

まるで白昼夢のようなキタイスカヤ街。カバネと風魔がその街角に立つ。

【綾部研究員】
先程は取り乱してしまって――
もう大丈夫です。

さて、ここは――
キタイスカヤが再構築されている、
そうなんですね?
まるで本物の哈爾浜ハルピンですね。
でもその実は帝都満洲――
東亰ゼロ師団もここは知らないはず。
私、ちょっと見て回ります、
構いませんね?

そう言い残してカバネは歩いて行った。

【着信 喪神梨央】
東方飯店ホテルボストークに向かってください。
そこで式部さんのアストラルと
話せるかも知れません。
彼は何かをつかんでいるはずです――

ホテルの部屋では式部丞しきべじょうが回想している――
彼は混乱を極めつつある帝都を離れ、哈爾浜ハルピンで人心地付けたようである。

【式部丞】
日本人が来ると、
この部屋に案内するのが、
ここの暗黙の了解なのか――
最上階の角部屋、
確かに安全ではあるが――

これまで以上に細心の注意が必要だ。
私の報告が上がっていなかった――
そのことが自明になったからだ!

ナチの釣鐘デーグロケ山王さんのう機関にあり。

そのエニグマ電文は、
上層部が握り潰したのだ。
日独は防共をむねとする協定を、
おそらく来年には締結するだろう。
そうなれば――
私の知る情報は、
両国関係に水をすことになる。
何より上層部には都合の悪い情報だ。

ヴンダーの出現に帝都の武装SS隊員たちは、生捕いけどりにして本国送還の指令を受けていた。
そのことで式部は気付くのである――

【式部丞】
帝都の釣鐘つりがねについて知っていれば、
山王さんのう側が釣鐘つりがねをどう扱うのか、
その詳細な情報を求めるはずだ。
それをヴンダーの生け捕りだと?

――有り得ない!
ナチ本部は山王さんのう釣鐘つりがねを知らない。
山王さんのう釣鐘つりがねは、あってはならない事実なのだ。
そしてこの私の存在も――


何だ?
――誰かの気配がする……
――●△◇◎――

急にホテルの部屋のセヒラ濃度が高くなった。そして式部の姿は揺らぎながら消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
ホテル外でセヒラ急上昇です!
明確な波形も確認します!

〔キタイスカヤ街〕

通りの真ん中に中型のアストラルが浮かんでいた。そのアストラルは人の顔に当たるところが黒く潰されたようになっている。

【有澤機関SKアストラル】
またお会いしましたね――
貴方は……おそらく……
山王さんのう機関の――

私はね、二班の班長でしたよ。
二班は流言飛語の調査です。
もっとも、それすら表向きで――

実際は乙亥きのといの年にあるとされる、
悪魔降臨の予言を調べること……
帝都じゃ予言が実現しますからね!

おそらく偽書でしょうが、
予言書を手に入れ調査しました。
悪魔は痩身そうしんの青年の格好をする――
それは学生でしょうか?
たとえば文民社のようなところの?
可能性は全部当たるのですよ。

降臨悪魔のことは、
東亰ゼロ師団も狙っていました。
でも彼らは仮構かこうに守られ、
我々では手出しができない――
連中のことは山王さんのう機関に任せる、
それが組織の決定でした。
有澤機関ではなく、更に上の組織――
上には上があるのですよ。

書生、芽府めふ須斗夫すとおは、
淀橋署の新入り巡査が保護しました。
仮構かこう憲兵らが右往左往うおうさおうする間にね。
調べは一班に引き継ぎました。

一班は瑛山会えいざんかいの動向を探ります。
それが有澤機関設立の趣旨しゅしです。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
もしや、影森愁一かげもりしゅういちという人の……
そうですか?
だとすると……
彼の思念だけが残って――
【有澤機関SKアストラル】
――フフフ、私の勘は的中ですね。
一班の動きを助けるために、
私は身をさらしたのです。
おとりと言うほどではありません、ただ目をらせるのが目的でした。

神保町じんほちょう交差点に合図あいずがありました。
縁石に二本の黒い線が――
第二連絡所に行けとの指令です。
新宿旭町あさひちょうにある柏屋かしわや旅館、
二階、芙蓉ふようの間で待機しました。
そこへ三人の丁稚でっちが入ってきて――

アストラルからセヒラがほとばしった。

【有澤機関SKアストラル】
白い布を被せられ――
そこまでは覚えています。

私はもう柏屋かしわやにはいないのですね?
あの湿気しけた客間にはもういない……
――私はどこにいるのでしょうか?
なんだか無念です――
ものすごく無念です!!
悪い勘が的中したようですね!

《バトル》

【有澤機関SKアストラル】
組織というのは……
げに恐ろしいところですね――
あなたも気を付けることです。

そう言い終えると
アストラルは霧散した。

【着信 帆村魯公】
影森愁一かげもりしゅういちは用済みになったわけだ。
さて、くだんの一班に誰が関わったのか、
およその見当はついたがな。
【着信 喪神梨央】
もう一度、ホテルへお願いします。
四〇八号室です――

〔ホテルボストーク〕

【式部丞】
釣鐘つりがね山王さんのう搬入はんにゅうした――
それが瑛山会えいざんかいの存在をあきらかにした。

皮肉ひにくなことにその瑛山会えいざんかいが、顕現けんげんさそうとたくらむ――

会の頭目、柄谷がらたに生慧蔵いえぞうその人物だ。
双子の兄ルドルフ・ユンカーと違い、
生慧蔵いえぞうは科学に全てを求めた。
そして学際がくさいの迷宮に彷徨さまよったのだ。
しくも同じ字名だった――

私は猟奇人Θシータ、そして生慧蔵いえぞうは、
従順なる隸Θしもべシータ師と呼ばれた。
彼が猟奇趣味の男女を組織したのも、
一人でも異能者を集め、
召喚を目の当たりにしたい、
そのことだけが目的だったようだ。

理論はあっても実践がない、
科学者は手を選ばず実践を求めた。
絡繰からくりは不明だが、とにかく顕現けんげんした。
見える者には見えたはずだ――
お陰で私には真実が見えた――

本を無粋ぶすいに扱うことで、
彩女あやめ君には退いてもらった。
丁度ちょうど、潮時でもあった――

それにしても――
メリュジーヌがセルパンの名の店に来る、
なんていう皮肉だ!

二班の班長にも退場頂いた。
神保町の交差点に印を付けて――
身辺整理はとどこおりなく行ったつもりだ。

当面、気配を殺して、
新しき天地あめつちの誕生でも見物しよう。
おそらく帝都は消える――

式部の姿が揺らめいて消えた。そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
式部しきべさん、古本屋さんなんて、
大嘘だったんですね!
私たちをスパイしていただなんて――
【着信 新山眞】
大変です!
キタイスカヤの通りで、
綾部あやべ研究員の気配が消えました!
【着信 喪神梨央】
特に異常なセヒラはありません。
念のため、巡視パトロールお願いします。

〔キタイスカヤ街〕

キタイスカヤ街の通り、20mほど先にカバネの姿があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
眼の前にいるのは……
それはカバネですか?
波形がいちじるしく乱れています。
全然一致いっちしないのです――

カバネが風魔に気付いてやって来ようとしたその刹那、カバネの背後にうっすらと人影が見えた。
白衣のようなものを纏っているが、その体、透けている。
体を透かして街が見える。

【綾部研究員】
私が……抜け出してしまいました!
――前にいるのが私です……
いや、違う、あれはカバネです!
正確にはカバネの肉体です。
私は……たましいか思念の状態です――

カバネは風魔の前を過ぎて止まった。
ずっと前を見たままである。
カバネのいたところに白衣姿の青年が見える。体は透けたままである。

【着信 喪神梨央】
セヒラの値が……
負の値を示しています!
――負のセヒラって、何ですか……

カバネと白衣の青年の間に白い球体が現れた。
輝くような真っ白な球体はほどなく一抱えほどの大きさになり、道の上に浮かんでいる。
そして球体の周りにセヒラの輪が生まれた。球体が傍に漂うセヒラを押しやっているようにも見える。
やがて白い球体は道幅一杯にまで膨張を始め、風魔は白い世界に包まれてしまった。

視界が戻ると、街は白い霧のようなもので覆われていた。
風魔の前に柴崎が立っている。
柴崎は苛ついた表情を浮かべている。

【柴崎周】
君たちは自分たちの周囲で、
起きていることを理解しているかね?

何の目的も持ち得ない世界――
すべてに価値を見い出せない世界――
まさに虚無きょむの世界が口を開き、私たちをもうとしている。

これが君たちの求めるものなのか?
怒りも悲しみも喜びもない、無限に広がる安寧あんねいの平原だ――

白い霧のようなものがますます濃さを増してきた。

【柴崎周】
平和というのは素晴らしい――
そうではないかな?
白いはとを飛ばし、赤い薔薇ばらぎ、青い空に夢を描く――

だが君たちの青空に、
夢を描くことはできない。
何一つとして価値を持たないからだ。
真っ白な世界は何も含まない。

闇は多くを含み、にぎやかなのにだ。
ただただ寂寞せきばくとしている――
闇を味方に付けるほうが、
幾倍いくばいも望ましいのだよ、
真っ白な世界に取り込まれるよりも。

いよいよ視界は白くなり、目の前の柴崎すらはっきりしなくなってきた。

【柴崎周】
何も為さず、何も起こらず、
何も得られぬ世界など、
憎しみの刃で両断する!!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし!!
セヒラの値、計測限界を超えます!
これまでにない値です!!
【柴崎周】
ハハハハハハ~
君も私も虚無の世界では、
生きていくことができないのだよ!

《バトル》

静けさが戻った。
風魔は帝都満洲鉄道の赤坂哈爾浜駅にいた。ホームに立つ風魔の前に柴崎がいる。汽車はまだ来ない。

【柴崎周】
暗闇の中で孤独を感じる必要はない。
そのような必要はまったくない。
暗闇はにぎやかな遊園地だ。
あらゆる色が混ざり合い、
暗闇という色が生まれるのだ。

駅舎の方に人の気配がする。
振り返ると先程の白衣姿の青年がいた。青年の体は透けている。
白衣の青年はゆっくりと近づいてきた。
そして柴崎に向き合う。

【綾部研究員】
あなたのことは存じ上げませんが、
混濁こんだくの世をもたらすことを、
お考えなのでしょうか?
【柴崎周】
君は研究者かね?
それとも闇を操る者かね?
【綾部研究員】
魂に向き合っています。
魂なら時間旅行ができるかと――
【柴崎周】
時を操るのか――
私の時間はこの三十年間動かない。
サラエボ、桑 港サンフランシスコ羅南らなん――
十五年前のあの大地震が、
状況を大きく変えた――
帝都に資源があふれたのだ!
【綾部研究員】
資源とはセヒラのことですね?
きが現れ怪人騒動が起きた。
それがあなたの僥倖ぎょうこうなのですか?
【柴崎周】
ハハハ、私の心を読むのか――
なるほど僥倖ぎょうこうだ、
しかしそれだけではない。

独逸ドイツ人たちが興味を示したロッホ
あれは一種の支点なのだよ。
この世界を裏返すためのね。

【綾部研究員】
世界が裏返る?
――そんなことがあるのですか?
一つの世界に一つのことわりがある……

世界が裏返るとは、
ことわりもすべて変容するのですか?
この世界が別の世界軸に接続する、
そういうことではないのですか?
【柴崎周】
世界などいくつも必要ない。
この世界が呑み込まれるだけだ。
抗えば消える、アストラルとなる。
【綾部研究員】
それは違います!
僕たちは既に別な世界軸に、
向き合っているのです。
接続は時間の問題――
それはあなたの求める、
混沌カオスの世界ではありません!

――私にはわかるんです……
真っ白な世界、一点の不安もない――
そんな世界の存在することが!

そこまで言うと白衣姿の青年はいよいよ透けていき、とうとう消えてしまった。
そこへ声がする――

【???】
たわわに実る果樹の下、
暖かな日差し、ぬる清水しみず
何の不安もないのです――
【柴崎周】
やめろ!
私に語りかけるな!
【???】
楽園では、欲も失望もありません。
失うものなどなにもないのです――
【柴崎周】
――

柴崎は全身からセヒラを放った。濃厚なセヒラが柴崎の体を包み込んでいた。

《バトル》

【柴崎周】
すべては宇宙の混沌から生まれた――
それを君たちは無き物にしようと。
私は残念でならない――
――残念だ……
至極しごく残念だ――

そこに音はなかった。
風もなかった。
温かいとも寒いとも感じない場所だった。始終、白い霧のようなものが漂う。
井戸の前に母子がいる。

【母親】
薬師如来やくしにょらいさまの竜水は、
とっても効くのよ、まあくん!
【まあくん】
うん、そうだね!
母様の言うとおりだと思うよ、僕!
眼が良くなると安寧あんねいになれるんだね!
【母親】
そうよ、まあくん!
遠くまで見えるから悩まないの。
欲しいものもなくなるのよ!
【まあくん】
じゃ羊羹ようかんも欲しくなくなるんだね!
【母親】
羊羹ようかんになんかに値打ちはないのよ!
さぁ、竜水を手ですくうのよ。
それで目を洗うの。
【まあくん】
うん、わかったよ、母様!

風魔は白い世界にいた。
暗闇には多くが蠢く。
しかし白い世界にあるものは……それは虚無であった。
虚無を理とする世界から声がする。
虚無に生きる人の声である。

【はにかんだ女の声】
佐竹さたけのお母様は病気がちなんです――
少しでも滋養じようになればと思い、
実家から届いた――
納豆を持って家に行ったのです。
昼寝をしていたという佐竹は、
少しばかり眠そうでしたが――
私を玄関で迎えると、
いつも通り、ご安寧あんねいにと挨拶あいさつし、
納豆を受け取ってくれました。
私は佐竹の家を後にして、
省線と市電を乗り継いで、
三河台みかわだいの下宿に帰りました――
一人で……帰ったんです――
――一人で……

ふと、そこへ別な声がする。
いや、同じ女の声だ、風魔の心の中に残る声だ。

【思い詰めた女の声】
私、佐竹のことを信じ切っていて、
私たち二人はまるで同体のように
思えるほどでした。
先週、葡萄酒ワインで眠る佐竹の胸に、
小刀で私の名を彫ったのです――

もう声はしない。
代わりに白い空から降るような声が聞こえた。

【はにかんだ女の声】
どうしたのかしら?
――安寧あんねいでございますわね!
まったくもって、安寧あんねいでございます。

〔祓えの間〕

【喪神梨央】
兄さん、お帰りなさい――
帝都では怪人騒動もすっかりしずまり、
落ち着きを取り戻しています。
【新山眞】
時間もかなり経過しました――
【喪神梨央】
新山さん、
世界軸って本当に複数あるんですね。
ドッペルゲンガーのこととか――
【新山眞】
ドッペルゲンガーは、
セヒラがもたらした一時的な現象、
私はそう考えています。
【喪神梨央】
でも世界軸はそうじゃないと――
常にいくつかの軸があるのですね。
【新山眞】
あの綾部あやべ研究員は、
複数の世界軸がめんのようにからまり、
別の世界軸へ移動できると――
世界軸をりっしていることわりに、
収まりきらなくなった時に移動する、
そう考えているようです。
【喪神梨央】
その時、時間をさかのぼったり、
そんなこともあるんでしょうか?
【新山眞】
明言はなかったですが、
時間の移動もありそうですね。
場所の移動も有り得ます。
世界軸の接続によって、
夢玄器むげんきを使わずに移動できる――
異なる時代、異なる場所へ。

【喪神梨央】
フリーダさん、
携行式けいこうしきの活動写真お持ちでした。
しかも総天然色です!
フリーダさんは、
ニ〇一五年の香港ホンコンと、
この帝都とを行き来すると――
【新山眞】
すでに世界軸の接続は、
始まっているようですね。
アストラルなら、
時空を超えて行き来していましたね。
いとも簡単に――
ただ好きなところへ、
とはならないようです。
【喪神梨央】
何か繋がりのあるところしか、
行くことができない、
そうなんですね?
【新山眞】
そのようです。

【喪神梨央】
研究員の綾部あやべさんは、
八十万年後に行きたかった、
そうなんでしょうか?
【新山眞】
未来の楽園的社会に憧憬どうけいしていた、
それは間違いありませんね。
その強い念が影響している――
【喪神梨央】
綾部さんとカバネの間から、
虚無きょむが生まれたように思えます。
【新山眞】
はいわば逆人籟じんらいです。
ヴンダーがたおれたことが契機けいきとなり、
逆相が生じた――
はその逆相の象徴です。
自身が虚無きょむ世界軸の接続点、
その役目を果たしたようですね。

【着信 帆村魯公】
風魔――
ホテルに客人だ。
レーネ嬢だ、覚えているな?
【喪神梨央】
藤沢レーネさんですね!
F基金の運用責任者ですよ。
新京シンキョウからおいでなんですね!
【新山眞】
私は飯倉いいくら技研に参ります。
そろそろ鏡の完成する頃――
様子を見てきます。

〔山王ホテルロビー〕

藤沢レーネが久しぶりに来日した。
満洲国商務省に勤めるかたわら、F基金を管理する金庫番でもある。

【喪神梨央】
レーネさん!
お変わりございませんか?
今朝着いた亜洲丸あしゅうまるですよね?
【藤沢レーネ】
ええ、横浜に着き、
新橋から参りました。
道中、帝都は静かでした――
【喪神梨央】
このところ怪人騒動は鳴りを潜め、
何だかそれが不気味なんです。

【藤沢レーネ】
時機が近づいているのです。
祖母の遺品を整理していたら、
一冊の古書が出てきました。
太陽の書リブロソロスという書名です。
最後のページに祖母の字で、
ある言葉がつづられていたのです――
【喪神梨央】
どんな言葉ですか?
【藤沢レーネ】
冬至とうじの朝陽がしめす――
支族帰還の地へ――
アルツァレトはせまる――
【帆村魯公】
冬至……
支族帰還……
――アルツァレト……
アルツァレトとは何ですかな?
【藤沢レーネ】
古い猶太ユダヤの言葉で、
桃源郷とうげんきょうとか新天地の意味だそうです。
支族が戻ればそこが桃源郷――

【喪神梨央】
兄さん! 冬至ですよ!
範奈はんなさんのお姉さんが言ったこと……
――冬至の朝、水辺に……
そこでお姉さんと二人、
為すことがあるのだって――
【帆村魯公】
なるほど! なるほど!
それで、その書はお持ちなのですか?
【藤沢レーネ】
書は満洲中央銀行の貸金庫です。
新京シンキョウにある父の基金を置く銀行です。
【帆村魯公】
それは結構ですな。
この上なく安全ですな!
それでと――
真名井まないの鏡にまつわる古文書にも、
冬至についてしるされておった。
託言たくげんを顕す光があると。
【藤沢レーネ】
おそらくは、失われた支族、
その末裔まつえいの居場所が明かされる――
私はそう考えております。
【帆村魯公】
その末裔まつえいとやらが、
山郷らが血眼ちまなこになるほど、
すごい力を秘めておるのか……
【喪神梨央】
千年以上前に日本に渡った、
マナセ一族の末裔ですね。
【帆村魯公】
鈴代のご先祖は、
まぁ庶家しょけというところだな。
愈々いよいよ、本家本元が現れるのか――
【藤沢レーネ】
いずれにせよその日を待ちます。
N計画にもはずみが付くはずですから。

藤沢レーネは山王さんのうホテルに部屋を取っていた。
梨央りおが部屋まで案内するという。

【帆村魯公】
風魔ふうま、先程お前が見た光景だがな、
あれはおそらく虚無きょむの世界だ、
そいつが垣間かいま見えたんだよ。

新井薬師の井戸にいた子供、
それに神田川の女――

あの女は生成なまなりだったはずだ。
男の胸に自分の名をったんだ。
虚無きょむの……なんて言う、世界軸か、
そいつの中ではうらみも何もない、
いたって平穏無事へいおんぶじの様子だな。

ホテル玄関から九頭が小走りに駆けてきた。

【九頭幸則】
先生! 風魔!
また妙な噂だ!
新世界が誕生するとかで――
【帆村魯公】
ほう!
その噂の出処でどころは?
【九頭幸則】
興亜日報ですよ!
たぶんあのブンヤがんでますよ!

まるで芽府めふ須斗夫すとおの予言がれたかのように、興亜日報では新しい世界の誕生を報じていた。

風魔は暗闇を覗いていた。そこには鬼龍豪人が立っている。まるで見当識を失ったかのようである。
そこへ淀みのない声がした。

【???】
ほまたかき京都第十六師団――
第十六師団輜重しちょう部隊!
隊付き将校、鬼龍きりゅう豪人たけと
【鬼龍豪人】
誰だ?
この私に気安く声をかけるのは!
【???】
君のガールフレンドは、
師団街道の円タクに乗って、
黄泉よみの国へ向かった!
【鬼龍豪人】
私の中ではもう過ぎたことだ――
【???】
君は梯子はしごを外され途方に暮れた――
わだかまりは大きく黒い蜷局とぐろとなった!
君はルサンチマンにまれた!
【鬼龍豪人】
私は完璧だ、染 化ファーブストッフを終えたのだ!
【???】
青白き少年ハンスは、
売女ばいたの腹にナイフを突き立てた!
君のナイフはどこにあるのかな?
【鬼龍豪人】
ハンス?
そんな人物など知らん!
貴様、いい加減に去れ!
【???】
月詠つくよみ麗華れいかに求められ、
鬼龍きりゅう少年は子羊のように震えた!
【鬼龍豪人】
あの女が欲しいのは力だ、
美しさの欠片かけらもないただの力だ!
【???】
君こそ求める存在だよ、
迷える子羊ストレイシープ君!
さぁ、私にゆだねるのだ――
【鬼龍豪人】
私は誰の指図も受けない!
【???】
それでこそ鬼龍クソッタレ大尉だ!
州間道路のドライブと洒落込しゃれこもう!
【鬼龍豪人】
何の話をしている――
貴様は誰だ!! 何者だ!!
【???】
気高きやかたあるじにして、
君の主人だよ、コンプレット鬼龍!

第九章 第九話 ヴンダー

〔猟奇倶楽部・左閲覧室〕

そこは階段状に椅子が三段に並ぶ、
小さな劇場のような部屋であった。
正面はガラス張りでカーテンが引かれている。

風魔ふうまが椅子から立ち上がると、
白衣姿の人物が姿を見せた。

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうであった――

【柄谷生慧蔵】
気が付きましたか――
頭痛や吐き気はありませんね。
何しろ酷いセヒラでしたから。
黒頭巾はセヒラを防ぐのですが、
さすがに危険でした――

物理一筋の私が、
科学に限界を感じ始めたのは、
ある不思議な体験がきっかけでした。

あれは四年前のことです――
哈爾浜ハルピン技院に招かれた私は、
キタイスカヤ街のホテル、
東方飯店に宿を取ったのです。
確か四〇八号室でした――
転寝うたたねをする私は夢かうつつかの状態で、
ホテルの便箋びんせんにメモを取ったのです。
目覚めてメモを見ると、
それはシュレーディンガー方程式、
まさにそのものだったのです。

【柄谷生慧蔵】
決してそらんじているわけでもない、
その複雑な方程式を、
まるで誰かの意思のようにしたためた――
私は自分の頭が、
誰かに乗っ取られたような気になり、
そのままホテルを飛び出しました。
するとどうでしょう――
あれほどにぎやかだった大通に、
白昼夢はくちゅうむのように人影がないのです。
所在なく私は部屋に戻りました。
先ほどの便箋びんせんは消えていました――

そして天啓てんけいのように新しい方程式を
書き始めたのです。
四日間、飲まず食わずで――

この体験の翌年です、
帝都にセヒラが観測されたのは。
セヒラ粒子が解を求めるかぎでした。
長広舌ちょうこうぜつはもういいでしょう。
さぁ、すべての準備は整いました。

音もなくカーテンが開かれた。大きな窓から見下ろすのは、白いタイル張りのまるで手術室のような部屋であった。
部屋の周囲に幾人もの人物が寝かされている。その部屋の中央にフォス大佐とクルトが、まるで双子の胎児のように向き合い丸くなっている。二人は床から浮き上がっているのか、ゆっくりと回転していた。

【柄谷生慧蔵】
アストラルとなった二人を、
均一きんいつになるまで混ぜ合わせる――
兄の実験ノートにそうありました。
どうやって混ぜれば良いか、
さっぱりわかりませんでしたが――
それが起きてみると、
どうです、自らが混ざり合おうと、
あのように回っているのです!

自ずから生起すること――
物理の世界での常識が、
この霊異りょういの中でも現れるのです。

背を丸めて回転する二人の周囲にセヒラが漂い始めた。セヒラは見る見るその濃度を増して、とうとう二人をすっかり包み込んでしまった。
なおもセヒラは濃くなり、風魔のいる部屋にも押し寄せてくる。柄谷生慧蔵は窓に向かって両手を広げたり閉じたりしながら何かを唱えている。そして二人の名を呼ぶ声が聞こえた。

【柄谷生慧蔵】
ヘル、ゲルハルト!
ヘル、クルト!
合わされ、合わされ――
ゲパーツ! ゲパーツ!

さぁ、愚かしい肉体を、
今ここに、むさぼむさぼれ!

濃厚セヒラを通してなおも回転する二人が見える。その周囲に部屋の方々から怪人と思しき連中が集まってきた。

【柄谷生慧蔵】
静かに目を閉じて――
私は一介いっかいの観察者に過ぎない。
家鴨いえがもひなのように無垢むくな私!!
さぁ、まぶたを開けますよ!
家鴨いえがもひなが、お池の上で――

一瞬、目の前が真っ暗になったかと思うと晴れた。
もうセヒラは収まっていた。開花に見える手術室にらしき一体が立つ。人の背丈をやや越すくらいのそれは、砲身のようなものを体中から突き出していた。

【柄谷生慧蔵】
見えましたよ――
私には確かにあいつが!
あの白きみにくき塊が!
独逸ドイツ語で不思議を意味する、
ヴンダーと名付けましょう!

ヴンダー……

あれはヴンダー……
この意味がわかりますか?
私の理論が完結した瞬間なのです。
ヴンダーの存在がそのあかしです。
ジンネマン対称性たいしょうせいを含む、
私の方程式が正しかったと、
それが証明されたのです!

あれは破壊神ではありません。
あれは創造神なのです。

私はこれで十分です。
もう、十分です――

柄谷生慧蔵は素早い動きで部屋を出て行った。階段を駆け下りていく音がする。

【着信 帆村魯公】
そっちの場所、確定できたぞ、風魔!
じき、警察が到着する。
お前を迎える車も出たぞ!

交信が終わるや否や、遠くの方でくぐもった銃声がした。あれはたしかに銃声である。

【着信 帆村魯公】
何だ、今の音は?
銃声じゅうせいか?

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうが現したヴンダー。
それは
イメージの実体化というべき存在だ。

柄谷がらたに生慧蔵いえぞうを求め、
そして得たのだ。

彼は思い残すことないと
遺書を残し自殺した。
猟奇倶楽部に警察隊が
なだれ込んできた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん――
猟奇倶楽部の場所、判明しました。
四谷谷町のあたりです。
戒行寺かいぎょうじの坂を降りきる手前――
低いところなので、
探信たんしんしにくかったようです。
【帆村魯公】
柄谷がらたに生慧蔵いえぞうは死んだ。
何通もの遺書があった――

遺書により生慧蔵いえぞう
猟奇倶楽部の会員のうち、
最高位の位にあることが判明した。
しかし主催者については
触れられていない。

また兄の
ルドルフ・ユンカーについても、
まるで他人のことのように
したためてある。
ユンカー殺しについては
言及がなかった。

また瑛山会えいざんかいについては、
シュタインベルク中将の動きは、
親衛隊長ヒムラーの
疑義ぎぎを買っていること、
セヒラ同定から山王さんのう機関設立まで、
すべてが首尾よく進んだことも
しるされていた。

そして戦の論文を書いた以上は、
を確認しないと理論が閉じない、
そのためにすべてを尽くすとあった。

【喪神梨央】
ユンカー局長と、
兄弟だったのですね――
【帆村魯公】
双子の兄弟だな。
兄のユンカーは独逸ドイツに戻り、
弟は日本に残された――
弟は独逸ドイツで兄への面会を申し込むが、
墺太利オーストリアのアカデミー入学をひかえた
兄はそれを退しりぞける――
生慧蔵いえぞうの胸に暗い炎が灯るのは、
その時じゃないだろうか……

ノックの音とともに九頭が現れた。

【九頭幸則】
失礼します、歩一の九頭くずです。
――大変ですよ、先生! 風魔!
【喪神梨央】
どうしたんですか?
幸則ゆきのりさんも見える組ですか?
【九頭幸則】
何だい、その見える組って?
【帆村魯公】
ヴンダーじゃよ、
ラヂオで言っておるぞ、
ヴンダーを見よ、ヴンダーを見よ――

ヴンダーは破壊神ではありません、
ヴンダーは創造神なのです。
ヴンダーを見よ、ヴンダーを見よ――

【喪神梨央】
見える者は前進者です。
幸則さんは前進組ですか?
【九頭幸則】
梨央ちゃん、勘弁してくれよ。
ヴンダーが見えるのは、
怪人だけだって言うじゃないか!
【帆村魯公】
その怪人、市中から姿を消して、
怪人になりそうな市民は、
おそおののいているようだな。
【喪神梨央】
でも怪人になれば新世界に行ける、
みたいなことを言う人も――
一時いっとき帥先そっせんヤみたいです。
【帆村魯公】
うむ……
風魔、表の様子でも見てきてくれ。
【九頭幸則】
俺も行くよ、風魔。

〔山王ホテルロビー〕

山王さんのうホテルはいつもとは異なり、
どことなく落ち着かない様相を見せていた。

【九頭幸則】
何だ、どうしたんだ?
そわそわした感じだな。
いつもの山王さんのうホテルじゃないな。

ホテル玄関から新山和斗が駆け込んで来た。

【新山和斗】
一体、どういうことなんですか?
【九頭幸則】
これはまた奇遇だな。
いや、そうでもないか――
ブンヤが騒ぎを大きくするわけだな!
【新山和斗】
騒ぎも何もありませんよ!
通報が相次あいつぎ現場に取材に出るも、
写真部のカメラに写らないんです!
【九頭幸則】
ヴンダーの話だな?
新聞社に通報でもあるのか?
【新山和斗】
もうすごいです!
朝から電話が鳴り止みません!

ヴンダーは市中の
方々で目撃されていた。
人形町、赤羽橋、築地つきじ
錦糸町、目白――
目撃されるたび
巨大化しているようである。

【新山和斗】
最初は見えなかったのに、
ラヂオを聴くうちに見え始めた、
そういう話もあるようです。
【九頭幸則】
あれは新手の帥先そっせんヤだな。
新聞ではどうなんだ、
怪人川柳が復活したりしないのか?
【新山和斗】
とっくにしていますよ!
担当の新米記者が行方不明なのに、
どんどん投稿が寄せられて――
まだ掲載はしていませんけどね。

そのとき着信があった。

【着信 喪神魯公】
風魔、ホテル前で騒動だ。
ちょっと見てくれないか!
【新山和斗】
怪人騒動ですか?
それくらいじゃ記事になりません。
【九頭幸則】
そうだろうな!
ブンヤにはここにいてもらうぞ。
風魔、表を見てくれ!

九頭の声を背に、
風魔はホテル玄関へ向かった。

〔山王ホテル前〕

ホテル前には数名の市民が押しかけていた。皆、てんでバラバラな方向を向いている。
ホテルから出てきた風魔に近くの白衣姿の男性が声をかけてきた。

【神谷町の元医者】
あなたには見えるんですね?
あああ、私も見たい、
見て前進者になりたい!
もう医者は辞めたんです!
病人なんか見たくもない!

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測します。
まだ怪人化して、
間もない怪人のようです。
でも波形が変です――

脇から二人、駆け寄って来た。

【本郷追分町の元学生】
僕はすべてを知ったんだ!
すべてをな!
――だから言葉がめぐる!
怪人の
眼に逆様さかさま
ことばかり
ギャハハハハハハハ~
【角筈の元訓導】
ここならなんとかなるって聞いた!
どうなんだ、ええ?
この私を怪人に変えてくれる、
そうなんだろ?
怪人が新しい世界に行けるんだろ?
堅苦しい訓導くんどうなんか辞めて、
自由になるんだ、邪魔するな!!
いいか、邪魔立てはするな!!

【着信 喪神梨央】
これまでにない速さです、
気を付けてください!

《バトル》

【角筈の元訓導】
体が……軽くなっていく……
これだ、これでこそ怪人だ!
アーハハハハハハ~

男性の背中にアストラルらしきが現れた。それはゆらゆらしながら、男性の体の傍を漂う。

【元訓導のアストラル】
軽いぞ、軽いぞ!
体を失うとこんなに軽いとは!
あのにくき肉体め!!
あのような肉体、
いくらでもくれてやる!!

アストラルが消えた。男性は倒れたがすでにその実体はなくなっていた。

【着信 帆村魯公】
今すぐ、ホテルに戻ってくれ。
おかしな客がいるんだ!

〔山王ホテルロビー〕

ホテルロビーは人払いしてあるようで、
魯公ろこうと話す男性以外に客はいなかった。

【帆村魯公】
風魔、キタイスカヤのホテルが
どうのこうのと――
【料亭大和の大番頭】
私ネ、支那シナ人みたいな話し方ネ、
れっきとした日本人ネ!
【帆村魯公】
落ち着いてください、
ここは日本ですぞ、帝都東京です。
【料亭大和の大番頭】
ひぇ~~~~
――やっぱりですかい!
私、新京シンキョウ三笠町みかさちょうにある、
料亭大和やまとの番頭です。
新京シンキョウ一の花街ですよ――
大事なお客さんを迎えに、
哈爾浜ハルピンまで行って、
キタイスカヤのホテルに入りました。
【帆村魯公】
ホテルはなんというホテルですかな?
【料亭大和の大番頭】
東方飯店、露西亜ロシア語で、
ホテルボストークです。
ここより狭いロビーで、
お客さんを待つんですが、
約束の時間になっても来ない――

しびれを切らした大番頭は
表通りへ出る。
しかしそこには人の姿はなく、
音さえしない場所だったという。
ホテルに戻ったとき気を失って、
次に気が付いたときは
山王ホテルの地下、
エレベーター前で
うずくまっていたというのだ。

【帆村魯公】
エレベーターとは、
どちらのですかな?
【料亭大和の大番頭】
そっちです、そっち!
フロントの脇に出てくるやつ――
客が乗らない感じのやつ――
【帆村魯公】
なるほど!
あれは特別でしてな。
詳しくお話を聞きたいものです。
【料亭大和の大番頭】
もう話しました!
私は哈爾浜ハルピンにいたんですっ!
あずからない間に東京に――
【帆村魯公】
風魔、後は頼む。
こちらの方と出かけてくる。
もうじき殿下がお見えだ。

そこへ着信があった。

【着信 新山眞】
喪神さん――
どうやらいろいろ繋がり始めた、
そんな気がします。
ここは人払いしてあります。
そのまま殿下をお待ち下さい。

交信が終わったその時、ホテル玄関から聖宮がやって来た。

【聖宮成樹】
喪神さん――
独逸ドイツのある筋から仕入れました、
有澤ありさわ中将のことです。
彼は特務機関長でした――

10年前、駐独武官だった有澤少将は、
ナチ親衛隊に入党したばかりの
ヒムラーと出会い、意気投合する。
ヒムラー、当時25歳、
有澤41歳である。
1932年、褐色館ブラウネスハウス
警備主任のヒムラーは、
フンメル博士に命じて
北支ほくし発掘を実行する。

【聖宮成樹】
フンメル博士は日本でも発掘を行い、
セヒラの量と質において優れている、
そう報告を上げるのです。

日本では柄谷がらたに博士の
論文上梓じょうしにより、
参謀本部は瑛山会えいざんかいを組織します。
私はその時に参加しました。
背後にいるシュタインベルク中将が、
強い影響力を持ちます。
リヒャルトガルテンの所長です。
しかしヒムラーは彼を疑っていた――

釣鐘つりがねのこともそうなのです。
表向きは壊れたことになっています。
実際はこの地下に移送されています。
ヒムラーはそうした動きを探るため、
有澤中将に依頼をしたのです――
つまりスパイするようにと。

それで有澤機関が設立され、
何名かのスパイが活動を始めます。
興亜貿易という会社がかくみのです。
機関にはエニグマ暗号機が与えられ、さらに日独で同じ本を乱数表に用い、
念には念を入れていました。
その本とは――
ゲエテのきつね裁判さいばんという本です。

アーネンエルベも内偵ないていの対象に、
なっているかもしれませんね。
確かめてみようと思います。

【聖宮成樹】
喪神さん、市民が押しかけています。
このホテルで怪人になれると、
そんな噂が飛び交うのです。
怪人になれば新しい世界に行ける、
そんな噂にそそのかされるのです。
ここは私がなんとかします――

聖宮ひじりのみやには考えがあった。
釣鐘つりがねの出力を調整することで、ヴンダーに流れ込むセヒラを抑える――
それでヴンダーの勢いをぐことができる。
勝算のあるものではなかったが、試す価値はあると踏んでいた。

【聖宮成樹】
市民がしずまれば、
私は釣鐘つりがねの出力を調整します。
セヒラの制御を試みてみます!

ホテルのことは聖宮ひじりのみや
ホテルの守衛に任せ、
風魔は裏口からホテルを出た。

人々が二階の窓や物干しから表を見ている。ある者は雲を指差し、ある者は煙を見て、あれがヴンダーに違いないなどと騒ぐ。胸に大きなカメラを下げる者もいた。

新聞にはヴンダーを見たという市民が寄せた、素描そびょうが掲載され、人々の想像力を刺激した。
担当記者不在なのに怪人川柳も掲載された。軍が出動してヴンダーに攻撃するも、市街に砲弾を降らせただけであった。

怪人の
叫び真理の
上を超す

怪人の
前を横切る
黒い猫

怪人の
一人渡る
長い橋

不思議な波形を観測したとの知らせで、風魔は紀伊国坂きのくにざかおもむいた。
山王さんのうホテルからほど近い場所だ。

〔紀伊国坂〕

着物姿の老人が道の真中にぼんやりと立っている。風魔の姿を認め、ふらふらと近寄って来た。

【為次郎】
おいら猫の為次郎ニャ~
こう見えても次男会の一員ニャ~
かなりの古株ニャ~
この人は日本橋の団扇うちわ商ニャ、
昔からおっきな隙間拵すきまこしらえるニャ、
危なっかしいニャ~

おいらどら焼きの佐加美屋の猫ニャ、
おちおち昼寝もできないニャ~
なんせ団扇うちわ屋は向かいだからニャ~

さっきから別な何かが、
おいらの場所を狙ってるニャ~

その時、老人はビクンと背中を伸ばし、のけぞったようになった。そしてゆっくりと直った。

【為次郎】
びっくりしたニャ~
あんたに話があるみたいだニャ、
おいらしばらく場所を空けるニャ!

老人はうつむいてしまった。その背中からアストラルが現れた。

【ユンカーのアストラル】
ドイツに来た弟を日本へ帰したのは、
私ではない、父だ。
父には私の成功が必要だった。
私は一点のくもりもない状態だった。
墺太利オーストリアのアカデミーにも入学できた。
弟が物理学者として、
まさかセフィラを分析し、
に興味を持つとは驚きだった。

私は弟の論文を全て読んでいる。
彼は筋金入りの科学信奉者であり、
無神論者だ――
その弟がの論文など……

だが私は確信した。
弟がやがて私のもとに現れ、
私の成果を求めるだろうと――
私は知り得たことをノートにしたため、
弟の興味を引くように仕向けた。
もちろんすべて研究の賜物たまものだ、
嘘偽りなど何一つとてない。

私は内的イメージの具現化、
つまり幻視の研究を手がけ、
多くの成果を得たのだ――

弟は学者として、
自らの理論の統一のために、
を自分の目で確認する、
そのことだけを祈念きねんしていた。

無神論者の彼が、
霊異りょういかしずくように、
を求めたのだ――
考えてみれば滑稽こっけいなことだ。
無神論者が霊異りょういを求めるなど……

――ここには長居は無理そうだ。
赤坂哈爾浜ハルピンで君を待つ。

アストラルが消え、老人が顔を上げた。

【為次郎】
もういいかニャ?
おいら、疲れたニャ~
そろそろ帰るニャ~

そう言うと老人はふらつきながら歩き去った。そこへ着信があった。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
はらえの間においでください。

〔祓えの間〕

【新山眞】
ヴンダーの見える派と、
見えない派に別れるの、
なんとなく納得しました。
あれは実存しないのですね。
軍の砲弾も当たるはずがありません。
皆の心の恐怖があいつなのですよ。

――ですが……
やがて実体化するのは時間の問題。
そうなれば大量殺戮の兵器になる、
私が最も懸念することです。

赤坂哈爾浜ハルピンに、
先ほどと同じ波形があります。
向かってください。

〔赤坂哈爾浜〕

赤坂哈爾浜ではアストラルたちが右往左往していた。その中から一体のアストラルが寄って来た。

【本郷の元書生アストラル】
怪人川柳、企画したのは、
蛇穴さらぎ先輩だ!
アハハハ~
先輩がどうなったか知っているか?

先輩は素っ裸の上に、
女物の襦袢じゅばんだけを羽織はおって、
夜な夜な出歩くんだ。
きっと誰かに入れ知恵された、
そうなんだろ?
お前たち軍部の仕業なのか?
帝都の騒ぎも、みんなそうだろ?

僕はね、アナーキスト共を、
片っ端から特高に売ったんだ!
国体を維持するためにね!

それなのに……
お前たちがその体たらくで、
何もかもがダメになる!!
許さん!!

《バトル》

【本郷の元書生アストラル】
たかがこれしき――
もっと強くなってやる!

【着信 喪神梨央】
申し訳ありませんでした!
あまりに急なことで……
何か逆恨さかうらみしていたようですね。
もう大丈夫です――

新たなアストラルが近寄って来る。

【ユンカーのアストラル】
ここでなら話せるが、
あまり時間はない――
ヴンダーの影響は、
市民の心の深くに及ぶ。
やがて取り返しの付かないことに――

では話そう――
私は幻視を現すだけではなく、
真理をあらわにする力も、
合わせて研究していた。
言わば幻視を解く魔法だ。
だれか魔法に明るい者はいるかな?
魔法の知識が必要だ――
ううう……もう持ちそうにない!
私は……流される――

全てを言い終わらないうちにユンカーのアストラルは震えながら消えた。

【着信 喪神梨央】
新山さんがお話があると――
山王さんのうにお戻りください。

〔祓えの間〕

【新山眞】
ヴンダーは益々ますます大きくなっています。
その攻撃、見た目凄まじいのですが、
市内に何の被害はありません。
見える派の市民たちは、
もはや恐怖を感じ始めています。
見える派から怪人が生まれ、
すぐに姿を消すからです。
ヴンダーに食われている――
そんな噂も出始めました。

殿下が釣鐘つりがねの出力を試されて、
その効果も表れているようです。
ただしずめるには至りません。

ヴンダーの出現する場所に
印をつけていきます。
毎日ほぼ同じ場所なのです。
何か意味があるはずです――
わかったらお知らせします。
【着信 喪神梨央】
兄さん――
魔法のこと、あきらさんに相談して、
受け入れてもらいました。
あきらさんのアトリエにお願いします。

〔旭のアトリエ〕

【能海旭】
梨央りおさんから聞いたよ。
魔法がいるんだって?

うーん……
私にできるかな?
十四のときに左肩に入れた、
スペードの刺青いれずみ――
すーっと消えたのよ!

魔女になるために必要なもの、
それが私から去ったの。
だから私……
魔法そのものからも、
見捨てられたような気がしてる。

でも風魔さんに必要なら……
学校で復習しなきゃね、魔法のこと。

〔旭のアトリエ前〕

あきらは溜池通から円タクで学校に向かった。
アトリエ前に新山がやって来た。ここを梨央から聞いたのである。

【新山眞】
ヴンダーの出現位置には、
何か意味がある――
そう考えていたのですが……
すでに投書が来たそうです。
和斗かずとが教えてくれました。

ヴンダーの出現位置を、
帝都の地図に落すと、
古代北欧ほくおう文字になるそうです。

今日、最初に出現したのは、
淀橋区の角筈つのはず電停前――
次が麻布あざぶ区の四ノ橋電停前……

そのあとヴンダーは、小石川区春日町かすがちょう電停前、
浅草区三筋町みすじちょう電停前、京橋区新富町しんとみちょう電停前――
合わせて五箇所に出現したのだった。

【新山眞】
それら五箇所を線で結ぶと、
古代北欧ほくおう文字のオセルになります。
魚のような形になります。
三筋町みすじちょうが頭、角筈つのはずと四ノ橋が尾、
それがオセルという字です。
【着信 喪神梨央】
ラヂオでも言ってますよ――
オセルとは執着を捨てて、
素の自分に向き合うことだって。
【新山眞】
今日は他に、パース、ライゾ、カノ、
ラグズ、全部で五つの文字が――
昨日も全く同じだそうです。

これら古代文字はルーンと言います。
ナチがアーリア人の起源を求め、
祭儀さいぎにルーン文字を用いるのです。

しかし……
この文字をどうするかまでは、
さっぱりわかりません。
【着信 喪神梨央】
独逸ドイツ大使館で騒ぎです。
巡視パトロール中の金ノ七号きんのしちごうから連絡です。
三宅坂に向かってください!

〔独逸大使館前〕

大使館の玄関前ではユリアと鬼龍が対峙していた。鬼龍は背を向けている。
その手前に武装SSが
進入を阻んでいた。
武装SSが風魔の到来を鬼龍に告げた。
鬼龍はさっと風魔を向いた。

【鬼龍豪人】
今、こちらのユリア女史から、
ルーンの解釈を教えてもらってね。
ナチ的解釈というわけだ。
【ユリア・クラウフマン】
フーマ!
日本人はもっと礼儀正しいと――
私の買いかぶりでしょうか?
いきなり押しかけてきて、
ルーンの資料を寄越よこせなど――
一体、どういうおつもりですか?
【鬼龍豪人】
本国ではトゥーレの館と、
アーネンエルベは蜜月みつげつの関係ですよ。
日本でももっと向き合うべきです。
【ユリア・クラウフマン】
今のここには、
そのような余裕はありません。
お察しいただかないと――
【鬼龍豪人】
アハハ、いろいろあったようですね。
ですが解答は得たから、
これ以上求めるのはしましょう。
【ユリア・クラウフマン】
タケト大 尉カピティーン――
あなたは染 化ファーブストッフによって
トゥーレの召喚師となった。
すべてを手に入れたはずです。
そうじゃありませんか?
【鬼龍豪人】
私はもはや大尉などではない。
孤独な彷徨さまよえる召喚師だ。
小さな私から、
まことに小さな助言を与えよう――

しかし鬼龍は風魔を向いた自分に言い聞かすようにして続けた。

【鬼龍豪人】
ヴンダーはルーンを描く。
ルーンはそれだけでは何も為さない。
ルーンを用いスターヴを描くことだ。
五つのルーンの意味が合わさり、
ただひとつの魔法となる。
願いを叶える白魔法だ――
夢のある話じゃないか!
【鬼龍豪人】
だがしかし――
山王さんのう機関に魔法使いはいるのか?
アハハハハ、いればケッサクだな!
よしんば魔法をかけたとして、
あのヴンダーがどうなるか、
何の確証もないがな――

鬼龍は風魔に一瞥をくれた後、歩き去った。武装SSも後に続く。

【ユリア・クラウフマン】
タケト大 尉カピティーン染 化ファーブストッフにより、
完全な状態コンプレットとなったのです。

そうでなければ、
ヴンダーの力を求めたかも――
ナチではルーンに独自の解釈をあて、
その効力をより高めています。

おそらく……
ユンカー博士が何か仕込んだのです。
それでヴンダーはこの町に、
ルーンを描くのです。
巨大なルーンを――

それ以上のことは、
私にはわかりません。

梨央からの連絡で
鈴蘭すずらん女学園に向かうことに。
あきらの通う学校が
併設へいせつされているのだ。
といっても仮構かこうされた存在では
あるのだが――

〔鈴蘭女学園〕

学園正面玄関には袴姿の女学生がいた。
やって来た風魔を観て一人が言う――

【鈴蘭女学生聖子】
あら、歴史研究所の先生ね!
お若い先生だこと……
オホホホホ~

【着信 喪神梨央】
そのまま学園の中へ進んでください。
あきらさんがお待ちです。

〔祭儀室〕

自由サーベラス学園の祭儀室さいぎしつは、
高いへいに囲まれた中庭にあった。
丸屋根の中で
あきらが迎えてくれた――

【能海旭】
梨央さんから教えてもらったわ。
ルーンでスターヴを描くのね。
やりかたは一通り確認したよ。
図書室から本を引っ張り出してね。
前に習っただけで忘れていたから――

オセル、パース、ライゾ、カノ、
ラグズ――
これらルーンで文様を描くのよ。

このスターヴは、
真理をあらわにする白魔法のもの。
教科書によるとだけど――

さて、準備があるから、
風魔さんはここで待っていて。
私、地下のドームに降りるから。

祭儀には専用のローブをまとうのよ。
ブレナン先生のだから大きいけれど、
贅沢ぜいたくは言ってられないよね。

地下のドームであきらはスターヴを描いた。柘榴ざくろの板に自らの血で文様をなぞった。
教科書にある呪文を唱えながら――

二時間が経過した――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
清水谷公園で異様な波形を観測!
至急、向かってください!

あきらさんのことは、
そちらに警護部隊を派遣します。
安心してください。

異様な波形があるとの報告で、清水谷公園に向かった風魔。
そこで見たものは果たして――

〔清水谷公園〕

万朶の桜花が春爛漫を告げている。公園の方々で宴が催されていた。
そこへ将校服の青年が近寄って来た。

【九頭幸則】
おい!
風魔じゃないか!
久しぶりだな!

何やってんだ、こんなところで!
一人前の審神者さにわになったんだろ?

【着信 帆村魯公】
風魔!
一体、誰と話しているんだ?

【九頭幸則】
ちょっと悪い――
あそこに騒ぐのがいるんだ。
せっかくの桜の公園が台無しだ。

そこへ洋服姿の女性が
風魔を向いて言う。

【如月鈴代】
あら風魔さん――
帆村流、修められたのですね。
今日は野点に参ったのですが……

着物姿の若い女性が面を向けた。

【月詠麗華】
前に一度、お会いしましたかしら。
いいお日和でございますわね。
でも……あちらの方が……

着物の女性が顔を曇らせた。
少し離れたところで怒鳴る声が聞こえる。

【九頭幸則】
風魔、ちょっと見ててくれ!
俺、紀伊国坂の交番にひとっ走り、
巡査を呼んでくるよ。

言われた方を見ると、二人の男性が何やら言い争っていた。風魔は二人に近寄った。
スーツの男性が年嵩のトンビ服の男性を懸命になだめているところだった。

【着信 帆村魯公】
風魔!
お前は誰の時間を生きているんだ?
お前は陸軍中尉だぞ!
九頭も鈴代もそれを知っているだろ!
まずは騒いでいる男のところへ
向かうんだ。
それで何か分かるだろう。

風魔に気付いたスーツ姿の男性が困り果てた顔をして言う。

【スーツの男】
うちの先生、
同僚が首席訓導くんどうに昇進して、
爾来じらい、虫の居所いどころが悪いんです――

いや、せっかくの花見の席で
うちの先生が申し訳ないです。

トンビ服の男性が風魔を向いた。血走った目をしている。酒の勢いもあって鬱憤を爆発させた。

その時だ――
周囲から色が失せた。

再び色が戻った時、
風景は一変していた。
桜の花は消え、花見に来ていた市民もいない。公園は初冬の冷たい空気に包まれていた。

目の前にはトンビ服の男性の代わりに一体のアストラルが浮かんでいる。

【酔漢先生のアストラル】
どけ!
ええい、そこをどかんか!

貴様ら、国賊こくぞくどもめ!
天誅てんちゅうだ、天誅てんちゅうくだす!
私を何だと思うか!!

《バトル》

【酔漢先生のアストラル】
ふぅ、ふぅ、ふぅ……

一旦緩急いったんかんきゅうあれば、
義勇公ぎゆうこうほうじ!
臣民しんみん
ちゅうこうにぃ~
皇祖こうそ皇宗こうそう
くにはじむること宏遠こうえんに~

アストラルは震えながら消えた。
そこへ着信があった。

【着信 帆村魯公】
風魔、よく聞け!
お前だけが時間から離されている。
いや、むしろ違う世界にいるのか?
相手からはお前がちゃんと
見えていないようだったな。
長居は無用だ、すぐ戻るんだ。

第九章 第五話 トゥーレの館

九頭くずの報告を知り、新山眞にいやままことがやってきた。仮構かこう世界に向き合うために、夢玄器むげんきを改良したのだという。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん――
新山さんがお見えです。
夢玄器むげんきが新しくなったとか。

【新山眞】
新しいというのではないのですが、
思念の中に入っていく仕組みと、
仮構かこうの仕組みは似ているのです。
そこで共振回路に手を加えて、
復調波ふくちょうは大S値だいエスちを加えることで、
仮構かこう世界の実体が見えるようにと――
【九頭幸則】
ええ、じゃ、あの渋谷憲兵大隊も、
それでのぞくと活動キネマ館だったり、
薬屋の倉庫だったりするんですか?
【新山眞】
どうでしょうか……
仮構かこうされて時間が経っていると、
それは難しいかもしれませんね。
【九頭幸則】
三日前に青山せいざんホテルで、
ディナーを楽しんだ奴がいるよ。
うちの隊に――
【新山眞】
そうだとすれば、
トゥーレの館になって、
まだ間がないですね。
【喪神梨央】
それじゃ、兄さん、
青山ホテルへお願いします。
九頭中尉はどうされますか?
【九頭幸則】
え、う……あ、あ……
いきなりそう言われると、
俺まで仮構かこうされたみたいだな――
もちろん、風魔に同行だ!
【喪神梨央】
承知しました!
公務電車、手配します!

〔青山通〕

青山六丁目交差点で事故が発生した。
市電と車が衝突したとのことだった。公務電車は青山通で停止した――
電車通には車が二台停まるきりで市電はなかった。市民が数名たむろしている。そして空にはカラスが乱舞する――

【九頭幸則】
青山六丁目って、
よく事故があるな――
先だっても一日に六回もあった。
皆、市電と車の衝突だよ。
それにしても――

背広姿の男性が近寄って来た。渋谷方面からやって来たようだ。

【青山のラヂウム商】
ここにまでいやがりますなぁ~
ええ、カラスの奴です、黒い奴!
【九頭幸則】
普段とは違いますか?
【青山のラヂウム商】
違うも何も、軍人さん、
公爵邸こうしゃくていの周りはカラスだらけ、
まっくろけ~
【九頭幸則】
公爵邸?
それはどちらの公爵ですか?
【青山のラヂウム商】
この辺で公爵といえば、
フンゲルハウワー公爵ですよ、
まさにその館です。
【九頭幸則】
フンゲルハウワー?
聞いたことが無い……
【青山のラヂウム商】
タングステン貿易で大儲おおもうけ、
でも青島チンタオ権益けんえき失って没落ぼつらく
この帝都に館だけ残された――
この辺では有名な話です。

空き家になって、はや十年――
たまに電気がくといいますよぉ。

カァカァ カラスガ ナイテイク
カァカァ カラスガ トンデイク

カラスの鳴き真似をしながら男性は青山方面へと歩き去った。カラスが屋根の上でしきりに鳴いている。

【九頭幸則】
同輩どうはい付合いの日曜下宿が、
この近くの高樹町たかぎちょうにあるんだ。
海苔のり屋の二階だ。
俺もちょくちょく来るけど、
フンゲル何とかの話なんか、
まったくの初耳だぜ――
まるでお化け屋敷みたいだな。
そうか!!
そのフンゲルも仮構かこうじゃないか、
きっとそうだよ!

それに答えるかのようにさらにカラスが鳴く。

【九頭幸則】
いや……ホテルが仮構かこうなのか……
――ああ、なんか混乱するな!

鳴き声を重ねながらカラスが一斉に飛び立った。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
鈴代さんから連絡があり、
麗華さんと一緒にホテルに向かうと。
それ以上のことはわかりません。
【着信 帆村魯公】
カラスの鳴き声が聞こえるぞ。
やけに多くいるようだな――
アーネンエルベの使い魔――
かも知れんがな……
ユンカーもヘーゲンもいない今、
ぜんたい誰の使い魔なんじゃろか。
注意して進むべし、八号帥士はちごうすいし

二人は青山ホテルと思われていた洋館の前に来た。門前に二人の男性が立っていた。その二人の周囲にはカラスの群れがあった。

【九頭幸則】
ホテルに変わったところはないな。

九頭がそうつぶやくと、一人の男性が歩み寄った。

【西洋かぶれの紳士A】
ここは現代青年の作法心得を、
しかと学ぶ館であります!
それもほまたか仏蘭西フランス流儀です。

もう一人も来る。

【西洋かぶれの紳士B】
晩餐ばんさんの場についたなら、
剛健ごうけんなる現代青年の作法をもって、
終始しゅうしせねばなりません。
【西洋かぶれの紳士A】
出る皿々は、驚くべき速力と、
騒音とをもって見事に平らげます。
婦人たちに紳士しんしの力を見せるべく――
【西洋かぶれの紳士B】
フォークを二本の指で曲げる、
皿をこぶしにて叩き割るなどして、
食事が終わるやいなや――
【西洋かぶれの紳士A】
テーブルクロースをいて、
手や口をさっさとぬぐい、
悠然ゆうぜんと十三文甲高こうだかの靴をば、
【西洋かぶれの紳士B】
テーブルの上へと投げ出し、
巴奈馬パナマ葉巻をくゆらすのであります。

そこまで言うと二人の男性はそれぞれ左右に駆けて行った。

【九頭幸則】
何なんだ、今のは一体?
どんな作法なんだ――

九頭と風魔は洋館の庭へと踏み込んだ。洋館の脇に音もなく仮面の男が現れた。

【九頭幸則】
おい、見ろ、風魔!
あれは……仮面の男だ!!

やおら仮面の男がくぐもった笑い声を上げた。周囲の風景が歪み始めている――

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です!
中尉は大丈夫ですか?

仮面の男はひとしきり笑い終えると、おもむろに両手を広げた。その手の周りにセヒラが漂い、やがて渦を巻き始めた。セヒラの渦は仮面の男の周囲に広がった。

【九頭幸則】
ううう、どうした、急に!
体が……重いぞ!

九頭は辛そうに腰折りとなった。その刹那、仮面の男が滲みながら消え、替わりに黒い仮面を被った人物が現れた。リヒャルト・フィンケである。セヒラはいたるところで渦巻いている。

【リヒャルト・フィンケ】
現実――仮構かこう――現実――
フフフ――

フィンケが不敵な笑いを残して消え、そこへ仮面の男が現れる。

【九頭幸則】
この……匂いは……
渋谷憲兵大隊と同じ――
この甘い……匂い……
――うっ!!

仮面の男がぶれながら消え、そこへフィンケが現れる。

【リヒャルト・フィンケ】
人間というのは、
あまり多くの現実に耐えられない。
――いい言葉じゃないか!
トゥーレの館へ、ようこそ!
ヘル、フーマ!

フィンケがぶれながら消えた。そして仮面の男――

【九頭幸則】
風魔!!
奴はすきを見せているぞ!

持ち直した九頭は、仮面の男を見据えたまま言った。それを聞いた風魔、すかさず仮面の男の前へ駆け寄った。

《バトル》

【仮面の男】
イッヒ……イッヒ……
――崩壊!ツーザンメンブロホ
――崩壊!ツーザンメンブロホ

――長い冬……ランガーヴィンター

仮面の男は腰を折っている。これまで被っていた仮面が地面に落ちていた。そして仮面の男の顔のあったところには小さなセヒラの渦が見える。渦の中心は漆黒の闇であった。
風魔は落ちている仮面を拾った。

【着信 喪神梨央】
物凄いセヒラです!!
波形も初めての形です!!
――兄さん!!

仮面の男から幾筋ものセヒラがほとばしり、やがて半球状のセヒラ球を形成した。周囲から光が失われた。

しばらくして光が戻った。セヒラ球は消えており、仮面の男の姿もなかった。風魔の傍へ九頭が駆け寄る。

【九頭幸則】
おい、風魔!
お前たち二人とも、
スーッと浮かび上がって――
ホテルの屋根あたりまで昇ったぞ!
その後、セヒラに包まれて、
姿が見えなくなった――
奴を倒したのか?
仮面の男だ。
お前だけがスーッと降りてきた……

九頭に言われ風魔は強く目を閉じた。次に目を開いたとき、仮面の男のいた場所に鬼龍が立っていた。

【九頭幸則】
あなたが騒動の元か!
鬼龍きりゅう大尉!
【鬼龍豪人】
歩一のロマンチスト将校と、
やりあうつもりは毛頭ない!
【九頭幸則】
白山集会所で監視下に置かれていた、
そうじゃないのか、大尉!
【鬼龍豪人】
時間は私に味方したのだ。
お陰でゆっくり自分に向き合えた。
【九頭幸則】
もしや……
仮面の男も、実は大尉、
あなたなんじゃないのか?
【鬼龍豪人】
ウワハハハハ~
それは新しいな!
私は昨夜から忙しくてね。
トゥーレの館で儀式を行った――
神の仕事ベルクゴッテスと呼ばれる儀式だ。

鬼龍はスターヴを現した。それは幻影なのか……

【鬼龍豪人】
私に与えられた文字は四つだ。
皆、ルーン文字だ――
自己マンナズ破壊ハガラズ変革サガズ、そして完全シグル――
シグルには太陽の意味もある。
これら文字を組み合わせる文様、
スターヴを柘榴ざくろの木の板にり、
それを私の血でなぞる――
心臓から繋がる左手の親指に、
銀のナイフを滑らせ滴る血でなぞる。
スターヴには願いを叶える、
強い霊力が宿る。
私の血で愈々いよいよ力が放たれる!
昨夜、大熊流星群の方角、
赤経一◯時ニ四分、赤緯三七度を
仰ぎ見て心の扉を開いた!
私は染 化ファーブストッフされたのだ――

スターヴのイメージは消えた。依然、鬼龍が語っている――

【鬼龍豪人】
スターヴを描いた柘榴ざくろ板を燃やし、
その煙を吸って儀式は終わった。
昨夜以来――
私は一度も息をしていない。
だがなんともないのだ!

そこへ鈴代が青山通の方からやって来た。

【九頭幸則】
鈴代!
どうしてここへ――
【鬼龍豪人】
私が呼んだのだ。
白山神社に置いた香合が、
瑞祥ずいしょうを現したようだね。
【如月鈴代】
香合の中にメモがありました。
トゥーレの館に来るようにと――
【鬼龍豪人】
あなたはご自分のことを、
よく理解されているようだ。
【如月鈴代】
そうでしょうか……
【鬼龍豪人】
鈴代さん――
あなたこそ古式を継ぐべきです。
あなたには機根きこんそなわる――
私は染 化ファーブストッフした――
トゥーレの館流の召喚師として、
今や完全な存在になろうとしている。
だからこそ、
古式の奥義をあなたに継ぎ、
私は身軽にならねばならない。
【如月鈴代】
鬼龍さん――
あなたにそなわる古式流儀ですが、
それは叔父山郷の……
【鬼龍豪人】
鈴代さん!
あなたは東雲しののめ流の再興を願った、
そう伝え聞きましたよ!
【九頭幸則】
しつこいぞ、大尉!
鈴代の決意は固いんだ。

どこからともなく麗華が現れ、鈴代の傍に来た。

【鬼龍豪人】
麗華さん!!
【九頭幸則】
――麗華さん……
【月詠麗華】
豪人たけとさま――
ようやくお目にかかれました。
豪人さまが白山神社に置かれた香合、
その瑞祥ずいしょうは、私に届いたのです。
北の夜空に現れた光の筋――
あの光が私を導いたのです。
そして香合を見つけました。新京シンキョウ神社にあったのと同じ香合です。
中にはメモが……
振り返ったその時、鈴代さんが――
神社で鉢合はちあわせになったのです。
【鬼龍豪人】
麗華さん!
あなたには何か深いものを感じる。
それは毒々しい色を帯びている!

そう言うや鬼龍は洋館の方へ面を向けた。

【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ!
トゥーレの館の扉を!

鬼龍の叫びに呼応するかのように洋館はまるごとセヒラに包まれた。

【着信 新山眞】
今です、夢玄器むげんきの装着を!
それで仮構かこうの中を確認できます。

風魔は夢玄器を装着した。眼前には銀河ゼットー博士の研究室で見たのと同じ夢玄域が現れた。夢玄域の中に洋館が浮かび鬼龍もそこにいた。

【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ!
私を見てください!
昨夜、無事に染 化ファーブストッフを済ませ、
トゥーレ召喚術のマイスターに――
そうではありませんか?
【リヒャルト・フィンケ】
この甘い香りを!
ベラドンナの香りはかくも甘い。
甘く、みつのようにまとわりつく――
【鬼龍豪人】
ヘル!
私には香りがわかりません。
昨夜から息をしていないのです。
【リヒャルト・フィンケ】
それは本物だよ、鬼龍きりゅう大尉。
君は愈々いよいよの時を迎える――
【鬼龍豪人】
やはり……
そうなんですね!
トゥーレ召喚師として成るのですね!

夢玄域の中に突然麗華が姿を見せた。

【月詠麗華】
豪人さま!
私にお授けなさいまし!
【鬼龍豪人】
麗華さん!
ここに来てはいけない!
あなたに奥義は授けられない!
奥義とは授けた先で、
貴くあらねばならない――
あなたが求めているのは力だ、
闘いのための力だけだ!
【月詠麗華】
私は純粋なのですわ、豪人さま。
憎しみもうらみもなく、
ただただ神さまを授かりたいだけ――
【リヒャルト・フィンケ】
君は愈々いよいよ見放されようとしている、
君の中にあるケアンからね――
【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ!
今はだめです、改めないと!
【リヒャルト・フィンケ】
時は進むのだよ、鬼龍君!
君は随分と物分りが良くなった。
それで時間がかかったのだ――
愈々いよいよケアンが君を見捨てるときだ。
【鬼龍豪人】
うわぁ!!

鬼龍の叫びとともに周囲から光が失われた。

〔時空の狭間〕

目の前には時空の狭間に吸われた鬼龍の姿が見える。鬼龍は薄っすらとセヒラに覆われていた。

【鬼龍豪人】
京都の師団にいたときだ――
あの小函こばこ独逸ドイツから届いた小函こばこ
日曜下宿に持ち帰った。
装飾を施した美しい小函こばこ――
トゥーレの館の招待状を収め、
そして……もうひとつ――
石だ!
黒ずみ、所々に光の粒を浮かせた、
不思議な石が収められていた――
あの石は……
――翌朝にはなかった!
机の上から消えていたのだ!

まるで鬼龍の内側から発せられるように大量のセヒラがほとばしった。

【鬼龍豪人】
どうした?
何が起きた?

青山せいざんホテル〕

周囲が戻るとそこは洋館の前だった。風魔は膝をついた状態だった。風魔が起き上がった時、軍用トラックが走り去った。門前には武装SSの立哨がいた。トラックの走り去った方からユリア・クラウフマンがやって来た。

【ユリア・クラウフマン】
フーマ、仮面の男に入っていた、
アルツケアンは回収しました。

青山ホテル前に落ちていたアルツケアンは、アーネンエルベが回収した。
防護服姿の隊員が回収作業を行った。

【ユリア・クラウフマン】
先程、リオから通信記録を見せられ、
タケト大 尉カピティーンにも、
アルツケアンが入っていた――
そう信じるに値する心証しんしょうを得ました。
トゥーレの館から送られた小函こばこに、
そっと収められていたのでしょう。
タケトのアルツケアンは、
今、レイカに取り込まれています。
サンノウの記録を読むと、
レイカには二つのアルツケアンが――
私たちの想定を超えた事態です。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ確認しました!

交信が終わるや否やフィンケがやって来た。

【リヒャルト・フィンケ】
実に素晴らしい!
月詠つくよみ麗華れいか
彼女は究極の力に目覚めようと――
【ユリア・クラウフマン】
フィンケ総統――
ユリア・クラウフマンです。
極東分局の開設と同時に来ました。
【リヒャルト・フィンケ】
お父上のローレンツ博士には、
私もよく教わったものだ。
【ユリア・クラウフマン】
父はアルツケアンについては、
まだ何も解明されていないと。
扱いには極めて慎重でした――
【リヒャルト・フィンケ】
そうだろうとも!
しかし時は待ってはくれない、
フロイライン・ユリア。
【ユリア・クラウフマン】
フェラー博士は父に無断で、
仮面の男にアルツケアンを――
コンプレットが目的なのでしょう!
【リヒャルト・フィンケ】
研究というのは、
頂きを見上げることなんだよ。
見上げるばかりか駆け登ることだ――
並のホムンクルスを凌駕りょうがする、
素晴らしい性能が誕生したのだ。
――まだ未完成だったがな!

洋館の中庭から鬼龍が走りくる。鬼龍、フィンケに面して言う。

【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ!
私の染 化ファーブストッフはすべて終わりました。
【リヒャルト・フィンケ】
素晴らしい!
これでトゥーレ流召喚術、
愈々いよいよこの国に根ざしたことになる。
【鬼龍豪人】
先程、急に息が詰まり、
その後、大きく深呼吸ができました。
――私は戻ったのです。

暫く鬼龍を見ていたフィンケは風魔の方に直った。そしてやや芝居がかった調子で言う。

【リヒャルト・フィンケ】
ヘル……いや、喪神もがみ風魔ふうま君!
私たちは僥倖ぎょうこうを得たようだ。
元より素晴らしい霊異りょういほこ帆村ほむら流、
この鬼龍君のトゥーレ流召喚術、
それに古式東雲しののめを継いだ月詠麗華――
アーネンエルベは、残念なことに
なったが、それをおぎなって余りある、
素晴らしい力の拮抗きっこうだ!
【鬼龍豪人】
ヘル、フィンケ――
麗華さんに継いだ東雲しののめ流、
果たして大丈夫でしょうか?
【リヒャルト・フィンケ】
彼女には素晴らしい素養そようがある。
それは揺るぎないものだ。
君が悩まされることはもうないよ。

フィンケは鬼龍の前を通って洋館の中へと入って行った。

【ユリア・クラウフマン】
鬼龍さん――
トゥーレ流のマイスターになり、
あなたのわだかまりは消えましたか?
【鬼龍豪人】
何かを為して満足することは、
私に関してはないでしょうね、
ユリアさん。

ユリアに冷たい視線を投げかけた後、鬼龍はフィンケを追うように洋館へと入って行った。

【ユリア・クラウフマン】
フーマ……
今のアーネンエルベには、
何かに対処する力はありません。
仮面の男がいなくなり、
コージンも出方を変える必要が――
コージンの組織するユーゲントは、
フォス大佐の命令に忠実です。
コージンはそれで苦労しています。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
青山通でセヒラ観測です!
おそらく――
【ユリア・クラウフマン】
レイカ――
まだ不安定なのかも知れません。
気を付けてください……フーマ……

風魔は踵を返し、青山通へ向かった。

セヒラが移動しているとの連絡を受け、風魔ふうまは明治神宮前電停から自潤会じじゅんかいアパートへ。
果たしてそこで出会った光景は――

【九頭幸則】
風魔!
どうしたんだ、何だこいつらは?
お前が倒したのか?

2両の軍用トラックが向き合うようにして歩道に乗り上げて停まっている。道路上には五人の憲兵が倒れていた。そこへ九頭が走り込む――

【九頭幸則】
それで、書生の二人はどこだ?
麗華さんは?
青山六丁目で鈴代さんと二人、
麗華さんの護衛についていたら、
いきなり麗華さんが走り出したんだ。
麗華さん、二人の書生を追っていた。
書生の二人、怪人には見えなかった。
でも麗華さんは追い続けた――
明治神宮前の交差点を曲がって、
ここまで来たら――
この有様だ。

その時、倒れていた憲兵が二人、相次いで起き上がった。だが戦う素振りは見せていない。

【渋谷憲兵大隊雲城くもぎ少尉】
息が……できない……
【渋谷憲兵大隊人首ひとかべ中尉】
ううう……
糞! 糞! 糞!
頭が……割れるようだ!

一瞬、周囲が暗くなり戻った時、トラックも倒れていた憲兵も消えていた。そこへ能海旭がやって来る。

能海旭のうみあきら
風魔さん!
さっきの連中、ゼロ師団よ、
そうに違いない。
レンザが青山通に何か感じるって、
悪魔の勘がうずくって――
それで飛んできたの!
【九頭幸則】
へぇ!
魔法のほうきにまたがって来たのかい!
能海旭のうみあきら
山王さんのうから円タクよ、中尉。
特別に二十円払ったの。
速かったよ、さすがに――
【九頭幸則】
に、二十円?
そんな大金……
能海旭のうみあきら
山王さんのうからここまで五分ちょうどね。
――それで……
【???】
風魔さま――
近くにおいでなのですね……
わかりますわ――

自潤会アパートの戸口を背にして麗華が立っていた。

【月詠麗華】
風魔さま――
私、まだちゃんとしていない、
そうなのでしょうか?
青山通を歩いていたら、
いきなり体が動いてしまい――
追いかけたのは二人の憲兵ですわ。
闘いの意思を強く感じましたわ。

旭が麗華を認めて歩み寄る。

【能海旭】
あなたも、召喚するの?
【月詠麗華】
神さまのことですか?
それならお招きできますわ。
――今もすぐ傍においでです。
【能海旭】
そうなの!
それは良かったわね!
あなたはなのね、きっと。
でも、東京ゼロ師団相手に、
ことを荒立てないで欲しいのよ。
私たちが調べてるんだから!
【月詠麗華】
随分ですわね! お言葉ですわ!
私は闘いのあるところなら、
どこにでも参りますわ!!

九頭が割って入るように言う。

【九頭幸則】
ふたりとも、落ち着いて!
ね、あきらちゃん――
さっきはちゃかして悪かったよ、
ね、ほら、今日はいい天気だよ!

旭は九頭に構わず麗華を見据えたまま言う。

【能海旭】
余計なこと、しないでよ!!
あんただって、はぐれ者なのよ!
足掻あがいても根無ねなぐさは流されるだけ!
【月詠麗華】
私は平静をたもちたいのに、
神さまがおいでになりました。
風魔さま、お願いします――

《バトル》

鈴代がやって来ていた。麗華は少し息が上がっているようだ。旭は依然麗華を睨みつけている。

【月詠麗華】
戦いの前より、
気持ちが落ち着きますわ。
【如月鈴代】
麗華さん!
これ以上はさわりますわ。
さぁ、戻りましょう。
【月詠麗華】
そうですわね、鈴代さん。
それに古式のこと、
もう少しお教えいただかないと――
風魔さま、楽しゅうございました。
またよろしくお願いします。
【如月鈴代】
風魔さん、
後ほど本部にお邪魔しますわ。

麗華、鈴代は電車通を青山方面へと歩き去った。旭は両手を腰に当てがい、二人を目で見送っている。

【能海旭】
呑気のんきなものよね……
が勝手に降りてくるなんて!
ふん! 素晴らしいじゃない!
【九頭幸則】
いやぁ、あきらちゃんの怒った顔、
たまらないなぁ~
まるで磁器じき人形のようで。
【能海旭】
九頭くず中尉――
君に話があるんだ。
ちょっと来てくれないか?
【九頭幸則】
え? え? 俺に?
何だい、話って?
【能海旭】
来れば話すよ。
君の同輩なんたらのことだよ。
――君は気になっていないのか?

風魔さん――
また会えますよね?

別れを告げ、旭はスタスタと歩き出す。慌てて九頭がその後を追う。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし――
青山墓地でセヒラの乱れを観測です。
念のためご確認ください。

〔青山墓地〕

青山墓地の大穴は依然いぜん開いたままである。
赤坂署により立入禁止区域に指定され、大穴の周囲を4人の巡査が見張っていた。物見遊山ものみゆさんの市民の姿はなかった。

大穴を背に一人に巡査が立っていた。

【赤坂署の巡査】
署員が総出で規制しております。
猫一匹たりとも入り込む、
そんな余地はちっともないニャ~

話し終えると巡査はいきなり駆け出した。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ急上昇です、
これまでにない値です!!

いきなり、穴からセヒラが吹き出した。穴の周囲を警戒していた巡査は皆散り散りとなって逃げた。
セヒラは筒のようになり、その中へ一体の中型アストラルが姿を見せた。

【歩一Y少尉有心アストラル】
そこにいるのは――
もしや、喪神中尉?
喪神中尉!
――そうなのですね、中尉ですね!

喋った後、アストラルは少し膨張し、また縮んだ。

【歩一Y少尉有心アストラル】
自分、歩一少尉、山本であります。
今は九頭くずの身が危ないと、
それを伝えに参りました!
私には時間がありません!
しかし――
お越しください!
私にはがあるのです――

そこまで言ってアストラスは爆ぜるように消えた。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラの値、依然いぜん高いままです!

大穴から大量のセヒラが吹き出した。
セヒラに呑まれ、
風魔は落ちていった――

〔時空の狭間〕

しゃがんでいた風魔が立ち上がると、それを待っていたかのように別の中型アストラルが現れた。

【歩一Y少尉無心アストラル】
私の実家は向島むこうしま区、白鬚しらひげ神社近く。
江戸指物さしもの師の三男坊です――
強くなるため陸士に入りました
荒川の向こう岸にある工場は、
帝国モスリンの工場です。
その工場、様子が変なのです。
私が工場のことを話すと、
九頭くずは大いに興味を持ったようです。

喋り終えるやアストラルは震えながら消えた。代わりにアストラルが現れた。先程、青山墓地の大穴に現れたアストラルである。同じ山本少尉が2つのアストラルに分離しているのである。

【歩一Y少尉有心アストラル】
私はあのふたを見て直感しました。
これはモスリン工場の入口だと。
すぐに二人に連絡を入れました。
能海旭のうみあきらさんと吉祥院蓮三郎きっしょういんれんざぶろうさんです。
九頭くずに電話を入れて、
能海のうみさんの無線を聞き出しました。
蓮三郎れんざぶろうさんの寿命、
にならないと尽きてしまうとは、
本当なのでしょうか……

アストラルは震えながら消えた。そこへ現れたアストラルは、詳しい事情を知らない方のアストラルであった。

【歩一Y少尉無心アストラル】
九頭くず偽装ぎそうしている施設がある、
そう疑っているようでした。
どこにも出入口のない工場です、
奴が疑うのも無理はないでしょう。
奴は詳しく知りたがりました。

またアストラルが入れ替わった。眼前には事情に通じたアストラルが浮かぶ。

【歩一Y少尉有心アストラル】
工場ではセヒラのうずが合わさり、
次々とが誕生します。
そのとき兵器も融合しているのです。
工廠こうしょうで危うく私は――
喪神もがみ中尉に助けられ、九頭くずの一声で、
私は自分を取り戻したのです。
東京ゼロ師団は工廠こうしょうの他に、
仮構かこうによって組織を作っています。
防疫研究所や砲工学校がそれです。
渋谷の憲兵大隊も仮構かこうの存在、
東京ゼロ師団自体も仮構かこうです。
大きな力が及んでいるのです――

アストラルが入れ替わり、事情に詳しくない方が現れた。

【歩一Y少尉無心アストラル】
帝国モスリンの前身は興亜こうあ毛織けおりです。
そこの波斯ペルシア人技師が鉄道事故で死に、
事故の一報が朝刊に載りました。
ところが朝刊の遅版では、
事故にったのは露西亜ロシア人通訳と、
なぜか記事が差し替わっていました。
鎌倉でのその事故を報じた、
唯一の新聞社、帝都日日ですが、
去年倒産しています――

喋り終えたアストラルは爆ぜるにようにして消えた。

【着信 喪神梨央】
なんか妙です――
セヒラ値はすごく低いのに、
激しい波形が現れています。

交信が終わった時、大型アストラルが現れた。

【歩一Y少尉アストラル】
鳥居坂町とりいざかまちの日曜下宿にいる時、
いきなり三人の憲兵大尉が来た。
憲兵は土足で部屋に上がった。

私は黒い車に乗せられ、
渋谷憲兵大隊本部へ連行された。
地下の談話室へ入れられたのだ。

両足を鉄輪てつわで床に留められ、
両手は天井からのくさりに繋がれた。
ギリギリと音がしてくさりが巻き上がる。
私は万歳ばんざいの姿勢となり宙に浮き、
そのまま何日も放置されたのだ。
上体が大きく前に倒れて気が付くと、
両肩の関節が抜け、私の体は
筋肉と皮で支える格好になっていた。
恐ろしい痛みは後からやってきた。
焼けた穂先ほさきを差し込まれた痛みだ!
私はそのとき飛んだのだ!

私は九頭くずを案じている。
しかし、同時に貴様らをにくむ!
私を返せ、今すぐに返せ!!

《バトル》

【歩一Y少尉アストラル】
両手を失った私は、
戸山の軍医病院に収められた。
私の腕は満洲に送られた――
片腕ずつ、腕を失った支那シナ人に、
移植するのだという。
善なる医学の実験だそうだ!
移植に成功すると、
今度は私の両足を切り落すらしい!!

私は関東軍第七十九軍に転隊した、
そういうことになっているようです。
九頭くずに伝えてください!
連中には近づくなと――

大型のアストラル、それは山本少尉の分離した思念の合わさったものであった。アストラルはゆっくりと、滲むようにして消えていった。

次に風魔が現れたのは溜池通である。しかし人も車もない、音すらしない場所であった。周囲にセヒラの影響が及んでいる――
佇む風魔の前に中型のアストラルが現れた。

【歩一M大尉アストラル】
赤坂哈爾浜ハルピンでは逆恨みのようになり、
申し訳なかった――
元歩一大尉の御荷鉾みかぼだ、喪神中尉。
君は時空の狭間から戻り、
おそらく帝都の何処かにいるはずだ。
――君の実体のことだ。

そこまで言うとアストラルは揺らいだ。

【歩一M大尉アストラル】
私は幼少期を独逸ドイツで過ごした。
ミュンヘンのブルエナー通――
陸士入学を目指して日本へ帰国した。
二十歳を前に駐独武官補として、
再び渡独して半年ほど過ごした。

そこでアーネンエルベと接触した。
連中は日本に大いなる興味を持ち、
私を快く受け入れてくれた。
中隊指導者のラルフが地図を手に、
私の元に来て尋ねたんだ――
伊豆の修善寺しゅぜんじについてだ。
ラルフは修善寺しゅぜんじロッホがあるという。
近く、それを発掘するのだと。
ロッホから資源を取り出して兵器を作る、
どうもそんな話だった。
ラルフと私はアーネンエルベの、
青年室で会った……何度かね……

セヒラのせいか景色が揺らいで薄くなり、別の街区が現れた。同じ赤坂である。

【歩一M大尉アストラル】
京都の師団を経て歩一に任官後、
ほどなく戸山砲工学校に出向した。
教官としてだ――

そこであの香りをいだのだ――
ベラドンナの濃密な甘い香りを。
アーネンエルベの青年室でも、
同じ香りがしていた。
それがベラドンナの香りだと、
ラルフが教えてくれたのだ――

私はラルフの言う修善寺しゅぜんじを思い出し、
休暇を取って温泉宿に逗留とうりゅうした。
毎日、山を歩き、ロッホを探した――
帰京の前日、小高い丘の頂きで、
倭文しどり神社の小さなほこらを見つけた。
ほこらにもたれて私は転寝うたたねをした――

再び景色が変わった。赤坂の一ツ木通に繋がる界隈だ。

【歩一M大尉アストラル】
今思えば、あのほこらロッホなのでは――
月詠つくよみ麗華れいかに飛ばされた私は、
終わりなくここを彷徨さまよう――

わかるか、ここは回廊かいろうだ。
アラヤ回廊、そう呼ばれる場所だ。
あらゆるロッホに通じる回廊だ。
そのロッホは帝都にもある――
少なくとも三箇所にだ!

――私は認められたようなのだ……
アラヤ回廊によって私は認められた、
そのように思えてならない。
だが、貴様はまだ帝都の魂を残す。
ここに長居は無用だろう――
私はもう行かねばならない。

アストラルは滲むようにして消えた。
歩き出した風魔の耳に
声が聞こえた――

【???】
風魔!
あなた、ここにいるの?
私よ、淑子としこよ――
風魔、後ろを振り返って頂戴!

風魔が向こうとしたその刹那、眼前に一体のアストラルが現れた。

【風水師HSアストラル】
ヘレナよ、ヘレナスー――
振り向かないで!
振り向くと、二度と出られなくなる!

――気を付けて!
その声はあなたの心の中の声よ。
自分の声に取り込まれると大変!
さぁ、目を覚まして。

風魔は気を取り直した。アストラルは話を続ける――

【風水師HSアストラル】
私は、目覚めた後、
また薬を飲んだ。
今度は一瓶ひとびん丸々飲んだよ!

――私……
永遠にここを彷徨さまようの――

話し終えても依然アストラルは浮かんだままである。やがて周囲が暗闇に呑み込まれた。風魔は帝都の山王に戻っていた。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん!
もう大丈夫ですか?
――心配しました……
あれから、鈴代さんから、
いろいろお聞きしたんですよ。
古式東雲しののめ流のこととか――

古式東雲しののめ流は鬼神を人に降ろす秘儀である。
それは必ずしも闘いの神々ではない。
しかし古式の本来の姿はすでに失われている。
邪流にて古式が蘇ると、現前にを呼ぶ、そのような事態も招きかねない。
鈴代は麗華に対してそれを案じていたのだ。

【喪神梨央】
でも麗華さんはすごく霊感の強い、
蓼科たてしなという乳母うばに育てられ、
鈴代さんは麗華さんなら大丈夫、
そう見込まれたようです。
麗華さんは兄さんたちと同じ、
審神者さにわになられたのです――
【帆村魯公】
おう、風魔!
もういいんだな――
京都の帝大の古文書、
先般せんぱん、ようやく見つかってな。
係員が暗い書庫で書き写した。
その古文書こもんじょだが、持ち上げた途端とたん
細かな破片になって散ったそうだ。
――文言は電報で寄越よこされた。

ソノアサ ウラト 
アラハスヒカリ アリテ

【帆村魯公】
例によって式部氏の知り合いが、
読み解いてくれたぞ。
その朝、占いの言葉を、
現す光がある。
三つの文言を繋ぐと――
真名井まないの鏡、それの様、うるわしくて、
諸神もろかみたちの御心にも合えり――
その朝、占い現す光ありて、
一つのあらかに渡らして詰まる。
【喪神梨央】
一つのあらかとは冬至でした。
――つまり……
冬至の朝、真名井まないの鏡が、
占いの言葉を映し出す――
そういうことですね。
【帆村魯公】
魔鏡まきょう託言たくげんを写すのだな。
それで、冬至はいつだったかな?
【喪神梨央】
十二月二十三日です。
あと二週間です――

風魔が回廊にちた時、帝都と大きく時間がずれてしまった。
帝都でははや師走しわすを迎えようとしていた――

第八章 第九話 総統の来日

〔銀座四丁目〕

銀座に出向いた祇園丸ぎおんまるからの要請で、風魔ふうまは夜の銀座に来ていた――

【祇園丸】
ヘーゲンのはなった執事型が、
僕を狙っているんだ。
だから助けを求めた――
ブレーメはギンザ一丁目だった。
店のウェートレスは写真を見て、
確かにこの人が来たと言ったよ。
ユンカー局長の写真を見せたんだ。
ユリアは先に戻った――
奴ら、僕が一人になるのを待って、
襲い掛かってきたんだ。
そう、相手は二人組だったんだ。
僕は全力で逃げた。
でも追いつかれて――
そのとき、ある人に助けられた。
背の高い、けわしい顔の人だ。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
近くでセヒラ観測しました。
注意してください!
【祇園丸】
この近くにいるというのか!
【執事型ホムンクルス】
目標ダスツィル……確認ベステーティグン
攻撃!アングリフ 攻撃!アングリフ

《バトル》

【執事型ホムンクルス】
――終了エンデ……
【祇園丸】
やれやれ……
やけにしつこいな。
もう一体いるはずだけど――
【着信 喪神梨央】
辺りのセヒラ、すっかり消えました。
もう心配はありません。

そこへ聖宮成樹がやって来た。

【聖宮成樹】
喪神もがみさん!
大丈夫でしたか!
【祇園丸】
この人だよ、
僕を助けてくれたのは!
【聖宮成樹】
そちらの方が、
お困りのようでしたから。
【祇園丸】
それじゃ……
後の一体はあなたが……
【聖宮成樹】
ともあれ、今は安全です。
立ち話というわけにも、
まいりますまい。
店にでも入りましょう。
さぁ、お二方、こちらへ――

聖宮がきびすを返した。祇園丸、風魔が後に続いた。

〔純喫茶青蘭せいらん

じき、日付の変わろうという時間であった。純喫茶は客もまばらである。

【女給かね子】
あらいらっしゃいましー
殿方とのがたがお二方にお兄さま……
ね、ね、聞いてくださる?
【聖宮成樹】
どうしたんですか?
【女給かね子】
興亜こうあ日報が純喫茶とカフェの
人気投票をするんですって!
それで銀座で一番を決めるのです。
一番になると私たちのお給金きゅうきんも――
【聖宮成樹】
そいつは気を抜けませんね。
【女給かね子】
純喫茶青蘭せいらんは銀座一の新進ですの!
是非ぜひ投票なすってね!
【女給さだ子】
かねちゃんの言うとおりよ。
銀座では花家はなや、フォンテーヌ、
カフェ・シエル、それから――
【女給かね子】
あらアモンも出るそうよ。
【女給さだ子】
いやだわ、アモンだなんて――
あそこはかなりのもんよ。
【神田のラムネ商】
恋人アモン
アモーン!
あすこはエロだ、大エロだぁ~
アモーン! アモーン!
大阪資本のエロ・カフェなりぃ~
美人女給三十名の空中輸送!
大阪特有の大衆的経営法!
豊穣ほうじょうなエロサービス!
【女給さだ子】
ちょいと、せいさん、
お静かにね。
もう遅いんだから。
【女給かね子】
珈琲コーヒーだと眠れなくなりそうね。
セイロン茶でもれましょうか。

そう言って女給が場を離れた。
聖宮は少しばかり声を潜めて言う――

【聖宮成樹】
喪神もがみさん……
瑛山会えいざんかいの物理学者、
柄谷がらたに博士のことですが――
どうやら猟奇倶楽部と、
関係があるようなのです。
【祇園丸】
え?
今、猟奇倶楽部と仰いましたか?
【聖宮成樹】
ええ、猟奇倶楽部です。
おそらくかなり高い位にあります。
【祇園丸】
その話、知ってます!
――いや、わかるのです……
西京極丸にしきょうごくまる香腺こうせんが残しました。
――こうです……

近く、高位の会員をお迎えする、
従順なる隸Θしもべシータ師という会員だ――

そこまで記憶が再生できました。
そのΘシータ師という会員が、
キョウトの学者なのですか?
【聖宮成樹】
従順なる隸Θしもべシータ師……
猟奇倶楽部での渾名あだななのですね。
喪神さん、
私はもう少し調べてみます。
またお目にかかりましょう。
【祇園丸】
柄谷がらたに……生慧蔵いえぞう……
キョウトの物理学者……
覚えておくよ。

日劇前で騒動があるとの通報で、純喫茶を出てそのまま日劇前へ向かった。祇園丸ぎおんまるは円タクで帰っていた。

〔日劇前〕

夜更けの日劇前は人もまばらであった。風魔の来るのを見て三人の男女が走り去った。袴姿の女性が二人、向き合うように立っている。

【中之島ファンの女性】
せっかく中之島なかのしま歌劇団の公演、
見に来たのに、今日は中止やて。
なんでですのん?
こいさん、もういにまひょ。
えらい遅うなってもうたわ――
円タクしかあらへんよ。
こいさん! 
なぁ、こいさん……
あんさん、聞こえてますのか?

話を聞いていたのか否か、黙っていた方の女性が前を横切って走り去った。

【中之島ファンの女性】
ちょ……
もう、なんやの、どないしたん!
こいさん! 待ちぃな!

声を荒立てながら、走り去った女性を追って行った。
そこへ黒い仮面を被った人物が姿を見せた。仮面越しの声はくぐもっていた。

【リヒャルト・フィンケ】
人は私を総統フューラーと呼ぶ。
トゥーレのやかたのね。
リヒャルト・フィンケだ、喪神もがみ君。
人というのは哀しい存在だね。
まるで打ちのめされるために
生まれてくるようではないか。
迷いをて、現実を超える――
私の教義にこれ以上の言葉は不要だ。

さて、そろそろ第一幕の始まりだ。
この素晴らしい劇場の前で、
このような宣言せんげんができるとは!
なんと、私は僥倖ぎょうこうに恵まれるのか!
来給きたまえ、鬼龍きりゅう君!

フィンケに名を呼ばれて鬼龍豪人がやって来た。鬼龍は遠くの一点をじっと見たまま言う。

【鬼龍豪人】
ヘルフィンケ!
愈々いよいよ、始まるのですね!
【リヒャルト・フィンケ】
私は残念で仕方がないのだ。
君たち日本人は資源を無駄むだにする――
うるわしい山河さんが、森に泉、清らかな流れ、
それにセフィラ!
素晴らしいセフィラを得ながら、
少しもかせていないではないか!
ヘッセン、ザクセン、バイエルン……
セフィラの湧出ゆうしゅつを認めるも、
ドイツではなかなか活用が進まない。
私から見ると日本人というのは、
金鉱脈の上とは露知つゆしらず、
汗して耕作しているようなものだ。
素晴らしいセフィラに恵まれた、
この町こそトゥーレのやかた
開くに適しているのだ。
【鬼龍豪人】
ヘルフィンケ、
私はつかめるでしょうか?
【リヒャルト・フィンケ】
君ならできるとも!
ただし……
【鬼龍豪人】
何でしょうか?
まだ私にいたらないところでも?
【リヒャルト・フィンケ】
君は持ちすぎているのだ。
欲は心をにごらせる。
【鬼龍豪人】
欲があってのことではありません。
古式東雲しののめ流が邪魔をするのです。
【リヒャルト・フィンケ】
それは君の中にケアンがあるからだ。
ケアン奥義おうぎを取り込んでいるのだ。
一度試してはどうかね?

このとき、鬼龍は体をフィンケに向けた。

【鬼龍豪人】
試す?
それはどういうことですか?
【リヒャルト・フィンケ】
自分をとことん落すことだ。
君が君でなくなるまでな!
【鬼龍豪人】
誰かに伝授でんじゅするというのでは、
駄目なのですか?
【リヒャルト・フィンケ】
ケアンというのは人を選ぶ。
つまりは君が捨てるのではない、
君が捨てられるのだ。
不毛な戦いによって、
君がケアンから見捨てられるのだ。
そこには不要だ――
【鬼龍豪人】
不要?
何が不要なのですか?
【リヒャルト・フィンケ】
心だよ!
自ら穴が空いたという心だ!

辺りが白くなったかと思うとやがて何も見えなくなった。暫くして暗闇に鬼龍の佇む姿が見えた。
どこからともなく声がする。鬼龍は耳をそばだてている――

【リヒャルト・フィンケ】
鬼龍きりゅう君――
もう一度聞かせてくれないか?
【鬼龍豪人】
何を……ですか?
私のことですか?
【リヒャルト・フィンケ】
人づてに聞いたものでね。
君は京都でガールフレンドを
くしているんだよね?
【鬼龍豪人】
彼女は……事故にったのです……
師団に面会に来た帰りでした――
【リヒャルト・フィンケ】
爾来じらい、君の心は、
京都に置き去りになったと聞くが。
【鬼龍豪人】
違います!
私は……求めたのです……
【リヒャルト・フィンケ】
何をだね?
君が求めたものというのは――
【鬼龍豪人】
――強さです。
力ではなく……精神の強さです。
【リヒャルト・フィンケ】
輜重しちょう隊では強くなるのは難しいね。
戦闘部隊ではないからね。
体も心も、強くはなれない――
【鬼龍豪人】
私は古式東雲しののめ流を極めようと――
そう心にちかい、日々精進しました。
【リヒャルト・フィンケ】
だが流派は閉じられてしまった。
君は腕を試すこともできず、
途方とほうに暮れていた――
【鬼龍豪人】
トゥーレのやかたへの招待状には、
あなたの署名があった。
あなたはすべて知っていたのですね。
事故のことも流派の閉じたことも。
すべてお見通しだった――
【リヒャルト・フィンケ】
君はめざましく腕を上げたね。
東雲しののめ流の素養が役に立ったのだよ。
――違うかな?
【鬼龍豪人】
あの頃はそうでしたが……
今、審神者さにわとしての私と召喚師の私、
その二人が戦うのです!
【リヒャルト・フィンケ】
君の中の二人は戦ってなどいない。
むしろ手を取り合っているのだよ。
君のルサンチマンがそうさせている。
ルサンチマンを乗り越えるには、
あるべき自分の姿を持たぬことだ。
理想も、目標も、夢もいらない。
【鬼龍豪人】
あるべき自分……
――私はこだわりすぎたのでしょうか?
求めるところが大きすぎるとでも?
【リヒャルト・フィンケ】
求めて得られる時代など、
とうに終わっている。
ただ、破壊あるのみだ!!

〔日劇前〕

鬼龍の心に去来したものは何であろうか?鬼龍は両眼を見開き、風魔を見ている。いや、見ているのではない、まさに射ようとしているのだった――

【鬼龍豪人】
私が浄化されるまで、
貴様を必要とする、そういうことだ。
さぁ、整えろ!
喪神もがみ風魔ふうま!!

《バトル》

【鬼龍豪人】
貴様は順当じゅんとうに腕を上げているようだ。
フフフ――
頼もしい限りだな。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん!
鬼龍きりゅうに好き勝手やらせて、
いいんですか?
明日、鈴代すずよさんが戻られます。
隊の方に言って、鬼龍を見張るように
お願いしておきます。
あっ、そうそう――
京都の紫水しすい会館から連絡があり、
古文書こもんじょは冬至についてだそうです。

ヒトツノ アラカニ
ワタラシテ ツマル――

アラカは宮とか部屋の意味だとか。
第一の宮に太陽が入って折り返す、
それが冬至のことだそうです。
第七の予言のヒククは、
結局わからずじまいですね。
今日はもう遅いので公務終了です。
お休みなさい――

そう言って梨央が本部を後にした。そこへ不意に声がする――

【???】
風魔ふうま……
聞こえる?
私よ、淑子としこよ――
あなたに、
是非ぜひとも話さなきゃいけないことが。

風魔は激しい目眩めまいを覚え頭を抱えた。

ふと何かの気配を感じて顔を上げる。そこはセヒラの揺らぎに縁取ふちどられた溜池通であった。為す術無く立ち尽くす風魔の脇に、威勢よくバールが現れた。

【バール】
じゃ~ん!
久しぶりだニャ、風魔ふうま
またぞろ姉さんの声がしたニャ!
それで出てきたニャ……
今は夜中のはずなのにニャ!
【バール帽子】
誰かが鎌掛かまかけてたゲロ!
姉さん、黒焦げとか言ってたゲロ!
ちょっくら調べたゲロ!
話はぜんぜん違うゲロゲロ――
【バール帽子背後】
確かに修善寺しゅぜんじで若い女が死んだ。
焼身自殺でな――
死んだのは横浜の女学生じゃ。
失恋してな、もうヤケクソじゃな。
そもそも病気を苦にして、
焼身自殺する奴などおらんわい。
ありゃ抗議こうぎの意を込めた死に方じゃ。
【バール帽子】
つまりは風魔の姉さんは、
修善寺しゅぜんじで療養中に忽然こつぜんと消えた、
そういうことだゲロ!
新山にいやま技手ぎてが言ってたゲロ。
修善寺しゅぜんじ独逸ドイツ人がロッホを探したと。
なんかプンプンするゲロ!
【バール】
風魔の姉さん、
どこかで生きているかもニャ!
でもここは違うニャ!
風魔の記憶の中だニャ。
さぁ、気を取り直して、
本部に戻るニャ!

〔山王機関本部〕

いつの間にか朝になっていた。

【喪神梨央】
おはようございます。
――兄さん、本部で寝たんですか?
興亜こうあ日報が特報を出しましたよ。
オリムピック辞退か? って――
【帆村魯公】
本当か、それは?
皇紀こうきニ六〇〇年に予定されておる、
東京オリムピックのことだろ?
【喪神梨央】
まだ東京は候補の段階です。
ニ月の奥斯陸オスロ総会で、東京の他に、
羅馬ローマ赫爾辛基ヘルシンキが候補になりました。
来年七月の伯林ベルリン総会で決まるはず。
その前に東京市が辞退を検討中とか。
【帆村魯公】
怪人やらが跋扈ばっこする町に、
運動選手を呼ぶわけにはいかんな。
まぁ、あと五年あるが――
ただなぁ……
あれだなぁ――

一昨年の国連脱退に次いで、昨年末はワシントン海軍軍縮条約の破棄はきと、日本は国際社会で孤立こりつを深めていた。
また昨年は空前の大凶作に見舞われ、東北、北海道では農作物が大幅に減収となり、西日本を室戸むろと台風が遅い、世相を暗くした。

【帆村魯公】
ますます物情騒然ぶつじょうそうぜんとしてきた。
五年でいろいろ改善できないと、
オリムピック辞退もいたかたないわい。

そうだ、風魔ふうまよ――
聖宮ひじりのみや殿下から連絡があってな。
京都の学者、柄谷がらたに生慧蔵いえぞうだが、
ヘーゲン召喚師と接触したそうだ。
アーネンエルベにも出入りしておる。
【喪神梨央】
それじゃ……
虹人こうじんさんが銀座で見たのは、
ユンカー局長じゃなかったんですか。
ユンカー局長が入れているシュタインの波形、
新山にいやまさんが計算中です。
もう少しで波形を特定できます。

今日は鈴代すずよさんを、
お迎えする予定です。
省線の品川駅です――
一昨昨日さきおとといの午後三時に新京を出て、
品川には今朝七時二十四分着ですが、
かなりの遅れが出ているようです。
【帆村魯公】
牛頭ごずの連中に動向どうこうを探られない
とも限らんからな。
充分に警戒してくれ。

風魔は公務電車で品川駅前に駆けつけた。

〔品川駅前〕

下関しものせきからの夜間急行は遅れているという。
まだ駅玄関には鈴代すずよの姿はなく、代わりに将兵らが待機していた――

【一五市】
如月きさらぎ鈴代すずよ身柄みがら拘束こうそくする。
東雲しののめ流を再興さいこうすると聞いた。
そして月詠つくよみ麗華れいか嬢の懐柔かいじゅうをもたくらむ!
さては鬼龍きりゅう大尉の奥義おうぎを継ぐ、
その魂胆こんたんなのではないかな!
抜け目のない女だな――
フハハハハ~
鬼龍大尉の奥義は、
月詠麗華嬢に継ぐのが順当だ。

左、そして右から一五市にのまえごいちを挟み込むように二人のユーゲントが走り込んで来た。

【上賀茂丸】
喪神さん!
祇園丸ぎおんまるに頼まれて来たよ!
【南禅寺丸】
僕たちの波形、山王さんのう機関で監視かんし中だ。
だから安心して戦えるのさ!

山王機関ではユーゲントの波形を探信していた。大型波動グローサベッレなどの影響があれば、直ちにアーネンエルベに連絡が行く手筈てはずであった。

【一五市】
何だ、お前たちは?
フォス大佐と桃源郷とうげんきょう巡りでも、
するんじゃなかったのか!
元召喚小隊の召喚兵がいる。
貴様ら!
こいつらの相手をしてやってくれ。

一五市の命令で、二名の召喚兵がそれぞれユーゲントと向き合う。二対二の対戦陣形となり、召喚兵とユーゲントとの間に強い光が走る。その刹那せつなであった、一抱えほどの大きさのセヒラ球が現れた。

【一五市】
うわぁぁぁぁ~

小規模なセヒラ異常が発生し、一五市、風魔は時空の狭間に飲み込まれてしまった。

〔時空の狭間〕

【一五市】
ウハハハハハ~
ここがお前たちのユートピアか!
いいだろう――
ここで時間稼ぎをするうちに、
召喚兵らがあの女を確保する!
さぁ、時間をかけて、
戦おうじゃないか!

《バトル》

【一五市】
いい調子だ――
それでこそ歩一の特務機関員だ!
だがな、すべてを手に入れる、
その準備は怠りない――
鬼龍きりゅう大尉は憎しみを宿す。
それが大尉の弱さだ。
俺は何も憎んじゃいない、
ただ純粋に戦う、そう決めたんだ。
無ほど強いものはない!
アハハハハハ~

〔品川駅前〕

品川駅前に召喚兵らの姿はなかった。軍用トラックだけが残されている。そこへ如月鈴代がやって来た。

【如月鈴代】
風魔ふうまさん!
お待ちになりましたか?
省線が遅れて……
兵隊が出ているのですか?
少し歩きましょうか……

〔品川街路〕

【如月鈴代】
麗華れいかさん、何か思い詰めている、
そんな様子だったので、
あまり話せていません。
鬼龍きりゅうさんのことは、
知っていました――
にのまえ少尉から聞いたのだと。
この帝都にトゥーレの館が
開かれることまで――
麗華さんは知っていました。

麗華さんは鬼龍さんの奥義を、
自らにそなえようとするのです。
鬼龍さんが会得した古式東雲流、
実は叔父の山郷が京都で道場を開き、
そこで教え広めていたものです。
古式とは言え、祖母の代では、
すでに霊力が弱まっていました。
それを叔父がなんとかしようと――

私が再び興そうとする古式流儀は、
六世紀はじめに日本へ渡来した、
マナセ一族の裔に伝わる術武です。
古式流は、鬼神を降ろします。
それも審神者自身に降りるのです。
その古式を再び興すには、
多加美宮司の持ち帰った魔鏡、
その霊力がなくてはなりません。

鬼龍さんの古式流を麗華さんが継ぐ、
それがどういうものか、
私にはまだわかりません――

不意に鈴代は足を止めた。風魔は少し行き、鈴代を振り返る。鈴代は意を固めたような表情を作っている。

麗華さんは新京シンキョウに落ち着きました。
新京シンキョウ神社の裏にある高女の寄宿舎、
その貴賓室きひんしつがあてがわれました。
平安町二丁目というところです――
関東軍司令部用地の直ぐ近くですわ。

月詠麗華は新京シンキョウに身を落ち着かせた。麗華は鬼龍からの奥義おうぎの伝授を求め、その鬼龍はトゥーレの館で再起をはかる。
トゥーレのやかた――
リヒャルト・フィンケひきいる秘密結社。帝都に新たなるきょくが誕生した。

アキラとレンザ 後編

〔山王機関本部〕

その日、山王機関本部では、梨央が浮かない顔で風魔を出迎えた――

【喪神梨央】
兄さん、あきらさんたち、
どこにいらっしゃるんでしょう……
探信儀たんしんぎが消えているようです――
【新山眞】
お渡しした探信儀たんしんぎですが、
セヒラ感極管かんきょくかんに用いているのが、
露西亜ロシア製の真空管なのです。
ベリンスキーという会社の製品です。
【喪神梨央】
露西亜ロシア製だと問題あるのですか?
【新山眞】
帝都のセヒラには、
実に様々な波形が観測されます。
当初考えていたよりも多く――
ベリンスキー管だと、
霊式ヘテロヂン生成の際に、
波形干渉を起こす恐れもあります。
【喪神梨央】
それじゃ真空管、交換しなきゃ……
【新山眞】
昨日、帝国電工製のが届きました。
新型のR5型です。
どんな波形にもえられます。

機関本部に信号音が鳴った。

【喪神梨央】
あっ!
あきらさんの探信儀たんしんぎの信号です。
今、市ヶ谷いちがやの方ですね――
【新山眞】
一旦いったん、機関本部に戻るように、
あきらさんに伝えてもらえますか?
【喪神梨央】
無線が届かないようなので、
兄さん、市ヶ谷いちがやにお願いします。
場所は市ヶ谷見附いちがやみつけの交差点です。

公務電車で市ヶ谷見附いちがやみつけに向かったが、新たに戸山とやま砲工学校が指定された。
能海旭のうみあきらから連絡があったという――

〔戸山砲工ほうこう学校中庭〕

ガランとした砲工学校構内に能海旭がいた。風魔の姿を認めて駆け寄って来た。

【能海旭】
あっ、風魔ふうまさん――
今、山王さんのう機関に連絡したところよ。

レンザがここに来たはずなの。
何かを感じるって言って――
彼、一人で出かけたの。
でもどこにもいないんだ。
探信儀たんしんぎは時々変な音出すし――

レンザが来たという戸山とやま砲工ほうこう学校。
しかし校内探せどレンザの姿はなかった。

校舎から一人の学生が出てきた。旭は歩み寄って話しかける。

【能海旭】
ねぇ、この辺で人を見なかった?
外国の軍服みたいな格好の人よ。
【種田砲工科生】
異人さんですか?
僕は偉人は苦手です。
【能海旭】
格好だけよ。
名前は吉祥院蓮三郎きっしょういんれんざぶろう
ね、日本人ぽいでしょ?
【種田砲工科生】
そろそろ実験の時間です。
【能海旭】
え? 何の実験なの?
【種田砲工科生】
新型の六十八センチ加農カノン砲です。
六百キロの強装薬を用いて、
七万二千メートルの射程を誇る巨砲です。
ここ戸山より七十一キロ七十五メートル先の霞ヶ浦かすみがうら湖中に着弾させます。

もう一人、学生がやって来た。

【助川砲工科生】
種田たねだ白粉おしろい屋はまだか?
やけに遅いな――
【能海旭】
白粉おしろい
白粉おしろいをどうするの?
【助川砲工科生】
炸薬の代わりに充填じゅうてんするのです。
つまりは白粉おしろい式練習弾ですね。
の流儀なんです。
ここは砲工二課の毛長けながに任せて、
種田たねだ、我々は駐退機ちゅうたいきの調整だ。
全然済んでいないんだ。
【種田砲工科生】
毛長けながは確か可変砲の班だな。
白粉おしろい屋は奴に任せよう。

学生らが去ると入れ替わるように三人目が来た。

【毛長砲工科生】
白粉おしろい屋を待つのですね――
待つのは大の得意です!

そういったまま毛長という学生は動かない。すでに眼が虚ろになっている。ふいに辺りが暗くなった。

【能海旭】
風魔さん!
気を付けて!
化けの皮がれたみたい――
【東京ゼロ師団寺町三等兵】
ハハハハハ~
飛んで火に入るだな、まさしく!
待った甲斐かいがあったと言うものだ!
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ、確認しました!
【東京ゼロ師団寺町三等兵】
ここはあり地獄だな!
あの独逸ドイツ帰りの気取り屋ともども、
土中で餌食えじきとなるがいい!!
【能海旭】
レンザの他に、
ここに来た人いるみたいね。
風魔ふうまさん!
まずは勝ち抜いて!

《バトル》

【能海旭】
よかった!!
鎮定ちんてい、出来たね!!

風魔ふうまさん――
ここ、絶対変だよ。
砲弾に白粉おしろい詰めるとか。
それに……種田タねだ助川スけがわ毛長ケなが……
次は誰?
もしかして寺岡テらおかとかかな。
【着信 喪神梨央】
あきらさんの探信儀たんしんぎ
修理の準備ができました。
山王さんのう機関へおいでください。
若松町わかまつちょう電停に公務電車が待機中、
その車輌を使ってください。
【能海旭】
風魔さん……
ここ、何だか怪しいよ。
レンザもそれに気付いたんだ。
私、探信儀たんしんぎ直してもらったら、
すぐ戻ってくるね!

旭は小走りになって構内を出て行った。風魔は砲工学校の校舎へ向かう。

〔戸山砲工ほうこう学校玄関ホール〕

玄関ホールに入ったとき、白衣姿の男性二人が、上体を拘束された囚人らしき男性を前後に挟むようにして列をなして廊下へと消えた。
ホールには他に三人の学生がいて、風魔に近寄って来た。

【ポモースキー留学砲工科生】
あなた、トルストイの小説、
技師ガーリン、読んだこと、
ありますか?
怪力光線について書かれています。
怪力光線は光線砲から発射されます。
【ギーナフ留学砲工科生】
光は電線の向こうをかすめている!

宙空を見つめ、学生が一人芝居を始めた――

【ギーナフ留学砲工科生】
どの電線の?
【ギーナフ留学砲工科生】
あれが見えないのか、
ヴオルフ君!
【ギーナフ留学砲工科生】
ハイーフは、光った真っ直ぐな、
糸のようなものを指した。
それはアニリン会社の方角へ、
向かって走っていた――

【チェロフ留学砲工科生】
その光線が過ぎ行くところ、
木の葉や鳥などがブスブスと、
燃えて落ちるのが見えた。
やがて光線はアニリン会社の
大煙突へと向かった!
煙突は苦もなく真ん中から折れ、
倒れ落ちたのだった!
次に光は五階建てのとうに当たり、
急にその全部の窓の電灯が消え、
上へ下へと電光型の火が走った!

玄関ホールに音もなく白衣姿の男性が入って来た。それを見た二人の学生は一斉に駆け出した。

玄琢げんたくマ号研究班員】
お尋ねしますがね――
あなたのたましいはどのくらいですか?
大きさとか、重さとか、
あるいは中身の具合ですよ。
沢山詰まるかスゥスゥするのか――
りは如何いかがです?
この間、照りのいい魂がありまして、
食付くいつき、抜群ばつぐんですな!!

さぁ、あなたも、
もういいじゃないですか、
魂を差し出しましょうよ!!
転生損ねの悪魔と、
独逸ドイツ召喚師気取りの将校、
そしてまじない審神者さにわの特務員!
三人揃って、
地獄の円柱インファーナルカラムの上で踊るがいい!!

《バトル》

〔戸山砲工ほうこう学校地下室〕

玄関ホールから地下室へと降りた。そこには鬼龍豪人とレンザがいた。二人は対峙するように立つ。

【吉祥院蓮三郎】
易々とこの私が信じるとでも?
【鬼龍豪人】
貴様にはおびえがある!
それが無用なうたぐりを生み出すのだ!
【吉祥院蓮三郎】
私の勘が言うのです、
迷わずに鎮定ちんていせよと。
あなたたちの言葉ですね、鎮定ちんてい――
【鬼龍豪人】
ふん、笑わせるな!

奥に立つ鬼龍と手前のレンザ、二人の間に稲妻のような光が走った。

【鬼龍豪人】
風魔ふうま
なぜここに来た?

その声にレンザが振り返る。鬼龍との間に現れていた光が消えた。

【吉祥院蓮三郎】
風魔さま!
この者とお知り合いですか?
ああ、私はなんということを――
ゼロ師団が行動を起こす前に、
先手を打とうとここに来たのです。
するとこの者がおり、
何やら怪しくて怪しくて、
ついついつい――

レンザは彼特有の勘を頼りに、この砲工学校にやってきた。
先にいた鬼龍きりゅうを敵と間違えたのである――

【鬼龍豪人】
ふん!
貴様の勘とやら、あてにはならんな!
いったい何を探しに来たのだ?
【吉祥院蓮三郎】
風魔さま――
いろいろわかってまいりました。
ここはに人の魂を食わせ、
人籟じんらいを作る、
その研究をしているようです。
私には見えました――
先程、中庭で戦った時、
色の抜けた白いがいたのです。
あれがおそらくは人籟じんらい――
人に由来するは、
扱いも容易、風魔さまのような、
修行なくして扱えるのでございます。
【鬼龍豪人】
すると――
御荷鉾みかぼもそのような研究を?
いや、奴に限ってそれはない!

鬼龍きりゅうは京都時代、同じ輜重しちょう部隊にいた、御荷鉾みかぼ大尉から手紙をもらい、ここ砲工学校に来たのだという。

【鬼龍豪人】
手紙には魂の重さについて、
書かれていた――
人の魂は四分の三オンスだという。
およそ二十一グラムだ。
十人だとニ一〇グラムだ――
【吉祥院蓮三郎】
輜重しちょう科では人の魂も運ぶのですか?
【鬼龍豪人】
うるさい!
私は妙なことをしたためめる
奴のことを案じて――

鬼龍は顔を歪めた。それは激高したのではない、痛みに貫かれたのだ。上体をかがめている。

【鬼龍豪人】
うっ……
【吉祥院蓮三郎】
どうなさいましたか?
【鬼龍豪人】
何でもない!
【吉祥院蓮三郎】
私が早とちりしたばかりに――
【鬼龍豪人】
貴様ごときにやられる私ではない!
【吉祥院蓮三郎】
しかし……
【鬼龍豪人】
私に構うな!
もう大丈夫だ。

鬼龍は上体を起こし風魔に向き合った。

【鬼龍豪人】
御荷鉾みかぼの身に何が起きたのか、
私は調べてみる。
貴様らも用心することだ。
せいぜいな――

そう言うとゆっくりとした足取りで地下室を出ていった。

【吉祥院蓮三郎】
鬼龍きりゅう――豪人たけとさま――

レンザは鬼龍の出ていった方を暫く見ていた。
同輩付き合いの将校を案じて砲工学校を訪れた鬼龍大尉。レンザとの一戦、力の拮抗があったようだ。
それにしてもこの砲工学校――
やはりここにも、仮構の力が及んでいるようであった。

〔戸山砲工ほうこう学校中庭〕

【掃除夫】
お二人もアレですかな?
【吉祥院蓮三郎】
何でございますか?
――やけに静かですが……
【掃除夫】
今日は何やらまた部隊が……
あの部隊が展開するんですよ。
【吉祥院蓮三郎】
あの部隊とは?
それはもしや――
【掃除夫】
お二人ならご存知でしょう。
東京ゼロ師団です。
ここの上ですよ――
【吉祥院蓮三郎】
そうでしたか。
この砲工学校もゼロ師団の、
指揮系統にあるわけですね。

風魔ふうまさま――
にらんだとおりでございます。
ここは東京ゼロ師団の仮構かこう組織、
それでありながら砲工学校として、
実体も持っている――
どうもそのようにあります。
これは何というか……
悪魔のかんのようなものでして――
それでここへとおもむいたわけです。

そこまで言うとレンザは静かに目を閉じた――

【吉祥院蓮三郎】
私、あきらさまに呼ばれる前のことは、
何一つおぼえておりません。
悪魔セーレが転生を試みた――
そうとされているのは、
ブレナン博士の鑑定によります。

ブレナン博士は神智学しんちがくの権威だとか。
あきらさまの通われる学校、
自由サーベラス学園の学園長です。

私があきらさまのアトリエに現れた時、
壁に悪魔セーレの印章が浮かび、
それが決め手となりました――
グリモワールのひとつ、
ゴエティアの書にも同じ印章があり、
私はセーレなのでありましょう。

ゴエティアの書を紐解ひもとき、
セーレというのを調べてみたのです。
セーレは有翼ゆうよくの銀馬にまたがり、
二十六の軍団をひきいるとあります。
方位をつかさどる四大悪魔のひとつ、
アマイモンの配下のようです。
セーレは召喚されるや、
召喚師の要望に全て応え、
あらゆるものを手に入れるとか――
あきらさまにお仕えする私としては、
その点、納得が行くのでございます。

私の中に確かにセーレがいる――
しかし、なぜ、あきらさまの元に、
この私が現れたかは謎です。

あきらさまは、そのことで、いささかの責任をお感じのようでして――
――自責じせきねんと申すのでしょうか、
人間の考えは不可思議にございます。
私としては恐縮するばかりですが。

語り終えたレンザははにかんだような表情を浮かべていた。

【吉祥院蓮三郎】
さて、ゼロ師団はどのあたりに、
展開しているでしょうか……
【着信 能海旭】
レンザ!
市ヶ谷の先、麹町こうじまちあたりに、
セヒラを観測したよ!
【吉祥院蓮三郎】
風魔さま、参りましょう!

〔市ヶ谷見附〕

市内にゼロ師団が展開する――
砲工学校で仕入れた情報であった。
レンザと風魔は市ヶ谷見附へとやってきた。

電車通を数台の軍用トラックが塞いでいた。一人の将校が腰をかがめてうめいている。

【東京ゼロ師団栂ノ尾とがのお少尉】
はぁはぁはぁ……
自分は一体、どうしたのだ?

レンザと風魔が将校に歩み寄る。

【吉祥院蓮三郎】
何がありましたか?
【東京ゼロ師団栂ノ尾とがのお少尉】
あなたたちは――
自由サーベラス学園の……
能海旭のうみあきらの手下――
【吉祥院蓮三郎】
もしや、少尉は……
【東京ゼロ師団栂ノ尾とがのお少尉】
ええ……あっ、いや、違います!
自分、歩三第三〇八中隊附き――
それがどうして、こんなところに……

うわぁぁぁぁ~

将校は両手で頭を抱え、そのまま倒れ込んでしまった。そこへ一人の兵卒が走り来た。

【東京ゼロ師団清滝曹長】
今日の演習は格別だな!
さぁ、躊躇ためらうな、こっちへ来い!
俺たちの方へ呼んでやる!

《バトル》

〔市ヶ谷見附〕

辺りが静かになった。先程までの軍用トラックは消えていた。電車通を旭がやって来る。

【能海旭】
二人とも、大丈夫だった?
さっき無線で呼びかけたけど、
全然反応がなくて――
ちょっと歩こうか。

探信儀の部品交換を終えて合流した旭。
しかしどことなく
神妙な顔をしていた――

〔若松町〕

三人はそぞろ歩きながら若松町にやって来た。市電が行き交い通行人もいる。

【能海旭】
風魔ふうまさん――
何だか私たちのことに、
巻き込んじゃったみたいね。
【吉祥院蓮三郎】
私も、かたじけなく思います。

【吉祥院蓮三郎】
あきらさまの方は、
探信儀たんしんぎ、直りましたか?
【能海旭】
セヒラを電波に替えるなんとかが、
どうとかなってってことよ。

そこへ探信儀の警告音がする。

【能海旭】
あっ!
早速、反応してる!!

着物姿の中年男性がのっそりと姿を見せた。

【猫憑き】
隙間すきま、いっぱいこさえてるニャ!
帝都中、隙間すきまだらけニャ~
おいら、猫の種次郎たねじろうニャ!
さっきも兵隊にいたニャ、
隙間すきまこさえてるのが――
【吉祥院蓮三郎】
隙間すきま、ですか?
隙間すきま憑依ひょういするとでも?
【猫憑き】
おいらたち、防いでいるニャ!
無用な隙間すきまこさえると、
変なものくニャ!
そうならないように、
隙間すきまふさいでいるニャ!!
あんたも隙間すきまいたんか?
さてさて、散歩を続けるニャ!

そこまで言うと、男性は悠然とした足取りで歩き去った。レンザが神妙な面持ちで見送っている。

【吉祥院蓮三郎】
……
隙間すきま……私も……誰かの――
隙間すきまに……そうなのでしょうか?
【能海旭】
レンザ……
あんた、大丈夫?
今日はもうおしまいにしよう。
風魔さんも来て――
私のアトリエが山王さんのうにあるのよ。
ホテルのすぐ裏だよ!

〔旭のアトリエ前〕

そこは日枝ひえ神社に向かう車道に面した、古い石垣いしがきの前であった。
墨国メキシコ公使館のすぐ近くである。

【能海旭】
この中よ、アトリエは。
レンザには専用の部屋があるの。
そこの扉から入る――
来て。

〔旭のアトリエ〕

【能海旭】
どう?
気に入ってくれた?
――私のアトリエ。

レンザが現れたのは後ろの壁……
今はもう模様替えしたけれど。
セーレの印章も消えてしまったし――

私……魔女には向かないんじゃ……
前から思ってたことだけど、
風魔ふうまさんたち見てると――
余計にそう思うようになるんだ――

旭は目を閉じて魔法学校のことを語り始めた。心なしかアトリエが薄暗くなった。

【能海旭】
八歳になる年の二月、
インモラグの大サバトで入信したの。
聖油を使った儀式があった――
十三で信仰宣言をした――
グランドマスターに誓いを立てた。
あなたはわが神、
私はあなたの奴隷どれいです――
ここでの神とは、
勿論もちろん、悪魔のことよ。

十四の時、左肩にマークを入れた。
刺青いれずみで入れた青いスペードは、
見るたびにその形が変わるのよ。

でも……
スペードのマーク、十五の夏、
つまり去年だけど――
たった二日のうちに、
すっかり消えてなくなったのよ!

誓いは決して軽いものじゃなかった、
でも、私は認められていない――
そんな気がしてならないのよ。

語り終えると旭は顔を上げた。大きな黒い瞳で風魔を見つめている――

【能海旭】
私の学校は、ブレナン先生を、
グランドマスターにして、
コヴェンをしているのよ――
コヴェンとは神に親しく奉仕する、
グランドマスターと十二人の会衆かいしゅうよ。
先生が六人、生徒が六人ね。
何度も何度も祭儀を繰り返して、
ようやく悪魔との契約に進む……

そんな堅苦しい学園に比べると、
を指揮して戦を戦う、
風魔さんたちがすごく自由に見える。
悪魔との違いはあると思うけど。

レンザのことが一段落したら、
私、審神者さにわについて、
少し勉強してみようかな。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん、
あきらさんのアトリエに、
招待されたんですね。
【帆村魯公】
くだんの自由サーベラス学園、
コヴェンの会衆かいしゅうを現したものとはな。
――それがこの帝都にあるとは……
【喪神梨央】
あきらさんたち、何かを知っている――
東京ゼロ師団のことを。
私、そう思います!
【帆村魯公】
うむ……
そうでなきゃ、あれほど戦いを
挑まれるわけはないわな。
ところで、ゼロ師団の連中、
皆、京都の地名を名乗っておる。
【喪神梨央】
寺町、玄琢、清滝……
丸竹夷ニ押御池まるたけえびすにおしおいけ

ノックの音とともに九頭が姿を見せた。

【九頭幸則】
歩一の九頭くずです。
【喪神梨央】
幸則ゆきのりさんは、大丈夫ですか?
仮構かこうされた部隊に取り込まれたり、
そんなことはありませんか?
【九頭幸則】
だ、大丈夫だと思うよ、
自分は歩一附きの……
【喪神梨央】
部隊不詳ふしょうの歩兵中尉殿!
【九頭幸則】
おいおい!
――しかしなぁ……
実体のある組織も取り込まれてる――
【喪神梨央】
砲工学校の露西亜ロシア人留学生ですが、
スキー、ナフ、ロフ、
合わせてポモーギーチェになります。
【九頭幸則】
ポモーギーチェ?
それって露西亜ロシア語なの?
【喪神梨央】
露西亜ロシア語で助けての意味だとか。
新山にいやまさんの解釈ですけど……
【九頭幸則】
取り込まれた実体の方は、
救いを求めていると――
何だかすごく気になるよ、その辺り。

能海旭のうみあきら吉祥院蓮三郎きっしょういんれんざぶろう――
二人の前に謎の東京ゼロ師団が立ちはだかる。
山王さんのう機関も手をこまねいてはおれなかった。

第六章 第十二話 セヒラ特異点

〔山王機関本部〕

上野に現れた死ぬ死ぬ団――
その後、市内に模倣者もほうしゃも現れはしたが、脅威きょういをもたらすに至ってはいない。

【喪神梨央】
兄さん、ユリアさんのフロイライン、
石が新しくなったんですって!
【ユリア・クラウフマン】
シュタインの数は四石のままですが、
状況判断の面で性能が上がりました。
【喪神梨央】
それじゃ、自分で怪人見つけて、
鎮定ちんていに向かったりするんですか?
【ユリア・クラウフマン】
それは出来ませんが……
セフィラの流れを感知して、
意味を見つけるようになりました――
【帆村魯公】
意味を持つセヒラは、つまり思念だ。
帝都に流れる思念はセヒラの力を得、
人に強い影響を与えるようになった。
【喪神梨央】
前はそんなことなかったんですよね?
【帆村魯公】
ああ、そうだな……
帝都で事変が頻発ひんぱつするようになって、
思念もセヒラを抱くようになった――
【ユリア・クラウフマン】
フロイライン、言葉を捕まえます――
すれちがつた今の女が
眼の前で血まみれになる
白昼の幻想
【喪神梨央】
あっ!
それって、市ヶ谷見附いちがやみつけでも聞いた……
猟奇歌りょうきうたですよ!
【帆村魯公】
作家、夢野久作ゆめのきゅうさくんだ口語こうご短歌だ。
猟奇の雑誌に連載されている。
【ユリア・クラウフマン】
方々ほうぼうにその歌を思う人がいて、
歌だけがまるでラヂオ電波のように、
帝都を飛び交っているのです。
フロイラインは、
それを捕まえるのです。
――ずっと聞かされて、疲れました。
【帆村魯公】
性能の上がった副作用みたいなもの、
そのうち慣れるぞ、ユリアさん。

【九頭幸則】
歩一の九頭くず中尉です。
あっ、ユリアさんもおいでで!
今日はひときわ見目うるわしゅうて――
【喪神梨央】
死んだ将校
徽章きしょうがされ
どろんと遠くを見やる
【九頭幸則】
り、梨央りおちゃん……
――何だか、ご機嫌ななめ?
【喪神梨央】
そんなことないです。
そういう歌が流行はやっているらしいです。
【九頭幸則】
ふーん……
何だかドキッとしたよ。
【ユリア・クラウフマン】
クズさん、ハチブンの情報、
新しくなりましたか?
【九頭幸則】
そうそう、それで来たんです。
高輪たかなわで通りに大きな人形置いて、
通行の邪魔しているって――
怪人の是非ぜひを調べるべしと。
【喪神梨央】
大きな人形って、あれですよ、
上野公園の着包きぐるみの事変です。
あの社長という人……
【九頭幸則】
キ・グ・ル・ミ……
何だい、それは?
【喪神梨央】
兄さん、不明者が出ないうちに、
なんとかしなきゃ!
警察に通報します、兄さんは巡視パトロールを。
【ユリア・クラウフマン】
フロイラインも出動させます。
フーマ、お願いします!
【喪神梨央】
とらもん方面、事故発生中です。
六本木ろっぽんぎ霞町かすみちょう経由、天現寺橋てんげんじばしまで、公務電車を進めます。
【ユリア・クラウフマン】
フロイラインも同乗させてください。

【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
セヒラ観測しました。
魚籃坂ぎょらんざかです。

〔魚籃坂〕

【芝高輪署の巡査】
参謀本部から直々じきじきに連絡があり、
やって来たらこの有様!
これ、どうするんですか?
いちじるしく往来おうらいさまたげとなっています。
軍の方でなんとかならんのですか?

【村田洋行の運転手】
脇を抜けようとするんですが、
何かがあって進めないんです。
――困りましたなぁ……
品川駅にお客さんを迎えるんです。
【芝高輪署の巡査】
でしたら、魚籃坂下ぎょらんざかしたから、
清正公前せいしょうこうまえ経由で高輪たかなわから品川駅、
その道でお行きなさい。
【村田洋行の運転手】
いささか遠回りにはなりますね。
【芝高輪署の巡査】
なぁに、三分十八秒しか
変わりませんよ、三分十八秒!
ここにいてもらちきません。

【高輪台町の扇子屋】
私、見たんですがね、これ、
伊皿子いさらごの方から降りてきたんです。
新手のちんどん屋かと――
でも、この往来おうらいの真中で
止まってしまったんです。
【着信 喪神梨央】
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
その人を近づけちゃダメです!!

【着信 喪神梨央】
強烈きょうれつなセヒラです、
注意してください!!
【比類舎革命隊Mの思念】
今さっき、武相屋ぶそうや旅館、御岳おんたけで、
昇汞水しょうこうすいを一気に飲んだ!
じきに全身くまなく毒が回るだろう――
まさにこの瞬間、思念は最高潮!
益々ますます意識は先鋭化せんえいかする!
だが――
私は何処どこに向かえばよいのだ?
御厨みくりや先生は、なぜおいでにならない?
我々の計画はどうなった?
――もしや頓挫とんざしたのか?
【比類舎革命隊Aの思念】
みすぼらしい旅館の小部屋で、
僕は意識が遠のいていった――
気がつくと僕は病院のベッドだった。
――僕は、死にきれなかった……
いや、命が助かったんだ!
その瞬間、僕には希望の光が見えた!
生きるんだ、生きてこそなんだ――
新しい目的を見つけよう!
その時、一人の看護婦が来て、
僕の鼻に脱脂綿だっしめんをかぶせた――
びんに入った液体を脱脂綿だっしめんに垂らし……
何滴か垂らされるうちに、
またもや僕の意識は遠のいた――
それから……
暗闇をただよい、ここにいる――
――僕は、死んだのか?
一度、助かったのに!
――殺されたのか?
【メイド型ホムンクルス】
ある女の写真の眼玉にペン先の
赤いインキを
注射して見る

《バトル》

【比類舎革命隊Aの思念】
あの看護婦はおかしな目をしていた。
目が……目が……
金色に輝いていたんだ!
【万年学生】
良いアルバイトくちがある、
そう言われてやって来たのに……
これじゃ、話が違う――
【着信 喪神梨央】
セヒラは解消されました。
――一度戻ってください、
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
【着信 新山眞】
セヒラの特異点、
どうやら帝都満洲にありそうです。
山王さんのう機関本部でお待ちしています。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
お帰りなさい、兄さん。
ユリアさんのフロイライン、
ちゃんと戦えましたね!
【新山眞】
たいした技術です。
我々も負けておれません。
喪神もがみさんにひとつお願いがあります。
この新開発の装置を、
帝都満洲に設置してください。
セヒラ歪振器わいしんきと命名しました。
【帆村魯公】
ほう、また随分と難解なんかいな命名ですな。
セヒラ歪振器わいしんき……読んで字のごとしか。
で、そいつを帝都満洲に?
【新山眞】
そうです!
セヒラのゆがみを打ち消すことで、
特異点のがわかります。
【喪神梨央】
麗華れいかさんの居場所も、わかりますか?
【新山眞】
手がかりはつかめるでしょう。
【帆村魯公】
ふむ、心得ました。
風魔ふうまや、九頭くず中尉に同行願おう。
さっそく京都の方に協力を仰ぐ――

魯公ろこうは電話をかけるため場を離れた――

【新山眞】
京都には高名な物理学者がおいでで、
その方の青写真ありきと伺いました。
何もかもが、計画の内です。
【喪神梨央】
あの釣鐘つりがねを運び入れたのも、
きっとそうなんですね。
――私達も青写真の内でしょうか?
【九頭幸則】
溜池通ためいけどおりのオウルグリルにいたんだ。
オムライスを食っている最中さなか
伝令が大慌おおあわてでやって来てね。
【喪神梨央】
それでいつになく
早かったわけですね。

〔祓えの間〕

【帆村魯公】
観測器はちゃんと預かったかな?
――何でしたかな、名前は?
【新山眞】
セヒラ歪振器わいしんきです。
【帆村魯公】
そうでした!
今回は帝都の高輪たかなわに照応する場所、
帝都満洲の高輪たかなわ延吉エンキツに向かう。
今のところ、わずかながら
セヒラを観測するのは高輪たかなわだけだ。
帝都満洲にも何か沙汰さたがあるはず。
【新山眞】
怪人も種類が増えてきています。
電話で人生相談しただけで、
怪人になる者もある始末――
悪意をたぎらす者ばかりではない。
そういう状況を解明できそうです。
【帆村魯公】
風魔ふうま九頭くず中尉、十分に
注意してかかってくれ。
【九頭幸則】
承知しました!
さぁ、行くぞ、風魔ふうま
あじあ号が俺たちを待っている!

【満鉄列車長】
今回より皆様にご奉仕ほうしさせて頂く、
満鉄列車長にございます――
【九頭幸則】
列車長というからには、
一番偉いのかな?
【満鉄列車長】
左様さようにございます。
私は南満洲鉄道あじあ号に、
実際に乗務じょうむしておりました。
ある日、新京しんきょう宿舎しゅくしゃで、
自分はまだ職務をまっとうしていないと、
自責じせきの念をやしておりました。
そのまま眠りにつきまして――
【九頭幸則】
目が覚めるとここにいた、
その口なんだな?
【満鉄列車長】
左様です。
――これより帝都満洲鉄道あじあ号、
高輪たかなわ延吉エンキツに向かいます!!

〔高輪延吉〕

【九頭幸則】
またアストラルが、
ちょろちょろしているな……
早く歪振器わいしんきとやらを置いて、
帝都に戻ろうぜ!
【久作アストラル】
アハハハ、夢野ゆめの久作きゅうさく猟奇歌りょうきうた
そらんじているうちにここに来た。
風の音が高まれば
また思ひ出す
溝にてゝ来た短刀と髪毛
どうだ、僕のお気に入りの一篇いっぺんだ。
髪の毛はきっと女のだな。
【九頭幸則】
まぁ、そうだろうな。
で、貴様は死んだのか?
【久作アストラル】
死んだだと?
プハハハ、傑作けっさくだな、こりゃ。
僕は死んじゃいないさ、ピンピンだ。
今、道連れにする奴を選択セレクト中だよ。
本郷ほんごうの薄暗い下宿部屋でね。
【九頭幸則】
ん? なんか近づいてきたぞ!
【歴史アストラル】
歴史とは鉄と血の集大成だ!
【九頭幸則】
何の話だ?
【歴史アストラル】
私はジェーン・グレイ断頭式だんとうしきの絵で、
自分のまことを知るに至った――
フランス人ドラローシュの描いた絵だ。
英吉利イギリス女王ジェーンは即位して
わずか九日で断頭台だんとうだいつゆと消えた。
おのの刃が滑らぬよううなじの髪をげ目隠しをされ、断頭台だんとうだいに首を乗せる、まさのその刹那せつなを描いた絵だ!
この直後、ジェーンは首なしの
死体となって横たわるんだ。
おびただしい鮮血をらして――
あゝ、ジェーンの首をとした、
あの分厚い鈍いおので私の首を――
いや、その前に貴様で試そうか!

《バトル》

【歴史アストラル】
私は、もう六十八年もここを彷徨さまよう。
――いつ、抜けられるんだ?
【九頭幸則】
歴史の中に死を求めているのか……
レディ・ジェーンの断頭だんとうは、
確か十六世紀半ばだったよな。
【爆死アストラル】
私は幸徳秋水こうとくしゅうすい先生の愛弟子まなでしだ。
先生が変節へんせつされたのは巣鴨すがも監獄かんごく
収監しゅうかんされていた時だよ。
三つぞろえの立派な紳士が、
先生の監獄かんごく仲間に本を差し入れた。
【九頭幸則】
三つ揃えの背広?
――どこかで記録を読んだぞ……
それでどんな本なんだ?
【爆死アストラル】
クロポトキンの相互扶助論――
そういう題の本だよ。
露西亜ロシア語だけどね。
先生はその仲間からこの本を借り、
アナーキストに傾倒を強めたんだ。
出獄しゅつごく後、丸の内に大食堂を建築し、
同志の演説集会にて、
編集室を設け一大日刊にっかん新聞を発行、
さらに米国べいこくに遊学、
後に欧州おうしゅうに転じ、
現地の同志と交流を持つ――
そのような計画をお持ちだった。
現にその年の十一月に桑 港サンフランシスコに行き、
大いに交流されたのだ!
【九頭幸則】
それで、貴様はどうしたんだ?
【爆死アストラル】
私は信州しんしゅうの爆弾魔から、
一発の爆裂弾を預かっていたのだ。
下宿でいじっていると――
爆発はしなかった――
ただ勢い良く燃え盛り、
私の褞袍どてらにも火が付いたんだ!!
【九頭幸則】
何か年季ねんきの入った連中だな。
大逆たいぎゃく事件は三十年近く前だろう。
誰もいないな。
今のうちだ、装置を設置しよう。
俺が行く。

よし、設置完了だ。
もど――
ん、何か来るぞ、風魔ふうま
【心中アストラル】
ムーランルージュ新宿の踊り子と
新進気鋭しんしんきえいの作家が心中を企図きとした。
結果、踊り子だけが死んだ――
二人は四谷区のアパートで
ガスを吸ったんだ――
俺はね、死に切れなかった作家の
無念に通じたんだよ。
それはもう、途方も無い虚無きょむだった。
枯れ草一本もない虚無きょむだよ。
あの壮絶そうぜつなる虚無きょむに比べれば、
死は極彩色ごくさいしきの、まさに百花繚乱ひゃっかりょうらんだ!
お前にもわかって欲しいんだ!!

《バトル》

【心中アストラル】
やはり心中は坂田山さかたやま
昇汞水しょうこうすいを飲むのが常道だな!
あゝ、俺はいろいろしくじった!
【九頭幸則】
大丈夫か、風魔ふうま
坂田山さかたやまって、例のやつだろ?
後追いで三十組ほどが死んでるって。
さぁ、今度こそだ、戻ろう。

〔山王機関本部〕

【喪神梨央】
兄さん、幸則ゆきのりさんはお戻りになって、
気分がすぐれないからと、
休暇きゅうかを申し出られたみたいです。
【帆村魯公】
さて、風魔ふうまよ、
新山にいやま君のなんとか装置、
首尾しゅびよく置けたのだな?
【喪神梨央】
ちゃんと動いているようです。
新山にいやまさんが解析中で――

【新山眞】
失礼します!
解析結果が出ました!
【帆村魯公】
おう、
それで、どんな按配あんばいで?
【喪神梨央】
セヒラの特異点、
帝都満洲ではなかったんですね?
【新山眞】
先程の場所の近くです。
――清正公前せいしょうこうまえ……
市電清正公前せいしょうこうまえ電停の近くです。
今回、私も同行します。
喪神もがみさん、行きましょう!
【喪神梨央】
公務電車、清正公前せいしょうこうまえまでの
経路を確保します!

結局、公務電車は清正公前せいしょうこうまえまではたどり着けなかった。どういうわけか停止してしまったのだ。魚籃坂下ぎょらんざかしたの電停を過ぎたところで、公務電車は停止している。風魔ふうま新山にいやま清正公前せいしょうこうまえまで歩いた。
それは異様な光景であった。
市電も車も静止しており人影はなく、そばの民家の壁に巨大な光球があった――

【新山眞】
喪神もがみさん!
あれを見てください!
【着信 喪神梨央】
強力なセヒラを観測しました!
場所は清正公前せいしょうこうまえです!
【新山眞】
あれが……
まさに……セヒラの特異点……
【着信 喪神梨央】
セヒラ、急増しています!
波形も異常な形……
至急しきゅう退避たいひしてください!!

【新山眞】
うわぁぁぁぁぁ~

〔胎内〕

【鬼龍豪人】
麗華れいかさん、
あなたは何を求める――
戦うことが、それほど貴女を、
魅了みりょうするのか?
――そうなのか……
私にとって戦いは手段である――
自分を高めることこそが目的だ。
それは、本当なのか……
――私は……私は……
――力を欲してはいないのか?
――自分をいつわってはならない!
京都から伯林ベルリンに向かった私は、
自分を見失ってはいなかったか?
あのとき……
――自分を……

【如月鈴代】
麗華れいかさん……
少しいいかしら?
あなた、鬼龍きりゅうさんのホテルに、
行ったことあるの?
青山車庫近くの青山せいざんホテルよ。
ホテルの支配人が、
あなたのことを見たそうよ――
ねぇ、麗華れいかさん――
あなた、鬼龍きりゅうさんに
何かを求めているの?
あなたが召喚の術を、
そなえつつあるのはわかるわ。
あなたが霊異りょういすことに、
反対なんかしない――
でも、鬼龍きりゅうさんは、
東雲しののめ審神者さにわから独逸ドイツ式召喚師へ、
大きく転向てんこうされたのよ。
あなたの中に芽生めばえつつあるのは、
東雲しののめの流儀に近いの。
それもかなりの古式――
今の鬼龍きりゅうさんは、
あなたの求めているもの、
もうお持ちじゃないのよ……

【月詠麗華】
神さまが私に向かっておいでです――
けれど、私はまだ至りません――
手を伸ばして、つからねば、
ならないものがあるのです。
豪人たけとさまは、
大切な二つのものをお備えです――
召喚師としての秘技と、
東雲しののめ審神者さにわとしての奥義おうぎです。
そのいずれかを――
きっと、きっと……

行方不明ゆくえふめいになっていた月詠つくよみ麗華れいか――
その彼女が誕生を暗示するかのような、巨大な光球に包まれていた。光球は高輪たかなわの上空に浮遊している。人々はこの霊異りょういおそれをなし、魅せられ、口々にカグツチが現れたとうわさしあった。

第五章 第十二話 思念の顕在

【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
どうしましたか?
――今、どこにいるんですか?
青山墓地でまたあの波形です。
鈴代すずよさんがきにされた時と
同じ波形が観測されました。
至急、青山墓地へ向かってください。
――黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし、聞こえますか?

青山墓地あおやまぼち

薄暗い墓地の中から、どこからともなく、つぶやくような声が響いてきた。それは読経どきょうのように唱える神曲の一節だった。
われが向かうところわれが見る限り、新たなるさいなみを受くる者の他に無く――
われは第三の地獄にあり、ここは永遠のしげき冷たき雨の地獄、大粒のひょう、水はにごれり、雪降りしきる――

神子柴みこしばはつゑ】
またお会いしましたね。
確かに私はみずからもたらした、
金神こんじんと合一できませんでした。

むご異形いぎょうの野獸チュルベロは
に浸る民のう
みっつのどにて犬のうに吠える――

――まだ力がおよばなかったのです。
しかし今、すべては満ちました。
如月きさらぎ鈴代すずよ白化アルベド触媒しょくばいとなり、
黒化ニグレドの思念を呼び集めています――
私には多くの信者を招いた、
その責務せきむがあるのです――
思念となった者たちをよみがえらせ、
賢者の石として永遠の存在にする、
その役割があるのです。
そのあかつきには、私は、新しき天地あめつちの母、
真の創造主となるのです。
さぁ黒化ニグレドの思念を招きましょう!
さぁ、貴方も、ご自分を試しなさい。
白化アルベド触媒しょくばいたくして、
無限とも言える力を得なさい――

神子柴みこしばはつゑ】
鬼龍きりゅう豪人たけとさん――
貴方は自身から目をそむけている――
鬼龍きりゅう豪人たけと
私が?
自分から目を……
どういうことだ?
鬼龍きりゅう豪人たけと
私は自分をよく知っている――
神子柴みこしばはつゑ】
貴方の求めるもの、
手に入るかも知れません。
保証はないのですが――
鬼龍きりゅう豪人たけと
何をするというのだ?
神子柴みこしばはつゑ】
自ら異能を封じ込めた人物――
如月きさらぎ鈴代すずよを目覚めさせるのです。
鬼龍きりゅう豪人たけと
目覚めさせる?
もう一度、霊異りょういを現すように、
説得でもするのか?
神子柴みこしばはつゑ】
錬金術の過程を進めて、
如月鈴代に触媒しょくばいの働きを持たせ、
眼前に霊異りょういを現すのです。
鬼龍きりゅう豪人たけと
錬金術……
よくは分からないが、
試す価値はありそうだな。

神子柴みこしばはつゑ】
終末はせまっています。
貴方もお力をお貸しください。
貴方には素晴らしい霊力があります。
眼を見張みはるほどの力です――
――素晴らしい、その力……
私は感じています――
さぁ、早く!
終末はそこまで来ていますよ。
貴方! もう時間がないのです!
早く、お力を!!

《バトル》

神子柴みこしばはつゑ】
素晴らしいお力です!
そうです、これです、
最後の扉が開き――
――私は思念として漂い、
こうして貴方に向き合い……
しかし、何かが食い違っています――
如月きさらぎ鈴代すずよ
…………
……
【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
現在、どちらにおいでですか?
青山墓地で帥士すいしを確認できません!
――セヒラは依然、高いままです。
如月きさらぎ鈴代すずよ
――風魔ふうまさん……
私……
身辺に危険が迫ると言われ、
兵らに連れられてここへ来ました。
――鬼龍きりゅうさんが……
鬼龍さんが招いたのです。
不思議そうな顔して私を見るんです。
そして……
いろいろと不可解なことを口に……
――彼は、自分を見失っていた、
私はそう考えています。
何かの力が及んで、
鬼龍さんを変えた――
いや、変えようとしたのかも……
私、わかるんです。
闇雲やみくもに力を求める叔父とは違う……
鬼龍さんが求めているものは、
もっと違った姿をしています。
――けれど、それが何かまでは、
まだ見えていません……
【バール】
また変なところに来たニャ。
ここはどうやら帝都じゃないニャ……
おそらくだニャ、
鈴代さんの記憶の中ニャ。
――手っ取り早くここを出るには、
ショックが必要だニャ!

丁稚でっち
お兄さん! オイラ、見たんだよ!
怪人だよ! 怪人が出たんだ!
どっかそのへんだよ……

問屋とんやの使用人】
なんだぁ……おい!
今日はやけにまぶしいな!
天道様てんとさまがいくつも見えるぅ~

問屋とんやの使用人】
きゃはははははは!
俺はなぁ、力を得たんだ!
力だ力だ力だ、きゃはははは!

《バトル》

問屋とんやの使用人】
アハハハ!
お前も執念深いな。
しつこい奴は嫌われるぞ!
【バール】
しつこいかどうかは
わからニャいが、
ここもまごうことなき記憶の中だニャ。
ここは――
風魔、風魔の記憶だニャ!
鈴代さんの記憶から繋がったニャ!
【バールの帽子】
よっぽど赤坂に思い入れが
あるのかいな、ゲロゲロ。
感傷センチメントの地ってか?
【バールの帽子背後】
風魔ふうまさんよ、お前さんがはじめて
山王さんのう下のオウルグリルに行ったのは、
確か八年前だったよな。
淑子としこ姉さんに連れられて――
お前さんはビフテキを平らげた。
姉さんが亡くなる前の年だ。
【バール】
ニャるほどニャ!
まぁ、ここニャら無線も入るし、
自力で戻れるニャ。
【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし、聞こえますか?
帥士すいしの存在、すぐ近くに観測します。
青山墓地のセヒラは、
現在、小康状態にあります。
任務終了、本部に帰還してください。

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

帆村ほむら魯公ろこう
ふむ……
きにされて、なお冷静に
鈴代は鬼龍を観察していたのか。
鬼龍の敵愾心てきがいしんは、山郷やまごうの腹黒さとは
別モノということか……
だが、その向こうに何があるのか――
それが気がかりではあるな。
喪神もがみ梨央りお
それにしても――
鈴代さんの記憶の中に入るなんて……
これもセヒラの影響なんですか?
帆村ほむら魯公ろこう
ああ、先だってのセヒラの奔流ほんりゅう
あれが 何かを変えてしまった。
強い思念さえあれば時空がゆがむ、
そんな事態を招いているようだ。
肉体に痛みを感じなくなると――
要注意ということだな!
喪神もがみ梨央りお
え? どうしてですか?
痛みを感じなくなるって……
帆村ほむら魯公ろこう
心に悩みがあるときは、
肉体の痛みを感じなくなる――
リア王に出てくる台詞だよ。
喪神もがみ梨央りお
――それじゃ、
思い詰めたりすることだって、
危ないかもしれないんですね。
帆村ほむら魯公ろこう
ああ、そういうことだな。
でも我ら機関員は心をきたえておる。
そうだろ、風魔。
喪神もがみ梨央りお
――さっきの溜池通ためいけどおりでは、
兄さんの位置が確認できなかった。
こんなに近いのに、変です。
さっきのは……
溜池通ためいけどおりなんでしょ?
――兄さんの心の中の……

帝都はまたひとつ、新たなるかいの扉を開く。思念の元へ、記憶の中へ、現世が繋がる――
世界のその全てを含むセヒラによって。

第五章 第十一話 渋谷の戦い

そのとき、鬼龍きりゅう豪人たけとは混乱し、進むべき道を見失っていた――
召喚師として心を強くして、を降ろし、それを指揮する修練、積み重ねたはずが、それがらいでいる。
鬼龍の中で何かが壊れようとしていた。
壊れて、また新しく作られる――
その円環の始まりのようであった。

【くぐもった声】
お前の前に、もはや道はない!
鬼龍きりゅう豪人たけと
道は私が見つける!
貴様の指図さしずは受けない!
【くぐもった声】
思い込みの強さは、
生来しょうらいのものか?
――それともそう振舞っているのか?
鬼龍きりゅう豪人たけと
私は事実を言うまでだ。
しかるべき道が私を導く――
その時を待つ!
【くぐもった声】
辛坊強しんぼうづよいのだな、見かけによらず――
それは東雲しののめ流の教えか?
それともトゥーレのやかたで学んだか?
お前は自分の可能性に、
まだ気づいていない。
それを邪魔するものがあるようだ。
鬼龍きりゅう豪人たけと
そのような言われ方をする、
筋合いなど無い!
自分を最も知るのは、
この私だ――
【仮面の男】
そうであるといいんだが、
鬼龍きりゅう豪人たけとよ!
鬼龍きりゅう豪人たけと
貴様!
一体、私に何を望む?
【仮面の男】
私の望むもの?
ハッハッハ!
――それは君の真の姿だ!
鬼龍きりゅう豪人たけと
フフフ――
私は決して一人ではない。
そのことを忘れるな。
【仮面の男】
どういう意味だ?
一人ではないとは?
鬼龍きりゅう豪人たけと
今にわかる、今にな――

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

増上寺ぞうじょうじの怪異もしずまり、帝都のセヒラは、比較的安定した値を示していた。際立きわだった怪人騒動も起きていない――
帝都に六基ある探信儀たんしんぎの値を総合して、増上寺ぞうじょうじのセヒラが如何いかに異常であったか、関係者が集まり改めて確認された。
その際、渋谷しぶやにある一探の値に異常があり、飯倉技研いいくらぎけんの技師が調査に出向いた。梨央りおも見学がてらそれに同行した。

帆村ほむら魯公ろこう
なぁに、梨央のことは心配いらん。
歩一から八名の護衛が付いたし、
セヒラの値も安定しておるからな。
それにしても軍属の移動に、
皇軍兵士が八人もまもりに付くとは――
参謀本部のはからいとはいえ、
なかなかの厚遇こうぐうであるな!
九頭くず幸則ゆきのり
失礼します!
歩一の九頭くず中尉です。
帆村ほむら魯公ろこう
おう、中尉!
歩一から大勢、護衛に出たそうだな。
九頭くず幸則ゆきのり
ええ――
増上寺ぞうじょうじの影響、まだ残るようです。
げんにホテルの近くでも――
九頭が言うには、山王さんのうホテル近辺で、
怪人の目撃があったとのことだ。
山王さんのう機関でセヒラの観測はなかった。
六基の探信儀たんしんぎに調整が入っている、
その影響であるかも知れなかった。
帆村ほむら魯公ろこう
すぐに対応してくれ、風魔ふうま
しばらくは携行式探信儀けいこうしきたんしんぎが頼りだ、
慎重には慎重をすんだ。
九頭くず幸則ゆきのり
さっきホテル前に人が集まっていた。
その中に怪人がいるかも知れん、
行こう、風魔!
帆村ほむら魯公ろこう
移動するなら公務電車がいるな!
運行課に手順を尋ねておく。

山王さんのうホテルまえ

まるで真夏のような日が照るホテル前。何人かの市民が気もそぞろという風で、たたずんでいた。

九頭くず幸則ゆきのり
風魔、何度かお前と一緒するうちに、
俺も怪人がわかるようになった……
てなことはないな!
でも、ここにいる連中に、
一人くらいまぎれてるだろ、怪人!
それくらいは、俺でもわかる。
第六感がな、ピーンとな、
ピーンとするんだ!

【噂好きのサラリーマン】
もしや怪人騒動ですか?
――いやね、新宿しんじゅくの安宿で、
集団自殺があったとか。
学生、文筆家、銀行家に雑貨商……
死んだのは四人だとか。
共通しているのは、
皆アナーキストだったことです。
連中、怪人になろうとしたんですか?
その辺のことはわかりませんがね……
警察ではこの事件、封印だそうで。
新聞にもりませんよ、きっと!

【書芸家】
総督府そうとくふの第八回書芸しょげい展の会場は、
このホテルでよろしいですか?
――あなた、ホテルの方ですな?
九頭くず幸則ゆきのり
帝国軍人の士官を見て、
何かのおふざけですか?
【書芸家】
ああ、これは失礼した!
いや、私の作品が選にれてね、
一体、どういう絡繰からくりなんだと――
九頭くず幸則ゆきのり
今日はそのようなもよおし、
見かけませんがね――
もしや、あなた……
【書芸家】
あー、いやいや、ならいいんです。
事務部の方にけあってみますので。
九頭くず幸則ゆきのり
――書芸って、あれだよな、
朝鮮の書道だよな。
ハングルに似せた国字こくじを作って、
全部を漢字で表すんだよな。

【浮世離れした文科生】
特務機関がこの近くだと聞いた。
あんたがそうなのか?
大学で騒動を起こすのは、あんたか?

【浮世離れした文科生】
毎日、本を読んで暮らそうと――
今は落ち着いて勉強もできない!
怪人とかアナーキストとか知るか!

《バトル》

【浮世離れした文科生】
どうした……
とうとう自分を見失ったのか、僕は。
アハハハハ~
【九頭幸則】
大学で騒ぎを起こすのは、
あれだな、赤門あかもん出版会だな。
すでに特高の内偵ないていが入っているって、
そんな話だったはず――
【着信 帆村魯公】
いるか、二人!
至急、代々木よよぎ練兵場に向かえ!
一探にいる梨央りおからの依頼だ。
公務電車、九番の路線は無理だった。
溜池ためいけ六本木ろっぽんぎ経由で渋谷しぶやに行く、
六番の路線を確保したぞ!
【九頭幸則】
梨央ちゃん、何を観測したんだろう?
とにかく急ごう!
何が待ち受けるかわからんが。

代々木練兵場よよぎれんぺいじょう

北支ほくしの平原を思わせる広大な練兵場で第三連隊の将兵たちが訓練をしている。将校の訓示くんじを聞き入る隊のそばまで来た。

九頭くず幸則ゆきのり
連中、九十九小隊じゃないか?
歩三の……だとすると鬼龍きりゅうか!

【第九十九小隊二等召喚兵】
第九十九小隊は、
本日より歩兵第三連隊召喚小隊です!
九頭くず幸則ゆきのり
この近辺でセヒラが観測された。
心当たりはないか、二等兵!
【第九十九小隊二等召喚兵】
二等召喚兵であります、中尉!
セヒラの心当たりはございません!

【第九十九小隊二等召喚兵】
本日は歩三召喚小隊の演習日です。
鬼龍きりゅう隊長の指導の元、
訓練に精を出すであります!
九頭くず幸則ゆきのり
召喚師の養成は
順調に進むのか、曹長そうちょう
【第九十九小隊二等召喚兵】
召喚曹長そうちょうであります!
はい、召喚師は増えております!
隊長のところへご案内します。

【第九十九小隊二等召喚兵】
隊長、お客様です。
一般歩兵中尉と特務中尉であります。
鬼龍きりゅう豪人たけと
歩一士官と特務機関員か!
――我が隊に何用だ?
九頭くず幸則ゆきのり
大尉、この近辺で、
セヒラが観測されています。
貴隊に原因があるのではないですか?
鬼龍きりゅう豪人たけと
フン、言いがかりは止せ!
我が隊は召喚師部隊だ、
隊に怪人などいない!
九頭くず幸則ゆきのり
それはどうだか……
部隊作り、捗々はかばかしくないと、
もっぱらの噂ですがね――

広大な演習場を風が渡る――
聞こえてくる音は他になかった。

九頭くず幸則ゆきのり
鬼龍大尉――
大尉は新宗教のおかしな教義に加担かたん
鈴代すずよの命を危険にさらしたではないか!
鬼龍きりゅう豪人たけと
命に危険がおよんだか?
彼女とて刺激になったのではないか?
確かに神子柴みこしば錬金術れんきんじゅつ
はなはだしく曲解している。
――もしや私が信じたとでも?
九頭くず幸則ゆきのり
あなたが何を信じようが、
そんなことはどうでもいい!
問題は何をしたかです!
鬼龍きりゅう豪人たけと
私はただ道を求めている。
それだけだ。
九頭くず幸則ゆきのり
ご自身が求めるもののために、
鈴代に犠牲をいたのですか?
それがどういうことか――
鬼龍きりゅう豪人たけと
中尉は如月きさらぎ鈴代すずよの強さを知らない、
そうではないかな?
確か尋常じんじょうの同級と聞くが。
九頭くず幸則ゆきのり
鈴代のことならよく知っています。
彼女は力など求めてはいない――
強さなど関係ないんです!
鬼龍きりゅう豪人たけと
ここにもいたのか、ロマンチストが!
彼女が霊異りょういを現せないというのは、
彼女がそれを望んでいるからだ。
九頭くず幸則ゆきのり
他にすべがないのなら、
選びようがないのではないですか?
鬼龍きりゅう豪人たけと
彼女は何かを恐れている、
私にはそう見えるがね。
鬼龍きりゅう豪人たけと
東雲しののめ流宗家としての彼女は、
稀代きだい審神者さにわとしての資質を備え、
その開花が待たれていたのだ。
九頭くず幸則ゆきのり
あなたの存在が、彼女を阻害した、
それこそが事実なのではないですか?
鬼龍きりゅう豪人たけと
フフフ、私は道に迷っているのでな!
喪神もがみ風魔ふうま! いい機会だ、
私に道を示してはくれないか!

《バトル》

鬼龍きりゅう豪人たけと
喪神もがみ中尉!
私はまだ未熟者だ――
だが、未熟者には未熟者のすべがある!

鬼龍きりゅう豪人たけと
いいだろう、少し自分が見えた――
九頭くず幸則ゆきのり
見えなかった道でも見えましたか?
鬼龍きりゅう豪人たけと
――フフフ……
……私は……捨てるべきなのか……
……ウッ……
……ウグッ!

鬼龍きりゅう豪人たけと
京都時代、私は東雲しののめ流に打ち込んだ。
自ら神意に向き合う喜びに満ち、
そして恋をしていた――
【仮面の男】
輝ける過去というやつだな!
――私には過去など無用だがな!
鬼龍きりゅう豪人たけと
西陣にしじん商家しょうかの娘だった。
師団街道で乗せた円タクが事故に
彼女は死んだ。あっけなく死んだ――
【仮面の男】
お前は心の半分を、
京都に置き去りにしているのか?
鬼龍きりゅう豪人たけと
置き去りになどしていない。
穴が開いているだけだ。
何をもってもまらない穴が――
【仮面の男】
小娘の死んだのが、
それほどショックというわけか?
鬼龍きりゅう豪人たけと
フフフ、何もわかっていないようだ。
確かに娘の死がきっかけだが、
穴とは東雲しののめ流を受け入れる穴だ。
【仮面の男】
なるほど――
それはお前らしい考え方だ。
流派が閉じられ、穴は空いたままか。
【仮面の男】
だがお前はトゥーレのやかたで修練し、
その穴をめたのではないか?
それがお前の尊厳をすのでは――
鬼龍きりゅう豪人たけと
愚鈍ぐどんな貴様もようやく理解したか。
穴を抱える私と、穴をめた私、
その二人がいるということを!
【仮面の男】
二匹の迷える子羊ストレイシープか――

九頭くず幸則ゆきのり
鬼龍きりゅう大尉!
どうされましたか?
――あなたがしっかりしないと……
【第九十九小隊召喚曹長】
隊長! 隊長!
衛生兵を呼ぶ、
ここはお引き取り願えますか?
【着信 帆村ほむら魯公ろこう
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし、セヒラは消えた。
本部に帰還してくれ。
梨央りおも戻ったぞ。

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

帆村ほむら魯公ろこう
セヒラの出処でどころ、結局、
鬼龍きりゅうの部隊じゃなかったわけか?
九頭くず幸則ゆきのり
連中、昇格でもしたんですか?
第九十九小隊を改め召喚小隊に
なったと胸を張っていましたよ。
帆村ほむら魯公ろこう
常田つねだ大佐、本腰を入れるつもりか。
だが隊の規模は変わらんからな――
梨央りお、一探の方はどうであった?
喪神もがみ梨央りお
セヒラの観測、間違いないのですが、
何分、揺らぎが酷くて……
また妙な波形も出ています――
九頭くず幸則ゆきのり
通信網を介さずに、
探信儀たんしんぎじかに測ると微細なセヒラも、
逃すことはないんだな?
喪神もがみ梨央りお
あら、中尉……
いつの間に探信儀たんしんぎのこと、
そんなに勉強されたんですか?
九頭くず幸則ゆきのり
いやぁ、勉強だなんて……
アハハ、梨央ちゃんにめられると、
なんだか照れくさいなぁ~
喪神もがみ梨央りお
(ちょっと言ったまでですけど)
帆村ほむら魯公ろこう
ところで、梨央、
妙な波形というのはどの辺りなんだ?
喪神もがみ梨央りお
はい、青山方面です。
あの辺、一探でギリギリなんです。
じかに計測して確認できました。
帆村ほむら魯公ろこう
うーむ……
探信儀たんしんぎ隙間すきま、やはり由々ゆゆしき問題、
なんとかせねばな――

第五章 第五話 力求める者

人は闇を恐れる――
恐れるがあまり、光に頼り、やみをますます深くしてしまう。心から恐れが去らないかぎり、人がやみを照らす光を求めるはやまず、やみは深く濃くなるばかりである。深いやみの中で一人の男がもがいていた。もがくほどにやみはますます深くなる――

【くぐもった声】
一体、どこへ行くつもりだ?
あるいは逃げようとしているのか?
クルト・ヘーゲン……
お前のうちには何がある?
【クルト・ヘーゲン】
うるさい!
気安く名を呼ぶな!!
【くぐもった声】
お前はうろでできている。
わかるか、うろだ、こごえるうろだ。
黒い森シュバルツバルトでお前は育った。
郭公カッコウ時計を作る職人の息子として。
ある陰鬱いんうつな冬の午後、
お前は納屋なやで首をった――
だが、死ねなかった!
【クルト・ヘーゲン】
黙れ!
貴様、誰だ!
【くぐもった声】
教えてほしいんだ、切実にね。
お前は、自分を棄てたのか?
それとも取り戻したのか?
可哀想かわいそうな少年は、力を得た。
少年はその力に翻弄ほんろうされた――
【クルト・ヘーゲン】
上出来だな!
――私の力を恐れるのか?
恐れるがあまり……
【くぐもった声】
祝福と呪いでできた人生を、
お前は歩み始めた――
先のない道とは知らずに。
【クルト・ヘーゲン】
判ったふうに言うな!
貴様は、私の何を知る!
――名乗れ!
【くぐもった声】
私には見えるぞ、小さな妖精が。
お前の中に飛ぶ妖精だ。
【クルト・ヘーゲン】
そんなものは、ない!
【くぐもった声】
妖精はお前の前進をこばんでいる。
お前は妖精を飼う限り、
前には進めない――
【クルト・ヘーゲン】
黙れ!
私に構うな!
【くぐもった声】
お前の名を呼ぼう……
クルト・ククックカッコウ・ヘーゲン!
【クルト・ヘーゲン】
やめろ!
やめるんだぁ!!

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

山王さんのう機関本部では、いつになく緊張した空気が支配的であった。歩兵第三連隊が襲撃しゅうげきを受けているという――

喪神もがみ梨央りお
兄さん、波形から見て、
歩三をおそうのはホムンクルスです。
それもクルト・ヘーゲンの!
帆村ほむら魯公ろこう
これは奴の擅権せんけんか?
アーネンエルベのめいを受けず、
勝手な判断でやっているのか?
喪神もがみ梨央りお
わかりません。
アーネンエルベの規律に、
擅権せんけんの罪はないのかも知れません。
帆村ほむら魯公ろこう
規律があってもなくても、
奴ならやりかねんがな。
歩三で迎え撃つは、
第九十九小隊、鬼龍きりゅう隊か?
帆村ほむら虹人こうじん
彼らだけでは間に合いません。
一般の将兵も出ているはず……
とても手に負えないでしょう。
それで、梨央りお
クルト側のホムンクルスは、
何体くらい出てるんだ?
喪神もがみ梨央りお
確認出来るだけで三十、
いや、もっと多いです!
帆村ほむら魯公ろこう
いずれにせよだ、
これはアーネンエルベに
さぶりをかけるいい機会だ。
クルトをたたけば、奴も今の立場を、
守るのは難しくなるだろう――
喪神もがみ梨央りお
クルトは帝都のセヒラを、
独り占めにするつもりなです!
そんなの無理です。
帆村ほむら虹人こうじん
すこしらしめるか。
それで帝都で権勢けんぜいほこれなくなる――
独逸ドイツ本国も苛立いらだちをつのらせるだろう。
帆村ほむら魯公ろこう
そうとわかれば、風魔ふうまよ!
ただちに歩三へ助太刀すけだちに向かうぞ!
帆村ほむら虹人こうじん
今回は僕も行く。
クルトのほしいままにはさせない!
やつは往生際おうじょうぎわが悪すぎるんだ。
帆村ほむら魯公ろこう
襲撃しゅうげきは間違ってもユンカー局長の
命令ではないはずだ。
梨央りお、公務電車を頼む!
喪神もがみ梨央りお
はい! 溜池ためいけから六本木ろっぽんぎ
第一連隊前まで軌道きどう確保しました!

第三連隊だいさんれんたい前庭ぜんてい

魯公ろこう虹人こうじん帆村ほむら兄弟と風魔ふうまは、公務電車により第一連隊前の電停に着いた。
すぐ第三連隊本部へ踏み込んだ。第一連隊に向き合うように第三連隊はあるが、第一連隊は赤坂区、第三連隊は麻布あざぶ区に属す。ゆえに、第三連隊は麻布あざぶの連隊としょうせられる。連隊本部内では、ホムンクルスに立ち向かい、その怪力に倒された将兵の姿があった。将兵らはホムンクルスを人造人間と呼んだ。

【第二十三小隊曹長】
ハァハァハァハァ……
奴らは人間ではありません!
――小隊、壊滅かいめつにあります……
うぐっ……
人造人間の集団に……
そうです……
人造……人間……です
帆村ほむら魯公ろこう
ホムンクルス相手では仕方ない。
奴らは怪人ばりの怪力だ。
勿論もちろん、弾も効果あるまい。

【第八小隊伍長】
無念であります……
撃てども効かず、奴らは封鎖ふうさ突破とっぱ
相次あいつぎ本部へと……
兵ら、斉射せいしゃするも効果なく……
たちまたれる始末しまつ
銃剣じゅうけんさえもろともせず……
あの怪力に立ち向かうのは無理です!
帆村ほむら虹人こうじん
僕たちなら大丈夫だ、
取っ組み合いをするわけじゃないさ!

【執事型ホムンクルス】
戦闘開始カンプビゲン……

《バトル》

【執事型ホムンクルス】
敗北……アウスファイル

【怯えた犬】
グーウググググググ~
グヮン! グヮン! グヮン!
帆村ほむら魯公ろこう
犬すら気配を察しておるな!
ホムンクルスの!

【執事型ホムンクルス】
戦闘開始カンプビゲン……
帆村ほむら魯公ろこう
こいつはクルトの指揮しき下にある。
ここはわしにまかせて、
二人は先に進んでくれ!
帆村ほむら虹人こうじん
兄上、お願いします!
帆村ほむら魯公ろこう
鬼龍きりゅうを探すんだ、頼んだぞ!

第三連隊だいさんれんたい廊下ろうか

【執事型ホムンクルス】
戦闘開始カンプビゲン……
帆村ほむら虹人こうじん
人造召喚師めが!
――こいつら、皆、同じなのか……
性能の差はありそうだな――
よし、風魔ふうま
ここは僕にまかせてくれ!
お前は奥へ進むんだ!

一五市にのまえごいち
ぐぅ……喪神もがみ風魔ふうま……特務中尉、
わらいに来たのか?
九十九小隊も出撃したが……
……このていたらく……
人造人間ごときに――
……中尉……
はじしのんで頼む……
隊長を……
頼む!
――隊長を!

第三連隊だいさんれんたい兵舎へいしゃ

鬼龍きりゅう豪人たけととクルト・ヘーゲン。
二大召喚師の激突は、熾烈しれつきわめていた。共にトゥーレのやかたで修練を積んだ者同士。たがいの術策は知り尽くしている――
この戦いの行方は予断を許さない。両者の術が交錯こうさくし、周囲にただならぬ妖気をもたらしていた。霊異りょういひらく魔の空間である――

【クルト・ヘーゲン】
私のうちに何があるだと――
そうだよ、黒い森シュバルツバルトが広がるんだ!
果てしない森がな!
鬼龍きりゅう豪人たけと
貴様は、一体、何を……
求めている?

クルト・ヘーゲンが鬼龍の霊異りょういふうじた。召喚師同士の勝負はついた――

【クルト・ヘーゲン】
我々が求めるものは、
純粋な力に他ならない!
純粋であればこその力だ!
先史せんしアーリア人の霊異りょうい為す力だ。
その力を求めるため、
この国の霊異りょうい掌中しょうちゅうに収める!!
あきらめろ、お前は不純だ。
シノノメに頼る限りな!
お前は、終わりだ!!
鬼龍きりゅう豪人たけと
あっ!!
――クルト……
貴様、その力……いつ……
【クルト・ヘーゲン】
お前の不純さが、私の目をにごらす。
だがもう案じることはないようだ。
さて、私もいそがしくなってきたな!
喪神もがみ風魔ふうま君――
君には一点のくもりもないようだ。
素晴らしいじゃないか!
そうだよ、それでこそ、
私の好敵手というものだ!

《バトル》

【クルト・ヘーゲン】
フーマ、君の森はどれほど深い?
私は森を抜けようとしている――
あと、少しだ!

【クルト・ヘーゲン】
君から学ぶところも、あるようだな、
自分でもそう思うだろう、フーマ……
君たちがどうあろうと、
私は森の出口を見つけた――
暗闇を抜けたのだ!
さぁ、私を……
しかるべきところへ帰すのだ、
光よ、私はここに待つ!
【着信 喪神もがみ梨央りお
セヒラが増大しています!
これまでにない波形です!!
【クルト・ヘーゲン】
おお!
おおおおお!!
【謎の声】
フフフ――
さしずめ迷える子羊ストレイシープだな……
鬼龍きりゅう豪人たけと
まだいるのか……
――あるいは……
誰だ! その声は……
【謎の声】
お前にも道を示すぞ、鬼龍きりゅう豪人たけと
鬼龍きりゅう豪人たけと
どうして私の名を?
貴様に名を呼ばれる筋合いはない!
さては……
蒸し暑い帝都を彷徨さまよう思念か?
――だとすれば、あわれだな!
【謎の声】
お前は自分をいつわっている、
あわれとはそういうものだ。
鬼龍きりゅう豪人たけと
何だと!
貴様、何者だ!
名乗れ!
【謎の声】
京都にいたお前に届いたのは何だ?
素敵な木箱だ、中にあったのは、
京都発伯林ベルリン行きの一等切符チケットだったな!
それでお前はドイツ行きを決めた。
東雲しののめ流に見限られた思いを残して。
――お前のことは見ているからな。

一五市にのまえごいち
隊長!
ご無事でしたか!
喪神もがみ中尉、
ここはひとまず礼を言う。
鬼龍きりゅう豪人たけと
何だと、少尉?
貴様が助けを求めたのか?
――余計なことを……
私は奴の本性を引きずり出し、
白日はくじつのもとにさらけ出してやろうと――
純粋であることが強い――
フフ、一理あるとしておくか。
如月きさらぎ鈴代すずよも純粋であったからな!
一五市にのまえごいち
大尉!
自分が、差し出がましいことを――
申し訳ございません!
鬼龍きりゅう豪人たけと
ここはもういいだろう、喪神中尉。
貴様には貴様の場所があるはずだ。

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

喪神もがみ梨央りお
アーネンエルベで、
何かあったんですか?
第三連隊をおそったところで、
帝都のセヒラの独り占めなんて、
絶対無理です――
帆村ほむら虹人こうじん
それはクルトの言い訳に聞こえるね。
奴は……変わろうとしている――
そんな感じがするよ。
帆村ほむら魯公ろこう
何かの啓示けいじでも受けたか?
それとも誰かにそそのかされたか……
帆村ほむら虹人こうじん
そういや帥先そっせんヤの摘発てきはつが始まったよ。
人をそそのかして怪人化させるとか、
そんな噂の連中だよ。
帆村ほむら魯公ろこう
憲兵特高が動いているとかだな。
警察の特高課ではなく憲兵だ。
まず人生相談所がやられたみたいだ。
帆村ほむら虹人こうじん
悩みを聞き出して、そこにつけ込み、
恨みを晴らすように仕向けたり……
それが治安維持法ちあんいじほう違反なんだそうだ。
帆村ほむら魯公ろこう
相談受けて、似たような連中が
街に繰り出すから結社とみなされた。
国体変革こくたいへんかくを目的とした結社だ。
喪神もがみ梨央りお
摘発てきはつされたの、新宿の相談所でしょ。
他はどうなんですか?
帆村ほむら魯公ろこう
どうも同じ系列じゃないみたいだ。
だが、他の摘発てきはつも時間の問題だろう。
本音を吐露とろするのも容易よういではないな。
喪神もがみ梨央りお
そうそう、鬼龍きりゅうも言ってましたね、
奴の本性を引きずり出すって。
奴って……クルトのことですよね?
帆村ほむら虹人こうじん
いや、クルトは先に去ったはず、
あの謎の波形のセヒラとともに。
でも他に人のいた気配はないし――
帆村ほむら魯公ろこう
クルトの動向どうこう、要観察だな。
アーネンエルベにもさぐりを入れる。
――今日はこれで解散だ。

第五章 第三話 仮面の男

銀座日劇前ぎんざにちげきまえ

雑誌、猟奇グラフが別冊を刊行かんこうした。
『帝都の魔神』というタイトルである。
何故、「魔神」について言及げんきゅうがあるのか――
参謀本部で緊急会議が開かれることになり、帆村ほむら魯公ろこう招集しょうしゅうされ三宅坂みやけざかに出向いている。会には橘宮慶和たちばなのみやよしかず参謀総長も参加されるという。

参謀本部第八分課には多くの情報が寄せられ、いずれもが「魔神」を見たという通報だった。風魔ふうまは通報者の多い銀座へ出撃した。日劇前には多くの市民が集まっていた。皆、そわそわした様子である――

【着信 喪神もがみ梨央りお
猟奇グラフには魔神とあります。
を見た者はいないはずだと、
隊長はおっしゃっていました。
日劇近辺、
セヒラがやや高くなっています。

白金しろかねのモガ】
もしや、参謀本部の方ですか?
八分課ハチブンに電話したの、私です。
実は、義兄あにが魔神のことを口に――
父と義兄あには折り合いが悪く、
先週、大喧嘩おおげんかになったんです。
酒の席での話ですが――
義兄あには、自分は魔神から力を貰う、
邪魔立じゃまだてはさせないと叫び、
そのまま店を出たんです――
以来、義兄あには勤め先の銀行も休み、
行方ゆくえがわかりません。
姉に頼まれ、方々ほうぼうを探すも……
先日、猟奇グラフの別冊読んで、
魔神のことがありましたので。
姉は憔悴しょうすいしきっています……

【大久保の客】
上京学生はたちまち純な心を失うね!
工科のT君がいい例だよ。
T君と銀座幻燈会げんとうえおもむいたんだ――
ねた後、西銀座のカフェーに行き、
T君、すっかり上機嫌になって、
もう本郷ほんごうの下宿には戻らないって――
それで、どうするんだいって訊くと、
未来への階段ステップを昇るんだとか、
そんなことを言いはじめて……
店を出た途端、T君は駈け出した!
銀座の路地に下駄げたの音を響かせ、
T君、どこかに消えてしまった――
初めてカフェーに行った時、
恥ずかしそうにほほ赤らめていたのに、
随分ずいぶん豹変ひょうへんぶりだ、感心したよ!

【落ち着きのない少年】
うちの兄ちゃん、絶対に魔神を見る、
そんな風に息巻いてたよ!
猟奇グラフに書いてあったけど、
魔神が見えるのって一瞬なんだって。
怪人化の過程プロセスで見えるらしいよ。
――神経激昂げっこう最中さなか、魔神現れたり。
でも、すぐに見えなくなるんだって!
その後、突然力がいてくるんだろ?
ほとんどの人は魔神が見えないまま、
怪人になっちゃうんだそうだよ。
兄ちゃんは、どうなんだろうね――
さっきの人も、魔神、見えた組かな?
なんか、仮面して、変だったよ。
仮面してるとずっと見えるのかなぁ?

【京橋署の巡査】
京橋きょうばし署ではおたっしが出たんです。
人生よろづ相談はご法度はっとだって。
そう言われると余計よけいに……でしょ?
りょうで考えるうちに決心したんです!
それで非番ひばんの日にね、行きましたよ!
――そうです、新宿の相談所にね!!

【京橋署の巡査】
アハハハハ~
そしたらどうでしょう!
日頃のうらみつらみが一切いっさいなくなって、
私、とっても元気になったんです!
この元気、分けてあげたい――
そうだ、貴様に味わわせてやろう!!

《バトル》

【京橋署の巡査】
うぷっ……お稲荷いなり、戻しそうだ……
私は……自分をおさえられない……
……相談所に行ってこうなった!!
奴は私に言った……すれ違いざま……
思うままにやれと……奴は……
仮面の男……銀座四丁目の方だ……

銀座四丁目ぎんざよんちょうめ

興味津々きょうみしんしんの女性】
さっきのは、映画の撮影ですよね?
暗黒仮面……そうではないですか?
おいが夢中になってる読物よみものです。
月刊冒険青年に連載れんさいしている――
それが映画になるのは知っています。
仮面の人、俳優さんですよね!

雑司が谷ぞうしがやの客】
私ね、今度で三回目なんですの、
銀座幻燈会げんとうえに行くの。
一回目はすごく幸せな気分になり、
二回目はひどく落ち込みました……
だからね、三回目に期待するんです!
今度は有楽町ゆうらくちょう荘月しょうげつ会館ですって!
あそこなら千人は入るわね、
ああ、今から待ち遠しいわ!
でも、ねた後、三日も四日も、
市内を彷徨さまようのは、そろそろ辛いわ。
暑い日和ひよりならなおの事よ……
だからといって、幻燈会げんとうえに行かない、
そんなことあり得ませんわ!
何よ、私を邪魔じゃましようっていうの!!

《バトル》

雑司が谷ぞうしがやの客】
あら、私……
どうしたのかしら……
何日も同じ着物を着てるわ!!

【第百六十三銀行銀座支店の守衛】
あの男、仮面を被った男が、
わきを走り抜けた時、私の中に、
何か嫌なものがこみ上げて来て――
今まで見て見ぬを決めていたもの、
そのたぐいのものですよ、きっと。
身体検査で肺病が陽性だったりとか、
妻が知らない名刺めいしを隠していたり、
親父に借金があるとわかったり……
――私、どうすればいいんでしょう?
なやみ相談にでも行きましょうか……

果たして仮面の男はそこにいた。
いや、見えたというべきか――
世界に一切いっさい関与していない風でもあった。仮面の男の手によるのであろうか、周囲には兵らが倒れていた。歩三第99小隊の兵士達である。隊を率いる鬼龍きりゅうも仮面の男に屈したのか、顔をゆがめてうずくまっていた――

鬼龍きりゅう豪人たけと
貴様は……もしやフィンケか?
リヒャルト・フィンケ……
トゥーレのやかた領袖りょうしゅう――
【仮面の男】
ウハハハハ~
私に名など無い!
ただるのみである。
鬼龍きりゅう豪人たけと
いや、フィンケは常に黒い仮面。
貴様……一体、何者だ!?
トゥーレのやかたの召喚師なのか?
【仮面の男】
くどいな!
私は私だ、何者でもない!
いて言えば憎しみの種だ!
鬼龍きりゅう豪人たけと
ふざけるな!
帝都でそのような振る舞い、
私が許さない!
【仮面の男】
そうだそうだ、その調子だ、
憎め、憎め、泣き虫豪人たけとくん!
鬼龍きりゅう豪人たけと
貴様、何を求めている?
【仮面の男】
おや、闖入者ちんにゅうしゃのようだ。
帝都の英雄ヘルトのお出ましか!
鬼龍きりゅう豪人たけと
何?
喪神もがみ風魔ふうまか!
――余計よけい真似まねをするんじゃない!
【仮面の男】
余計よけいかどうかは、私が決める。
さぁ、喪神風魔よ、整えよ!

《バトル》

【仮面の男】
前哨ぜんしょう戦でいろいろ消耗しょうもうしたようだ。
本来の力を出しきれなくて、
君には申し訳ないことをした。
またお手合わせいただくとしよう。
今日はこのくらいにさせてもらうよ。
私も君との戦いは楽しみである!
次は万全ばんぜんのぞませてもらうよ、
ワハハハハハハハ~

鬼龍きりゅう豪人たけと
あの召喚術、トゥーレのやかた流……
だが、総裁のリヒャルト・フィンケ、
常に黒い仮面だったはず――
【着信 喪神もがみ梨央りお
辺りのセヒラ濃度、低下しました。
もう大丈夫でしょう、
本部に帰還してください!

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

喪神もがみ梨央りお
仮面の男、一体何者なんですか?
トゥーレのやかたの総裁かも知れません。
仮面の色が違うからといって――
帆村ほむら魯公ろこう
風魔ふうま鬼龍きりゅう
二人の帥士すいしを相手にして、
なおあの余裕……
帆村ほむら魯公ろこう
近くにいる市民にも動揺どうようをもたらす、
それほどの何かをかもしているようだ。
――新たな脅威きょういとなるのか……
帆村ほむら虹人こうじん
あの男の意図いとはかりかねるな。
でも、また姿を見せるはず――
再戦したがっていたようだし。
帆村ほむら魯公ろこう
梨央りお、波形はちゃんと記録できたか?
おそらく、特有の波形を見せるはず、
観測を続けるぞ!
喪神もがみ梨央りお
隊長、波形はこれから解析します。
観測の件、承知しょうちしました!

第四章 第十話 自潤会アパートの怪人

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

震災からの復興により明治時代のよそおいを新たにしつつある帝都・大東京市だいとうきょうし
西洋式にリビングやダイニングをそなえた、アパートメントはその代表格である。そこにある近代生活モダンライフは東京市民のあこがれである。そんな近代生活の象徴でさえ、怪人騒動とは無関係でいられなかった。

九頭くず幸則ゆきのり
麻布あざぶ連隊司令区に用があってな、
その後、渋谷に向かって、
歩いていたんだ――
喪神もがみ梨央りお
そしたら、怪人に襲われた、
そうなんでしょ、中尉?
――それでお怪我けがは……
九頭くず幸則ゆきのり
ああ、いきなりな!
はたして怪人なんだか……
小難しいこと、叫んでたよ。
アナーキストのようでもあった。
でも怪人だよな、きっと。
自潤会じじゅんかいアパートメントの近くだ。
喪神もがみ梨央りお
自潤会じじゅんかいアパートなんですか?
あそこって、芸術家や作家とか、
先進の生活する人ばっかりでしょ?
九頭くず幸則ゆきのり
先進ねぇ……
それも過ぎると、落ち着かないよ。
新山眞にいやままこと
先取せんしゅの精神を発揮せよ!
それが帝国陸軍なのでは?
先進のもお得意でしょう。

のっそりと姿を見せたのは、新山眞にいやままことである。飯倉いいくら技研の軍属にしてセヒラ研究の一人者。ほぼ山王さんのう機関に入りびたっていると言ってよい。

九頭くず幸則ゆきのり
そういう新山にいやまさんは、
もうすっかり山王さんのうの一員ですね。
新山眞にいやままこと
うほん、えーっとですね……
――中尉が襲われた付近ですが、
奇妙な波形を観測します。
喪神もがみ梨央りお
奇妙な波形ですか――
モダンアパートメントに現る怪人、
はたして如何いかなる存在であるか!?
九頭くず幸則ゆきのり
自潤会じじゅんかいにはプロレタリアートや、
アナーキストの連中も巣食うらしい。
それじゃ怪人の巣窟そうくつなのか?
新山眞にいやままこと
何だか気になりますね――
どうでしょうか、
私も、同行しましょうか。
今、出ている波形、
少し気になるのです。
もう少しくわしく調べるためにも、
きちんとした値を取っておきたくて。
九頭くず幸則ゆきのり
だったら、俺も一緒にいく!
怪人のいた場所、案内するよ――
イテテテテ~
喪神もがみ梨央りお
幸則さんはじっとしていてください。
かえって足手纏あしでまといになりますよ!
九頭くず幸則ゆきのり
クゥゥ~
俺は怪人にやられっぱなしだな!

青山街路あおやまがいろ

【着信 喪神もがみ梨央りお
黒ノ八号帥士くろのはちごうすいし
新山にいやまさんの……
には……充分……ちゅ……
……てくださ………
も……し……ま……すか?
新山眞にいやままこと
通信状況が良くありません。
もしや、おかしな波形と、
関係しているかも知れませんね。
携行式けいこうしき探信儀たんしんぎは問題ないようです。
本部の誘導はありませんが、
なんとか切り抜けましょう!

【穏健派M】
我が文民社ぶんみんしゃの活動も第三期です。
帝大の連中とはたもとを分かち、
今、新文民社しんぶんみんしゃ旗揚はたあげです!
葛木かつらぎ素朴そぼく先生の遺志いしを正しく
継承するのは我々の方です。
帝大の連中はまだ青いんです。

【急進派S】
新文民社しんぶんみんしゃはこの近所だろ!
韮山にらやま儀礼ぎらいなる人物が勝手に新派を!
だんじて許せない!
帝大生もまだゆるいのだ!
アナーキストはもっと激しく、
国家と戦うべきなだ!

【急進派H】
秋毫ノ異しゅうごうのいの最新号読んだけどさ、
話せば分かる派を作るだって?
それが新文民社しんぶんみんしゃだって?
話してもダメだからアナーキズム、
それがあるんでしょ?
兄はね、赤門あかもん出版会の長老なの――
新山眞にいやままこと
喪神もがみさん、私の探信儀たんしんぎ
反応しています――
この人、もしかすると……
【急進派H】
帝大法科の八年生!
ねぇ、何年大学行ってるの!
家のことみんなアタシがやるのよ!!

【急進派H】
――アタシが言いたいのはね、
生ぬるいことはダメってことよ!
あんたたちもわかってんの?
新山眞にいやままこと
ふむふむ……まだそれほど、
深い憑依ひょういは見られないようです。
廓清かくせいは容易かと。
【急進派H】
話せば分かる派だなんて、
ふざけないでよ!
話したって分かりゃしない!!

《バトル》

【急進派H】
何をムシャクシャしていたのかしら?
それがわからないと――
すごくムシャクシャするわね!!
新山眞にいやままこと
流石ですね、
いくら憑依ひょういが浅いとはいえ、
綺麗に廓清かくせいなりましたね!
自潤会じじゅんかいアパートもすぐ近くです。
例の波形、はっきりしてきましたよ。

自潤会渋谷じじゅんかいしぶやアパート〕

自潤会じじゅんかい――
震災復興の旗印はたじるしとして内務省により設立された財団法人だ。
鶯谷うぐいすだに江戸川えどがわ三ノ輪みのわ柳島やなぎしま――
自潤会じじゅんかい千軒長屋せんげんながややトンネル長屋の風景を、モダンアパートによって塗り替えていった。このモダンアパートの前にも怪人は現れ、まさに第三連隊第99小隊の召喚師が、鎮定ちんていに当たろうとしていた。

【急進派F】
話せば分かる穏健派。
そんあものはいらない!
真のアナーキストはもっと鋭い!
鋭角のトンガリ、新進気鋭しんしんきえいの先、
俺はそういう気概きがいが好きなんだ!
一五市にのまえごいち
去れ! 目障めざわりだ!
貴様は家で行水ぎょうすいでもしてろ!!
新山眞にいやままこと
第三連隊、第九十九小隊――
召喚師部隊の将校か?
一五市にのまえごいち
貴様は、喪神もがみ風魔ふうまか!
この界隈かいわいの治安維持、
我が第三連隊にまかされている。
新山眞にいやままこと
このおよんで縄張り争いですか?
してください、セヒラの異常、
継続して検知しているのですよ!
早く対処しなければ、
大勢の怪人化を招く恐れもあります。
少尉、ご理解ください!
一五市にのまえごいち
ふん、軍属ではないか、お前は?
飯倉いいくらで機械いじりでもすればよい。
新山眞にいやままこと
少尉!
依然いぜん、異常事態なのです――
……この波形……近いぞ!!
一五市にのまえごいち
一体、どういうことだ?

【仮面の男】
フフフ……
一五市にのまえごいち
新手あらてか?
まさか貴様ら歩一ほいちの……
新山眞にいやままこと
喪神さん、かなり危険です――
撤退てったいしましょう!
【仮面の男】
ウハハハハハハ!
この街に憎しみの花を咲かせよう!
一五市にのまえごいち
う、うわあああああ!
【仮面の男】
色とりどりの花だ!
百花繚乱ひゃっかりょうらんの憎悪だ!!
新山眞にいやままこと
仮面の……
この人物は、一体……
【仮面の男】
たおれた者よ、
再び憎しみの力を得て、
立ち上がるのだ!!

【仮面の男】
ハッハッハッハッハ~
新山眞にいやままこと
さらなるセヒラを検知!
倒れた怪人が復活します!!

新山にいやまが叫ぶやいなや、一五市にのまえごいちの倒した怪人が、まるで戦いなどなかったかのように、相次あいついで起き上がった!

【急進派M】
文民社ぶんみんしゃたもとを分かち、
新文民社しんぶんみんしゃを立ち上げた韮山にらやま儀礼ぎらいは、
あるすじから金をもらっているんだ――
おそらくは内務省のとある機関だ。
アナーキズム運動を金でつぶす、
それが奴らの手口なんだ。
韮山にらやま儀礼ぎらいは裏切り者だ!
私がこの手で始末する。
――その前に、お前だな!
新山眞にいやままこと
喪神さん、この怪人は、
強い怒りに支配されています。
憑依ひょういも深い、気を付けてください!
【急進派M】
これより、
不満分子を粛清しゅくせいする!!

《バトル》

【急進派M】
くそっ!
まだやるべきことは山積さんせきしている!!

【急進派W】
分民社ぶんみんしゃ運動の創始者、
葛木かつらぎ素朴そぼく先生はな、
病死なんかじゃないんだ――
先生は憲兵隊になぶり殺しになった!
そうだよ、何日にも渡る拷問ごうもんでな。
私は先生の苦悩を味わったんだ。
時を越え、場所を超え、
素朴そぼく先生の苦悩が私に届いた!
お前らは先生の宿敵しゅくてき!!

《バトル》

【急進派W】
あああ、先生……
私の苦悩など、まだ小さい!
新山眞にいやままこと
あの仮面の男が、
倒れた怪人に再び力を与え――
いや、より強くさえしました!
仮面の男、何者でしょうか?
先程から観測していた奇妙な波形、
あの仮面の男が発しているようです。
仮面の男の去った今、
もう同じ波形は観測しません――
私にはまるで、あの仮面の男、
セヒラそのものにさえ思えます。
まるで歩くセヒラ……
ああ、いえ、すみません、
一人でいろいろ言い立ててしまって。
ちょっと興奮しています!
早速、戻って値を調べます。
いくつか思いつきもあって、
忘れないうちにですね――
これは!
一体、どういうことですか?
一五市にのまえごいち
喪神もがみ風魔ふうま
この失態しったい、どう釈明しゃくめいする気だ?
さぁ、公務電車とやらを、
歩三ほさん本部まで回してもらおう。
我が隊より伍長ごちょう二名が同乗する。
新山眞にいやままこと
何をするおつもりですかな?
こんな勝手が許されるとでも――
これは場合によっては、
擅権せんけんの罪ではないですかな?
上官の命令なく争うのは大罪です。
軍法会議を覚悟されたほうがよい。

第三連隊だいさんれんたい前庭まえにわ

一五市にのまえごいち
喪神もがみ風魔ふうま
貴様があの仮面の男を呼んだのか?
新山眞にいやままこと
私たちは、ただセヒラの波形を
調べるために、あの場所で――
一五市にのまえごいち
セヒラなど我々も計っている。
あのような不可解な事態の、
説明を求めているのだ!
鬼龍きりゅう豪人たけと
少尉!
これはどういうことだ?
貴様、何をしている!?
一五市にのまえごいち
隊長!
山王さんのう機関の連中が、
我々の管轄かんかつを断りもなく――
うぐっ!!
鬼龍きりゅう豪人たけと
貴様!
命令無く勝手に行動を起こすなど、
これは擅権せんけんの大罪だ!
――失礼した。
部下が敵愾心てきがいしんつのらせたばかりに、
誤ったことを――
事態、胸三寸むねさんずんに収めてくれないか。
――それとも公式な謝罪が必要か?
新山眞にいやままこと
随分と殊勝しゅしょうですね、鬼龍きりゅうさん。
如月きさらぎ鈴代すずよさんを拉致らちして、
錬金術を真似まね禍々まがまがしい、
新宗教の儀式を執り行った人だ!
鬼龍きりゅう豪人たけと
あなたは……
確か飯倉いいくら技研の……
セヒラに携わる技手ぎて――
新山眞にいやままこと
飯倉いいくら技研の新山にいやまです。
鬼龍きりゅう豪人たけと
覚えておこう、新山にいやま氏。
それにしても――
私は軍属にまで指図を受けるのか?
新山眞にいやままこと
大尉に指図など――
そのようなつもりはありません。
鬼龍きりゅう豪人たけと
私の謝罪は済んだはずだ。
さらに求めないなら、
もうお引き取り願おうか。
新山眞にいやままこと
喪神さん、参りましょう。
ここに長居は無用です。
それに私はちょっと疲れました――

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

帆村ほむら魯公ろこう
玄理げんり派め、これは明らかに越権えっけんだ。
少尉の擅権せんけん罪も揺るぎないな!
喪神もがみ梨央りお
無事に解放してもらって、
大事にならずに済みましたね。
九頭くず幸則ゆきのり
新山にいやまさんはどうしたんだ?
喪神もがみ梨央りお
なんかお疲れのようでした。
今は記録室においでかと――
帆村ほむら魯公ろこう
仮面の男か……
いやはや、その動機、はかれないな。
何のために姿を見せたのか……
九頭くず幸則ゆきのり
そいつも帥先そっせんヤの一人なんじゃ?
あっちこっちでそそのかしてまわって、
混乱を広げているやからではないですか?
帆村ほむら虹人こうじん
新山にいやま技師が波形を解析すると、
仮面の男のことも、
少しはわかるんじゃないかな?
帆村ほむら魯公ろこう
仮面の男の調査、
虹人こうじん、やってみるか?
帆村ほむら虹人こうじん
いいですよ、やってみましょう。
喪神もがみ梨央りお
日本橋にほんばし興亜百貨店こうあひゃっかてんに行くはずが、
新山さんのお手伝いしなきゃ……
九頭くず幸則ゆきのり
まぁ、今度、噂のお子様洋食ランチでも、
馳走ちそうしてあげるよ!
喪神もがみ梨央りお
それは楽しみであります、
歩兵第一連隊不明小隊、
九頭くず幸則ゆきのり中尉殿!

第四章 第八話 猟奇倶楽部の謎

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

喪神もがみ梨央りお
あっ、兄さん……
兄さんあてに手紙です。
それが、差出人不明なんです――
すごく上等の封筒で、
封蝋ふうろうもついています……
――ふぅ~
帆村ほむら魯公ろこう
どうした、梨央りお
調子が悪いのか?
喪神もがみ梨央りお
ええ、ちょっと……
頭が重いんです、風邪でしょうか?
兄さん、封筒です。

梨央から渡された封筒は、立派なものだった。封蝋ふうろうを破るとはく押しのある便箋びんせんが見えた。

九頭くず幸則ゆきのり
見せてくれ。
何だって? 猟奇倶楽部くらぶにご招待?
喪神もがみ梨央りお
いきなり何ですか?
どこからいたんですか?
九頭くず幸則ゆきのり
くって、俺は虫か何かか?
――猟奇倶楽部くらぶって、アレだよな……
喪神もがみ梨央りお
猟奇グラフを発行する会社です。
でも倶楽部くらぶは編集部とは別だと、
そんな話を聞きました。
九頭くず幸則ゆきのり
ええ? そうなんだ?
梨央ちゃん、耳さといね!
どっからそんなネタ仕入れるの?
それにしても猟奇倶楽部くらぶって、
何だか秘密めかしてるよね!
喪神もがみ梨央りお
どうしてここがわかったのか……
日本橋佳木斯チャムスに猟奇人の
アストラルが大勢いました――
九頭くず幸則ゆきのり
それが何か関係あるの?
喪神もがみ梨央りお
アストラルを介して、
兄さんたちの思念が漏れたのかも。
それで猟奇倶楽部くらぶがここを知った――
九頭くず幸則ゆきのり
ええっ? そんなことあるの?
でも、そうか……
思念は考えたりすることだし――
九頭くず幸則ゆきのり
不意に漂い出すなんてことも……
ひぇ~、何だかおっかないなぁ……
ねぇ、梨央ちゃん!
喪神もがみ梨央りお
新聞では猟奇倶楽部くらぶも、
帥先そっせんヤの一つと考えているようです。
この間、そんな記事がありました――
九頭くず幸則ゆきのり
まぁ読者連中は昭和の猟奇人を
気取っているんだろ?
高等遊民のはしくれだよな――
雑誌もそうだけど、
案内を利用している連中こそ、
帥先そっせんヤなんじゃないのか?
喪神もがみ梨央りお
結構、まともなこと言いますね、
幸則ゆきのりさん!
――ふぅ~
九頭くず幸則ゆきのり
あれ? 梨央ちゃん、どうした?
何か具合悪そうだけど――
ちょっと休んでいれば?
喪神もがみ梨央りお
そうですね……
でも……猟奇倶楽部くらぶ、どうします?
九頭くず幸則ゆきのり
風魔、どうする?
向こうがこっちを知ってるって、
何か気になるよな。
喪神もがみ梨央りお
今のところ、市内の探信儀たんしんぎには、
強いセヒラ反応はありません。
九頭くず幸則ゆきのり
梨央ちゃんは休養した方がいいい。
無線は頼れないぞ、風魔。
でもまぁ、行ったほうがいいな。
お前を名指しで来たんだろ、招待状。
相手の意図を掌握しょうあくした方がいい。
きっと何かあるはずだ。
帆村ほむら魯公ろこう
ユキ坊の言い分にも一理いちりある。
風魔、ここは誘われてみるか?
喪神もがみ梨央りお
兄さん、気を付けてください。
無線できませんが、
危険がせまったら警報が鳴ります。
九頭くず幸則ゆきのり
警報って、ここで鳴るのか?
最悪の事態は避けられるってことか。
市ヶ谷見附で同伴者を待てだと?
同伴者って、誰なんだ?
――風魔、油断するなよ!

市ヶ谷見附いちがやみつけ

手紙に指定されていた市ヶ谷見附いちがやみつけまで、公務電車で向かった。同伴者もこの場所に来るとのことだった。

月詠つくよみ麗華れいか
時間どおりですわね、風魔ふうまさま!
招待状にありましたわ、
風魔さまと一緒に来るようにと。
――ちょっとドキドキしています。
でも、不思議ですわ。
風魔さまと私にだけ
招待状が届くなんて――
さて、お迎え、そろそろですわ。
【黒服の男】
お待たせしました。
月詠つくよみ麗華れいか様、喪神もがみ風魔ふうま様。
猟奇倶楽部くらぶまでご案内します。
月詠つくよみ麗華れいか
よろしくお願いします。
【黒服の男】
此処ここより先では、
お名前をお呼びする事は致しません。
お嬢様、ご主人様とお呼びします。
【猟奇人Ωオメガ
申し遅れました、私はΩオメガです。
倶楽部くらぶでは希臘ギリシャの名を付けます。
さぁ、こちらを、どうぞ――
月詠つくよみ麗華れいか
それは、目隠しですか?
【猟奇人Ωオメガ
はい。ご不便をお掛けしてしまい、
誠に申し訳ございませんが、
倶楽部くらぶは所在地も非公開となり……
倶楽部くらぶに着くまでは、
そちらをおめしになって頂けますか?
月詠つくよみ麗華れいか
その車がそうですね?
窓掛けがあるのに、
目隠しするのですか?
【猟奇人Ωオメガ
はい。念の為、
そのようにさせて頂いております。
月詠つくよみ麗華れいか
いたかたありませんわね――
では、おっしゃるようにいたします。
風魔さまも、目隠しですわよ。
【猟奇人Ωオメガ
有難うございます。
それではご案内させて頂きます。

車は滑るように走った。
まるで魔法の絨毯じゅうたんのような乗り心地だった。
だが目的地へ真っ直ぐ向かうことはせず、同じ場所を何度も走っているようであった。
角を曲がり、速度を上げたその時――
車は急ブレーキをかけて停止した。車の前に一人の男が倒れていた。男をねる寸前で車は停まったようだ。

市ヶ谷街路いちがやがいろ

月詠つくよみ麗華れいか
この人は……
大丈夫なんですね!
気を付けないといけません――
【猟奇人Ωオメガ
申し訳ございません。
あちらの男性が急に飛び出して。
危うくねるところでした。
【暗い表情の男】
あなた達が捕獲した怪人を、
すみやかに返してもらいましょうか。
私は防疫研ぼうえきけん、総務課の林です。

《バトル》

【防疫研総務課の林】
怪人を手に入れて、何をする?
お前達には……扱えない……
無理……だ……
【猟奇人Ωオメガ
一体、何の話をしていることやら――
さぁ、お車にお戻りください。
月詠つくよみ麗華れいか
防疫研の怪人とは何ですの?
猟奇倶楽部くらぶに怪人がいるのですか?
【猟奇人Ωオメガ
いえ、あの者の戯言ざれごとにございます。
さ、参りましょう。
またこちらをおめしになって――
倶楽部くらぶの決まりにございます。
月詠つくよみ麗華れいか
仕方ありませんわ。
運転にはどうか、
お気を付け下さいませね。

車は小一時間ほど走った。
坂を登り角を曲がった先で車は停止した。門扉もんぴの開く音がして、車は再び走り始め、やがて車寄せのような場所で停まった。

【猟奇人Ωオメガの声】
それでは屋敷の中へご案内します。
私にお手をお預けになり、
ゆっくりお進みください――
お足元、お気を付けて――
段差にございます……

広いホールには乳香をいたかのような、神秘的な芳香ほうこうが漂っていた――

【猟奇人Ωオメガの声】
もうよろしゅうございますよ。
目隠しをお外しになり――
随分、ご不自由をおかけしました。
さて、ここからはご自身について、
ご身分、お名前、お住いのこと等、
一切ご法度はっとにございますよ。
月詠つくよみ麗華れいか
あら、どうしてですの?
それも決まりですの?
【猟奇人Ωオメガ
はい、当倶楽部くらぶでは現実から離れ、
一猟奇人としておすごしいただきます。
身分の貴賎きせんもございません。
月詠つくよみ麗華れいか
私たちにも希臘ギリシャの名前を付けますの?
【猟奇人Ωオメガ
ゲストの方はお付けしません。
後ほど、お声がけ致します。
それまでホールでおくつろぎください。

猟奇倶楽部りょうきクラブ・ホール〕

倶楽部くらぶホールでは着飾った紳士しんし淑女しゅくじょが、思い思いに立ち話をしていた。皆、胸のところに希臘ギリシャ語の刺繍ししゅうを付けていた。

月詠つくよみ麗華れいか
ここ、とても良い香りがしますわ。
私……うっとりしてしまいます。

【猟奇人Θシータ
……

【猟奇人Λラムダ
あら、ゲストの方ですね。
お名前が……ありませんもの。
今日は帝都の流行の最先端を、
堪能たんのうできるものですって!
月詠つくよみ麗華れいか
え? これから何かあるのですか?
【猟奇人Λラムダ
ウフフフフ……
ここアーカム館では、
いつも何かが起こるのよ!

【猟奇人Σシグマ
私はね、自分の中に、
こんなにも可能性が眠るとは、
最近までついぞ知らなかったんだ!
猟奇グラフを読むようになるまで、
そういう連中のこと、敬遠していた。
普通、そうですよね――
私は目覚めたんですよ。
少年のようにはしゃぎたい気持ちで、
毎日を楽しくやってます!

【猟奇人Δデルタ
ここアーカム館では、
不定期にエベントが開かれるのよ。
今日のは特別ですって――
いったいどんなのかしらねぇ。
あそこにいるメイドさん、
あの人も猟奇人なのかしらねぇ?

さらわれたホムンクルス】
車ニ、乗セラレ、気ガ付クト、
ココニイタ……
何故ナゼダ? 何故ナゼコウナル?
【猟奇人Ωオメガ
くつろぎいただけましたか?
実は当倶楽部くらぶの会長がご挨拶をと。
会長のところへご案内いたします。
月詠つくよみ麗華れいか
私はどうしましょうか?
【猟奇人Ωオメガ
申し訳ございません。
お嬢様はこちらでお待ち下さい。

【先ほどの女性の声】
ご来館の皆様、お待たせしました。
ここにいる人造メイドが、
恐ろしき怪人と勝負します――
【猟奇人Ωオメガ
それでは、こちらへ――

【猟奇人Ωオメガ
会長はを見たいと仰ります。
審神者さにわ、召喚師、ホムンクルス、
それに怪人はを扱う――
それらの者以外はが見えない。
それをなんとか見られないか――
実は当館に一人の怪人がいます。
防疫ぼうえき研究所から脱走した被験者です。
何故かそれをけられました――
倶楽部くらぶ会員には憲兵もおります。
そこは抜かりなく手を回して
逃げた被験者を捕獲したのです。
これよりホールにて、
ホムンクルス対怪人の戦いが、
まさに実演されるのです。
賓客ひんきゃくの中にはが見える者が、
一人くらいはいるかも知れない――
会長はそれを期待されているのです。
猟奇人は普通の人間にはない感覚を、
そなえるかも知れませんから。
実は会長は猟奇人ではないのです――
それでは参りましょうか――

お、お前!
何故ここにいる?
戦う相手はホールだ!
【被験者チ】
うるせぇ!
相手は俺が決めるんだ!

全身に怒りをたぎらせる男は、猟奇人Ωオメガを物凄い力で突き飛ばした。

【被験者チ】
へへへへ、
俺はな、自由を得たんだ!

《バトル》

【被験者チ】
ヘヘヘ――
やっと……自由に……なれる……
【聞き憶えのある声】
喪神もがみ風魔ふうま
まさか、貴様もこの会合に?
鬼龍きりゅう豪人たけと
ふん……
審神者さにわと召喚師とが招待受けた、
そういうことなんだな。
怪人を戦わせて、客の中に、
の見える者がいるか調べる……
主宰者しゅさいしゃ魂胆こんたんはそんなところだろう。
要は客そのものが実験材料、
その中に俺達も含まれているのか――
あまりいい気分じゃないな……
探られているようだ。
月詠つくよみ麗華れいか
豪人たけとさま!
豪人たけとさまもおいでになって
いたのですね!
鬼龍きりゅう豪人たけと
麗華れいか! お前も呼ばれたのか?
――連中、一体何を知っている?
月詠つくよみ麗華れいか
豪人たけとさまにも招待状が?
鬼龍きりゅう豪人たけと
もう充分だ、風魔。
麗華、ここに長居は無用だ、
あの男に車を用意させる。
このやかたからは勝手に出られない。
どこもかぎがかかっていてね。
風魔、お前も帰るむね伝えるんだ。
この件、一度、事情を調査する。
その時は貴様も協力するんだ。

山王機関本部さんのうきかんほんぶ

来た時と同じように、風魔ふうまは目隠しをされ、黒服の男の運転する車で市ヶ谷見附まで戻った。市ヶ谷見附から公務電車で本部へ帰還した。

九頭くず幸則ゆきのり
何だ、早かったじゃないか!
それで、どんなだ、猟奇倶楽部くらぶ
おかしな連中の巣窟そうくつか?
ああ、梨央りおちゃんは風邪みたいだ。
家に送って今戻ったところだよ。
千本屋せんぼんやに行って水菓子でも調達する。
熱にはアレが一番だろ?
帆村ほむら魯公ろこう
先ほど、歩三ほさん玄理げんり派の常田つねだ大佐から
電話があってな――
報告書を上げるので、
お前にも目を通して欲しいと。
いつになく殊勝しゅしょうな様子だったな。
もう今日は切り上げて、
梨央の面倒でも見てやれ。